ビルが哭くビルが襲う(後編)

高瀬 甚太
 
 夜の北八ビルの周辺には独特の空気が漂っている。昼間、感じた、あの侘しさのようなものは感じられなかったが、代わりに虚ろな雰囲気に包まれ呆然としてしまう。不思議なことは音のないことだ。賑やかな繁華街を通り抜けてきたせいかと思ったが、そうとも言えない何かがあった。営業している店もあるのに、なぜか音を感じないのだ。それが私を不安にさせた。
 ビルの前に立つと、一階のがらんとしている駐車場がなんとも不気味に感じられた。二階へ上がる階段を眺めながら、しばらく躊躇した。昼と夜とではこんなに違うものなのか、それが正直な感想だった。
 これまで何度も霊的な事件に遭遇しているが、このビルには今までと違った感覚があった。霊的なものをほとんど感じさせないことが返って不安を煽り、私の気持ちを妙に萎縮させた。
 それにしてもこの人通りの少なさはどうしたことだ。人であふれかえる繁華街からわずかな距離しか離れていないのに、この地に立ってからまだ、誰にも出会っていない。
 雲の切れ間から月が顔を覗かせ、静寂がことさら強く肌に染みた。
 二階へ上がった。真っ暗である。かすかに点在する外の店から漏れる光が室内を照らしていたが、それもわずかである。心を凍らせるほどの静寂に包まれながら、私は、四室ある部屋をそっと覗いた。
 廃墟のようなビルの一室は鍵さえかけられていない。広く大きなガラス窓、高い天井、壁のあちこちは長年、空き室にしているためか、壁が剥がれ落ちている。床もところどころ浮き上がっていて、時々、足を引っ掛けそうになる。
 暗くて静かだが、浅田が心臓を痛め、精神を錯乱させたような驚きにはまだ出会っていない。
 二つ目の部屋も同様で、三つ目も四つ目も、何もなく過ぎた。
 浅田は一体、何を見てああなったのか、疑問が生じた。三階に上る階段をゆっくりと上がり、上がったところで私は、不意に足を取られて滑った。床に思い切り腰を打ち、滑った場所を見ると、何かが塗られた後がある。昼間はなかったものである。油のようなものか、かすかな明かりにその部分がうすらぼんやりと光っていた。
 人為的なもののように思え、身構えた。私がこのビルにやって来ることを知ったものが、計画的に行ったものではないか、そう思った。それなら、これでは済むまい。さらに何かが仕掛けられている可能性が高かった。
 三階も四室に分かれている。どの部屋も均等で、二階がそうであったように鍵がかけられていない。一室を開けて中に足を踏み入れると、何か、柔らかいものを踏んづけたような気がして、飛び退いた。何かが床に置かれている。――猫の死骸のようだった。
 やはりおかしい。私を陥れるための人為的なものに違いない。そう思った私は、部屋の周囲を念入りに眺め見渡した。三階になると、周囲の店の灯りがここまで届かない。このビルの三階は、通常のビルの四階ぐらいの高さにある。
 部屋の中には何もない。猫の死骸にしても誰かが置いたものとは限らない。猫がここまでたどり着いて亡くなった可能性も否定できない。
 窓際から外を眺めても怪しいようなところは何もなかった。相変わらず音の絶えた世界が続いた。二つ目の部屋のドアを開けた時、突然、目を射るような激しい光に襲われた。
 思わず、目を閉じて、手で目を覆うと、獣の唸り声のような声が聞こえた。後ずさりして周囲を見回し、暗闇に目が慣れて来るのを待った。――その瞬間、私の目の前を白いものが過った。と同時に後頭部を何者かに打たれ、私はそのまま意識を失ってしまった。
 ――気が付くと、病室のベッドの中にいた。
 「気が付かれましたか」
 医師の声がして、その時、初めて何人かの人がベッドを囲んでいることを知った。
 「編集長、大丈夫か?」
 原野警部の声がしたのでその方向に視線をやると、心配げな表情で原野警部が私を見ている。
 「大丈夫だ」
 と言いかけて、ズキンと頭が痛み、途中で言葉を閉じた。
 「無理するな。それにしても驚いたぞ。扇町公園に人が倒れている、と電話を受けて駆け付けたら、編集長、お前じゃないか。後頭部を殴られて気絶しているだけだとわかって安心したが、一体、何をしていたんだ」
 「扇町公園?」
 私は驚いた。扇町公園とビルの間には少し距離がある。80キロ近い私を運ぶのは大変だったはずだ。それなのに、なぜ、扇町公園まで運んだのか、 ――謎が残った。
 私は原野警部にビルでの一部始終を話した。腕組みをして私の話を聞いていた原野警部は、何度か頷いた後、部下を呼び、指示をした。
 「例の怨霊ビルを調べて来い。元々、胡散臭いビルで、しょっちゅう幽霊騒ぎを起こすから気になっていたんだ。何かある。きっと何かあるはずだ。しっかり調べて報告しろ!」
 
 脳波の検査を行い、異常のないことがわかったので、私は病院から解放された。後頭部に痛みは残ったが、歩行には支障はなかった。私は、これまでのことを整理する必要に迫られ、セルフサービスの喫茶店に入り、手帳を取り出してこれまでの経緯をまとめた。
 
 ――北八ビルの調査をしていた浅田が、ビル内で事故に遭い、病院へ運ばれた。私の場合と違うのは、浅田は精神的ショックを受けたが、打撃は受けていなかった。ただ、心臓と精神に衝撃を受け、精神錯乱を起こして入院し、今も回復していない。よほどの精神的ショックを受けたことは想像に難くない。
 浅田の精神的動揺を鎮めなければ、病状は回復しない。そう思った私は、事件の謎を探り、解決すれば浅田の症状を和らげることができる、そう信じて、謎を解明するために浅田が何を調査していたか、それを知るために浅田の勤務する探偵社を訪問した。
 探偵社の事務員、佐藤と社長の磯崎と話し、浅田が北八不動産の依頼を受けて北八ビルを調査していたことがわかる。
 探偵社から直接、北八ビルへ向かった私は、得体の知れない男に呼び止められ、「ビルには行かない方がいい」と忠告を受ける。男がなぜ、私のことを知っていたのか、私がビルに向かっていることを知っていたのか、疑問が残った。誰かが男に教えたに違いないとは思ったが、思い浮かぶのは、探偵社の佐藤と、磯崎の二人しかいない。しかし、彼らが教えたとして何のメリットがある。また、男に忠告させるぐらいなら、私に情報を伝えたりはしないだろう。――また一つ疑問が残った。
 北八ビルの元の所有者、香月平蔵の自宅を訪ねた私は、そこで、香月が北八不動産に土地とビルを騙し取られたことを知る。しかも、香月の祖父母は、北八ビルで首吊り自殺をしていた。自宅を追い出された香月一家は、高槻市に引っ越しをしている、というところまではわかったが、そこから先は不明で、手がかりは何一つとしてなかった。
 北八不動産がビルを手に入れたのが十五年前、以来、このビルは多くの店舗、会社が入居するが、短期間で退去するといった事態が続き、とうとう三年前から入居者ゼロといった状態が続いている。
 入退去の激しい原因は、幽霊をよく見る、怨霊に祟られる――、そうしたことが原因と言われている。実際、北八不動産は、このビルの所有者になった時、何度かビルの改築、改装を試みているが、工事に携わった人たちが次々と事故に遭い、また、工事現場での原因不明の事故が相次いで、工事を断念せざるを得なくなった、と言われている。
 そうしたビルだから、ビルを売ることも壊すことも叶わず、持て余した北八不動産は探偵社にビルの調査を依頼し、原因を究明しようとした――。
 香月の祖父母の怨念か、それとも、このビルの地に問題があるのか、いずれにしても、このビルには何かがある――。
 
 喫茶店を出た私は、医師のアドバイスもあって、その日はどこにも出かけず事務所に戻り、ソファに身をゆだねてゆっくり時を過ごした。
 怪奇現象を鼻から否定する人も多いが、私は、自身の経験からいって、この世の中には人間の叡智を超えたものが存在しても不思議ではないと考えている。
 人が感じるもの、見るもの、脳が捉らえるものは、この世界のごく一部でしかなく、捉らえられないものは無数に存在する。
 人の叡智を超えたものをどう捉えるか、恐怖として捉えるか、啓示として捉えるか、人によって差があるが、私は素直に受け止めることが必要だと考えている。現象が起きる時は必ず、そこに現象の起きる原因がある。それを知ることが何よりも大切なのではないかと私は考える。
 今回の場合も同様のことが言えそうだ。北八ビルで度々起きている現象は、そのビルの中に何かがある、もしくは何者かが訴え、叫んでいる可能性がある。しかし、それが何かまではわからない。
 私の後頭部を背後から殴ったのは、間違いなく人間の仕業だ。霊の出現も、もしかしたら人間の仕業である可能性が強い。しかし、すべて人間の仕業かというと、自信がない。退去者が続出する現象は、到底、人の仕業とは思えなかったことによる。
 人が絡んでいるとして、一体、誰が――。そこで推理が行き詰まってしまう。
 
 原野警部から連絡が入ったのは、その日の午後、遅い時間帯だった。
 ――編集長、どうだ。頭の方は?
 ――おかげさまで、もう大丈夫です。ところでビルの方はどうでした? 何かわかりましたか。
 ――それを連絡しようと思って電話したんだ。あのビルの三階の上にもう一階、隠れ部屋があったことを知っているか?
 ――ロープで上がり、覗いたことはありますが、別に何も新しいものは見つけられませんでした。
 ――そうなんだ。一見して何もないように見えるが、三階の上の屋根裏は屋根裏としては少し天井が高い。不審に思って調べさせると、壁で閉じられた向こう側に一室、新たな隠れ部屋があることがわかった。
 ――壁で閉じられた向こう側?
 ――ああ、そうだ。見ただけではわからない。壁を叩くと空洞のような音がしたので、どこかに壁を抜ける場所があると思って調べてみた。そうすると、端の方に、小さなボタンを見つけた。そのボタンを押すと壁が開いて、人が住んでいた形跡のある部屋が見つかった。窓がないだけで、電気も点くし、水道も通じていた。トイレもあり、家財道具も揃っていた。慌てて飛び出たのだろう。散らかしたままで飛び出ている。
 ――そんな部屋があったのですか? 一体、誰が――。
 ――鑑識が今、調べている。指紋を採取しているから、犯罪履歴があればすぐに突き止められる。
 原野警部は、私にそう説明をして、今までの妖しい事件は、ここに住んでいた者の仕業である可能性が高い、と言って電話を切った。
 浅田は、偽りの幽霊を見て、精神を錯乱させ、心臓発作を起こしたのだろうか。私には、そうは思えなかった。きっとそれだけではない、何かがあるはずだ――。
 翌日、起床すると、体調はすこぶるよかった。ズキズキとした後頭部の痛みは完全に消えていた。私は、明けて間もない空の下、愛用の自転車を飛ばして、北八ビルに向かった。
 ビルの下に着くと、警察の手によってバリケードが設けられ、入れないようになっていた。
 先日、このビルを訪れた時、三階の通路で屋根裏へ上がるロープ梯子を見つけて、上を覗いてみた。暗くて何も見えなかった。その屋根裏に、人が住んでいたとは驚きだ。一体、誰が住んでいたのだろうか。ホームレスか、それとも元の北八ビルの所有者、香月の関係のものか。どちらにしても、私を襲ったのはその人間に違いない。
 改めてビルの周囲を見渡してみた。ビルの右側に建つのは、同じような高さの四階建ての小さなレトロビルだ。このビルも空き室が多いようで、人の出入りが少ない。左側は、小さな空き地になっていて、草が生えている。その隣は、古本屋だが、今も、この前来た時も閉まっていた。北八ビルの前は、インド料理の店、その隣が雑居ビルになっていて、一階が喫茶店で、その上に数軒のスナックが点在する。
 喫茶店を訪ねると、ガランとした店内にエプロンを付けたマスターが所在無げに新聞を読んでいた。
 窓際の席に座り、コーヒーを注文し、届いたところで質問をした。
 「この前のビルですけど、幽霊が出ると、噂になっているようですが、ご存じですか?」
 マスターの男性は、
 「おかげでうちも商売上がったりです。連鎖反応ですかね、この周辺のビル全体に空き室が多くなって、うちもそろそろ店じまいをすることを考えています」
 と言ってため息をついた。
 「実際にそういった現象を見られたことがありますか?」
 「見ていませんけど、出入りする怪しい人影は何度か目撃したことがあります」
 「人影を目撃?」
 「幽霊ではありませんよ。れっきとした人間です。年の頃なら三十代後半ですかね。空き室ばかりで、しかも幽霊が出るという噂があるのに、よく出入りするなあ、と感心して見ていたものです」
 「この喫茶店は、いつから営業されているのですか?」
 「三十年になります。結構、うちのコーヒーの愛好者が多くて、以前は常連がたくさんいましてね。でも、今はもう駄目です。客が一気に減りました。朝のこの時間でも、このありさまですから」
 「三十年といえば、このビルが香月さんの所有だった頃ですね」
 「よくご存じですね。香月さんのビルだった頃はよかったですよ。空き室なんかなくて、人も多くて、うちもよく繁盛しました」
 「香月さんの息子さんが詐欺に遭って、ビルを取られたとお聞きしましたが――」
 「お父さんもおじいさんもしっかりした人でしたが、息子さんは少し遊び人のようなところがありましてね。両親や祖父を見返したい、そんな気持ちがあったのでしょうね。一山当てようと思って、簡単に不動産詐欺に引っかかってしまって、損をするだけでなく、両親に内緒で担保に入れていた、このビルや自宅、その他のすべての動産を取られてしまって――。香月さんが気付いた時は、すでに遅く、もう手の打ちようがない状態でした。裁判所に詐欺の訴えを出しましたが、実証することができず、すべて北八不動産のものとなってしまったのです」
 「北八不動産?」
 「ええ、詐欺のバックにいたのは北八不動産です。そのことに気が付いたのは、もっと後のことですが――」
 「香月さんの祖父母がこのビルで自殺したと聞きましたが、ご存じですか?」
 「知っています。いい人でした。私の店にもよく顔を出してくださって。よほど悲観したのでしょうね。首を吊るなんて――。それからですよ。このビルの入居者が短期間で出たり入ったりするようになったのは」
 「なぜ、短期間で出たり入ったりするようになったのでしょうね」
 「幽霊が出るからですよ。昼夜関係なしに」
 「見られたことがありますか?」
 「私は見たことがありませんが、見た人の話は聞きました。青ざめた顔で、『こんなところにはもういたくない。今日にでも出る』、そう言っていました。中には精神がおかしくなって、入院した者もいますよ。それでも、三年前まではまだ、入居する人もいたのですが、最後までいた人が発狂してからは、借り手がなくなりました」
 「私、先日、昼と夜にこのビルを覗いたのですが、何も出会いませんでした。幽霊よりも、人間にこっぴどい目に遭いましたが」
 「そうですか。幽霊に出会わなかったのは幸運です。出会っていたら、ここでお茶など飲んでおれなかったでしょう。私は、香月の祖父母の怨霊がこのビルを支配しているのではないかと思っています。無念な死を遂げましたからね」
 「香月さんが今、どうしているかご存じありませんか?」
 「豊中の自宅を追い出されて、高槻へ行ったと聞きましたが、それ以後、噂を聞きません。どうしているのでしょうね。北八不動産は相変わらず隆盛を極めているというのに」
 「北八不動産を告発することは難しいのですかね」
 「このビルのことが話題になって、それをきっかけに、警察が内密に調査をしていると聞いたことがあります。幽霊が出るとか、工事をしようとしてもできないといった状況が話題になって、裏に何かあるのでは、と警察内部で疑いを持つ者が現れたようです。元々、北八不動産は暴力団のフロント企業ではないかといった噂もありますし、立証できない詐欺被害が数多く出ていますからね」
 コーヒーを飲み終えたところで、礼を言って店を後にした。
 ビルに入れず、周囲をウロウロしていた時、携帯が鳴った。着信を見ると、原野警部だった。
 ――編集長、あのビルの屋根裏部屋に住居していた人物は、犯罪リストに載っていなかった。ただし、周辺の目撃者の証言と、残されていた衣類や書類で、人物が確定された。今、手配をして捜査中だ。
 ――住居していた人物というのは誰ですか?
 ――香月幸一、香月の息子だ。
 ――香月の息子――? 詐欺に遭って、香月家を崩壊させた人物があのビルに入居していたのですか。
 ――確保すれば、全貌がわかるだろう。多分、そう時間はかからないはずだ。
 原野警部は、改めて電話をする、と言って携帯を切った。
 考えられないことではなかったが、それにしても香月の息子がビルに居住していたとは意外だった。香月の息子は、なぜ、あのビルに居住していたのだろうか。何か、意図するものがあったのだろうか――。
 
 翌朝、香月の息子、幸一が大阪駅構内で捕まった。罪状は住居不法侵入の罪であったから、それほど重い罪ではない。だが、警察は、それよりも他の件で重点的に事情聴取を行ったようだ。私はそれを原野警部から直接聞いた。
 「香月幸一があのビルに住み始めたのは、三年前からだと言っている。入居者がすべて出てからのことで、詐欺被害に遭ったことで祖父母や両親に迷惑をかけた幸一は、以来、肉親の元には帰らず、住居を転々としていたらしい。ビルに住むようになったきっかけは、幽霊騒動で入居者がいなくなり、借り手がいなくなったことで、屋根裏部屋を思い出し、住みつくようになったという。ただ、昼間、ビル内にいることが多く、夜は酒場で勤務していたと幸一は話している。幽霊騒動の件については知らないと言っているが、編集長を襲った一件だけは認めている。編集長にビルを調査されて、不法入居していることがばれるのを恐れたらしい。ただ、その前の探偵社の浅田が襲われた件については一切知らないと語っている」
 「香月幸一に私がビルに行くことを知らせたものがいるはずですが、わかりますか?」
 原野警部は、確認すると言って、私の前から去った。
 それにしてもなぜ、香月幸一はあのビルに居住したのだろうか。住むところがないということは確かにあっただろうが、それにしても疑問が残る。
 疑問が残るといえば幽霊騒動だ。十五年前から、入居者が次々離脱していく状況というのはただ事ではない。浅田の件についても尋常ではなく、精神に異常を来すほどのショックを受けているということは、やはり霊の仕業と考えるしかない。
 その日の夜遅く、私の元へ原野警部から連絡があった。
 ――香月幸一が吐いたよ。あんたがビルに行くことを知らせたのは、探偵社の佐藤という女性だった。彼女と香月幸一は高校時代の同級生で男女の仲ではないようだが、親しく付き合っていたらしい。佐藤は幸一がビルに住んでいたことを知っていたから、あんたが調査のためにビルへ行くと聞いて、急いで知らせたらしい。その時、あんたの服装や人相なども詳細に伝えたようだ。
 繁華街で、忠告だと言って近寄って来た、あの男が香月幸一だったのか。それにしても探偵会社の事務員が連絡していたとは――。
 ――しかし、不思議なのはビルで起きた数々の幽霊事件です。私の友人が精神的ショックを受けて病院に入院していますが、あれはどうなんでしょうか。
 ――それについても香月幸一が話しているよ。幸一の祖父母があのビルで首を吊って死んだことで、あのビルは呪われているという噂が絶えなかったらしい。実際、入居者は次々と祟られて病気になったり、事故にあったりしている。幸一が言うには、あのビルには何かがある。祖父母が自殺をする以前からそういう噂があったと言うのだ。ただ、所有者が香月家から北八不動産に変わったことで、火が点いたように幽霊が活発に動き始めた。幽霊の出現は、北八不動産と関係があるのでは、と幸一は語っている。その証拠に、幸一は長い間、ビルに宿泊していたが、一度も幽霊に出会っていない。それは多分、北八不動産がビルの経営をあきらめたところからきているのではないかと言っている。
 ――幸一の作り話ではないですか? 実際、幸一は、夜は仕事でほとんどビルには泊まっていませんから。それにもしそうであれば、北八不動産に強烈な恨みを抱く怨霊の仕業ということになります。たとえば、北八不動産に関係する人間が北八不動産の関係者に殺害されてビルのどこかに埋められているとか――。
 ――そうか――。それは考えていなかった。そういうこともあり得るかも知れん。現在調査中だが、北八不動産は、暴力団D会のフロント企業である疑いが濃くなった。北八不動産がからむ事件の中で行方不明になった者がいないかどうか調べてみる。
 それだけ言うと、原野警部は電話を切った。北八不動産の名称が私の脳裏をちらついた。そういえば浅田も北八不動産に依頼されて、ビルの調査を行ったはずだ。やはり、北八不動産に恨みを持つ者の仕業なのか――。
 翌日、浅田の入院する病院へ行き、浅田を見舞った。浅田が病室にいなかったので、看護師に尋ねた。看護師は、浅田の担当ではなかったようで、調べて来ますと言って詰所に行った。
 しばらくして帰って来た看護師は、
 「浅田さんは、病室を変わりました」
 と言って、私に浅田の新しい病室を教えてくれた。なぜ、病室が変更したのか、気になって尋ねてみた。
 「詰所で聞きましたところ、浅田さんは精神科に移り、精神科の病棟で治療を受けています」
 と言う。しかも、当分の間、面会謝絶だと教えてくれた。
 浅田に会えず、私は病院を後にした。事件の全貌が明らかになれば、浅田の病気も治るはずだと信じていた私はショックを受けた。結局、自分は何もできなかった――。
 数日後、原野警部から連絡があり、事件の全貌が明らかになったと私に伝えた。
 ――北八不動産に絡む事件を追って行くうちに行方不明になった人間がいることがわかった。北八不動産の社長を任意で呼んで取り調べたところ、土地や不動産に絡む詐欺をずいぶん多岐にわたって働いていたことがわかった。そういった土地に絡む北八不動産の詐欺犯罪を調査しているライターがいて、出版社の話では、かなり核心部分に迫っていたようだがある時、ぷっつりと消息を絶った。出版社には、所要があって海外へ行くとメールで連絡があったというが、以来、一度も連絡がない。もしかしたらと心配していたという。社長を厳しく追及したら、昨日、ライター殺しをあっさりと白状した。かなり以前から悪夢にさいなまされていたらしい。話し終えるとホッとしていたよ。
 ――そのライターはあのビルのどこに?
 ――ビルの一階、駐車場の地下に埋められていた。かわいそうに骨だけになっていたよ。社長の話では、どこまで調査したのか、その原稿をどこに隠しているのか、かなり厳しく拷問にかけて追及したようだ。結局、喋らずじまいで亡くなってしまったようだが、その恨みが怨念となってあのビルに降りかかったのではないか。一連の幽霊騒動を社長はそう捉えて怯えていたようだ。
 ――被害者を供養すれば、私の友人の病気も快方に向かうかも知れない。
そう思って、私は人心地ついた。
 ――あんたのおかげで事件が解決したよ。あんたが言ってくれなければ気が付いていなかった。殺人事件どころか、詐欺事件も摘発できた。おまけにD組が関連していたこともわかったから、一石二鳥といったところだ。ありがとう。
 今回、私は何もしていない。そのことを原野警部に言いたかった。しかし、そう伝える前に電話が切れた。人の怨念とはかくもすさまじいものか。それを痛感した事件だった。
 私が予想していた通り、供養が終わると共に浅田は奇跡的に回復し、医師を驚かせたという。一緒に酒を呑むのはもう少し後になるだろうが、とりあえず『さゆり』のバーで一人で乾杯だ。ちなみに北八ビルは一カ月後、取り壊されて消えた。その前にあった喫茶店も時を同じくして閉店した。
〈了〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?