恋する花江

高瀬 甚太

 バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が続いていた。すぐに止むものと高をくくっていた木村花江は、金物屋の軒先を借りて恨めし気に空を見上げていた。たとえ傘があってもほとんど役に立たないのではないかと思われるほどの強い雨の降りは、すでに一時間余りも続いていた。
 待ちくたびれた花江は、意を決して降りしきる雨の中へ飛び込もうとしていた。
 「もし、よかったら」
 と声をかけられたのは、そのタイミングだった。
 一台のクルマが花江の前に停まった。クルマを運転していたのは中年の男性だった。身なりも悪くなかったし、雰囲気も悪くはなかった。それよりも何よりも、一向に降り止む気配をみせない雨が問題だった。
 「ありがとうございます」
 花江はお礼を言ってクルマの助手席に飛び込んだ。
 「どこまで行かれる予定でしたか?」
 男が花江に尋ねた。
 「駅まで行こうと思っていました。途中で雨に合って身動きが取れずにいたものですから、駅まで送っていただけると助かります」
 「わかりました。ちょうど、私も駅の近所まで行くつもりでいましたから、お送りしましょう」
 さらに強くなってきた雨脚が、クルマのフロントガラスに激しい勢いで雨粒を叩き付ける。ワイパーが忙しく立ち働くが、一番強にしてもとても追いつきそうになかった。
 「本当にすごい降りですね」
 花江があきれたように言うと、運転席の男は、
 「雨も嫌なことばかりではないようですよ。激しい雨粒が導いてくれる幸運もあるようです」
 と答える。
 「幸運? 激しく降る、この大雨がですか」
 「そうです。嫌だと思うことのすぐそばには、たいてい、幸運が転がっているものです」
 確信めいた言葉を吐く男の横顔を眺めながら、花江は、面白いことを言う人だな、と思わず男を見直した。
 四十代半ばぐらいだろうか。黒縁のメガネと高い鼻筋が男を知的に見せていた。ほっそりとした顔立ち、そのわりに肩幅が広く、スーツの上からでもわかるほど、男の体は逞しかった。
 「到着しましたよ。気を付けて帰ってください」
 花江は男を振り返って、丁寧に礼をして駅に飛び込んだ。電車は十数分の遅れはあったものの、動いていた。電車に乗ってしばらくすると、あれほど激しく降っていた雨が嘘のように止み、雲の合間から陽が立ち上った。

 花江の仕事はインテリアコーディネーターで、その仕事を花江は自営していた。独立して日の浅いこともあり、仕事はそれほど忙しくなかった。それでも勤務していた会社の縁で何とか仕事が回って来て、どうにかこうにか息をつないでいるというのが現状だった。
 三十歳を超えた辺りから、花江の身辺は俄かに寂しくなり、二十代の頃には頻繁に来ていた縁談もばったりと来なくなり、今ではもう話すらない。
 「三十二歳というのは複雑な年齢よね」
 と話していた友人もいつの間にか見合い結婚し、花江の周りのほとんどが結婚、子育てに忙しく、今では呑み歩く友すらいなくなっていた。
 ――私だってその気になれば。
 何度そう思ったか知れない。ただ、二十代の時も三十二歳になった今も、花江をその気にさせる出逢いに巡り合っていない。それが問題だった。
 これまでに花江が好意を持った男性は、少なくとも五人はいた。だが、そのほとんどが片思いで、花江の一方的な思い込みに終始した。五人のうち一人だけが花江の思いを受け止めてくれたが、恋愛関係には至らなかった。花江が思いを打ち明けると、その男性は感激し、涙を流して喜んだが、それだけのことで、翌月には、その男性は別の女性と結婚してしまった。
 ――男性とは不可解な生き物だ。
 花江がそう思ったのも無理はなかった。涙を流すほど喜んでくれたのに、なぜ、すぐに心変わりし、別の女性と結婚したのか、花江がなじると、その男性は、「思われることは嬉しいものだ。だが、それ以上に嬉しいのは、愛する女性に告白された時だ」と花江に説明をした。
 男は、花江の告白を受けたと同時期に、別の女性からも告白を受けていた。花江の告白にうれし涙を流した男は、翌日、別の女性から愛の告白を受けた。秤にかける必要はなかった。男は花江より後に告白した女性を秘かに愛していた。花江の時は感動して涙を流したが、その女性に告白を受けた時は、満面に笑顔を浮かべ、女性に抱きついた。
 花江の両親は健在で、兄も姉も結婚し、子供に恵まれて幸せに暮らしている。花江の両親にとって花江だけが悩みの種だ。決して不美人ではないし、性格も悪くない。スタイルもまずまず普通で、どこといって欠点はないのに花江は男に縁がなかった。両親が親戚に頼み、花江のために何度か見合いをセッティングしたが、相手の男性はいつもその場では、意気投合したかのような様子を見せるのだが、しばらくして必ず断りの電話が入った。
 花江にも何が原因なのか、まるでわからなかった。会社に勤務していた時もそうだ。花江は、会社の男性たちにそれなりに人気があったのだが、人気があるだけで恋愛とは無縁というのがお決まりのパターンだった。花江はいつも会社の男たちの恋愛相談を受け、そのたびに二人の仲を取り持つよう努力した。そんな役割に嫌気がさして会社を退職した。しかし、独立して仕事を始めると、なおさら縁が遠くなった。

 ――占い師にでもみてもらおうかな。
 土砂降りの日から二週間を経った頃、ぶらぶらと街を歩いていた花江は、この近くによく当たる易者がいるという話を思い出して、立ち寄ってみる気になった。
 注意してみなければわからないほどの、小さな『占い』と手書きで書かれた看板が古びたビルの一角にぽつねんと置かれていた。一階奥に、スタンドバーや一杯飲み屋の提灯がぶら下がっている。その最奥に、いかにも怪しげな扉があった。革製の立派なドアだが、周囲の雰囲気にあまりにもそぐわない。ドアを開けると地獄へ連れ込まれてしまいそうな恐怖感さえ感じた。
 一瞬、躊躇した花江だったが、思い切ってドアを開けた。暗い部屋の奥に真紅のカーテンがあり、そのカーテンの向こうから、
 「いらっしゃい。どうぞ中へ」
 と声が飛んだ。若いか若くないのか、わからないようなハスキーな声で、その声に誘われるようにして花江はカーテンを開いた。
 「どうぞ、お座りください」
 黒いベールに身を包み、顔半分を黒い布で覆った女性が目の前に座っていた。
 「あのう、みていただきたいのですが」
 女性が醸し出す独特の神秘性に圧倒されながら花江がおそるおそる切り出すと、占いの女性は、
 「恋愛運、結婚運ですね」
 と花江を見つめて言い、タロットカードをシャッフルし始めた。
花江が占い師にみてもらうのは、これが初めてではなかった。四柱推命の易者もいたし、水晶玉を操る易者もいた。だが、そのどれもが花江を占った後、声を揃えて、
 「結婚が近いですよ」
 と言った。
 散々、花江を喜ばせておいて、結局、ぬか喜びに終わってしまうのが常だった。占いなんて、そんなものだ、と自覚した花江は、以来、占い師の元を訪れていない。今回、その禁を破って占いに頼ったのは、何となく暗雲が垂れ込めた自分の人生を何とかしたい、その思いが強かったからだ。
 シャッフルしたタロットカードを、占いの女性がゆっくりと開いて行く。
 「あなたは今、三十二歳ですか?」
 突然、年齢を言い当てられて、花江は驚いた。
 「そうですが、どうしてわかったのですか?」
 若く見られることもあれば、年齢より老けて見られることもある花江の年齢を、これまでピタリと言い当てた者は誰一人としていなかった。
 「独立してようやく一年近くというところですか」
 「は、はい」
 「インテリアコーディネーターという仕事は楽しいですか?」
 なぜ、自分の職業がわかるのか――。花江は何も語っていない。占い師は、年齢、独立、仕事をピタリと言い当て、しばらく黙った。
 花江は、奇妙な感覚に身を震わせた。ここまでピタリと言い当てられると神妙にならざるを得ない。
 「悩んでいるわりに、あなたは結婚についてそれほど真剣に取り組んできていませんね」
 女性の占い師の大きな瞳が花江を見つめて言った。花江が頷くと、占い師はなおも言葉を続けた。
 「これまでも何度かチャンスがあったはずです。あなたが本気になってぶつかれば、うまく行ったはずなのに、あなたはそうはしなかった。楽天的なあなたの性格の所以かも知れませんし、照れもあったのでしょう。もっといい男を見つけたい、その欲が邪魔をしたのかも知れません。ともかく、このまま進めば、あなたは一生、伴侶を得ることが出来ません」
 ――当たっている。その通りだ。
 と花江は思った。占い師の言葉の一つひとつが、花江の心臓を抉り出した。
 占い師は、最後のカードを開き、「おっ――!」と声を上げた。
 いいカードなのか、悪いカードなのか。占い師の表情からは、何もうかがい知ることができない。身を固くして占い師を見つめていると、占い師が顔を上げて、再び花江を凝視した。
 「多分、これが最後のチャンスかも知れません。この一カ月以内に、あなたは運命の出会いをします。それにあなたが気付けばいいのですが、これまでのようにぼんやりしていると出会いのきっかけを逃してしまいます。うまく出会いのチャンスをつかめたら、自分の気持ちに素直に従い、余分なことを考えないようにして相手と真剣に向き合ってください。照れたり、ふざけたり、どうせ駄目だと思ったりすると、せっかくの出会いを不意にしてしまいます。いいですか。自分の気持ちに正直に、素直になることですよ。最後のチャンスと思って頑張ってください」
 「そ、その人はどんな方ですか?」
 「そこまでは残念ながらわかりません。ただ……」
 「ただ、何でしょう?」
 「あなたに希望の灯りを点してくれる人です」

 占い師の部屋を出たのが何時だったのか、花江は記憶していない。五千円を支払ったことと、部屋を出た時、足がもつれたことだけはしっかりと記憶していた。
 一カ月以内に出会う――。
 占い師はそう言った。何も語っていないのに、花江の年齢を言い当て、独立を当て、仕事を当てた占い師の言葉を花江は信じた。過去の男性との縁にしてもそうだ。占い師の言葉は、見事に花江の真実を言い当てていた。
 それにしても、一カ月以内だなんて。独立して以来、仕事先で出会うのは役職を持つ建設会社や住宅会社のおっちゃんばかりで、若い男など一人もいない。一つ大きなため息をついて、花江は仕事先に向かった。
 この日、花江は、リフォームする住宅のインテリアコーディネイトを頼まれていた。他の人に来た依頼だったが、その人が忙しくて、閑な花江に仕事が回って来た。相手は新婚夫婦で、元々、父親の家だったところを改築してリフォームしたものだから、インテリアを施すにしても少々無理があった。ともかくまず、相手の希望を聞き取らなければいけない。相手の希望を聞いて、それに伴った設計をして、提案する。一度や二度で終わる交渉ではなく、何度か足を運ぶことになる。そのうち相手が折れて、仕方がないわね、となるのを待つことになる。新築の家ならともかく、リフォームの家だ。自ずと限界がある。
 打ち合わせを終えて、相手の家を出たのが午後五時だった。思っていたよりスムーズに話が運び、次回の提案でまとまりそうなところまで持って行けた。花江にしては珍しいことだ。すっかり気を良くした花江は、ルンルン気分で駅までの長い道のりを歩いた。
 花江の気分に水を差すように、ポツン、ポツンと雨のしずくが落ちて来たのはそんな時だ。土砂降りになりそう悪い予感がして周囲を見回した。車道と歩道以外、何もない殺風景な場所だ。駅までどんなに急いでも二十数分はかかる。急ぎ足で駅に向かったが、すぐに雨が追いつき、大粒の雨が天から零れ落ちてきた。
 髪の毛も服もぐっしょりと濡れ、ピンクのブラジャーが白いシャツの下から丸見えになっている。泣きそうになりながら花江が大声を上げて走っていると、花江のそばにクルマが急停止して、ドアが開いた。花江が驚いていると、運転席の男が手招きして、助手席に座れという。あわてて助手席に滑り込むと、運転席の男が笑って言った。
 「やっぱり、この間の人だ」
 えっと驚いて花江が男を見ると、何となく見覚えのある顔をしている。
 「ほら、この間もあなた、今日のような土砂降りの中にいたでしょ。あの時、私、駅まであなたを送って行きました」
 ようやく気付いた花江が、濡れた髪の毛を大きく振って、
 「思い出しました。あの時は本当に助かりました。」
 と改めて礼を言うと、男がタオル地の少し大きめのハンカチを差し出し、
 「髪の毛と身体を拭いた方がいいですよ。風邪をひいてしまいます」
 と言う。花江は恐縮しながら髪の毛を拭き、身体を拭いた。
 「すみません。助手席をこんなに濡らしてしまって――」
 「気にしないでいいですよ。それより、ハンカチ一枚では足りないでしょ。もう一枚ありますからこれも使ってください」
 男の差し出すハンカチを遠慮なく貰い受け、花江は濡れた顔と服を急いで拭いた。
 「寒くありませんか?」
 男に聞かれた花江は、正直に「少し……」と答えると、男は、
 「もし、時間があるようでしたら、この先に温かな料理を食べさせてくれる店があります。そこでタオルを借りて、もう一度丁寧に身体を拭いて、温かな料理でも食べましょう」
 男は、花江の返事を聞くまでもなく、道沿いに建つ、小粋なレストランにクルマを侵入させると、屋根のあるモータープールにクルマを停めた。雨はまだ、激しく降り続いている。
 二度と会うはずのない人に再び、同じような状況で遭遇した。しかも、前回と今回は場所が違う。そのことが花江に運命を感じさせた。花江の脳裏に、占い師の言葉が浮かんだ。
 ――一カ月以内に出会いが……。
 それはこのことなのだろうか。
 男は、花江をクルマから降ろすと、花江をエスコートするように、店の中に入り、店員に事情を話して、席にバスタオルを持って来させた。花江はバスタオルを預かると、そのままトイレに急ぎ、そこで髪の毛を拭き、シャツを脱いでスカートを脱ぐ、素裸になると、濡れている肌を上下、丁寧に拭き、女店員が持って来たドライヤーで髪の毛を乾かし、服を乾かせた。
 花江が席に戻ると、それを待っていたかのように店員が温かな蕎麦を持ってきて、テーブルの上に置いた。カレーの匂いが鼻を衝く。
 「この店のカレー蕎麦はこの地域の名物でね。体が温まるし、スパイスがよく利いていて、実に美味しいと評判なんです」
 普通のカレー蕎麦とはずいぶん違う。あっさりしているが蕎麦にカレーがうまく絡みついて舌に心地良い。
 「ホント、美味しいです」
 花江が笑顔を覗かせると、男は実に嬉しそうな顔をして、
 「もし、食べられるようでしたら、もう一杯、今度は天ぷら蕎麦に挑戦してみては。この店のかき揚げは小エビなどさまざまな具があって本当に美味しいから」
 と勧めた。しかし、花江はカレー蕎麦だけでもう満腹で、それ以上、食べることはかなわなかった。
 「申し遅れましたが、私、祖師谷春樹と申します。縁は奇なものと申しますが、あなたとは本当に奇遇だ。土砂降りの中、二度もお会いするなんて」
 と、祖師谷が笑う。花江もつられて笑った。
 「私は木村花江です。インテリアコーディネーターを職業にしています」
 「ほう、インテリアコーディネーターですか」
 「でも、まだ駆け出しですし、大したことはありません」
 「一人でやられているのですか?」
 「一年ほど前に独立して、青息吐息の毎日を過ごしています」
 「ご主人はおられるのでしょ?」
 「いたら、こんな苦労はしません。昔から男性にはとんと縁がなくて、ずっと一人身を囲っています」
 会って二度目の祖師谷だったが、花江は正直に話した。
 「あなたのような健康的で明るい女性でしたら、いくらでも相手はいるでしょうに」
 「いえ、そんなことありません。これまでうまく行った試しがありませんから」
 「ちなみに私もこの年で独身です、と言っても三年前までは既婚者でしたが、妻とは協議離婚しました。十年暮らしましたが、うまく行きませんでした。男女の仲というのは難しいなあ、というのがその時の実感でした」
 花江の胸がドキンと音を立てて鳴った。祖師谷が独身であると聞いたからなのか、別の理由なのか、わからなかったが、花江はいささか動揺した。
 ――一カ月以内に出会いがある。
 占い師の言葉が花江の中に甦る。それがこれなのか。
 「これを機会に時々、私と会っていただけませんか。四十五歳の私に十三歳も年下のあなたは不似合いと思われるでしょうが、二度もこうして出会うというのはどう考えても不思議でなりません。ぜひ、また会ってください」
 男は花江の携帯のアドレスを聞き、自分のアドレスを花江の携帯に送った。花江は動揺する気持ちを抑えきれずにいた。店の外に出ると、ようやく雨が小やみになってきた。
 その日、駅まで送ってもらった花江は、精一杯のお礼を伝えて、祖師谷と別れた。

 花江は、祖師谷との出会いから三日目、意を決して電話を入れた。あの日以来、花江の脳裏から祖師谷が消えることはなかった。常に祖師谷の顔が思い浮かび、笑顔が浮かんだ。
 ――木村さん、どうもお電話ありがとう。こちらからしないといけないのに、少しバタバタしていたものだから。
 ――いえ、先日は本当にありがとうございました。感謝しています。
 花江の言葉を受けて、祖師谷が少し押し黙った。
 ――木村さん、今日の夜、時間がありますか?
 聞かれた花江は、即座に大丈夫です、と答えた。
 待ち合わせ場所を決め、そこへクルマで祖師谷が花江を迎えに行くと伝えた。
 花江はときめく胸を抑えきれずにいた。二度の偶然の出会いが運命を意識させ、占い師の言葉がそれに拍車をかけた。
 午後六時、駅のロータリーで待つ花江の元に、約束した時間通り祖師谷のクルマが滑り込んだ。
 助手席に座った花江をみて、
 「あなたをクルマに乗せて、雨が降っていないのが不思議でならない」
 と言って笑った。花江も「そうですね」と同調するように言い、小さく笑みを漏らした。
 クルマを走らせながら祖師谷は、ハンドルを握り、前方に意識を集中しながら、ひとり言のように言った。
 「一昨日、離婚していた妻が戻って来ました。別れて三年、元々、妻の浮気が原因で別れたものですが、その妻が突然、家にやって来て、申し訳なかったと謝り、あろうことか、私に復縁を願い出たのです。私は即座に拒否しました。許せるわけがありません。当然、子供たちも私と同じ気持ちだろうと思っていました。だが、高校生になったばかりの娘と中学生の息子が私に言うのです。『パパ、お母さんを許してあげて』と。妻は、男と駆け落ちをしたものの、一カ月も経たないうちに男に捨てられ、寂しさのあまり、子供たちと連絡を取り続けていたのです。帰って来るよう勧めたのも子供たちでした。私はそのことを何も知らされておらず、知った後、どうしたらいいものかと頭が混乱して――。
 結局、妻への愛情が冷めたまま、私は、子供たちの母親として、家に戻って来ることを認めました。私は、自分を裏切った今でも妻を許すことができません。木村さんのことを思う気持ちがあるから尚更です。しかし、妻と復縁するとなると、私は木村さんに正直にそのことを伝えて、木村さんへの思いを断たなければならなりません。この二日ほど、ずっとそのことで悩んでいました」
 花江の中で何かが音を立てて崩れて行く。祖師谷の話を聞きながら、花江は、自分を励ますようにして祖師谷に言った。
 「子供たちのために、祖師谷さんが奥さんと復縁すること、私は決して悪いことだとは思いません。むしろ、子供たちの気持ちを大切にする、家庭を大切にする温かなひとだな、という思いを強くしました。祖師谷さんとは不思議な縁で、私は、運命の人ではないかと、この二、三日、思い続けて来ました。でも、私、あきらめます。祖師谷さんのこと、あきらめて一人で頑張ります。本当にいろいろありがとうございました」
 花江は、クルマを停めて降ろしてくれるよう頼み、停止すると同時に、助手席から降りた。祖師谷の声が耳に届いたが、花江には、祖師谷が何を言っているのか、それさえもわからなかった。
 ――私の運命ってこんなものなのだろう。
 自嘲の言葉を漏らし、今いる場所がどこかということさえ見当のつかないでいた花江が、ともかく前方を目指してやみくもに歩いていると、突然、空から雨が滴り落ちてきた。
 慌てて一軒の店の軒先に雨宿りをすると、途端に雨が激しく地面を叩き、軒先に立つ花江の気持ちを一層暗くした。
 「木村さんじゃないですか?」
 その時、恨めしく天を見上げている花江に、突然、声をかけてきた男性がいた。
 花江が声のした方向を振り返ると、傘を手にした男性が立っている。
 「ぼくですよ。磯崎信吾、忘れましたか?」
 背が高く、髪の毛の長い、スラリとした体験の男性が、傘を花江に差し向けながら言った。
 「あっ――、磯崎くん」
 磯崎は、花江が以前、勤務していた会社で営業マンをしていた男性で、年齢は花江より一歳上になる。
 「どうしたのですか。こんなところで」
 磯崎が聞く。夕刻の時間である。雨はますます雨脚を強め、軒先に立っている花江の服をしとどに濡らす。
 「近くまで来たのですが、歩いていたら雨に合っちゃって」
 「そうですか。ずいぶん服が濡れていますよ。どこかレストランにでも寄りましょう」
 磯崎が、近くのレストランに花江を誘った。
 「でも、磯崎くん、会社へ帰らないといけないんじゃないの」
 磯崎は、花江が濡れないように傘を差し掛けながら、
 「会社は辞めましたよ」
 「いつ?」
 「木村さんが辞めて、そのすぐ後に退職しました」
 磯崎は、会社でも有能な営業マンとして、いつもいい成績を上げていた。なぜ、辞めなければならなかったのか、花江には見当もつかない。
 「どうして辞めたの?」
 花江の問いに、磯崎が照れたような顔をして言った。
 「木村さんのいない会社に行く気がしなくなった。それだけですよ。今は中規模ですが、同じ住宅関係の会社に勤めています。今日はたまたま休みで――」
 エッという顔をして花江は磯崎を見た。ポケットに手を突っ込み、傘を花江に傾けて、無造作に空を見上げる磯崎の表情に、花江は、一瞬、ドキンと胸を高鳴らせ、磯崎を見つめ直した。
 「とにかく、逢えてよかった。縁があればきっとどこかで会える。そう信じていました」
 ――嫌なことがあっても、そのすぐそばに、たいてい幸運が転がっている。
 そう言ったのは、祖師谷だった。磯崎の思いに、今の今まで気付かなかった花江は、さらに降りしきる雨から逃れるように、磯崎の腰にそっと腕を回した。
<了>


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