三味線お米

    四

 「馬鹿も休み休み言え。お米で客が呼べるか。劇場の興行収入がどれだけ痛手を受けるか、わかっとんのか」
 上司の三枝課長では話が通じず、北畠常務に三味線お米の50周年記念公演の開催を直訴した。
 北畠常務もまた私の考えを簡単に一蹴しようとした。だが、私はくじけなかった。芸人の思いを伝えるのも支配人の役目だ。どれだけ叱責を受けようとも簡単に引き下がるわけにはいかなかった。
 「興行収入は減らしません。私の考えを聞いてください」
 興業収入を減らさないと聞いて、北畠常務の表情が変わった。
 「三味線お米の50周年記念公演は、金・土・日の三日間、開演三時間前の午前8時にスタートします。終わるのが10時30分、2時間30分の公演になります。通常の公演にはまったく影響しません。従って興行収入を減らすことはありません」
 「だが、客を呼び寄せたり、告知したり、チラシをつくる必要があるだろう。それはどうする。人員も含めて金と人は一切出せないぞ」
 「それもすべて芸人さんたちが手伝ってくれることになっています。三味線お米の記念公演は、芸人さんたちみんなの希望なんです。やらせてください。常務が了解してくれたら可能になります」
 北畠常務はじっと黙って天を仰いでいたが、ゆっくり私を向き直ると、
「わかった。やりなさい。その代わり、今、約束したことをしっかり守ること。これを忘れなんようにな」
 と言い、私の肩をポンと叩いた。
 三枝課長に事後承諾としてその話を伝えると、憤慨ぶりは一通りではなかった。
 「ええか。失敗したり、問題を起こしてもわしは関係ない。すべてお前の責任やねんぞ」
 出世しか頭にない三枝課長は、私の話を聞こうともしなかった。だから私は北畠常務に直訴した。三枝課長は部下の思いや芸人の思いをくみ取る努力すらしない。
 「わかりました。すべて私が責任を負います」
 と、はっきり言いきって、三味線お米の50周年記念公演が正式にスタートした。
 日時は、一か月後の月半ばに決まった。芸人たちが総出で手書きのチラシをつくり、放送局のMCに告知を依頼したり、新聞社に相談を持ち掛けるなどして、三味線お米の記念公演を成功させるために全員が心を一つにして邁進した。
 だが、果たして当日、人が集まるかどうか、いつまでも不安は消えなかった。入場料は格安の千五百円としたが、それでも芳しい反響は届いておらず、公演日時が近づくにつれ、焦りが高じる一方だった。
 危惧していたお米さんの体調はその後目覚ましく回復し、元気になったお米さんは公演のための品目選びに余念がなかった。
 前売り券の発売をしていなかったこともあり、当日の朝、直前まで不安は消えなかった。
 三味線お米の50周年記念が行われる当日の朝、いつもより早く目を覚ました私は、母親のつくった朝食を勢いよく腹に入れると、そのまま家を飛び出ようとした。
 「勝彦」
 靴を履こうと玄関に立った私を父親が呼んだ。還暦を過ぎ、この春に定年退職をして以来、郵便局のガードマンとして働いている父は、勤務先が家から五分と近いこともあって、私が出勤する時間帯にはまだ寝床の中にいる。夜も私が帰宅する時間には眠っており、同じ家に住んでいながら顔を合わせることなど滅多にない。寝床にいるはずの父親に声をかけられ、驚いた私が何の用かと聞こうとすると、父が思いがけない言葉を口にした。
 「三味線お米が50周年記念公演をするらしいなあ。悪いがチケットを二枚、取っておいてくれないか」
 「父さんが三味線お米の記念公演を?」
 「朝のラジオ番組で言っていた。母さんと一緒に行きたいんだ。頼むよ」
「当日券しかないから前もって買っておくことはできへんけど、大丈夫や。そんなに客は集まらへんから」
 「そうか。ラジオで言っていたけど、三味線お米の最期の公演になるかも知れん、そう言っていたからなあ。それにしても久しぶりに名前を聞いて何となく嬉しかった。若い頃、俺は三味線お米の三味線の音とあの毒舌にどれだけ救われたか――」
 感慨深く話す父親に、
 「一人でも二人でも来てくれたらありがたい。明日、母さんと一緒に来てくれ。万が一売り切れそうやったら、チケットは用意しておくさかい」と言い残して、足早に家を出た。
 駅に向かう途中、父の話を反芻し、三味線お米の最期の公演とラジオが言っていたという言葉が気になった。そんなこと、私は何も聞かされていなかった。
 開演一時間前に劇場に到着した。驚いたのは劇場の周りを数十人の人たちが行列を成して並んでいたことだ。年配の男女が多い。どうして並んでいるのか、わけがわからず事務所に入ると、記念公演をボランティアで手伝ってくれる女子事務員の柳美智子が待っていた。
 「支配人、大変です」
 いつもは冷静な柳が慌てた様子で駆け寄って来る。
 「どうした? みんな集まっているのか。早く用意をせんと開演に間に合わへんぞ」
 「外を見ましたか?」
 「ああ、早くから行列をしているようやが、今日はそんな人気者、舞台に――」
 喋り終わらないうちに、柳が「違うんです!」と声を上げる。
 「あの人たち、みんなお米さんの公演が目当てなんです」
 思わずエッと声を上げてしまった。お米さんの公演に早朝から人が並ぶなんて、信じられず、もう一度表を見た。先ほどよりさらに人が増えている。
 ――久しぶりに名前を聞いて何となく嬉しかった。若い頃、俺は三味線お米の三味線の音とあの毒舌にどれだけ救われたか――。
 その時、父親のその言葉を思い出した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?