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蟲魂2 -ガザミ(中編「襲嫡男」)-

 徳兵衛、蛻吉ともに9歳。
 あさり、7歳。
 三人、夏の午後に山中の廃寺にて。

 あさりが泣いている。
「あさり。どうした?」
 彼女を慰める徳兵衛。
 蛻吉は無表情で二人を見つめている。
「虹色の蟲魂。逃がしたぁ」
「虹色?」
「うん」
「よし。俺が獲って来てやる」
「徳ちゃん。ほんとう?」
「まかせとけ。蛻吉。行くぞッ」
 徳兵衛、蛻吉の手を引っ張って山へ向かった。

 廃寺の前。
 草むらに身を隠す二人は、寺の中の様子を伺いながら話している。
「意外と広いなぁ。探すの大変だよ」
「探す?」
 蛻吉、徳兵衛を呆れ顔で見る。
「蛻吉。何だよ」
「探す積りなんか無い癖にさ」
「えっ。俺、また餌かよ」
「その方が、探すより早いし」
「なぁ。蛻吉。前みたいに手を離すなよ」
「あれはお前がしくじったんだろう」
「俺がお前の心から抜け出す前に扉を閉じようとしたからだろ」
「お前が出るのにクズクズしてってからだろう」
「だって珍しい縞模様だったんだぜ」
「ともかくさ、お前、しくじるなよ」

 本堂。
 大仏の膝の上に並んで座り、手を繋いで寝たふりをする徳兵衛と蛻吉。
 彼らの前に虹色の蟲魂が現れる。
 蟲魂は彼らの回りで転がって様子を見ていたが、やがて徳兵衛に近づく。
 そして徳兵衛の開いた掌の上に乗ると姿を消した。

 …来た…
 徳兵衛は薄目を開け、自分に近づいてくる虹色の蟲魂を見た。
 …凄くキレイ…
 転がりながらゆっくりと彼に近づく蟲魂。
 …もう少しだ…
 蛻吉は、自分の心の洞にいる徳兵衛と虹色の蟲魂を俯瞰しながら思った。
 …徳兵衛。今度は逃げ遅れるなよ…

 徳兵衛の顔が歪んだ。
 …臭いッ…
 耐え難い異臭が彼の鼻を突く。
 だが、鼻をつまもうと手を動かすことができないかった。
 蟲魂をおびき寄せるための餌である彼が少しでも動けば、罠に気づかれて蟲魂が逃げてしまう。
 だから彼は、次第に濃くなる異臭に耐え続けた。

 …ヨシ。あと少し…
 徳兵衛は蛻吉の『逃げろッ』の掛け声で檻を出る手筈だ。

 …我慢だ。徳兵衛、がんばれ…
 徳兵衛は自分を励まして耐え続けるが、強烈な臭気で薄目も開けていられない。
 …がんばるんだ。頑張れ、とくべえ…

 …よし。あと少し…
蛻吉が『逃げろッ』と言おうとした瞬間、予想外の展開が起きた。
「くっせぇーーーーーーーーーーッ」
 徳兵衛、絶叫。
「えっ。徳兵衛のバカっ」
 大声に驚いた虹色の蟲魂は猛烈な速さで徳兵衛から遠ざかる。
「逃がすかッ」
 蛻吉は檻の扉を閉めようとするが、残された徳兵衛を見て諦めた。
 虹色の蟲魂は、蛻吉が心の洞に仕掛けた檻から逃げた。

 二人は、ほとんど同時に目覚めた。
 蛻吉は咽ながら手と胸とを手で押さえた。
 強烈な嘔吐。
 蛻吉が口を開くと、虹色の蟲魂が外に飛び出す。
彼は朱色の虫籠を徳兵衛に渡す。
「徳兵衛。虫籠の入口を開けろッ」
 蛻吉に言われて入口を開けようとした徳兵衛だったが、蟲魂の美しさに見とれてしまう。
 虹色の蟲魂は本堂の奥へ一目散で逃げて行った。

「とく。何やってんだよ」
「だって。滅茶苦茶臭かったんだぞ」
「逃がしやがって」
 蛻吉、しかめっ面。
 そんな蛻吉を見ながら徳兵衛は鼻をつまんで言った。
「ぜいきち。お前の口、滅茶苦茶臭えよッ」
            *
 徳兵衛は、近江屋の代々の記録が収められている書庫で目覚めた。
 …子供時分の夢を見たね…
 大きく身体を伸ばした。
 …ものすごく綺麗な虹色の蟲魂だったけど、ちょっと臭すぎたね…
 彼は、苦笑いを浮かべながらほのぼのと思った。
 そして徳兵衛は、居眠り前まで呼んでいた祖父の日記を再び読み始めた。
 …おやおや…
 徳兵衛は、日記に残された下りに目を留めた。

 『布目御大変の顛末を記した文書の写し、御公儀より内々に拝領する』

 何かを思い出したのか、徳兵衛は立ち上がると書庫の奥へ行く。
 やがて二冊の文書を手にして戻り、経机に置いて座った。

 『布目御大変顛末(写し)』
 『月谷の庄(旧布目藩丹波国飛び領)顛末』

 徳兵衛は二冊の文書を読み始めた。
            *
 …ガザミのやつ。どこに行きやがった…
 蛻吉は苛立ちながら畳の回廊を歩き続けていたが、何かの気配を感じて身構えた。
 …蟲魂じゃねぇーな…
 少し先、右に折れた角の奥から気配が伝わる。
 …人間…
 人間には違いないが、それはあさりや伊織、ましてや御前とも違ったる
 …誰だ…
 気配の主は、蛻吉の目の前を無防備に現れた。
「おや。蛻吉じゃないか」
「徳兵衛?」
「やっと会えたよ。随分と探したよ」
 外出時に持ち歩いている喫煙具の手箱を左手に持ち、右手に持った煙管で悠々と煙草を薫らせながら徳兵衛はニッコリ笑って言った。
「まぁ、一緒に一服するとしようじゃないか」
            *
「広いねぇ。このお屋敷。歩き回って、くたびれちまったよ」
「徳兵衛さあ。お前、いつもこんな喫煙道具の手箱を持ち歩いてるのか?」
「そうだよ。これがあれば何時でも、どこでも煙草が吸えて便利じゃないか。それにお前さんも知っての通り、あたしゃ、蟲魂に寄られやすい性質だからねぇ。煙草を吸わない時に蟲除けの香を焚いておけば安心だろ」
 徳兵衛は二段の引き出しを開け下の段から煙管を取り出し、上の段に入れた刻み煙草をつまむとそれを雁首に詰めた。
 火入れの口を覆う金製の火屋の網目越しに煙を立てて燃える蟲除けの香が見えた。
 徳兵衛は火屋を開け、煙草に火をつけると一服した。
 彼に誘われるように蛻吉も煙草を吸い始める。
 畳廊下に座った二人は、寛いだ様子で庭を見た。
「広々して、手入れの行き届いた良いお庭だねぇ」
「まったくだ。金喰い虫って風情がプンプンだぜ」
 徳兵衛は憎まれ口を叩く蛻吉の顔を溜息混じりで見ながら言った。
「相変わらず無粋なことを言う男だねぇ」
「うるせえよ」
 徳兵衛、失笑。
「ところでよ。何で来たんだ?」
「そりゃあ、お前さんに伝えなきゃならないことがあって足を運んで来たのさ」
「?」
「女房のお勢がね、お前さんたちに手料理を振る舞いたいと言い出してね。今夜は真直ぐ帰って来て欲しいそうだよ。それを伝えに来たんだよ」
「お勢さんの手料理かぁ。たまに食いたいと思うことがあるが、その気分じゃねえなぁ」
「確かに、お勢の作るものは決して美味しいとは言えないからねぇ。でもね、心を込めて、密かに恋心を寄せている蛻吉さんのために一生懸命作るんだよ。食べておあげよ」
「気持ちは嬉しいけどなぁ。気持ちだけで充分だって、お前から伝えてくれよ」
「嫌だよ」
「…」
「愛しい恋女房のお勢の悲しむ顔なんて見たくないからね。自分でお言い」
 徳兵衛は、顔を庭へ向けた。
「なぁ、徳兵衛。前々から聞こうと思ってたんだが、お勢さんが密かに俺へ向ける恋心なんだが。お前、俺にやきもちとか嫉妬なんて感じないのか?」
「感じるよ。やきもちどころか、お前さんへの嫉妬の紅蓮の炎が渦巻いてるさ」
「そうか」
「でもね。そんな自分が可愛く、愛おしくて仕方が無くてねぇ。たまらないんだよ」
「そうか。良かったな。ところで話は変わるが、お勢さんの用事だけでもあるめえ?」
「バレちゃったかねぇ?」
「見え見えのバレバレだよ。何か分ったのかい?」
 徳兵衛、ニヤリと笑うと言った。
「色々とね」
「面白そうだなぁ。聞かせろよ」
「お勢の手料理を食べる気になったかい?」
「お勢さんの手料理かぁ。無性に食べたくなったぜ」
            *
 奥付き女中たちに支えられながら身重の横嶋の方が畳廊下に姿を現した時、自分に背を向けて庭の片隅でしゃがみこんでいる春之助を見た。
「春之助殿」
 彼女の冷やかな視線の先にいる童は、声に反応することなく背を向けたまま。
 …礼儀知らずが…
「春之助殿。遊んでおられるのですか?」
 横嶋の方は。無言で振り向いた彼へ物を見るかのような眼差しを注いだ。
 …お手付き奥女中の子。なんと生意気な顔よ。可愛げのない…
 春之助は立ち上がり、横嶋の方の元へ歩み寄る。
 横嶋の方は奥女中たちに支えられて濡れ縁にしゃがんで、彼を出迎えた。
 春之助は彼女の前に立つと、左右の掌を上下に重ねた手を突き出した。
「?」
 触りたくなかったが彼女は春之助の手を取り、上に重ねた掌を開けた。
「ひぇッ」
 掌の上をキクイ虫が蠢き、横嶋の方の手に移ろうとした。
 彼女は思わず春之助を突き飛ばし、その勢いで後へ倒れた。
 奥女中たちの悲鳴。
「お方様…」
 奥女中たちは真っ青な顔の横嶋の方を守るかのように抱え、彼女の居室に入って行った。
 尻餅をついた格好で横嶋の方たちの様子を見ていた春之助だったが、正室の部屋の障子が閉められて庭が静かになると立ち上がり、土のついた尻をはたきながらニヤリと笑った。
            *
「爺様の日記を読んでいたらね、このお屋敷の元の持ち主が分ってね」
「元の持ち主?」
「ここはね、今から八十年ほど前に殿中の刃傷沙汰が元で大名家を改易になった布目藩の下屋敷だったんだよ」
「布目藩?」
「赤坂に屋敷を構えている九千石のご大身旗本の伊賀守様。あの家が、かつての布目藩五万石の今の姿さ」
「刃傷沙汰で大名から旗本へ格下げとなったのか?」
「普通なら改易なんだが、布目藩のご先祖は神君の母君を同じとする家柄でね。その血筋故に家名断絶は忍びないということになり旗本に格下げ、刃傷沙汰を起した藩主の弟が跡を継ぐことで家が今に残ったのさ」
「ふーん。対面を保つため、都合の良い話だな。それで今回の件と、その布目藩との関りは何なんだい?」
「月谷の庄を知っているかい?」
「あぁ。丹波山中の奥深くにあるという地名だろ」
「実はその月谷の庄なんだがね、旧布目藩の飛び領なんだよ」
「飛び領なんて珍しくもねぇーだろ」
「まぁね。でも、その月谷の庄に月影の里、月生の里が含まれていると言ったらどうだい?」
「月影と月生の里?」
 徳兵衛、ドヤ顔で頷き言う。
「月影は八十年前に人知れず忽然と消えた蠱術師たちの里。月生の方は、数年前に謎の流行病で里人全員が死んだ里。何かキナ臭いものを感じないかい?」
            *
 春之助、枯れかかった松の老木の前で佇んでいる。
「本当に変わり者ね」
「また、虫いじりかしら」
 彼の姿を見た奥女中たちは、春之助の奇異な振る舞いを嘲笑いながら噂する。
「どうせのお手付き奥女中との間にできたお子よ」
「あら、聞こえるわよ」
「虫に夢中で聞こえてやしないわよ」
「そうね。お方様に間もなくお子が生まれるし、男のお子なら御嫡男」
「そうなれば厄介者の部屋住みね」
 二人は小声で笑いながら奥に姿を消した。
 自分に対する彼女たちの陰口は春之助の耳にも届いていたが聞き流し、松の老木の幹に空いた穴からモゾモゾと身体をくねらせながら外へ出ようとするキクイ虫を見続けていた。
 老木の寿命が尽きるのを察知してか、虫たちは幹から出ようと必死にもがいている。
 …木から出ても留まっても、死ぬだけなのにね…
 春之助はぼんやりとそう思うと、ニヤリと笑った。
 …死ぬ身を無駄にしないよう使ってあげるね…
 親指ほどの大きさに成長したキクイ虫たちを、春之助は口に入れて呑み込んだ。
            *
「キナ臭いって言われてもな。どっちも古くからの里で帝に仕えていた。月生は剣術使いの里で帝の警護を代々担い、月影は蠱術を持って仕えていた。二つの里について俺が知っているのはその程度のことさ」
「武家の歴代の権力者たちの誰にも使えなかった二つの里の連中が、神君への帰属を誓ったのは宮中と縁戚になったからさ。大きな力を得たけど神君は恐れてね。どちらも泰平の世には馴染ない存在だったからね。潰せば厄介だから囲うことにしたのさ」
「布目の初代の殿さまに預けったってわけかい?」
「まぁ。そんなことこだね。身内とはいえ高々五万石の大名の家の代々の正室が、宮中や将軍家から嫁がされるのはそのせいさ」
「随分と物入りな嫁を貰うんだな」
「そうだね。でも布目藩はさ、結構実入りの好い藩なんでよ。二つの里が金の生る木でね」
「何だよ、それ?」
「毒と長寿の水さ」
「?」
「つまり蟲毒と月生の滝の水。毒は薬として重宝され、神滝の水は長寿の妙薬。どちらも求める者、後を絶たないって感じでね、そんなだから大層な金となるのさ」
「なるほど」
「布目藩ってそんな感じだから、代々の藩主は凡庸な殿さまが多くてね。まぁ、凡庸くらいの方が扱いやすくて丁度良かったんだ。ところが八十年ほど前に家督争いが起きてね。時の藩主が急逝してさ、側室腹だが英邁で人望の高かった長男が、正室の子で藩主が密かに嫡男と決めていた二男を差し置いて藩主に収まったのさ。長男を押す家老たちが、月影の連中と結託し、蠱毒を用いて二男を殺したって噂が立ってね」
「噂は本当なのか?」
「恐らくね。英邁で聡明な君主を迎えたまでは良かったんだが布目藩には分不相応でね、あれこれと藩政へ口を出すに止まっている内は良かったんだが、二男の急死を疑い持ち始めた。事が露見することを恐れた家老連中は、月生の里の連中へ月影の虐殺を命じて口封じを図った。二つの里は代々敵対関係にあったから恨みも深い。そこに油を注いで大火事を起させたのさ」
「だが、そんなことをしたら毒の実入りが無くなっちまわねぇかい」
「蟲毒なんて里が無くても大丈夫と思ったんだろう。愚かな家老たちさ。本国から飛び領地であるということに加えて神君から御遺言でその存在を秘していたから、突然里が無くなったとしても誰も気づかない。だから里人が皆殺しされて、一件落着となる筈だった」
「二本差しの考えそうなやり口だな」
「ところがさ、世の中って奴は気難しくてね。家老たちの都合なんてお構いなし。数年後、布目藩主が殿中で突然乱心し刃傷沙汰を起しちまった。藩主は即刻切腹。家の改易こそ免れてたけど、他家に養子で入っていた三男を急遽戻し、旗本に格下げの上で家が再興を許された。でも、布目藩には過ぎたる英邁なご藩主が突然乱心なんて変だと思わないかい?」
「蠱術か?」
「推測の域をでないけどね」
「月影の里の生き残りによる仕業か?」
「何とも言えないねぇ。でもさ、布目の殿様の死の様子や月生の里人の命を奪った流行病。手口から見ると月影の生き残りが関わっているとしか思えないんだよ」
「?」
「どちらも虫と蟲毒を巧みに使った形跡があってね。それは月影の得意なやり口さ」
「月影の生き残りがいたとして、そいつはかなりの高齢じゃねぇーか?」
「子供とか孫かもしれないよ。恨は、世代を超えて受け継がれるものだからね」
「そんな物かねぇ。俺には解らないよ」
 徳兵衛、真顔でそう言う蛻吉に苦笑。
「そうだね。お前さんの心の洞のお陰で、恨みなんかの負の感情や愛情とかの類に鈍感となっちまってるからねぇ」
「ところで徳兵衛、この屋敷の話はどうなった」
「あぁ。そうだったね。大名としての布目藩が無くなった翌年、旧布目藩領地だった月谷の庄は御加増という体で伊予守様、つまり御前の御父上の所領となったのさ」
「加増?」
「五百石そこそこの領地だけどね。伊予守にすれば、それで三千石の大身となった」
「加増の理由は?」
「さぁね。横嶋の娘を正室に迎えて姻戚となったからじゃないかい」
「持参金かよ」
「家格は嫁の実家の方が上だけどね。娘可愛さの親ばかだね」
「それにしても大胆なことをやってのける」
「横嶋家の閨閥って奴は上様の御身内や譜代、旗本に至るまで及んでいてね。その気になれば大抵の事は何でもできる家なのさ」
「里の一つや二つ、この世から消しても痛くもかゆくもないってことか?」
「まぁ。そんなところだね」
「呆れた連中だ」
 蛻吉、しかめっ面。
 徳兵衛、苦笑い。
「そうは言うけどさ、あたしもお前さんも、そんな呆れた連中が居ないと生きていけない身の上だよ。だから、あたしたちだって『呆れた連中』なのさ」
            *
 春之助は甕を抱え、その口に頭を突っ込んだ。
 そして、その中へ腹の中に抱え続けた物を吐出した。
 甕の底に象牙色の五つの蟲玉が蠢いている。
 春之助は甕の底をジッと見つめた。
 蟲魂たちは、キクイ虫へと変化すると闘い始めた。
 弱い虫が死ぬと、その体を残りの虫たちが喰らう。
 その繰り返しの果て、死闘を生き残った一匹が象牙色の蟲魂に戻った。
 春之助はニヤリと笑うと、心の中で呟いた。
 …蝤蠐(しゅうせい)の蟲魂…
 甕の底へ春之助が手を入れると、蝤蠐の蟲魂は彼の掌の上に乗る。
「痛いッ」
 掌に激痛が走り、春之助は思わず声を上げたが我慢した。
 蝤蠐の蟲魂の身体は春之助の掌にのめり込み、彼の体内に姿を消した。
             *
「さてと。用が済んだからね。あたしは帰るとしようじゃないか」
 そう言う徳兵衛を、蛻吉は呆れ顔で見ながら言った。
「お前。ここから出られると、本気で思ってるんじゃねぇーだろうなぁ?」
「帰るさ。夕飯に間に合わないと、お勢に叱られるじゃないか」
「そう簡単に戻れる場所じゃねぇーよ」
「戻れるさ。あたしはね、お前さんと違って抜かりはないのさ」
 そう言うと徳兵衛は、赤い糸を結んだ右の小指を蛻吉に見せた。
「この赤い糸を辿ればね、入口に戻れるってわけだよ」
 徳兵衛、ドヤ顔。
 蛻吉、赤い糸の先を見て言う。
「なぁ。徳兵衛さんよ。お前、この部屋に入ったかい?」
「入らないよ」
「お前の自慢の赤い糸だが、どうもこの部屋に繋がっちまってるみたいだぜ」
「えっ?」
「ほら」
「おやっ。不思議だねぇ」
「だからお前は、詰めが甘いって言われんだ」
「赤い色がマズかったかねぇ?」
「赤が黒でも結果は同じだぜ。こんな糸を垂らしてプラプラ歩いてみろ。蟲魂でなくとも直ぐに気がつかれるぜ」
「良い手だと思ったんだがねぇ」
            *
「春之助殿か?」
 目覚めた横嶋の方は、襖の陰から自分を見ている春之助に声を掛けた。
「部屋にお入りなさい」
「…」
「遠慮は要りませぬよ」
 産みの予定月まで二ヶ月と迫った頃から横嶋の方は体調崩し、床に臥すことが多かった。
 その日は普段よりも体調がよく、春之助が横に座ると上体を起こして相対した。
「義母(はは)上様。お加減は如何ですか?」
「心配してくれているのですね。ありがとう。今日は、いつもに比べて良いですよ」
 平静を装って対している横嶋の方だったが、目の前の春之助を本心では嫌っている。
通り見せる子供らしからぬ眼差しに薄気味悪い何かを感じていたのが理由だった。
「春之助殿は、元気に過ごしていますか?」
「はい」
「今日は、私を見舞ってくれたのですか?」
 春之助、首を左右に振る。
「謝りに参りました」
「謝りに?」
「虫のこと」
 横嶋の方は、フッと笑いを漏らした。
「悪戯のことですね。気にしておりませんから、ご安心なさい」
 春之助は、横嶋の方の優しさに涙を落とした。
「泣かなくても良いのですよ」
 不憫に思い、横嶋の方は春之助の幼い手を取って握った。
「春之助殿。泣かなくても良いのです」
 彼は、空いている片方の手で涙を拭うと母の手に重ねた。
 涙で濡れた掌の感触に嫌悪した横嶋の方だったが、そんな素振りを見せずにいた。
「義母上。春之助を許してくれるのですか?」
「はい。怒っていませんから安心なさい」
 徐に上げた春之助の顔を上げる。
 あどけなさの残る七歳の童の笑顔だったが、何とも言い様の無い怖さを含んだ彼の眼差しに横嶋の方はハッとして思わず手を引っ込めようとしたが、子供とは思えない春之助の手の力の強さに阻まれて放すことが出来なかった。
「手を放しなさい。春之助ッ」
 そう言って刹那、横嶋の方は手にむず痒さと痛みを感じる。
「何をするのです」
 そう言って春之助が握る自分の手を見て言葉を失った。
「何なの。これは…」
 乳白色の肌を持ち、尋常では考えられない大きさの長さの虫の虫が、重ね合う二人の手の間から顔を覗かせている。
「ひぇーっ」
 横嶋の方、震えが止まらない。
            *
 赤い糸が部屋の中へ手通じている薄く開いた障子の隙間。
 蛻吉と徳兵衛は、そこから部屋の様子を伺った。
「誰も居ねぇみたいだなぁ」
 徳兵衛は蛻吉に返事をする代わりとして、隙間に近づけた鼻をクンクンさせた。
「蟲魂の気配、臭うか?」
「甘く、上品な好い匂いだねぇ」
「ああっ?」
「これは、かなり上物の白粉だね」
「そんな匂いしてるか?」
「お前さんには分からないよ。本当の匂いじゃなくて、昔の気配みたいな感じだからね。あたしみたいな能力の持ち主でないと分からないんだよ」
「お前の鼻はガキの自分から敏感だからな」
「生き抜くために備わった能力さ」
「うん?」
「お前さんも知っての通り蟲魂を寄せる体質だろ。普通なとっくの昔に喰われちまってる筈さ。それがそうならずに済んでいるのは、この鋭敏な嗅覚が近寄る蟲魂を知らせてくれるからさ。いわば、お前さんの心の洞と同じようなものでね。お前さんは、その洞があればこそ余計な感情に囚われることなく蟲魂を捕らえることができるし、蟲魂に触れて心の闇に触れて狂うこともない。臭いが近づくことで、あたしの心は封印されて身体は木偶と化すのさ。蟲魂は木偶を食べないからね。もっとも、それを利用して蟲魂を捕る不埒な輩も世の中にはいるようだけどね」
「不埒な野郎だ」
 二人、苦笑。
「おや。白粉の匂いが強まったようだね」
「徳兵衛。一緒に来るだろ?」
「嫌だよ。行かないよ」
「餌にする気はないぜ」
「違うよ。こんな部屋へうっかり入ってごらんよ。出て来た時、体中が白粉の匂いだらけだよ。そんな身体で家にもどったら、お勢に大目玉だよ」
 蛻吉は、笑いながら言った。
「お前、お勢さんのことがよっぽど怖いんだなぁ」
「そうだよ。怒った時のお勢はねぇ、蟲魂なんか比じゃないくらい怖いんだよ」
 蛻吉、苦笑。
「早いお行き。蟲魂に逃げられるよ」
「ここに居るのか?」
 徳兵衛、頷いて言う。
「ここで煙草を吸って待っているとするよ」
           *
「痛いッ」
 激痛のあまり横嶋の方は、春之助を払い飛ばした。
「義母うえ…」
 横嶋の方は、忌み嫌う目つきで春之助を睨んだ。
「気分がすぐれぬ。横になるゆえ、もう下がりなさい」
 春之助は能面のような顔で横嶋の方を見つめ続ける。
「下がりゃ…」
 そう言い終えるや、彼女の腹部に激痛が走る。
「ええ。何が…」
 腹を両手で押さえながら苦しみ、悶えながら呻き声と悲鳴を上げる横嶋の方。
「ええっ。やや子が。お腹の子がッ」
 言い知れない恐怖で彼女の顔が引きつる。
「誰か。だれか、来てッ」
 救いを求める悲鳴を上げ続ける横嶋の方を、春之助は無表情に眺め続ける。
            *
 火入れの中で燻りながら燃えていた蟲除けが燃え尽きた。
 それを見届けた徳兵衛は、懐から煙草入れを取り出した。
 …そろそろ、普通の煙草を吸おうかね…
 一服吸って、優雅に庭を眺めていた徳兵衛だったが、松の老大樹の幹に空いた穴を見て心の中で呟いた。
 …キクイ虫の穴かねぇ…
 祖父が残した日記の一節が、彼の脳裏を過った。

 『横嶋の方、月満たずして死産。お子、男子なり。石女(うまずめ)と相なられ候』

 徳兵衛は振り向き、部屋の奥を見る。
 その刹那、彼の右肩を何かに嚙みつかれた。
 彼は、呻き声の中で言った。
「お勢…」
            *
 蛻吉は気配を殺し、部屋の片隅で横嶋の方の流産を見つめた。
 騒ぎで部屋へ殺到する女中たち。
 その中には、例の奥女中もいた。
 彼女は配下の女中たちへ適格な指示を与えていたが、横嶋の方の居室の入口で足が竦んだように動かなくなった。
 彼女は血塗れの赤子を貪り喰らう巨大な蝤蠐と、その様子を能面のような顔つきで見つめる春之助とを交互に見た。
 …悲惨な光景だぜ。まぁ、あの二人以外には見えちゃいねーけどな…
「お方様。お方様ッ」
「だれか。早く、お医者さまをッ」
「お水を汲んで来てッ」
「…」
 混乱を極める部屋の中で女中たちの声が交叉する。
 その中にあって、春之助と奥女中の間には静寂が漂っていた。
 …なんか、妙な雰囲気だな…
 奥女中は春之助の横に立ち、彼の肩に手を置く。
 春之助が彼女を見上げると、奥女中は言った。
「春之助様。ひとまず部屋を出ましょう」
 彼は頷いて立ち上がった。
 そして二人は、騒ぎに乗じて誰に気づかれるでも無く部屋を出て行った。
            *
 彼女達の後を追った蛻吉だったが、次の間に入るや二人を見失う。
 そんな蛻吉の蛻吉の目に飛び込んできた光景は、大蝤蠐に喰らわれようとしている徳兵衛の姿だった。
「徳兵衛ッ」
            *
 彼を助けようする蛻吉を阻むかのように襖が閉まった。
 …ちぇッ。邪魔すんじゃねえ…
 襖を開いた。

 春之助と奥女中、二人きり。
「春之助。蝤蠐の術をいつの間に…」
「母上。春之助、えらいですか?」
「えらいですよ。その歳で、難しい術を使えるようになりましたね」
「父上も褒めてくれますか?」
「ええ。きっと」

 畳廊下に面した障子が、突然開いた。
 大蝤蠐に全身巻き付かれ、貪り喰われている徳兵衛の姿が見えた。
「徳兵衛ッ」
           *
 再び、蛻吉は行く手を襖に阻まれる。
 …けっ。またかよ…
 襖が開いた。

「なんて真似をしたのですか…」
 奥女中、様子が先ほどと違う。
 春之助、薄ら笑い。
「蝤蠐の術はかけられた相手は元より、かけた相手も害を受ける術なのですよ」
 春之助、視線が定まらず半開きの口から涎が垂れる。
「あぁ。いけない」
 春之助の全身から蝤蠐が湧き出る。
 奥女中は、春之助の開けた胸に右手を当てる。
 彼女の手は春之助の胸にめり込み、やがて手が彼の身体にすっぽりと入ってしまうや何かを探るように動かした。
「しばらくの辛抱ですよ。春之助」
 春之助、眼も虚ろ。
 やがて奥女中は何かを探り当て、それを掴むや春之助の胸の中に入れた手を一気に抜き出した。
露わとなった彼女の手の中で蟲魂を喰らいながら蠢く蝤蠐の本体がいた。
彼女は、それを蛻吉が潜んでいる次の間に投げ捨てた。
…おっ。おいッ…
その場から逃げようとした蛻吉だったが、閉じられた襖によって部屋に閉じ込められる。
蝤蠐の本体は春之助の蟲魂を喰らい尽すと信じられない大きさとなり、間髪入れず蛻吉に襲い掛かった。
蟲鉈で応戦する蛻吉だったが大蝤蠐によって跳ね飛ばされ、障子を突き破って部屋の外へ出た。
            *
 庭に投げ出されて蛻吉の目の前で、二匹の大蝤蠐が徳兵衛の身体を貪り喰っている。
「徳兵衛…」
 蛻吉に呼応するかのように徳兵衛の右掌が開き、握られていた蟲魂が転がる。
 …赤い糸…
 その蟲魂は、結ばれている徳兵衛の小指から伸びた赤い糸の上を転がって行った。
 蛻吉、ニヤリと笑う。
 そして、徳兵衛の身体を喰らうので夢中な二匹の大蝤蠐を尻目に見ながら、蟲魂の転がる先にある畳廊下の着き辺りに先回りして朱色の虫籠を仕掛けた。
 突然、二匹は喰らうの止めた。
 そして畳廊下を転がる蟲魂を見つけるや、それを追って行く。
 廊下の突き当り。
 そこで左に曲がることなく止まった蟲魂。
 そこへ目がけて二匹が殺到。
 蟲魂が喰らわれるかと思われたその時、徳兵衛の小指が赤い糸を引っ張った。
 赤い糸を巻き取りながら蟲魂はそれまでとは逆へ転がる。
 二匹は蟲魂を喰らい損ね、互いに喧嘩を始めた。
 蟲魂は徳兵衛の掌に戻り、彼がそれを握るとその中で消えた。
「蛻吉。今だよッ」
 天井に張り付くように潜んでいた蛻吉の姿が露わになる。
 争う二匹の蝤蠐を朱色の虫籠が囲み込んだ。
 自分たちに仕かけられた罠に気づいた二匹の大蝤蠐たちは、まだ開いてる籠の扉へ殺到するが、それぞれの急所である眉間に蛻吉の蟲針が刺さる。
 動きが封じられ、朱色の虫籠の前に立った蛻吉は籠の扉を静かに閉めて封印した。
 蟲魂捕りを終えた二人、目を合わすやニヤリと笑いながら互いにドヤ顔。
            *
 徳兵衛と蛻吉、象牙色の蟲魂の入った虫籠を挟んで畳廊下に座り煙草を吸いながら談笑。
「札差の旦那に納まってる割に腕は落ちてねぇーな」
 徳兵衛、苦笑。
「むしろ、腕を上げたと褒めてもらいたいねぇ」
「すげえ、すげえ」
「心がこもってないよ」
 二人、和やかな笑い。
「ところでよ、俺の企みにいつ気づいたんだ?」
「お前さんが『餌にする気はないぜ』って言った時さ。やれやれと思ったよ」
「竹馬の友は察しが良くて助かる」
 徳兵衛、一服ふかす。
「徳兵衛。大丈夫かよ。こいつらに相当、ガツンと喰われたろ」
「大丈夫だよ。木偶の時なら、バラバラにされても平気さ。ちゃんと元に戻るから。でも今日は、初っ端から腕がもげるかと思ったよ。お腹が空いてたみたいだね」
 徳兵衛は、煙管の雁首で朱色の籠をポンと叩いた。
「でもよ、今日は捨身だったな」
「捨身?」
「手前の蟲魂を撒き餌にするとは思わなかったぜ」
 徳兵衛、苦笑。
「徳兵衛。何だよ?」
「蛻吉。あんたまで騙されるなんてねぇ」
「えっ?」
「あの転がした奴は『擬態の蟲魂』だよ。本物は左手の中に隠してあったのさ。この身体が木偶になれば喰らわれなくなる。この連中、なにしろ飢えてたから擬態で匂いが強ければ追っ駆けるだろうってことさ」
「でも赤い糸で戻したろ?」
「そうして逃げる様子を見せないと、蝤蠐たちに気づかれると思って一芝居を打ったのさ」
「『蝤蠐の蠱術』だって気づいたのはいつだ?」
「あそこに松の老大木があるだろう。本当は枯れちまってるのに生きているように見せてる。そんな手の込んだ真似をする理由が解らなくてね。よく見ると幹に沢山の穴が空いているじゃないか。あんな立派な松を枯らすほどのキクイ虫が必要とするなら『蝤蠐の蠱術』しかないじゃないか。でも、推測が正しいかどうか半々だったけどね。だってさ、あれは使った人間も喰らわれるという忌諱な呪術だろ。もし御前が、子供の時分に使っていたとしたら、とっくに昔に死んでいる筈だよ。仮に何かの事情で生き残ったとしても、心が蝕まれて喰らい尽されているから、まともな状態で生きているとは思えないしね」
「あの奥女中の仕業だな」
「奥女中って、甚振られながら悦びを感じている女かい?」
「あいつ、相当な遣い手だぜ。息子の心の一部を蟲魂に変えてさ、それを蝤蠐が喰らったところで捕まえ、身体の外へ引き摺り出しちまった。あれには俺も驚いたよ」
「ふーん。怖そうな女だね」
「ああ。その奥女中が御前の実の母親なんだよ」
「甚振られて悦ぶ…」
「徳兵衛。どうかしたかい?」
「それ、ひょっとしたら月影の里長の家に代々伝わる秘儀かも知れないよ」
「秘儀?」
「蠱術の類じゃないんだけどね、その秘儀に接すると呪力が高まるそうだよ。苦痛なら肉体でも精神でも、どちらでも良くてね。負の感情を受け続けることが重要らしいよ」
「でも、何で俺がそんな物を見なきゃならねぇーんだ?」
「見せたいところだけを見せようって思ってのことじゃないかい?」
「見せたいところ?」
「あたし達は呪力の強い黒幕さんの掌の上で転がされているのかも知れないよ」
「じゃあ。この迷路みたいな仕掛も何かの意味があるってぇーのかい?」
「ここから出さないってことはあるね。でも、違う意図もある気がする」
「違う意図?」
「見せたい時に、見せたいものを見させる。何だかそんな風に思えてならないねぇ」
「面倒な野郎だ」
 徳兵衛は喫煙具の引き出しを開け、その中から二匹の蜈蚣様の虫を取り出した。
「徳兵衛。それは…」
「『告げ口虫』は嫌いだったねぇ?」
「お前だって嫌いだろう」
「この先、どこまで一緒に居られるか分からないよ。多分、黒幕の意図で引き離されるさ。だからお互いに意思の疎通が図れるようにしておかないとね」
 そう言って徳兵衛は、一匹を蛻吉の耳の中へ入れた。
 蛻吉、不快な面持ち。
 徳兵衛も、もう一匹を自分の耳に入れた。

『蛻吉。聞こえるかい?』
『ああ。よく聞こえるさ』
『大丈夫だね』
『徳兵衛。俺の心を覗くなよ』
『それは、こっちの台詞だよ』

 蛻吉、煙草を吸い終える。
「さて。それじゃあ、そろそろこいつらを覗くとするか」
「そうだねぇ」
 二人は、籠越しで蟲魂に触った。
「えっ」
「これは…」
 二人は、底なしの暗闇に吸い込まれる。
 女がジッと見つめていた。
 そして、女の笑い声。
 その刹那、強い爆発が起きた。
            *
 徳兵衛は気がつくと、根津邸の閉じられた門の外で座っていた。
 夏の日差しが翳り始めていた。
 つくつく蝥の声。
 …どうやらこの後、あたしはお呼びじゃないようだねぇ…
 そう思いながら徳兵衛は、自分の回りを見て喫煙具の手箱を探した。
「おやおや。中に置き忘れたようだねぇ」
 徳兵衛、告げ口虫を介して蛻吉を呼んだ。

『蛻吉。聞こえるかい?』
『…』
『蛻吉ッ』
『おっ。徳兵衛か?』
『そうだよ。大丈夫かい?』
『大丈夫だ。だが、気色悪くマズい物を見ちまったぜ』
『そうだね』
『ところでお前、どこだ?』
『お屋敷の外さ。あたしは、お役御免らしいよ』
『良いなぁ。出られて』
『今日のところは引き上げるけど、ちょっと色々と探ってみるよ』
『ああ』
『何か情報が入ったら知らせるよ』
『そうしてくれ』
『そうそう。象牙色の蟲魂。ちゃんと持って帰っておくれよ』
『残念だったな。どっちも灰になっちまったよ』
『またかね。虹色の蟲魂といい、今回といい。どうも、お前さんの餌になると上物を手に入れ損なっちまうねぇ』
『言ってろ』
 徳兵衛、苦笑。
『一つ、お願いがあるんだけどね』
『なんだ?』
『喫煙具の手箱。無事かい?』
『ああ。俺の目の前にあるぜ』
『壊さないで持って帰って来ておくれよ』
『煙草。吸っても良いか?』
『仕方ないねぇ。駄賃代わりに許してあげるよ』

 蛻吉と話し終えた徳兵衛は、腰を上げて辺りを見た。
 人通りの絶えた街並み。
 空気はどんよりと澱んで暑かったが、蟲魂の臭いは無かった。
 スッと風が気まぐれに動くと、どこかの家の夕餉の匂いが徳兵衛の鼻をくすぐった。
 …早く戻らないと、お勢の夕餉に遅れて大目玉だね…
 肩を竦め、懐手で徳兵衛は家路を急いだ。


(中編『伊予守』へ続く)
(次回アップ予定:2021.8.28)

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