疑惑の電話

高瀬 甚太
 
 時計をみると午後1時を回っていた。静香は急いで買い物に出る支度をした。午後3時には娘の美沙緒が戻ってくる。それまでにすべての用事を済ませておかなければならなかった。
 軽く薄化粧をすると、静香は最近買ったばかりのピンクのサンダルを突っかけて外に出た。六月半ばの気候は不順で、雨傘を持って出ようかどうしようか迷ったが、結局、日傘を差してスーパーに向かうことにした。
 角のタバコ屋を曲がると小さな公園があった。今にも雨が降り出しそうな天候のせいか、公園の人影はまばらだった。
 「矢代さん、お出かけですか?」
 公園を行き過ぎようとした時、背後から呼び止められた。
振り返ると三軒隣の松下さんだった。
 「はい。ちょっとスーパーへ……」
 松下さんは話し好きだ。捕まったら話が長くなる。急いで切り上げないと、と思っていると、「矢代さん、ご存知ですか? お隣の鹿田さんのこと――」と松下さんが小声で話しかけてきた。
 鹿田さん――、何のことだろう。そう思ってつい「いえ、存じ上げませんが……」と返事をすると、待っていましたとばかりに松下さんは、黒縁のメガネをずり上げ、
 「いえね、ここだけの話なんですが、あのご夫婦、どうやら離婚するようですよ」
 と早口で言った。
 「離婚――! まさか」
 鹿田さんご夫婦といえば近所でも有名なおしどり夫婦だ。離婚するような雰囲気など微塵も感じられない。つい先日も二人で買い物をしているところを目撃したばかりだ。
 「そうなんですよ。そのまさかなんです」
 「信じられませんわ」
 「調停に入ったとお聞きしました。何でもご主人の浮気が原因だとかで」
 「子どもさんはどうなさるんでしょうね。成人なさっているお坊ちゃんはいいとして、下の娘さんはまだ中学生でしょ」
 「どうでしょうかねえ……。多分、奥さんが引き取られることになるでしょうね」
 「でも、急ですわねえ」
 「一昨日、ご主人の会社の方から奥さんに内緒の電話があって発覚したようですけど、ご主人はなかなか浮気をお認めにならなかったようです」
 「誠実そうなご主人ですものね」
 「誠実そうでも男と女の仲はわからないものですよ。鹿田さんの奥さんも最初、電話で聞いた時は信じられなくて、電話をしてきた相手の方をお叱りになったそうですよ。でも、『先週の金曜日、会社で残業があるといって遅かったでしょ。あれは嘘で残業を口実に会社の庶務の女性とホテルで会っていたんですよ。帰りが遅かったんじゃないですかとか、それにその前の週の金曜日も同じように残業と偽ってその庶務の女性と会っていたんです。会社に電話をして聞いてもらえばその日は定時に帰ったと教えてくれるはずですよ』、と言われて初めて気が付いて、帰宅した主人を問いつめたそうです。もちろんご主人はしらばっくれますよね。でも、そのうち言い逃れが出来なくなって渋々白状したそうです」
 「……」
 「奥さんは信じきっていたご主人に裏切られたショックで、その日のうちに娘と共に実家へ帰ったそうです。男って本当に裏で何をしているかわからないんだから……。あっ、でもうちは大丈夫ですよ。太っていて短足でみてくれが悪いでしょ。頭だってはげ上がっているし、もてるはずがないから心配いりませんわ。ホホ……」
 松下さんの話を打ち切るようにして、静香は、「すみません。ちょっと急いでいるものですから、今日はこれで失礼します」と詫びるように言ってその場を去った。
 お隣の鹿田さん夫婦が離婚――。静香は少なからずショックを受けた。ご夫婦ともいい人で、この町へ引っ越して来てからずいぶん世話になってきた。鹿田さんの主人と静香の夫は囲碁仲間で、休日の日など、時折、二人で碁を打っている時がある。夫は鹿田さんのご主人の浮気を知っていたのかしら、静香はふとそんな疑問を持った。
 スーパーで肉と野菜を買い、ケーキ屋で美沙緒の好きなアップルパイを買って家に帰った。美沙緒に会うのは久しぶりだ。アメリカへ語学研修の旅に出て三カ月、その間、メールで連絡はあるものの、一人娘の美沙緒のことが気がかりで仕方がなかった。変な男に引っ掛かっていないか、食事はちゃんと摂っているか、病気などしていないか――、二十歳を過ぎた一人前の女だからそれほど心配することはないのだろうけれど、それでもやはり気に掛かる。その娘がようやく帰ってくる。一週間前に国際電話があって、今日、3時に家に着くからと言ってきた。早く会いたい。主人もきっとそうだろう。そう思いながら夕食の支度をし、美沙緒の帰りを待った。
電話が鳴った。時計をみると午後2時半だ。美沙緒からかも知れない。そう思って急いで電話に出た。
 ―――もしもし……。矢代さんのお宅ですか?
 女性の声だったが美沙緒ではなかった。がっかりしながら電話の向こうの相手に「どちらさまでしょうか?」と尋ねると、甘ったるい声で、
 ――お宅の御主人、矢代準一っていいますよね。
 とゆったりした口調でいう。
 ――ええ、そうですが。何か……?
 問い返すと、電話の女は含み笑いをして、しばらく声を発しない。
 ――ご用がなければ電話を切りますよ。
 と言うと、
 ――切ったら損ですよ。
 と電話の女は含み笑いを続けながら言う。感じの悪い人だな、と思いながらもう一度、
 ――何かご用でしょうか?
 と確認すると、
 ――お宅の御主人、浮気をしていますよ。ご存知でした?
と言う。松下さんの話を思い出した。鹿田さんのお宅へかかって来た電話もこんな調子だったのだろうか。
 ――驚かれるのも無理はありませんよね。信頼しているんでしょ、ご主人のこと。
 ――うちの主人は浮気をするような人ではありません。
 ――フフフ……。最初はみんなそう言うのよね。でも……。
 そこまで言ったところで電話を切った。どうせイタズラだろう。話しぶりからしてそんな気がした。時計をみると午後3時少し前だった。もうすぐ美沙緒が帰ってくる。電話のことはそれっきり忘れてしまった。
 「ただいまーっ」
 玄関の扉が開いて、元気な声がした。美沙緒だ。急いで静香は玄関口に出た。
 「おかえりなさい」
 美沙緒を迎えようとして玄関口に立った静香は驚いた。美沙緒は一人ではなかった。
 「お母さん、ボーイフレンドのトム・マッケンジーくん。アメリカから一緒について来たの」
は しゃぐようにして紹介する美沙緒をみて、静香は複雑な思いでいた。
美沙緒の隣に立っていたのは、身長190センチ以上はあろうかと思えるのっぽの白人青年だった。
 「お母さん、奥で電話が鳴っているよ」
 美沙緒が気付いて静香に言った。嫌だわ、またイタズラの電話かしら。静香は二人に上がるように言って電話口に向かった。
 「もし、もし」
 やはり先程の女だった。
 ――いきなり電話を切るから驚いたわ。私の話を信じていないのね。
 ――もう結構ですから、電話を切りますよ。
 美沙緒は憤慨した口調で言い捨て、電話を切った。
 「どうかしたの? お母さん」
 美沙緒が心配げに静香をみた。
 「いえ、何でもないのよ。時々かかって来るのよね、イタズラ電話が」
 美沙緒を安心させるように言うと、トムの待つ応接室へ二人で向かった。
トムはある程度、日本語が理解できるようだった。会話も意志の疎通を欠かさない程度にはできた。それによると、トムはサンフランシスコの弁護士事務所で働いていて、弁護士の資格を取るために勉強中とのことだった。美沙緒が学んでいた語学センターのあるビルの中にトムが勤める弁護士事務所があり、エレベーターの中で知り合ったのだとトムは話した。
 「社内でかわいい日本人の女性がいるって、評判になっていたんです。ぼくも美沙緒をみてひと目で好きになりました。それでたまたまエレベーターで一緒になった時、思い切って声をかけたんです」
 それが最初の出会いだとトムは言った。真面目そうな青年だったので静香は少し安心した。
 「お父さんは何時頃帰るの?」
 しばらく三人で話をしていたが、退屈でもしたのか、美沙緒が言った。
 「そうね。あなたが帰ってくるから今日は早く帰ってくると言っていたけど、遅くても8時には帰って来るでしょう」
 「じゃあ、お母さん、私、それまでトムと一緒に少し近くを散歩してくるわ。いいでしょ」
 そう言うと美沙緒はトムと共に立ち上がり、
 「お父さんが帰るまでには戻るから」
 と言い残して家を出た。
 夕食の支度をしようとキッチンに立った静香は、美沙緒の好きなロールキャベツをつくろうとして、ケチャップがないことに気が付いた。
 そうだ。準一さんに頼もう。静香は夫の携帯に電話をした。だが、〈電波の届かないところにいるか……〉と応答が聞こえて、そうだ、会社へ電話をしてみよう、そう思い、今度は夫のいる営業部に電話をかけた。これまで夫の会社に電話をかけることなどなかったが、美沙緒が無事帰って来たことを伝えたかったのと、帰りにケチャップを買って来てほしいと――、それに昼間の松下さんの話が妙に気になっていた。
 ――ああ、奥さんですか。部長は今日、用があるからといって早めに退社しました。もうすぐ帰られるんじゃないですか?
 ――あのう……、何時頃帰りましたでしょうか?
 ――定時ちょうどに退社されました〉
 お礼を言って早々に電話を切った。時計をみると5時半だった。会社からだと1時間程度だから6時半過ぎには帰るだろう。そう思って準備を急ぎ、ケチャップは支度を整えた後、買いに出掛けることにした。
 ケチャップと缶ビールを数本買って静香が家に戻ったのが6時10分過ぎだった。
 その頃になってようやく雨が降り始め、しばらくすると本降りになった。夫は傘を持っていないはずだから駅に到着すると傘を持って来てくれと電話があるに違いない。そう思っていつでも出掛けられる準備をしておいた。
 美沙緒たちはどうしているだろう。気になったので美沙緒から連絡があった時のことも考えて二人分の傘をすぐに持ち出せるように用意した。
 連絡を待っていると電話が鳴った。時計をみると6時半だった。主人からだ、そう思った静香は急いで電話に出た。
 ――準一さんは今日、きっと遅いわよ。
 受話器に耳を当てた静香に先程の女の声が届いた。
 ――何回電話をして来たら気がすむんですか。主人はもうすぐ帰ってきます。
 ガチャン! と大きな音を立てて静香に電話を切った。それにしても馴れ馴れしい女だと思った。準一さんだなんて、親しい口振りで名前を言った。そのことが少し気になったが、静香は夫のことを少しも疑っていなかった。夫の仕事は化粧品の営業だ。不特定多数の女性と出会う機会は多い。実直で真面目な夫は、女性を相手にするのは大変だ、といつもこぼしていた。若い頃から女性を苦手にして、静香と見合いをした時も、見合いの席だというのにほとんど何も喋らなかった。断られるかな、と思っていたら二日ほどして電話がかかってきて、「もう一度、会っていただけませんか」とひどく緊張した様子で言うので、「わかりました」と答えると、「ありがとうございます!」とほっとした様子の声が聞こえた。
 二度目の出会いは、ホテルのディナーに招待された。この時も口数は少なかった。仕方なく静香が一人で喋っていると、食事を終えてワインを飲んでいる途中、唐突に、「ぼくと結婚してください」と何の脈絡もなく言われたので驚いた。
 その勢いに負けて、静香は「はい」と返事をした。誠実で実直な夫のことを静香は最初の出会いから気に入っていたのだ。
 緊張すると喋れなくなる性質の夫が化粧品会社の営業なんて嘘のような話と思ったが、仕事になると少し違うようだ。無駄なことはあまり喋らないが、言うことはしっかり言って、営業成績は結婚当初から良かった。係長に昇進すると課長になり、部長になるまで十数年かかったが、その間、単身赴任で地方の営業所を転々とした。
 単身赴任で地方に行くと、よく起こるのが不倫騒動だ。だが、夫に限っては一切、そんな噂が出なかった。とにかく真面目一方です、というのが部下の評判だった。それで静香も夫を信頼しきっていた。
 午後7時になっても夫は帰って来なかった。雨はいよいよ土砂降りになり、心配した静香は夫の携帯電話に何度も連絡を取ったが繋がらなかった。
8時少し前になって美沙緒から駅の近くにいるから傘を持って来てほしいという電話があった。家から駅までは歩いて十数分の距離だ。二本の傘を手にした静香は急いで家を出た。
 アスファルト舗装した道路に雨水が川のように流れていた。ビシビシと路面を打ち付けるような激しい雨に静香が手に持つ傘が何度も揺らいだ。
駅に着くと、背の高いトムがすぐに目に付いた。その横で小柄な美沙緒が手を振っている。もしかしたら夫も――。そう思ったが、夫の姿は見あたらなかった。
 家にたどり着くと、三人とも服がびしょぬれだった。美沙緒に着替えを渡し、トムには夫のジャージの上下を渡した。夫も決して背の低い方ではないが、それでもトムには役立たない。ちんちくりんのジャージを着たトムをみて、美沙緒と静香はひとしきり大笑いをした。
 8時半になったところで美沙緒とトムと三人で食事をすることにした。
 「やっぱりお母さんのロールキャベツ、最高!」
 美沙緒が絶叫するように言うと、トムも「おいしいです。とてもおいしいです」と片言の日本語で静香の料理を絶賛した。
 食事を終えた後、美沙緒に風呂をすすめ、トムにもその後、入るようにすすめ、静香はキッチンで夫の帰りを待った。
 深夜1時を過ぎた時間になってようやく夫が帰ってきた。美沙緒とトムは、疲れたからといってそれぞれの部屋ですでに眠りに就いていた。
 「遅かったですわね。美沙緒が帰って来ているんですよ、お友達を連れて」
 「そうか、そうだったな。もう寝たのか?」
 「ええ、疲れたといって11時頃床に入りましたわ」
 「元気そうだったか?」
 「ええ……、でもどうして今日はこんなに遅くなったんですか?」
 「仕事だよ。仕事。いろいろ大変なんだ」
 静香は、おかしいとは思ったが会社に電話をしたことを告げることができなかった。そのことを言えば、今まで築き上げてきたものが一瞬のうちに壊れてしまいそうな、そんな気がしたからだ。
 ――結婚して二十五年、静香が夫に抱いた初めての疑惑だった。
翌朝、夫は7時に起きると、8時に家を出た。美沙緒はまだ眠っていて起きてくる気配がなかった。
 「美沙緒に、今日は早く帰るからと伝えておいてくれ」
 夫は家を出る前、静香にそう言って足早に駅に向かった。
 昨夜、静香は眠れなかった。夫とは寝室は一緒だったが、布団は別だ。夫は風呂に入ると食事もせずに布団に入り、そのまますぐに寝入ってしまった。
 ――隣のご主人のようにうちの主人も浮気をしているのかしら……。
 夫の寝顔を眺めながら静香はそう思った。
 美沙緒は10時を過ぎた時間にようやく起き上がってきた。トムも同様に起きてきて、二人して朝食をとり、コーヒーを飲みながら、今日の予定を話し始めた。
 静香は洗濯をし、掃除をし、片付けをした後、美沙緒とトムを送り出した。
 正午近くになって電話が鳴った。電話に出ると昨日の女だった。
 ――どう、ご主人、昨日遅かったでしょ。あなたには仕事で会社にいたと言っていると思うけど、さすがのあなたも信じてはいないでしょ。昨日、あなたのご主人、準一さんは、会社を終えてからずっと女とホテルにいたのよ。どう、もっと聞きたい?
 受話器を持つ静香の手が震えた。切りたい、今すぐこの電話を切りたい。そう思ったけれど、それが出来なかった。
 ――ご主人の浮気相手は化粧品の代理店で働く三宅佳子、二五歳。あなたのご主人と付き合い初めて半年になるかしらね。肉感的で魅力のある女の子よ。男に人気があるわ。そんな彼女がなぜか夢中になったのがあなたのご主人。最初はあなたのご主人、準一さんは浮気をすることに抵抗があったみたい。奥さんに悪いと思ったんでしょうね。でも、すぐに陥落したわ。今ではあなたのご主人の方が彼女に夢中よ。
 三宅佳子……。聞いたことのない名前だ。しかも二五歳、美沙緒とほぼ同年齢。五十を間近に控えた私とは大違いだ。静香は女の話を聞きながら奈落の底へと気持ちが沈んでいくのを意識した。
 ――ねえ、聞いている? 男っていい加減なものでしょ。このまま放っておくとあなた捨てられるわよ。若い女に勝てないものね。フフ……。
 この女は何が言いたいのだろうか。なぜ、こんな電話をかけて来るのだろうか。静香は考えた。もしかしたらこの女が三宅佳子、夫の不倫相手では……、ふとそんな気がしたので聞いてみた。
 ――あなたの目的は何? 私たちを別れさせること? もしあなたが夫の不倫相手だとしても、私には無意味よ。ご忠告は嬉しいけど、主人は私の元へ必ず帰って来ます。あなたには申し訳ないけどね。
 静香はそんな言葉を発した途端、自信が満ちてくるのを感じた。そうだ、夫は必ず私の元へ帰ってくる。その確信が静香にはあった。電話の女は静香の言葉を聞いて一瞬、言葉に詰まった。
 ――後悔するわよ。強がりを言わないで早いうちに別れた方がいいと思うけど――。少しでも条件をよくしてあっさり別れて、いい老人ホームでも探したらどう?
 静香は不思議と腹が立たなかった。もし夫の気持ちが不倫相手に傾いていたとしても、私は負けない。私はどこまでも夫を信じているし、夫が今でも私を愛してくれていると信じている。
 ――ありがとう。ご忠告ありがたく受け取っておくわ。でも、あなたの思うほど夫婦の絆って軟くはないわよ。
 電話を切ると胸の支えがすっと取れた。信じるということがこれほどまで人を強くするのか――。夫を信じよう、愛を信じよう。静香は改めてそう思った。
 美沙緒はトムと共に夕方家に戻ってきた。静香は美沙緒とトムのために鍋料理をつくろうと思い立ち、その用意をし、美沙緒にも手伝わせた。するとトムまでもがキッチンに入って来て手伝わせてくれという。静香は二人に手伝ってもらいながら、鍋料理の他にもう一品、夫の好きな料理を久しぶりにつくろうかと思った。
 5時半を過ぎて、家に電話がかかってきた。一瞬、またあの女かと思ったが、電話に出ると、営業部の夫の部下、石井からだった。
 ――奥さん、すみません。昨日、ぼく、奥さんに誤解を与えるようなことを言ってしまいまして。
 ――えっ……、何のことですか?
 ――いえ、部長が定時に退社したことです。実はあの後、部長は代理店の人の接待を受けて新地へ行ったらしいんです。ぼくはそれを知らなくて、もうすぐ帰りますよって、奥さんに伝えたものだから部長に怒られて、女房にちゃんとそのことを説明しておけと言われまして……。
 ――そんなこと心配しなくても大丈夫ですよ。疑ってなんかいませんから。
 静香は笑って電話を切った。電話を切った後、静香はちょっとした安堵感に浸ることができた。部下の話が本当であるかどうか、夫の接待の話が本当であるかどうか、どちらでもよかった。疑い始めたらきりがない。
 6時半過ぎに夫が帰ってきた。美沙緒の好きなアップルパイを手にしていた。
 家に入るなり夫は美沙緒の名前を数回呼んだ。呼ばれた美沙緒は階段を駆け下りるようにして夫の元に駆け寄り、いきおいよくその胸に飛び込んだ。
電話の女は、夫の愛人が美沙緒と同年代だと話した。一瞬、美沙緒がその女とダブったがそれもつかの間のことだ。すぐに消えた。
 鍋が煮詰まり、食卓に全員が集まった時、その時になって初めて夫はトムの存在に気付いたようだ。夫は気むずかしい顔でトムを睨み付けた。トムは臆することなく夫に対し、静香と対面した時と同じ内容を夫にも話した。最初、夫はトムの存在をあまり快く思っていないようだったが、それでも食後、美沙緒とトムと三人でトランプに興じ始めると一気に和やかな雰囲気になった。
 
 翌日、隣家の鹿田さんが挨拶にやって来た。鹿田さんは、いろいろあって家を手放してやり直すことになりました、と晴れやかな顔で静香に言った。奥さんとの仲は相当悪化していたようだが、時間をかけて関係を修復していきたいとわりに元気よく語ったのが印象的だった。
 電話の女はあれ以来、一度も電話をかけて来ない。電話の女が誰であるか、詮索する気持ちにはなれなかった。男と女の関係は当事者でなければわからないものだ。あれこれ告げ口をして動揺させようとしても、そうはならない場合がある。とにかく信じることだ、と静香は思った。
 夫を信じ、夫を愛することでこれまでの静香の人生は成り立っていた。そこに美沙緒という娘がいて、二人のバランスをうまく取ってくれていたように思う。
 美沙緒が結婚をして日本を離れることになったら少しは二人の関係も変わるだろうか、いや、恐らく変わらないだろう。夫を愛し、信じている限り、何も変わらない。静香はそう思った。
 トムは家にやって来て三日目に九州へ旅立った。アメリカの友人が住んでいる町でしばらく滞在すると言った。美沙緒はその後について九州に行くのではと思ったが、そうはしなかった。日本でもう少し語学の勉強をして、翻訳の仕事をすると言い、かつてなかった意気込みをみせた。
 夫は不倫をしているのか、しないのか、たまに疑惑の行動を取る時もあるが、静香を大切にする姿勢は変わっていない。それでいいと静香は思っている。時折、電話が鳴ると、ハッとする時もあるが、今は笑い飛ばせるだけの余裕が静香にはあった。
〈了〉


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