幸せを呼ぶ、ボクサー・ジョーの軌跡

高瀬 甚太

 場末の立ち飲み屋「えびす亭」の客の中にボクシング通の折本啓介という男性がいた。本町の証券会社に勤める彼は、子供の頃からボクシングが大好きで、五十歳を超える今も、ボクシングの観戦を欠かさない。その彼がえびす亭にやって来た広本高志を見て、驚きの声を上げた。
 「ボクサー・ジョー!」
 折本は広本高志を見て興奮し、そう叫んだ。広本は、そんな折本を見てニッコリ微笑み、寡黙な姿勢を崩さないまま、酒の入ったグラスに口を付けた。
 えびす亭の面々が広本をボクサー・ジョーだと知ったのは、その時が初めてだった。
 週に数回、えびす亭に顔を出す広本は、えびす亭の客の中でも目立つ方ではなかった。寡黙で滞在時間も短いため、客たちの記憶に残っていないということもあったが、それ以上に、人を寄せ付けないものが広本にはあった。
折本は広本のファンだと公言し、彼のすべてを熟知していた。ことあるごとに折本は広本の戦いぶり、戦績をえびす亭の面々に話して聞かせた。折本がえびす亭の面々に語って聞かせた、ボクサー・ジョーの戦績の一部を紹介しておこう。

 ――デビューは4回戦だった。年齢が二十五歳と、ボクサーをやるには年が行き過ぎていた。それもあって、ジムも彼には期待はしていなかったと思う。その試合、2ラウンドまで相手の若い選手が優勢だった。防戦一方だった広本が、3ラウンドになって急に攻勢に転じた。そのラウンドの終了間際、広本の放ったアッパーカットが相手の顎を砕き、ダウンさせた。そのまま相手の選手はしばらく起き上がって来なかった。面白い選手だと思ったが、その時はまだ、それほど印象に残っていたわけではない。
 二度目に広本を見たのは、某有名選手の世界タイトルマッチ防衛戦でのことだ。熱気に満ちた会場で、広本は前座の8回戦に出場した。相手の選手は、将来を嘱望されるフライ級期待の新山勉選手だった。ハードパンチャーで鳴らしていた新山はこの日が7試合目、7戦全勝、そのうちKOが5試合と軽量級のこのクラスでは驚異のKO 率を誇っていた。
 この時、広本の勝ちを予想したものは誰もいなかっただろう。折本もそうだった。この時まで広本は五試合で3勝2敗、KOが2とそれほど目立った闘いをしているわけではなかった。しかも戦いぶりは武骨で冴えない。一方、新山は高校チャンピオンでアマチュア経験も豊富だったから非常にスマートなボクシングをし、評論家の評価も高かった。
 だが、いざ試合が始まるとあっけなく片がついた。1ラウンド2分15秒、マットに転がったのは新山だった。ラウンドが始まった当初、攻勢に転じたのは新山だった。広本を何度もロープに追い詰め、攻撃を仕掛けた。だが、広本は攻められながらも有効なパンチは一度も許さなかった。すべてのパンチを防御し、新山が攻撃の手を緩めた隙をついて一瞬のボディアッパー一発で新山をマットに這わせた。
 前座とはいえ、意外な番狂わせに会場が湧いた。広本のKOシーンがあまりにも見事であったからだ。だが、この時でさえ、広本を正当に評価する人間はそうはいなかった。
 広本がボクサー・ジョーと呼ばれるようになったのは、15戦目を過ぎてからのことだ。この時までの戦績が11勝5敗6KO、見事な戦績であったが、年齢がすでに三十歳を超えていた。チャンスをもらうには年齢が行き過ぎている。ジムの方針もあったのだろう。ろくにチャンスをもらえないまま、彼は前座の試合を黙々とこなしていた。
 チャンスが訪れたのは16試合目のことだ。無敵を誇るハードパンチャー、メキシコのルーベンス・オルテガが来日し、ノンタイトルで試合を行うことになった。当初、予定されていた対戦相手が試合を控えて故障し、戦えなくなったことで、急きょ、オルテガの対戦相手を探さなければならなくなった。しかし、30戦30KOの猛者であるオルテガと準備もなく戦おうなどという酔狂な選手は現れなかった。予定されていた対戦選手でさえ、壊されることを恐れて、故障と偽って敵前逃亡したのではないかと噂されるほどだった。それでも試合を中止するわけにいかなかった主催者は大慌てで対戦相手を探した。誰もが敬遠する中で、唯一名乗りを上げたのが広本だった。この時、広本はフライ級の日本ランキング2位、世界ランキングでも15位に名を連ねていた。
 広本の所属するジムは、この対戦に気乗り薄だったこともあって、当初、広本が試合を行うことに反対した。だが、広本は一度上げた手を下ろさなかった。そのため、渋々、この対戦を承諾したのだが、どうせ負け試合だと踏んで、積極的に協力しようとはしなかった。元々、以前から問題のあるジムで、他のジムなら、広本ぐらいの戦績を上げればもっと優遇するはずが、常に広本を冷遇し、これまでチャンスらしいチャンスを与えて来なかった。それは、年齢のこともあっただろうが、広本に華がないことが最大の原因だった。所属するジムの会長やスタッフは、高校や大学で実績のある選手ばかりを優遇し、広本のようなたたき上げの選手を正当に評価してこなかった。
戦う前に勝敗のわかっている試合に、果たしてどれほどの人が関心を寄せるだろうか、しかし、主催者の心配をよそに試合は意外な人気を呼び、前売り券は完売、会場は満員の大盛況となった。
 人気の所以はチャンピオンのKOにあり、広本が何回持つか、そこに観衆の関心が集まっていた。ジムからの協力が得られないまま、広本は自前でトレーナーを雇い、戦いに挑むことになった。ジムのこうした対応を批判する声も高かったが、勝敗のはっきりした試合では、ジムが気乗りしないのも無理はない、そんな声もボクシング関係者の中にはあった。
 しかし、ジムが積極的に協力しないというのは異常事態であり、前代未聞のことである。相手方のオルテガ選手のサイドが、広本の所属するジムに激しく抗議し、侮辱していると怒って試合を辞退する話まで飛び出した。
 結局、広本自身が、この試合を最後に所属するジムを辞めると宣言し、別のジムが急遽代理で立って試合が成立、予定通り、ノンタイトル戦が実施されることになった。
 広本が何回持つか、メディアの事前の調査では七割が1ラウンドを支持し、残りの二割が2ラウンド、3ラウンド以上を支持する者は誰もいなかった。そんな異常な状態の中で試合がスタート、のっけからオルテガのパンチが炸裂し、わずか12秒で広本は一回目のダウンを喫してしまう。しかし、その後、広本は体勢を立て直し、1ラウンド終了間際、オルテガのラッシュを受けてダウン寸前に陥るもどうにかゴングに救われKOを逃れる。この調子では次の回で終わるだろう、誰もがそう予測した2ラウンド、広本は1ラウンド同様にダウン寸前になりながらも猛反撃し、この回、一度もダウンすることなくラウンドを終えた。2ラウンドまでにKOされるだろうと予測していた会場の観客たちは俄かに騒然とし始めた。1ラウンドよりもさらに迫力を増したオルテガのパンチが怒涛のごとく広本を襲った2ラウンド、オルテガはかなりの手ごたえを感じていたはずだが、広本はパンチに耐え、逃げることなく、逆に猛然と反撃に転じた。その広本の攻撃姿勢に、余裕を持って戦っていたオルテガ陣営の方が慌て始めた。
 「相当なダメージがあるはずなのに――」
 コーナーに帰って来たオルテガはセコンドにそうつぶやいている。
 3ラウンド、開始直後にオルテガの強烈な右フックを浴びて、広本がリングに崩れ落ちた。その倒れようを見て、オルテガはもちろん観客もこれで試合終了だと誰もが思った。テンカウントが数えられ、セブンまで数えた時、敢然と起ちあがった広本は、ファイティングポーズを取り身構えた。トドメを刺そうとオルテガが不用意に近づいたその瞬間のことだ、広本の渾身の右アッパーカットがオルテガに炸裂した。よろけるオルテガに猛然と襲いかかる広本、場内が騒然とした。あの30戦無敗の無敵のチャンピオンが無名のボクサーのパンチにさらされ、防戦一方なのだ。オルテガのセコンドから、「右へまわれ、ガードだ、ガード」と慌ただしく声が飛んだ。ゴングに救われ、3ラウンドが終了する。
 オルテガが相手のパンチを受けるなどかつてなかったことだ。セコンドが大慌てでオルテガに指示をする。会場内の空気がこの瞬間、大きく変わった。
 4ラウンド、オルテガが本来の力を発揮して猛然と広本に襲いかかる。このラウンド、広本は二度のダウンを喫するが、それでも不屈の闘魂で立ち上がり、ラウンド終了まで何とか持ちこたえた。
 5ラウンドにも広本は二度のダウンを喫するが、そのたびに立ち上がり、オルテガの猛攻を凌ぎながらパンチを繰り出し、反撃に転じる。6ラウンド、7ラウンドと各一度ずつダウンを喫するも広本は恐るべき闘争本能で立ち上がり、ラウンド後半にはオルテガをコーナーに押し込み、上下左右に打ち分けて反撃する始末だ。さすがのオルテガも驚愕の表情を隠せなかった。かつてオルテガのパンチを浴びてこれほどまで持ちこたえたものはいない。しかも相手は倒されても倒されても立ち上がって来る。8ラウンドを迎えたところで、広本は計8度のダウンを喫していた。一撃必殺のハードパンチャーのパンチにさらされて、これほどまでに耐えられるものなのか、驚くべきことは、ダウンするたびに広本がオルテガに猛攻を繰り返していることだ。オルテガの優位は動かなかったが、KOアーティストの異名を取るオルテガにとってこれほどの屈辱はなかった。
 「どうした、オルテガ。さっさと倒すんだ」
 セコンドの檄に対して、オルテガはこう答えた。
 「あいつがなぜ立ち上がって来るのか、俺にはわからない。パンチは間違いなく効いているはずだ。とうの昔にリングに沈んでいてもおかしくないはずなのに――」
 広本のセコンドにはジムの関係者は誰もいない。励ますものも指示するものもいない中で、広本は一人、孤独に闘い続けた。この時、すでに広本に意識はなかった。ただ、闘争本能だけで無意識に戦っている。それだけだった。
 8ラウンド、オルテガの左右のフックと強烈な右ストレートで広本は敢え無くダウンした。勝利を確信したオルテガが疲労困憊した様子で右手を観客席に振り上げる――、しかし、試合はそこで終わらなかった。レフェリーが「ファイト!」の声を上げ、立ち上がった広本が鬼気迫る表情でオルテガに向かった。その瞬間、オルテガは華麗なステップを忘れて逃げまどった。その表情には恐怖の色が色濃く見えた。
 9ラウンド、セコンドは叱咤する言葉を失い、無言でオルテガを送り出す。疲労の色が隠せないオルテガは、鈍い足取りでリング中央に向かった。レフェリーはなぜ止めないのか、オルテガの非難の目がレフェリーに注がれるが、それには構わず、レフェリーは「ファイト!」と大声を上げた。
 このラウンド、オルテガのパンチが再び広本を襲った。だが、広本は倒れない。逆にオルテガのパンチに呼応して広本もまた、パンチを繰り出す。だが、そのパンチにはもう力が残っていなかった。
 最終10ラウンド、開始直前、オルテガはセコンドに弱気な言葉を洩らしている。
 「戦いたくない。棄権してもいいだろうか」
 勝っている試合である。セコンドが許すはずがない。オルテガを叱咤して立ち上がらせると、「闘わなくてもいい。ランニングしていろ。それで試合が終わる」と激励して送り出した。
 10ラウンド、開始のゴングが鳴り、グローブを合わせたところで、広本が奇声を上げてオルテガに飛び掛かった。だが、腕は下に降りたままだ。この時の広本には腕を持ち上げる力さえ残っていなかった。
 奇声に驚いて、後ずさりするオルテガが夢中でパンチを振る。空を切るパンチと広本が俯けにリングに倒れるのとがほぼ同時だった。広本にはもう起き上がる力が残っていなかった。その背に無上の転カウントが数えられた。この瞬間、ようやく試合が終了。背に無上の転カウントが数えられた。この瞬間、ようやく試合が終了。オルテガのKO勝利となった。
 前代未聞の試合であった。勝利したオルテガは、広本を抱きかかえると、その腕を高々と上げて祝福した。
 観客も興奮していた。何という試合だ――。口々にそう語り、こんな熱い試合を見ることが出来た幸運にすべての観客が酔いしれた。
 この試合の後、広本は人気漫画『あしたのジョー』にちなんで『ボクサー・ジョー』の異名で呼ばれるようになった。
 だが、その後の広本の成績は芳しくない。オルテガ戦の後、広本は三連敗を喫し、その後、試合に出ることはなくなった。評論家たちは、オルテガのパンチの後遺症が出ているのではないかと噂し、矢吹丈のように真っ白な灰になってしまったのでは、と評する人もいた――。

 幸運にもこの試合を目撃することができた折本は、この試合以後、大の広本ファンとなった。移籍したジムに広本を見に行ったこともあったが、会うことはできなかった。
 その念願の広本に、ようやく会えたのは「えびす亭」の中でのことだった。折本の興奮は一通りではなかった。
 折本は「えびす亭」で広本を見かけるたびに、広本の傍に立ち、広本のためにビールや酒の肴を注文したが、広本は、感謝しながらもそれを一切受け付けなかった。
 「ビールは小瓶を一本、酒の肴はおでんを三品」
 と決めていたからだ。
 「これでもまだ現役ですから」
 そう言って広本は笑顔を見せた。
 折本の話を聞いたことで、ボクシングを好きな者も嫌いな者も、「えびす亭」の面々は心から広本を応援するようになった。
 広本の生き様は、男にとって憧れの生き方であった。広本のような闘争心を今の誰が持ち合わせているか、勝敗に頓着せず一直線に目標に向かって力の限り闘う、そんな人間がどこにいる? 酒を呑み、愚痴をこぼし、文句をたらたら言って我が身を嘆く――。広本の生き様を見て、我が身を恥じる、そんな人が「えびす亭」には多かった。
 そんな広本もとうとう引退する日が近づいた。最後のその試合、相手は次代のホープ、オリンピック候補だった須藤兼良、年齢差は十五もあった。
場所は、大阪市の市立体育館。試合は前座、セミファイナルを含めて五試合。メインエベントが広本の試合になっていた。
 「私のようなロートルの試合を見たいなんて酔狂な人間は少ないでしょうから、当日の観客の入りが心配です」
 と、広本は語ったが、さにあらず、前売り券の発売は順調で、ほぼ完売に近い数字を上げていた。「えびす亭」からも折本を筆頭に三十人が応援に駆け付けた。
 広本は引退した後、貯めたお金で居酒屋を開くことになっていた。えびす亭に顔を出し始めたのも人気のある「えびす亭」にあやかりたいと思う気持ちがあったからだ。しかし、折本のおかげで仲間が増えた。寡黙でボクシングにしか興味のなかった広本が人の輪の中に入れたのもすべて「えびす亭」のおかげだった。商売の基本である大切なコミュニケーションの技術を広本は「えびす亭」の中で学ぶことができたと感謝していた。そんな大切な仲間たちが応援に来てくれている。広本のモチベーションは否が応にも高まった。
 「店は、天王寺に近い場所に決めています。えびす亭のような店にできればいいのですが」
 広本は「えびす亭」のオーナーにそう語っている。ボクシングの世界に入った当時から、ずっと自分を支えてくれた女と一緒になって、二人で店を切り盛りするのだと付け加え、試合が終わったら、えびす亭に女房を連れてきたいと赤面しながら「えびす亭」の面々に語っている。
 試合当日、「えびす亭」の面々は幟を数本場内に掲げて広本の引退を祝した。館内はそれほど大きな場所ではなかったが、溢れんばかりの混雑で、満員盛況の有様だった。
 メインイベントが開始される直前、司会が広本の引退試合であることをアナウンスした。当然、誰もが承知のはずなのに、観衆から深いため息が漏れ、「もっとやってくれー!」と広本を惜しむ声が飛んだ。
 リングに立った広本は、長いブランクがあったとは思えないほど引き締まった肉体をし、日頃のやさしい顔を忘れさせるほど厳しい顔つきでゴングが鳴るのを待っていた。
 相手の須藤は未来のチャンピオンと評されるだけあって均整のとれた体格をしていた。今回の広本の引退試合に、自ら対戦相手に名乗り出て、広本の大ファンであることを公言し、
 「尊敬する広本さんを倒して、次のステップを踏みたい」
 と早々と勝利宣言を行っていた。
 ゴングが鳴ると同時に、広本が須藤を圧倒するパワフルな攻撃でロープに追い詰めた。須藤も負けてはいなかった。年齢を感じさせないパワフルな攻撃を仕掛けてくる広本に負けじとロープに追い詰められながらも的確なパンチを繰り出し応戦する。
 一進一退の攻防が続く中で1ラウンドが終了。2ラウンド目は須藤が本来の動きを取戻し、華麗なフットワークで広本を翻弄した。
 3ラウンド、開始と同時に広本が須藤に突進した。広本の突進をかわした須藤が広本の右あごに的確なショートの左フックを打つと、広本はたまらずよろけてバランスを崩す。だが、ベテランの広本はバランスを崩しながらも須藤に反撃のパンチを繰り出した。しかし、広本の動きを読んでいた須藤が広本の右ストレートに自分の左ストレートを重ねてクロスカウンターを放つと、広本は腰から崩れるようにして最初のダウン、しかし、カウント2で立ち上がった広本はすぐさま反撃に転じた。そこで3ラウンドが終了する。
 4ラウンド開始と共に広本が須藤にいきなりの右ストレート、しかし、そのパンチを難なく避けた須藤が左にジャブを数発連続して広本の顔に浴びせ、間合いを計って渾身の右ストレートを繰り出すと、強烈なパンチがボディにヒットし、思わず広本が体を屈める。
 それに乗じて右フック、左フックを浴びせると広本が体を揺らしてロープに倒れかける。須藤のパンチが容赦なく広本に降り注ぎ、それを見たレフェリーが試合をストップ、4ランドTKOで須藤の勝利となった。勝利の瞬間、須藤は広本に駆け寄り、その体を起こしながら涙を流し、広本に向かって感謝の言葉を叫んだ。
 会場内に一斉に拍手が沸き起こり、大歓声が敗れた広本に届けられた。リング中央で広本が泣き崩れる。こんなにも美しい敗者の姿を今までに見たことがない、誰もがそう思う、感動的な広本の幕切れだった――。

 「えびす亭」に広本がやって来たのは、試合から一週間後のことだ。その日、「えびす亭」は非常に混雑していた。広本がやって来るという情報がオーナーからもたらされていたからだ。
 午後七時、ガラス戸を開けて広本が顔を覗かせると、一斉に拍手が沸き起こった。
 赤面した広本は、顔をさらに赤らめて同行の女性を呼び、中へ招き入れた。小柄な可愛い女性が広本の後に続いて中に入った。
 「皆さん、先日は応援いただいてありがとうございます。KO負けしましたが、悔いのない戦いをしたと思っています。本当にありがとうございました」
 広本は深く腰を折って挨拶をすると、続いて同行した女性を紹介した。
 「私の女房の千代です。ボクシングを始めた時期に出会い、これまでずっと私を励まし、応援してくれた唯一無二の女性です。千代と共に新しい人生を歩み、自分の店の休業日にはえびす亭にも共に顔を出す予定です。皆様、本当にありがとうございました」
 広本と共に千代も腰を折り、頭を下げた。再び拍手喝采が沸き起こった。中には涙ぐむ者もいた。
 「幸せって奴は本当にあるんだなあ」
 感嘆しきりに客の一人がつぶやいた。
 「お前にもきっと来るよ。もちろん俺にもきっと来る」
 客の一人が涙を流しながら隣の客の肩を叩いた。えびす亭は幸せを待ち望む人たちが群れをなす場所なのだ。
<了>


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