ストーカーが死んだ

高瀬 甚太
 
 絵里香のように悲しい目をした女性を未だかつて見たことがない。
 絵里香は二四歳、自称服飾デザイナー。山口県の出身で地元の高校を卒業して関西の短大を卒業したと聞いている。
 短大を卒業した後、そのまま関西に居着き、商事会社に就職、一年後に退職し、服飾デザイナーの有賀由紀子に師事、この春、独立したばかりだ。
 「暗い子だったわね。何を考えているかわからないところがあって、女性としての魅力に乏しかったように思うわ。デザイナーとしての腕? 資質はあったわね。でも、どうかしらこの道で食べていけるほどではなかったと思うわ。まだまだ修行が必要だわね」
 師匠である有賀由紀子の絵里香を評する言葉にはどことなく棘があった。多分、彼女は有賀に好かれていなかったのだと、その時、思った。
 「絵里香? ええ、短大時代、よく遊んだわ。友だち? 友だちといえばそうだけど、それほど深い仲ではなかったわ。短大を出て疎遠になったしね。どんな子だったかって?
 そうね、口数は少なかったわね。あまり笑わなかった。ボーイフレンド? ボーイフレンドと呼べるかどうかわからないけれど、一人いたわね。灘阪くんといったかしら――」
 絵里香の学生時代の友人、斎藤やすみの証言だ。斉藤の証言に基づいて灘阪という男性を捜し、証言を得ることができた。
 「絵里香ですか。ぼくは振られました。三年前、彼女が会社を辞める時、告白したんですが、好きな人がいると言われて――。彼女のことですか? 今でも好きですよ。無口だけれど、かわいくて、芯のしっかりしたところがありました。もし、彼女に会うことがあったら、ぼくが待っているよと伝えてください」
 灘坂の証言に基づいて、絵里香の好きだった男性が判明した。
 絵里香が好きだったのは、小西誠二、四二歳の既婚者で外資系の商社に勤めるサラリーマンだった。
 「絵里香? ああ、かわいい子だったですね。ぼくを好きだったって? 光栄ですね。でも、ぼくは彼女と交際していませんよ。だってぼくは既婚者ですし、子どももいますからね。女房を裏切るような真似はしません。でも、あの子、スタイルもいいし、ルックスもいいんだけれど、少し暗かったよね」
 商事会社に勤めていた絵里香の得意先が小西の会社だった。絵里香は営業に訪れて、小西に口説かれたようだ。不倫はしませんと断言したが、会社での小西の評判は女たらし、色魔と呼ばれるほど女性とのスキャンダルが多かった。交際していたかどうかはともかく、絵里香が小西の毒牙に引っ掛かった可能性はあると感じた。
 「大人しい人でしたね。家賃の滞納もなく、きちんとした人でした。男? 男が部屋を訪れたことはなかったと思いますよ。男はいなかったけど、頻繁に訪れていた女性がいましたね。メガネをかけた、絵里香さんより少し年上のような感じの――」
 絵里香の住居であった白銀マンションの管理人の証言に基づいてその女性を捜査した。
 その女性が木本紀子と判明するのに時間はかからなかった。
 木元はここ数日、絵里香のマンションに通い詰めていた。
 「絵里香とはアルバイト先で知り合って、仲良くなってよく相談に乗ってもらっていたわ。彼女、服飾デザイナーの仕事をしていたけれど、仕事がなくて困っていたみたいで、バイトで生活費を稼いでいたみたいね。最近、ストーカーにつきまとわれているといって怖がっていたので、私が部屋に行って彼女を守っていたの」
 化粧の匂いがきつい、いかにも水商売の女といった感じの木元は、キャバレー「シャトー」でアルバイトをしている時、絵里香と知り合ったのだと言った。私たちはその「シャトーF」のマネージャーに話を聞いた。
 「絵里香さんは大人しい静かな子でしたね。この仕事には不向きだったかも知れません。男性との会話も不得手のようで、あまり笑うことのない、幸が薄そうな女の子でしたね」
 三十代後半だろうか、「シャトーF」のマネージャーは含みのある笑みを称えて話を終えた。
 
 「係長、澤田絵里香は被害者ですか、それとも加害者?」
 大阪府警刑事部捜査第一課に配属になったばかりの山下達郎の質問は的を得ていた。
 澤田絵里香は三日前の午後11時、住まいのあるマンション近くの陸橋で男に襲われた。男の手から逃れようと突き飛ばした瞬間に男が勢いよく階段を転がり落ちた。動かなくなった男をみて、絵里香はすぐに警察に通報。警察が駆けつけた時、すでに男は頭を強く打って死亡していた。
 澤田絵里香の証言で、男は数カ月前から澤田絵里香をストーカーしていた男であったことが判明した。
 「事件にもならないじゃないですか? 何で澤田を調べるのですか。明らかに正当防衛、過剰防衛にもならないですよ」
 山下は上司である波多野順に抗議した。波多野の沈黙が山下には歯がゆかった。波多野は澤田を加害者として、拘留し、取り調べていた。ストーカー被害者である澤田がストーカーに襲われて自分を護るために男を振り払い、その結果、男が死んだ。
 ただ、それだけの事件であった。毎日のように事件が起きている。こんな結果の決まった事件に足を突っ込んでいる暇はない。山下は波多野にそれを訴えた。だが、波多野はこの事件から手を引こうとしなかった。なぜなのか、それが山下には理解できなかった。
 聞き込みを行っても、澤田に悪い噂は出て来ない。夜の商売に身を染めてこそいたが、彼女は真面目そのものの女性であった。それは聞き込みの中でしっかり証明されている。
 「山下、澤田の同僚の木元は実際にそのストーカーを見たことがあるのだろうか?」
 波多野の質問が山下には馬鹿げ質問のように思えた。ストーカーの存在を確認したからこそ、木元は澤田の部屋に通っていたのだ。
 山下は木元にそのことを確認した。
 ――ええ、間違いなく絵里香はストーカーにつけ狙われていましたよ。どこで調べたのか、メール、電話が頻繁にありましたから。
 ――やっぱりね。彼女はかなり危険な状況でしたか?
 ――危険だと感じたからこそ、私が絵里香の部屋に詰めていたのよ。放っておけば絵里香の命が危ないと思ったわ。
 ――危険ということを木元さんはどうしてわかったんですか?
 ――メールの内容よ。かなり激しい脅迫内容が書き込まれていたわ。
 ――ちなみにどんな内容でした?
 ――おまえを殺してやる。必ず殺してやる、といったかなり強烈な内容だったわ。それで絵里香のことが心配になって……。でも、どうしてそんなことを調べるの? 誰が考えても絵里香は被害者じゃない。
 ――木元さん、申し訳ないがもう一つだけ聞かせてください」
 ――まだ何かあるの?
 ――木元さんはそのストーカーを見られたことがありますか?
 ――直接、見たことはないけど、彼女、ずいぶん怯えていたから、きっと私のいない時、ストーカーに襲われかけていたのだと思う。だって今回だってそうでしょ。彼女の帰りを待ち伏せして襲っているんだから。
 山下は、木元に聞いた話をそのまま波多野に報告した。畑野は、「そうか……」とだけ言って、いつものように沈黙した。
 
 澤田絵里香が拘留されていることを新聞記者がかぎつけ、それを問題視した記事を記者が掲載し、人権無視、冤罪だと決めつけて反響を呼んだ。
 テレビのニュース番組でも澤田のことがたびたび取り上げられ、澤田を擁護する声が大阪府警に大多数届けられた。
 「波多野くん、きみは確信があって澤田を拘留しているのかね。世論を無視してはいけないぞ。今回の事件は誰が考えてもストーカー被害者が自分を護るために偶然起きた事件、そうじゃないのかね」
 波多野を呼び寄せた式部警視は、声を荒げて波多野を非難した。しかし、波多野は「わかりました」とは応えず、小さく黙礼をして、その場を辞した。
 波多野がドアから出て行くのを確認した式部警視は、受話器を取ると、波多野の上司である一課課長の佐々木に電話をした。
 「拘留中の澤田真知子を即刻釈放するように」
 と伝えた。
 
 澤田の釈放を聞いた波多野は落胆の色を隠せなかった。
 「残念でしたね、でも係長、今回の事件は仕方がありませんよ。どう考えてもストーカーに非がありますから」
 山下が慰めようとすると、波多野が山下の腕を掴んで言った。
 「山下、すまんが、亡くなったストーカーのことを調べてくれないか。私にはどうしても腑に落ちないことがあるんだ」
 波多野に命令された山下は、死亡したストーカーの身元を洗うことにした。
 ――ストーカーの名前は奥平剛三、四二歳、職業会社員、勤務先は和合商事となっている。山下は、奥平の和合商事の社名に引っ掛かった。聞き覚えがあったからだ。
 山下は以前、聞き込みをしたことがある灘坂に電話をした。
 ――灘坂さんは以前、和合商事に勤めていましたよね。
 ――ええ、今は違う会社にいますが、以前は勤めていました。
 ――その時、澤田絵里香さんもその会社に勤めていたと言っていましたね。
 ――ええ。彼女が会社を辞める時、告白して振られました。 
 ――同じ時期、奥平剛三さんも、その会社に勤めていませんでしたか?
 ――奥平……、ああ、勤めていました。総務の係長でしたよ。
 ――その総務の係長だった奥平が、今回の澤田絵里香を襲ったストーカーだということをご存知でしたか。
 ――そんなバカな。奥平さんは気の弱い家庭的な人です。絵里香をストーカーするなんて、信じられません。
 ――奥平さんと澤田絵里香が付き合っていたなどということは考えられますか?
 灘坂は笑った。笑って断言した。
 ――そんな付き合っていたなんて、奥平係長は愛妻家で子煩悩な典型的な家庭人です。二人が交際していたなんてことは断じてありませんよ。
 山下の中に疑問が生まれた。奥平は本当にストーカーだったのだろうか……。
 
 ――事件は急展開した。
 釈放された澤田絵里香が自首したのだ。
 マスコミも警察も驚きを隠せなかった。波多野の執拗な取り調べが功を奏した形になったが、半分は、澤田絵里香の罪の意識がもたらした結果といえた。
 澤田絵里香は、聴取にこう答えている。
 「和合商事に入社して間もなく、新人だった私は、営業先で得意先の課長を怒らせる失態を犯しました。その時、営業部に電話をするつもりが間違って総務部へ連絡をしてしまったのです。総務部へ連絡したということに気がつかないまま、『得意先の課長を怒らせてしまい、出入り禁止になりそうだ』ということを伝えたのです。電話を受けたのは奥平係長でした。奥平係長は、営業部が全員出払っていたこともあり、すぐに駆けつけてくれ、一緒に謝ってくれました。床に額をこすりつけて謝る奥平係長をみて、得意先の課長は、今回は大目にみようと言って許してくれました。その時から私の中で奥平係長の存在が大きくなったのです。
 灘坂くんに告白された時も、得意先の小西さんが好きだと偽って寺西さんの存在を隠しました。奥平さんは家庭もあるし、実直で浮気をするような人ではありませんでしたが、私の気持はどんどん奥平さんに傾いて、会社を退職してからもストーカーのように奥平さんを追うようになりました。
 中年で何の変哲もない人です。どこを取っても女性に愛されるような存在ではありませんでした。でも、私の中で彼の存在は大きく広がっていたのです。新人の時に失態を犯して助けられたということもありましたが、それ以上に彼の存在が亡くなった父とダブって……。
 父は私が高校に入学した年、交通事故で亡くなりました。私は子どもの頃から父が大好きで、一緒にいることが楽しくて仕方がありませんでした。父が亡くなってから私は変わりました。無口になり、人と打ち解けることが少なくなったのです。
 奥平さんは、そんな私の思いを温かく受け止めてくれました。性的な関係こそありませんでしたが、まるで父親のようにやさしく接してくれ、会社を退職してからも私たちの仲は続きました。
 でも、話をしたり、お茶を飲むだけでは物足りなくなり、ある時、奥平さんに私の気持ちを打ち明けました。奥平さんは、『私は妻も子もいる身だし、顔もスタイルもいいことはないただの中年だ。こんな私にきみは相応しくない』と言って私の申し出を断りましたが、私はそれでも執拗に奥平さんに迫ったのです。
 奥平さんも私のことが好きでいてくれたようです。『美しいきみにこんなにも愛されて自分は本当に幸せだ』、そう言って私を抱いてくれました。
その日から私と奥平さんは深い関係の仲になりました。でも、奥さんに悪いとでも思ったのでしょうか。奥平さんはしばらくして、私と距離をとりはじめました。
 奥平さんがそばにいないと私は駄目になってしまう。何とか奥平さんの気持ちを取り戻したい。その一心で奥平さんを追いかけましたが、追えば逃げるのが常で、奥平さんはますます私から離れて行きました。
 そのうち私の中で殺意が芽生えました。愛が憎しみに変わったのです。
奥さんと子どもに囲まれて幸せな食卓を囲んでいる奥平さんを想像するとたまらなくなりました。
 ストーカーの存在は架空のもので奥平さんではありません。さも奥平さんがストーカーであるかのようにみせかけて正当防衛で殺す、それが私の考えた作戦でした。
 木元さんにメールをみせ、電話がかかってきたかのように装い、ストーカーの存在を信じさせて奥平さんを呼び出しました。
 奥平さんに、これが最後だと伝え、最後に一度だけ会ってほしい、そう言って呼び出したのです。奥平さんはためらいながらも、私の涙声に同情したのでしょう。時間通り、やって来ました。陸橋の上で階段を下りようとする奥平さんを私は思いきり突き飛ばしたのは会ってすぐのことです。さもストーカーに襲われて、身を守るためにそうしたように装いました。うまく行くはずでした。でも、なぜか拘留されて、波多野という刑事に毎日のように尋問を受け、尋問を受けている間に、私の中で変化が起こりました。
 何てことをしたんだろう……、罪の意識が大きくなって耐えられなくなりました。釈放された途端にその思いが頂点に達し、自首を決意した次第です」
 
 山下は、波多野がなぜ、誰もがストーカー事件と思う事件に不信感を抱いたのか、それを波多野に聞いてみたいと思った。
 波多野は山下に言った。
 「ストーカーと称された男は、背後から背中を押されて階段を転がっている。澤田がストーカーに襲われ、逃れようとして突き飛ばしたのなら、ああいった落ち方はしないと思った。突き飛ばされたとしても身をかばう余裕はあったはずだ。それがあの遺体にはなかった。真正面から落ちている。澤田に安心して背中を見せ、その後、背後から突き飛ばされたのではないか。私はそこに疑いを抱いた。だから彼女の偽りではない本当の声を聞きたい。そう思って尋問し続けたのだ。きみが捜査してくれたおかげで、彼女の自白を得ることができた。ありがとう」
 波多野はそう言って山下の肩をポンと叩いた。
〈了〉


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