苦境を乗り切る妻の愛、友の愛

高瀬 甚太

 秋の深まりと共に、街を歩く人の様子も変わる。服装が変わり、歩き方が変わり、気のせいか、顔つきまでもが変わったように見える。
 季節の流れに逆らうかのように、大西敏郎は夏場と変わりない服装で、しかも頼りない足取りで歩を進めていた。あてにしていた得意先の支払いが遅れ、資金繰りがうまくいかない。銀行との借入交渉もうまくいかず、友人、知人を頼っての借り入れにも限界があった。お手上げの状態で月末を迎えなければならなかった。
 親父の跡を継ぎ、サラリーマンから経営者に転身したのが十年前のことだ。その頃から比べると売り上げが四割もダウンしている。長く続く不景気は、会社の士気を落とし、従業員の意欲を根こそぎ削ぎ、経営者である大西を心身ともに追い詰めていた。
 「死にたいなあ――」
 とぼとぼと街を歩きながら、大西は知らず知らず、その言葉を口にしていた。
 サラリーマンでいた方がよかったな、時々、大西はそう思うことがあった。大学を卒業して入社した大手の商社で、大西は将来を嘱望される有能な社員だった。行動的で頭がいいと評され、さすがは国立大学出身だけのことはある、と上司に称えられた。十年働いたところで、課長の椅子を目前にするところまできていた。同期の中では一番出世で、異例の出世ともてはやされ、飛ぶ鳥落とす勢いで出世街道を驀進していた大西だったが、いつの世も、そうした時ほど落とし穴に嵌りやすい。御多分に洩れず、大西もその穴に引っかかってしまった。
 知人の紹介で得た新規の得意先から大口の発注を受け、喜んだのもつかの間、暴力団のファミリー企業であることが発覚し、暴力団がらみのゴタゴタに巻き込まれて、膨大な損失を受けることになった。その責任を一身に背負った大西は、地方への転勤を余儀なくされた。そんな時、鋳物工場を経営していた父親が倒れた。
 従業員二〇名の中小企業、吹けば飛ぶような町工場であったが、父親が三〇年かけて築いてきた会社である。放っておけば潰れてしまう。父親は何も言わなかったが、大西はそのままにしておくわけにいかないと思った。
一度でも失敗すると、後の出世に大きく影響するのが大手の会社である。将来を嘱望された大西ではあったが、その立場は途端に微妙なものになり、瞬く間に出世街道から転落した。それがきっかけとなり、退職した大西は父親の跡を継いで町工場の経営者になった。
 経営者の道もまた茨の道であった。それでも就任してしばらくは景気もまだマシで、これならやっていけると確信を持っていた。だが、病に伏していた父親が亡くなり、母親もその後を追うようにして亡くなった頃から経営状態が悪化し、資金繰りに追われる日が続いた。
 サラリーマンを続けていたらどうなっていただろうか。安眠できない日が続く中で、昔を回顧することが多くなっていた。自分は間違った選択をしたのではないかと思い悩む大西を叱咤し、激励したのは、妻の美佐江だった。
出世街道を順調に歩み、飛ぶ鳥落とす勢いだった頃、大西は、二人の女性と付き合っていた。一人は会社の上司の娘で、一人は大学時代の後輩だった。上司から直々に紹介されたことで、結婚を意識せざるを得なくなった大西は、長い付き合いをしてきた後輩の女性と別離し、上司の娘と婚約した。だが、会社を退職することを決意し、父親の跡を継ぐと決めると、予想されたことだったが、上司の娘は婚約を破棄するよう申し入れてきた。
 失意のどん底にいた大西は、その時になって初めて、自分が本当に愛していたのは後輩の女性であったことを悟った。後輩の女性、佐倉美佐江に、恥を忍んで結婚が破談になったことを告げ、偽りのない気持ちを打ち明けると、美佐江は何も言わず、大西を受け入れた。

 「お父さん、頑張ってね」
 美佐江はそう言って常に大西を励ました。大西はそのたびに、ともすれば弱気になりがちな気持ちを奮い立たせた。二人の子供と、懸命に自分を支えてくれる美佐江のためにも頑張らなければ、そんな気持ちになるのだった。
月末まで時間がなかった。何とかしなければ――、焦燥感の中で、大西はあてのない資金繰りをあれこれ考えていた。いつの間にか、日が落ち、夕暮れが空を赤く染めている。大西は携帯を手に美佐江に電話をした。
 ――はい、大西です。
 美佐江の明るい声を聴くと、大西の澱んだ気持ちがいくぶん晴れた。
 ――今日は遅くなるかも知れない。資金繰りがうまくいかなくてね。もう少し頑張ってみるよ。
 ――あなた、無理しないでね。必ず帰って来てくださいね。
 ――大丈夫だ。
 電話を切ると、大西の耳に、美佐江の「必ず帰って来てくださいね」の言葉がこだまのように響いた。
 時計を見ると五時を過ぎている。えびす亭にでも行って、気分を変えるか、ひとり言のように言って、大西はえびす亭を目指した。
 「よう! とんちゃん。久しぶり!」
 えびす亭のガラス戸を引いて中に入ると、大きな声が大西を呼んだ。大西の名前は、大西敏郎と言う。敏郎がどうして「とんちゃん」になったのかわからなかったが、えびす亭では、それが大西の通り名になっていた。
 「どないや、景気は?」
 大声で大西を呼んだのは、大工の源さんだった。
 「いやあ、予想以上に厳しい。銀行も相手にしてくれないし、得意先からの支払いは遅れるし、万策尽きたというところですな」
 自身の苦境を何のてらいもなく語れるのは、えびす亭ならではだ。
 「わしに金があったら、とんちゃんに貸してやるんやけどなあ」
 源さんが親身になって大西に言う。
 「その言葉だけで充分ですよ。源さん、俺、嬉しいなあ」
 源さんにビールを注ぎながら大西が感慨を込めて言う。一日、走り回って、他人て冷たいものだなあ、とつくづく思い知った大西に、源さんの言葉が胸に響いた。
 「とんちゃんん、とんちゃんの仕事ってなんやった?」
 カウンターの対面に立っていた田村さんが二重顎をダブらせなが大西に聞いた。
 「鋳物です。鋳物工場をやっています」
 「鋳物工場か――」
 田村さんが酒を口にして、大西の言葉を反復する。
 「何や、田村さん、とんちゃんを救う方法でも思い付いたんか?」
 源さんが聞くと、田村さんはじっと腕組みをして考えている。
 体重が百キロを超えている田村さんは、身体に似合わず腕利きの公認会計士だ。太った体格にも特徴があるが、顔はもっと印象的で、太いゲジゲジ眉毛、大きな目、小さな鼻、厚くて大きな口、一度見たら忘れない顔というのは、田村さんのような顔を言うのだろう。
 田村さんに比べて源さんの顔は印象に乏しい。白髪に鉢巻をして、小さな目と小さな口、やせっぽちで小柄な源さんは、それでも温かな人柄がにじみ出た顔をしている。とにかく人がいいのだ。
 「とん ちゃん、わし、あんたに会わせたい人がおるんやけど、明日、時間があるか?」
 田村さんの言葉に、源さんが反応した。
 「何や、ええ話か? とんちゃんはもう時間がないねんぞ」
 田村さんは慎重な人だ。いい加減なことは決して口にしない。
 「わからん。そやけど、会ってみる価値はある。どこへ行っても駄目やったら、一度、チャレンジしてみるべきや。どないや、とんちゃん」
 「わかりました。ぜひ、お願いします」
 大西はそう言って、対面に立つ田村さんに深く頭を下げた。
 「よっしゃ、そしたら明日、午前十時、梅田の新阪急ホテルのロビーで待っといてくれ」
 「新阪急ホテル、十時ですね。了解しました」
 田村さんの話に期待できるわけもなかったが、今の大西にはすがる場所はどこにもなかった。その夜、大西はえびす亭で源さんと、後からやってきた比呂ちゃんという、化粧品会社のセールスマンと一緒に呂律が回らなくなるまで呑んだ。
 えびす亭を出ると、午後十時を回っていた。秋風はいつしか初冬の風に変わっている。上着の襟を立て、足元をふらつかせながら家に戻った。
 朝、目覚めると頭が重かった。昨夜、呑みすぎたようだと反省する大西に、美佐江がコップに入れた冷たい水を手渡す。それを一息に飲んだ大西は、顔を洗い歯を磨くと、美佐江が用意したトーストとコーヒーを朝食にして、慌ただしく出社の支度をした。
 「あなた、大丈夫ですか?」
 美佐江はこの頃、その言葉をよく口にする。
 「大丈夫だ。俺はへこたれない」
 大西が強がってみせると、美佐江は笑って、
 「そうですよ。あなたは昔から逆境に強かったし、運のある人だったわ」
 と言って、大西のカッターの襟をさりげなく直す。
 「お父さん、今日は早く帰って来てね。ぼく、お父さんに宿題をみてほしいから」
 いつの間に起きたのか、長男の茂がパジャマ姿のまま、大西の前に現れて、背広の端をつまむ。寝ぼけ眼の茂の頭を撫で、
 「わかった。今日は早く帰ってくる。約束するよ」
 と言うと、茂は安心したような顔をして、再び寝床に向かった。
 午前五時半、まだ明けきらない外の景色は、暗雲漂う大西の今の気持ちを反映しているようだった。駅まで十数分、急ぎ足で大西は駅に向かった。
 会社に入ると、午前七時。始業時間は午前九時だから、当然、誰もいない。大西は自分の机に座り、昨日の業務報告に目を通す。仕事がないわけではなかったが、忙しいわけでもない。不景気の煽りを食って得意先の金属加工会社が二社ほど倒産したことが痛かった。ずっと付き合ってきた会社が、競合会社に乗り換えたことも響いている。新規の得意先はここ三カ月、まるでない。遅れている得意先の、大西の会社への支払いは、滞ったままだ。
 メインバンクの銀行に足を運び、融資を依頼したが、散々嫌味を言われた挙句、うまく行かなかった。国民金融公庫へも足を運んだが駄目だった。他の銀行にも融資のお願いに出向いたが、いい返事は聞かせてもらえない。今月、来月を乗り切れば何とかなる、その確信はあったのだが、肝心の今月がどうにもならない。月末までもういくらも時間がなかった。焦る気持ちが大西をさらに追いたてた。
 午前九時、朝礼を終えてすぐに会社を出た。新阪急ホテルまでは三〇分もあれば着くことができる。少し早く出たのは、先着して相手を待ちたかったからだ。
 午前九時四〇分、新阪急ホテルのロビーは混雑していた。大西はカバンから本を取り出して読んだ。『ザ・ゴール ―企業の究極の目的とは何か』は、生産管理をテーマにしたビジネス小説である。
 「とんちゃん、お待たせ」
 本を読み始めてすぐに田村の声がした。驚いて田村を見ると、隣に若い男性が立っていた。
 「おはようございます」
 慌てて本をカバンに戻し、田村と隣に立っている若い男性に挨拶をすると、田村は、
 「ホテル内の喫茶店に入りましょう」
 と言って、大西と若い男性を喫茶室の中へ案内した。
 席に着き、コーヒーを注文し終えたところで、田村は、隣の男性に大西を紹介した。
 「こちらは大西さんと言いまして、鋳物工場の代表者です。大手の商社に勤めていたのですが、一〇年前、そこを退職されて、父親の跡を継いで頑張っておられます」
 普段の田村とは、似ても似つかない丁重な言葉で私を紹介すると、今度は、一緒に連れてきた男性の紹介を始めた。
 「大西さん、こちらは、業界では高名なTAIYO厨房機器の会社の社長さんで、片岡勇二さんと言います。大西さんと同じで彼も、大手に勤めていましたが、厨房機器の会社にスカウトされ、短期間に社長にまで上り詰めた方です」
 田村の紹介に併せて、大西と片岡は名刺を交わした。
 「私、縁があって片岡さんの会社の会計を担当させていただいています。ネットでのグローバルな販売が功を奏して、この不況の時代にあって、片岡さんの会社の実績は右肩上がりに上昇し続けています。昨日、大西さんが鋳物工場を経営していると聞いて、ピンとくるものがあって片岡さんに連絡をしました。大西さんの話をすると、片岡さんはすぐに反応してくださり、ぜひ会いたいとおっしゃって――」
 田村の説明の途中、片岡が話を切り出した。
 「大西さん、あなたの会社の製造する鋳物が良質であることは、すでに調査済みです。私どもの厨房機器の製造に協力していただけませんか。お願いします」
 片岡は、立ち上がると大西に向かって礼をし、「お願いします」を繰り返した。
 「大西さん、実は、片岡さんは一緒にやってくれる鋳物製造会社を探していたところなんです。これまでも鋳物を使った厨房機器を販売していますが、イマイチ評判が良くありません。それで私が、大西さんの会社のことを申し上げると、すぐに調査にかかられて、この会社なら大丈夫です、そうおっしゃってくださったんです」
 田村の説明を聞きながら、大西は、TAIYO厨房機器の名前を反芻していた。厨房機器の業界だけでなく、鋳物の世界でも有名な会社である。商品に定評があり、世界に名だたる日本の会社として経済新聞にも度々登場していた。
 「TAIYO厨房機器さんのような会社が、うちのような会社と取引をしていいのですか?」
 「会社は大きさではありません。技術力です。それと歴史と伝統、この三つが大切だと私は思っています。大西さんの会社の技術力は申し分ありません。恥ずかしいことに、田村さんに聞くまで、私はあなたの会社を存じ上げていませんでした。あなたの会社でうちの商品を作っていただければ、我が社の商品はまだまだ伸びます」
 片岡の言葉を聞いて、大西は思わず涙を流した。父親が起こした会社である。コツコツと努力して社員を鍛え、良品を生み出す素地を作ってきた。工員たちの技術力は、大西も自慢とするところだったが、不況の中で自信を失い、会社を閉じようかと考えていたところだ。
 「有難い話です。片岡社長の申し出に感謝しています。全力を尽くして頑張りますので、ぜひ、うちにお手伝いさせてください」
 大西は、あふれる涙をこらえきれず、しゃくり上げるようにして片岡に言った。片岡は、大西に向かってスッと手を差し伸べ、握手を求めた。大西が片岡の手を握り締めると、田村が喫茶室に響き渡るような大きな拍手で二人を称えた。

 片岡の前金先渡しを得たことによって、大西は会社の危機を乗り切ることができた。一気に活況を呈した鋳物工場は、TAIYO厨房機器が新規の得意先と聞いて、全員が士気を新たにし、製造に取り組むようになった。
大西は、片岡との取引を誰よりも先に、美佐江に報告した。美佐江は、大西の期待に反して手放しでは喜ばなかった。
 「取引が成立することはもちろん喜ばしいことだけど、先方の期待に応え、継続させることの方がさらに大事ではないですか」
 と、大西に苦言を呈した。
 資金繰りの危機を乗り越えたことで、ひとまず安堵していた大西は、美佐江の言葉を聞いて、我に返った。喜び安堵している場合ではない。これからが勝負だと、気落ちを切り替えた大西は、自身も率先して製造に取り組むようになった。
 そのままサラリーマンでいたらどうなっていただろう、などということを、困難に出会うたびに考えていた大西は、この時から、その思いをきれいさっぱり捨て去った。
 ――自分はサラリーマンの世界で挫折した人間だ。うまく行っているはずがない。そんな後ろ向きのことを考えるより、今はTAIYO厨房機器との仕事を成功に導きたい。
 片岡との固い握手を思い出し、大西は改めてそう決心した。

 えびす亭を大西が訪れるのは、週の後半が多い。木、金、土だ。週の前半はどうしても仕事が立て込んで、残業が多くなる。逆に週の後半は、何とか時間が取れる。不思議なことに、大西がえびす亭を訪れると、決まって源さんが呑んでいる。そして、大西の顔を見て、「とんちゃん!」と声を上げてくれる。大西は源さんのその声を聴くと無性に嬉しくなる。
 源さんの「とんちゃん!」と呼ぶ声には嘘がない。心の底から喜んでいるのがよくわかるからだ。
 田村さんは、二重顎を揺らしながらビールを呑み、「とんちゃん」と、さほど大きな声ではないが、親しみを込めて大西を呼ぶ。片岡の件で世話になったこともあり、田村さんに大西がお礼をしようと思い、お礼の金を用意し料亭に招待しようとしたが、田村さんは怒った。
 「とんちゃんと俺の仲や。そんな水臭いことをするな! えびす亭でビール一本、ご馳走してくれたらそれでいい」
 大西が田村さんにビール一本ご馳走すると、田村さんは、大西に向かって、
 「とんちゃんにご馳走してもらったビールは、ことのほか美味しい」
と言って、ジョッキを頭より高く振りかざしてみせた。
 その後、大西の仕事は順調に行っているようだ。えびす亭にやって来る大西の表情がすこぶる明るいのがその証拠だ。今では、源ちゃんや田村さんだけでなく、いろんな客から声がかかる。
 「とんちゃん、景気はどないや?」と。
 以前のような愚痴はこぼさず、大西は澄ました顔で答える。
 「ぼちぼちでんなあ」
<了>


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