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何事もない、事があっても日常を。

日常の記録が続かない。

はじめましてKです。
さて、突然ですが私は今まで幾度となく日常を記録することに挑戦してきました。
しかし、写真はそのうち生業になり日常ではほとんど写真を撮らなくなってしまいました。
スマートフォンの性能が上がり、撮影から編集までできるようになったためYou TubeへVlogを毎日1年間ほど投稿したりもしました。
折角、写真の技術があるのだからと写真と文章で体裁の良い日記を半年ほどつけたこともあります。
また、ポッドキャストを数ヶ月つづけてみたりもしました。
でもどうして、全然続かないのです。
そこでふと考えてみました、何が原因なのかと。

何が原因だったのか

五年ほど前にコンサルタントの本や考えることを仕事にしている人の本を数冊読んで、そこに共通して書かれていたことがありました。
『紙に書き出せ』
もちろん僕が選んだ本なのですべてのそういった本に共通することではありませんが。
もう少し具体的に言えば、A4サイズのコピー用紙などの制約がなくある程度の広さを持った思考の机に、ちゃんと考えるべきことと考えている事、考えた事を書き出して『悩み(む)』から『問題』へと可視化して『考える』作業をしろ、と。
そしてある程度上に書き出して考えてみた結果、僕が続かないのはそもそもの話として記録を続けること自体に抵抗があるのではなく、今までの記録方法自体に抵抗がある。
具体的には、SNS連携により知人に届くがゆえに当たり障りのない話題しか取り扱えない、体裁を整えるにあたって「写真で食ってるプロなんだから」と気負ってしまう、いつでもプライベートな話題を声にできる環境ではない、動画は日常をネタにするには活動的にならねばならぬ、これらのせいで続かなかった、ということがわかりました。
つまり、抵抗のない記録方法であれば良いわけです。
知人の目に触れることを前提にせず、変に体裁を整える必要もなく、声や体を大きく使うこともない。
そう、SNSと連携させず、宣伝もせず、気負わず、動画や音声ではなく、活字のみで。
これなら続けられるのではないか、とふと寝不足の昼過ぎの今日に思いついたわけです。
そしていま、白鶴の大吟醸を飲みながら、とりとめのない話を記述しているのです。

さぁ、気負わず、好き勝手書くぞ。

人間は自由になると何もできなくなると言われています、また選択肢が多すぎても選択ができない。
だから選択肢を少なくしたほうが売上が良いとかなんとか。
でも日常の感情や起こった事実を記録していくここではそんな事を気にする必要もなく、全てが自由で自分の感情や身の回りで起こったことや考えを思い付いた時に思うだけ書けば良い。
一日に1000字以上の日記を何本書いてもいいし、その月は数日だけ100字あまりのどうでもいい報告を書いても良い。
そう思っています。

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