悪魔の生誕

高瀬甚太

 「すみませんが、この絵をみていただけませんでしょうか?」
 物腰は丁寧だが、有無を言わせない口調で男はぼくの前に絵を置いた。
昼下がりの喫茶店、友人から連絡をもらい、「一度、絵を見てあげてくれないか」と頼まれて、この日、初めて会った。詳しい話は何も聞いていない。
 初対面の男に、いきなり目の前に絵画を置かれたぼくは戸惑った。ぼくは作家であって、骨董品屋でも画商でもない。そう言いたいのをこらえて、それでも好奇心が人一倍旺盛なぼくは男の差し出す絵を手に取った。どんな絵なのか、興味があった。包みを開けたぼくは思わず叫んだ。
 「何ですか! これは?」
 10号の額に入ったその作品に描かれていたものは、醤油でも垂らしたかのようなシミが数滴あるだけの、まるで絵画の体を成していない。陳腐なものだった
 男は、神妙な表情で言った。
 「西原環という人物が描いた絵です」
 「西原環? 失礼ですが聞いたことがありませんね、有名な方ですか?」
 絵画に詳しいわけではなかったが、それにしても聞いたことのない名前だと思い確認した。
 五十代後半と思しき中年の男は、眼鏡の奥からぼくを覗き見て、ぽつりと言った。
 「有名ではありません。しかも手元に残っているのはこの一作だけです」
 「一作だけ……?」
 「ええ、亡くなられました。この作品が遺作です」
 男は茫然としているぼくを前にして、ぼくの都合などまるでかまわず、西原環と言う画家のことを語り始めた。

 ──西原環は将来を嘱望された画家でした。彼の作風は、四次元世界を描くような奇妙な立体感があって、技術の確かさがありながら表現の問題で評価の分かれる画家でした。極端に寡作で、京都芸大時代に三点、卒業して三十五歳で亡くなるまで七点の作品しか描いておりません。しかも不思議なことにその作品のすべてが行方不明となっています。伝え聞く噂では、すべて焼失してしまった、一人の実業家がそのすべてを独占している、そう言った噂を聞きますがどれも定かではありません。
 元々、彼は病弱な体質でしたが、後年、特にそれがひどく、心身共にすぐれない日を送っていたようです。彼の画家としての才能を惜しむ声も多く、何とか彼を立ち直らせようとした応援者もいたようですが、三十五歳の誕生日を迎えた日、彼は自ら命を絶ってしまいました。
 その彼が残した最後の作品がこの絵画です。タイトルは『悪魔の生誕』と書かれていたそうです。自殺した彼を発見したのは私の友人の柿本光男です。柿本は西原環と学生時代から懇意にしていて、何くれなく彼の面倒をみてやっていたようです。
 柿本は、その日、勤め先の会社を定時に終えて、コンビニで食料を買い、彼の元へ届けるために出向いたのですが、ドアをノックしても返答がなく、預かっていた合い鍵を使って部屋に入ったところ、部屋の中は真っ暗で、電気をつけると、彼が六畳の部屋の中で倒れていたそうです。
 「西原くん」と声をかけましたが、彼は眠ったように倒れていて微動だにしなかったといいます。様子がおかしいことに気付いた柿本が、彼が服毒自殺をしたことを確認するまでそう時間はかからなかったと思います。警察と救急車が駆けつけて現場検証を行いましたが、すぐに自殺だと断定されました。なにもない部屋の中に残されていた作品がこの『悪魔の生誕』で、柿本は、その絵とも染みともつかない作品を遺品として預かって、しばらく部屋に飾っていたようです。
 日時は不明ですが、柿本がその作品を自分の家に持ち帰って約一週間が経過した頃、彼から私の元に電話がかかってきました。
 柿本は、西原の描いた『悪魔の生誕』という絵について、私に語りました。
 「単なるシミにしか見えない絵なのに、夜になるとすごい絵に豹変するんだ」
 すごい絵という意味が私にはわかりませんでした。もっと詳しく聞こうとすると、突然、電話が切れて……、翌日、彼は死体となって発見されました。死因は、心臓が急激なショックをうけて停止したことによるものだと医師から説明を受けましたが、私は納得できませんでした。
 柿本は普段から健康で心臓に病気など抱えていませんでした。その彼がショック死だなんて――。医師は、よほど激しくショックを受けるものを見たに違いない、と説明してくれましたが、部屋の中にはそんなショックを受けるようなものは何一つ存在していませんでした。
 一つだけ気にかかったのは、亡くなる直前に私の元へかかってきた一本の電話です。その電話の中で柿本が、「単なるシミにしか見えない絵なのに、夜になるとすごい絵に豹変するんだ」と言っていたことを思い出しました。それで、私は家族の許しを得て、その『悪魔の生誕』という絵を持ち帰りました。
 私は一人暮らしですから部屋の中は殺風景です。こんな絵でも一応額に入っているから飾れば慰めになるだろう、そう思って壁に飾りました。
 三日ほどは何事もなく過ぎました。吉本の言っていたことが気になっていたので、壁に飾った絵にそれとなく注意を払ってみていましたが、何も起こりませんでした。
 ところが昨夜、仕事が遅くなって、電車に乗り遅れ、タクシーで帰宅し、ドアを開けようとしたところ、電気を消して出たはずの部屋が明るいことに気付きました。しかも人の気配がします。だれかがいる、泥棒かもしれない、そう思ったものですから管理人を呼びました。
 管理人も部屋の中の様子を窺って、確かに中に誰かいますね、と言い、危険だから警察を呼ぼうということになって警察を呼びました。
 警察官二人が駆けつけて、ドアを勢いよく開けると、部屋の中に不思議な光景が広がっていました。これまで見たことも聞いたこともない四次元世界のような光景をみて、管理人はぶっ倒れるし、警察官は腰を抜かすし、私は私で固まってしまい動けなくなりました。たぶん、一人でこの光景に出合うと、柿本ならずともショック死したことでしょう。それほど説明のつきにくい光景でした。しかし、その光景はほんのわずかな時間で消えてしまいました。あの幻影は何だったのか、ようやく息を吹き返した管理人と警察官たちと話しましたが、どうにも説明がつきません。でも、興奮状態から覚めた私にはすぐわかりました。すべて『悪魔の生誕』という絵画の仕業だということが――。
 それで誰かにこの作品を調べてもらいたい、そう思って大学の教授に尋ねたところ、あなたの名前を聞いたのです。

 何の変哲もないシミがいくつかあるだけの作品だ。しかし、このシミに何かが秘められているのだろうか。これまで数多くの不思議な現象と出会っていきたぼくは、そのシミを描いた絵が不思議な光景を描きだしたと聞いても、特に疑いを持つことはしなかった。それよりも早くこの絵を処理しなければ大変なことになる、そう思って、男から絵を受け取るとすぐに霊鑑定士の片岡早雲に電話をした。早雲は、ぼくの話に興味を持ち、
 「待っているからすぐに持って来なさい」と言った。
 これもやはり霊の仕業なのか、そう思いながらぼくは生野区に住む早雲の元を訪ねた。
 早雲は韓国人の父と日本人の母を持つ在日韓国人で、生まれつき特殊な能力を持った霊鑑定士だ。ぼくと彼は年齢が一緒で、いくつかの事件で遭遇するうちに友人関係になった。彼の能力のすごいところは、霊を駆逐する強い精神力とパワー、それに深い知識を兼ね備えているところだった。
 生野区のJR桃谷駅で下車し、鶴橋の方へ戻る途中の疎開道路沿い近くに早雲の家があった。
 ぼくが訪ねると、早雲は待ちかねていたようにぼくの手から絵を奪い、それを暗室のような暗い部屋に持ち込んだ。
 「危険だからきみは入って来ない方がいい暗い 早雲はそう言ってぼくの侵入を拒んだが、好奇心が人一倍強いぼくに我慢できるはずはなかった。
 暗い部屋に早雲が『悪魔の生誕』を置くと、しばらくしてシミの部分が微妙に動き始めた。そしてそのシミが一瞬のうちに広がりを見せ始めたかと思うと、アッと言う間にそれはシミの中から吐き出されるようにして立体の絵に変貌した。
 色彩といい構図といい、人間の視覚能力を超越した説明のつかない不思議な絵だった。この絵を見たらおそらくほとんどの人がショック死するか、精神に異常をきたすに違いない。そう思わせるものがその作品にはあった。
ぼくの場合は、あらかじめ早雲が結界を築いてくれていたこともあって、それほど強いショックを受けずに済んだ。だが、それにしてもぼくにもし、この作品に対する予備知識がなければ危なかっただろう。
 早雲は、その絵の中心に鋭い視線を向け、両手の平をそこに向け、
 「喝っ!」と叫んだ。
 一瞬、絵が立体感を失ったかのように見えたが、しかし、すぐにまたその形を取戻し、さらに立体度を増して、早雲に迫ってくるように見えた。
早雲の額から汗がほとばしり、再び彼は「喝っ!」と大声を上げた。
 立体を伴った絵が少し弱まったかなと思った頃合いを見計らって、早雲はお経を唱え始めた。
 ぼくが耳にしたことのない、歌うような、哀切を伴ったお経ともいえないようなお経を、早雲は声も涸れよとばかりに唱え続けた。三十分ほどすると、様子が変わってきた。徐々に立体が薄れ、平面だけの画像になり、やがて、大きな発声がして、「ギャーッ」と断末魔のような叫び声がしたかと思うと目の前の絵はすべて消え去った。
 それでも早雲のお経は続いた。しばらくしてシミが吸い込まれるようにしてすべて消えたところで早雲のお経は終わった。
 顔面蒼白の早雲は、脂汗を垂らしながら、その絵を手に持つと、庭に出て火をつけた。絵は勢いよく燃え、火と共に黒い影のようなものが立ち上ったかと思うと、やがてそれはかげろうのように天上に昇った。

 「この絵を描いた男の怨念が非常に強い力で、この絵の中に閉じ込められていた。一見してシミに見える絵だが、シミの内部には絵画の世界を一変させるほど魅力的で美的な作品が、現代絵画では考えられないほどの四次元的な作風で描かれていた。素晴らしい芸術家だったと思う。ただ、この画家の屈折した心理が災いして、それが悪霊につけいれられたのだと思う。残念だ。非常に残念だと思う――。
 早雲は灰になった絵画を眺めながら悲哀に満ちた表情を浮かべた。
 早雲に礼を言って外に出ると、背後から早雲の声が追いかけて来た。
 「おい、杉本、おまえ、彼女ができたらしいじゃないか、今度、会わせろよ」
 ぼくは曖昧な笑顔をみせて、早雲に手を振り、足早にその場を離れた。
やれやれ誰が言ったのやら。おしゃべりなやつもいるもんだ。そう思いながらも彼女の顔が脳裏をかすめた。会いたいなあ、素直にそう思った。
<了>


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