ギャンブル依存症の男


高瀬 甚太
 
 「人間、ああはなりたくないよなあ」
 声に出してこそ言わないが、ほとんどの客が腹の底で思っている――。幸田万次郎を見て、そう思わない人などいないのではないかと、菱松正二は思う。
 幸田万次郎、通称、タカリの万さんのタカリは、それはもう徹底したものだ。
 えびす亭にやって来ると、万さんは注文をする前に店内を物色する。これだと思った客のそばに付くと、やたらとご機嫌を取り始める。気を良くした客は、
 「まあ、一杯、どうでっか」
 と万さんに言う。すると、万さん、マスターに「空のグラス一つちょうだい」と声を上げる。空のグラスを手にすると、隣に立った客に空のグラスを向ける。客に入れてもらったビールを一気に呷り、それを飲み干すと、今度は別の客の隣に立ち、同様のことを始める。
 「万さん、店に来て、金を一銭も使わない人間は客やないぞ」
 見かねた客が万さんに言う。それでも万さんは気にするそぶりさえ見せない。
 
 菱松は大工の棟梁だ。大工仲間の中にもいろんな奴がいる。宵越しの銭は残さないと言った荒っぽい金の使い方をする奴もおれば、堅実に貯金をしてしっかりした生活設計を立てている奴もいる。昔の大工は、酒呑みで、博打好き、女房泣かせの奴がたくさんいたが、最近は、そんな人間は少なくなった。マイホームパパの大工やサラリーマン風の大工がやたらと眼に付く。菱松にしてもそうだ。博奕は一切しないし、酒だって酒量は多くない。
 自分とあまり年の変わらない万さんが、菱松はなぜか気になって仕方がなかった。万さんのタカリぶりが菱松には異常に見えたのだ。
 ――何か、わけがあるのだろうか。
 と、菱松はいつも思う。それというのも、菱松のところで働いていた若狭源吉のことがやたらと思い出されて仕方がなかったからだ。源吉は真面目で腕のいい大工だった。ただ、ギャンブル好きが祟って借金を重ね、一家離散、本人も飛んでしまい、行方がわからなくなった。
 源吉も、ギャンブルで借金を重ねている時、タカリの源吉と評判が立っていた。ギャンブル好きは一般的的にセコくなるようで、ギャンブルには大金を散在するのに、身の回りの金となると始末して使わない。使わないどころか、人にタカる。万さんを見て、菱松は、源吉と同じではないかと思うことがあった。
 「万さんは昼間、どんな仕事をしているんだ?」
 と、えびす亭の客に聞いたことがある。だが、誰一人として、万さんの仕事を知っている者はいなかった。
 「あんなタカリ、興味ないわい」
 異口同音に客が言うのを聞きながら、菱松は、みんなに嫌われる万さんのことがよけいに気になった。
 菱松自身、万さんとは違った意味で、若い頃は人に好かれるタイプではなかった。やたらと喧嘩っ早くて、警察の世話になったことも一度や二度で利かなかった。人の親切を素直に受け入れず、何かと言っては反発する、そんな嫌われ者の代表的な人間がその頃の菱松だった。
 人は疎外されると、人間が歪(いびつ)になり、気が付いたら周りに誰もいなくなっていた、などということがよくあるものだ。
 菱松の場合もそうだった。それを救ってくれたのが、当時、大工の棟梁だった加護栄太で、加護は、自暴自棄になっていた菱松を救い上げ、鍛えに鍛えて、菱松を一人前の大工にしてくれた恩人で、その頃、見初めた女房のお初もまた、ただ一人、菱松に好意を持って接してくれた恩人である。この二人には、今でも菱松は頭が上がらない。
 人にタカってばかりいる、どうしようもない万さんのことが、気になったのは、万さんに、疎外されている者特有の匂いを嗅ぎ取ったからに他ならない。同時に昔、自分の下で働いていた若狭源吉のことが思い出されたからである。
 
 万さんは、人からタカリと言われることに抵抗はないようだった。ただ、徐々に自分の居場所がなくなっていることに恐れを感じていたのは確かだ。えびす亭の客たちから疎外されてしまうと、万さんはいよいよどこにも行くあてがなくなる。
 二年前、万さんは、長年経営していた、貿易会社を倒産させ、大きな借金を背負ってしまった。家も貯金もすべてなくし、子供たちは独立していたから直接、迷惑をかけることはなかったが、友人たちの多くが倒産を機に離れて行った。妻も愛想をつかして逃げるのではないかと危惧したが、妻は、何も言わず苦境に立つ万さんのそばにずっといた。
 貿易の仕事しかしたことのない万さんは、倒産後、さまざまな仕事に就いたが、性に合わないと文句を言って、短期間で辞めてしまい、正業に就かないまま月日が過ぎた。その間、万さんの家は、妻のパートの収入だけで生活しなければならなかった。妻のためにも金がほしい。そう思った万さんは、ある時、一獲千金を狙って、それまでやったことのなかった競馬をやって大当たりをした。万馬券が当たったのだ。万さんは、それをフロックだとは思わなかった。自分には博才がある、そう思った万さんは、一気に競馬の世界にのめり込んだ。ギャンブルは、のめり込めばのめり込むほど勝ち運に見放される。万さんの場合も同様だった。こんなはずはない。おかしい、次はきっと勝てる。そう思って金を注ぎ込むうちに借金が雪だるま式に増えた。
 もう後戻りできない。そう思った時、ようやくのこと、万さんは自分の博才のなさに気が付いた。しかし、気付こうがどうしようが、万さんのギャンブル好きは変わらなかった。ギャンブルをしないと生きているという実感が湧かなくなっていたのだ。
 仕事もせずに、ひたすらギャンブルに熱中する日々を送っていた万さんが、ある日、家に戻ると妻がいなかった。買い物にでも行ったのではないかと思ったが、そうではなかった。万さんに愛想をつかした妻は、書き置きを残して実家に帰った。慌てた万さんは、妻の実家に何度も電話をしたが、義父に罵声を浴びせられ、妻は電話に出ようともしなかった。いつの間にか、子供たちも万さんを見放し、友人はもちろん、兄弟でさえも万さんを見捨て、とうとう万さんは独りぼっちになってしまった。
 嫌われれば嫌われるほど、深みにはまって行く。いつしか万さんは、人にやさしいと言われる、えびす亭でさえも相手にされない人間になっていた。
そんな万さんに声をかけたのが菱松だった。
 「万さん、まあ、呑めや。お腹はどうや? おでんでも食べるか」
 今まで、それほど親しく話をしたことのなかった菱松の親切が、万さんの心を重くした。
 「菱松さん、おおきに。そやけど、何でおれに親切にしてくれるねん」
 万さんのすねたような物言いに、菱松は笑って答えた。
 「おごりたいからおごっているだけや。別に他意はあらへん」
 「おれ、おごってもらってもよう返さんで」
 「そんなこと端から期待してないわ。それより、呑む時はあれこれ考えん としっかり、楽しく呑めよ。食べる時はしっかり食べてお腹に入れることや」
 倒産以来、人の親切にすがりつき、生きて来た万さんに対して、徐々に周囲の目が厳しくなり、いよいよ居所がなくなりかけてきた時にかけられた菱松のやさしい計らい、それを万さんは疑心暗鬼の思いで捉え、素直に受けることが出来なかった。
 菱松が万さんに言った。
 「万さん、あんた、こんなこと聞いたら悪いけど、博奕に手を出して、借金まみれになってるんと違うか?」
菱松の言葉が胸に堪えた。
 「おれがどうであろうと、あんたには何の関係もないやろ。放っておいてくれ」
 万さんが突き放すように言うと、菱松が万さんの頬を片手で叩いた。
 「菱松、何、さらすねん」
 万さんが血相を変えて、菱松に食ってかかる。そんな万さんを菱松が叱った。
 「もう、自分の力ではどうにもできんようになっているのと違うんか。俺に相談する勇気もないんか」
 万さんが絶句した。絶句して泳ぐような視線を菱松に注いだ。
 「そない言うたかて、菱松さんとおれは、そないに親しくない」
 「今まではそうやった。だったら今日から親しくなったらええんと違うんか」
 万さんは菱松をじっと見つめた。本当に菱松は自分と友だちになってくれるのか――。それをじっと見定めているようだ。
 「何でも言うてみい。気分がスッとするはずや。ええな、万さん。そして一緒に考えようやないか。ちっとはマシな考えが浮かぶかも知れんぞ」
 菱松の言葉に、万さんは胸が詰まり、こらえていたものがこらえきれなくなって、大粒の涙をグラスの中に落とした。
 「菱松さん、おおきに。おれ――」
 後の言葉が涙でぐしゃぐしゃになって聞こえなかった。万さんの声は、えびす亭の喧騒の中に紛れて消えた。
 
 菱松が想像したように、いや、想像した以上に万さんの状況は最悪だった。借金が膨れ上がり、しかも、万さんは闇金からも金を借りていた。金額にして三百万円、借金といっても利息がほとんどだった。
 「万さん、おれに約束しろ。ギャンブルには今日を限りに一切手を出さないと。ギャンブル依存症から抜け出したら、後は何とかなる」
 倒産がきっかけとはいえ、ギャンブルが万さんを破綻させ、追い詰めた。すべてを失い、妻は出て行った。友人や親戚が万さんを相手にしないのは仕方がない。だが、妻が自分のそばから離れたことは万さんにとって大きな痛手となった。唯一の救いは離婚に至っていないことだったが、それも時間の問題のように思われた。
 抜け出すのが容易ではないと言われるギャンブル依存症、万さんは、お金さえ持てば競馬に走り、パチンコ店に向かう。何度もやめようと思いながらもやめることができない。意志薄弱だと言われそうだが、それだけの問題ではなかった。他の何をしても心が充足しないのに、ギャンブルに関わっている時だけは満ち足りている。生きていることを実感しているといった方が正しかった。
 ギャンブルが身を破滅させていることは百も承知だった。やってはいけない。その気持ちは強くあった。だが、堰き止められない何かがあった。ギャンブルにうつつをぬかし、人にタカって一杯の酒を口にした。
 「菱松さん。俺、ギャンブルをやめたいといつも思っている。女房にも早く帰って来てほしいし、元の生活を取り戻したい。人にタカって酒を呑むなんて、みっともないことなんか本当はしたくない。借金に追い詰められて逃げ回っているというのに、それでも、おれ、いつの間にか金を拾い集めて競馬に行き、パチンコ店に行っているんや。情けないけど、どうしようもない。やめられへんのや」
 万さんの言葉を、菱松は真剣に聞いていた。
 「万さん、それでええんや。よう、正直に言ってくれた。おれが言って、すぐにやめられるぐらいだったら、とっくの昔にやめてるやろ。依存症というのはそんなもんや。ギャンブルに関わらず抜け出すことは難しい。そやけどなあ、万さん。どうにかしてやめなあかんのや。わかるやろ。今が正念場やねんで」
 「はい。わかってます。おれ、依存症から抜け出したい。タカリの万さんの異名を取っ払いたい。菱松さん、どないしたらええやろか?」
 「荒療治せなあかんな。万さん、覚悟は出来てるか」
 菱松の言葉に、万さんは思わず背筋をぴんと伸ばし、
 「はい。おれ、頑張ります」
 と声を上げて応えた。
 
 「ギャンブル依存症は、精神疾患の一つと言われているのですよ。ギャンブルを渇望し、ギャンブルをしたいという衝動を制御することができない。ギャンブルをすることで、借金が嵩むなど、問題が生じているにも関わらず、やめられない、そんな状態を繰り返す。その方もきっとそんな状況ですよね」
 医師の下に出向いた菱松は、ギャンブル依存症を克服するためにどうすればいいかを相談した。医師の説明が続く。
 「ギャンブル依存症は、ギャンブルを断つと集中力の低下や手の震え、発汗、不眠、幻視などの離脱症状に見舞われます。一般的に、依存者はギャンブルが楽しくてやめられないと考えがちですが、決してそうではありません。実際には『やめなければ』と思ったり、借金のプレッシャーや生活の苦しさを感じながらギャンブルをしている場合がほとんどです。不快な感情やストレスから逃れようとしてギャンブルをする。その結果、苦悩し、さらにストレスを感じてギャンブルに走る、そんな『負のスパイラル』が依存症には存在します」
 万さんもそうだと菱松は思った。やめたい、逃れたい、そう思いながら万さんはギャンブルをやめられずにいる。その根は意外と深いのかも知れない。
 「治療の方法として、集団精神療法があります。これは短期では難しく、週に一、二回、少なくとも二年間は継続する必要があります」
 初めて聞く、集団精神療法という言葉に戸惑った菱松は医師に尋ねた。
 「効果はあるのですか?」
 白衣の似合う女性の医師は、菱松の素朴な質問に笑顔で答えた。
 「集団精神療法の効果は足、耳、口の順に表れます。療法を受けるうちに、集団精神療法に通うことが億劫でなくなり、人の話を聞くことで共感を覚えたり感銘を受けるようになります。最後に自分自身のことを赤裸々に話すことができるようになれば成功です」
 それならば万さんにも効果があるかも知れない。そう思った菱松は、前のめりになって医師に聞いた。
 「先生、その集団精神療法はどんな場所で行われているのですか?」
 「集団精神療法は、病院やギャンブル依存者の自助グループや回復施設で行われています。自助グループや回復施設は、ともにギャンブル依存者の治療を行う場ですが、回復施設では専門知識を持った指導員の指導で、施設に通うだけでなく宿泊施設に入所して治療を行なうことができます。ただ、自助グループには専門の指導員がいませんので、ギャンブル依存者の自由な意思に基づいて通いによる治療のみが行われています」
 医師の説明を聞いた菱松は、万さんのために集団精神療法を行う回復施設を教えてもらい、万さんをその宿泊施設へ入所させる方法を取ろうと考えた。
 ギャンブル依存症には、長期間ギャンブルを断った後でも、少しでもギャンブルに触れるとたちまち症状が再発するという特徴がある。せっかく、回復施設で治療をしても、再発するようではどうにもならない。そのためにも、万さんを見守ってくれる存在が必要だと考えた菱松は、
 「誰か、あんたを監視してくれる人はいないか」
 と万さんに尋ねた
 万さんは、散々考えた後、
 「一人いないでもないが、多分、ダメかも知れない」
 と弱気な答えを口にした。
 「誰や。言うてみい。おれが交渉してやる」
 「正式に離婚はしていないが、おれには女房がいる。倒産で金も家も何にもなくなった時でも、おれのそばにいてくれた女房だが、ギャンブル依存に陥ってから、愛想をつかして家を出て行った。今、実家に帰ったままだが、思い当たる人と言うたら、その女房しかおらへん」
 「説明して話せば、わかってくれるかも知れへんやろ。正式に別れてなかったら言いやすい。おれが奥さんに話してみる」
 万さんは、妻が了承するとは思えなかった。家を出てから、ずいぶん長い間、連絡を取っていない。
 「それはそうと、これも医者の先生に言われたことやが、ギャンブルで引き起こした金を万さんの代わりに支払うと、ギャンブルに依存している人間は、問題に直面しないもんやから、ギャンブル依存可能あら抜け出せない可能性が高いと言われた。そこでや。万さんの借金の肩代わりをとりあえず俺がする。だが、これは万さんに貸すだけや。利子はつけないが、毎月、きっちり返してもらう。言っておくが、俺の取り立ては厳しいぞ。ええか、万さん、覚悟しておけよ」
 万さんは、地べたに座り込み、菱松に向かって、号泣しながら何度も頭を下げた。
 
 菱松が、万さんの奥さんの実家へ、万さんと共に訪ねたのは、それからしばらくしてからのことだ。実家の両親は、万さんだと知ると、「帰れ!」と一喝してドアを開けようとしなかったが、菱松が一緒だとわかると、渋々、二人を家に招じ入れた。
 相手をしたのは、万さんの奥さんの父親で、奥さんは中に引っ込んで、姿を見せなかった。
 「何の用事ですかな?」
 万さんの奥さんの父親は、大手の生命保険会社に勤務していて、二年後には定年退職する予定になっていた。転勤が多くて、自分も転校を何回したかわからないと、妻が言っていたことを、その時、万さんはふと思い出した。
 「実は、万さんのことで奥さんに相談がありまして」
 菱松が丁寧な口調で話すと、父親は、そっぽを向いて、
 「そんな男、もう、久子とは何の関係もない。相談などもってのほかだ」
 無碍に言って、席を立とうとする。
 「ちょっと待ってください。話だけでも聞いていただけませんか」
 菱松の言葉に、父親は躊躇した様子をみせ、座り直し、
 「何だ?」
 と聞いた。万さんはうつむいて、膝を揃えてかしこまっている。
 ――女房がすぐそばにいる。
 万さんは、先ほどから妻の存在を感じ取っていた。近くで妻が様子を窺っている。会いたい、と万さんは思った。会って顔が見たい。万さんはそればかりを考えていた。
 「万さんは、ギャンブル依存症の治療のために集団精神療法を行う回復施設に入所します。施設に泊り込んで治療を受けるのですが、復帰して後のことが大切になります。万さんを監視してくれる人が必要なのです。万さんに聞くと、自分には女房しかいないと言います。万さんのためにも、お願いします。万さんの元に奥さんを返してやってください」
 菱松の言葉に、万さんの義父は、顔を歪めた。
 「決めるのはわしやない。久子や。久子が戻ると言うたら仕方がない。だが、久子は利口な娘だ。ギャンブル依存から立ち直れないような男の元に帰るはずがない」
 菱松が何かを言おうとしたが、それより先に万さんが声を上げた。
 「必ず立ち直ってみせます。立ち直って、久子を、今度こそ必ず幸せにします。私には久子しかいません。あいつが必要なんです」
 その時、ガラッと音を立てて襖が開き、女性が部屋の中に飛び込んできた。
 「あんた、その言葉に嘘はないか!? ギャンブルをやめるというのは、本当のことなんやな」
 万さんの元に駆け寄ったのは、万さんの妻、久子だった。
 「ほんまや。嘘やない。俺、死ぬ気で治す」
 万さんは力一杯、妻の久子を抱き締めた。
 「その言葉、ずっと待っていたんよ。なんで、もっと早う、そう言って迎えに来てくれへんかったんや」
 抱き合う二人を見て、菱松は、ふと万さんの義父を見た。義父は、眉を真ん中に寄せて口をへの字に曲げていた。
 
 菱松の世話で、回復施設から帰って来た万さんは、特養ホームの介護士として働くようになった。回復施設にいる間に、治療を続けながら万さんは介護資格を取り、回復施設を退所したその日から勤め始めた。
 菱松が借金の肩代わりをしてくれたおかげで、万さんは借金取りに追われることがなくなった。働き始めた万さんは、給料をもらったその月から、きちんと菱松に返済をし、少しでも早く返済しようと必死に頑張った。
 パートで働いていた妻の久子は、時折、報告と返済のために菱松の家を訪れた。菱松の家は平屋の一軒家で築四十年という代物だが、久子は、菱松の家の雰囲気が大好きだった。
 菱松の奥さんは、お初と言い、年齢は久子より少し上だったが、気さくで面倒見のいい女性だった。そのお初に、久子はある時、聞いたことがある。
 「菱松さんは、どうしてうちの旦那のために、あそこまでしてくれたのでしょうか」
 お初は、笑って答えた。
 「若い頃のうちの旦那は、それはもう嫌われ者でね。どこへ行っても誰にも相手されず、寂しい思いをしていたのよ。お宅の旦那の万さんにも同じ匂いを感じたのでしょうね。放っておけないと、よく口にしていたわ。それに、あの人には、自分の下で働いていた源吉というギャンブル狂いの男の面倒をみてやれなかった負い目があってね。万さんを何とかしてやらないと、真剣に思ったみたい。別に気にしなくていいのよ。あれがあの人の性分だから」
 「嫌われ者の男を、奥さんはよく好きになりましたね」
 久子が感心して言うと、お初はまた笑って言った。
 「私が面倒みてやらないとしようがないじゃないの。他に誰もあの人の面倒をみる人がいないのだから。あんただってそうでしょ。万さんにはあんたしかないはずよ」
 久子は小さく笑って、その通りだと思った。人生にはいろんな岐路がある。万さんを待っていてよかった。あの人に私が必要なように、私にもあの人が必要なのだから――。
 菱松の家を出て、駅に向かう途中、久子の携帯のメールが鳴った。万さんからのメールだった。
 ――菱松さんとえびす亭に寄って帰る。酒は呑むけど、お腹は空かせておく。よろしく。
〈了〉
 

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