因幡伝説 悪夢の無人島 後編

高瀬甚太
 
 早朝3時に目を覚まし、午前4時の出発に備えた。窓を開けると、漁師船が港に停泊し、沖に数隻、漁をしている船の灯りが見えた。潮のざわめきが耳に届き、岸壁に打ち寄せる波の音が荒々しく届く。まだ陽は昇っていない。
 午前3時半、ドアがノックされ、ドア越しに島田の妻、みどりの声が聞こえた。
 「井森さん、もうすぐ出発します。ご用意ください」
 「大丈夫です。もう起きていますから」
 答えると、みどりは、
 「午前3時40分になったら下へ降りていただけますか」
 と言い、階下へ降りた。
 約束の時間に階下へ降りると、島田とみどりの二人が、出発の用意をして待っていた。
 私とみどり、それに因幡島へ運ぶ荷物を積んだ車は、予定通り午前3時50分に出発した。
 港へ着くと、島田は、停泊させていた自家用のフェリーボートに乗り移り、みどりと私を乗せて、午前4時、ちょうどに港を出た。
 「潮の加減がありましてね。一日に三度、因幡島の周辺の潮流が和らぐ時間があります。その時間を狙って島へ入るのですが、その時間を逃すと、島へ入ることはできません。午前5時20分がその時間帯で、後は、午後3時5分と午後8時10分です。一番いいのが朝の時間帯で、午後の時間帯は、その日の天候に左右され、潮の流れが変化することが度々あります」
 フェリーボートを運転しながら、島田は私に説明をした。
 午前5時を過ぎると、水平線に朝日が顔を覗かせ、外景がみるみる明るくなっていった。日本海の海上は予想した以上に荒く、その波に翻弄されるようにしてフェリーが突き進んだ。
 1時間少し進んだところで、正面に島が姿を現した。意外に大きな島であった。緑も深く、とても無人島のようには見えなかった。
 「あれが因幡島です。因幡島が悪霊の島と言われる所以が、もうすぐわかります」
 島田が因幡島を指さして意味ありげに語った。
 朝日が昇り、島が明るく輝いて見えた。悪霊の島などとは到底思えない素晴らしい島だ。
 「少し揺れますから、気を付けてください」
 島田はそう言って大きくハンドルを切った。島の周りの潮流が激しくうねりを繰り返している。そのまっただ中へフェリーは突っ込んで行った。
 海面は見た目以上に荒れていた。潮の流れが非常に早く、島が近づくにつれてそれは顕著になった。しかし、その波の中に一本のラインを見つけると、フェリーはスーッと島へ一直線に島に近づいて行った。
 「この時間になると、潮流が大きく変化し、その潮流の合間に一本のラインができます。このラインは、先ほども申しましたように、一定の時間が過ぎると消えてしまいます。もう少ししたら、このラインは消えてしまい、荒い潮流に呑みこまれてしまいます」
 島田はそう説明をし、「この島の人間以外、このラインを見つけることはできません。島で生まれ、育った人間にしかわからないラインです」と語った。
 島には港のようなものは存在しなかった。ただ、少し入り江になった場所があり、そこへフェリーを入れて停泊させると、島田はゴムボートのようなものを出し、それを膨らませて海面に落とし、私に乗るように勧め、荷物を積み込んだ。みどりと島田が乗り込み、浜辺に近づいたところで、私はボートを降りた。
 入り江には一隻の船も停泊しておらず、人影もなかった。犬一匹、動物の影すら見えず、無人島らしい雰囲気に満ち溢れていた。
 「浜辺を抜けると、森の中に入ります。森の中へ入ったら注意してください。何かに足を取られるようなことがあっても決して慌ててはいけません。足を取られたらじっと動かずにそのまま待ってください。そうすれば大丈夫ですから」
 島田の言葉が理解できなかった。確かに浜辺の向こう側にはかなり深い森があった。あの森の中に何かが存在するというのか、信じられない思いで、私は島田とみどりの後に続き、遅れないように森の中へと入って行った。
 森の中に道はなかった。ただただ深い森である。木々が立ち並び、その合間にぎっしりと、今まで見たこともないような大きな葉が大量に生い茂っていた。一人でこの島へ来たら、おそらく満足に前に進むことなどできないだろう。島田とみどりの後を必死になって追いかけた。
 しばらく森の中を歩いているうちに、足が動かなくなった。前へ進もうと思っても、足が上がらず、もう片方の足も何かに掴まれているようでまったく動かない。島田が言った、「何かに足を取られても決して慌ててはいけない」の言葉を思い出した私は、恐怖に体を震わせながらもじっと身動きせずにいた。
 私の様子に異変を感じた島田とみどりは、歩みを止めて、じっと私を見つめ、動いてはいけないと身振り手振りで示した。
 生暖かい感触が足に伝わってくる。何だろうこれは? 恐怖に駆られながらも、私は足を捕まえているモノが普通の生物ではないことを感じ取った。これが悪霊の正体か、そう思ったほど、それは不可思議極まりない感触だった。
 時間にして5分ほどだっただろうか。しかし、もっと長時間のようにも感じられたそれは、やがて、静かに消えた。足が上がり、歩くことに支障を感じなくなった私は急ぎ足で島田に追いついた。
 「大丈夫ですか? でもよくじっとされていましたね」
 と島田が私を称えると、みどりが、
 「たいていの人は、足を捕まえられるとパニックになって、大暴れして、連れて行かれてしまうんですよ」
 言った。
 「連れて行く? どこへですか」
 と尋ねると、みどりは、
 「黄泉の国です」
 と、簡単に言ってのけた。
 黄泉の国――。みどりの言葉が信じられず、私は思わずその言葉を復唱した。
 「日本神話で表現される死者の国です。黄泉の国に連れて行かれた者は二度と戻ってくることはありません。よく無事でおられたと感心しました」
島田は私にそう説明をした。
 「この島には、他にもたくさんの悪霊が存在し、隙あらば黄泉の国に引っ張り込もうと画策しています。気を付けてください」
 背筋の凍る思いがして、辺りを見回した。しばらく歩くと、森の向こう側に光が見えた。どうやらこの森はもうすぐ終わりを告げるようだ。
 フェリーから眺めた島の形は、なだらかなフタコブラクダのような山を中心に、四方に深い森があるように見えた。森を抜けると山に近づくのか、鴻上のいる人家はどこにあるのか。そんなことを考えているうちに、いつの間にか、森を抜け、見晴らしのいい場所に出た。
 「この島を普通の常識で考えてはいけません。明るい場所に来たからといって、悪霊が出ないなんてことはないのです。ここからしばらく草原地帯が続きますが、目の前に何か意外なものが現れても、決して驚いてはいけません。微動だにせず、無視して歩き続けてください。そうしないと、黄泉の国に引っ張り込まれてしまいます」
 潮風が肌に心地良く、清々しい香りさえする一帯である。草が生い茂る平和な草原にいったい何が起こるというのか。信じられない思いで、ひたすら島田夫婦の後を追った。すると、誰かが井森を呼ぶような声が聞こえた。
 「公平や、公平」
 亡くなった祖母の声がした。振り返ろうと思ったところで、私は島田の言葉を思い出した。
 なおも私の名を呼ぶ声が聞こえた。祖母は、十年前に亡くなっている。私の大好きな人だった。やさしくて、温かくて、常に大きな愛で包んでくれた人だった。
 「公平、なぜこちらを向いてくれないんだい?」
 祖母が悲しい声を上げた。思わず、後ろを振り返りそうになった。しかし、寸でのところで、その思いをこらえた。私はひたすら前を向き、歩き続けた。
 やがて祖母の声が遠のいた。ホッとしていると、今度は目の前に祖父が現れた。すごい剣幕で私に近づくと、
 「ばあさんが呼んでいるのになぜ、返事の一つもしてやらないのじゃ」
 と怒鳴るようにして言う。祖父と目を合わせないように注意しながら私は前に進んだ。
 「公平、こっちを見ろ、わしの顔が見れんのか!」
 厳格な祖父は、私をいつも叱った。子供の頃、祖父によく怒られたことを思い出し、ふと懐かしい気持ちになった。思わず、祖父の顔を確かめようとしたところで、慌てて自制した。
 祖父はなおも私を叱り続けた。その声の懐かしい響きに胸が痛んだ。
 祖父の声が遠ざかると思わず安堵した。もう少し声が続けば、私は祖父に返事をしたかも知れなかった。
 「よく我慢できましたね。島以外の人間でここまで来れたのはあなたぐらいなものだ」
 草原が終わりに近づいた頃、島田が私に言った。私は思った。ただ、運がよかっただけなのだと――。
 「鴻上の住まいは近いのですか?」
 島田に尋ねると、島田は、
 「難関がもう一カ所控えています。それを超えれば、安全な場所に行き着きます」
 と言った。井森は思わず、
 「もう一カ所?」
 と聞き返した。次に何が起こるのか、まるで見当が付かなかったからだ。
 「森を抜け、草原を抜けると花畑があります。その花畑は人が育てたものではありません。悪霊たちが育てた花畑です。そこを抜けると安全地帯に入ります。頑張ってください」
 「花畑では、どんなことが待ち受けているのですか? 不安で仕方がありません。教えてください」
 私の問いに島田は答えなかった。答える代わりに、島の説明をした。
 「悪霊たちは、昔からこの島で生まれた者、育った者、その血筋を引き継ぐ者に対しては寛容で、何もしません。しかし、この島に無縁の者がやって来ると、悪霊たちはあらゆる手段を講じて黄泉の国に引っ張り込もうとします。草原までの間でほとんどの人が悪霊に黄泉の国に誘い込まれ、消えてしまいます。花畑までたどり着いた者はおらず、私たちも、何が起こるのか見当が付きません」
 見たことのない花々が辺り一面に咲き乱れ、この世のものとは思えない美しさを醸し出していた。静かだった。何も起きないのでは、私はそう思った。温かな光が降り注ぎ、柔らかな風に包まれ、悪霊の存在などすっかり忘れていた。
 その時、一輪の花びらが飛んできて、私の服に絡みついた。振り返った島田が、私に向かって大声を上げた。
 「その花びらに触ってはいけません!」
 もう少しでその花びらをつまむところだった。思いとどまって、花びらを そのままにしておくと、しばらくして花びらが音を立てて消えた。
 これで悪霊の魔の手から逃れる、そう思った時のことだ。咲き乱れていた花の大群が、一斉にスルスルと蔦を伸ばし、私の体に巻き付いてきた。何という力だ。万力に締め付けられるような苦しみを覚えたが、私は一切言葉を発しなかった。
 足と言わず、腰、腕、首、あらゆるところに蔦が絡みついてくる。気が遠くなるのを感じながらそれでも私は我慢した。数分間のことだったと思うが、数時間のようにも感じられた。締め付ける力が少し弱まったかなと思って目を開けると、蔦はいつの間にか消えていた。
 「よく頑張りました。あなたはやはり只者ではありませんね」
 近づいてきた島田が、感心したように私に言った。私が蔦に絡まれ締め付けられるのを見ても、どうすることもできなかったと詫び、
 「もう大丈夫です」
 と島田は私の肩を叩いて言った。
 花畑を過ぎると、まるで何かに護られるようにして草花に覆われた田畑が見えた。その田畑の中に数軒の家があった。地上から見ても、ここに人家があるとは決して気付かないだろう。数軒の家はすべて草花に覆われ、人の住んでいる気配さえしなかった。
 「鴻上さん」
 島田が大きな声で鴻上の名を呼んだ。しばらくして、人家の中から人が姿を現した。鴻上だった。鴻上は私を見つけてひどく驚いた表情をみせた。
 「井森、どうしたんだ? こんなところまで来て」
 髪の毛を肩まで伸ばし、顔の半分が髭で覆われていたが、私には鴻上であることがすぐにわかった。
 「お前の無事を確かめたくてやって来たんだ。みんな心配しているぞ」
鴻上は、私に会えたことがよほど嬉しかったのだろう。私の手を何度も固く握りしめて、
 「すまなかった。連絡もせずに」
 と謝った。
 「それにしてもよくここまで来れたものだ。奇跡としか言いようがない」
 鴻上は、首をひねって何度も私の体をつついた。それほど不思議なことだったのだろう。あの悪霊の地を乗り越えてきたことが――。
 「鴻上、一緒に帰らないか」
 私が言うと、鴻上は一瞬、沈黙した後、
 「もう少し先のことになる。それまではこの島を離れられない」
 と話した。
 「どういう意味だ?」
 私が尋ねると、彼は島田を見て、話してもいいか、と合図した。島田が頷くのを見て、鴻上が話し始めた。
 「島田さんに聞いて知っていると思うが、この島は呪われた島だ。島の住民か、島の血を引く人間以外、この島に足を踏み入れることができない。古代神話の研究家や、民俗学の研究者など、これまでありとあらゆる本土の人間がこの島へやって来たが、すべて悪霊たちに取り込まれ、黄泉の国へ連れて行かれた。彼らは誰も悪霊の存在など信じなかった。散々警告をしたのだが、信じないゆえに命を失った。
 この土地はいずれ滅びる運命にある。それも時間の問題だろう。この島に住んでいるのは、今はもう七名の老人だけだ。井森の祖父母と島田の祖父母、そして後三人。しかし、その七人の寿命も尽きかけようとしている。私は、彼らの運命とこの島の運命を見守ってそれを映像に残し、この地を去ろうと思っている。多分、この地に残る人間は私が最後の人間になるはずだ」
鴻上は静かに語り、空を仰いだ。
 晴れ渡っていた空がにわかに曇り、一面が灰色の雲に覆われた。不吉な雲だと思った。
 島田が言った。
 「井森さん、私たちも鴻上と共に、この島の運命を見守ります。鴻上は、この島の全貌を写真に撮り、私たちは、因幡島が存在したことを細々と伝えて行きます。因幡島は、古代神話の世界から生まれ、呪われた島となりましたが、古来からこの地に住む者は、誰もが悪霊と共生して生きてきました。悪霊と共生など不思議に思われるでしょうが、本土の人間の思想や知能などはるかに及ばないものがこの島には存在します。それは井森さん、あなたも充分体感したはずです。
 私たちは、あなたがこの島へ行きたいと言った時、あなたをこの島へ連れて行っていいものかどうか、躊躇しました。しかし、あなたの鴻上さんに対する強い友情を感じ、案内しましたが、まさかここまでたどり着けるとは思ってもいませんでした。
 ――あなたを見て思いました。この島を興味本位に捉えたり、研究したり、よこしまな思いを持って島を訪れた者は、悪霊たちに取り込まれてしまうが、鴻上さんに会いたい一心でやってきたあなたを、悪霊たちは強く取り込まなかった。危険はあったが、こうしてあなたは生きている。奇跡だと思いました。それを見て、私たちの思いを伝えてくれるのはあなたなのかも知れない。そう思いました」
 島田は、暗くなったらさらに危険になると言って、私をこの島から脱出させると言った。鴻上もそうしろと言って私の体を押し、いつか必ず帰るから、と私の耳元で囁いた。
 「必ず帰って来いよ」
 私の言葉に、鴻上は笑顔で頷いた。その表情を見て安堵した。きっと帰って来る、そう信じることができたからだ。
 帰り道、行きと同じ道を通っているのに、不思議と悪霊には出会わなかった。ゴムボートで入り江に停泊させていたフェリーに向かい、乗り込むと、島田は、
 「急がないとラインが崩れる」
 そう言ってエンジンをフル回転させて荒海に向かった。多少の揺れと、上 下の振動はあったものの、フェリーは島の海域を無事乗り越えた。
 振り返ると、島は灰色の雲にすっぽり覆われ、今にも消えそうなほどに儚げだった。
 
 島根県を離れ、大阪に着いた後、私は幾度となく悪夢に襲われた。島で遭遇した悪霊たちが私にとり憑いていたのだろうか、そう思ったが、一週間も経つと悪夢を見ることはなくなった。
 鴻上からの連絡はなかった。島田からの連絡も途絶えたままだ。松江港にほど近い島田の店、『因幡島』にも電話をしたが、『使われておりません』の機械音が連呼されるのみだった。
 しばらくして私は、鴻上のことも島田のことも、因幡島のことでさえ、頭から離れてしまうほど多忙になり、息つく暇もないほど仕事に追われた。ようやくその忙しさから解放されたのが、三カ月後のことだ。
 それを待ち受けていたかのように、私の元に小荷物が届けられた。
 差出人は、「鴻上正二」となっていた。慌てて小荷物を開くと、中から大量の写真が出てきた。鴻上が撮影した、因幡島の写真だった。
 青い海、緑の草原、鬱蒼とした神秘的な森の中、花畑――。井森の見知った風景が美しく華麗に撮られていた。悪霊の存在などかけらも感じさせない島の風景だった。
 日本にこんな場所があるのか、そう思わせるほど、その写真は素敵なものに仕上がっていた。
 だが、何枚もの写真を見ているうちに、徐々に景観が変わって行くことに気が付いた。晴れ渡った空は厚い雲に覆われ、森は暗黒を象徴するかのように陰鬱に移り変わり、花畑はどぎつい色彩に覆われて行った――。
 葬儀の風景が続き、一人、二人、三人と葬られ、やがて七人の棺が並んだところで、その棺を花びらの大群が覆い尽くした。奇妙な光景が続いた後、棺が埋葬される写真が映し出される。それと共に、島全体がすっぽり厚い雲に覆われ、海面から姿を消した。
 まるで大河ドラマでも見るかのように島の一生が描き出され、島の消滅と共に、写真も終わった。手紙が入っているかと思い、探してみたが、写真以外何も入っていなかった。
 私は、鴻上の撮ったその写真を『因幡島』とタイトルを付け、1冊の写真集にして世に出すことにした。写真集は、撮影した鴻上の力量もあり、たちまち評判になった。多くの問い合わせが極楽出版に届き、その大半が、因幡島の場所を教えてほしいというものだった。
 その問い合わせに対して、私は答えることをしなかった。無に徹し、良ければあなたの力で探し出してほしいとだけ伝えた。
 写真集は思いのほか、よく売れた。しかし、印税を払おうにも鴻上は相変わらず消息不明で連絡先さえわからなかった。
 一年ほど経った夏の日の夜のことだ。事務所を訪ねてきた人物がいた。
白髪頭の相当の年齢を感じさせる老人だった。老人は、ドアを開けた私に、
 「井森編集長でいらっしゃいますか」
 と尋ねた。
 「そうですが――」
 と答えると、老人は、
 「鴻上が本にしてくれたことを喜んでいます」
 と言った。
 「鴻上のお知り合いなんですか? 鴻上は元気にしていますか」
 矢継ぎ早に尋ねると、老人は、
 「二、三日したらあなたの前に姿を現します」
 と答えた。しかし、鴻上との関係は何も語らなかった。それだけ言うと、老人は、役目が済んだとでもいうように、「それでは失礼します」と言って席を立った。
 ドアを閉める間際、老人が思い出したかのように、
 「井森編集長、因幡島は悪霊と人間が立派に共生した島でした。それをあの写真集が見事に表現しています。しかし、島が消滅しても、悪霊が消えたわけではありません。悪霊は土地に棲むのではなく、人の心の闇が作りだすものですから――」
 と言って笑い、静かにドアを閉めた。
 呆然と老人を見送りながら、私は老人が一体何者であるかを考えていた。思い当たる人物がいなかった。ただ、鴻上が無事だと知らせてくれたのは嬉しかった。二、三日したら鴻上が現れるとあの老人が言った。その言葉を信じて、私は鴻上がやって来るのを心待ちにして待った。
 写真集『因幡島』は相変わらずよく売れた。ベストセラーというわけではなかったが、好調な売れ行きを示し、増刷をしなければならないほどの状況に陥った。初版が3000部で、それが完売間近となった今、井森は1000部の増刷を考えていた。
 
 ――その日、朝からひどい雨に見舞われた私は、取材予定を変更して事務所で仕事をすることにした。昼近くになって、インターフォンが鳴った。時計をみると午前11時10分だった。
 ドアを開けると、薄汚れた服を着た、髭で顔が覆われた男が立っていた。
 「極楽出版ですが――」
 と答えて訪問者を見たが、訪問者はドアの前に突っ立ったまま無言でいる。
 不審に思って、もう一度、「極楽出版ですが」と名乗ろうとしてハッとした。
 「鴻上、鴻上か?」
 井森は声を上げて、訪問者に言った。髪の毛も顔も、伸び放題で浮浪者のような風体の男は、無言のまま一切返事をしなかった。
 因幡島で会った鴻上は、髭も髪も伸び放題であったが、鴻上であることがすぐにわかった。しかし、今、目の前に立つ男を見ても、鴻上だという確信が持てなかった。だが、鴻上であってほしいという秘かな願望が私の中にあった。
雨が激しく音を立てて降っていた。稲光が周囲を照射し、しばらく間をおいて雷鳴が轟いた。訪問者はようやく顔を上げ、井森に言った。
 「私は、鴻上ではありません。鴻上さんに頼まれてやって来たものです」
 小さな、しかし、落ち着いた物腰の声だった。とても男の声とは思えず、誰かが男の姿を借りて話しているのでは、と思ったほどだ。
 「鴻上に頼まれてやって来た?」
 尋ねると男は、
 「そうです。鴻上さんは本日、こちらを訪れる予定でしたが、急に来れなくなりました。それを伝えるために私がやってきました」
 と風体に似合わない小さな声で話した。
 「鴻上はなぜ来ないのですか?」
 私が聞くと、訪問者の男は、言葉すくなに、
 「鴻上さんは本日未明、亡くなりました」
 と声のトーンを落として言った。
 「鴻上さんは、昨夜から発熱し、高熱が元で肺炎を併発して、本日未明、島田様ご夫婦に見守られながらこの世を去りました。つきましては鴻上さんから井森様へ遺言があります」
 雨はなおも激しく降り、稲光が辺りを照射し、雷鳴がそのたびに轟いた。私は呆然とした面持ちで訪問者の男の話を聞いた。
 「一つは、写真集の件、ありがとうございました。感謝していると伝えてほしい、と言うことと、二つ目は、印税についてですが、因幡島基金として、世の中のために役立ててほしいということでした」
 「わかりました。印税についてはお約束します。鴻上が亡くなったと聞きましたが、私には信じることができません。また、本当に亡くなったのであれば、遺体と対面したいのですが――」
 老人の出現といい、今日の男の出現も含めて、彼らをみて私は不可思議な思いに駆られていた。鴻上の代弁者を名乗っているのに、彼らに何ら存在感を感じなかったからだ。
 「印税のお約束確かに承りました。ありがとうございます」
 訪問者はそれだけ言うと深く頭を下げた。その瞬間、稲光が辺りを明るく照らし出し、大地を揺るがす雷鳴が激しい音を発した。どうやらこの近くに落雷したようだ。
 雷鳴に気を取られているうちに、訪問者はいつの間にか姿を消していた。鴻上の遺体はどこにあるのか、それを聞き忘れたと思い、後を追いかけたが、男はかき消えるようにして姿を消し、見つけることはできなかった。
 鴻上はなぜ姿を現さないのか、なぜ、訪問者が鴻上の意志を告げにやって来たのか、その思いはすぐには消えなかったが、私は訪問者に依頼されたように、印税で因幡島基金を作り、それを寄付する手立てを整えた。1冊当たり三八〇〇円、初版3000部の印税が定価の一割であったため、総額で一一四万円の印税が発生した。増刷するとなればそれはさらに増える。
 その時になって私は初めて、囃子への報告を怠っていたことに気が付いた。なぜ、今まで思い出さなかったのか、それもまた、不思議であった。
 囃子にもらった名刺のアドレスに電話をかけるが、かからなかった。不通になっていたのである。『現在、使われておりません』の声が空しく響いた。
 今回の話の出所は、囃子である。囃子の頼みを受けて因幡島に向かった経緯がある。忙しさにかまけて囃子への報告が遅れたが、写真集の存在をすでに囃子は気付いているはずだ。それなのにどうして連絡をして来ないのか。気になった私は、カメラマンをしている囃子の所在を確認するためにさまざまな場所に連絡を取った。
 三日ほど経って、囃子と一緒に事務所を経営していた真田雄平という男に連絡が取れた。
 真田雄平に会い、囃子の所在を尋ねると、真田はひどく驚いた顔をして、
 「どうしてですか?」
 と井森に尋ねた。
 井森は、囃子に偶然出会い、因幡島へ行ってもらえないかと頼まれたことを真田に話して聞かせた。それを聞いた真田は、沈鬱な表情で私に語った。
 「井森さん――、囃子は三年前に島根の海で亡くなっています。編集者と島の撮影に出かけたまま、遭難し、遺体こそ見つかっていませんがほぼ死亡が確認されています。編集長が会われた囃子はどんな様子でしたか?」
 井森は、商店街の古本屋で出会い、喫茶店でコーヒーを一緒に飲んだ時の様子を真田に話して聞かせた。
 真田は「信じられない――」という言葉を繰り返し、何度も首を振って、まるで怖いものにでも出会ったかのように青ざめた表情で私の元を去った。
私は囃子の亡霊に会っていたのだろうか――。いや、そうではない。私が会った囃子は断じて亡霊などではなかった。何度もそうつぶやいて信じ込もうとしたが、無理だった。
 私はその時、改めて思った。因幡島の存在だけが真実で、鴻上の存在も島田夫婦も、すべてが何者かに仕組まれたものではなかったのかと――。
 考えれば考えるほどわからなくなっていた。ただ一つ、確かなことは、写真集『因幡島』が確実に存在し、それが多くの人に受け入れられているという事実だ。
 その後、鴻上の存在は不明のまま、死んでしまったのか、今でもどこかで生きているのか、それすらわからないまま、時が過ぎ、以後は怪しい訪問者も訪れなくなった。ただ、その時以来、私は時々、悪夢を見るようになった。その悪夢のすべてが因幡島で出会った悪霊たちの出現で、目覚めてホッと胸を撫で下ろすことがあった。
 写真集はなおも売れ続け、因幡島基金はすでに一千万円を突破した。世の中の恵まれない人のために多少は役に立っているようで、彼もきっと喜んでいるだろうなと、鴻上を懐かしく思い出すことがその後も度々あった。
〈了〉


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