からみ酒

高瀬 甚太

 可愛い子供が持つような財布をズボンのポケットから取り出して支払いをする客がいる。それを目ざとく見つけた隣の客が、
 「お子さんの財布ですか?」
 と聞くと、その客は、微妙な表情を浮かべて、
 「そうなんです」
 と答える。いかにも子煩悩なその表情が寂しく歪むのを、隣の客も、また、そこにいる客たちのほとんどが気付いていなかった。
 
 酒の呑み方にもいろいろあるようだ。酒が好きで呑む人が大半だが、中には憂さ晴らしや辛いことを一時的にでも忘れたい、酔って悩みから解放されたい。そういう呑み方をする人がいて、そんな人は、酔うとよく荒れる。
 坂井明彦は、元来、酒には強くないのだが、えびす亭のような立ち呑み店に出入りをするのが好きで、毎日のようにこの店にやって来る。しかし、坂井はえびす亭ではありがたくない客の一人になっていて、店で歓迎されることがほとんどない。それは彼自身もよく理解していて、しっかり反省もするのだが、酔ってしまうとわけがわからなくなってしまう。
 坂井は、酒に酔うとやたらと人に絡む癖がある。京大出身ということもあって、普段から理屈の多い人間で通っているが、酔うとそれがさらにひどくなり、理屈をこねまわしてネチネチと人に絡む。絡まれた人間は最悪だ。せっかく美味しい酒を呑んでいるのに、わけのわからない理屈をこねまわし、一言でも発したら、待っていたとばかりに上げ足を取ってさらに絡む。坂井が傍に来ると逃げ出す客もいるほど、それはひどかった。マスターも、そんな坂井を注意するのだが、暴れるわけでもなく、大きな声を出すわけでもない坂井をそれほど頻繁に注意することができない。あまりひどい時は厳しく注意するのだが、後が大変だ。今度はマスターの言葉の上げ足を取って絡みまくる。えびす亭、最悪の客の一人であった。
 相変わらず店が混雑していたその夜、坂井が店にやって来た。坂井を知る面々は坂井を見ると近くに来ないように客同士、ぴったりくっついて寄せ付けない。困った坂井は、端の方に少し隙間があるのを見つけ、そこに立った。
 酔っぱらう前の坂井は、しごくノーマルな紳士で、人に絡むような素振りなどまったく見せない。見かけもインテリジェンス溢れる容貌で、知性に満ちた話し方をするので、どこかの大学の教授ではないかと勘違いするほどだ。
 坂井はビールを瓶で注文した。マスターは、大瓶とグラスを坂井の前に置きながら、
 「坂井さん、呑むのはいいけど気を付けてくださいね」
と一言、注意を与える。酔っぱらう前の坂井はとても素直なので、笑顔で「はい」と答える。グラスにビールを注ぎ、グイッと一息に空けた坂井は、ふと自分の隣にいる男性客に目をやった。自分と同じ年ぐらいだろうと思った坂井は、いつものように声をかけた。
 「この店にはよく来られるのですか?」
 この時点では、坂井はまだ正常なので、普通は聞かれた客の方も快く返事をする。だが、その客は、まるで聞こえていないように何も答えず前方を見つめ、黙していた。
 「私は毎日、この店に来ています」
 相手のことなどお構いなしに坂井は話し、二杯目のグラスをグイッと空けた。酒に弱い坂井は二杯目を空けるとスイッチが入る。
 「私、昭和四十年の生まれですが、お宅は?」
 隣の客は相変わらず黙したまま、静かに焼酎を呑んでいる。
 「耳が悪いのですか? それとも無視しているのですか? 私、こう見えても――」
 坂井が絡もうとするのを、坂井の服の袖を引っ張って別の客が止めた。
 「坂井さん、その人は止めたほうがいいですよ」
 酔った坂井は、聞く耳を持たない。別の客が止めるのを無視して、隣の男に絡みかける。
 「私はこう見えても中学校の教頭なんですよ。教育者なのです。その私の言葉を無視するなんて、あなたは一体何者なんですか?」
 男がジロリと坂井を睨む。
 「教頭がどないしたんや。わしを教育する? できるもんやったらやったらどないや」
 ドスの利いた声が店内に響く。よく見るとその筋の人のようである。服装も顔も――。
 さすがの坂井もこの時ばかりは一気に酔いが醒めた。酔いが醒めて、平身低頭、男に謝った。今度ばかりは坂井も懲りただろう。マスターを含め、坂井を知る全員がそう思った。ところが、酒の力とは怖いもので、懲りたはずなのに坂井はまたぞろ絡んでしまった。

 しばらく酒を控えていた坂井が久々にえびす亭にやって来たのは、一カ月後のことだ。坂井が入って来たのを見ると、客同士ぴったりくっついて隣に来ないようにブロックするのが常だが、その時、一カ月ぶりとあって客たちの誰もが油断していた。
 坂井は、前回のようなことがあってはいけないと、注意深く周りを見渡し、できるだけ安全そうな人を見つけて隣に立とうとした。
 いつもはブロックされて間に入るのに一苦労するのだが、この日はそれがあまり見られなかった。できるだけ気の弱そうな人がいい。できれば年齢は自分に近い方が望ましい。そんなことを考えながら、坂井は一人の客に目を付けた。ちょうど、その人の隣が空いている。目星を付けた人物の隣に滑り込んだ坂井は、いつものように、ビールを大瓶で注文した。
 一杯目のグラスを一気に空け、二杯目のグラスを空けたところで、坂井は隣の男のポケットから女の子、それも幼児が持つようなアニメキャラクターのキーホルダーが顔を出していることに気付いた。自分と同年代のおっさんが、可愛いキーホルダーを持っていることに気付いた坂井は酔いも手伝って男を冷やかした。
 「ロリコン趣味は病気の一種でっせ。こんな可愛いキーホルダーをして、あんた一体、いくつですねん?」
 絡まれた男は、朴訥な表情に寂しい笑みを浮かべて、坂井を見た。前回、これと同じシーンがあったな、と酔いの回った頭で坂井は考えた。だが、この男は服装もサラリーマン風で、容姿も中年サラリーマンの典型のような疲れた顔をしている。前回の男は見るからに筋もののそれだった。今度は大丈夫だ。坂井はそう思った。
 「何とか言ったらどうですか。私、こう見えても中学校の教頭で――」
 その瞬間、男が坂井の服の襟元を掴み、叫んだ。
 「中学校の教頭だと!」
 朴訥な顔が仁王のような形相に転化したのを見て、坂井は仰天した。血気に逸った男の顔は異常な雰囲気を漂わせていた。殺される――。坂井がそう思ったのも無理はなかった。
 店の客が数人、男と坂井の間に割って入り、事なきを得た。
 正常に戻った男は、マスターと店の客に深く詫びた。
 「いつも大人しく酒を呑んでいるのに一体、どうしたんですか?」
 マスターが男に聞いた。男はうつむいてすぐには答えようとしなかった。
 「そりゃあ、この人、坂井さんと言うんですけどね。この人も悪いですよ。でも、そこまで怒るというのは何か理由があるのと違いますか」
 マスターの言葉に男はようやく頷いて、自身のことを語り始めた。
 「私、山岡幸一郎と申します。実は今年の春、子供が交通事故に遭いまして、亡くなりました。三歳でした。私、結婚するのが遅くて、四十代後半になってようやくできた子供でしたから、それはもうかわいくて、目に入れても痛くないほどでした。アニメが好きな女の子で――」
 山岡は、堪えきれなくなったのだろう、大粒の涙を細い目から溢れさせた。
 「母親と一緒に買い物に出て、大好きなキャラクターの財布とキーホルダーを買ってもらった娘はウキウキとしていたのでしょう。スキップを踏みながら母親と共に歩いておりました。その時です。突然、車が突っ込んで来たのは――。子供は宙に舞って敢えなく幼い命を落としました。母親もまた、撥ねられて重傷を負い、病院に運ばれました。運ばれる途中、母親は、娘の名前を呼び続けていたそうです。幸い、母親は一カ月の入院で退院することができましたが、骨折した足は元通りにはならず、今も病院でリハビリを行っています」
 男の話を聞いて、もらい泣きする客が多かった。マスターは何度もタオルで涙を拭き、男の話に聞き入っていた。
 「娘を殺した運転手が中学校の教頭であったことを知ったのは、事故の後、数日経ってからのことです。教頭のその男は、事故を起こした後、飲酒運転がばれることを恐れて、逃走しています。逃走した男は、素直に自首するどころか、自分の立場を利用して、警察の幹部に罪を軽減してもらうよう相談していたことがわかりました。車のナンバーを控えていた人がいて、男は捕まりましたが、そこでも言い訳をして、悪いのは娘と母親だと警察に話しています。
 警察の調べで、男が教育委員会がらみのパーティーで昼間から飲酒し車を運転していたことがわかりました。しかも目撃者の話によれば、法定速度をはるかに超えた速度で運転していたこともわかりました。その男は、娘を殺され、妻に重傷を負わされた私に向かって、『私は教頭で、しかも教育委員会の重鎮だ。女の子と母親が普通に歩いていたら事故は起こらなかった。私は被害者だ』みたいなことを言うのです。歩道に突っ込んでおきながら、娘の命を奪った男を私は殴りました。
男を殴った私も悪かったのですが、教育者面をした男の言い分に我慢ができなかった。男を殴った私を、事情を知っている警官は不問いにしましたが、事故を起こした張本人は、2013年に制定された「自動車運転死傷行為処罰法」によって、懲役十二年の実刑判決が下され、現在、交通刑務所に収監されています。隣に来たこのお客さんが、『私は教頭だ!』と言うものですから、思わず――、申し訳ありませんでした」
 話を聞いていた坂井は、お金を払うとすごすごとえびす亭を後にした。山岡もまた、マスターに謝罪を繰り返しながら、多分、亡くなった娘の持っていたものであろう財布を開けて、支払いを済ませると、肩を落としてえびす亭から去った。

 翌日も坂井は懲りずにえびす亭にやって来たが、口癖である、「私は教頭だ」の言葉は決して口に出さなかった。しかも、どんなに酔っても人に絡むことは一切しなくなった。
山岡もまた、当然のように翌日から再びえびす亭にやって来た。山岡の酒は静かな酒である。一人静かに呑んで一人静かに酔う。しかし、その彼の呑み方が、坂井とのトラブル以来、少し変わった。積極的に隣の客に話しかけるようになったのだ。悲しみを鎮める酒から、楽しく酒を呑む、呑み方に変わったのである。
 酒は呑み方によってずいぶん変わる。娘を失った山岡の悲しみは、一生消えることのない悲しみだ。だが、悲しみに打ちひしがれていては、いつまで経っても酒の味は苦いままだ。悲しみを乗り越えて、強く生きるためにも酒を楽しく、美味しく呑まなければならない。それを山岡は、自分の身の上を話している途中、悟ったようだ。
 酒の呑み方は、また、人生を変える力も併せ持つ。仕事の上でも精彩を欠いていた山岡は、えびす亭で話したことで吹っ切れたのか、翌日から打って変わって明るく仕事をするようになった。同時にそれは山岡の妻にも好影響を与えた。山岡の妻もリハビリを続けながら在りし日の娘を思い出して涙を流さない日はなかった。夫も同様であったため、二人してふさぎ込んでいる間に、足は一層悪化した。だが、山岡が明るさを取り戻して以来、妻もそれにつられて元気になった。
 逆に坂井は暗くなった。えびす亭にやって来ても、ビールの小瓶を頼み、それを空けるとすぐに店を出た。絡むこともなく、人に話しかけることすらなくなった。山岡の娘が被害に遭った、教頭の交通事故が尾を引いているように思えた。
 坂井はずっとエリートコースを進んできた。挫折知らずのまま、有名中学の教師になり、三十代後半の若さで教頭に抜擢された。教頭といっても小さな中学の教頭ではない。マンモスと評される私立高校の教頭である。教育者として頭角を現した坂井であったが、ずっと心の中でくすぶり続けているものがあった。
中学では、教育者としての仕事よりも学校経営の仕事に追われ、教育の現場に身を置くことが少なかった。本来は、勉学のみならず子供たちの心を育て、愛情あふれる教育の実践を目指していたのだが、マンモス私立中学にスカウトされる形で赴任してからは、経営に偏らざるを得なくなり、いつしか、教育者としての自覚より、経営者としての自覚の方が強くなっていった。やたらと威張るようになったのは教育者としての自覚を失ったせいだと坂井は反省した。
 山岡の事故の犯人は、自分そのものではないかと、山岡の話を聞きながら坂井は思った。自己保身に走り、自分のこと以外、世間が見えていない。自分が世界の中心であるような錯覚を起こし、権力を嵩にきて他を威圧する――。
 程度の差こそあれ、酒を呑んで人に絡むのも、自分の力をひけらかして、相手を追い落としたい欲望の現れだ。そのことを坂井は痛感した。
 えびす亭の人たちは、そんな自分を大きな心で受け止めてくれた。嫌われはするけれど、これまでほとんどトラブルなく来れたのは、そのおかげだ。
もっと美味しい酒を呑みたい。坂井はあの事件以来、そう思うようになった。だが、酒に強くない自分にはそれができない。呑むと人に絡みたくなる癖は、なかなか直せそうにない。我慢して、そうなる前にえびす亭を去るのだが、欲求不満が高じて、ストレスが溜まる。
 坂井が再び山岡と遭遇したのは、事件の後、一週間後のことだった。坂井がえびす亭に入ると、
 「坂井教頭、こっち、こっち。こちらが空いていますよ」
 声をかけられたので、坂井が声のした方向を見ると、山岡が立っていた。坂井は、人が変わったように山岡が明るくなっていることに驚き、しばらく呆然として入口に突っ立っていた。
 「坂井教頭、何しますか?」
 と聞く山岡の声に我に返り、坂井は思わず、
 「ビール、小瓶でお願いします」
 と言った。
 山岡の隣に並ぶと、坂井は自分がちっぽけにみえるような気がして仕方がなかった。山岡は悲しみのどん底から這い上がりかけている。それに比べて自分はどうだ。悶々と悩み続けている。
 「教頭、どうしたんですか? 元気がないですよ」
 山岡の言葉に、坂井は素直に反応した。
 「山岡さん、私、反省したんですよ。この間、山岡さんの事故の話を聞いて、その後、感じることが多かった」
「反省するのもいい、感じるのも悪くない。だけど、ご自分を責めてばかりいてどうするんですか。以前の教頭がどうであれ、問題は今、そしてこれからの教頭です。何より大切なことは、酒を楽しく呑むこと。これに尽きます。楽しく酒を呑めない人に、酒を呑む資格はない。私はそう思いました。だから今は、常に楽しく酒を呑むよう心掛けています」
 思い詰めた表情で静かに酒を呑んでいた山岡と、今の山岡の急激な変化が信じられなかった。
 自分はなぜ酒を呑むのか――。坂井は自問自答した。酒に強くないのにえびす亭に足しげく通うのはなぜか――。答えは簡単に出た。えびす亭が好きで、弱いけれど酒が好きだからである。
 「教頭、乾杯しましょう。いろいろあるでしょうけど、ここでは楽しく酒を呑みましょう」
 山岡の付き出したグラスに、坂井は自分のグラスを当てた。カチン! と音が鳴って、ビールが揺れた。
「 乾杯!!」
山岡の声につられて、周囲から同時に「乾杯!」の声が上がった。坂井もまた、「乾杯」と少し控えめな声で言った。山岡のようにすぐには変わらないかも知れないが、自分もまた、少しずつ変わって行こう、坂井はビールを喉に流し込みながらそう思った。
 経営者としての教頭ではなく、教育者としての教頭を欲する学校があれば、そこに移ってもいい。そうすればストレスも少しは軽減されるかも知れない。二杯目のビールを流し込みながら坂井はそう思っていた。
小瓶はあっと言う間になくなった。空になったグラスに、隣の客がビールを注ぐ。
 「酔っぱらうのはいいけれど、絡むのはやめてくださいね」
 隣の客が笑いながら言う。
 「いや、わかりません。絡んだら遠慮なく叱ってください」
「叱 ったらやめてくれるんですか?」
 「多分、多分、やめないと思いますが、それでもまた叱ってください」
 坂井の言葉に、隣の客が笑った。つられて山岡も、マスターさえもが笑った。
<了>


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