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楽趣公園(ルーチー・コンユァン)-baby carriage-

    柏木愛梨がパートで勤めているネット通販の受付センター内の託児所。
 休憩時間を使って彼女は託児所に預けている息子の想(ソウ)の様子を見に来た。
「あら柏木さん」
 顔馴染みの保育士が彼女に気づいて声を掛けた。゛
「想くん。今、お昼寝なの」
「あら。そうですか」
 保育室を覗くと友達に挟まれて眠る想の寝顔が見える。
 愛梨はホッとした。
「想。先生の言う事をちゃんと聞いてますか?」
 保育士の女性は穏やかに笑いながら言った。
「聞き分けも良くて、結構ここの人気者ですよ」
 愛梨は想の寝顔を見守った。

 喫煙室で一服していると、下田恵美子が愛梨に声を掛けて来た。
「休憩?」
 彼女は煙草を取り出しながら言った。
「はい。下田さんも?」
「社員だと決まった休憩ってお昼以外なくて。ちょっと息抜き」
 彼女はそう言いながら電子煙草を一服吸った。
 下田恵美子。
 彼女は、柏木愛梨の最初に配属されたチームのリーダーで愛梨に仕事イロハを教えてくれた上司だった。今年五歳になる息子を保育園に預けて仕事をしているのだが、同年代の愛梨よりも仕事をテキパキこなし、子育てと家事をこなしながら、海外に単身赴任しているご主人が不在の家を守っている彼女を、愛梨は密かに尊敬していた。
「柏木さん。例の話、考えてくれてる?」
 例の話とは、パートから社員への登用の件だ。
「はい」
「どうかしら?」
 下田は愛梨の能力を評価していて社員登用への推薦をしてくれていた。
「お受けしたい気持ちはあるんですが…」
「踏ん切りがつかないの?」
 社員となれば本社勤務の可能性もあり、パートで勤務先が固定されている現状に大きな変化が生じることも考慮しなければならない。仕事の性質上、在宅での勤務が難しく本社勤務となれば通勤せざるを得ない。本社に託児所はあるが、設備の規模も小さく環境的にも保育園の内容と同等とは言えない。シングルマザーの愛梨にとって育児を分担できる相手はいないから、想を伴っての通勤を覚悟しなければならない。そう考えると、保育園が決まってから社員登用に応じたいと思いのだが、ままならないのが現状だった。
「保育園が決まらないから不安?」
「会社の託児所に不満はありませんが、想を預ける先が決まれば安心ですし」
「そうねぇ…」
「我が儘を言って済みません」
「子育ての大事な時期ですもの。安心して預けられる場所が良いわよ」
「済みません。保育園には何とか掛け合って見ますから」
「わかった。でも、そう長く待てないかもしれないから。その時は保育園が決まってなくても決断してね」
「はい」
            *
 母の佐和子から純太の元へ宅配便が届いた。
 箱を開け、中身を見て純太は絶句した。
 …あぁ。母さん…
 夏野菜の詰合せパック。
 通販番組が好きな母は、気に入ると買ってしまう。
それが本人だけに留まるのなら良いのだが息子にも有用な品だと判断すると、自分と純太の分まで注文してしまう。
 そして時折、唐突に、嬉しい母心の品が純太の元へ届くことになる。
 有用な品もあれば、有用ではない品もある。
 今回の場合は食材なので一人暮らしの純太にとって有用な品には違いないのだが、些か量が多すぎるのである。
 最近、サミーとの間でディスタンスクッキングが始まり、それまですることが無かった自炊の機会が増えてはいるが、それにしても量が多すぎる。
 …使い切れないよ…
 夏野菜がギッシリ詰まった発泡スチロールの箱を前に、純太は途方に暮れた。
 …真由美さんたちにお裾分けするか…
 純太は苦笑した。
            *
 朝。
 南台公園。
「イー、アー、サン、スー」
 太極拳体操は今朝も健在だ。
「それにしても、あんたのお母さんも豪快だねぇ」
 目の前の箱の中にある野菜を目にして、さすがの真由美も呆れている。
「じゃあ。遠慮なく戴くけど、うちも年寄一人に猫一匹だから。ご期待に沿えるような量は貰えないよ」
 真由美は愛用のエコバックを広げると、野菜を物色しては入れていく。
 幾らか減りはしたが、箱の中にはまだ相当量の野菜が鎮座している。
 そこへキジトラキャットの奴が、テーブルの上にひょいと飛び上がって現れた。
 奴の登場に会わせて例の砂場の親子が現れた。
「この間は、色々とありがとうございました」
 お辞儀をする母親。
 どうやら砂場での一件のお礼らしい。
 息子は乳母車の中で玩具を手に遊んでいる。
 そんな彼を見ながらキジトラキャットの奴は、テーブルの上からミャーオとひと鳴き。
「あたし柏木愛梨と言います。この子は息子の想です」
 …息子のそうって、何がそうなんだ…
 ボケ混じりに混乱し、無言で宙を見つめている僕を尻目に真由美さんが言った。
「『そう』という名前かい?」
「漢字で『想』とかいて『そう』です」
「珍しいけど、好い名前だね。そうちゃん」
 真由美は、想君に手を振って見せた。
「自己紹介が先だったね。あたしは、坂本真由美。そこの坂本茶園の店主だよ。それでこのボーっとしてる男が、二宮純太。ひょんなことから知り合ってね、今は中国語を習っているんだよ」
「へぇー。中国語ですか。堪能でいらっしゃるんですか?」
「いやぁー。それほどでも。仕事でよく使うもんで」
 謙遜混じりに頭を掻いていると、真由美さんが言った。
「そうだ。柏木さん。あんた、野菜要らないかい?」
「野菜ですか?」
 そう言いつつも愛梨は、夏野菜の入っている発泡スチロールの箱をチラ見。
 何となく見覚えがある箱に、彼女は一昨日の夜を思い出した。

『夏野菜の詰合せを二セットでございますね?』
『お願いするわ』
『二宮様。お送り先は、こちらでご登録させて頂いておりますご住所で宜しいでしょうか?』
『ワンセットはそこにお願いしますけど、残りのワンセットは別の住所へ送りたいけど大丈夫かしら?』
『お送り可能です』
『あら、良かった。それではお願いするわね』
『それではお送り先のご住所とご連絡先、お送りされる方のお名前をお願い致します』
『息子の所なんだけどね。住所、住所はと…』
 …あら。ウチのご近所のマンションの住所…
『送り先なんだけど。二宮純太。その人宛にお願いね』

 …あの時、申し込みを受け付けた野菜だわ…
 二人には気づかれないように愛梨は苦笑した。
「二宮さんのお母さんがね、一人暮らしの息子を気遣って送ってきたのは良いんだけど量があり過ぎて困ってるんですって。人助けと思って貰ってやってくれないかねぇ」
「戴いて宜しいんですか?」
「どうぞ、どうぞ。想ちゃんの分もね。遠慮なく持って行って」
「嬉しい。助かります。最近、お野菜が高くなって。この子、意外と野菜が好きなんで頂けるなんて本当に助かります」
「そうかい。野菜好きなの。想ちゃん。いっぱい持って帰ってね」
 それでも最後の遠慮をしている愛梨を気遣って、真由美さんは僕を見て言った。
「あんたが黙ってちゃ、愛梨さんも取りづらいじゃないか。ボーっとしてないで何か言ったらどうなんだいッ」
「あーっ。済みません。どうぞ、どうぞ。遠慮なく幾らでも。何なら、この箱ごと持って帰って貰っても構いませんから」
「そうですかぁ。それじゃぁ、遠慮なく」
 愛梨、野菜を物色し始める。
            *
「本当に好いのかい。それっぽっちで」
 真由美は、ちょっと不服気に愛梨が取り分けた野菜を見ながら言った。
「ええ。本当に十分戴きました」
「そうかい」
 太極拳体操が終わり、参加メンバーが広場から出始めた。
 その時、公園脇の道路が子供たちの声で賑やかになった。
 近所にある保育園、すくすく広場の園児たちによる朝のお散歩だ。
 前後を保育士さんに守られた十人ほどの子供たち行列。
 六人は二人一組で手を繋いで歩き、残りの四人は特大の乳母車に乗っている。
 一行が公園の入口に差し掛かると行列は止まり、太極拳体操を終えて広場から出て来たお年寄りたち数名と会話し始めた。
 純太、真由美、愛梨の三人は、その様子を眺めた。
「皆さん、何だか楽しそうですね」
「『孫ロス』だよ」
「真由美さん。『まごロス』って何ですか?」
「あんたの『台湾ロス』と同じだよ。パンデミックで孫に会えない年寄りが増えているからねぇ。ああやって、ジジババの心の渇きを解消してんのさ」
「『孫ロス』って、そのロスのことですか。初めて聞きました」
「初めても何も、あんたが言う『台湾ロス』を文字って『孫ロス』を作っただけだよ」
 純太、苦笑。
 ほのぼのした光景である。
 キジトラの奴がまた、ミャーオと鳴いて身体を伸ばした。
 そして飛び跳ねると想が乗る乳母車へダイブした。
「キビ助ッ」
 僕は慌ててキジトラの奴の動きを封じようとしたが叶わなかった。
「キャッ、キャッ、キャッ」
 身を乗り出し、テーブル腰に乳母車の中に目をやると、想とキジトラキャットはじゃれあって遊んでいた。
「どうも済みません。こらッ。キビ助」
 そう言いながら愛梨の顔を見ると、彼女は浮かない表情で保育園児たちの様子を見つめていた。

「どうかしたのかい?」
 真由美は、愛梨を気遣うように話し掛ける。
「何か心配ごとかい?」
 愛梨、曖昧な微笑で真由美さんを見ながら言った。
「保育園。空かないから…」
「うん?」
「…」
「待機中なのかい?」
「はい」
「困ってそうだねぇ?」
 愛梨、気の抜けたように笑う。
「あたし。シングルマザーなんです。離婚して。パートの掛け持ちで想を育ててます」
「そりゃあ、大変だ。元のご亭主は、養育費をちゃんと送って着ているのかい?」
「時々。当てになりません」
「それでコールセンターの仕事を?」
 今度は僕の顔を見て、愛梨は頷いた。
「よくしてくれる先輩がいて。社員登用へ推薦してくれたんです」
「良かったじゃないか。それなら安心だねぇ」
「でもまだ、返事ができなくて」
「なんでだい?」
「社員になると先ず本社勤務になるみたいで。そうなると保育園に想を預けないと、なかなか難しんです」
「会社で子供を預ける施設は無いんですか?」
「一応あって。今の職場でも利用してはいるんですが、このままずっと預けるにはちょっと不安があって。子連れで通勤するのも気が引けて。ちょっと思案してます」
「そうだねぇ。保育園が決まらないとしんどそうだね」
「待機待ちって目途は?」
「三か所申し込んでいるんですけど、どこも満杯で。空きの目途はついてません」
「…」
「…」
 愛梨、笑顔を二人に向ける。
「まぁ。何とかなりますから。心配しないで下さい」
 愛梨は、想ちゃんの膝の上にいるキジトラの奴を抱きかかえるとテーブルの上に置いた。
「そろそろ行きますね。お野菜。ありがとうございました」
「とんでもない。想ちゃんと召し上がって下さい」
「はい」
「何かあったら言うんだよ。余り力にもなれないけど、話すだけでも気が晴れるから」
「ありがとうございます。たまにそうさせて頂きます」
「ここか、店に居るから。気軽においで」
「はい」
 愛梨は想を乗せた乳母車を押して、その場から立ち去った。
 僕らは親子を見送る。
 そして、僕はポツリと言った。
「みんな。それぞれ何かを抱えてるんですね」
「そりゃあ、そうさ。生きている以上、誰にでも何かあるさ」
 真由美は、マジマジと純太の顔見て言った。
「比較的呑気なのは、あんたとキビ助くらいのもんさ」
「えっ。ひどいなぁ。俺だって、まぁ、色々とありますよ」
 苦笑いしながら立ち上がろうとする真由美。
 そんな彼女に誰かが声を掛けた。
「真由美ちゃん」
「おやっ。妙ちゃん」
 彼女の名前は崎田妙子。
 真由美さんの小学校の同級生で、愛梨が申し込んでいる保育園の裏に住んでいるらしい。
「太極拳の方は終わったのかい?」
「さっきね。最近、朝ここでよく見かけるねぇ」
「中国語のレッスンだよ」
「中国語?」
「この人が先生」
 真由美さんが僕を指さすと、妙子さんと居合わせた二人が一斉に純太を見る。
「あ、あぁ。二宮と言います」
「へぇー。若いのに偉いね」
「はい?」
「中国語、話せるなんて。凄いよ」
 他の二人も感心したように頷く。
 富富の鳴声。
「えっ。犬。どこ?」
 三人は辺りを見回すが犬の姿はない。
「あぁ。ここです」
 ノートPCの画面にドアップされて映る富富の顔を純太は指さした。
「どこの犬?」
 怪訝な表情でそういう妙子さんの目の前に、富富を抱いた老板が顔を見せた。
『ニーハオ』
「えっ。真由美ちゃん。誰だいこの人?」
「老板さんだよ」
「老板。珍しい名前だけど、何で中国語の挨拶なんだい?」
「だって台湾の人だからねぇ」
「えっ。台湾人?」
 三人、再び純太に注目。
「あぁ。ビデオ通話です。現在これ、台北と繋がってまして」
「台北。台北って台湾の首都のことかい?」
「よくご存知ですね。台北に行かれたことはありますか?」
「住んでたよ」
「えっ?」
「昭和18年から昭和20年にかけてね」
「中国語。話せるんですか?」
「話せないよ。向こうで生まれて、二歳の時に日本へ戻ったからね」
 湾生。
 戦前に台湾で生まれ、終戦を機に日本に引き上げて来た人をそう呼ばれている。純太は言葉として知っていたが、こんな身近で出会うとは思って見なかった。
 …ちょっと待て。真由美さんと小学校の時に同級生ということは…
 純太は、真由美と妙子を見比べた。
「真由美さん。今年、78歳ってことですか?」
「そうだよ」
「…」
『真的。真由美先生。七十八歳嗎?』
「老板。対、対」
『看起来年軽…』
「えっ。老板さん。何?」
「お二人とも若く見えるって言ってます」
「そうかい。パソコンの人。好い男だねぇ」
「そう言ってもらえると、嬉しねぇ」
 真由美と妙子、ぶっきらぼうにそう言って微笑む。
 眠そうにしていたキジトラの奴が、富富に向かってミャーオと吠えた。
 それに応えるかのように富富が吠えた。
 その様子を見ていた妙子さん、感心したような表情で言った。
「向うでも犬はワンワンと吠えるんだねぇ」
「妙ちゃん。犬の鳴声なんて日本も台湾も変わりないよ」
「中国語っぽのかと思ったけど、日本と同じなんだねぇ」
「…」
「ちょっと安心したよ」
 妙子は屈託なく笑った。
            *
 夕方近く。
 坂本園。
「さっき妙ちゃんからメールが着てね。妙ちゃんと今朝一緒にいた二人。あたしと一緒に中国語を習いたいそうなんだけど良いかい?」
「あぁ。別に構わないですよ」
「そうかい。それじゃあ、妙ちゃんに返事しとくよ」
「いつからですか?」
「勿論。明日からだよ」
「えっ」
「ダメなのかい?」
 真由美、問答無用の眼差し。
「い、いいえ。問題ありません」
 純太はお茶を啜った。
 店のドアが開く。
 愛梨が想を抱っこして立っていた。
「おや。いらっしゃい。仕事の帰りかい?」
「はい」
「お疲れ様。まぁ、ここに座って。ゆっくりしていきな」
 眠そうにしていたキジトラの奴、徐に立つとテーブルを飛び降りると愛梨に駆け寄り彼女の足元をグルグルと回った。
 想はキジトラの奴を見つけるなり、意味不明の言葉を発しながら手を伸ばしている。
 愛梨が椅子に腰掛け、隣の椅子に想を座らせると彼の膝の上をキジトラの奴が占拠した。
「お野菜。ありがとうございました」
 愛梨、純太の前に二つ、真由美の前にも同じ紙袋を置いた。
 紙袋の中身はどうやらお菓子らしい。
「お礼したくて」
「こんなに気を使っちゃダメだよ。今回はありがたく頂戴するけど、これからは止めなね。キリが無いよ」
 真由美はそう言って、袋を受取った。
「そうですよ。僕だって助かってるんですから。ところで僕には何で二つあるんですか?」
「一つは二宮さんへ。もう一つは、二宮さんのお母様へ」
「あぁ。母の分まで気を使って頂いて。ありがとうございます」
「そうそう。あたしもね、あんたのお母さんにお返しと思ってたんだよ」
 真由美は用意していた紙包を紙袋に入れた。
「うちのお茶で申し訳ないけど。お母さんに宜しくお伝えしておくれ」
「真由美さんこそ。今後、こういうのは無しにしましょうね」
「おや。そうだったね」
 三人、笑う。
 想が純太の袖を引っ張った。
「えっ。想ちゃん。どうしたの?」
 意味不明の言語発生。
 だが、どうやら想は純太の膝に座りたいらしい。
「想。ダメよ。おじちゃんの膝の上なんて」
 …えっ。おじちゃん…
 想は愛梨の静止も聞かず、身体をモグモグ動かしながら純太に接近。
 キジトラの奴は、不機嫌そうに床へ飛び降りる。
「あぁ。別に構わないですよ」
「で、でも…」
 純太は想を抱き上げると自分の膝の上に座らせた。
「もう。この子ったら。意外と人見知りなところがあるんですけど。二宮さんのことはお気に入りみたいで。済みません」
 想、上機嫌。
 …従妹の子供を抱っこした時以来かな…
 乳臭い子供の感触を新鮮に感じながら、純太は同時に心地よさも楽しんだ。
 床の上をフラフラ歩き回っていたキジトラだったが想の姿勢が安定すると、ぴょいと飛び上がって想の膝の上に乗った。
 キジトラの奴の重みが、ズドンと純太の膝に伝わる。
「おや。好い感じだねぇ」
 真由美、スマホを取り出して構える。
「今日のネタが無かったんだよ。一枚、撮らせてもらうよ」
「えっ」
「愛梨さんも寄って。一緒に撮るよ」
 愛梨は純太の隣に座り直した。
「ほら。もう少し身体を寄せて。はい。撮るよ。ハイ、チーズ」
「…」
「…」
「もう一枚ね。笑って。ハイ、チーズ」
 シャッター音。
 真由美は、撮った写真を空かさずSNSにアップした。
「毎日アップするのも大変だよ。今日はこれでオッケーだけどさ」
 上機嫌の真由美さん。
そんな彼女とは対照的に、坂本園のSNSを見た純太の脳裏を嫌な予感が走った。
            *
『純太。この写真、何?』
 ビデオ通話の向う側でサミーが怒っている。
「えっ。あぁ、これ?」
『この女の人。誰?』
「愛梨さん…」
『この子。誰?』
「この子は愛梨さんの息子…」
『純太の子供?』
「ち、違うよ。勘違いするなよ」
『家族みたいな写真』
「たまたま。たまたまだって。家族とかじゃないから。誤解するなよ」
『誤解って。何?』
「いや。だからさぁ…」
 純太はこの後、延々とサミーをなだめ続けるのだった。
            *
 どうにかサミーのご機嫌を治してビデオ通話を終えてホッとしたのも束の間、今度は母親の佐和子が純太に電話を掛けて来た。
「母さん、こんな時間にどうしたの?」
「見たわよ。写真。綺麗な女の人じゃない」
「ええっ?」
「あなたも、やっと女性へ目が向くようになったのね」
「あぁ?」
「ゲイでも女性と結婚している人もいるみたいだし」
「彼女は違うって」
「連れ子だって好いわよ」
「母さん…」
「病気だなんていう人もいるのよ」
「ゲイは病気じゃないから」
「解ってるわよ。病気だなんて。あり得ないわよ。個性。純太の人格だもの」
「…」
「でもね」
「でも、何?」
「こんな写真を目にするとね…」
 純太、返す言葉が見つからない。
 ふとサミーと一緒に撮った写真を見て、純太は言った。
「母さん?」
「…」
「こんな時に何だけどさ、僕には、サミーって恋人が居る」
「知ってるわよ」
「彼を愛してる」
「知ってる。太太からも、老板さんからも。その人の素晴らしさも聞いてる」
「…」
「サミー。その人が純太をどれだけ愛しているかも聞いてる」
「うん」
「色々勉強して。太太や老板さんにも相談して。理解して。純太は、あたしの子供だから。ちゃんと受け入れようって心に決めて。でも…」
「でも?」
「こんな写真を見てしまうと心が揺らぐのよ」
「…」
「ダメよね。あたしも、まだまだわ」
「母さん。ゴメン」
「何で謝るの?」
「俺、母さんを苦しめてるし…」
「違うわよ」
「…」
「葛藤」
「葛藤?」
「違う価値観を理解して許容する瞬間には葛藤がつきものでしょ」
「母さん…」
「葛藤の先にハッピーがあるのよ。だから純太は自分に正直に生きれば好いの」
「うん」
「ねぇ」
「何?」
「サミー」
「サミー?」
「そろそろ会わせなさい。こんな状況だから仕方ないとは言え、彼の件であたしとちゃんと向合おうとしないのはダメよ。パンデミックを言い訳にして先延ばしするなんて純太らしくないわよ」
「母さん…」
「太太や老板さんとか、色々な人からサミーって人のことを聞く内に会って直接話をしてみたいと思ったのよ。だからちゃんと機会を作ってね」
「わかった。そうする」
「あら。こんな時間なのね。もう寝るから」
「母さん」
「なぁに?」
「ありがとう」
「おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
            *
 純太が住んでいるマンションの通りを隔てた対面にコンビニがある。
屋外の一画が喫煙スペースになっていて、純太の部屋からそこがよく見えた。
 仕事の合間。
 何気なくその喫煙スペースを眺めていた純太の目に愛梨の姿が目に留まった。
 …へぇー。愛梨さんタバコ吸うんだ…
 傍らに想を乗せた乳母車。
 彼女が煙草を吸う姿を初めて目にしたが、出会う時には必ず想ちゃんが居たから吸わないようにしていたのかもしれな。
 でも今は他に吸っている人も居ない屋外だから、息抜きの一服なのだろう。
 ところがそこへ、一人の男性が現れる。
 スーツ姿の男は愛梨から少し距離を置いて立ち、煙草を吸い始めた。
 …愛梨さん。せっかく気兼ねなく据えたのに…
 愛梨は煙草を吸いながらスーツ姿の男をジッと見つめている。
 …気の利かない奴だ…
 愛梨への同情半分でスーツ姿の男の顔を見て、純太は声を上げた。
「えっ。藤木さん?」
 愛梨は煙草を吸う手を止めて、藤木に声を掛ける。
 藤木も手を止め、愛梨を見る。
 …ありゃー。ちょっとマズくないか…
 なにしろ藤木は砂場事件の張本人。
 想から無理やりキジトラの奴を取り上げ、泣かせてしまっている。
 愛梨にすれば避けたい相手に違いない。
 不必要にハラハラしながら純太は二人の成り行きを見守っていたが、彼の予想に反して事は意外な展開を見せる。
 藤木は煙草を吸うのを止めて、愛梨に近づいて行った。
 片や愛梨、藤木の接近を嫌がるどころか歓迎モード。
 やがて二人は、親し気に話し始めた。
 …えっ。ひょっとして、あの二人…
 その時、部屋のインターホンが鳴った。
 …ちぇッ。こんな時に…
 純太は、渋々部屋を出た。
 部屋に戻って喫煙スペースを見た時、愛梨親子と藤木の姿はもう無かった。
            *
 藤木と愛梨親子は南台公園に居た。
 砂場で想を遊ばせている。
 二人は、遊ぶ様子を見守りながら会話する。

 数日前。
 意気消沈した表情で建物から出て来た愛梨に出くわした藤木は、彼女に声を掛けた。
「あのぉー。顔色が良くない感じですけど、大丈夫ですか?」
「…」
 身構えながら顔を上げ、藤木の顔を見て愛梨は声を上げた。
「あっ。あなたは砂場の…」
「はい。藤木です」
 立ち去る積りの愛梨だったが、藤木の穏やかな笑顔に何故か惹かれた。
「大丈夫ですか。気分が悪そうだけど?」
 大丈夫ですと言いかけて、愛梨は気の抜けた苦笑する。
「難しいみたいです」
 そう言って、彼女は保育園の看板を見つめた。
「空きが出ないんですか?」
 愛梨、頷く。
「柏木さん。少し、お時間ありますか?」
「えっ?」
「公園で少し、話しをしませんか?」

 いつの間にか現れたキジトラキャット。
 想の傍らに寄り添っている。
 一方、想はキジトラに砂を掛けたりして遊んでいる。
「あの時、本当は断られるかなって思いながら誘ったんですよ」
「やっぱり?」
「予想外の展開だったんでちょっと驚きました」
 二人、和やかに笑う。
「保育園。三か所とも難しいって言われて。あそこが三か所目だったの。何だか目の前が真っ暗になって、途方に暮れちゃって。誰かと話したいなぁって切実に思っていた時だったから。嬉しかった」

「ブランコにでも乗りませんか?」
 藤木は、公園に入るなり彼女に言った。
「えっ?」
 ベンチでの会話かなと思い込んでいた愛梨にとってブランコの提案は意外だったが、同時に新鮮でもあった。
 藤木は飄々とした足取りでブランコへ向かう。
 決して強引では無いのだが、包まれるような誘導に彼女の心は和らいだ。
「この時間帯の公園って意外と人が少ないんですよ。だから好い年した大人がブランコに乗っていても変な目で見られずに済むんですよ」
 隣りのブランコに腰掛けた藤木は呑気に話し続けた。
「俺、仕事とかで煮詰まった時や面白くない事に出くわして気分が塞ぎ気味になった時なんかに時々、ブランコに乗りに来るんですよ」
 藤木の話を聞きながら愛梨は、周りの景色を見た。
 公園を囲む樹林が灼熱の日差しを遮ってくれているお陰で、園内は真夏にも関わらず涼しく快適だった。
「ブランコって、腰掛けていると自然に体が揺れるじゃないですか。気まぐれなフラフラに身を任せて空とか見ていると、いつの間にか頭の中が空っぽになる感じがして気分が楽になれるんですよ」
「…」
 本当なのって、そんな顔つきの愛梨。
 ふと彼女が隣の藤木を見ると、自分に顔を向けた彼と目が合った。
「コツがあるんですよ」
「コツ?」
「最初に目を瞑るんです。身体は動かしても、動かさなくても好い。自然のまま身を任せていると、周りと一体になれるような感覚になれますよ」
 彼女は目を瞑った。
 蝉がジリジリと鳴いている。
 次第に感覚が鋭敏となっていくのが解かった。
 空気の流れ。
 木陰の涼しさの中にも混じる熱風の揺らぎが肌に伝わる。
「好きな時に目を開いて、空を見ると好いですよ」
 愛梨は言われるがまま、ゆっくりと目を開いた。
 気まぐれに吹き抜けた微風が、木々の枝が揺らす。
木漏れ日に照らされて、キラキラと輝くが深緑の葉々。
 枝の切れ目に顔を覗かせる夏空に白い入道雲が浮かび、ゆっくりと流れていた。
 愛梨の強張った心が緩んだに違いない。
 無意識のうちに彼女は、涙を溢れさせながら泣いた。
 ひときしり泣き続けて涙を拭い、愛梨は隣りの藤木を見た。
 彼もまた、ぼんやりと夏空を見つめていた。

 キジトラキャットは四肢で立つと、全身を大きく震わせて毛の間に入り込んだ砂を飛び散らした。
 突然の振舞いをキョトンと見ていた想の表情は飛び散る砂が顔に当たって驚くそれへと変わり、やがてハプニングを楽しむ笑顔へと変わった。
「話をしましょうって誘われた割には、余り話さなかったのよね」
「そうですね。でも気分がスッキリした顔になってましたよ」
「あんなに涙を流したの久しぶりだったから。お陰でスッキリしました」
「感情が閉じちゃってる時って、泣けるけど涙は出ないものです。笑ってるけど、心の底から笑えないのと同じです」
「涙が溢れ出しちゃって止められなかった」
「感情が開いたからですよ」
 想とキジトラキャットは相変わらずじゃれあっている。
 愛梨は穏やかな眼差しで想たちを見つめた。
「何一つ解決していないし、問題の原因が取り除かれてた状況じゃないんだけどね。でも、気分は楽になれました」
 想が愛梨に抱き着いた。
「もう。砂まみれじゃない。お家に帰ってお風呂に入ろうね」
 そう言いながら彼女は、息子を思いっきり抱きしめた。
 想にフラれたキジトラキャット、仕方なく藤木にスリスリ。
 藤木はそんなキジトラの頭を指先で撫でると、気持ち好さそうにニャーとひと鳴き。
「好いアイディアを思いつきました」
 突然そう言う藤木を、愛梨は小首を傾げながら見た。
「ちょっと用事を思い出しましたので、今日はこの辺で」
「えっ。えぇ…」
「想ちゃん。じゃあ、またね」
 キジトラキャットを抱え、想とハイタッチを済ませると藤木は立ち上がり、そそくさった行ってしまった。
「変な人ねぇ…」
 愛梨は苦笑混じりにそう言って、藤木の背中を見送った。
            *
「はぁ~」
 浮かない表情で真由美さんは溜息を漏らした。
「おや。珍しいねぇ。真由ちゃんが溜息なんて」
 妙子さんは、少しからかうような表情で言った。
「どうかしたのかい?」
「別に何でもないよ」
「イー、アー、サン、スー」
 太極拳体操の掛け声は、今朝も健在だ。
「でも、気になるねぇ」
「顔色も良くないし。熱とかあるんじゃないの?」
 仁美が真由美の額に手を近づけるが、真由美はやんわりと躱す。
「熱は無いよ。あったら、ここに来ないよ」
 真由美は辺りを見回した。
 …流石に居ないよね…
 内心そう思い、ホッと一安心。
 …それにしたって藤木の奴。一体どういう積りなんだい…
 数日前から、頻繁に藤木が顔を出しは頼み事をしてくる。
 …想ちゃんを預かってくれって、うちは託児所じゃないんだ…
 毎日来ては、ノラリクラリの押しで真由美にウンと言わせようとする。
 しかもその上、どうしたものかキビ助が掌を返したように藤木に懐いているものだから始末に負えない。
 藤木は懐柔したキビ助をダシに坂本園に顔を出すのである。
「真由美先輩。本当に大丈夫ですか?」
「煩いねぇ。あんた達。太極拳。行かなくて良いのかいッ?」
「だって今日から中国語のレッスンじゃないか。遅刻しちゃねぇ」
 妙子さんの一言に、仁美と真央も頷く。

 長野仁美。
 66歳の元保育士で、二年前まで妙子さんの裏にある『おひさま保育園』に勤めていた。庭の柿を取ろうと脚立に昇り、うっかり落ちて腰を痛めて保育園を止めた。
惜しまれつつの円満退社だった。
長男の嫁の果林とはソリが合わない。
嫁と姑の対立のモデルそのものである。
長男にできた初孫の裕英(今年、四歳)を溺愛しているが、パンデミックの関係で会えずにいる。
…隣町に住んでるのに何で会えないのよ…
果林の策略に違いないと仁美は疑っている。

 鈴木真央。
 72歳。
 大学を卒業後、地銀に入行して60歳の定年退職まで勤め上げる。現在、ご主人が経営するコンサルティング会社の経理を預かっている。
卓球が趣味。
真由美が所属する卓球クラブの会員だ。
付き合いは長いらしいが、先輩後輩の間柄でもないのに真由美を『先輩』と呼んでいる。

「レッスンは体操の後からじゃないか。サボっちゃダメだよ」
「今朝は、腰の調子が良く無いのよ。明日から、気を引き締めて頑張るわよ」
 仁美、しれっと言い訳。
「あたし。昨日の夜、旦那と家飲みしたのよ。それで今朝、寝坊。遅刻で気が引けるからこっちに来ちゃった。明日から気をつけるわ」
「あんたたちときたら…」
 真由美が何気なく視線の先を広場に向けると、妹の江津子と何となく目が合う。
 遠目にも妹の眉間に皺が寄っているのが分る。
真由美は、惚け顔で視線を逸らした。
「太極拳体操。明日の朝からは、ちゃんと出席してね。妹に叱られるのは、あんた達じゃなくて、あたしなんだから」
 そう言って釘を刺す真由美を、三人は苦笑い。
「ねぇ。二宮先生って、お幾つ?」
「三十過ぎよ」
「独身なんですって?」
「そうね」
「割とイケメンよね?」
「そうねっ」
「彼女とか居るのかしら?」
「そ、う、ねッ」
「居そうよね」
「あんた達に関係ないでしょう」
「そんな、怒んなくたって…」
「この人。昔から短気なのよ」
「何か気に障ること言った?」
「先生が、三十過ぎの独身でイケメンでも、あんた達には関係無いのッ」
「確かに関係は無いわよ」
「そうよ。若いんだし。こんなお婆ちゃんたちに興味無いわよ」
「それに、この歳で迫られてもねぇ。困っちゃうわよ」
「…」
「あら。真央ちゃんなら大丈夫よ。卓球やってて体力あるし」
「そんなこと無いわよ。仁美ちゃんだって、この中で一番若いじゃない」
「でもねぇ。あたし、腰傷めちゃってるし。やっぱり、妙子さんじゃない?」
「えっ。どうして、あたしなんだい?」
「妙子さん。こうして見ると一番美人よ」
「そうかねぇ?」
「今でも人気あるし…」
「困るねぇ。それは。亭主もまだ元気だしね」
「ストップ」
「…」
「…」
「…」
「平均年齢71歳がなに妄想してんだい」
「えっ。72歳よ」
「流石。元銀行員」
「あたしも電卓で計算したけど、72歳が正解ね。計算早いッ」
 真由美、つくづくイライラ。
「良いかいッ。ここは勉強の場なの。ナンパ会場じゃないんだからね。それに、二宮先生は絶対にあんた達に振り向かない」
「何でよ」
「そこまで言わなくて良いじゃない」
「誰にだって夢を見ることは邪魔できないだろ」
「あのねぇ」
「イー、アー、サン」
 太極拳体操の掛け声がBGMのようにコダマする。
「二宮先生はゲイだから独身なの。結婚したくても、この国に同性の結婚を認める制度がないからしないの。彼女じゃなくて彼氏が居るの。彼氏はサミーと言って、海の向こうの台湾に居るの。先生もイケメンの部類だけど、彼氏のサミーもイケメンなの。パンデミックで二人は会えないけどラブラブなの。だからあんた達、つまらない妄想に走らないで、中国語のレッスンに集中しなさい。良いわねッ」
 そこへ純太が現れた。
「あれっ。皆さん、お揃いですか。でも、早いですね。太極拳体操、まだやってますよ」
 何だか気まずいような、しれっとした空気が漂う。
「あー、どうかなさいました?」
「良いの。気にしないの。初レッスンで緊張してんのよ。この人たち」
 三人は訝し気に純太を見つめ続ける。
「えっ。でも、何だか…」
「ちょっと早いけど揃ってるし。レッスン、始め…」
 真由美を遮り、妙子が口を開いた。
「先生。ちょっと伺いたいことがあるんだけどねぇ」
 妙子、何だか怖い。
 他の二人も大同小異の怖さ。
「は、はい。何でしょうか?」
「単刀直入に聞くけどねぇ」
「はい」
「先生は女に興味が無いのかい?」
 静寂。
「イー、アー、サン、スー」
 静かに響き渡る太極拳体操の掛け声。
 機械音なにの、何故か興味本位の意志をその中に感じさせる。
「どうなんですか?」
「ハッキリさせましょう」
 純太は三人の顔を一様に見ると、静かに言った。
「はい。僕はゲイ。つまり同性愛者です。問題ありますか?」
「…」
「…」
「…」
「もし不愉快に感じられるのなら、レッスンは止めにしましょう」
 三人は押し黙り、やれやれと言った顔つきで真由美は他所を見ている。
 沈黙が続く中、純太がノートPCを仕舞い掛けていると藤木が現れた。
「あのー。皆さん。おはようございます」
 藤木の声に真由美が、ビクッと反応して彼の顔を見た。
「な、なんだい。こんな所にまで現れて」
 藤木、曖昧な微笑。
「実は、例の件でお願いに…」
「何度も断ってるだろう」
「そこを何とか」
「しつこいよ」
「人助けだと思って」
 それまでの重い空気が一変。
 これを好機に二人の会話に割って入ったのは妙子だった。
「人助けって何のことだい?」
「えっ。こちらの方は?」
 純太が三人を紹介した。
「こちらは崎田妙子さん。真ん中の方が長野仁美さんで、一番左側の方が鈴木真央さん。皆さん、真由美さんのお友達で中国語レッスンの生徒さんです」
「藤木と申します。動物愛護関連のNPO法人の代表を務めています」
「おや。動物愛護かい」
「はい」
「動物愛護ってお金になりますの?」
 真央、好奇心満々。
「まぁ、やり方次第で。最近は、家出ペット探しが多いです」
「家出捜索。探偵さんみたいね」
「はぁ…。当たらずとも遠からずですか。それが縁で坂本さんを知りまして」
「あんたなんか知らないよ」
「真由ちゃん。今度は何に怒ってんだい?」
 真由美はソッポを向いた。
「実は、真由美さんもよく知っておられるお子さんが保育園の待機児童でして」
「あら。保育園。入れないんだ」
 数年前まで携わっていた業界だけに、仁美の喰いつきは他の二人よりも良い。
「そのお子さんの母親、シングルマザーなんですがコールセンターのパートをしながら必死に育てていらっしゃるんです」
「おや。大変だねぇ。コールセンターだけじゃ食べていけないんじゃない?」
「そうなんです。他にも幾つかのパートを掛け持ちされて」
「気の毒だねぇ」
「最近、コールセンターから社員にならないかって打診されてまして」
「おや。良かったねぇ。勿論、受けるんだろう?」
「それが、そうすんなりとはいかなくて」
「あら。どうして?」
「色々と事情があって。保育園が決まってくれないとYESと返さないんです」
「まぁ、最近はねぇ。どこの保育園も人手不足でねぇ」
「それであんた、真由ちゃんに預かれないかってお願いしてんのかい?」
「はい」
「真由美さん。難しいの?」
「犬猫じゃないんだよ。もし万一、子供に何かあったらどうするんだい。責任持てないよ」
「どうして坂本園なんだい?」
 藤木はテーブルの上で居眠りしているキジトラの奴を指さしながら言った。
「その猫。想ちゃん、あぁ、そのお子さんの名前が『想』というんですが、想ちゃんにとても懐いていまして。坂本園が良いかなと」
「ウチは客商売だよ。商売に差し障りが出るじゃないか。猫の世話だけで精いっぱいなのに他人様の子供まで面倒見切れないよ」
「坂本園って、そんなに忙しかったっけ?」
 天然ボケの純太をキッと睨みつけると、真由美は言った。
「あんたは余計なことを言わなくて良いんだよ」
「真由ちゃん。先生の言う通りだよ。坂本園、どう見ても暇な店だよ」
「ちぇッ」
「ねぇ。何だったらあたし、坂本園で面倒見ても良いわよ」
 全員の視線が仁美に集中した。
「そうねぇ。それ、良いかもしれない」
 真央に続いて妙子も賛同した。
「そりゃあ、あんたが適役だよ」
「えっ。適役って何ですか?」
「この人ね。二年前まで現役の保育士だったんだよ」
「そうなんですか?」
 藤木の目に輝き。
「腰傷めちゃって辞めたんだけどね。それが無かったら、今も続けたかな」
「ずうっと預かるってわけても無いんだろう?」
「はい。多分、長くても数ヶ月。保育園の空きが出るまでで構いません」
「真由ちゃん。良いだろう。あたし達も手伝うから。一肌脱いであげなよ」
 真由美、三人をギラッと睨む。
「先輩、そんな怖い顔しないで」
 真由美、溜息をつく。
「わかったよ。良いよ。一肌脱ぐよ。但しあんた達、逃げたら承知しないよ」
「ありがとうございます」
 藤木は挨拶もそこそこに走り去った。
 そして程なくして愛梨の手を引き、想を抱っこして戻って来た。
 全員が唖然と見守る中、藤木は愛梨に言った。
「保育園の空きが見つかるまで、ここに居る皆さんが坂本園で想ちゃんを預かってくれることになりました」
「えっ。ええ?」
 愛梨もまた、唖然とした表情で藤木を見た。
 藤木、ただニコニコ。
 妙子が真由美を突いた。
 真由美は彼女をチラ見すると、即されて言った。
「愛梨ちゃん。困ってんだろう。保育園が決まるまで、想ちゃんはウチで面倒見てあげるから安心おし」
「真由美さん…」
「社員の話。早く返事しないと他の人に持って行かれるよ」
            *
 純太は真由美から昼食を誘われた。
 お昼のピークは外れた時間帯だったからほどよく空いていた。
 注文したパスタを真由美は、浮かない顔つきで待ち続けた。
「結局。今日はレッスンできませんでしたね」
「うん…」
 生返事。
どうも普段の真由美と勝手が違う。
「どうかしました?」
 溜息を漏らし、彼女は言った。
「ごめんね」
「はぁ?」
「今朝のことだよ。あの三人。あんたが来る前に、あたしが余計なことを言っちゃったもんだから。気を悪くしたろう?」
「僕がゲイだってことですか?」
「あたしが言う事じゃなかったよ。本当にごめんなさいね」
 純太は苦笑いしながら言った。
「別に気にしてませんよ。そんなに謝らないで下さい。それに…」
「それに?」
「レッスンを始める前に言おうと思ってましたから」
「えっ?」
「隠すの止めたんです」
「大っぴらにしてるのかい?」
「はい」
「昔からかい?」
「いいえ。割と最近ですね。サミーと付き合い始めたのが切っ掛けでした」
「ふーん」
「隠して生活するのって、身も心も結構消耗するんですよ。面倒くさいなぁって感じる事は多々あったんですが、オープンにして生じる厄介ごとも嫌だなって。ゲイですって顔に書いてあるわけでもないし、静かに暮らしていれば波風も立ちませんからね。外見もこんな感じですから女性から好意を持たれることもあるけど、ノラリクラリと逸らして誤魔化せば回避できるし。でも、サミーと台湾で出会って付き合うようになって、考え方が一変しちゃいました」
「一変?」
「台湾って割とオープンというか気にしないんです」
「そうみたいだねぇ。同性婚も認められてるんだろう?」
「よくご存知ですね」
「最近、あんたと知り合ってから、あたしも少しは勉強したよ」
 二人、笑い。
「向こうで一緒に生活してた時、凄く楽だったんですよ。周りの目も余り気にならないし。自分らしく生きるっていうと大袈裟ですけど、隠さず生きてみて初めてある事に気づかされたんです」
「?」
「案外、自分で自分自身を傷つけて生きていたんだなぁって」
 純太、苦笑。
「隠すのってある意味、究極の自己否定ですから。日本に居た時は、全然そんな風に考え無かったけど、そうだよなって気づかされて腑に落ちてしまったわけです」
「それで隠すのを止めたのかい?」
「はい」
「でも、日本では大変だったんじゃないかい?」
「日本だからってことは無いと思います。何かを変える時って、良い悪いに関わらず何かと起こるじゃないですか。最初の一言を発するまではドキドキしてたけど、いざ口にしてしまうと何でもなくなる。そんな感じでした。実際、行動に移して色々と発見もあったし」
「発見かい?」
「勝手に思い込んでた『拒絶』とか『孤立』が、案外無かったとか」
 純太は呑気な様子で話しを続けた。
「勝手に妄想して怖がってましたしね。でも怖がってばかりだと何も変わらない。それで新しい出会いがあった時、真っ先に自分のセクシャリティを伝えることから始めました。最初に言うってところがポイントで、このタイミングを逃しちゃうと、人間関係が濃密になって行く程、嘘を重ねることになりますからね。嫌な人はそれ以上寄ってこないし、気にしない人だけが僕の周りに残るわけです」
「なるほどねぇ。隠し続けるのも辛いだろうね」
 純太は笑って答えた。
「慣れると辛くも無いですよ。それが習い性になってますから。でも、その相手と深く関われなくなる。無意識に距離を置いちゃうし、感情も抑制するのが当たり前となって。結果として相手との距離が縮まらない。喜怒哀楽を素直に顔に出すっていう行為も案外苦手となるから益々距離が縮まらない。もっとも、その頃は苦手ってことの自覚すら無かったですから。でもサミーと付き合うようになってから無自覚だった課題が色々見え出してきて。素のままに生きるのがこんなに気楽だったんだって、しみじみと実感しました」
 二人、和やかに笑う。
「とても気楽な生活を送れるようになりました。多分、昔よりも、今の方が人生エンジョイできているような気がします」
 だから純太の表情に不自然な力みが無いのかと、真由美は思った。
「本当は、こんなこと考えなくても気持ちのままに恋愛できる世の中になってくれれば、もっと楽なんですけどね」
 純太、苦笑い。
「カミングアウトっていうのかい。やっぱりした方が良いのかね?」
「それは、人それぞれじゃないですか。良し悪しあるし。事情や都合もあるし」
「難しいねぇ…」
 純太は和やかに笑いながら真由美に答えた。
「難しくは無いですよ。ただ、LGBTであることすらが、人生をエンジョイできる選択肢の一つとなる、そんな世の中になってくれれば好いかなぁとは思いますね。でも、先ずは自分から。手探りながら進んで行ってますよ」
 純太に対して自分にできること、それが何だろうと真由美はふと思った。
「あしたさ」
「はい?」
「明日の朝、レッスンしてくれるよね」
「…」
「…」
「もちろん。今朝が飛んじゃいましたから。その積りでいますよ」
「あの三人も…」
「真由美さん」
 純太は彼女を真直ぐに見つめて続けた。
「無理強いはダメですよ」
「…」
「楽しくなくなりますからね」
 注文したパスタが二人の前に置かれた。
「僕たちのパスタと同じですよ」
「パスタかい?」
「僕と真由美さん。注文したパスタ、違うでしょ。食べたいメニューを強制されたら美味しくないじゃないですか」
「そうだね」
「習いたければ来るだろうし。まぁ、来なかったとしても、真由美さんが習ってくれる限りはレッスン続けますよ」
「ありがとう」
「さぁ。冷めないうちに食べましょう」
            *
 夜。
 サミーはウキウキしていた。
「サミー。何か良い事があった?」
『うん。あったよ』
「どんなこと?」
『後でね。それより純太、元気ないね。どうした?』
「判る?」
『冴えない顔してるからね』
「大したことじゃないんだ」
『隠し事は無しって約束だろ』
「そうだね」
 小さな隠し事が積み重なって疑心暗鬼が生じたことがあった。
 それ以来、僕とサミーは隠し事をしない約束をした。
 何でも話す、これが意外と遠距離恋愛を長続きさせる秘訣の一つかもしれない。
 僕はサミーに朝あったことを話した。
『うーん。色々あった一日だったんだね。一つは未解決で、もう一つは解決した』
「まぁね」
『未解決の方。気にしてる?』
「そうでもないって言いたいけど。ちょっと引きずってるかな」
『明日の朝が勝負だね。その三人がレッスンに来るかどうか。明日来なかったら、すっぱり忘れちゃうのが良いかな。でも、来るんじゃないの?』
「そうだね」
『純太。考え過ぎないようにね』
「うん。ありがとう」
 子供っぽいところが多いサミーだが、こんな時は頼りになる。
 だから僕は、彼に惹かれているのかもしれない。
「ところでサミーの好い事って何?」
『出張で日本へ行く事になった』
「マジっ?」
『マジ。マジ』
「いつから?」
『来週。そっちへ行くよ』
「やったぁ。会えるね」
『まぁね。でも二週間隔離だから会うのはその後になっちゃうけどさ』
「どのくらい日本に居られるの?」
『一ヶ月』
「ウチに泊まるよね?」
『どうしようっかなぁ。ホテル。結構リッチみたい』
「じゃあ来なくて良いよ」
『拗ねるなよ』
「拗ねてないけど」
『拗ねてるね』
 純太、破顔。
「僕がホテルに行けば好いんでしょ?」
『YES』
 サミー、破顔。
『ホテルと純太の家。どっちに居ても、一緒に過ごせば良いじゃん』
「サミー」
『うん?』
「やっと会えるね」
『うん』
            *
 翌朝。
 純太と真由美は広場を眺めていた。
「イー、アー、サン」
 太極拳体操の掛け声は、いつも通り今朝も健在だ。れ
 だが体操をする面々の中に妙子たち三人の姿は無かった。
 純太も真由美も当然そのことに気づいていたが、敢えて触れることはしなかった。
 体操が終わり解散となって参加者が公園を出始めると、純太はレッスンの支度を始めた。
 すると二人の前に人が立った。
「あっ。妙子さん…」
「先生。レッスン。これから?」
「あぁ。これからですよ」
 真央にそう答えると、仁美が駆け寄って来た。
「ごめんね。遅刻しちゃった」
「大丈夫ですよ。これから始めるところでしたから」
「良かった」
 純太と真由美は、互いの顔を見合わせる。
 そして真由美は彼女達に言った。
「突っ立ってないでサッサとお座りよ。レッスン、始められないじゃないか」
 ぶっきらぼうな言い方だが、笑顔だ。
「じゃあ。始めましょうか」
「あっ。先生。お願いがあるんだよ」
 突然、妙子が言った。
「何ですか?」
「先生の恋人。写真見せておくれよ」
「妙ちゃん。あんたね、先生に失礼だよ」
「だって。イイ男だっていうからさ」
「あんた。少しは遠慮しなよ」
「まぁ、まぁ、まぁ。喧嘩しない」
「だって妙ちゃんがさ。失礼だよ」
「気にしてませんから。大丈夫です」
「先生…」
「サミーの写真が見たいんですか?」
「彼氏さん。サミーって名前なんですね」
 仁美、興味津々。
「サミー・ディビス・ジュニアみたいだねぇ」
「妙子さん。その人、誰ですか?」
「おや。知らないのかい。昔の歌手だよ」
「米国のね。有名よ」
 真央に続いて仁美が言った。
「亡くなって随分と経つんじゃない?」
 三人による無限会話ループが始まりそうになったが、真由美さんが一喝した。
「まったく。あんた達はいつまで喋ってんだい。レッスンが始まらないじゃないか」
 真由美さんの舌鋒が激しかったのか、彼女の脇で眠っていたキジトラが目を覚ます。
 そして、ミャーオとひと鳴きした。
「彼氏の写真。良いですよ。でも、レッスンが終わってからにしましょう。早速始めます」
 顔には出さないが、純太はホッとした。
 …サミーの言った通りになったな…
 その彼にも間もなく会える。
 …日本に着たら、彼女達にもサミーを紹介しよう…
 純太の心は、自然と浮き立った。
            *
 夜。
 SNSを見ていた純太の目が点になった。
「マジかよ」
 真由美さんのSNSに信じられない光景が映っていたからだ。
 それは茶道を習い始めた真由美さんと彼女を始動する母親の写真だった。
「この二人。いつの間に…」
 明日、じっくり問い詰めてやろうと純太はニンマリした。


(END:「楽趣公園 ―baby carriage―」)
(次回作:「楽趣公園 ―You 打疫苗了嗎(Did you get the vaccine?)―」)
(次回作アップ予定:2021.12

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