夢の中で貨物列車が走る

高瀬 甚太
 
 ――時折、夢の中で貨物列車が走る。
 轟音と共に、およそ貨物列車に相応しくないスピードで線路を駆け抜けていく。そんな夢をこれまで井森公平は何度もみた。なぜ、貨物列車なのか、なぜ、そんな夢を見るのか、井森にはまるで見当が付かなかった。
 
 その年の十月の後半、井森は友人の招待を受けて、絵画の個展を観に出掛けた。
 「佐久間中将の世界」と題されたその個展会場で、井森は驚くべき作品を目にした。井森の夢の中に頻繁に登場した貨物列車がそこに存在したからだ。
 佐久間中将と井森には直接の関わりがなかった。井森の友人である金丸裕樹が佐久間と懇意にしていて、その関係でこの日の個展に誘われた経緯がある。金丸曰く、佐久間の絵は観る者の内蔵をえぐり抜く、そのぐらい凄いものがあるのだと、常に評していた。
 井森が佐久間中将の絵に接見するのは今回が初めてのことだ。金丸がしつこく誘うので仕方なく来場したようなわけで、佐久間の絵にそれほど興味があったわけではなかった。
 個展会場は、難波の繁華街から少し離れた、上本町に近い落ち着いた場所にあった。大きくはなかったが小さくもない。アトリエ会場としては中規模のものだったが、それでも出入りする鑑賞者の数は、こうした場所で開催する個展としてはずいぶん多いように見受けられた。
 金丸に案内されて個展会場に足を踏み入れてすぐに、井森は度肝を抜かされた。貨物列車の絵が壁面一杯に飾られていたからだ。
 『深夜の貨物列車』と題されたその絵に井森はしばらく見入った。
 その絵は、井森の夢の中に登場する貨物列車とまったく同じように思えた。グレーの車体、闇を切り裂くスピード感溢れるその絵は、井森に重い衝撃を与えた。
 「どうだい、佐久間中将の世界は?」
 金丸は井森の様子を見て、自信ありげに言った。
 「この作者は一体何物なんだ?」
 逆に井森が金丸に問いかけた。
 「年齢が五五歳ということと岡山県の出身ということぐらいしか知らない。卒業した学校もこれまでの経歴すべてが謎に包まれている不思議な作家だ」
 「きみはこの作家と親しくしているのじゃなかったのか」
 「親しくはさせてもらっている。でも、表面上だけのことだ。俺はいわゆる一ファンにしか過ぎない。第一、彼は自分のことをまったく話そうとしない」
 金丸はそう断って、佐久間中将との出会った時のことを語った。
 
 ――佐久間中将と出会ったのは、三年前の春だ。俺が広告代理店の専務をしているのはきみもよく知って入るだろう。企業の企画依頼を受け、ポスターに使うイラストレーターを捜していた時のことだ。
 『夢のある世界へあなたを誘う』、そういった企業の広告ポスターで、今までにないメルヘンチックな作品を描く作家を探していた。そうしたポスターにお決まりの乙女チックな作品に食傷気味であったことから、もっと毛色の変わった作家はいないかと、絵画の業界にまで手を伸ばして探した。
 しかし、どれもどこかで見たような既視感のある作品ばかりで、ドキドキさせるようなものには出会えなかった。仕方なく、適当な画家に折り合いを付けて企画を薦めようとしていた矢先、スタッフの一人が、「これってすごくないっすか!」と、雑誌を見て驚嘆の声を上げたんだ。
 その雑誌は、『海辺』というタイトルで、日本、外国の海辺の情報をグローバルに報せる不定期の雑誌で、三号目のその雑誌の中に一枚、見開きで掲載された絵があった。
 俺はその時、期待などせず軽い気持ちで覗いたのだが、その絵を観て、激しく動揺した。
 『海辺の叙景』と題したその絵は、明るく爽やかな海辺を主に紹介するこの雑誌のテーマとはうらはらに、荒々しく激しいタッチで海辺の風景を描いていた。
 内臓をえぐり取られると言ったら少し大げさになるかも知れないが、この時、俺はそれほど大きな衝撃を受けた。
 「この作家に『夢のある世界へ誘う』のポスターを描いてもらったらどうでしょうか」
 と提言したのは、チーフの山崎典子だった。期せずして全員が「面白い!」と声を揃えた。考えてみるとおかしな話だ。タイトルにそぐわないことこの上ない。スポンサーが聞いたら猛反対すること間違いないと思ったが、俺たちの興奮はすでにそのことを完全に凌駕していた。この作家にお願いしようということになって、その役を担ったのが俺とチーフディレクターの山崎だった。
 しかし、作家の住まいや居場所がわからず苦心していたところ、『海辺』の雑誌の編集員から「佐久間先生が明後日、当社に来られます」と連絡をもらった。
 その日、俺と山崎は雑誌社で佐久間を待った。俺たちは佐久間が『海辺』で定期的に作品を発表しているということをその時、初めて知った。作品の打ち合わせ時間より少し早く現れた佐久間は、『海辺』の編集室に入ると30分ほどして編集員と共に部屋から出て来ると、ロビーで待っている俺たちの前に現れた。
 佐久間は、絵画の印象とは異なり、白髪と長身に特徴のある穏やかな人物だった。画家とは思えないような風貌で、どちらかといえば哲学者といった知的なものを感じさせる人物だった。
 佐久間にポスターの話をするとやんわり断られた。残念だが、本人にその気がなければ無理強いはできない。その話は違う画家に依頼して何とか乗り切ることができた。
 そんな時、佐久間と関わる別の機会がやって来た。新しく誕生する公共施設の大規模なキャンペーンのために、できればショッキングな絵画が欲しいと施設を管理する企業から依頼を受けたのだ。
 いくつかの作家の絵を担当者に見せたが、いい返事はもらえなかった。予測可能な作品ばかりで面白味がないというのがその理由だった。予めショッキングを意図して描かれた作品にはそれ以上の驚きを感じることはなかった。
 そんな時、チーフの山崎が言った。
 「専務、佐久間中将はどうですか?」と。
 佐久間中将――。彼の作品『海辺の叙景』が脳裏に浮かんだ。
 「そうか、彼がいた」
 なぜ気が付かなかったのか、と俺は自らを責めた。
 そこで再び佐久間と会うことになり、佐久間の指定する喫茶店で待ち合わせをした。約束の時間は午後3時だったが、山崎と共に10分前に喫茶店を訪れると、佐久間はすでに到着してコーヒーを飲んでいた。
 金丸が今回の依頼の内容について話すと、意外にも佐久間は興味を示した。ただ、その際、彼から一つ注文が出た。
 「テーマは理解しました。ただ、自分の思うままに描かせていただけるなら描きましょう。制作期間は二週間ください」
 それが彼の注文だった。
 公共施設の担当者は、金丸の話に興味こそ示したが、出来たものを見てみないと結論は出せないと言った。
 二週間後、俺の元に佐久間中将から作品が出来た、と連絡があり、俺はすぐに山崎と共に佐久間の自宅へ向かった。
 佐久間の自宅は吹田市千里にある旧いマンションの一室だった。エレベーターもない五階建ての建物を上がった最上階の五階、十五室が並ぶその一角に佐久間の部屋があった。
 インターフォンを押すとドアが開き、三十代後半とおぼしき女性が顔を出した。
 会社名と名前を告げると、女性は「どうぞお入りください」と言ってスリッパを二人分用意した。
 3DKのそれほど広くない居間いっぱいに佐久間の作品が飾られていた。
その異様な作品群に俺と山崎は圧倒された。
 出来上がった作品は、光りと闇を表現しているようで、その色づかいとタッチが独特の生命感を生み出し、抽象画のようでいてそうではないリアルな写実の表現があった。何よりもその作品には人を飲み込んでしまうような闇の深さとショッキングな光りのざわめきが感じられた。
 胸の奥底から湧き上がるような激しい感動を覚えた俺と山崎は、早速、その作品を公共施設の担当者に持ち込んだ。
 担当者の驚きも一様ではなかった。彼も俺が感じたと同じ驚きと感銘を胸深く刻み込んだに違いない。
 だが、佐久間のその絵画が公共施設に飾られることはなかった。あまりにも特異過ぎるために担当者の上司に却下されたのだ。しかし、無駄にはならなかった。その施設の会長がその絵を見初め、佐久間の言い値で書い取ることになったのだ。
 以後、俺と佐久間の付き合いが始まった。だが、彼は、身辺のことについては一切話さず、過去の話もまた一切口にしなかった。俺は、佐久間とは二年あまりの付き合いになるが、それだけの付き合いにしか過ぎない。
 
 『深夜の貨物列車』に衝撃を受けた井森はその他の作品にも圧倒され、魅了された。
 それにしても不思議だったのは、『深夜の貨物列車』だ。あれはまさしく井森の夢の世界に頻繁に出てくる貨物列車に違いない。井森はそう確信した。
 井森は会場にいて、ひそかに佐久間と話す機会を待った。金丸が機転を利かし、それはほどなく実現の運びとなった。
 佐久間はその日、一日会場にいて、訪れる客と接触を持っていた。その間隙を縫って、金丸が佐久間に井森を紹介したのだ。
 「初めまして、出版社の編集長をしています井森公平と申します」
 挨拶をすると、佐久間も丁寧に挨拶を返した。佐久間は思っていた以上に気さくな人だった。作品を見る限り、変わり者で頑固な人物を想像していたが、そうではなかった。
 「出版社と言いますと、どんな本を出しておられるのですか?」
 「雑誌類は発行していなくて、主に書籍の類です。零細出版社ですからあまり自慢するほどの作品は発刊していません」
 と言うと、佐久間は微笑み、
 「大阪の文化のためにも頑張っていただきたいものですな」
 と井森の手を軽く握った。
 「実は――」
 佐久間の気さくな態度に接した井森は、彼の作品である『深夜の貨物列車』について、自分の夢に出てくる貨物列車と同じもので、不思議に思っていると伝え、そのことについて聞いてみた。
 すると佐久間は意外な言葉を口にした。
 「こんなことを言っても俄には信じて頂けないだろうが――」
 と前置きをして、彼は井森に言った。
 「あなたは、夢が生き物だということを信じますか」
 「夢が生き物――?  どういうことでしょう」
 「あなたの見るその貨物列車は現実に存在して、あなたのそばにいる。そのことを言っているのです」
 「――わけがわかりません」
 「人は皆、目に見えて、皮膚に感じるものにしかその存在を感じません。だが、人の目に映らない、皮膚にも感じることのできない存在がこの世にはたくさん存在します。夢を単なる夢と侮ってはいけないのです。夢は、時によって、目に見えず、皮膚にも感じないものを現してくれる大切な役割を果たします。夢には必ず意味があり、あなたが貨物列車の夢を見ることにも一つの大きな意味があります」
 佐久間は井森をじっと見つめてそう説明した。
 「普通の人には見ることのできないものが私には見えます。完全にとまではいきませんが、私は多くの人が見えない、感じることのできない存在を見ることができるのです。不思議に思うでしょうが、一般的に言われる霊感が私の場合、非常に強いのです。
 貨物列車はあなたが見えないだけで現実に存在します。あなたのそばだけでなく、さまざまな人のそばを通り抜けています。あなたのように、他の人はその存在に気付いていないだけのことです」
 井森は呆気に取られて佐久間の話を聞いていた。佐久間の話をどう捉えたらいいのだろう。見当が付かなかった。
 「私はその貨物列車を書き表したに過ぎません。ただし、あれを単なる貨物列車として見てはいけません。貨物列車の形態こそしていますが、実際はこの世に存在する貨物列車とその役割は大きく異なります。
 あなたが夢の中で見た貨物列車は、疲弊した人の魂を洗い清め、その汚れを運び出す役割を果たすものです。あなたが貨物列車の夢を見るということは、あなた自身が魂の汚れを切実に感じているからに他なりません」
 佐久間は井森にそれだけを伝えると、立ち上がり、もう一言、付け加えた。
 「私の絵は人に見えないものを描いているだけに過ぎません。それに衝撃を受ける人の大半は、あなたのようにどこかでそういった霊的な存在に出会っているからなのです」
 佐久間が立ち去った後、入れ替わるようにして金丸が井森の前に立った。
 「佐久間先生に話を聞いてどうだった?」
 金丸の質問に井森は即座に答えられず、「失礼するよ」と立ち上がってその場から去った。
 
 その後も井森は時々、貨物列車の夢を見た。そのたびに魂の汚れを感じ、どうするべきか自問自答した。
 そんなある日、佐久間中将は、突然、画壇から姿を消した。
 井森はその話を金丸から聞かされた。
 個展が開かれ、その後の反響が予想以上に大きかったことに佐久間が驚き、姿を消したというのがもっぱらの噂だと金丸は説明したが、井森はそうは思わなかった。
 霊感はずっと持ち続けられるものではないと、友人の霊能力者から聞かされたことがある。佐久間もきっとある日、突然、霊感を失った。それが原因で画壇を去ったのではないか。井森はそのように受け止め、佐久間の今後を想像した。霊感を失ったことに案外安堵しているのではないだろうか。井森はそう思い、一人苦笑した。
〈了〉
 

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