哀愁のギター弾き夜明けに死す 前編
高瀬 甚太
1
午後8時を過ぎた大阪心斎橋筋に最近、一つの名物が生まれた。顔半分ヒゲだらけのヒゲの浩太のギター演奏である。心斎橋筋をぶらつく人たちは、ヒゲの浩太を見て思わず心を和ませる。ずんぐりむっくり、お世辞にも恰好いいとは言えないヒゲの浩太が、何ともいえない心に染み入る演奏をするのだ。そのギャップに多くの人は驚きを隠さなかった。
三十を少し超えたぐらいだろうか、ギター演奏のテクニックはプロ顔負けであった。いや、演奏だけではない。ヒゲの浩太の歌声もまた、ギターの演奏に負けないほど、心に染み入るものだった。
ヒゲの浩太は、毎日、午後8時過ぎに心斎橋筋の路上に現れて、午後11時までの3時間、休みなくギターを弾き、オリジナルの曲を歌い続ける。その歌詞がまた泣かせるのだ。
彼の歌を一度でも聞いた人ならわかると思うが、ヒゲの浩太の歌や演奏には、人の心を抉り取るような悲しさ、やさしさ、慈しみがあった。
そんなヒゲの浩太が、心斎橋筋を歩く人以外にも広く知られるようになったのは、その月の土曜の夕刊に取り上げられた記事がきっかけになった。
「編集長、ヒゲの浩太を知っていますか?」
短期のパートで雇用した江西みどりが井森に聞いた。締切を間近に控えた忙しい時間帯であった。無駄口など叩いている余裕などなかった。
井森が左右に首を振ると、みどりは、新聞記事を井森の前に差し出した。
「この人ですよ。意外と編集長は世情に疎いですね」
新聞を手に取った井森が、みどりの示す記事を見た。
――心斎橋の路上アーティスト、大人気!
と書かれたその記事は、心斎橋筋に現れた謎のギタリスト、ヒゲの浩太を興味深く取り上げていた。
「編集長、今度一緒に心斎橋筋へ行ってみません? ディナーのついでに」
軽口を叩くみどりに、井森は応える気力もなかった。
パートの人材選びに失敗したと、つくづく井森は思っていた。もっとよく調べてから雇えばよかったと思ったが、すべて後の祭りだ。みどりは、仕事はそれなりにできるのだが、二一歳と若く、男を手玉に取るようなしたたかさがあった、その馴れ馴れしさにほとほと手を焼いていた。
「行かない。行くなら別の女性と行く」
仕事の手を休めずに言ってのけると、みどりは、プイと顔を横に向けて、怒ったような顔でパソコンのキーを荒々しく叩き始めた。
井森は、臨時のパートとはいえ、みどりが自分のところへやって来たことが不思議でならなかった。スタイルもよく、顔立ちもきれいなみどりなら、他にいくらでも仕事があったはずである。現に彼女は極楽出版へパートにやって来るまで、大手銀行に勤めていた。その仕事をやめて、零細出版社の、しかも中年の独身男が細々と一人でやっている、ちっぽけな事務所にやって来たのだ。わけがわからなかった。
その日の夕方、仕事が一段落したことから、井森は、みどりを伴って心斎橋筋商店街に出かけることにした。機嫌を直したみどりは、歩きながら鼻歌まじりに井森の腕に自分の腕を絡ませる。その腕を払いのけようとするが、みどりは一向に動じない。女性と一緒に歩くことすら珍しい井森にとって、若い女性と腕を組んで歩くなど、奇跡のようなものだった。だが、みどりには、そんな井森に、やましい思いを感じさせないほどの天真爛漫な明るさがあった。
中央区の東心斎橋に井森が贔屓にしている洋食店『サラマージュ』があった。派手なネオンに彩られた店が居並ぶ通りにあって、『サラマージュ』は目立たない、ひっそりとした小さな店だ。ただ、入り口、店内と続くインテリアに独特の品格があり、この店の主人のセンスの高さを感じさせた。
「いらっしゃい……。やあ、井森編集長お久しぶりです」
白いコック服、コック帽のマスターが口ヒゲの奥から白い歯を覗かせて笑った。十人も入れば一杯になるような小さな洋食店だが、予約をしないと入れないほど人気があった。
井森はこの店が開店した七年前から贔屓にしてきた。それもこれもマスターの料理の腕が確かで、井森の好みとする味だったからに他ならない。五人がけのカウンターとテーブルが三つ。店内は落ち着いた色調の濃い茶色で統一されていた。窓際のテーブルに案内された二人は、ためらうことなくマスターのおまかせ洋食をオーダーした。
マスターおすすめの年代もののワインで乾杯をし、静かに食事をする。フランス料理でもイタリア料理でもないマスターこだわりの洋食は、温かな家庭の味わいと旬の材料をふんだんに取りそろえた彩り豊かなもので、味覚だけでなく視覚も楽しませる秀逸なものだった。
「編集長はこの店が開店した時から知っているんですよね」
みどりがフォークとナイフを器用に扱いながら井森に聞いた。井森は、食事をしながら会話をすることを好まない。頷きながら料理に集中していると、なおもみどりが問いかけてきた。しかし、それに対してもほとんど答えない。無言でナイフとフォークを動かし、一品一品に舌つづみを打った。
午後8時半を過ぎた頃、料理を食べ終えた井森とみどりは、ヒゲのマスターに別れを告げ心斎橋筋へ向かった。
人通りの多い商店街を北へ歩くと、閉店した百貨店の前に人だかりが見えた。好奇心旺盛なみどりは、人だかりの中から聞こえてくる、流麗なギターの曲と、のびやかな歌声を聴いて、
「ヒゲの浩太だ」
と、井森の手を引っ張って人だかりへに向かって急いだ。
大勢の人に囲まれて、ギターを弾きながら歌うヒゲの浩太が人の輪の中心にいた。音域の広い彼の声は哀切と悲哀を伴って聴く者の心に響き渡る。
井森とみどりはしばらくその場に立ち、ヒゲの浩太のギター演奏と歌に聴き入った。
人だかりはさらにふくらみ、やがて警察がやって来て中止を促すほどの大騒ぎになった。その頃には井森とみどりは人だかりを離れ、心斎橋筋を南に向かって歩をすすめていた。
2
「編集長、大変です!」
3日後の朝のことだ。出勤してきたみどりが血相を変えて井森のところへ飛んできた。
井森は、やれやれといった表情でみどりを迎え、
「何だ。朝から騒々しいぞ」
と叱るように言った。みどりは今にも涙を流さんばかりの表情で、
「ヒゲの浩太が亡くなりました……!」
と大声を上げ、朝刊を大きく開いて井森に見せた。
「何だって!」
井森もさすがに驚き、みどりの手から新聞を取り上げた。
大阪府警捜査一課の原野警部が井森の元へやって来たのは、その日の夕方近くのことだった。原野警部は、担当する事件が暗礁に乗り上げると、いつも井森の事務所にやってくる。井森のヒントで何度か事件が解決したことがあり、また、人智を超えた不可解な事件に遭遇した時も、必ずと言っていいほど井森に助けを求めた。
「編集長、ヒゲの浩太という路上のギター弾きを知っているか?」
開口一番、原野警部の口から、ヒゲの浩太の名前が出たことに、井森は驚いた。その井森より、さらに驚いたのがみどりだった。みどりは、仕事の手を止めて、原野警部の元に近付く。
「編集長、こいつは何だ?」
原野警部が自分の近くにすり寄って来たみどりを見て、迷惑そうな顔を見せた。
「放っておいてください。編集の仕事を短期間だけ、手伝ってもらっている江西みどりです。気にしないでください」
短期間の雇用であることを井森が強調して言うと、みどりは、頬を膨らませ、井森と原野警部を睨みつける。
「ヒゲの浩太の路上コンサートを最近、見てきたばかりだ。新聞記事に出ていたが、殺されたんだって?」
井森が原野警部に応えると、みどりも割り込んできて、
「私が案内して連れて行ったんですよ」
と得意げに話す。原野警部は、邪魔だと言わんばかりに、みどりを邪険に追い払い、井森に話し始める。
「記事にもあったように、ヒゲの浩太が殺された。ただ、その殺され方が妙なんだ」
「殺され方が妙って、いったい、どういうことですか?」
原野警部は、しばらく躊躇する素振りを見せたが、再びみどりを敬遠して、井森の耳元に口を近づけ、内緒話のようにして話した。
「世間には発表していないことだが、いずれわかることだから編集長だけに話しておく。ヒゲの浩太の死体が見つかったのが昨日の午前5時過ぎ、道頓堀の橋の下でプカプカ浮いているところを発見された。目立った外傷がなく、溺れたわけでもない。道頓堀川に落とされる前に命を失っていることは鑑識の調べでわかった。だが、刺し傷もなければ暴行された形跡もない。解剖して調べているが、今のところ死因がわからない」
神妙に話を聞く井森の傍に、いつの間にかみどりがやって来て、同様に首を傾げて聞いている。
「編集長はどう思う? 怨恨による殺人か、もしくは自殺か、それとも通りすがりの殺人事件か? それとも霊の仕業か」
井森は、席を立ち、宙を見上げるようにして考えていたが、椅子に腰をかけ直したところでおもむろに口を開いた。
「ヒゲの浩太の身元調べはすんでいますか?」
「ああ、調べたよ。何しろああいう神出鬼没の人物だからね。最初は苦労した。新聞にヒゲの浩太の死が発表されてすぐに、もしかしたらと言って女の人が訪ねて来てくれた。世の中、ほんまにわからんものや」
原野警部がしみじみとした口調で言う。
「ヒゲの浩太の本名は仲井間浩太、住まいは大阪の高級住宅街の帝塚山。年齢は三八歳。父親は実業家で赤司製薬の経営者、ホームレスのように見えたが、れっきとしたボンボンだった」
みどりが声を上げる。
「赤司製薬の御曹司だったなんて――。編集長、気が付きましたか?」
「何となくね」
と井森は答えて、
「あの歌い方は、訓練された歌い方だった。我流の歌謡曲調の歌い方ではない。専門の学校か、もしくは音楽大学で学んだのではないか、それに浩太の持っていたギターは、どう見ても最高級のギターだ。ちょっとやそっとでは手に入らない代物だ」
井森の説明を聞いて、原野警部は怪訝な顔で井森を見た。
「ボンボンが、何でまた路上でギターの弾き語りなどしているのだ。世の中わからんことが多すぎる」
原野警部は、苛立ちを隠そうとしなかった。単なる殺人事件と思ったものが、複雑な展開を見せている。そのジレンマが原野警部の表情に如実に表れていた。
「警部、浩太の死因ですが、場所が場所ですし、目撃者はいないのですかね」
「たくさんいた。何と言っても場所が大阪の繁華街、道頓堀だからね。夜明け前と言っても人は多い。朝帰りのキャバ嬢やホストらが浩太を目撃していた」
「目撃者はどう言ってるのですか?」
「引っ掛け橋の袂に浩太がぼんやりと佇んでいて、その側を三人のジョギング走者が走り抜けたと思ったら、次の瞬間、浩太が橋から消えた。そう証言していた」
「そのジョギング走者の身元はわかっていますか?」
「中年の男性が三人ということだけはわかってるが、どこの誰かはまだわかってない。誰に聞いても、あの場所でジョギングやっている人間なんか見たことがないというばかりでな。目撃者を問い質しても、帽子を目深に被っていたので顔がわからなかったと言う」
「そうですか」
「編集長、何か、いい知恵ないか?」
井森は、一介の編集長でありながら、これまで様々な事件を解決してきた過去がある。特に井森の場合、他の人間には理解できない不可解な謎を解いてきた実績があった。しかし、これまで井森は、一度たりと、そのことを自慢したり吹聴したことがない。
――死因がわからない、しかも三人のランナーが通り抜けた後に浩太が川に落ちた。おぼれ死んだのでもなければ、刃物で刺されたわけでもない。川に落ちた時はすでに亡くなっていたのだろう。そう考えるしか術がない。
原野警部の携帯が勢いよく鳴り響いたかと思うと、
「編集長。期待しているよ」
と言い残して警部は部屋を出て行った。
原野警部が出て行くのを見届けて、みどりが井森に聞いた。
「編集長、ヒゲの浩太は本当に殺されたのでしょうか?」
みどりの素朴な疑問に井森が大きく頷いた。
「私もそれを考えてみたよ。彼は心臓発作のような突発性の病気で命を失い、橋から落ちたのではとね。でも、それでは理屈に合わないのだ」
「どうしてですか」
「彼は絶命してから川に落ちているのだ。一滴も水を飲んでいない。心臓麻痺や発作なら、落ちてもまだ生きている。少しは水を飲んでいるはずだ。そうじゃないか」
「そうですね。でも――」
言いかけてみどりが口ごもった。
「不思議と言えば彼の身元もそうだ。帝塚山の名家に生まれて何不自由なく育ったはずだ。そんな彼が何故、路上でギターの弾き語りをしているのだ。いや、金持ちだから路上でギターを弾かないなどということはないだろうが、それにしても彼の様子はホームレスと見間違うほど、ひどいものだった」
「怪しいのは三人のランナーだと思う。きっとその三人がヒゲの浩太に何かをしたに違いない」
井森は、天井を見上げて沈黙した。事件の謎を解くためにも被害者である浩太の家族を調査する必要があった。
「江西くん、きみに頼みたいことがあるんだが――」
頼みがあると言われただけで、みどりの顔が笑みに変わった。みどりが井森の元へやって来た理由が、ようやくわかったような気がして井森はガクンと肩を落とした。
3
帝塚山は大阪市内を代表する高級住宅地である。上町台地の西端に位置し、高級住宅地としての帝塚山は、一般に阿倍野区北畠、阿倍野区帝塚山、住吉区帝塚山中を指して言う場合が多い。
ヒゲの浩太の実家は、北畠の閑静な住宅街の一角にあった。取り分け豪華な邸宅の門の前に立ったみどりは、「仲井間」の表札を確認するとインターフォンを押した。
しばらくして返答があった。
「どちら様でしょうか?」
みどりは、「市役所の方から来た者ですが、浩太さんはご在宅でしょうか?」
と言い、返答を待った。
やや時間を要して
「お坊ちゃんは今、こちらには住んではおりませんが……」
か細い声が聞こえた。どうやらお手伝いが対応しているらしい。
「ご両親にお会いしたいのですが、いらっしゃいますでしょうか?」
「今はどちらもおられません」
「いつ頃お帰りでしょうか? ぜひご面会したいのですが」
「さあ……。何もお聞きしていないのでわかりません」
「でも、今日、お帰りになりますよね」
「旦那様も奥さまも旅行に出ておりまして、お帰りになる日を知らされていません」
「そうですか。わかりました。では、また出直します」
息子の死を知って関わり合いになるのを恐れたのだろうか。みどりはあきらめて仲井間宅を後にした。途中、みどりは井森の元へ電話を入れた。
「先生、江西です。仲井間の実家に行って来ましたがご両親共にいらっしゃいません。二人共、旅行に出掛けていると、お手伝いが言っていました」
みどりから連絡を受けた井森は、しばらく考えた後、みどりに伝えた。
「そうか。じゃあ、申し訳ないが今度は、浩太の出身中学校へ行って聞いて来てくれないか。浩太は高校からは私立だが、中学校までは公立に通っている。当時の担任が、もし、まだ勤務していたらそこで浩太の何かがわかるかも知れない」
「編集長、いい加減にしてくださいよ。私、疲れているんですよ。明日にしてもいいですか?」
「いや、悪いが今からすぐに行ってくれないか。では」
「編集長、編集長――、本当にもう人使いが荒いんだから」
みどりは資料を取り出すと、ヒゲの浩太が通っていた中学校に足を運んだ。
中学校は、仲井間宅から東へ3キロほど歩いた場所にあった。昭和初期に出来たという建物は、古びてこそいるものの、凛とした美しさを保っていた。
広い校庭の端に一本の楠木が立っていた。旧い校舎と年月を共にして来たのだろう、天に向かってスックと伸びた一本の楠木に、みどりは、この中学校の教育への熱い思いが込められているような気がした。
「ああ、仲井間くんですか。よく覚えていますよ。私が担任をしていましたから」
面会した中学校の教頭は、そう言って快くみどりを迎えてくれた。
「彼は非常に優秀な生徒でしたね。高校は私立の進学校へ進みましたが……」
「仲井間さんは先生からみてどんな少年でしたか?」
みどりの質問に、教頭は、遠い記憶を呼び覚ますかのように目を細めた。
「あまり笑わない子どもでしたね。無表情で何を考えているかわからない、そんな子どもでした。ただ……」
「ただ……?」
思わずみどりが問い返した。
「一人だけ、彼が心を許した友だちがいました。その友だちの前で見せる顔が本当の彼だったのでしょう。その男といる時だけ彼は笑顔を見せていましたから」
「仲井間さんは、みんなといる時、なぜ笑わなかったのですか?」
「彼の家庭がそうさせたのでしょう。由緒正しい、厳格な家庭と聞いています。特に父親がしつけの厳しい人のようでした。後継ぎということもあって厳しかったのだと思います。彼は一人息子でしたからね。父親は大手企業の経営者で、ゆくゆくは仲井間くんにと期待していたんでしょう。それもあって彼は、常に緊張を余儀なくされていたのではないかと思います」
仲井間の意外な素顔が浮かび上がってきた。
「その友だちというのはどんな人なのですか?」
みどりの質問に、教頭は屈託なく答えた。
「仲井間くんとは、まったく正反対の男です。母一人子一人の貧しい家庭 でね。でも、そんなことをまるで感じさせない明るくて陽気な男でした」
「お名前は?」
「斉藤です」
「下のお名前はわかりますか?」
「斉藤雄一です」と答え、
「実は二カ月前、偶然、彼の店に行きましてね。美味しい店があると友人に誘われて行ったのですが、その店が彼の店だったので驚きました」
と、教頭は笑顔を浮かべて言った
「店に入って酒を呑んでいたら店主がやって来て、『失礼ですが……』と私の名前を言うのです。誰だったかな、そう思っていると、『先生の生徒だった斉藤です』と言ってね、ああ、あの斉藤くんか、となってその日は本当に大いに盛り上がりました」
教え子に会うのは担任にとって至上の喜びのようだ。その後、教頭は、しばらくその店の様子を饒舌にみどりに語った。
「二人はなぜ友だちになったのでしょうか」
教頭は、それについてはよくわからないらしく、首を振って、「わかりませんね」と答え、
「二人は中学を卒業するまでの三年間、ずっと仲良く付き合っていましたよ」
と付け加えた。
JR京橋駅中央改札口を出ると異様な喧噪に包まれる。雑多な店の並ぶ方角に歩くと、ムッとする酒の匂いに包まれた。この周辺には酒を呑ませる飲食店が多く、顔を真っ赤にした酔っ払いの姿が目に付いた。
駅からそう遠くない場所にあると聞いていた、斉藤の店を目指した。
盛り場から少し離れた路地のような道の途中で、みどりはその店を見つけた。『太地』と書かれた大きな行灯にはまだ灯が灯されていなかった。開店前なのだろう、暖簾もかかっていなかった。
「すみません……」
ガラスの引き戸を開けながら、薄暗い店内に向かっておそるおそる声をかけると、中から、「6時からです」と声が返ってきた。
「店主の斉藤さんを訪ねて来たのですが――」
みどりが声を上げると、奥から腰にエプロンを巻いた男が現れた。どうやら仕込みの最中だったようだ。
「何でしょうか?」
角刈りの頭に鉢巻を巻いた、いかつい顔の男は、タオルで手を拭きながらみどりに聞いた。みどりは、男の表情に険悪なものを感じて、少し後ずさりした。
「こちらに斉藤雄一さんはいらっしゃいますでしょうか」
「斉藤? 斉藤は俺だけど、あんた誰?」
「失礼しました。江西みどりと申します」
斉藤は拭き終わったタオルを遠くへ放り投げると、
「で、俺に何の用なの?」
と聞いた。
「仲井間浩太さん、知ってますよね」
仲井間浩太の名前が出たことで、斉藤の目がキラリと光り、用心深くみどりを見た。
「知っているよ。中学時代の同級生だ」
「その仲井間さんが亡くなったことをご存知ですか?」
頭から鉢巻を外した斉藤は、エプロンも同時に外し、店の中にある椅子にどっかと腰を下ろし、大きなため息をつき、タバコに火を点けた。
「知ってるよ。新聞で読んだ」
斉藤は、みどりに座るよう手で示し、
「あんた、いったい何者なんだ。警察でもないんだろ?」
煙を吐き出しながら斉藤が聞いた。みどりは、椅子に腰をかけると斉藤に言った。
「ええ、警察でも探偵でもありません。ただ、仲井間さんの死の真実が知りたくて個人的な興味で調査しています」
「俺のことはどうして知ったんだ」
斉藤の鋭い目がみどりを捉えた。みどりは緊張の面持ちで答えた。
「仲井間さんの出身中学校に行って、仲井間さんの担任だった先生に仲井間さんの一番の親友だったと聞いて――」
「それだけじゃないだろう。俺に聞きに来たのは他にも理由があるのだろ」
見透かされていると、みどりは思った。隠し通せない。みどりは斉藤にすべて打ち明けることにした。
「仲井間さんは道頓堀川に落ちて亡くなりました。仲井間さんの死因が不明だということを警察関係の方にお聞きして――。私、仲井間さん、いえ、ヒゲの浩太が心斎橋筋でギターの弾き語りをしているところを見ています。素晴らしい歌と演奏でした。一回聞いただけでファンになってしまいました。そんな、素晴らしい歌声を持った浩太が、なぜ、あんな死に方をしたのか、真実が知りたくて仲井間さんのご実家を訪ねましたが、門前払いで相手にしてもらえませんでした。それで仲井間さんの卒業した中学校を訪ねました」
斉藤は、タバコの火を灰皿にこすりつけると、
「俺のことは中学時代の先公に聞いたのだな?」
と抑揚のない声で聞いた。
「はい、そうです。仲井間さんと大の親友だったと聞きました。それで、あなたにお伺いすれば仲井間さんのことが何かわかるかなと思って」
宙を見つめるような目で遠くを眺め、斉藤は言った。
「確かに俺たちは仲がよかったよ。しかし、それも中学を卒業するまでのことだ。公立の高校へ入った俺と私立のエリート高校に入ったあいつとは、自然に疎遠になった。何度か連絡をもらったが、俺の方から遠慮してあいつから離れた。だからそれ以後のあいつのことを俺は知らない」
つっけんどんだが、どこか仲井間を懐かしむ斉藤の言葉に、みどりは一縷の望みをつなぎ、なおも問いかけた。
「仲井間さんはどんな人だったのですか?」
「いい奴だったよ。とても人が良くて、無口だったが慣れればよく話した。ただ、家に帰ることをとても嫌がっていたなぁ。だから帰宅時間のぎりぎりまでいつも俺と一緒にいた。俺とあいつは中学校の入学式で知り合ってね。俺はその頃、荒れていたんだ。それで背の高い、ヌーボーとしたあいつを倒して番を張ろうと思い喧嘩を売った。だが、あいつは喧嘩に乗ってこなかった。ほっぺたをはり倒してもかかってこない。怒らないんだ。蹴っても動じない。そのうち嫌になって、あいつの側から離れようとすると、あいつが言ったんだ。ぼくと友だちになってくれないか、と。驚いてあいつを見ると、あいつ笑っているんだ。その顔がとても優しくて――、だから、俺、言ったんだ。いいけど、俺の方が上だぜって。するとあいつは、大きな手で俺の手を握って、上でも下でもかまわない。きみと仲良くなりたい。そう言うんだよ」
斉藤は吸いかけの煙草を灰皿でもみ消し、再び新しい煙草を取り出して火を点けた。
「嬉しかったよ。小学生時代から友だちなんて出来たことがなかった。いつも一人ぼっちで、周りの奴らに暴力ばかりふるっていた。だからあいつにそう言われた時は驚いて言葉が出なかった」
開店時間の6時が迫っていた。みどりは時間を気にしながら訊ねた。
「その仲井間さんとなぜ疎遠になったんですか?」
斉藤は、大きく煙を吐き出すと、再び灰皿で煙草をもみ消した。
「高校へ入った頃のことだ。あいつのオヤジが俺を訪ねて来た。あいつのオヤジはあいつには、どこも似ていなかった。そのオヤジが、これからは一切、息子と付き合わないでくれ、と言うんだ。父親がいない貧乏な俺と付き合うとろくなことがないとでも思ったんだろう。俺は、ああいいよ。こちらから願い下げだ、と強がって言った。あいつのオヤジはそれを聞いて安心したのか、息子にはこれから経営の帝王学を学ばせないといけない。友だちも選ばないとな、と言いやがった。おまけに封筒を俺に渡して、今までのお礼だ、受け取ってくれと言うんだ。封筒の中には一万円札が数十枚入っていた。俺は馬鹿にするなと突き返した。だが、あいつのオヤジは哀れむように俺を見て、その封筒を俺のポケットにねじ込んで帰った。それ以来、あいつとは会っていない」
壁に掛けられた柱時計がボーンと6時を告げた。みどりは、慌てて席を立ち、斉藤に向かって、
「今日は忙しいところをありがとうございました」
と一礼を言い、慌ただしく店を出た。
京橋駅から大阪駅へ電車で向かい、井森の事務所に戻ったみどりは、仲井間家のこと、中学校の教頭の話、斉藤から聞いた話のすべてを井森に話した。
〈つづく〉
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