舞い踊る墨絵の謎(後編)

高瀬 甚太

 芳野美弥太郎は、平然と、
 「真由はこの世の人ではない」
 と言い放った。
 「この世の人ではないということは、真由さんは亡くなっているということですか?」
 「ええ、亡くなりました」
 「いつ、亡くなられたのですか?」
 「病院を退院して一カ月後のことです。私の元に引き取ってしばらくは良好な状態が続いていたのですが、肺炎を起こして亡くなってしまいました。だから景山朴山が真由であるはずがありません」
 そう言って美弥太郎は、真由の位牌と写真を私に見せた。私は、美弥太郎に先日のギャラリー主催の宴会に登場した景山朴山の話をし、スピーチの中で語られた朴山の話はどう考えても真由でなければ語れないものだと説明をした。
 「確かに、真由でなければ語れない話ですね」
 美弥太郎はじっと天井を仰いで考えていたが、ふと思いついたように私に言った。
 「あなたは、霊の話を信じますか?」
 私は、首を縦に振って応えた。
 「人間の知識や経験では測れないものがこの世にはあると思っています」 
 「そうですか。それを聞いて安心しました。。私の仕事は陶器を制作することなのですが、轆轤を回していると、時々、霊がその中に顔を覗かせることがあります。轆轤をご存じですか? 回転可能な円形の台と回転軸、その上に粘土を乗せて、台を回しながら粘土に手指を当て、回転の中心から手指の位置までを半径にした円をつくる。日本の陶芸産地のほとんどが上から見て時計回りだが、私は反時計回りを用いている。私は、常ではないが轆轤を回している時、不思議な感覚に襲われることがある。轆轤は宇宙を創り出す、が私の持論だが、その宇宙の中が霊の世界なのではとふと思うことがある。真由の魂が成仏できないまま霊界を流転し、現世にその姿を現したのではないだろうか」
 と話した後、美弥太郎は、「こんな話、おかしいですか?」と私に聞いた。
 「おかしいとは思いません。現実に亡くなったはずの真由さんが存在しますし、真由さんが亡くなった後、何等かの現象が起きたとしても決して不思議ではないでしょうから」
 美弥太郎は、真由の遺品の一部である、彼女が書き残した日常を記した日記風のエッセイと、シルバーのペンダントを
 「よかったらこれをお持ちください」
 私に手渡した。
 「こんな大切なもの、いいのですか?」
 固辞したが、美弥太郎は、「あなたがお持ちください」と言って受け取らなかった。
 美弥太郎の家を出た私は、そのまま大阪へ戻り、西天満にある船形のギャラリーを訪れた。船形は不在で、帰宅が午後8時と聞き、改めて出直しますと告げて事務所に戻った。
 真由の死を知って、捜査は一瞬にして途切れた。
 しかし、本当に真由は亡くなったのだろうか。美弥太郎の言葉を信じないわけではなかったが、いくつか心に引っかかるものがあった。
 淡路島での景山朴山を思い起こしてみた。姿こそはっきりとは見せなかったが、あの時のあの言葉、シルエットに映し出された姿、とうてい霊とは思えなかった。朴山の放つ言葉にも、強い生命力を感じさせるものがあった。
真由が亡くなったと聞いて、手がかりを失ってしまったが、途方に暮れているわけには行かなかった。船形から、朴山の失踪が事件に関係している可能性が高いと聞いていたからだ。
 午後8時を過ぎたところで、船形に連絡を取った。しかし、船形はまだ帰っていなかった。美弥太郎から預かったノートとペンダントのことを思い出して、カバンから取り出し、ノートを繰ってみた。女性らしい丁寧で几帳面な文字でページにぎっしり文字が描かれていた。
 いつ書かれたものだろうか。読み始めると、火傷で重傷を負い、病院に運ばれ、意識を取り戻したところから始まっていた。
 
 ――夢から覚めて気が付いた。死んだとばかり思って覚悟していたが、私は生きている。いろんな夢を見た。いや、あれは夢ではなかった。多分、霊の世界だ。私は生と死の境をさ迷っていたのだと思う。
 記憶はすべてかすかだが、脳ではなく、心に感じているものがある。それは死の恐怖ではない。生への渇望でもない。多分、この世で私がしなければならないことがあるのだと、教えてくれている何かだ。何をするべきなのか、この全身火傷の身体で、何をしろというのか、まだ、私にはわからない――。
 
 また、夢を見た。ここは霊界なのか、私は今、霊界にいるのか、問いかけるが誰も何も答えてくれない。静かだ。まるで音がしない。宇宙の中にでもいるような錯覚を覚える。私は本当に生きているのか、それとも死んでいるのか、それさえもわからない。今、見えているものに実態があるのか、見えているものは現実なのか――。まるでわからない。
 
 脳が軋む感じがする。朝からずっとそうだ。脳が軋むと、見るものすべてが歪んで見える。元は何だったのか、考えなければならないほど、原型をとどめていない。午後になっていくぶん楽になったがそれでも歪んだ風景は変わらなかった。私は一体どうしてしまったのだろうか。――そういえば、声も出ない。何かを発しようと思うのだが、言葉が出て来ない。歌を歌おうと思ってもリズムが思い浮かばない。本当に私はどうしたのだろうか。今も生きているのだという実感が何もない。
 
 今日は元気だ。目の前に見えるものはすべて平常で、平常でないのは人の貌だけだ。誰もがストレスを溜めているように見える。そのストレスが表情に現れている。私にはそれが手に取るようによくわかる。
 
 ああ、歌を歌いたい。音楽が聞こえると自然に歌が歌いたくなる。でも、私の喉は潰れたままだ。鳥になりたい。ああ、鳥になって一日中、歌を歌い続けていたい。それなのに、私の喉が反応しない。悲しさだけが身を覆う。
 
 延々と日記に、真由の心情が描き続けられていた。真由は霊界と現実を行き来していた。言いかえれば、それは真由が生と死を行き来していることに他ならない。これでよく発狂しなかったものだと、日記を読んで感心した。よほど強い精神力を持っていたか、元々、真由にその素地があったのかもしれない。
 しかし、この日記をいくら読んでも、真由の失踪先、あるいは誘拐先はわからなかった。
 そうするうちに船形から電話がかかってきた。
 電話に出ると、船形は開口一番、ギャラリーの関西支部の集まりで遅くなったと謝った。
 私は、船形に、今日のことを話し、滋賀へ行き、美弥太郎に会ったことを話し、真由が亡くなっていたことを告げると、船形は予想した以上に驚いた。
 「真由さんが景山朴山でないとすると、つじつまが合わない。亡くなったというのは嘘ではないか?」
 「淡路島で朴山が話した内容に該当する人物は真由さんしかいないことは確かです。もう一人、真由さんのような人、つまり、双子の姉妹でもいたら別ですが……」
 「編集長、今、何と言った?」
 「いや、真由さんに双子の妹か姉がいたら――、と言いましたが、それが何か?」
 「それだよ、真由さんには双子の妹か姉がいる」
 「でも、そんな話、一度も出てきませんでしたよ」
 「何か事情があって、一緒に暮らしていなかったのかも知れんが、私はそこに鍵があると思う。申し訳ないが編集長、明日、それを調べてもらえないか」
「真由が双子――、なるほどねえ、調べてみる価値はありそうですね」
思いがけず、船形からヒントを得た私は、翌日、早朝から京都へ行き、京都市役所へ出向いて調べてみた。だが、役所で調べるには規制が多くて限界があった。
 嵯峨野に出向き、地主に尋ねたが、娘は真由さん一人だったはずだと証言した。念のため、近隣の家、店にも尋ねたがどこも同じ答えで、誰もが娘は一人しかいなかったと答えた。
 近隣の産婦人科へ行き、真由が生まれた病院であるかどうかを確認したが、どの病院も真由を取り上げた形跡がなかった。歩き疲れた私は、喫茶店で休憩をすることにした。
 嵯峨野から少し離れたところにある観光客相手の喫茶店のようであったが、コーヒーは意外に美味しかった。新聞を読み、少しゆっくりしていると、モダンな喫茶店に似つかわしくない旧いポスターのようなものが貼られてあることに気が付いた。よく見ると、出産のポスターであることがわかった。そのポスターを見て、店員に聞いた。
 「これは産婆さんの案内ポスターですか?」
 店員は「わかりませんので店長に聞いてきます」と答えて、店の奥に引っ込んだ。
 店長はすぐに現れた。年配の、五十は超えているだろうと思われる小太りの店長は、
 「旧い町ですからね。病院ではなく、産婆に依頼する人も結構多くて――。でも、今はずいぶん少なくなったと思います。そのポスターは、私の叔母のもので、叔母はずっと産婆をやっていまして、それもあって、今でもポスターを店内に貼っています」
 「その産婆さんは現在も健在ですか?」
 「はい。八三歳ですが元気にしています」
 住所を聞くと、喫茶店の近くであることがわかった。私は店長に事情を話し、産婆を紹介してもらうことにした。
 「ご案内しましょう」と言って、店長が同行してくれることになり、喫茶店から少し離れた住宅地に向かった。
 「息子夫婦と一緒に住んでいるのですが、嫁と喧嘩が絶えません。まあ、元気な証拠ですけどね」
 店長は叔母のことを説明しながら坂道を足早に歩いた。5分ほどで叔母の家に到着し、ドアを開けると、店長が叔母を呼んだ。
 「おばちゃーん、お客さんだよ」
 奥の方から足跡が聞こえ、腰の曲がった老婆がやって来た。店長は老婆に、簡単に私の説明をすると、「じゃあ、店の方があるので、私はこれで」と言って出て行った。
 「まあ、お上がりください」
 と老婆は会釈をして私を奥の部屋へ案内し、
 「ひとみさん、お客さんですよ」
 と大きな声で呼んだ。
 「息子の嫁なんですけれどね。気が利かなくてね」
 放っておくと、嫁の愚痴をいつまでも聞かされそうなので、「実は……」と言って、老婆の話を止めた。
 「芳野さんをご存じでしょうか?」
と 尋ねると、老婆は、「芳野?」と言って首を傾げた。
 「池のところに家があって――、今はもう火事で焼けてありませんが、そこに住んでいた人で、娘が真由と言います」
 「ああ、ああ」
 老婆は首を大きく振って、「芳野さんならよく知っているよ」と言い、
 「わたしが娘を取り上げたんだ。双子でね。大変だったよ」
 と言った。双子と聞いて、私は驚いて聞き直した。
 「双子だったんですか?」
 「そうだよ。双子だったんだ。ところが、芳野さんのご主人が占いにひどくこだわっていてね、名前を付けようと言うことになって、占い師を呼んだ時、その占い師が、『双子のうち、どちらかを捨てるか、どこか遠くにやらないと、この家に災厄を及ぼす』と言ったんだ。私は反対したよ。奥さんももちろん嫌だと言って抵抗したが、ご主人、頑固な人でね。双子のうちの一人を親戚の家にやってしまった」
 「二人の娘の名前はわかりますか?」
 「ええと、確か……、真由と由香だったと思う。二人ともかわいい子でね。引き離す時、奥さんが泣いてね」
 その時のことを思い出したのだろう。老婆は涙ぐみ、ハンカチで目を拭った。
 「真由さんが残って、由香さんが出されたわけですね」
 私が確認をすると、老婆は、
 「いや、残ったのは由香で出されたのは真由だった」
 と言う。
 「間違いありませんか? 真由さんが残ったと思うのですが」
 老婆は少し考えた後、きっぱりとした口調で言った。
 「いや、由香が残った。取り出した私が言うんだ。間違いないよ」
 船形が指摘したように、真由は双子だった。しかし、芳野の家に残ったのは由香の方だと老婆が言う。では、亡くなったのは由香の方なのか?
ショックを受けた私が、老婆に礼を言って帰ろうとすると、老婆が私を引き留めた。
 「お茶ぐらい飲んで行ってください。ひとみさーん、お茶はまだなの?」
 引き留める老婆に、
 「申し訳ありません。急ぎの用を思い出しましたので」
 と告げると、老婆は、
 「本当に気の利かない嫁ですみませんね」
 と多分、この家の中のどこかにいるのだろう嫁に、聞こえよがしに大きな声で言って、なおも私を引き留めようとしたが、丁寧に礼を言い、その場を辞し、すぐに船形に電話をした。
 ――どうだ。成果はあったかね。
 のんびりとした船形の口調を途中で打ち消して、私は言った。
 ――船形さん、あなたが指摘した通り、真由は双子の片割れだった。しかし、こちらで話を聞くと、家を出されたのは真由の方で、残っていたのは由香だった。真由か由香か、どちらかが死んで、どちらかが景山朴山になっている可能性がある。
 一気に話すと、船形が少し間を置いて言った。
 ――編集長、それなら、あんたが先日、訪ねた美弥太郎だが、おかしいと思わないか?
 ――美弥太郎が?
 ――ああ、そうだ。先日、あんたが美弥太郎に会いに行った時、美弥太郎は真由が双子だったとあんたに話したか?
 ――そういえば、そのことにはまるで触れてない。
 ――おかしいと思わないか? 仮に真由が危篤の状態であれば、由香に連絡をするものだろう。家を出された真由が誰の家に貰われたか、それを急いで調べてくれないか?
 船形の言う通りだった。美弥太郎は重傷を負った真由の話をし、亡くなったことを話したが、真由に双子の姉妹がいることは一度も口にしなかった。もう一度、美弥太郎を訪ねてみる必要があった。
 ――わかった。今すぐ美弥太郎の家を訪ねてみる。
 ――悪いが頼む。行方不明の景山朴山の所在もそこに鍵があるかも知れない。
 
 私は、京都駅に出て、JRの快速に乗り換えて大津を目指した。
 美弥太郎の話を聞いた時、私は、心に引っかかるものを感じて美弥太郎の家を後にした。あれは、何だったのだろうか。美弥太郎が唐突に霊の話をしたことが引っかかっていたのだと思う。美弥太郎は、なぜ、霊の話をしたのか――。
 私が淡路島での朴山の話をし、真由でなければ語れない話をしたことで、美弥太郎は朴山が真由の霊ではないかと話したのではなかったか。美弥太郎が霊を話題にしたことで、私の捜査は暗礁に乗り上げた。――実はそこに美弥太郎の狙いがあったのではないか。
 大津に着いた私は、歩けない距離ではなかったが、タクシーを利用して美弥太郎の家を目指した。
 タクシーの車内から見る琵琶湖の水面が穏やかに波打っていた。比叡山に向かってつづら折りになった坂道を登ると、緑が一層深くなった。見下ろすと、琵琶湖の水面はまた違ったものに見えた。午後の日差しがキラキラと琵琶湖の水面を踊っていた。
 門に立ち、チャイムを鳴らすと、先日のお手伝いらしい若い女性が門を開け、まるで私がやって来るのを知っていたかのように迎えてくれた。
 「主人がお待ちしております」
 女性はそう言って私を家の中へ案内した。その途中、女性の、主人という言い方が気になったので尋ねてみた。
 「芳野美弥太郎さんとはどういうご関係ですか?」
 質問が唐突だったのだろう、女性は驚いたように立ち止まり、しばらくして私に言った。
 「家内です」と。
 芳野美弥太郎は、どう見ても七十代前半に見える。家内だと名乗ったその女性は二十代後半に見えた。年の差を考えたら、孫のようなものである。
 今回もまた、庭に立つログハウスに通された。女性に促されて中に入ると、美弥太郎が私を待っていた。
 「あなたが再びやって来ると思いお待ちしていました」
 笑顔を見せるでもなく、歓迎するふうでもなく、美弥太郎は私を迎え、対面する席に座らせた。
 「芳野真由さんには双子の姉妹がいることがわかりました。あなたはそれをご存じのはずなのに、教えてくれませんでした。なぜですか? また、芳野家に残ったのは由香さんの方で、真由さんは外に出されたこともわかっています」
 性急に聞くと、美弥太郎は苦笑いをして私を見た。
 「その様子では、どうやらあなたは私を疑っているようですね」
 「疑っているというよりも、この事件の鍵のすべてをあなたが握っているように思っています」
 美弥太郎の作務衣が天井から漏れる光に揺れていた。女性が入って来て、茶の入った湯飲みを私と美弥太郎の前に置いた。美弥太郎は、「どうぞ」と言って茶を勧め、ゆっくりと口に含んだ。
 「お調べの通り、真由は双子です。私の従兄弟の芳野梅山は、稀有な作家でしたが、当時の日本画壇と相いれず、不遇な晩年を過ごしました。占いに固執したのもそうした不遇な境遇があったからかも知れません。双子が生まれることを想定していなかった梅山は、双子が生まれたことに不吉なものを感じていたのだと思います。そこへ占い師がやって来て、双子は災厄をもたらすと言ったものですから、梅山はいよいよ確信し、二人のうちどちらかをよそへやろうと思いました。無論、これには妻が猛反対し、産婆も反対しました。しかし、梅山は二人の言葉を無視して、双子の一人、由香をよそへやりました」
 美弥太郎は、そこまで言って再び、茶を口にした。言いづらいことがあるのだろう、それが表情に現れていた。そんな美弥太郎に私は言った。
 「由香さんが預けられた先ですが、これは私の勝手な推測ですが、美弥太郎さん、あなたのところではありませんか?」
 美弥太郎は、苦笑を浮かべ、「その通りです」と言った。
 「梅山と私は従兄弟同士で仲が良かった。よそへやるにしても信頼できるところに預けたかったのでしょう。私は梅山に頼まれ、断りきれなかった。独身だった私は、預かった子供をどうしようか考えました。悩んでいる私の元へ、梅山に『双子は不吉だ、一人を捨てなさい』と言った占い師がやって来ました。占い師は、その子供を女房にしなさい、と言うのです。そんなことができるわけがありません。子供の将来をめちゃくちゃにしてしまいます。占い師にそう言うと、これはお告げだ。言うとおりにしないと天罰が下る。そう脅すのです。私は、考えた末に、由香を養女として籍に入れました。そして、由香が大きくなったら私の手で嫁にやろう、そう決めていました。
 成長するにつけて、真由と由香は一卵性双生児の双子として互いに惹きあうものがあったのでしょう。互いの家を頻繁に行き来するようになりました。そしていつしか行き来するだけでなく、入れ替わって過ごすこともあったようです。それほど二人は瓜二つで、私でさえ判断できないほどよく似ていました。
 ただ、性格は少し違っていました。真由は大人しい性格で、由香はやんちゃな性格と少し違いはありましたが、二人とも梅山の血を受け継いで絵画に興味を示し、才能を発揮するようになりました。だが、由香は、破滅型の父を見て、絵画の世界が嫌になったのでしょう、途中から絵をまったく描かなくなりました。
 梅山が家に火を放った日、真由と由香が入れ替わっていて、火災に遭ったのは私の娘の由香の方でした。しかし、誰もそれに気付きませんでした。私もその一人です。病院へ駆け付け、重傷の由香を必死になって看病したのは真由でした。ようやく退院するところまでこぎつけた時、私は迷うことなく由香を引き取りました。由香が家に戻って、初めて私は、二人が入れ替わっていたことを知り、ショックを受けました。
 全身火傷の重傷を負った由香は生死の境をさ迷いながら幾日も時を経ました。生きる屍と化した由香でしたが、その間に由香と真由が時折、入れ替わっていたのです。――今、由香と真由は一つになっています。由香の肉体は消滅しましたが、魂は真由の中に生きています。ようやく二人は一つになれたのです」
 「すると景山朴山は?」
 「景山朴山は、真由です。しかし、由香は父の存在が今でもトラウマになっているのでしょう。絵を嫌っていますから、時折、景山朴山は姿を消すことになります。景山朴山でない時、それは由香である時なのですが……」
そこへ美弥太郎の妻が入れ替えのお茶とお菓子を持って現れた。
 「どうぞごゆっくり」
 そう言って美弥太郎の妻は礼をして部屋を出て行った。
 「ずいぶん若い奥さんですね。しかも美しい」
 私の声が冷やかしているようにでも聞こえたのだろう。美弥太郎は、恥ずかしそうなそぶりを見せて、
 「今のが由香です」
 と消え入りそうな声で言った。
 
 美弥太郎と由香に送られて美弥太郎の屋敷を出た。二人が夫婦になった理由を聞くことはできなかったが、幸福な様子だけは窺えた。
 船形に電話をすると、開口一番、
 ――どうだった? 消息不明もこれだけ長いと、事件に巻き込まれている可能性がある。大津の住人はどう言っていた?
 と聞いた。
 私は答えた。
 ――心配をしなくても、景山朴山は無事だ。ただ、英気を養っているというか、少し休んでいる。もう少ししたら姿を現すよ。間違いなくね。
 船形は電話の向こうで「エッ」と声を上げたようだったが、私は構わず電話を切った。ふと見ると、琵琶湖の水面が光を帯びてキラキラと輝き、雲の切れ間から太陽がやさしい光を投げかけていた。
〈了〉

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