誰が母を殺したのか

十回
 
 ビル街の向こうに日が昇る、遅い大阪の夜明けと共に、安代は目を覚ました。
「ずっと起きていたの?」
 安代が聞いた。
「ああ、寝顔を見ていた」
 安代は恥ずかしそうな素振りをみせて、「皺が増えたでしょ」と顔を赤らめた。
 医師の診断ミスではないか、そう思ったほど安代は元気にみえた。
「あなた…」
 安代が言った。龍雄は安代の側に耳を寄せ、「どうしたんだい?」と聞いた。
「お願いがあるの」
「何だ?」
「私、あなたと同じお墓に入れるかしら?」
「縁起でもないことを言うんじゃないよ」
「約束して」
 安代の真剣な眼差しに、龍雄はたじろぎながら答えた。
「わかった。約束するよ。ただし、ぼくよりきみの方が後だ。ぼくの墓にきみが入る。そういうことだ」
 安代はしばらく龍雄の顔を眺めていたが、天井を向き直ると、
「あなたを愛していたわ。ずっと……。でも、努力が足りなかったのかしら。人生の一番楽しい時期を一人で過ごしてしまった。寂しかったわ。そんな時、いつも付き合い始めた頃のことを思い出すようにしていた。
 あの頃のあなたは素敵だったわ。はじめてあなたを見た時、私、胸がドキドキした。好きだと思った。でも、あなたは遠かったわ。女性によくもてていたし、あなたののろけ話を聞くのが心底辛くて、いつも心の中で泣いていた。私にはあなたしか見えていないのに、あなたには私が見えていなかった。卒業式の日、あなたに声をかけた時、あなたははじめて私を真剣な眼差しで見てくれた。私だけを見てくれた。そのことが嬉しくて、あの夜、私、大泣きに泣いたのよ。馬鹿みたいでしょ。
 結婚した後、二人でいろんなところへ出かけたわね。楽しかったわ。楽しくて楽しくて、毎日が夢のようだった。あなたはとてもやさしかった。でもあなたは甘えん坊で意地っ張りで強情なところがあった。だから、他の女性と間違いを犯したといって私に頭を下げた時も、あなたをなじることができなかった。本当は死ぬほど辛かったのに……。でも、あなたを責めればあなたは逃げて行く、私の幸せが逃げて行く……。それが怖かった……」
「安代、もう話さない方がいい。疲れるから眠りなさい」
 安代は苦痛の表情を浮かべて話すのを中断した。
 
 光夫が現れたのは午前八時を少し回った頃だった。
 病室に光夫が入って来た時、安代は眠りについていた。光夫の後に恐る恐るといった感じで赤ん坊を抱えた女性が入ってきた。明らかに日本人ではなかった。
 光夫は、その女性の腕を取り、
「おれの嫁や、父さん。マリーと言うんや。よろしゅう頼むわ。子供は生まれて半年、名前は龍二。オヤジの龍から取らせてもらったんや」
 龍雄は赤ん坊を見つめた。口元が光夫に似ているように思えた。
「父さんの名前を取って……? おまえ、父さんを許してくれるのか……」
「別に恨んでないよ、はじめっから」
 決してそうではないだろうと龍雄は思った。龍雄が外に女性をつくってからの光夫の荒れようはひどいものだった。中学を卒業してすぐに光夫は家を出た。その頃、龍雄と安代はすでに別居していたはずだ。
 光夫はずっと安代の寝顔を見ていた。その目にみるみるうちに涙があふれてきた。
「母さん、ごめんな。おれ、父さんが女をつくって家を出たというのに、まるで意に介さへん母さんに腹が立っていたんや。もっと怒れ、わめけ、叫べよ、父さんを恨めと言いたかったんや。その方がよかったんや。離婚せいよ、とも思うた。何で普通なんや。何で父さんの悪口を言わへんねん……。そう思うて腹を立てていたんや。このまま母さんのそばにおると、おれはきっと母さんを殴ってしまう……。間違いなく殴ってしまう。だからおれは家を飛び出たんや」
 光夫の口から嗚咽が漏れ、涙と共に泡のような雫が溢れ出た。
「家を飛び出たけど、おれには行くところがあらへんかった。中学時代の友人は、家を捨てたおれに冷たかった。仕方なくミナミのネオン街をぶらついていて、マリーに出会った。マリーはネオンの街の路地で膝を抱えて泣いていた。一目でフィリピンバーのホステスやとわかった。おれはマリーに近づいた。マリーはおれに、『セックスしたくない』とカタコトの日本語で訴えた。『セックスするために日本に来たんじゃない』、そう言って泣いた。マリーはおれより二つか三つ上に見えた。おれはその時、思った。冗談やない。おまえらのような女、体を使わんで金など稼げるか、てな。だけど、よく見るとマリーの目はとてもきれいな瞳をしていた。おれはマリーに声をかけた。おれと逃げようやって。半分本気で半分冗談やった。マリーはおれについてきた。捕まればやばいと思った。だからタクシーでとにかく京都方面に向かうことにした。金なら少しは持っていた。母さんの金をくすねてきたんや。それで京都の河原町に着いたところでラブホテルを探した」
 光夫は眠っている安代に訥々と話しかけていた。安代はまだ、目を覚まさない。目を覚ましたらどんな顔をするだろうか。光夫の嫁と、孫をみて……。龍雄はそんな思いで光夫の話を聞いていた。
「ラブホテルへ入ろうとしたら、マリーが言うんや。『わたしを愛していますか?』って、おれは驚いたよ。こいつ頭おかしいんやないかとも思うた。めんどうな女やなとも思うた。渋々言ってやったよ。『ああ、愛しているよ』って。そしたらマリーの奴、キラキラ目を輝かせて、『会って間もないけれど、わたしもあなた好き、愛している』と言うんや。どうでもいいから早くさせろよ。一晩で捨ててやるから。おれはそんな思いでいたんや。部屋へ入ってベッドの中でおれはマリーを抱いた。意外に小さな華奢な体だった。驚いたのはセックスの経験が少なそうなことだった。十五歳のおれでさえ、それなりにセックスの経験があるというのに、マリーときたらベッドの中で震えてやがる。だからおれはその日、マリーを抱くのをやめた。マリーの寝顔が童女のように見えたからや。何だか可愛い奴だな、その時、おれは思った……」
 子供を抱くマリーの目から涙が溢れていた。
「とにかく、おれは当分、マリーと一緒にいようと思った。どんな女といるよりもマリーと一緒にいるほうが気持が落ち着けたからや。でも、それには仕事を探さんとあかん。でもなかなか思うような仕事が見付からへんかった。河原町の交差点で、降り出した雨を逃れて二人でぼんやり突っ立っていた時、着物姿の変なおっさんに声をかけられた。そのおっさん、何を思うたんか、『雨宿りだったらうちでしなはれ』そう言っておれたちを自分の店に連れて行ったんや。その店は京都でも指折りの老舗の和菓子屋やった。そこでおれたち二人は、雨宿りどころかずっと厄介になることになった。おっさんがおれたちをどう思ったのか、おれたちには分からへんかった。おっさんは何も聞かずに、『しばらくいなはれ』、そう言って部屋に住まわせてくれた。
 おれはそこで和菓子の職人になる道を選び、マリーは店で売り子になった。幸運だったよ。本当に……。そのおっさんに拾われへんかったらおれたち悲惨な人生を歩んでいたと思うわ。だからおれたち二人とも必死になって頑張ったんや」
 安代はすでに目を覚ましていた。どこから光夫の話を聞いていたのか、安代の目は先程から光夫を追っていた。
「光夫……」
 光夫はすでに安代が目覚めていることに気付いていたようだ。明るい笑顔で、
「母さん、大丈夫か……」と声をかけた。
「何で、顔をみせてくれなかったの?」
 安代が涙声で訊ねると、光夫は、
「もっと早く来たかったんやけど、マリーの件があって大阪へ来るのはやばかったんや。それに和菓子の仕事も結構大変やったし。母さん、紹介するよ。おれの嫁のマリーや。こいつは息子の龍二や。おれに似て可愛いやろ」
 安代は、はじめてみるマリーと龍二を見て瞳を輝かせながら言った。
「可愛いお嫁さん…。光夫、いい人に出会ったわね。マリーさん、光夫をよろしくお願いしますね」
 マリーの手を安代が握り締めた。マリーはその手を握り返すと、大きく頷いた。
 マリーの手と龍二の手を交互に握り返した安代は、にこやかな笑みを浮かべてしばらく二人を眺めていたが、やがて疲れたのか静かに目を閉じた。
「おい、安代! 安代…」
 その瞬間、異変に気付いた龍雄が叫んだ。
「母さん! 母さん!」
 光夫も大声で叫んだ。
 しかし、安代は身動き一つしなかった。
 病室に射す正午の光が永遠の眠りについた安代を燦々と照らしていた。
 

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