芸者の恋、あるいはひとり言

「背中を洗いましょうか?」
と、尋ねると、彼女は小さく頷き、会釈します。
きめの細かい白い肌にタオルを当てると、彼女はひとり言のように喋り始めました。
「十五歳の年に置屋に入って、十八年経つわ。私は自ら望んでこの世界に入ったからね。自分の仕事に誇りを持っているし、第一、私にとって芸妓は天職だと思っている。でもね、芸のことなら必死になって頑張れるけど、男と女のことは、この年になってもやはり難しいわ」
自虐的な言い方ではなく、さっぱりとした男のような口調に好感を持った私は、初めて会った人だというのに、いつの間にか自分のことを話し始めていました。
「私もお姉さんのように十五の年に置屋に入りました。お姉さんと違っていたのは、好きで入ったのではなく、父親の借金を返すために入ったということです。でも、この仕事は私の性に合っていたと思います。芸を覚えるのが楽しかったから――。五年経って、今年から芸子になりました。半玉の頃から贔屓にしてくださっているお客様がいて、芸子になってすぐに男と女の関係になりました。その方と私は親子以上の年の差があります。女房と別れるから一緒になってくれと、その方は言うのですが、本当に自分がその人を好きなのかどうか、自信がありません。悩んでいるところに、置屋のお母さんから、温泉にでも浸かっておいで、と助け舟を出していただいて、今日、こうしてこちらへやって来たようなわけです」
一気に話すと、何だか心の閊えが取れたような感じになりました。頷きながら聞いていた彼女は、ゆっくりと立ち上がり、もう一度、湯船の中に身体を沈ませました。女性を追いかけるようにして私も湯船の中に入りました。
「芸妓にとって恋愛は、いつも悩みの種になるよね。この年になるまで、私もそのことでどれほど悩んだか知れないわ。しつけの行き届いた芸妓は、男にとって女房の鑑のようなものだから、勘違いして追いかけてくる男が多いの。でも、その一つひとつに真剣に対処していたらこちらの身が持たない。適当にあしらわなければいけないけれど、相手はお客様、簡単にあしらうことなど出来ない。そんなこんなで私も悩んできたわ」
「真剣に恋したことはあるんですか?」
「そりゃあ、あるわよ。死ぬほど好きになった男がいたわ。でも、好きになればなるほど、自分の芸が壊れて行って、芸どころじゃない、自分自身が壊れて行った……」
「好きになった人ってどんな方だったんですか?」
「私と同年代の男性でね。ギャンブルに嵌って借金に追われて、今、考えるとどうしようもないクズ人間だったけど、その時は、そうは思わなかったのね。私が助けてあげなくちゃと思って、必死になって――。何であんな男にと今では思うけど、その時はそうじゃなかった」
「……」
「財力のある男、頼りがいのある男ばかり見て来たせいなのだろうね。弱くてどうしようもない男に惹かれちゃって……。私もあんたと同じような頃、ずいぶん年上の社長に贔屓にされてね。愛人になってくれと頼まれたけど、結婚に憧れていたからね、断っちゃった。他にもいろいろ話があったけど、その気にならなかった。好きになった男がいたから、多分、その気にならなかったんだろうね。
芸妓は人を愛しちゃダメなんだ、人に愛されなくちゃダメなんだって、今はつくづく思ってる。おかげで私はまだ、この仕事を続けてるよ。いい話は一時で、永遠じゃない。いい話が出る時に、思いきることも大切じゃないかね。それが芸妓の生き方じゃないかって、そう思うんだよ」
彼女の話を聞きながら、ふと、加賀谷のことを思い出しました。半玉の頃から私を可愛がってくれた人――。私を売った父よりも父親らしい人。でも、好ましい人だけれど、心はときめかない。愛するには年齢が離れている。決して私の思い人なんかではない。だけど、もし、加賀谷が他の芸妓を好きになったら――。嫉妬するかも知れない……。
名前も名乗らず、風呂を出た後、その女性と別れました。
「とにかく頑張ることさ」
別れる間際、彼女が私の背中をドンと押してくれたことが印象に残っています。
「頑張ります」
と、私は答え、「ありがとうございます」と、深く腰を折って礼を言いました。


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