一途な恋

高瀬 甚太

 ニッカポッカの服を着たその男は、その日、やけに饒舌だった。場末の居酒屋で、隣り合わせになったのが運の尽きだ。芋焼酎を片手に、まるで十年来の友人にでも話すかのように身の内話を始めた。

 ――おれ、田上陽一と言うんだ。仕事は解体業さ。古い建物を解体する仕事だ。危険と隣り合わせの仕事だから怪我は付き物で、これまで怪我をして病院に運ばれたことは一度や二度で利かなかったね。
 男だけの職場だから、女とはまるで縁がない。おまけにガサツな性格で顏もこんなふうだから若い頃から女とは無縁の生活さ。でも、世の中、何が幸いするかわからないと思ったね。瓦礫の下敷きになって押し潰された時、おれ、救急車で病院に運ばれた。生きるか死ぬかの瀬戸際で、三日三晩、意識を失った。付き添ってくれた親方が言っていたよ。多分、助からないんじゃないかと本気で思ったよと――。
 もしかのことを考えたんだろうね。その時、親方はおれの身内に連絡を取ろうと思い、探したようだ。だけど、おれの身内を探し出す肝心の資料が何もなかった。だって、おれ、入社する時、履歴書なんて出していなかったから――。
 働いている仲間にも聞いたようだ。田上の両親や親族の連絡先を知らないかって。おれは自分のことをあまり話さなかったから、自分のことを誰にも何も喋っていなかった。親方はずいぶん困ったようだよ。
 でも、そのうち、おれは意識を取り戻し、何とか生命を甦らせることが出来た。親方はもちろん、他の仲間も喜んでくれたよ。多分、助かると思った者は一人もいなかったんじゃないかな、それほど大きな事故だったからね。
そのまま病院で入院生活を続けることになったおれは、生活のこともあるし――だって日給月給だったからね、働かないとお金がもらえない。多少の貯えは多少はあったけれど、長期入院するほどの金はなかった。だから、早い機会に脱走しなきゃあと考えていた。
 辛かったのは体を動かせなかったことだ。二週間ぐらいはずっとベッドの上でトイレも自由に出来なかった。何しろ瀕死の重傷だったからね。一人でトイレに行けるようになるまで三週間ほどかかったよ。ずっと寝てばかりだから退屈でね。テレビを観ても面白くないし、無学なおれは本もろくすっぽ読めない。せいぜいスポーツ新聞を見て、阪神タイガースの試合結果に一喜一憂するぐらいだった。そんな退屈な生活を変えてくれたのは看護師たちだ。
 看護師はみな、親切だったね。やさしくてね。美人が多くて嬉しかったよ。特におれが気に入っていたのは、中川伊佐代という女の子だった。二十代後半だったかな、眼がクリッとしてね。笑うとえくぼが頬に出来るんだ。おれのような人間にも会うたびに笑いかけてくれてね。気軽に話しかけてくれるんだよ。もちろん、その子だけじゃなく他の看護師たちも同じように話しかけてくれたけれど、中川って看護師の笑顔が、おれには誰よりも素晴らしい笑顔のように思えたね。
 四十歳を過ぎても独身だったおれの性体験といえば飛田新地、松嶋新地といった具合に全部、プロばかりでさ。素人は一人もいなかった。だって、おれ、モテなかったものなあ。
 看護師はみな、ローテーションで回っていてね。中川という看護師の順番が回ってくるのに一週間かかるんだ。その日が楽しみでね。手当をしてもらっている間もおれ、きっとニコニコしているんだろうね。中川って看護師が言うんだよ。
 「田上さんて、いつも笑顔ですね」って。
 そうじゃないんだよ。他の看護師にはこんな笑顔、見せないよ。あんたにだけだよ。でも、そんなこと口には出せないからね。
 「おかしいよね。男の笑顔なんて――」
 恥かしいなあと思いながらも中川看護師に言うと、とんでもない答えが返って来た。
 「いいえ、私、男の人の笑顔大好きなんです」
 嬉しかったよ。おべんちゃらでも何でもいい。褒めてくれたのが嬉しかった。
 「中川さん、出身はどちらですか?」
 柄にもなく丁寧な言葉を選んで聞くと、中川看護師が笑うんだ。
 「無理して丁寧に言わなくてもいいですよ。田上さんらしい喋り方をしてもらえば――。私、出身は和歌山です。紀伊半島の南端に近い田辺というところで、高校までそこにいました」
 田辺と聞いて驚いたね。おれの唯一の友だちだった宮本という男が田辺出身だった。宮本から田辺の話をよく聞かされていた。宮本は田辺を離れても田辺という町が大好きだった男で、ことあるごとにおれにその土地の話をしていたからね。だから行ったことのない場所だったけれど、田辺のことは手に取るようにわかっていた。
 「おれの友だちが田辺の出身でね。そいつ中学は明洋という学校だと言っていたよ。中川さんの卒業した中学校はどこ?」
 「私も明洋中学校なんですよ。偶然ですね」
 中川看護師はとびっきりの笑顔を見せてそう言ったよ。
 「そのお友達、田辺のどこに住んでいました?」
 「目良といったかな。天神崎自然公園の近くだと言っていた」
 中川看護師は、もう一度目を輝かせておれに言ったよ。
 「私、江川なんですよ。目良も天神崎自然公園もよく知っています。遊びに行きましたから。元島という島があって、子供の頃、父に連れられて釣りに行きました」
 今度はおれが目を輝かせる番だよ。
 「釣りって――、中川さん、釣りが好きなの?」
 思わず大きな声で聞いたよ。
 「小学校時代はよく行ってました。さすがに中学、高校時代は行ってませんけど、釣りは今でも大好きです」
 「そうかぁ。おれ、釣り大好きなんだよ。趣味なんてほとんどないけれど、釣りは大好きさ。ここんところ行ってないけど、宮本が生きていた二、三年前までは二人でいろんなところへ釣りに行っていたよ」
 「生きていた? 田上さんのお友達の宮本さんて方、亡くなられたんですか?」
 「ああ、事故で亡くなった。あの時、おれ、悲しくて寂しくて何日も泣きとおしたよ。いつか宮本の眠る田辺の墓へお参りしたいと思っているんだけれど、未だに果たせずにいるんだ」
 「寂しいですね。親しいお友達が亡くなるなんて――」
 中川看護師の声がおれの胸に響いたよ。その時、おれ、宮本のことを思い出した――。
 それで中川看護師に宮本の話をしてやった。

 宮本とおれが知り合ったのは場末の小さな居酒屋だった。滅多に行かないその店に行ったのは、行きつけの居酒屋が臨時休業したからなんだ。がっかりしたおれは、少し足を延ばしてその店に行った。
 何の変哲もない居酒屋さ。おれはビールとどて焼を注文した。BGMに演歌がかかっていた。それほど大きな店じゃなかったけれど、結構、人は入っていた。おれは新しい居酒屋に行くといつもどて焼を頼むんだけど、その店のどて焼もそう悪くはなかった。
 酒を呑むといってもそれほど大酒呑みじゃない。せいぜいビール一本と焼酎二杯、それだけさ。酒を呑みたいとか料理を食べたいというよりも、おれの場合、人恋しさで行くんだ。だから行きつけの馴染みの店がいいんだけれど、休みだから仕方がないよね。
 おれの隣で呑んでいたのが宮本さ。体つきも服装も何となくおれに似ていた。現場の労働者だということはすぐにわかったよ。だから声をかけたんだ。
 「今年の阪神はどうですかねぇ。強いのか弱いのか、まったくわからん――」
 宮本は、急に話しかけてきたおれをみて、最初は驚いたふうだったが、元々、気のいい性格なんだな、十年来の友だちのように答えてくれた。
 「優勝は無理かもしれんがAクラスには入るやろ。それだけの実力はあるよ」
 「そうでっか。それは嬉しいなあ。兄さんも阪神ファンでっか?」
 「大阪に住んでて阪神ファンじゃないやつは市民権剥奪せなあかん。おれは、生まれは大阪じゃないが、子供の頃からずっと阪神ファンや」
 「おおっ、それは嬉しい。おれも生まれた時から阪神ファンや。気に入った、まあ、一杯呑んでくれ」
 男同士というのは単純なものさ。その日からすぐに友だちになった。会うのは呑み屋で、それ以外の付き合いはその頃はまだなかったけれど、おれたちは無二の兄弟のように親しくなった。
 酒を酌み交わして話をする。それだけの関係だったから、しばらくの間は、お互いのことなど何も知っていなかった。少しずつわかり始めたのは二カ月ほど過ぎた辺りからだ。
 「おれ、前科があるんだ」
 ある夜、不意に宮本がそう言ったのでおれは思ったよ。
 前科があろうとなかろうとそんなこと関係ない。おれだって、前科こそないものの、人に誇れるような生き方をしてきたわけじゃない。
 「若い頃の話さ。おれ、昔、好きな女がいたんだ。美人でも何でもないけど、優しい女でさ。性格がかわいいと言うのかな、苦労はしてたけど擦れたところは少しもなかった。その子、飛田で働いていてさ、悪い男が付いていたんだ。いわゆる紐ってやつだよ。働かずに、その子に売春させて、その金で遊んでいるどうしようもない奴さ。そいつと別れられるか、と彼女に聞いたら、別れたいと真剣な顔でいうので、おれ、彼女の紐に直談判した。そしたらそいつ、欲しかったら手切れ金を積めと言いやがる。いくらだと聞いたら、五十万円でいいと言う。なんでそんなに安いんだと聞いたら、あいつは病気だというんだ。病気を隠して勤めている、だからあいつはもうすぐ働けなくなると言いやがる。おれ、頭に来て、そいつを殴り飛ばした。殴って蹴って半殺しにしてやった――。男から女を取り戻した後、おれはその女と共におれの故郷の田辺で暮らした。男が言ったように彼女は大病を患っていた。乳ガンだったんだ。田辺で一年暮らした後、静かに息を引き取ったよ。死ぬ前、彼女が言ったんだ。この町で死ぬことが出来て幸せだった――と。大阪へ舞いもどったおれは、半ばやけっぱちになっていたと思う。喧嘩をふっかけて来たチンピラを叩きのめしてヤクザに追われ、誤って追っかけて来たヤクザを殺してしまった。五年ほどだったかな、それが元で刑務所に入っていたんだ」
 多かれ少なかれ、おれも同じような生活をしてきた。だから、宮本の気持ちが痛いほどよくわかった。慰める言葉なんておれにはなかった。酒を勧めるしか術がない。宮本のグラスに溢れるほどの酒を注いでやったよ。
 宮本とは三年ほどの付き合いだった。末永く付き合いたいと思った唯一の男だったけれど、去年の夏、交通事故に遭って亡くなった。死ぬまで宮本は好きだった女のことを話していたよ。おれ、口には出さなかったけれど、金で買える女のことをどうしてそんなに真剣に思えるんだと不思議に思った。そんなおれに宮本は言ったよ。
 「どんな仕事をしていたか、どんな場所にいたかなんて小さなことさ。おれにとって大切なことは、お互いに信じあえる、一途に思い合える存在がいた、それだけで充分なんだよ」
 宮本の話を聞いて、おれは自分が恥かしく思えたよ。宮本のように真剣に女を愛し、信じ合ったことなんて一度もなかったからね。女と寝る、遊ぶしか考えたことがなかった。その時はさすがに、我ながら情けないと思ったよ。
 一途に女を愛する宮本のことをおれは改めてすごい奴だと思ったよ。おれの人生に一途なんて言葉はなかったからね。だからおれはまず仕事に一途になろう、そう決めたんだ。女に一途になるには、今の自分ではあまりにも情けない。それまで転々としていた仕事をやめ、今の仕事に就いて、それはもう一所懸命に働いたよ。宮本の供養のためにもそうしなきゃいけないと思ったんだ。事故に遭ってこんな体になってしまったけど、治ったら、また、懸命に、一途に働くさ――。

 話し終えた時、中川看護師の眼に涙が浮かんでいたのをおれは見逃さなかったね。でも、その涙の意味まではわからなかったよ。おれは、その後もずっと中川看護師の番がやって来るのを待った。あと三日、あと二日――、と言った具合にね。おれの入院は三カ月に及んだよ。心配していた入院費用は、会社の方で全額払ってくれた。仕事中ということもあって、保険金が下りたらしい。不足分は会社が出してくれて結局、おれは一銭も使わなかった。
 退院する時、おれは生まれて最高の寂しさを味わったよ。父親が死んだ時も、母親が亡くなった時も、こんな寂しさを味わったことなんてなかった。中川看護師に会えなくなる、話せなくなる、笑い顔が見えない、えくぼが見えない――。年も違うし、おれなんか相手にもしてもらえない、そんなことは十分承知していたけれど、それでもやっぱり辛かったよ。
 その時、宮本が生きていたら何て言うだろうなぁと思ったね。「男だったら当たって砕けろ」って言ったかも知れないし、「高嶺の花だからあきらめろ」なんて言ったかも知れない。でも、宮本は、そうじゃなくて、そんな無責任なことは決して言わないだろうなあと思い直したよ。宮本なら、「好きになったらずっと好きでいろ、振られても好きでいろ」。そう言って怒るだろうなあと思ったよ。
 退院する日、結局、おれは中川看護師に何も言わなかった。「ありがとうな」とだけ言って退院したよ。
 多少のリハビリは必要だったけれど、体は万全に近い状態で、明日からでも働ける、そんな感じだったよ。病院へは月に一度の通院で済んだ。もちろん中川看護師に会えるはずもない。
 ――終わったな……。
 おれはそう思っていたよ。
 でも、違っていた――。違っていたんだよ。ある日、おれのところに突然、本当に何の前触れもなく、手紙が届いたんだ。
 驚いたよ。アパートに戻ると普段はチラシしか入っていないポストに、封筒が入っているんだ。へえ、珍しいこともあるもんだ。そう思ってよくよく見たらおれにあてた手紙だった。差出人の名前を見ると、中川伊佐代と書いてある。
 中川伊佐代――?
 誰だろう? 女性の名前で手紙が来るなんて、宗教の勧誘か、生命保険のセールスしか知らない。でも――、まさか――、急いで封を開けると、そのまさかだった。

 『その後、体調の方はいかがですか? 退院して三カ月、今が一番大切な時です。どうぞご自愛くださいね。
 入院中、田上さんから宮本というご友人の話を聞いて、その話がずっと私の心に残っていつまでも消えませんでした。
 男女の違いこそありますが、私も同じような体験をしていたこともあって、私自身、ひどく身につまされ、宮本さんの話が私の胸に深く突き刺さりました。
 私には交際して三年になる男性がいます。その男性は私の勤める病院の入院患者です。患者と看護師という関係で親しくなり、交際するようになりました。
 患者と看護師が付き合うのは病院ではご法度でしたが、私は自分の気持ちを止めることが出来ず、どんどん親密になっていきました。その男性は、膵臓に悪性の腫瘍が発見され、生死を危ぶまれる状態で、余命いくばくもないと医師から死の宣告を受けていました。そんな状態であるにも関わらず、男性は常に明るく、周囲に笑顔を振りまく気丈な方でした。
 余命いくばくもない方を好きになってどうなるものだろうか――。思い悩んでいたところ、私は田上さんから宮本さんという方の話を聞きました。一途に愛する――、その方の思いが私の胸に深く刻み込まれ、それはずっと消えることがありませんでした。
 私たちは結婚することにしました。新婚旅行も、一緒に生活することも出来ませんが、結婚しよう、そう思ったのです。宮本さんの話に影響されたことは確かです。でも、それ以上に、私は自分の胸に問いかけ、彼の思いを確かめ、彼の両親の承諾を得て、私の両親を承服させ、決めました。あと半年になるか、一年持つか、まったくわかりませんが、私はその間、彼を一途に愛します。大好きな彼を一途に守ります。
 田上さんのお話を聞かなければ、ここまで強く決心出来たかどうかわかりません。ありがとうございました。感謝しています』

 中川看護師の手紙を読み終えた後、おれは泣いたね。振られたから泣いたのかって、そうじゃないよ。中川看護師の言葉が嬉しかったんだ。
 ――宮本さんのように、彼を一途に愛する。
 その言葉が嬉しかったんだよ。
 幸せっていうのは、与えられるもんじゃない。おれはその時、つくづく思ったね。自分から飛び込んで得るものだ、そう思ったよ。
 宮本も中川看護師も本当の愛を見つけやがった。悔しいけど、今のおれには真似のできないことさ。
 今度、人を好きになったら一途に愛そう、心からそう思ったよ。もちろん、ストーカーになって、相手の迷惑を顧みず追いかけるわけじゃないから安心してくれ。

 ニッカポッカの男はそう言うと、芋焼酎のグラスをテーブルに置いて、「話を聞いてくれてありがとうよ」と言って私の手を握った。
〈了〉

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