女の独白 運命の人

高瀬 甚太
 
 
 大阪市内の小さな小間物問屋の二女として生まれた私、佐伯和江は、女子高を卒業してすぐに市内の衣料品販売会社に就職した。中学、高校と地味で目立たない存在の私に浮いた噂など一つもなく、学生時代はずっと恋愛などとは無縁の生活だった。
 私が就職した会社は、繊維を扱う問屋で、本町の一等地に十階建ての自社ビルを持つ、繊維問屋としては規模の大きい会社だった。従業員も100名を有していて、男性と女性の対比が約半々ということもあり、他社に比べて社内恋愛が活発で、職場結婚が多いのが特徴の会社だった。
 同期の社員は十名で、男性五人、女性五人、そのうち大卒が四名、短大卒が二名、残りの四名が高卒で、二週間の研修期間中、この十人が共に行動し研修を受けた。
 私が、同期の社員の中で最初に話をするようになったのは加藤保美という短大卒の女性だった。引っ込み思案の私を気遣い、気安く声をかけてくれたことが縁で、以後、仲良く話すようになった。
 同期の仲間は、研修こそ一緒に受けるものの、全体で行動することは少なく、それぞれ二人、三人と固まり、休憩時間や食事の時間をてんでに過ごすことが多かった。
 研修期間中、私は保美と共に行動したが、時折、玉本寿一という同期が私と保美の間に割り込んでくることがあった。玉本は大卒で身長が高く、ひょうきんな言動をする男性で、彼がそばにいると周りが明るくなる、そんなところのある人物だった。
 玉本は保美に関心があるようで、私がそれに気付いたのは、彼の保美を見る視線の熱さだった。度々、私たち二人に話しかけてくる玉本に気遣って、私はわざと席を外すよう心掛けた。保美もまた、まんざらではないといった表情で玉本との会話を楽しんでいた。
 研修が終わると、それぞれに持ち場が与えられ、職場での訓練が始まった。私は、三田明日香という同じ高卒の女性と共に営業事務の職場に赴任することになった。この職場は男性の多い職場だ。私と三田は男性社員たちから大歓迎され、早速、その日のうちに歓迎会が開かれた。
 営業課には二十五人ほどの社員がいたが、そのうち男性は十九人、女性は和江を入れて六名しかいなかった。既婚者は十一人ほどいたが、半数以上の人は独身で、年齢も十代が三人、二十代が五名、三十代が二名、四十代の男性が一人といった構成で多岐に亘っていた。課長はもちろん既婚者で、四十代半ば、係長も既婚者で三十代後半、主任は四十代前半だったが独身だった。
 歓迎会の席上、明るく陽気な三田は、みんなの笑いを誘って早速、人気者になったが、私はじっと一人、身を屈め、みんなの輪の中に入りきれないまま、歓迎会が終了した。引っ込み思案の私は、たくさんの人の中に入るとどうしても気後れしてしまう。社会人になったら少しは――、そう思っていたのだが、やはり急には無理だったようだ。
 仕事は思っていた以上に忙しく多忙を極めたが、残業などはほとんどなかった。定時で帰れる日が多く、そんな時、販売促進課の保美と待ち合わせをして時々、お茶を飲むのを楽しみにしていた。
 話題になるのは常に社内の男性の話だ。保美はてっきり玉本と交際しているとばかり思っていたが、研修が終わった段階で興味を失ってしまったそうで、今は新しい彼を物色していると笑って話した。その彼女の新しいターゲットになっていたのが、社内の女性たちの垂涎の的になっている秋山幸二だった。秋山は販売部に所属する二五歳の男性で、そのハンサムな容姿とスタイルで社内の女性たちの人気を独り占めしていた。
 「佐伯はどうなの。いい人見つけた?」
 保美に聞かれた私は返答に窮した。気になる人がいないといえば嘘になるが、それほど関心を持っていなかったからだ。地味でさほど美人でもない自分のことを男性が気にするはずもなく、仮に好きになったとしても片想いに終わってしまうだろうと思っていたからだ。
 「入社してまだ二カ月だからよくわからなくて――」
 私が自信なさげに答えると、保美は、首を大きく振って、
 「そんなことだから駄目なんだよ。女の子は入社一年目が勝負なのよ。男はみんな入社一年目の子に注目しているからね。二年目以降はよほどのことがない限り注目してくれない」と言う。
 確かにそうだと私も思った。でも、それも人によりけりだ。保美のようにスタイルもよく見栄えのいい女性は、男性の眼を惹く術を知っている。でも、私のような人間は、たとえ一年目であっても誰も注目してくれるわけがない。そう思っていた。
 「今度、社内合コンをするからね。佐伯も必ず出席するのよ。いいね」
 社内合コンがあることは知っていた。でも、それが何時、どんなタイミングで行われるのか、詳しいことは知っていなかった。
 「一週間後の金曜日。集合場所はこのビルの最上階、午後5時30分に行われるからね。目立つ服装を着てくるのよ。いいね」
 念を押して保美は去って行った。保美に聞くまで私は社内合コンについて、噂は聞いていたものの、詳しい情報は何も聞かされていなかった。独身男女が一堂に集まるなんてとても無理だと思ったので、人を選んで合コンをするのだとばかり思っていたからだ。だから私のような人間にはきっと連絡が来ないはず、そう思っていた。でも、それは杞憂に終わった。翌日、合コンパーティの案内が総務部から私の元に届いた。
 営業課の人間でさえ、ほとんど話したことがないのに、その他の職場となると、どんな人がいるのかまるで見当が付かなかった。保美の好きな秋山だけは、食堂でよく目にしていたが、それ以外の人となると皆目見当が付かなかった。
 年に一回開かれる社内の合コンパーティは、その後の成婚率が高いことで有名なパーティだった。保美は、女子社員人気ナンバーワンの秋山を落とすのだと張り切っていたが、私は多分、退屈な時間を過ごすことになるのだろうな、と予想した。それでも出席したのは、新入社員は全員、出席が義務付けられていたからだ。
 パーティ当日は朝から雨で、心まで曇ってしまいそうなどんよりとした天候だった。定時で仕事を終えると、三田に引っ張られるようにして最上階のパーティ会場に向かった。
 会場はワンフロアすべてを使用した特設のもので、社員全員が入っても大丈夫なほど広く、パーティを盛り上げるために天井、室内の壁、あらゆるところに色鮮やかな装飾が飾られている。立食でバイキングといった趣になっていて、酒類を中心とした飲物も多数用意されていた。
 午後5時半開始、午後9時終了となっており、時間通りに開始された合コンパーティは、社長の挨拶が終るとすぐに会場は、男女が入り乱れての恋の宴となった。
 保美は目ざとく秋山を見つけると、すぐさまその傍らに陣取り、熱心に話しかけた。もっとも秋山の周囲にはすでに十数人の輪が出来上がっていたが、それに遅れをとるような保美ではなかった。常に秋山のそばから片時も離れることなく他の女性を蹴散らさんばかりの勢いでモーションを掛け続けていた。
 三田も同様に持ち前の明るさで、何人もの男性の間を蝶のように行き交い、笑顔を振りまいている。最悪なのは私だ。誰にも声をかけられず、声をかけることもできず、ひたすらバイキングの料理を食べ、ソフトドリンクをむやみに喉に流し込んでいた。
 子供の頃からコンプレックスがあった。鏡を見ていつも思うのは、可愛くないなあということだった。両親は私を十人並みだ。卑下する必要なんてないと言うが、一重の瞼をどうにかしたい、低い鼻をどうにかしたい、口元をもっと愛らしくしたい、私は、常にそんなことを思って来た。
 パーティが最高潮に達した午後8時過ぎのことだ。一人、テーブルに座り、積極的に動き回る男女を眺め見渡していた時、突然、声をかけられた。
 「熱心じゃないんですね」と。
 驚いて隣を見ると、見たことのない男性が座っていた。
 「萩田治郎と言います。よろしく」
 視線が合うと、萩田は、笑顔で名前を名乗った。どう応えていいかわからずドギマギしていると、萩田は、再び自己紹介に近い形で自身の職場と年齢を私に伝えた。
 「企画部に所属している。年齢は二九歳、きみよりずいぶん年上だ」
 度の厚い黒縁のメガネをかけ、身長こそ高かったものの、お世辞にもハンサムとは言えない顔立ちだ。ただ、親しみやすい笑顔に好感が持てた。
 「きみは――」
 と萩田が聞いて来たので、私は慌てて答えた。
 「佐伯和枝と言います」
 「きみは確か営業だったよね」
 「はい営業事務の仕事を担当しています」
 会話を交わしたのはそれだけだった。萩田は、職場の友人に呼ばれてすぐに席を立った。それだけのことだったが嬉しかった。一人だけでも声をかけてくれた。私はそれで充分だった。
 パーティが終了するまで、ほんのお愛想程度に三人の男性が私に声をかけてきたが、ほとんど印象に残らなかった。パーティを終えて会社を出る時、保美がやって来て、一緒に帰ることになった。保美は上機嫌だった。秋山のことでかなりの成果があったのだろう。
 駅の近くの喫茶店に立ち寄り、保美と共にお茶を飲んだ。案の定、保美は秋山のことばかりを話す。秋山のことしか目に入らない様子で、次の休日にデートをする約束を漕(こ)ぎつけたのだと、得意満面に語った。
 その時、保美の話を上の空で聞いていた私の眼に、窓際の席に座った男性がこちらに向かって手を振っているのが見えた。最初、保美に手を振っているのだとばかり思っていたが、その男性に背を向けて座っている保美に手を振るわけはない、そう思って私は背後を振り返ったが、背後は壁になっていてだれもいない。
 よく見ると、手を振っていたのは萩田だった。友人三人と窓際の席で談笑していた萩田が、私に気付き、手を振ってくれたのだ。私は慌てて小さく首を振った。
 「どうしたの? 佐伯――」
 保美が私の視線の先を追った。そこに萩田たち男性三人が座っているのを見て、保美が笑顔で媚びを売った。
 「あの人たち、どうしたの? 知っている人?」
 「今日、パーティで話しただけ」
 「顔はともかく感じのいい人じゃない」
 「少し話しただけなの、何にもないわ」
 保美は値踏みをするかのように、もう一度、萩田の方を見て、私の耳もとに囁いた。
 「佐伯と関係ないのね、だったら秋山とうまく行かなかったとき、あの人を攻めちゃおうかしら」
 萩田とは何の関係もないはずなのに、保美の言葉を聞いた私の体に一瞬悪寒が走った。
 視線の先にいる萩田は、爽やかな笑顔で友人たちと会話を楽しんでいる。 保美の言葉に刺激を受けたわけではなかったが、嫌だ、渡したくない――、萩田をみて私はそう思った。
 
 会社での日常は、慣れるに従って単調になった。ミスこそ犯さなかったものの、たいして褒められもせず、平々凡々と過ぎる毎日だった。保美は、秋山とのデートがうまく行ったのだろう。最近は和江と一緒に帰ることもお茶を飲むこともなくなった。
 時々、三田と共にお茶をしたが、三田は、仕事と職場の男性たちに幻滅しているようで、口を開けば「会社をやめて転職したい」とこぼした。
 入社して三カ月、同期の中にはすでに退職したものもいた。毎年、新入社員のうち三分の一か半分弱が一年以内に退職すると聞いたことがあった。その気持はわからないわけではなかった。
 もっと自分に合った仕事があるのではないか、この会社では、自分の可能性を生かせない、世の中にはもっと素敵な仕事が自分を待っている――。働き始めて、いざ現実に向き合うと、さまざまなことを思う時があった。誘惑に駆られてしまうことが多くなる。しかし、転職して成功する人などたかが知れている。それに一年ほどで仕事の、会社の何がわかるというものでもない。私は、家が小さな小間物問屋をやっていたこともあって、幼い頃から世の中の現実と向き合って来た。みんなが弱音を吐く時も、私だけはそうしなかった。
 保美と秋山の噂を聞いたのは入社後半年ほど経ってからのことだ。当初、二人の噂が聞こえて来た時、いよいよ結婚するんだなと、信じて疑わなかった。でも、そうではなかった。二人はすでに破局していたのだ。
 社内恋愛の難しさは破局した時にある。男性、女性、いずれかが退社の憂き目に遭うのが常道だ。保美と秋山の場合は、交際期間が短いこともあって、どちらも退職することなくそのまま社に残った。
 
 合コンパーティの席上、声をかけてくれた企画の萩田のことを私はずっと気にかけてきた。同じビルであっても階が違う萩田とはあれ以来、顔を合わせることがなかった。昼食のために食堂へ行っても萩田はおらず、帰宅時も一緒になることなどなく、縁がなかったとあきらめていた。
 その萩田と保美が交際し始めたと聞いたのは、保美と秋山の破局を聞かされた三日後のことだった。教えてくれたのは、同期の三田だ。
 三田は、明るく活発なこともあり、さまざまな課にコネクションを持っていた。その三田が内緒だけど、と言って教えてくれたのが保美と萩田が交際しているという話だった。
 「同期の加藤保美さんて知っているでしょ。あの人、秋山さんと別れたと思ったら今度は萩田さんにモーションかけ始めたんですって。秋山さんと同様に萩田さんも加藤さんの肉弾攻撃を受けたらイチコロじゃない」
 肉弾攻撃――。三田の話によれば、保美は秋山とも肉体関係を持ち、挙句の果てに捨てたのは保美の方だと言う。萩田も保美の手にかかればあっという間に陥落するだろうと、三田はまことしやかに話した。
 心穏やかではなかったのは私の方だ。パーティの帰り、保美とお茶を飲んでいた時、同じ喫茶店に来ていた萩田が私に手を振ったのを見て、保美が言った言葉を思い出した。
 ――「佐伯と関係ないのね、だったら秋山とうまく行かなかったとき、あの人を攻めちゃおうかな」
 私と萩田は何の関係もない。ただ、萩田は私に最初に声をかけてくれた唯一の男性で、あの時、私はすごく嬉しかった。それだけにその萩田に保美がモーションをかけている、付き合っていると聞かされると内心穏やかではなかった。
 でも、私には何もできない。成す術もなく傍観するしかなかった。
 午後5時の時報が鳴って退社の準備をしている時、不意に保美が営業課に顔を出した。保美が顔を覗かせると営業課の男性たちが一瞬ざわついた。それだけで保美の人気のほどが窺える。
 「佐伯、一緒に帰ろう」
 保美が誘うなど最近では珍しいことだった。一瞬、萩田のことが脳裏に浮かび、おのろけを聞かされるのだったら嫌だな、と思った。
 躊躇していると、保美が私の腕を引っ張って強引に営業課の外へ連れ出した。
 「駅の近くの『ソフィア』へ先に行って待っているからね。必ず来るのよ」
 保美の後姿を茫然と眺めながら、私は後片付けをし、営業課を出ると、急ぎ足で「ソフィア」に向かった。
 駅前にある「ソフィア」は、若い男女に人気のある喫茶店だった。四人掛けのテーブルが七卓とそれほど広い店ではなかったが、店内が明るく清潔なことと、手作りのパンケーキが美味しいと評判の店だった。ドアを開けて店内に入ると、中央の目立つ場所に保美が陣取っていた。
 「佐伯、こっちこっち」
 保美の声が店内に響いた。それほど大きな声を出さなくても狭い店内だ、すぐに見つけることが出来る。午後5時を過ぎて間もなくと言うのに、店内のテーブルはすでに満席に近い状態だった。
 私が椅子に腰を下ろすと、待ってましたとばかりに保美が話しかけてきた。
 「いつもと変わらないわ」
 私が返事をすると、保美は、
 「佐伯って本当にマイペースだものね」
 と言ってクスクス笑った。
 「ところでさあ、佐伯、私、秋山くんと別れたの知っているでしょ?」
 頷くと、保美は「そうよね」と小さく言って、
 「なぜ別れたか知っている?」
 と聞く。知らないと言って小さく首を振ると、
 「秋山くんは気の多い男でさ。私以外にも付き合っていた女性がいたの。それも一人ならともかく二人もいたものだから我慢できなくてね、結局、別れちゃった」
 秋山が社内で一番のモテ男だということは私も知っている。
 「振っちゃったの?」
 和江が聞くと、保美は、
 「そういうことになるかな。私の方から一方的に宣言して別れたから」
 と、平然として言う。
 「それで秋山さんは?」
 「他の二人と別れるから別れないでくれ、と言ってきたわ。でも断っちゃった」
 「そうなの……」
 萩田との話を切り出す前段階だなと、会話をしながら思った。
 「誠実な男が一番だと、秋山くんと付き合ってつくづく思ったわ。その点、萩田さんは違うわよ。誠実でやさしい」
 やっぱり萩田なのだ。聞くのは嫌だなあ、私は心からそう思った。
 「佐伯、あなた、萩田のこと、どう思っているの?」
 「どうって……、私、パーティの時、少し話しただけだからよくわからないわ」
 「好きか、嫌いか、どちらなの?」
 保美は強引です。ズバッと斬り込んでくる。好きも嫌いも、私が保美に太刀打ちできるわけがない。
 「萩田さんにモーションかけようと思ったら彼が言うのよ。佐伯さんのことが気になっているんだけど、チャンスを作ってもらえないかって――。驚いたわよ。この私を前にしてなんてこと言うんだってね」
 保美の言葉を聞いて驚いた。保美は笑って言った。
 「仕方がないからいいわよと言っておいたわ」
 萩田さんが私と――。
 保美が私をからかっているのではないか、思わずそう思ったほどだ。でも、そうではなかった。その後、和江は保美から萩田さんの携帯のアドレスを書いたメモを渡され、
 「必ず今日中に電話をするのよ。萩田さんにそう約束したんだから」
 と念を押された。
 保美と別れた後、私は胸をドキドキ震わせながら萩田に電話をした。
 ――もしもし……。
 萩田の声が聞こえて来た時、私はどう応えていかわからず、じっと黙っていた。
 ――佐伯さんですか? 佐伯さんですよね。
 数カ月ぶりに聞く萩田の声が私の耳を熱くした。私は意を決して答えた。
 ――はい、佐伯和枝です。お久しぶりです。
 
 恋とか愛とか、無縁だった自分についに恋の女神が舞い降りてきた。私はその時、天にも昇る気持ちだった。だが、萩田との愛は半年も持たず、終わりを告げた。
 交際するまで私は萩田のことを何一つ知っていなかった。年齢も違えば、職場も違う、彼がどこの出身か、どこの大学を出たのか、親はどうなのか、趣味も知らなければ食べ物の嗜好もわからない。すべてにおいて無知であったことが災いしたのだと私は思った。自分のイメージする萩田と現実の萩田のギャップが大きく食い違い、そのことが私を苦しめた。
 萩田は、飄々とした見かけによらず、独占欲が強く、嫉妬心の強い人だった。私の一挙一動をすべて把握しなくては気が済まず、電話をしてきて、私が気付かず出ない時などは、何十本と電話をかけてきた。そんな彼の自分への熱い思いに最初のうちこそ感激したが、やがて、心が重たくなり、疲れがひどくなった。
 別れようと決心したのは三カ月ほど経った時のことだ。彼にそのことを告げると、その場で激怒し、暴言を吐いたが、私の決心が固いと知ると、「頼むから別れないでくれ。会社での俺の顔が――」と頼み込んでくる有様だった。彼との交際は課の人間すべてが知っていて、結婚するものだと思っていたから、別れたとなると会社で自分の顔が立たない、そんなことを言う。確かに社内で私と萩田が交際していることは周知の事実になっていた。でも、だからといって嫌なものは嫌と答えるしかなかった。
 萩田と別れるまで三カ月の時間を要した。その間、萩田は、私をどうしようもない悪女だと言いふらし、会社を退職するよう仕向けた。
 人間というのは見かけだけでは判断できないということを私は萩田の件でよくわかった。真のやさしさや誠実さ、人間性もまた見た目でわかるものではない。そのことを痛感した私は、悔しかったが彼と別れて三カ月後、会社を依願退職することにした。
 保美や三田は、私が会社を退職する本当の理由を知らなかった。萩田がまき散らす噂を信じて、私を説得しに来たほどだ。
 「萩田さんにひどいわよ。萩田さんは、あんなに純粋に佐伯を信じていたのに――」
 萩田がどんな噂を巻き散らかしたのか、保美の言葉を聞けばおおよその察しがついた。
 弁解する気持ちはなかった。どんなふうに思われても構わない。私はそう思っていた。
 それでも会社を退職する時、私は寂しく思った。何といっても初めて勤めた会社だ。それに次の仕事を決めてやめたわけではなかったので、新しい仕事を探すまでが大変だった。結局、家族に追い出されるようにして家を出た私は、北区西天満にワンルームマンションを借り、そこで一人住まいをすることになった。
 萩田のことがあって男性に深く失望した私は、結婚より自立の道を選ぼうと思い立ち、親戚のつてを頼ってコックの修行に入ることになった。料理をすることは昔から嫌いではなかったし、その時の私には、料理の世界なら簡単に自立できるのではないかとの甘い思いがあった。
 でも、料理の世界はそんなに甘いものではなかった。私が紹介されたのは外資系ホテルの洋食レストランだったが、配属された場所がウエイトレスであったことでひと悶着あった。でも料理長に、「まず、どんな料理があるか覚えろ。客の表情をよく観察しろ。それが料理修行になる」と一喝され、渋々、従うことにした。
 客に注文を聞き、料理をお出しする。たったそれだけの仕事だとバカにしていた私は、実際に働き始めて、自分の甘さをつくづく恥じることになった。
 客の注文一つ聞くにしても、常に丁寧な対応が必要で、客の中には横柄な客もおれば難癖を付ける客もいる。まず、料理のメニューをよく知っていなければ客の質問に的確に答えることすらできない。一流レストランに相応しいウエイトレスになるにはそれなりの努力と覚悟が必要なのだと思い知らされた。
 三年間、私はその修行を続け、ようやく厨房に入ることが出来た。女性のシェフは厨房では歓迎されない。厨房で働く人のほとんどが男性で、当然、私に対する風当たりが強くなってくる。それでもここでくじけるわけにはいかない。そう思った私は歯を食いしばって一から料理を学んだ。
 会社に勤務していた頃の私を知る人は、レストランに勤務し始めてからの私を見ると、きっと驚きを隠せなかったと思う。人間は置かれた環境で顔、スタイル、人格が変化する。目的もなく平々凡々と営業事務に携わっていた頃の私は、何の目的も夢もなく、毎日を送っていた。考えることと言えば、いい男性に巡り合いたい。そのことだけだった。それが今はどうだ。暇さえあれば、有名店の料理を食べ歩き、舌を鍛えて、さまざまな料理のレシピを読み漁る。食材に対する研究や味覚に対する感覚を磨き、いつか自分の店を開き、自分の味で人々を感動させたい。その思いで一杯になっていた。
そんなある日、偶然、保美に会った。話題になっている洋食店を研究のために訪れ、その店に入った時のことだ。
 「佐伯さん、佐伯さんじゃないですか?」
 声をかけられ、驚いて立ち止まると、目の前のテーブルに保美が座っていた。保美と一緒に座っていたのは、何と萩田だった。
 「今日は、久しぶりね」
 挨拶をすると、保美は笑顔を湛えて、「元気そうね」と喜んだが、萩田はそっぽを向いて黙っている。
 保美は、萩田に断って、私のテーブルに座り直すと、
 「佐伯、今、どうしているの?」
 と聞いた。私が、コックの修行をしていると話すと、保美は目を丸くして、
 「佐伯がコック? 信じられないわ」と驚いた。
 「それにしても変わったわね、すぐには佐伯だということがわからなかったもの――。生き生きとしてる、あなた、美人になったわよ」
 保美の言葉を聞き流しながら、萩田を横目で見て私は保美に尋ねた。
 「保美はどうしているの?」
 「変わらないわ。今もあの会社に勤めている。いろいろあったけど、今は萩田と付き合っている。結婚するつもりだけど、まだわからないわ」
 保美の顔に一瞬、不安の影が過った。萩田はこちらを時々、盗み見しながら苛々と煙草を口にしている。
 保美は、秋山は結婚したものの社内不倫で会社を解雇されたと話し、三田は自分と一緒で相変わらず社内の男を物色中だと笑って話した。
 「佐伯はいい人できた?」
 保美が聞くので、私は首を大きく振って、
 「私は今、仕事に恋しているからまだまだ無理ね」
 と答えた。
 「いいわね、夢があって」
 羨ましげに言って、保美は「頑張ってね」と囁くように言うと私のそばを離れた。
 保美とはそれっきり顔を合わせていない。
 
 店を開店したのは、三五歳の誕生日の日だ。ミナミの繁華街から少し離れた、俗に裏難波と言われる比較的アクセスのいい場所に店を設けることができた。小さな洋食店だったが、場所がよかったせいか、開店以来、何の宣伝も告知もしていないのに、若い男女を中心に客が途切れなくやって来て、初日から多忙を極めた。
 メニューに季節性を持たせたり、旬の素材を使った特別料理やイベント的なメニューを用意して目先を変えるなど工夫をしたことで、開店以来十五年になるが、未だに客が引きも切らない状態だ。本当に有難いことだと思っている。
 結婚をしたのは店を開店する三年前のことだ。勤めていた店の客の紹介で、結婚する一年前に知り合った商事会社に勤務するサラリーマンと見合いをし、縁があって結ばれた。
 海外勤務や出張が多い彼は、結婚してすぐにニューヨーク勤務となり、この春、ようやく日本に戻ってくるといった状態で、ほとんど暮らしを共にしていなかったが、私としては、その間、洋食店の経営に専念できてよかったな、と思っている。
 ただ、三年近く離れて暮らしていると徐々に心が通わなくなってくるもので、それに店が思っていた以上に繁盛し、多忙を極めたこともあって、彼がニューヨークから帰国してすぐに、私たちは互いに話し合い離婚を決意した。
 女性が仕事を持ち、店を経営するということは大変なことだ。両立させることは非常に難しい。そのことを痛感した。でも、捨てる神あれば拾う神ありです。開店当時から店を手伝ってくれ、料理を作ってくれていたシェフの板橋守という男性に、最近になって突然、愛を告白され、この時は本当に驚いた。板橋は私より五歳下で、ずっと仕事仲間だったから愛情など感じたことがなかった。でも、朴訥な彼のたどたどしい愛の告白を受けた時、なぜか、今までにない心の震えを感じた。実直で寡黙な彼の告白を受け、私はすぐには返答出来ず、三日間、時間をくれと彼に申し出た。
 会社員時代、萩田に感じた愛情や見合いして結婚した元夫に感じたものとはまったく別の愛情が私の中に生まれたのは、その日の夜だった。好きだとか嫌いだとか、そういった浮ついたものではなく、共に時間を過ごしたい、素直にそう思えたのは板橋が初めてだったと思う。
 元々、板橋は仕事を通じて何でも話し合ってきた仲です。ツーと言えばカーといった関係でもあった。彼の心根も仕事に対する思い、料理、客に対する愛情の深さも充分理解出来ている。板橋こそ私が待ち望んでいた思い人ではなかったか――。そう思い始めるともう悩む必要はなかった。
 翌日、私は板橋を呼んで彼に言った。
 「今のまま、この店が繁昌し続けるとは思えない。店が潰れて路頭に迷うことだって十分考えられる。それでもあなたは私と――」
 私の言葉を板橋が声を荒げて止めた。
 「俺は、和枝さんがずっと大好きでした。この先、ずっと俺が和枝さんを支えて行く。店なんて潰さない。いや、俺は和枝さんのためにもっと頑張る。頑張って和枝さんを世界で一番幸せな女にしてみせる」
 板橋の言葉を聞いて、不覚にも私は涙をこぼした。この人が私の運命の人なんだ――。
 教会で板橋と結婚式を挙げたのは、三カ月後のことだ。ごく親しい知人たちに囲まれて質素で素朴な結婚式を挙げた私たちは、新婚旅行も行かずに結婚式の翌日から店を開けました。今、市内に三店舗の洋食店を構え、彼も私も忙しい毎日を送っている。
〈了〉


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