小夜子のほくろ

高瀬 甚太

 「右目尻の下に黒子がある人は恋愛運に恵まれる」と、高校生の頃、占い師に言われたことがある。そのことを柿本小夜子は今でもよく覚えていた。
小夜子は、鏡を見る時、右目尻の下にある黒子をそっと撫でるのが癖になっている。
 ――いつになったら、その日がやって来るのだろうか。
 恋愛運に恵まれているはずなのに、心待ちにしているのに、小夜子の春はまだ来ない。女子短大を卒業して社会人になって三年が経つ。そろそろ白馬の王子が来てもいい頃だと、淡い願いを込めて、小夜子は黒子をそっと撫でる。
 小夜子はごく平凡な家庭に育った。贅沢ではなかったが、貧しくもなく、やさしい父母に愛情を持って育てられて来た。将来、家庭を持つなら父のようなやさしい男性をと思い、母のような妻になりたいと、小夜子は子供の頃からそう思って来た。
 目立たず大人しい性格の小夜子は、中学時代に同級生を、高校時代にはグラブの先輩に秘かに好意を寄せたことがあったが、いずれも片想いで、思いを伝えることが出来ないまま終わっている。
 ――恋愛運に恵まれているはずなんだけどなあ。
 顔もスタイルも人より劣っているわけではない。それなのになぜ、自分はもてないのだろうか。小夜子の友人たちの中にはすでに結婚した者もいたし、子供を産んだ者さえいる。ボーイフレンドを数人持ち、とっかえひっかえ交際している発展家の友だちもおれば、年配の男性と不倫をしている友だちもいた。小夜子はと言えば、そんな友だちの愚痴やのろけ話を聞く役割でしかない。
 「小夜子、男の子、紹介しようか?」
 と、男っ気のない小夜子に、男性を紹介しようとする者もいたが、小夜子は、その好意をありがたく受け止めながら、いつも丁寧に断るのが常だった。
 「どんな男性が好みなの?」
 会社の同僚の女子に聞かれたことがある。少し考えて小夜子は言った。
 「包容力があってやさしい人」
 決まってそう答える。
 「うちの会社にはそんな人、いないものねえ」
 同僚はそう言って社内を見渡す。社員三十名のネット通販の会社である。独身男性も少なくないが、お宅な男が多く、草食系といった言葉がぴったりの男たちがほとんどだった。
 社外合コンに誘われることもあったが、小夜子は合コンがあまり好きではなかった。参加すれば必ず疎外感を抱いてしまう。それが嫌で断って来た。
 「そんなことをしていると、男性と出会う機会を逃してしまうよ」
 同僚に忠告されることもあったが、小夜子はそうは思っていなかった。きっと白馬の王子が迎えに来る。そう信じていた。小夜子は、右目尻の下にある黒子を触っていつもそう思う。
 ――私、恋愛運に恵まれているんだから。
 と。

 小夜子の住まいは大阪府豊中市にあり、会社は大阪市中央区にあった。午前八時に家を出て、阪急電車で梅田に向かい、地下鉄谷町線に乗って、次の駅で乗り換えて二つ目の駅で下車する。地下鉄の駅から会社までは五分ほどの距離だ。
 総務課に所属する小夜子は、日々、事務作業に追われる。社内の人間と話を交わすことも少なく、昼食も母親が作ってくれた弁当を一人で食べる。退屈極まりない日常であったが、小夜子は気にする風もなかった。
 「得意先の人が易者をよく知っていて、連れて行ってくれると言っているのだけれど、柿本さんも一緒に行かない?」
 ある日、経理の浅川美智子が小夜子に声をかけた。
 「得意先の人って誰ですか?」
 小夜子が尋ねると、浅川は、笑って言った。
 「下田さん。見たことない? 大柄で朴訥だけど、とってもやさしい人。妻子持ちで、真面目な人だから大丈夫よ」
 小夜子が警戒して言っていると思ったようだ。下田なら何度か顔を合わせて挨拶ぐらいはしたことがある。三十代後半ぐらいだろうか、明るくて陽気な感じの人だった。
 「よく当たるんだって。その占い。行こうよ」
 浅川は、営業の女子も一緒に行くので合計三名になると小夜子に伝えた。
 ――あなたのその黒子は、とてもいいわよ。素晴らしい恋愛運に恵まれるわ、きっと。
 高校時代、占ってもらった易者の言葉が小夜子の脳裏にまた蘇った。
 「私も行きます。ぜひ連れて行ってください」
 あまりにも大きな声を上げたので、浅川が驚いて小夜子を見た。
 「いいわよ。一緒に行きましょう。下田さんに連絡しておくわ」
 浅川は、後で日時を連絡すると言って、その場を去った。
 二日ほどして、浅川から小夜子に連絡があった。
 「来週の水曜日、午後六時、地下鉄南森町駅3番出口を上がったところで待ち合わせということに決まったからね」
 その日が金曜日だったから、水曜日まで後5日。よく当たる占い師は、私の黒子を見て、どんな言葉をかけてくれるだろうか。小夜子はその日を楽しみにした。

 「ごめん、柿本さん。私と営業の瀬川さん、どちらも今日、行くことが出来なくなっちゃった。申し訳ないけど、柿本さん、一人で行ってくれない」
夕方近くになって浅川から電話がかかってきた。浅川は、急に高校時代の友人から連絡が入って会うことになったから行けなくなったと言い、営業の瀬川は、仕事の都合で行けなくなったということだった。
 話したことのない下田と二人きりで会うのは、何となく億劫な感じがしたが、占ってもらいたいという気持ちが強かったのと、待ち合わせ場所で待っている下田のことを思うと、行かないわけにはいかなかった。
 午後五時に仕事を終え、片づけをしていると15分ほどがすぐに過ぎた。慌てて会社を出た小夜子は、急いで待ち合わせ場所の南森町駅に向かった。
南森町駅の改札口を出て、三番出口の階段を上ると、商店街に出る。下田はそこで待っていた。
 「すみません。今日、浅川さんが来れなくなって、私一人なんですけど、よろしいですか?」
 小夜子の言葉に下田は、
 「構いませんよ。それじゃ行きましょうか。商店街を歩いて二、三分の場所にあります」
 と言い、小夜子を先導するようにして前を歩いた。小夜子が下田の後ろを歩いていると、下田が立ち止まって、小夜子に一緒に歩きましょうと言う。
 「下田さんて肩幅が広いですね。何かスポーツをやられていたのですか?」
 小夜子が聞くと、下田は、
 「学生時代にラグビーを少し、でも、今は何もやっていません」
 と答えた。小夜子は、下田に付いて何も知識がなかった。年齢も会社のことも、知っていることは、浅川から聞いた妻子持ちで真面目だということだけだ。
 「ここです。外で待っていますから、どうぞ中へ入ってください」
 商店街から少し西に入った路地に『占い』の看板がかかった小さな店があった。中に高齢の女性が座っていた。恐る恐る小夜子が中へ入ると、
 「お座りください」
 とやさしい眼差しで言った。
 机を間に挟んで対面するようにして座ると、易者の女性は、じっと小夜子の顔を見て、
 「あら、いいところに黒子があるわね」
 と言い、
 「その黒子はいい縁談に恵まれる黒子よ」
 と付け加えた。
 小夜子は思わずニッコリ笑った。
 ――やっぱり、恋愛運に恵まれた黒子なんだ。
 と改めて確信を持てたからだ。
 用紙に生年月日と姓名を書くと、易者の女性はそれをじっと見て、確認するように小夜子に言った。
 「黒子だけじゃないわよ。いい運勢を持っている。素直にのびのびと育てられてきたのね。大人しくて控えめで、反抗なんて、これまでしたことがないでしょ。好きになった人は、今まで二人ほどいたみたいだけど、すべて片思いで、心を打ち明けないまま終わっているわね」
 小夜子は、驚いた。
 「そんなことまでわかるのですか?」
 「もっといろんなことがわかるわよ。あなたの今の不安な気持ちから、会社を退職しようかと考えていることまで――」
 胸を突きぬかれる思いがして、小夜子は戸惑った。どうしてそんなことまでわかるのかと――。確かに退職を考えていることは事実だった。変化の乏しい現状に対する焦りがあった。このままではいけない。その思いが会社を退職しようと思う気持ちにつながっている。
 「でも、会社は退職しないほうがいい。退職しても今よりいい給料は得られないし、いい出逢いを逸してしまう恐れがあるわ。今までもあなたは待っていた。これからも、落ち着いて焦ることなく待つこと。そうすれば、きっとあなたの生涯の伴侶が現れる」
 ――今の会社にいて、果たして出逢いがあるのだろうか。疑問を抱いたが、易者の女性は、畳みかけるようにして小夜子に言った。
 「いい出逢いを本物の出会いにするために必要なことは、今のあなたの素直さ、やさしさ、今のすべてを持続すること。いいわね」
 占いの部屋を出ると、下田が待っていた。
 「どうでしたか?」
 小夜子は、易者の女性に言われたことをそのまま下田に話した。
 「そうですか。私もそう思いますよ。柿本さんは素晴らしい女性ですから、きっといい縁が見つかります」
 ――素晴らしい女性。
 その言葉を聞いた途端、小夜子の心臓が、ドキンと音を立てて鳴った。
 「せっかくですから食事をご馳走します。おいしい店があるんですよ」
 下田が先に立って歩く。下田のことをよく知らないのに、のこのこついて行っていいものかどうか、一瞬、迷ったが、下田の人柄に好感を持っていた小夜子は、
 「ありがとうございます」
 と言って、急ぎ足で下田の広い背中を追いかけた。
 下田が入った店は、カウンターだけの小さな居酒屋だった。ガスコンロが席に一つずつ置かれている。並んで座ると、下田が、「瓶ビール一本、グラス2つ」とカウンターの中にいる店の人にオーダーした。
 「この店の料理は小鍋料理と言って、ガスコンロに小さな鍋を置いて、そこに白菜やモヤシ、鶏肉、豆腐、うどんなど好きなものを煮込んで、特製のポン酢で食べるのです。これが実においしい」
 そう言って、下田は解説し、小夜子の鍋に豆腐と鶏肉、白菜、モヤシの類を入れ、ポン酢で食べるよう勧めた。
 冷えたビールがグラスに注がれる。それを小夜子が美味しそうに呑むと、下田が驚いて聞く。
 「柿本さんは酒が強いのですね」
 「高校生の頃から、酒の呑めない母に代わって、私が父の晩酌を務めて来ました。それが毎晩のことですから、今では父も驚くほど強くなっています」
 グラスの中の冷えたビールが喉を通る。煮えた小鍋の中の白菜やモヤシをポン酢に入れて食べる。どんな豪華な料理より、ずっと美味しい気がして、小夜子は下田に言った。
「おいしいです! すっごくおいしい。ビールによく合いますね」
 下田は、顔をほころばせ、
 「よかった。そう言 ってもらうと嬉しいです」
 と言って、グラスのビールを軽々と呑み干した。
 その日、小夜子は、家族のこと、好きになった人のこと、会社のこと、さまざまなことを下田に話して聞かせた。何事にも慎重な小夜子にしては珍しいことだった。酒に酔って言っているわけではなかった。下田が醸し出す温かな雰囲気に包まれていると、何でも話したくなる。両親以外の人で、こんなにも自由にのびのびと話が出来たのは、生まれて初めてのことではないかと、小夜子は思った。
 別れる時、小夜子は今日のお礼と共に、下田に言った。
 「下田さん、私、こんなに楽しく呑めたの、生まれて初めてです。本当に楽しかった」
 下田は、頭を掻きながら、
 「いやあ、嬉しいなあ。いつでも遠慮なく連絡ください。また、楽しく呑める店をご案内しますよ。ぼくも楽しかった」
 と言う。小夜子は、
 「本当ですか!?」
 と下田に聞いた。下田は、
 「もちろんですよ」
 と温かな笑みを満面に浮かべて答えた。

 三日経って、小夜子は下田の携帯電話に連絡をした。下田は電話に出ると、
 ――先日はお疲れ様でした。
 と、明るい声で答えた。その声を聞いて、小夜子は勇気を振り絞って言った。
 ――私こそありがとうございました。あのう、大変、厚かましいお願いですけど、また、下田さんに連れて行っていただいてもいいのでしょうか?
顔から火が出るほど恥ずかしい思いがした。ご馳走してくれとねだるなど、最低のことではないかと思っていたからだ。だが、小夜子は、あの後、下田と過ごした楽しい夜のことが忘れられずにいた。何事にも引っ込み思案で、女友だちにすら、あけっぴろげに自分を語ることがなかったのに、下田にだけは、本当に何でも話すことが出来た。なぜだろうか。小夜子はそれを確かめたかった。
 ――もちろん、いいですよ。いつでも都合のいい日を言ってください。合わせますから。
 小夜子は安堵の思いで、胸をなでおろし、下田に言った。
 ――今日なんかは無理ですよね。
 ――大丈夫ですよ。この間と同じ時間でよろしいですか。同じ場所で待っています。
 電話を切ると、顔が赤く上気していることに気が付いた。あまり、よく知らない男性に、自分から誘いをかけるなんて、一体、私はどうしたのだろう。誰にも気づかれないように席に戻ると、浅川が待っていた。
 「柿本さん、この間はごめんね。占い、どうだった?」
 浅川に聞かれて、どう応えたらいいものか、小夜子がドギマギしていると、
 「でも、下田さん、やさしかったでしょ。また、一緒に行こうね」
と言って、手を振って去って行った。
 占いの後、下田と一緒に酒を呑んだことや、楽しく話したこと、今日もまた、会うことなど、とても浅川に話すことなどできないと思った。
 下田のことを恋愛の対象として見ているわけではなかった。それなのに、自分はなぜ、下田に会いたいと思うのか。小夜子は自分で自分の気持ちがわからなかった。

 待ち合わせ場所に着くと、先日と同様に、下田が待っていた。
 「すみません。電話なんかして、しかも厚かましいお願いをしてしまって――」
 小夜子が恐縮して言うと、下田が笑みを浮かべて言った。
 「いいんですよ。電話をしてもらって、しかもお願いされて。ぼくの方が嬉しかったぐらいです。本当に気にしないでください」
 屈託のない笑顔を浮かべる下田を見て、小夜子は少し安堵した。
 前回とは違う居酒屋に、下田は小夜子を案内した。
 「この店は値段が安いわりに一品一品が本当に美味しい。ビールの冷え方も天下一品です」
 小夜子は、親父が通うような居酒屋の雰囲気が好きだった。前回の店もそうだったが、この店も心からくつろげると思った。
 午後六時過ぎに店に入って、店を出たのが午後八時過ぎだった。その間、小夜子はビールを何本呑んだだろう。今回も小夜子は、前回と同様に、自分のことをあけっぴろげに話して聞かせた。下田は頷きながら、笑みを絶やさず小夜子の話を聞いている。前回とダブる話があったかも知れなかったのに、下田は初めて聞くような顔をして、熱心に小夜子の話に耳を傾けた。
下田と会って楽しいのは、自分のことを何もかも喋れるからではないか、と小夜子は思った。自分を明るい笑顔と気さくな態度で受け止めてくれる下田の包容力に満たされて、小夜子の心はますます高揚した。
 この日、初めて小夜子は、下田のことを知った。下田には妻がいて、子供がいること。会社を経営している社長だということも――。
 「会社といっても小さな会社です。従業員が三人しかいませんから」
 下田は謙遜して言い、自分の年齢は五十歳になったばかりだと言った。年齢を聞いて、小夜子は驚いた。三十代後半とばかり思っていたからだ。とても五十歳には見えなかった。
 「柿本さんのお父さんはおいくつですか?」
 と、下田に聞かれて、その時、初めて自分の父親と年齢が変わらないことに気が付いた。
 「五十三歳です。でも、下田さんの方がずっと若々しい」
 お世辞ではなかった。下田の発するエネルギーや表情は、老いを感じさせないほど、溌剌としていた。
 「こうやって二人でいると、きっと親子で呑んでいるように見えるでしょうね」
 自虐的に言う下田の言葉を、小夜子が抑え付けた。
 「いえ、親子じゃありません。きっと恋人同士に見えると思います」
 下田の顔が二重三重に変わり、
 「お世辞でも嬉しいなあ」
 と言って、グラスの酒を呑み干した。

 多い時で週に三回、少ない時でも一回は、小夜子は下田と会って酒を呑んだ。会ううちに、年齢の壁が少しずつ崩れ去り、そのうちまったく意識をしなくなった。
 両親が二人で旅行に出かけ、弟も合宿で信州へ出かけた日、小夜子は何となく解放された気分になって、いつになく下田と共にたくさんの酒を呑んだ。下田が、「それ以上、呑まない方がいいよ」と何度かたしなめたが、小夜子は意に介さず呑み続けた。
 たいてい午後八時過ぎには店を出て別れるのだが、その日は、小夜子が無理を言って下田を押し止め、ようやく店を出たのが午後十時を過ぎた時間帯になった。いつになく酩酊した小夜子は、おぼつかない足取りで下田と共に店を出て、賑やかな大阪ミナミの街並みを歩いた。
 歩いている途中、ウッと小夜子が身体を追って声を上げ、口元を抑えた。小夜子が吐き気を催したとわかった下田は、寄れる店を探したが、それでは間に合わないと思い、小夜子の手を引っ張ってラブホテルの中に入って行った。パネルで空いている部屋を見つけると、急いでエレベータで三階に上がり矢印の示す部屋へ直行した。
 部屋に入った小夜子は、すぐさまトイレと浴室が一緒になった場所に飛び込み、トイレに向かってゲー、ゲーと激しい勢いで嘔吐し始めた。下田はその間、誘惑的な色彩を放つベッドの上で静かに小夜子の回復を待っていた。
三十分ほどして静かになったので、心配した下田がドアを開けると、素裸になった小夜子がぐったりとなってトイレの横に横たわっていた。
 衣服を汚してはいけないと思ったのだろう、脱ぎ捨てた衣服が丁寧にその脇に積まれていた。下田が声をかけるが、トイレの脇に横たわった小夜子は軽い寝息を立て、素裸で眠ったまま反応がない。バスタオルで冷たくなった小夜子の身体を覆い、バスの中に湯を溜めた下田は、自身も裸になって小夜子を抱きかかえ、風呂の中へ入った。
 素裸の小夜子を抱きかかえた下田の心情は尋常ではなかった。白い肉体、グラマーではないが均整のとれた若い体、下田の男が次第に膨張して、理性を押し潰そうとしているのがよくわかった。だが、酔いつぶれている小夜子に手を出すことはしなかった。下田は、小夜子を湯から抱き上げて出し、タオルで顔や体を拭い、再びバスタオルで包み、ベッドに運んでそっと寝かせると、そっと布団をかけた。
 ようやく落ち着いた下田が、ベッドの近くに置いてあるソファに横たわり、電気を消して眠ろうとすると、ベッドの中から小夜子の声がした。
 「寒い、寒い」
 布団をかぶせていたが、素裸なので寒いのだろうか、そう思った下田は、他に何か被せる者はないかと電気を点けて探した。するとまた、
 「一緒に入って温めて」
 小夜子のか細い声がした。下田は布団の中へ潜りこむと、小夜子の隣に寝て、そっと小夜子を抱いた。
 「服が冷たいわ。私だけ素っ裸で自分は服を着ているなんてずるい」
 まだ酔っているのか、それとも正気なのか、下田には見当が付かなかったが、下田は服を脱ぎ、素裸になると冷たく固くなっている小夜子の体を抱いた。
 下田に抱かれながら小夜子が言った。
 「温かいわ。でも、約束して。何もしないって。触るのも駄目よ。抱いてくれるだけでいい」
 膨張していた下田の男の部分が、その言葉で一瞬のうちに萎えた。興奮と緊張で眠れない下田をよそに小夜子はスヤスヤと寝息を立てて眠った。
 朝方になって、ようやく眠りに就いた下田が目を覚ますと、衣服を着た小夜子が、素裸の下田の下半身をじっと見つめている。下田が思わず隠そうとすると、その手を払いのけて小夜子が言う。
 「もう少し見せてよ。私、男の人のもの、見るの初めてなんだから」

 その日を境に、小夜子と下田の付き合いは変わった。徐々に男と女の付き合いに変化して行ったのだ。
 一年ほど過ぎた頃のことだ。総務課で仕事をしている小夜子を部長の浜崎が呼んだ。浜崎は、小夜子を呼ぶと、開口一番、「見合いをしてみないか」と聞いた。
 唐突な話に小夜子が驚いていると、浜崎は、見合いを勧める事情を小夜子に話した。
 「実はね。うちが世話になっている会社の社長の息子、専務なんだがね。その専務がきみを見初めたらしくて、見合いをセッティングしてくれと、言ってきたんだよ。どうだね、一度、会ってもらえないか」
 大手の企業である。そんな会社の専務が、なぜ、自分なんかに――。誰かと間違っているのではないか、そんな気がして小夜子は部長に確認した。
「先月、うちの会社の十周年記念パーティがあっただろ。あの時、きみに受付をしてもらったじゃないか。その時、専務が来賓として来てくださって、その時、きみを見初めたらしい」
 どんな男性だったか、たくさんの人が来てくださったのでまるでわからない。小夜子はそれでもまだ、自分が見初められたということが信じられずにいた。
 「専務の名前は、東条久敏。年齢は三十歳。京都大学を卒業されたバリバリの御曹司だ。五年後には、社長が会長に退き、久敏くんが社長に就任する予定だ。玉の輿もいいところだよ。わしの娘と代わってほしいぐらいだ」
 吸いかけの煙草をガラスの灰皿でもみ消しながら部長がそう言った。部長もきっと、何でこの娘なのだと思っているのだろう、小夜子にはそんな気がした。
 大会社の御曹司と私なんかが釣り合うはずがない。きっと、何かの間違いだろう。小夜子はそう思い、とにかく部長に頼まれたことだ。会ってみるだけ会ってみるしかない。そう思い直して部長に礼を言い、部屋を出た。
 その日の夜、小夜子は下田と会った。下田と会うと、日本橋か千日前で軽く食事をして、その後、谷町九丁目にあるラブホテルに行くのが最近の慣例になっていた。
 小夜子は、下田の広い大きな背中と温かな胸が大好きだ。ベッドの中で下田に抱かれていると親鳥の羽に包まれているような気がして、とても幸せな気分になる。
 ベッドの軋む音に合わせて、小夜子の快感が募る。今では、声を上げ、失神に近い状態に陥るのも稀ではなくなっていた。
 帰り支度を始めた下田に、小夜子は、部長に見合いをするよう頼まれた話をした。
 「見合い?」
 と、下田が驚いて聞き返した。その表情に失意の色が広がるのを小夜子は見逃さなかった。
 「気にすることないわ。きっと何かの間違いよ。そんな御曹司が、受付をやっている女性に一目惚れするなんてありえないことだもの。そんなに私、眼を見張るような美人じゃないから」
 下田は、暗い表情を押し隠すように、明るい表情を見せ、小夜子に聞いた。
 「小夜子、その男性と見合いをするのか?」
 「部長に頼まれたから断れないし、会うだけならいいかなと思って――」
 ベッドに座り直した下田が、小夜子の細く小さな手を固く握って言った。
 「小夜子にとって、見合いは、いい機会になるかもしれないな。そんな気がするよ」
 「どうしてそんな言い方をするの? 下田さんは私と別れたいわけ」
 「そうじゃないよ。そんなこと思っているわけがない。ただ、小夜子は自由なんだよ、とそのことだけを言っているんだ。他の人を愛することも、結婚を考えることも小夜子はぼくの束縛を受けることなく自由にできる。そう言っているんだ」
 「だって――」
 「ぼくは小夜子を愛している。小夜子もぼくを愛してくれている。でも、ぼくたちは結ばれない。なぜなら、ぼくには妻がいる。妻がぼくと別れたいといえば別だけど、多分、妻はぼくと別れない。その理由は、小夜子への愛とは違った意味で、ぼくは妻を愛しているし、妻もぼくを愛しているからだ。長年、苦楽を共にして、互いに理解して、ここまで来た。
 ぼくは、小夜子を愛した。こんなに人を好きになることがあるのかと思うほど好きになった。小夜子の若さや体を欲しただけじゃない。小夜子の性格、小夜子の考え、小夜子の思い、それらすべてをひっくるめて、ぼくは嘘偽りなく小夜子を愛した。
でも、ぼくが小夜子に与えるものは何もない。小夜子の若さを吸って、肉体を味わって、その上、小夜子の人生を悲しいものにしようとしている。何の責任も取れない男は、男として最低だ。そんなぼくが今、心から望むのは、小夜子に幸せになってもらいたいと願う、その思いに尽きる」
 「ずいぶん勝手な言い分ね。奥さんがいることなんて最初からわかっていることだし、下田さんが奥さんを大切に思っていることに私が気付かないとでも思った? すべて承知の上で私は下田さんと付き合ってきた。理由なんかないわ。ただ、下田さんのことが大好きで、ずっと一緒にいたいと思った。それだけのこと――」
 「……」
 「私、見合いをする。もし、その人が私と結婚したいと言ったら、私、その人に一つだけ条件を付ける。結婚しても下田さんとの付き合いを続けさせて欲しいと。下田さんとの付き合いを許してくれないような度量の小さな男なら、こちらから願い下げよ」
 小夜子の言葉に、下田が怒りをあらわにした。
 「馬鹿、そんなことを言って許す男がどこにいる。小さい大きいの話じゃない。結婚したいと思う男の気持ちを甘く見てはいけない。もっと真剣に相手のことを考えないと――」
 「相手だって、実際に私と会って、ガッカリする可能性だってあるじゃない。一目ぼれなんて、相手が自分の妄想を勝手に押し付けて、本当の私を見ていない場合がほとんどだと思う。でも、もし、結婚して欲しいと言われて、相手のことがそれほど嫌いにならなかったら――。その時は、下田さん内緒で付き合おうよ。私、下田さんと別れたくない」
 「だめだよ。女は、愛されて結婚するのが一番なんだ。その男がろくでもない男なら別だが、そうでなければ、時間をかけて愛しなさい。本当の幸せはその先にあると思うから」
 「でも、嫌よ。私、下田さんと絶対に別れない」
 「じゃあ、こうしよう。相手も真剣に見合いを申し込んできている。小夜子も真剣に相手と向き合いなさい。その上で、しっかり判断しなさい。ぼくはいつでも小夜子を応援している」
 小夜子は、下田をじっと睨み、やがて、ポロポロと大粒の涙を流し始めた。そんな小夜子を見ていると、否が応でも愛しさが募ってくる。妻や子供を捨てて、小夜子と一緒になりたいと何度思ったことだろう。しかし、妻には何の不足も文句もない。嫌だと思ったこともなかった。下田の性格からして別れられるわけがない。
 ホテルを出て、地下鉄の駅に向かって歩く途中、小夜子はいつにも増して大胆下田の腕に自分の腕を絡ませた。繁華街のネオンと喧騒とした街並みに、涼しい風がそっと流れてくるのを小夜子は頬で感じた。

 見合い当日、小夜子は親の言いつけで、成人式の日に着た晴れ着を身に着けて見合いの席であるホテルに向かった。両親と会社の部長が同席した。
見合い相手の男は、決められた時間より早く、小夜子の到着を待っていた。部長が時計を見て、遅刻したのかと、思わず慌てたほどだ。
 「すみません、遅くなって」
 部長が走り寄って謝ると、見合い相手の男は、笑顔で立ち上がり、
 「こちらこそ、早く来過ぎてしまって申し訳ない。本日はお世話をおかけします。どうぞよろしくお願いします」
 と丁重な挨拶をした。その様子を見て、小夜子は、見合い相手の男を見直した。大会社の御曹司というから、もっと気障で自我の強い、上から目線の男と思っていた。それがどうだ。そんな雰囲気などかけらもなく、柔和な笑みを浮かべて部長に挨拶し、佐代子と両親に丁寧な挨拶をした。
 「早川恭一です。本日はご無理を申し上げて申し訳ありません。早川商会の専務を務めております。ここにいるのが父の早川恒夫と母の早川いそのです。よろしくお願いいたします」
 歯切れのいい声で、しっかりと挨拶をした。
 早川恭一と両親、部長と小夜子、小夜子の両親が対面するテーブルに座っている。コース料理が次々と運ばれてきて、緊張しながら、小夜子はナイフとフォークを使う。
 恭一が小夜子を見つめて話し始めた。
 「私、現在、三十歳になります。この年まで恋愛したことがないと言えば嘘になりますが、結婚したいと思ったことは、これまで一度もありませんでした。できれば独身で生涯過ごしたい、そう思っていたほどです。両親も匙を投げている、そんな状態でした。ところが先日、私が『結婚したい人がいる』と言ったものですから、両親の驚きようは、それはもう大変なものでした。誰だ、どこの女性だ、と聞くのですが、答えようがありません。一度しか会ったことのない女性だと言うと、両親は呆気に取られて声も出ませんでした。
 柿本さんと出会ったのは、貴社のパーティに招待された時のことです。受付で名札とリボンを渡され、それを付けるのに戸惑っていると、柿本さんが傍に来て、ごく自然な感じで付けてくれました。ありがとう、と言うと、柿本さんは、微笑みながら『いいえ』と言って再び受付の席に戻りました。細かな説明など、何も申しません。私はその瞬間、柿本さんのことがすごく気になり始め、もっとこの女性のことを知りたい。そう思うようになりました。その日からずっと柿本さんのことが忘れられず、とうとう私は部長さんに連絡を取り、見合いをセッティングしてほしいと依頼しました。突然のことで、さぞ驚かれたことと思います。私の勝手なお願いに賛同していただき、お出で下さったこと、本当に感謝しています」
 ――名札とリボンを付けた……。そうえば、そんなことがあったと思うぐらいで、記憶が曖昧だ。小夜子は、その日のことを思い出そうと懸命になったが無理だった。あの日は、たくさんの出席者がいた。名札とリボンを付けて上げた人も一人や二人ではきかなかったと思う。
 「柿本さん、ご両親と私の両親のいる前で、正式にお願いします。小夜子さん、私と結婚してください」
 恭一は、はっきりした物言いをする人だった。自分を偽りなく、照れることなど一切なく、自分の気持を相手にぶつける。素晴らしい男性だと、小夜子は改めて思った。
 「でも、私、あなたの思っているような女ではないかも知れません。あなたの思い違いかも知れないし、あなたをガッカリさせてしまう可能性だって少なくないと思います」
 小夜子の返事を聞いて、恭一は笑った。
 「あなたに大そうな理想を抱いているわけではありませんから、ご安心ください。私にとって、自分が結婚したいと思った相手がいた、そのことが最も大切なことなんです。直感を私は昔から大切にしています。その直感が私に命令しているのです。柿本小夜子さんをお嫁さんにしろと。あなただって、初めて会った私が、どんな男かわからない。だから、不安だけしかないと思います。でも、元々、男女の仲はそんなものではないですか。不安を解消し、お互いをよく知るためには、ゴールを決めて、目標をしっかり持って付き合うことが大切だと私は思います。
 小夜子さん、結婚を前提に私と付き合って、私のことをもっとよく知ってください。その上で鼻に突くような欠点が見つかれば、遠慮なく言ってください。矯正するよう努力します。私はあなたに夢中です。あなたのすべてを受け入れます。それは私のあなたへの約束です」
 大柄な体格と不器用そうな動作。でも、頭脳明晰さを感じさせる話し方。自分の意志をしっかり伝える話し方に、小夜子は恭一の誠意を感じた。
 どことなく雰囲気が下田に似ていることも気になった。広い肩幅とやさしい眼差し、小夜子にとって、信じられると思うものが恭一の中にいくつもあった。
 「お願いします」
 小さく頷き、返事をすると、恭一が、眼の前でバンザイをした。それを見て、小夜子はクスリと笑った。恭一が恥かしそうに頭を掻いた。その様子が、下田に似ていて、小夜子はまた、ドキリとした。

 見合いの成果を伝えようと、小夜子は下田に電話をした。しかし、何度、電話をしても下田につながらなかった。会社に連絡をしようと思って電話をするが、電話を受けた担当者は、「社長は外に出ていて、本日は戻りません」と素っ気なく言って電話を切ろうとした。
 ――柿本と申します。社長にご伝言、お願いしたいのですが。
 ――社長には、伝言は聞くな、と言われていますのであしからず。
 そう言って電話が切れた。
 以来、下田とは一切、連絡が取れなくなった。やがて、携帯電話も番号を変えたのか、まったく通じなくなってしまった。

 恭一は、毎日のように小夜子に電話をくれた。いつしか小夜子は、恭一の電話の声を聞くと、ほんわかとした温かさに包まれ、どうでもいいようなことまで話すようになった。
 正式に結婚が決まったのは、見合いから三カ月後のことだった。恭一は、大らかな心を持った包容力のある男性だった。しかもやさしくて、細かなことはあまり気にしない。時々、小夜子は、恭一に対して、思わず「下田さん……」と言いかけて口を押えることがあった。それほど、恭一は下田と似ているところがあった。
 下田とはあれ以来、音信不通になっている。小夜子はそれを下田の思いやりと最近では感じるようになった。
 今でも時々、小夜子は右目尻の黒子を触ることがある。以前と違うのは、幸せを確認するためにだけ、そっと触る。結婚式は三カ月後の秋、恭一の希望で、結婚式を文金高島田でやることになった。秋になれば――。小夜子は、そうつぶやいて、また、右眼尻の黒子をそっと触った。
<了>


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