○○菓子店は深夜に待っている 葡萄菓子店
眠りかけたビルの合間に、こうこうと光る街灯。
私は終電を乗り過ごし、うつむきながら、夜の街を歩いていた。
仕事は繁忙期。たいした器用さのない私は、残業はこなせても、家に帰る手段を数分差でとりこぼしてしまった。
タクシーを使うには家は遠い。数少ない友人に無理を言って、一晩泊まらせてもらうことができたのは、唯一の救いだ。
友人宅に向かうため、ビルと閉店している小さな店の並ぶ道を歩む。
繁華街からは離れているとはいえ、昼間であればそれなりに人通りの多い街だった。今は道に人は少ない。灯りがついている居酒屋も閉店業務のため、のれんを下ろしているところだった。
ふと見ると、まだ閉店していない店があった。
看板はなく、古くさい店。ガラスから見えるのは、色とりどりの菓子。
この時間帯に開いている菓子店はめずらしい。
友人に手土産としていいかもしれない。
私はふらりと店の中に入る。
「いらっしゃいませ」
愛らしい声で出迎えてくれたのは、白くてふわふわした、ふくよかな若い女性だった。エプロンには、店名とともに、こもち、とひらがなで刺繍がなされている。
ショーケースの中の菓子は、近くでよく見ると風変わりだった。
果物を模した形の、砂糖菓子、だろうか。
いちご、さくらんぼ、りんご。
色も大きさも本物とそっくりなのに、見てすぐに菓子だとわかるのは、本物にはないつややかさがあるからだ。
おもしろい。きらきら輝く菓子たちに目を奪われる。
どれにしようか悩んでいると、奥から菓子店の雰囲気にそぐわない、がたいのよい男性が現れ、ショーケースの端を指差した。
「これがいいんじゃないか」
男性がすすめたのは、紫水晶のように透明な葡萄の菓子だった。
「彼、目利きはいいんです」
ふわふわした女性は、私にほほえんだ。
流されるまま、葡萄の菓子を買う。
友人宅に着き、菓子を見せる。見た目のかわいさに友人とはしゃいで、夜中なのにと言いながら、食べることにした。
房から粒をもぐ。
そして、ひとくちで食む。
ぷちん、砂糖菓子の表層は、やわくくずれた。
あふれてくるみずみずしい食感、あわい甘さ、ひろがる葡萄の香り。
はじめてなのに、知っている味だ。
昔、父に秘密で、書斎に潜り込んだことがあった。
本は小難しい外国の小説や詩集が多かった。出版されてから随分と年数が経つのか、翻訳独自の言葉の羅列に慣れなくて、私は頁を開いては閉じる動作を繰り返す。
本棚には外国の本以外にも、いくつか本があった。
私は少し日に焼けた薄い文庫本を手に取る。島崎藤村の若菜集。読書が何より好きだった私にとって、旧字体は昔の翻訳語よりは、まだなじみがあった。
庭にかくるる小狐の
人なきときに夜いでて
秋の葡萄の樹の影に
しのびてぬすむつゆのふさ
情愛の詩の意味を理解できなかった私は、詩の語感とひろがる風景にのみ夢中になる。
詩の中の小さな狐は、書斎に忍び込む小さな私とどこか似ていて、熟れてつややかな紫の果実は、未知なる詩の世界だった。
そうだ。きっと、夜ひそやかに小狐が口にした葡萄は、私が口にした菓子のような味をしていたに違いない。
藤村の詩集を片手に、文字だけで表現された世界を想像し、葡萄の味までリアルだった、あの頃。
自分も、言葉で何かを表現したい。あのとき、私はそう思ったことを思い出した。
最近、本を読んだのはいつだっただろう。
詩を、文章を、書こうと思ったのは?
友人は私ほどの感動がなかったのか、菓子を食べ、動揺する私に困惑していた。
あれからもう一度、その菓子店を訪れた。
奇妙な菓子なのは相変わらずだったが、私が買ったときに見た果物の砂糖菓子は置いていなかった。
白い肌のふくよかな女性店長は、申し訳なさそうにこちらを見た。
「お菓子はオーナーが作ってるのですが、お客様がご購入されたあと、オーナーはあれと同じお菓子を作らなくなってしまいました。きっと、お客様には、あの菓子は、もう必要ないのかもしれません」
その言葉は、すんなりと、私の胸の中に収まってしまった。
秘密めいた葡萄の菓子。あの味を、もう一度欲したとき、私はパソコンに向かい、心の奥底からあの味に似た言葉を探り出し、キーボードを使って、表現できる。
少し残念な気持ちもあったが、女性店長に礼を言い、店を出る。
古びた店から、やさしい灯りが歩道にもれあふれていた。
私は家路を急ぐ。書こうと思った。あの店のこと、あの菓子のこと。
看板のない菓子店の名は、店員たちのエプロンに小さく刺繍で書かれていた。
菓子店 ランカンシエル
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