芸者の恋、あるいはひとり言

 二十歳の年、芸妓になった私は、「秋乃」という芸名をもらい、お座敷に出るようになりました。お座敷にデビューしてすぐに、なじみの客が何人か付き、予約がびっしりといった状態になりました。毎夜、てんてこまいの状態です。なじみの方々からいただく祝儀の金額も相当なものになっていました。
 私を半玉の頃から贔屓にしてくださる客の一人に、加賀谷修吾という、六十代半ばの方がおられました。この方は地元の有名企業の経営者で、お座敷を使う時は必ず私を指名してくださり、そのたびに考えられないほど大金の入った祝儀をいただきました。
 ファーザーコンプレックスとでも言いましょうか。私は、同年代の男性よりも遥かに年上の人に強い愛着があり、その傾向がお客様にもわかるのか、贔屓にしてくださる方の多くが、加賀谷さんと同様か、それより上か少し下でした。
 十五歳の年から芸妓という仕事に携わってきたせいか、真剣に恋したり、愛したりすることよりも、駆け引きのようなものを先に覚え、あまりいい言葉ではありませんが、いつしか男を手玉に取るということに長けるようになっていました。
 お客様も芸妓を相手にする時はどうせ遊びです。真剣に芸妓に恋するような野暮な人間はいない。そう思っていました。休日の日に加賀谷さんに誘われ、接待ゴルフに同行した時も、そのつもりでいました。でも、加賀谷さんはそうではありませんでした。その日の夜、私は加賀谷さんと深い仲になり、男と女の関係になりました。でも、所詮、遊女と旦那の関係でしかない。そう思っていたのですが、意外にも加賀谷さんは真剣で、奥さんと別れて私と一緒になる、と言うのです。
 あまりにも真剣な加賀谷さんの様子に私は内心、驚きを隠せませんでした。加賀谷さんは、私にとって、ずっと憧れの存在で、大好きでしたが、男と女の関係になり、愛の告白を受けてしまうと、戸惑いの方が多くなり、私は本当に加賀谷さんを愛しているのだろうかと、自問自答するありさまです。
 加賀谷さんの思いは、私にとって大変な重荷になりました。逃げるに逃げられず悩みました。そんな時です。お母さんに、
 「秋乃、たまには旅行でも行って気分転換してきたら」
 と言われたのは――。
 お母さんは、私が悩んでいることを先刻承知のようでした。それで言ってくれたのだと思います。
 一人旅など、これまでしたことがありません。どこへ行けばいいのか、それさえもわからずにいると、お母さんが、自分の友人がやっている温泉旅館がある、そこへ行ったらどうだと教えてくれました。考えることすら面倒に思っていた私は、お母さんの友人の経営する温泉旅館に三泊四日の旅をすることにしました。
 加賀谷には、実家に用があって帰ると嘘をつき、私は旅に出ました。
 紀伊半島の南端近く、白浜温泉の少し南に、T温泉という温泉地があります。お母さんの言葉によれば、とても泉質のいい温泉地ということでしたが、行ってみると何もない静かな湯治温泉で、こんなところに三日もおれるかな、と思うほど退屈極まりないところでした。
 海に面した宿に着き、窓から海を眺めていると、スーッと心が少女の頃に戻ります。太平洋を眼前にしているというのに、穏やかな海は波の音すら立てません。芸妓の世界の慌ただしさがまるで嘘のような静かな世界がここにありました。
 観光気分でなかった私は、浴衣に着替え、砂浜へ出ると、浜に打ち上げられた貝殻を探して歩きました。寄せては返す単調な波の音が耳に心地よく響きます。感傷的な気分に浸っているうちに、加賀谷のことが一向に頭に浮かばないことを不思議に思い、何故だろうとふと考えました。
 胸のときめきも、逢いたいと思う気持ちも湧いて来ません。その時、私は、はっきりと加賀谷は私の思い人ではないと悟りました。
 加賀谷は、都会の喧騒の中で、芸妓という世界の中だけの存在で、その場所を離れると、泡のように消えてしまう。そんな存在だと知ったのです。
T温 泉にやって来てすぐに、私は携帯の電源を切りました。誰にも束縛されず、一人でゆっくりこれからのことを考えたいと思ったからです。これまでの自分の人生を見直したい、考え直したい、そんな気持ちもありました。
 十五歳の年に置屋に入ってからの自分の半生――。見直すにはいい機会でした。
 食事を終えた後、ゆっくりしていると、仲居さんに、
 「うちの温泉はお肌にいい湯ですよ」
 と言われ、風呂に入るには少し早いとは思いましたが、支度をし、風呂に向かいました。
 岩風呂に入ると、私より十歳は上だろうと思われる女性の方が一人、湯に浸かっていました。
 ぬるぬると体にまとわりつく独特の泉質を楽しみながら湯船に身体を預けていると、
 「どちらから来られました?」 
 と、湯船にいたその客に声をかけられました。
 「大阪です。今日、大阪からやって来ました」
 岩風呂の大きさは、畳に換算して十五畳ほどでしょうか。まずまず広い浴槽でした。女性客との距離は少しあって、湯気で顔がよく見えません。
 「私は京都よ。昨日、こちらへやって来たばかり」
 落ち着いた話し方が安心感を私に与えました。
 「年に一、二回、この宿へやって来て、一週間ほど逗留して帰ります。何もかも忘れてぼんやりと過ごすのも悪くありませんわ」
 女性はそんなふうに話して、私に近付いて来ました。
 その女性の肌の白さは際立っていました。それによく見ると、とても美しい顔立ちをしています。思わず、同業者ではないかと疑ったぐらいです。
 「あなた、もしかしたら私と同じ仕事をしているのじゃない?」
 女性に聞かれて、ハッとしました。私が同業者ではないかと思ったように、彼女も私を同業者と思ったようです。
 「私は、大阪で芸子をしています。あなたは?」
 と聞くと、案の定、彼女は、
 「私もあなたと同じ芸妓よ。京都で働いているわ」
 と言い、笑顔を浮かべます。
 「どうして私が芸子とわかったのですか?」
 「入って来た時から何となく、そうじゃないかと思っていたのよ。年の割に落ち着いているし、身のこなしもしっかりしているし普通の女の子にはない色気も感じさせる――」
 そう言いながら彼女は湯船から上がり、洗い場へ向かいました。円熟した色気を感じさせる白い肉体が温泉の湯に当てられてピンクに染まっています。私も同じように湯船から上がると、洗い場に向かい、彼女と並ぶように座り、体を洗い始めました。

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