仏教と哲学と執着と刹那。
私は自粛期間中ステイホームを愉しむ為に、プレゼントで頂いていた写経セットを持ち出したりして、そこからほんのり仏教について興味が湧いている。
日本人のほとんどが、私を含め、宗教的観念が強い方では無いと思う。自分の宗派なんて法事や葬式でもなきゃ分からない、無自覚なものだ。
南無阿弥陀仏…という般若心経の内容をざっくり要約すると『何事も、形の有無に関わらず、全ては変わりゆくのが当たり前で、そんなことに執着せず、ただ流れのままに身も心も委ねればよいだけなのです。』という教え。
平たく言えば〝煩悩を棄てれば苦心も無い〟わけです。
私は今まで、動物的な本能が強く出た人格だと自分を分析していました。
食べる事や寝る事が何よりの贅沢で、人生の愉しみだと思う。
しかし以前、嫌味っぽく『それはお手軽な幸せで結構な事ですね』と言われた事があり、私は腑に落ちなかった。刹那的な生き方をしている、と揶揄されたかな?と思ったり、でも確かに私自身そのように生きている自覚もあるかなと思ってみたり。10年後の自分を見据えて日々努力する…なんて生き方は昔から苦手でしたね。
でもね、今なら何となく分かる。その人はまさに煩悩に支配された人だったのだろう。他人の目を気にする・自分のステータスを気にするタイプの女性だったから。
私のような、周りの目を気にせず自分の好き勝手に生きて幸福そうにしている感じを妬んだのだろう。
たしかに昔から、他人に興味が無い。
周りの目線も気にならないタチだ。
きっと、そんな事を気にした所で何にもならん、と思ってた。むしろ〝空気を読んで周りに足並みを合わせて浮かないよう演じる〟スキルが標準装備されてる人達が羨ましいくらいだ。この歳になるとさすがにね。苦笑
現代の日本社会では必須スキルなのかもしれない。しかし私のような生き方がむしろ仏教的で、徳の高さに当たるのかもしれないなとふとよぎったのです。
異性交遊でも、例えば100年の恋をした間柄の男性から別れを告げられた時。私の中で落ち込む期間はあまり長くはないでしょう。惜しむ事はあっても、引き留めないでしょう。私の意識の中でその人は、死んだ事と同じような扱いになります。
思い出して、想いを馳せる事があっても、決して自分から求める行動はしないでしょう。
同時にたくさんの人に恋をする事も出来ます。
むしろその方が、1人に依存せず執着や粘着する事を避けやすいからです。とはいえ、それぞれの相手の素晴らしさを私は知っているし、かけがえの無い経験を共有しています。
人生とは『産まれてから死ぬまでの過程』
それ以上でも以下でも無い。
どんな風に生きても人生は人生。誰に何を言われようが関係ないし、自分の納得できるよう、後悔のないよう、この命を全うすればいいだけ。
ならば、出来るだけ楽しくいましょうと私は思っています。
(こんな風に、頭の中と同じに簡単に整理がつく社会だったらいいのに…と思わずにいられないくらいに日々の暮らしには迷いがありますけど、ね!