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まだ、死にとうない

 …うーん。割れる。頭が、割れそうに痛い…
「社長。眠そうにして。酔っ払いました?」
 …酔ってなんかおらん。あぁ、声が出せん…
「珍しいなぁ。まだ、そんなに飲まれていないでしょう?」
 …意識が。目の前が、薄れる…
「社長。このところ忙しかったから」
 …あぁ。もう目を開けていられん…
「えっ?」
「社長、大丈夫ですか?」
「あら。もう酔っちゃったんですか?」
「社長。社長。起きて下さい」
「あら嫌だ。鼾かいちゃって」
「社長。社長。しっかりして下さい」
「いいわよ。疲れてるんだから、少し寝せてあげれば?」
「でも。全然、起きませんよ」
「社長。鼾。段々、大きくなってますよ」
 三人は、大鼾で眠る社長と周りで自分たちを見ている居酒屋の客たちの怪訝な表情を交互に見ながら社長を起そうとするが、全く目覚めない。
「いや。どうしちゃったんだろう?」
「社長。酒豪なのにね…」
「それにしても大鼾ね。よほど疲れちゃってるのね」
 戸惑いを隠せない三人。
彼らに居酒屋の相客の一人の男が話しかけてきた。
「あー。余計なことかも知れませんが」
「はい。何か?」
「そちらで鼾をかいて眠っている方のことだが…」
「あぁ。ご迷惑をお掛けしましたか?」
「いいえ。それは無いのですが。鼾がね。少し気になるのでね」
「あらら。すみません…」
 男は、三人に名刺を渡した。
「大学病院の先生?」
「ご専門は?」
「脳外科ですよ」
「社長の鼾。気になりますの?」
「失礼。ちょっと拝見を…」
 大学病院の脳外科の先生、社長の具合を見る。
 社長の脈をとりながら彼は、三人に告げた。
「脳梗塞の疑いがあるから、至急救急車を呼んで下さい」
「えっ」
 鼾は大きくなる一方。
「脳梗塞?」
「早く連絡してッ」
「えっ。何々。救急車なの?」
 鼾。
 騒然とする居酒屋。
 大鼾。
 救急車のサイレンの音。
 それが次第に遠のく意識の中で聞いた音だった。
            *
「ねぇ。この人。本当に意識無いの?」
 意識が戻って最初に耳にした音は、妻による冷やかな問い掛けだった。
「一命は取り留めましたがね。残念ながら意識が戻るのは難しいかと思いますよ」
 俺の主治医の声。
「それって植物人間ってこと?」
「まぁ。一般的にはそう表現されますか」
「ふーん」
「お気の毒ですが」
「悪運の強い人ね。まぁ、今すぐ死なれても困るんだけど」

 …そう簡単にくだばってたまるか…

「ほう。それはまたどうして?」
「花梨が見つからないのよ」
「花梨さんって、社長の前の奥さんとの間にできた娘さんのお子さん?」
「この人の孫娘よ。三年前に家を飛び出してそれっきり。音信不通よ」
「何か都合の悪い事でも?」
「この人の会社の株、20%を持ってんのよ」
「そりゃ凄い」
「あたしやあたしの子たちにも渡さないのに、あの子には20%なんて変でしょう」

 …花梨に渡した以上にジャブジャブ浪費しとるのは誰だ…

「花梨さん。今年、21歳でしたっけ?」
「そう。議決権行使しれたら、手も足もでないわよ」
「家を出られる直前にお目にかかったが、言葉は悪いですが、かなりぶっ飛んでる娘さんでしたなぁ」
「いかれた映画オタクよ。この人とだって喧嘩と罵り合いが絶えなくて。大学に入学するや家を出てそのままよ」
「大学の方は?」
「株の配当で学費を賄ってるみたい。あんなイカレ娘、何で好き勝手できるのよ」
「まぁ、まぁ。落ち着いて…」
「なによ…」
 声色が、それまでのトゲトゲしさから甘えにと変わる。

 …あの二人。やはりデキとったか…

「この個室。一日、幾らよ?」
「一番いい部屋を取りましたよ」
「そうなの?」
「病室に応接室が併設されていて、看病の人が寝泊まりできるベッドルームとシャワー室も備えていますから」
「あーん。それで、幾らなの?」
 主治医は、彼女の耳元で値段を囁いた。
「随分、お高いじゃない」
「君が好きなホテルに比べれば安いもんさ」

 …こすい奴め。ホテル代をケチるか…

「シャンパン。あるの?」
「もちろん。冷蔵庫に用意させてあるよ。内緒のサービスだけどね」
「でもここ、病院じゃない」
「病院って聞いただけでゾクゾクしないか?」
「主人がそこで寝てるのよ」
「意識。全く無いんだぜ」
「でも…」
「背徳。だいすきだろ?」
「もう…」
「ベッドルーム。確認しなくて良いのかい?」
「そうね。確認。大事ね…」
            *
 四十代後半の男女による、むつみ合う背徳の声が病室に響く。

 …寝取られ亭主の気分とはこんな感じか…

 苦笑こそできなかったが、二人の声を面白がって聞き続けた。

 …身体がこんなでなければ、奴らのセックスを見物しとるんだが…

 二人の浮気に悔しさや憤りは微塵もなかったが、下世話な好奇心を満足させられない身の不自由さを心の底から悔やんだ。

 …まぁ、暇つぶしには良い…

 そう思い直して聞き耳を立て続ける。
            *
 花梨は寝室のベッドに座ってポテトチップス片手に、映画『ジョニーは戦場へ行った』を食い入るように観ている。
 彼女の隣で一緒に暮らす恭平も映画を見ていたが、かなり退屈しきっている。
 恭平は大欠伸をすると花梨に言った。
「ねぇ。花梨。エッチしようよ」
 花梨、返事なし。
 恭平は、映画を熱心に見入る花梨の横顔とテレビとを交互に見てから言った。
「これ、いつの映画?」
「1971年」
「うわっ。50年前。随分、むかし」
 恭平、再び欠伸。
「なんか怖いね」
「怖い?」
「主役の人。顔、無いじゃん。両腕と両脚も失って寝たきり」
「逃げ込んだ塹壕が爆撃されて、命は助かったけどね。病院に来たときには両腕、両脚ともに壊死してて切断する以外に方法が無かったのよ」
「ヤバっ」
 恭平、包帯に包まれた主人公を悲しい眼差しで見つめながら言った。
「これじゃあ。セックスできないね」
 花梨、呆れ顔で恭平を見ながら言う。
「あんたはセックスしか頭に無いの?」
            *
 病院での生活は単調だ。
 しかも身動きが全く出来ないから、一日が絶望的に長い。だから意識がある時は、昔観た映画を思い出して過ごした。

 …そう言えば、今の俺と同じような設定の映画があったっけ…

 ふと、映画『ジョニーは戦場へ行った』を思い出した。肉の塊として生かされ、生き続けるしかなかった主人公の底知れない絶望を今さらながら実感した。でも自分は、あの主人公よりもマシだと思った。何故なら、聴覚は失われていなかったから。

 …これで何も聞こえない生活だったなら、気が狂ってたな…

 こんな場面があった。
 婦長が窓を開けるシーンだ。
 真っ暗な部屋に届いた朝日に触れて、朝の訪れを認識する主人公。
 時計の針が動くことが、こんなにも感動できることなのかと観る者に思わせる。
 時の経過なんて当たり前のことだと意識にもしていなかったけど、こんな境遇に陥ってみて初めて、その有難さを実感させられた。

 …そう言えば、あの映画の中で主人公は神様と対話していたな…

 キリストと呼ばれる男。
 そんな役名の男と主人公は対話し続ける。
 そして主人公は、キリストと呼ばれる男に言われるんだよな。

 『君の現実が悪夢以上のものなら、誰かが君を救えるふりをする方が残酷だ』

 でも、不思議と死にたいとは思わなかった。
 自分には聴覚が残されているから、あの主人公ほどには絶望していないのかもしれない。
 音の変化を感じ取れるだけども、まだ生きられると思える。
             *
「うわ。主人公。頭はちょっとだけ動かせるんだね」
 新任の看護師が主人公の胸に指で『Merry Christmas』と書いて、それに反応する主人公を見ながら恭平が言った。
「優しい看護師さんなのよね」
「主人公。頑張れ。会話して」
 妙に感動しながらテレビへエールを贈る恭平。
 そんな彼をちょっと引き気味、冷静に見つめる花梨。
「あーぁ。行っちゃった。何で気づかないんだよ」
「仕方ないわよ。ただの反応だと思ってるんだから」
「悔しいなぁ…」
 シュンとする恭平。
 そんな彼を可愛いと感じる花梨だった。
            *
「しかしながら、奥様のお申し出は難しいかと思いますよ」
 顧問弁護の安永の声で目覚めた。
 眠るという行為が、この身体となって以降変わった。
 それ以前は眼を閉じることが眠りへの第一歩だったが、今はいつでも目を閉じているから眠りへの誘いとはならない。どちらかと言うと、画面が暗転して意識が飛ぶという感覚が眠る行為のきっかけとなっている。
 だから目覚めはその逆で、何かの刺激で画面が好転することが目覚めとなっている。
「現状において奥様は、会社とは全く無関係のお立場でいらっしゃられる。株式も全く保有されておられない。それで会社の経営に参画されるのは無理ですな」
 女房の奴、どうやら会社を乗っ取る気でいるらしい。
「わかってるわよ、安永先生」
「奥様…」
「でもね。主人もあの状態です。だから、先行きが心配なのよ」
「ご事情は分かりますよ。何とかさせて頂きたいのは山々ですが無茶はいけません」
 衣擦れの音。
 人が動いて生じた僅かな空気の動き。
 どうやら女房の奴、安永の隣に座ったようだ。
「これはね…」
「おくさん…」
「あたしたち二人、それと美鶴のためでもあるのよ」

 …美鶴のためって何だ…

「ちょっ。ちょっと。こんな場所で秘密を口に出して」
「大丈夫よ。どうせあの人には聞こえてないんだから。美鶴かあなたとの子供なんて、あの人は全然疑ってもいなかったし、あの状態でしょ。バレないわよ」

 …女房の奴。安永ともデキておったのか…

「ですが誰かに聞かれるってことも」
「誰も居ないじゃない。見舞いだって来ないわよ」
「でも、万一ってことも考えて」
「安永ちゃん」
「はい」
「美鶴にあの人の会社を継がせたくないの?」
「勿論。そうなって欲しいですよ」
「そうでしょう。だって美鶴は、あなたとの間にできた娘だもの」

 …耳にしたくない事実だったな…

「だから何とかしなさいよ」
「しかし、それは無茶だ…」

 …長男の真彦が主治医との不倫でできたことは知っとったが、まさか美鶴まで…

 自分の勘が働いて女房とその間にできた子らには株を譲渡しないでいたが、事実を知るに至り正しい判断だったと再認識した。

 …どいつも、こいつも…

「ねぇ。久し振りにどう?」
「えっ。でも病室でしょう」
「隣に付き添いが寝泊まりできる部屋があるのよ」
「隣の部屋ねぇ…」
「冷えたシャンパンもあるわよ」
「チーズは?」
「もちろん。用意してあるわ」
「好いじゃないか」
 沈黙。
 微かな衣擦れ。
 扉が開かれる音。
 そしてバタンと扉が閉じる音が響いた。
            *
「主人公。頭を動かして何か伝えてるね」
 花梨、恭平の口にポテトチップスを入れて食べさせながら言った。
「モールス信号よ」
「何それ?」
「大昔の通信方法。打音と無音の組合せで文を送るの」
「ふーん。主人公、何を伝えようとしているの?」
「SOS」
「えっ。それだけ?」
「意識があるって伝えることが重要なのよ」
「あっ。軍医の偉い人が気づいた」

『君。どうして欲しいんだね?』
『俺を話す肉の塊として見世物にしてくれ』
『それは出来ない』

「花梨さぁ。何でモールス信号に詳しいの?」
「おじいちゃんに習ったから」
「習ったの?」
「この映画。昔、幼稚園の頃、おじいちゃんと二人で見たのよ。怖かった」
「ふーん」
「このシーンを見ていて、おじいちゃんが教えてくれたんだ」
「そうなんだ」
「おじいちゃも、この映画を見てちょっと勉強したんだって」
「そっか。おじいちゃん、元気?」
「知らない。会ってないから」
「どうして?」
「家を出る前にケンカしちゃって、それっきり会ってない」

『それなら、俺を殺してくれ』
『…』
『殺してくれ』
『殺してくれ』
『殺してくれ』
『殺してくれ』
『殺してくれ』
 永遠にそう言い続ける主人公。

 映画を観終わって、ポカン顔の二人。
「誰にも。主人公を救えないんだね」
「自殺すら出来ないもの。死ぬまで生き続けなきゃならないのね」
「イヤだな。そんな人生…」
「自分の希望が叶わない人生なんて、誰だって嫌よ」
 花梨のスマホが震えた。
「あらっ?」
「どうしたの?」
「岸田のおじいちゃんからメッセージ」
「誰?」
「前の顧問弁護士。ママの親戚のおじいちゃんで、ママが亡くなってからは、あたしがママから相続した株を管理してくれてるの」
「ふーん。なんだかカッコイイね。それで、何だって?」
「えっ」
「?」
「どうしよう?」
「??」
「おじいちゃん。倒れて意識不明だって」
「岸田さん?」
「違うわよ。本当のおじいちゃんの方」
「大喧嘩した?」
「どうしよう…」
「直ぐに行ってあげなよ」
「でも…」
「ほら。支度して。俺、一緒に行くから」
            *
 二人は病院のロビーで待ち合わせた。
「おぉ。花梨ちゃん。待ってたよ」
「岸田さん。おじいちゃん、具合どうなの?」
「意識は戻ってないよ。主治医の見立てでは、このまま意識が戻らないだろうって」
 半泣きの花梨。
 彼女を恭平が支える。
「花梨ちゃん。この人は?」
「以前にちょっと話した、彼氏の恭平」
「あぁ。この方が恭平さん。岸田です」
 岸田の名刺を受取った恭平は、何故か自分の学生証を見せた。
「うん?」
「亀梨恭平です」
「あぁ。亀梨さん。宜しく…」
「身分を証明する物って学生証しかなくて。もう、しまっても良いですか?」
「あぁ。ありがとう。まぁ兎も角、社長に会おう」
 岸田は歩き出そうとしたが、花梨は足を止めた。
「花梨ちゃん。大丈夫。今、病室には、社長以外の誰も居ないから」
「本当に?」
 岸田は柔和な笑顔を見せた。
「さぁ。行こう」
            *
 ドアの開く音。
 …誰だ…
「おじいちゃん…」
 …花梨か…
 ベッドサイドに置かれたスティール製の椅子に花梨が腰掛ける音。
「花梨ちゃん。私は外に居るよ」
 …岸田か…
 ドアの閉まる音。
「おじいちゃん」
 …花梨が、儂にすがって泣いておる…
 最愛の孫娘に何もできない自分がもどかしい。
 再び、スティール製の椅子に誰かが腰掛ける音。
 …うん。もう一人。誰だ…
「花梨…」
 …若い男の声。ひょっとして彼氏か…
「うん。大丈夫。あっ。おじいちゃん。紹介するね。彼氏の恭平」
「亀梨恭平です」
 憮然と出来ない自分がもどかしい。
「意識。無いんだね」
 花梨、切ない声で呟く。
 …うーん。意識があることを何とか伝えねば…
 その時ドアが開き、岸田が慌てて部屋に入って来る。
「花梨ちゃん。今日は、ここまでにしよう」
「えっ?」
「奥さんと子供たちが見舞いに来たようだ」
「でも。まだ会ったばかりなのに…」
 …あぁ。花梨。どこか身体が動かんのか…
「さっ。早く」
「おじいちゃん。また来るから」
             *
 エレベーターホール。
 そこで三人は、後妻家族と出くわした。
「岸田弁護士」
「あぁ。これは奥様」
「あなたが何でここに居るの?」
 聞き流す岸田弁護士。
 隣りに居る花梨を見るや、彼女は声を荒げた。
「花梨。よくここに来れたわねぇ」
「奥様。花梨さんは社長のれっきとした孫娘さんです。見舞いに来る権利はありますよ」
「勝手に家を飛び出して。あたし達が、どれだけ心配したと思っているの。勝手はいい加減にしなさい」
「何よ。母親面しないでよ」
「株。返しなさい」
「何よ。直ぐお金の話。あれは、死んだママから相続したの。渡さないから」
「何ですって」
「ちょっと奥様。ここは病院ですよ。喧嘩は止めましょう」
 折よく来たエレベーターに岸田は花梨と恭平を押し込み、自分も乗った。
「ちょっと待ちなさい。話はまだ終わってないわよ」
「奥様。日を改めて。花梨さんの件は、そちらの弁護士を通じて私へお話し下さい」
「ちょっと。待ちなさいッ」
 エレベーターの扉が閉まった。
            *
「すまないね。花梨ちゃん」
 岸田が運転する車の中で、彼は彼女に詫びた。
「あんな唐突に来るとは思っていなかったよ」
「おじいちゃん。もっと一緒に居たかったのに…」
「花梨。大丈夫。直ぐにまた会えるよ」
花梨は恭平の胸に顔を埋めて泣いた。
「しかし困った。あの様子では二人の面会も容易ではないな。それに良いようにされるのも気掛かりだ」
「あの人たち、花梨が持っている株を狙ってるんですか?」
「事情が複雑でね。社長は奥様と二人の子供たちを全く信用しとらんのだよ」
「…」
 花梨、泣き疲れて眠っている。
「社長は前妻だった宮子さんを深く愛しておられた。彼女は私のまた従妹でしてね、生まれ育った家が近所だから姉弟のように育ったんだ」
「それで顧問弁護士なんですか?」
「最初は宮子さんの弁護士だったんだが社長に気に入られてね。彼の会社の顧問弁護士になったんだよ」
「ふーん」
「会社を設立した時、前妻の奥様名義で株の20%を登記してね。その後、泰代さんが生まれたんだ」
「やすこさん?」
「花梨ちゃんのお母さんだよ。泰代さんが中学生になって間もなく、宮子さんが病気で亡くなられ、彼女の持ち分だった株を泰代さんが相続された。その後、泰代さんは結婚されて花梨ちゃんが生まれた。でも、花梨ちゃんが三歳の時に悲劇が起きた」
「悲劇っすか?」
「花梨ちゃんのご両親が旅行先の事故で亡くなったんだよ」
 花梨、スヤスヤと眠っている。
「花梨ちゃんは三歳で泰代さんが保有する株を相続した」
「うわっ。花梨って、三歳で大金持ちだったんだ」
「今の奥様が入って来るまでは何の問題もなかったんだけどね。あの人が来てから、段々様子がおかしくなった。ちょっと危ないと思って、花梨ちゃんが相続した株式を信託財産化したんだ。あの人たちが好き勝手に手を出させないための措置だった」
「ふーん」
 恭平、ちょっとポカン顔。
「信託化が完了した直後、今の顧問弁護士の安永氏が入り込んで来てね」
「顧問弁護士。解任されちゃったんですか?」
「そうなんだよ」
 岸田弁護士、苦笑。
「花梨ちゃんは社長に溺愛されていてね。でも、花梨ちゃんが7歳の時に今の奥様が後妻として家に入って来たんだよ」
「えっ。でもエレベーターホールで会った子供さんたちって、どっちも花梨より年上みだいだったけど…」
「宮子さんが亡くなって。社長も寂しかったんだろう。その心の隙間に入り込んで来たのが今の奥様でね。二人の子供たちの認知はしたんだが、籍はずっと入れずのままだった。泰代さんの手前、入れたくなかったんだろう。でも泰代夫婦が事故で亡くなって、今の奥さんは強引に籍を入れさせたんだよ」
「でも花梨、何でおじいちゃんと大喧嘩しちゃったんだろう?」
「花梨ちゃんの株式を巡って揉めたんだよ」
「株で?」
「花梨ちゃんが18歳を迎えると、株は信託管理から外れて彼女の自由にできるようになる。そうなると自分の立場が悪くなると思ったのか、株を社長に譲渡しろとしつこく迫ったんだよ。間に入った社長は曖昧な態度でね、結局後妻の味方をしたもんだから花梨ちゃんの居場所が無くなってしまったんだよ」
「花梨。それで家を飛び出しちゃったんだ」
「ドロドロのドラマみたいっすね」
 恭平のウキウキ顔をバックミラー越しに見て、岸田弁護士は再び苦笑する。
「花梨。目が覚めた?」
 恭平を見つめる彼女の顔は、流れた涙で化粧が落ちて幾つもの筋がついている。
「花梨」
「うん」
「お化粧。直そうね」
「うん」
 バックミラー越しに二人のやり取りを見て、岸田弁護士は微笑んだ。
「しかし困ったなぁ」
「えっ?」
「社長があの状態だと、あの人たち何をしでかすかと思うと不安だよ」
            *
「ねぇ。ママ。今月、ピンチなんだよね」
「えっ。お小遣い足らないの?」
「うん」
 長男の真彦、この病院で皮膚科の医師として働いている。

 …三十歳を過ぎて、まだ金の無心か…
 社長、自分に似ていない長男の顔を思い浮かべる。

「何に遣ったの?」
「車買って。銀座で遊んだらピンチでさ」
「ここのお給料じゃ足らないの?」
「安いよ。ここの給料」
「院長に言って、先月上げて貰ったばかりでしょう」
「足らないよ」
「しょうがないわねぇ」

 …うちの会社を継がせる気が無かったから医学部へ裏口入学させたが…
 未だに俺の金が真彦によってジャブジャブと浪費されていくと、苦々しく思いながらもどうにもならない自分に腹を立てながら心の中で呟いた。
 …石潰しが…

「えっ。お兄ちゃんだけズルい」
 泰代と腹違いの娘の美鶴。
「あんた。また損したの?」
「うん」
 無類の相場、FX、仮装通貨好きの無職。
 損失の穴埋めは、女房を介して俺が全てしている。
 顔立ちがイイのが取り柄なだけの、真彦以上の浪費女である。
「あんたも懲りない子ねぇ。今回だけよ。次から気をつけなさい」

 …今回だけを数限りなく続けるバカ母娘どもが…
 溜息すらつけない自分の身体の不自由を呪った。

            *
「もう、おじいちゃんに会えないのかなぁ…」
 項垂れる花梨。
 恭平、彼女の手を握って言った。
「会わなきゃ、良いんでしょう?」
「えっ。恭平、ひどい…」
「あっ。違う、違う。あの人たちと会わなきゃ良いって意味」
 岸田弁護士、ホッと顔。
「出くわさない方法。何かあるのかい?」
「方法。あるよ」
「どうするの?」
 恭平、ニンマリと笑って答える。
「監視カメラ」
「…」
「…」
「部屋と廊下の様子が分かれば大丈夫でしょう?」
 バックミラー越しに花梨と岸田弁護士の目が合う。
「廊下やロビーは病院のシステムにハッキングして見ちゃうし、病室の方は隠しカメラをセットしちゃえばOK。俺、得意分野だからやるよ」
「得意分野?」
「実は俺、大学の学費をハッカーのバイトで稼いでんだぁ」
「違法じゃないのかね」
「大丈夫。スレスレしかやらないから」
「最近の若い者ときたら…」
 岸田弁護士、溜息。
            *
 静かな一日。
 心が穏やかだった。
 ふと、思う。
 …俺はきっと、ジョニーに比べれば幸せに生きている…
 俺は、まだ音の世界に生きていられる。
 ジョニーは音を聞くことができなかった。
 彼が感じられる五感は肌に伝わる振動だけ。
 光の届かない鍾乳洞で暮らす生物たちだって、ジョニーのような生活はしていない。
 だから朝日の温もりに感動したのだ。
 新任の看護師の指先で、自分の胸に書かれた『Merry Christmas』に微かな希望を見出した。
 でも俺は、音の世界を失っていない。
 花梨の声だって聴けた。
 そうだ、花梨に意識があることを知らせないと。
 どうしたらイイ?
 ジョニーは頭を動かせたけど、俺の場合はどこも動かない。
 どこでもイイから、どうにか動かせるようにしないと。
 指一本でもイイ。
 一本の指の先、そこだけでもイイから。
            *
 気のせいだろうか?
 誰かが、俺の手を握っている気がする。
「おじいちゃん…」
 …花梨…
「おじいちゃん。目を覚まして」
 …思い出したぞ。これは、花梨の肌触りだ…
「…」
 …花梨。おじいちゃんは意識があるぞ…
 偶然だろうか。
 俺の問い掛けに答えるように、花梨が一際手を強く握った。
 …花梨。気づいておくれ。花梨…
「うわっ。ヤバい」
「恭平。どうしたの?」
「花梨の継母さん、来ちゃったよ」
「えっ。今、どこいるの?」
「病院の駐車場。ハッキングした監視映像に姿が映っていた」
 花梨、一層強く社長の手を握る。
「おじいちゃん。ゴメンね。また来るね」
 …花梨。行かないでおくれ…
「えっ?」
「花梨。どうした?」
「今、おじいちゃんの指が…」
「早く。継母さんたちが来る前に部屋を出よう」
 扉が閉まる音。
            *
「ねえ。この人、あとどのくらい生きそうなの?」
「奥様。それは私にも解りかねます」
「ねぇ。誰も居ないのよ」
「えっ?」
「誰も来ないし」
「…」
「敬語なんて使わないでよ。普通に話しましょう」
「そうだな」
「それでさっきの質問だけど、本当にどのくらい生きそうなのよ?」
「だから判らないって。この人の寿命次第さ」
 抱合う、二人。
「今すぐ急に死なれても困るけど、時期が来たら安楽死ってあるんじゃない?」
「本人の同意書が必要だな」
「そんな物無いけど、弁護士は居るわよ」
「安永弁護士ね」
「いつまで経ってもこの人、意識の無い植物人間のままでしょう?」
「難しい質問だなぁ。突然、回復したりするから厄介なんだよ」
 主治医、奥様の耳を甘噛みする。
「でもあなたって、人の生き死に関する専門家じゃない」
 奥様、主治医の耳元で囁く。
「そりゃあ職業柄、人の生き死には沢山見て来たよ」
「お医者さまと弁護士。何でもできるじゃない」
「奥様って、怖い事を言うなぁ」
「そう?」
 キスしまくる二人。
「ここじゃ、ダメよ」
「この間は、興奮しまくってたくせに…」
「シャンパン飲みましょう」
「冷やしてあるよ」
 二人が付き添い用の部屋に入ろうとした時、主治医に呼び出しが掛かった。
「こんな時に急患かよ。使えない患者だ」
            *
 奥様は一人病室に残った。
 応接用のソファーに腰掛けると、彼女は化粧を直す。ファンデーションの甘い香りが、社長に鼻を突いた。

 …俺の安楽死の相談の後で自分の化粧直しか。なんて女だ…

 奥様のスマホが鳴った。
「あら。今、着いたの?」

 …誰だ…

「あの人の病室。待ってるから来て」

 …誰を待ってる…

「心配しなくても、植物人間の主人以外に誰も居ないわよ。早く来て」
 奥様、化粧を念入りに続ける。
            *
 病院の駐車場に止めた岸田の車の中で、恭平が部屋にセットした隠しカメラで花梨たち三人は主治医と奥様のやり取りを見ていた。
「ひどい…」
 花梨、絶句。
 恭平と岸田弁護士、唖然としたまま言葉もない。
「おじいちゃん。かわいそう」
 花梨、落涙。
「やはり本当でしたか」
 岸田弁護士の呟きに花梨と恭平は顔を見合わせる。
「社長。二人の不倫をずっと疑っておられたから」
「えっ」
「マジ?」
「目の当たりにすると嫌なものですな」
「あっ。この人…」
 恭平の一言で、花梨と岸田弁護士は恭平のスマホを凝視した。
「見た事ある人かなぁ?」
「安永弁護士」
 花梨と岸田弁護士、思わず名前をハモった。
            *
 安永弁護士は部屋に入ると奥様と抱き合い、熱いキス。
「待ってたわ」
「どうしたの急に?」
「主治医と話したの。例の件」
「OK、出たの?」
「もちろん。あとは、あの娘から株式を巻き上げれば決行よ」
「そうか。でも難題だなぁ…」
 安永弁護士、眉間に皺を寄せる。
「何怖がってんのよ」
「岸田弁護士が手強くてね」
「何よ。あんな老いぼれ」
「それがさ、そうでも無いんだ」
 奥様、安永弁護士の耳元で甘い囁き。
「あなたなら大丈夫よ。シャンパンでも飲みながら、ゆっくり話さない?」
「好いねぇ」
            *
 社長は焦っていた。
 …花梨に早く知らせないと…
 必死に身体を動かそうと試み続けるが叶わない。
 …花梨が危ない…
 微かに耳に届く、奥様と安永弁護士の逢瀬の声。
 だが社長、そんな声に耳を貸さない。
 …ええい。この身体、どうにかならんのか…
 社長、イライラ。
 …頼む。指、一本で良いから動いてくれ…
 病室には、不倫の喘ぎ声が響いている。
            *
 ファミレス。
 花梨、恭平、岸田弁護士の三人は、注文で出されたコーヒーを前に無言で過ごしていた。
 花梨、コーヒーカップを睨み続ける。
 岸田弁護士、放心状態で宙を見つめる。
 恭平、病室で撮った映像を繰返し見続ける。
「社長は、奥様のダブル不倫のことを知って居られたのかもしれん」
 岸田弁護士がポツリと言った。
「おじいちゃんを騙すなんて。あいつら、鬼畜よ」
 花梨、勢いにまかせてコーヒーを飲んで咽る。
「花梨。落ち着けよ」
 恭平は、花梨の背中を摩った。
「ありがとう。恭平、もう大丈夫だから」
 恭平、花梨の背中を摩り続ける。
「もうッ。恭平。大丈夫って言ってるじゃない」
 イライラしながら花梨が彼を睨むと、恭平は熱心に画面を見つめていた。
「恭平。あいつらの鬼畜映像が、そんなに楽しいの?」
「違うよ。これ、見てみて」
「?」
「あの女と弁護士のイチャイチャじゃない」
「違うよ。そこじゃなくて、おじいちゃんのところ」
「えっ?」
「おじいちゃん。寝てるわよ」
「よく見て。おじいちゃんの右手の中指」
「えっ。これ血中酸素濃度を測る器具がついてるけど?」
「よく見てよ」
 花梨、眼を凝らす。
「ええっ」
「わかる?」
「分かりまんか?」
「老眼なので細かいものは何とも…」
「あっ。動いてる」
 花梨、思わず呟く。
「おう。そう言われてみれば動いておりますなぁ」
「動いてますよ」
「でも、痙攣の類では?」
「僕も最初、そう思ったんです。でも繰り返して動かしているみたいで…」
「これ。きっとモールス信号よ」
「モールス信号?」
「岸田先生。ご存知ですか?」
「何となく。ツー・トンですな」
「えっ。それ、解らいなけど…」
 恭平、ポカン顔。
「ちょっと待って。読んでみるから」
「花梨ちゃん。解読できるの?」
「彼女。子供のころにおじいちゃんから習ったそうです」
「『か』…、『り』。えっ、最後の一文字は?」
 恭平と岸田弁護士、花梨の顔を見つめる。
「…『ん』。えっ。おじいちゃん、ずっとあたしの名前を打ってる」
 三人、互いの顔を見合わせる。
「社長。もしかしたら…」
 恭平、意味も無く頷きながら言う。
「花梨のおじいちゃん。意識があるんだよ」
 花梨、突然立ち上がる。
「花梨。どうしたの?」
「おじいちゃんへ会いに行く」
 花梨はそう言い残し、外へ出て行った。
「花梨。ちょっと待って」
 彼女の後を追うとして席を立った恭平だったが、立ち止まって振り向くと岸田弁護士に言った。
「先生。ここの支払いお願いします」
 そう言って立ち去ろうとする恭平を、岸田弁護士が呼び止めた。
「恭平君。その映像ファイルを私に送ってくれんかな。アドレスはここだ」
 岸田弁護士は、恭平に名刺を渡した。
「分かりました。後で送ります」
            *
「おじいちゃん…」
 社長の右手の中指は『カリン』と打ち続けてる。
 花梨は、その手を握りながら言った。
「意識。戻ってたんだね。おじいちゃん」
 …ああ。やっと気づいてくれたか…
「良かった。やっと、お話しできるね」
 すると今度は、花梨の掌を激しく打ち始めた。
「えっ。何?」
 社長は、花梨に伝えようと必死に打ち続ける。
「うん。…『き』、…『を』、『つけ』、…『ろ』。『きをつけろ』って、何に?」
 …うーん。もどかしい。イライラするぞ…
「『あ』…。『あいつら』。あいつらね。あいつらって、誰?」
 …だから。女房と主治医と安永弁護士なんじゃ…
「ひょっとして、あの三人のこと?」
 社長、『YES』と打ち続ける。
「ひどい。でもどうしよう…」
「えっ。『殺される』。誰が殺されるの?」
 社長、『三人』と打ち続ける。
「あの三人が、おじいちゃんの命を奪うの?」
 社長、『YES』と打ち続いて自分の気持ちを打ち続けた。

 『まだ、死にとうない』
 『まだ、死にとうない』
 『まだ、死にとうない』
 『まだ、死にとうない』
 『まだ、死にとうない』

「解かった。おじいちゃん。ここから逃げよう」
 その時、突然病室のドアが開いて恭平が中に入って来た。
「きょ、恭平…」
「奴ら来るぞ。早くここから出よう」
「ダメ」
「?」
「おじいちゃんが危ないの。あいつらに殺されちゃう」
「えっ。まさか」
「勝手に安楽死させようとしてる」
「ヤバっ」
「恭平。手伝って」
「どうすんの?」
「おじいちゃんを安全な場所に移す」
「どこへ?」
「どこでも良いから。早くここから連れ出さないと」
「えぇ。どうすんだよ…」
「ベッドごと外に出すわよ」
 二人、ベッドを外へ出そうとする。
 そこへ奥様親子、安永弁護士、主治医と病院職員たちが現れた。
「あんた達、何やってるの」
「おい。早く二人を連れ出しなさい」
 主治医の命令で病院の職員たちは花梨と恭平を捕まえる。
 暴れ、叫ぶ二人だったが抵抗空しく、病室から強制排除された。
            *
 静けさを取り戻した病室で奥様親子、安永弁護士、主治医は社長を見つめる。
「先生。社長の意識は戻らないのですな?」
「恐らく、もう戻ることはないでしょう」
 主治医の見解に安永弁護士はニンマリと笑って言った。
「それで容態の方は安定されてるのですか?」
「今のところ。ですがお歳ですから急変する場合もありますよ」
 主治医、ニンマリ。
 そして彼は、奥様親子を見ながら告げた。
「万一のこともありますから、覚悟だけは決めて置かれた方が宜しいかと思います」
 親子三人は一様に頷いて見せたが、真彦が言葉を発した。
「右手の中指がずっと動き続けいるのですが…」

『まだ、死にとうない』
『まだ、死にとうない』

「先生も医者なら、この現象が何か解るでしょう」
「えっ。まぁ…」
「ただの痙攣ですよ」
「痙攣ですか。でもその割には規則的な動きにも見えますが?」

 『まだ、死にとうない』
 『まだ、死にとうない』

「鎮静剤を打てば落ち着きますよ」
「そうかなぁ?」
 主治医はナースセンターに連絡すると、鎮静剤の注射を持ってこさせた。
「真彦先生。打ちますか?」
「いやいや。御遠慮させて頂きます」

 『まだ、死にとうない』
 『まだ、死にとうない』

「まったく。それでは私が打ちますから」

 『まだ、死にとうない』
 『まだ、死にとう…』
 『まだ…』
『死にとう…』
『ない…』

 指の動きは止まった。
「ほらね。痙攣なんです。私の言った通りでしょう」
 真彦、無言。
「でもこの様子だと、今夜あたりヤマかもしれないなぁ」
           *
 混濁している意識の中で、傍らに立っいる人間の気配を感じた。
 意識の中に映っている男の姿が『キリストと呼ばれた男』に似ている気がした。
 ジョニーを見捨てた神様。

 …今回は俺を見捨てるのかな…

 でも俺は、花梨の顔を思い浮かべて思い直した。
 そして必死で、右の中指を動かし続けた。

『まだ、死にとうない』
 『まだ、死にとうない』
 『まだ、死にとうない』
 『まだ、死にとうない』
 『まだ、死にとうない』

 それまで俺のことをジッと見つめていた『キリストと呼ばれた男』は、皮肉交じりにニヤリと笑って言った。

「まだ、死にとうないんだな?」
 そう言われたような気がした。
 俺が頷くより先に『キリストと呼ばれた男』の姿は消えてしまっていた。
 でも俺は、『まだ、死にとうない』と右手の中指で打ち続ける。
           *
 夜中、主治医が嘱託殺人未遂の嫌疑で逮捕された。
 病室の点滴に細工をしてる所を取り押さえられ、恭平が盗撮した一連の映像ファイルが証拠となっての逮捕劇だった。
 翌日の朝、奥様、美鶴、安永弁護士の三人が殺人教唆の嫌疑で逮捕された。
 銀座で飲んだくれていた真彦は、朝帰りの途中で一連の逮捕騒ぎを知って逃亡。根室で身柄を拘束された時、所持金は300円だけだった。
 盗撮とハッキングがバレて逮捕されんじゃないかとビクビクしていた恭平だったが、そこは老練な岸田弁護士が上手く処理してお咎め無しとなった。
            *
 社長はその後、岸田弁護士の紹介である大学病院へ転院した。
 そこで主治医となったのが、脳梗塞で倒れた時に初期処置を施してくれた脳外科の先生だったのだから、どこで縁が結ばれるかわからない。
 主治医の方針で個室ではなく、同程度の患者三人との相部屋。
 ほぼ毎日、花梨と恭平が連れ立って見舞いと看病でやってきた。
 どうやらこれが刺激となったらしく、社長に奇跡が起きる。
 寝たきりの状態を脱して、半身不随ながら車椅子での生活ができるまで回復した。
             *
 大学病院の中庭。
 祖父を乗せた車椅子を押す花梨と彼女に付き添う恭平。
 岸田弁護士と主治医が、陽だまりのテラスから三人の様子を見ているる
「いやはや。社長があそこまで回復されとは思いませんでした」
 岸田弁護士、驚嘆。
「脳はね、失われても補おうとするもんなんです。刺激、生きる意欲が、脳を再生させることがあるんですよ」
「奇跡ですな」
「今回のケースでは、花梨ちゃんがおじいさんの脳の救世主となりましたね」
「まだ、死にとうない…」
「えっ。岸田さん。どうされました?」
「社長がね、花梨ちゃんの名前と共に言っていた言葉なんですよ」
「まだ、死にとうないか」
「面白いでしょう。花梨ちゃんのためにも生きようと思ったのかな」
「岸田さん。知ってましたか?」
「何がです?」
主治医は苦笑交じりで言った。
「臨終にそう言い残した偉人がいますよ」
「ほう。どなたですか?」
「一休さんですよ」
「おやおや…」
「極限を経験すると人間、誰しも同じことを考えるんですかね」


(END)
(次回アップ予定:2021.7.31)

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