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蟲魂2 -ガザミ(終編)-


            *
 三方の壁面に据え付けられた棚の虫籠は、全て壊されていた。
 上座中央に座る御前の右掌の上には蛻吉が以前に売った蟲魂があった。
 彼の前に据えられた小机の上には血魍魎の蟲魂が置かれ、黒地に深紅の斑模様が妖しく輝いていた。
「蛻吉。久しいのう。この蟲魂を覚えておるかな?」
「さて?」
 惚けて答えた蛻吉に御前はニヤリと笑い、答えた。
「その方が持参した三つの蟲魂。共喰いさせて生き残ったのがこれよ。よほど業が強いとみえて、今日の日まで生き残ったよ。だが血魍魎の蟲魂とは成らなかった。その方が申しておった蟲魂変わりの果てに血魍魎が得られる。あれは、儂を謀ってのことか?」
「御前様。謀るなど、お人の悪い。いつか得られるかも知れませんぬと申しましたまでのことに御座います」
「商人はこれだから困る」
「申し訳御座いませぬ」
「まぁ良い。だがこれよりは後ろに控え居るあさり共々、当屋敷への出入りは差し止める。求めて止まぬ血魍魎の蟲魂も手に入った。故に、もう蟲魂は不要じゃ」
 御前は手にしていた蟲魂を血魍魎の横に置いた。
 血魍魎の斑が八匹の蛟へと変化し、それらは横の蟲魂を貪り喰った。
 蛻吉たちの目に一瞬、絶叫の悲鳴を上げながら喰われる少女の姿が映り消えた。
 黒い打掛を着て御前の後ろに控える大刀自は、その凄惨な様子を上機嫌な眼差しで見つめ続けた。

『徳兵衛。聞こえるか?』
 蛻吉は告げ口虫を介して徳兵衛に話し掛ける。
『ああ。良く聞こえているよ。そっちもヤバそうな感じだね。声が震えているよ』
『ヤバいも何もあったもんじゃねぇ。御前が生涯かけて集めた蟲魂を全部共喰いさせて生き残った最後の一匹を血魍魎の蟲魂に喰わせちまった。その様子を見て、御前と大刀自の婆さん、上機嫌にヘラヘラ笑って嫌がる。この二人、狂っちまった感じだぜ』
『大刀自様。そのお方ならこちらにもいらっしゃるよ』
『えっ。何で?』
『でも、こちらの大刀自様は、白地に錦繍の打掛をお召だがね』
『どういうことだ?』
『大刀自様。二人いるっていうことかい?』
『…』

「蛻吉よ。その方、蟲魂を持っておらぬのか?」
「御前様。今日は生憎と持参しておりやせん。ですが、もう蟲魂は要らねと仰せで御座いましたぜ。それをまた御所望とは、一体どういう風の吹きまわしで?」
「血魍魎の蟲魂の腹が満たぬ」
「そりゃあ随分と、大食漢なことで御座いますねぇ」
 御前、笑いながら言う。
「その方、また偽りを申したな?」
「はあ?」
「蟲魂を持参しておらぬと」
「はあ?」
「その方の洞にて眠るガサミ色の蟲魂を見過ごすと思うてか?」
「…」
「まぁ良い。左様なる蟲魂では血魍魎の腹は満たぬ。許してつかわそう」
「ありがたき幸せに存じます」
「だが困った。血魍魎にもう少し喰わせねば、我が悲願を叶えられぬ。如何致す?」
「お恐れながらお尋ねしとう御座います。御前様は血魍魎の蟲魂を使って、どのような悲願をお叶え遊ばそうとお考えなんで御座います?」
「儂はな、人に戻りたいのじゃ」
 激痛に顔を歪めて言う御前の身体から、鋭い切っ先を持った虫の脚が現れる。
「その方は、以前に申したな。共喰いの果てに儂が破滅すると」
 更に二本の脚が飛出す。
「力を得る代わりに儂は、人としての己を失って変化した」
 両足が虫の脚に変わると御前の上体は、六本の脚に支えられた立ち上がる。
 変化し始めた御前の姿に大刀自は狂気し、羨望の声で叫んだ。
「おお。春之助。一族の悲願が成るのです」
 御前は顔だけを向けて、喜々とする大刀自へ言った。
「母上。一族の悲願。何を今さら」
 大刀自、御前の一言に戸惑い笑う。
「己の野望のために我が身を使い。さぞ、ご満足されたことでありましょう。ですが、それで何が得られるのですか?」
「ですから。それは、我が大蛟の末裔の悲願。一千年の恨みを晴らし、我が地を取り戻す時が訪れたのです」
「大蛟とは誰です?」
「ご先祖様…」
「左様な輩。我の知るところにありませぬ」
「なっ。何を申すッ」
「これより我は、我の為に生きる。見ず知らずの化け物のためになど生きませぬ」
「戯け者。春之助。乱心致したか?」
「乱心はどちらで御座いますか。我は、己の為に血魍魎の蟲魂を使いまする。人として蘇り、蟲魂の力をもって思うが侭に生きまする」
「そなた。何と言うことを…」
「故に母上。この春之助の為に最後の糧となって下され」
 御前の右腕が虫の脚と変わり、その切っ先は大刀自の胴を貫く。
「我の為に…」
 大刀自の身体を自分の前に置く。
そして御前は、血の溢れる大刀自の傷口に血魍魎の蟲魂を置いた
            *
 白地に錦繍の打掛姿の大刀自は冷たい眼差しで道安を見つめた。
「洞抜きした童は蛻吉殿と日向守だけではあるまい?」
 静かに告げる道安の横顔を、徳兵衛は驚愕を押し隠した眼差しで見た。
「故郷の村へ参る途中、飢饉で全滅した村々で蛻吉殿と同様に洞抜きされて死んだ童たちの亡骸を目にした。どれも同じ手による洞抜きであった」
 大刀自、表情を全く変えず道安を見守る。
「童の数は八人」
「人助けに御座いました。苦しむ童を見るに見兼ねてのこと」
「それでは、洞抜きした童らの蟲魂。作法通りに滅したと申されるか?」
「はい」
「違うであろう?」
「道安殿。何をお疑い遊ばれます?」
「疑う。疑うなど」
「…」
「真実を説いておる」
「真実とは?」
「手にされた童たちの蟲魂、それら全てを春之助の心に喰わせたか?」
            *
 大刀自が喰らい尽した血魍魎の蟲魂を握ると、御前は言った。
「さてと。これを儂が喰らって仕上げじゃ」
 御前は血魍魎の蟲魂を口に入れ、それを一気に呑み込んだ。

『徳兵衛…』
『蛻吉。どうしたんだい?』
『御前。血魍魎の蟲魂を喰っちまった』
『蟲魂って美味しいのかねぇ?』
『お前、美味いかどうかを知ってるだろ』
『あたしが、どうしてそんなことを知ってるんだよ?』
『だってお前、蟲魂を心の洞へしょっちゅう入れてたじゃねぇーか』
『あのねぇ。心の洞に入れるのと、食べるのは全然違うよ。噛んだり、呑み込んだりしないしね。お前さんこそ、一度くらい食べてみたことあるんじゃないのかい』
『食うかよ。あんなもの』

 突然、御前が苦しみ始めた。
 更に二本の脚が生じ、切っ先を持つ前肢は黒く胴体と前肢を繋ぐ後肢は赤と黒の筋斑。八本の脚が接続している胴は深紅に染まって輝いていた。
 胴体から立ち上がる御前の上体は、濃淡の違う蛟色の斑。
 両腕の先は四本に枝別れし、蛟が牙を剥いていた。

『御前が…』
『蛻吉。御前の体が蜘蛛に成っちまった』
『蜘蛛の体?』
『それだけじゃねぇ。身体は蛟色の斑。両腕の先は蛟だぜ』

 御前は、変化を遂げた自分の姿に戸惑い怒りながら叫んだ。
「何故、人間の姿に甦られぬッ」

『徳兵衛よぉ』
『うん?』
『御前はもう人間じゃねぇ。得体のしれない化け物だ』

 御前の怒りは蛻吉へと向けられる。
「蛻吉っ」
 あさり、蟲針を御前へ放つ。
 それらは御前の胴に突き刺さるが身体に呑み込まれた。
「蛻吉さんッ」
 伊織が青斬りを抜き、奥義森羅で四本の脚と胴を撫で斬る。
 だがそれは一瞬遅く、八俣の蛟の毒牙が一斉に蛻吉へと迫った。
            *
「春之助を人に戻すため童心が必要であったのであろう?」
 道安の言葉に大刀自の顔が青褪めた。
「何故、それを?」
「やはり、そうであったか」
「…」
「ふと、昔呼んだ書物にあった禁じ手のことを思い出してな。確かそれは…」
「黄泉戻りの儀式…」
 強張っていた大刀自の顔は、そう言って綻んだ。
「流石に道安先生は博識でいらっしゃいますね。そう。私は、血魍魎の蟲魂を求めるあまり正気を失い、逆に蟲魂に憑りつかれてしまって化け物と成ろうとしている春之助を助け人に戻らせるために童の心を奪ったのです」
「道安先生。黄泉戻りの儀式って何で御座いますか?」
「蟲魂に魅入られて人であることを失った者を助けるための秘儀だよ。施したい者の心の闇に童の心を植え付けることによって人であることを思い出させ、狂った化け物と成ることから救い出すのだよ。だが、この秘儀を執り行うためには…」
「洞抜きをして得た童の命との引き換えとなる」
「左様。そして、秘儀を行った者も代償と報いを受けることになる」
「代償と報い?」
「秘儀を行った人間自身も報いを受けなければならない」
「えっ?」
「代償とは心を奪った童の年の数だけ死ねぬ身体となって生き続ける。儂や大刀自が長寿なのはその為だ」
 道安は力なく笑って続けた。
「長寿を得る事が代償なのかと思うだろ。報いが無ければそうであろう」
 大刀自もまた、道安同様に力なく笑みを漏らす。
「報いはな、生き続ける限り奪った童たちの心の闇を彷徨い苦しみ続けることになる。あの飢饉の時。儂もまた瀕死の童たちを楽に死なせてやりたい一心から童たちの心を奪った」
「道安先生。洞抜きであれば、この私も…」
「そうだな。道安殿も洞抜きを行ったが故に苦しんでおろう?」
 徳兵衛の脳裏に兄の治兵衛の穏やかな笑顔が浮かんだ。
「黄泉戻りの儀式による懊悩の責め苦はその比ではない。人、ひとりの命を奪って蟲魂に狂った業深き者を助けるのだ。罪深く、鬼畜にも劣る所業よ」
 道安は、静かな眼差しで大刀自を見ながら続けた。
「大刀自殿は我が子である春之助を救う為だけに秘儀を使われたが、儂は己の野心と探求心の満足の為に手に入れた童の蟲魂を使った」
 道安と大刀自は見つめ合った。
「だから儂は、今この瞬間でさえ、奪った童たちの心の闇を彷徨い続けておる」
            *
「ぜいきち」
 自分を呼ぶ声に目覚めた蛻吉の目の前に、自分を覗き込んでいる童子の顔があった。
彼はガッと上体を起こす。
そこは、どこか懐かしを感じる座敷だった。
 脇で、黒く日焼けした顔の童子が彼を見つめていた。
「ガザミか?」
「うん。やっと目が覚めたね」
「ここは?」
「覚えてないの?」
「見覚えはあるんだがな」
「蛻吉が生まれた家じゃない」
「ええっ?」
「それでここは、僕も生まれた家」
 ガランとした部屋を見回すが、蛻吉は何も思い出せない。
 ただ郷愁にも似た感覚を覚えるが、彼はそれをどう表現して良いのか分らなかった。
「仕方ないよね。だって、その頃の思い出は全部、僕に移っちゃったもんね」
 蛻吉はガサミをジッと見て言った。
「やっぱりお前は、俺なのか?」
 ガザミ、こっくり頷く。
「僕は蛻吉っ。だから蛻吉を守るんだぁ」
 ガザミはニッコリ笑った。
「でもねぇ。でもねぇ。蛻吉。会えたら僕、解っちゃったんだ」
「何が?」
「僕は僕で、蛻吉は蛻吉。だって僕はガザミだもん」
 ガザミの行っている事は蛻吉にとって意味不明だったが、負の感情は感じなかった。
「僕さぁ。あいつの中にずっと居たじゃん。怖いし、嫌だったんだぁ。それでさぁ、外に出て来ちゃったんだ。外って面白いね。でも怖いよ」
 蛻吉、苦笑。
「化け物と鬼ごっこ。そしたら、蛻吉を救ってくれたおばちゃんの匂いがしたんだぁ」
 蛻吉は懐から、大刀自から渡された匂い袋を出して言った。
「それか?」
「ああ。これ、これ。好きなんだぁ、この香り。だから匂いの方へ行ったら斑猫のお化けに見つかっちゃって。そしたら蛻吉に会えたんだぁ」
「それで俺の懐に飛び込んだのか?」
「うん」
「俺のことが怖くなかったのか?」
「ぜーんぜん。だって蛻吉が僕だって直ぐに判ったもん」
 蛻吉はガザミの頭を撫でた。
「なぁ、ガザミ」
「なぁーに?」
「ここさぁ。何だか居心地が好いな」
「そうだね」
「二人でここに暮らすってどうだ?」
 ガザミはクスッと笑って答えた。
「ダメだよ」
「どうして?」
「だって僕、さっき言ったじゃん」
「?」
「外の方が面白いって」
「そうだな。でもあいつら、何かと面倒くさいぜ」
「だけど面白いよ」
 胡坐をかいた自分の膝の上にガザミを乗せて、蛻吉は言った。
「ちょっと名残惜しい気がするけど帰るか」
「うん。みんな待ってるしね」
 蛻吉は、夏の強い日差しに美しく輝く前庭の光景を目に焼き付けた。
「蛻吉。良い事を教えるね」
「良い事?」
「僕ねぇ。あいつの中にずっと居たから知ってるんだぁ」
「御前の弱点か?」
「うん。あいつ、喉仏が弱点なんだぁ」
「喉仏?」
「蛟って喉仏が無いんだよね」
「そうなのか?」
「でもねぇ。今のあいつには喉仏があるよ」
「それって…」
「僕があいつの中で暮らすよりも前から男の子が居たんだ。その子、喉仏に住んでた」
「友達なのか?」
「違うよ。嫌な奴なんだ。助けてくれなかったし。でもお陰で僕の甲羅が強くなって、周りの景色とも一緒に見えるようになって。生き残れたんだけどね」
「そうか」
「喉仏だよ。一発で仕留めてね」
「任せとけ」
            *
「蛻吉ッ」
 あさり、叫ぶ。
 八匹の蛟たちは蛻吉に噛みく。
 だが蛻吉の全身はガザミ色の固い甲羅で覆われている。
 そして彼の手元から伸びた蟲針の切っ先は、御前の喉仏を正確に貫いていた。
 噛みついていた蛟たちは牙から毒をまき散らしながら蛻吉の身体から離れた。
 蛻吉は蟲針をグリッと回す。
「グッ。ゲェッ」
 呻き声を上げながら御前の身体が傾いた。
「伊織の旦那。止めをッ」
 蛻吉の言葉に即され、伊織は刀を構えると言った。
「無雹。万象」
 御前の斬り裂かれた身体から青い炎が上がり、頭を残して燃え尽きた。
           *
 突然、大刀自が手で口を押えて呻き声を上げながら身体を丸めた。
「大刀自殿ッ」
 大刀自、吐血。
「お、大刀自様…」
 徳兵衛と道安は駆け寄り、彼女の身体を抱き起した。
「ご心配なく。大事御座りませぬ」
 そう言う彼女だったが、髪の毛が白く変わり打掛の色も灰色へと変わった。
「大刀自殿…」
 心配気な道安を見て彼女は答えた。
「春之助が死にました」
「御前が無くなられた?」
「間もなく、春之助はこの屋敷に戻りましょう。でも、あの子の骸を日向守に渡してはなりませぬ」
            *
 蛻吉が元の姿に戻ると、甲羅に覆われた童子姿のガサミが彼の前で倒れていた。
「ガザミ…」
 彼はガザミを抱きかかえる。
「ガザミ。目を覚ませッ」
 だがガザミは目覚めない。
「ガザミッ」
 蛻吉たちの元へ駆けつける、あさりと伊織。
 あさりがガザミの具合を看て蛻吉に言った。
「蛟の毒のせいね」
「ガザミは大丈夫なのか?」
「早く道安先生に診てもらった方が良いわ」
「でも、道安先生は今どこに?」
 伊織に蛻吉が答えた。
「徳兵衛と一緒に日向守の屋敷に居るはずだ」
「日向守の屋敷?」
「大刀自様に会うと言っていた」
「ともかく日向守の屋敷に行くしかないわね」
 青斬りの言葉に頷くと、蛻吉は言った。
「あさり。御前の遺体と灰を集めてくれ」
「どうするの?」
「そいつを持参する約束だろ」
「そうだったわね」
「急ごうぜ」
            *
 日向守屋敷。
 台に載せられている御前の頭と灰を日向守はジッと見つめた。
「父上…」
 彼はそう言って涙を流す。
 そして手を伸ばして父の頭に触れようとした。
 そんな日向守へ、蛻吉は静かに言った。
「殿様。そいつには触れない方が宜しいかと」
「何故だね?」
「毒が強う御座います。早いとこ荼毘に付しちまわれることをお勧めします」
 日向守はニヤッと笑うと言った。
「世迷言を」
 蛻吉の言葉を無視して更に手を近づける日向守を大刀自が制した。
「日向守殿。それに触れてはなりませぬ」
 徳兵衛と道安に支えられた大刀自が部屋に姿を現した。
「大刀自様。如何なされました?」
「それに触れてはなりませぬぞ」
 触れることを諦めた日向守へ蛻吉は言った。
「日向守様。約束通り御前をお届けしました。早いとこ、お金を戴いてお暇させて頂きとう御座います」
「蛻吉。忙しいではないか」
「ガザミの奴を道安先生に診せたいんで御座います」
「道安先生とは?」
「大刀自様の隣にいらっしゃる方で御座いますよ。ガザミの奴、蛟の毒にやられちまって死にそうなんで御座います」
            *
 日向守は道安の顔を見るなり、吐き捨てるように言った。
「あの時のヤブ医者か」
 続いて彼は、大刀自を睨みつけて言った。
「何故、触れてはならぬ?」
 怒りに満ちた日向守。
「先代の骸などに興味はない。欲しい物はこれだけ」
「本来、我自身の一部ではないか」
気迫に押され大刀自、無言。
 日向守は御前の喉仏の辺りに手を当て、小さなガザミ色の蟲魂を押し出して手に取る。
「そ、それは、なりませぬ」
 驚愕する大刀自を嘲笑い、日向守は言った。
「この漆黒の蟲魂は盗まれた己自身。大刀自。左様であろう?」
「…」
「他の八人同様、この蟲魂も先代の心の闇に呑み込まれたと思っていたか。あの闇。恐ろしかったぞ。だが最初の一人であったことが幸いした。奴でも手を出せない場所、喉仏に身を隠し、生き延びた。その後に来たのが、今、そこで死に掛けているガキよ。生憎と喉仏は狭くてのう。蟲魂は一つしか入らない。譲る気も無かったし、何かと気に障る奴だったから追っ払ってな。だが、そ奴ときたら存外しぶとい。強固なガザミ色の鱗を全身に纏うことで奴の心の闇の地獄を生き抜きおった。疎ましくもしぶとい輩よ」
 御前の頭が崩れ落ち、灰の山と化した。
「ご先代。哀れな奴よのう。血魍魎の蟲魂に血迷いさえしなければもっと長生きできたであろうに我慢が足らなんだ。おかげで儂とそのガキを押さえつけていた力が弱まったよ。そのガキは身体の外へ飛び出して行ったが、こいつにはそんな芸当はできない。だが互いに惹かれ合う力で儂はコイツと会話し、先代の束縛から解放する術を模索し続けた。そんな矢先であった。蛻吉よ。その方が先代を焚きつけたのよ」
 蛻吉、眉間に皺を寄せる。
「蟲を共喰いさせれば、いつか血魍魎の蟲魂へ変化するかもとしれぬと。先代は愚かにも、蛻吉の世迷言に惑わされたのう。その方が持参致した瑠璃の虫箱に入れた三匹。あれの共喰いで魅せられたのよ。先代が生涯を掛けて集めた蟲魂たちを屋敷の中に放ち、共喰いをさせた。やがて先代も蟲魂に憑りつかれ、狂い、化け物とへと変化した」
 日向守は、扇子で大刀自を指しながら続ける。
「だが、この中で最も罪深きは大刀自よ。全ての元凶。己の先祖の悲願の成就、己の一族の復讐、己の執着がために我が子を大蛟と化して己の野心を遂げようと致した。己の息子だけでは飽き足らず、儂を初めとする童たちの命を先代に喰わせた」
 大刀自、崩れ落ちるように座り込む。
「私とて。私とて、苦しんだのです」
 わなわなと震える大刀自を道安と伊織が支えた。
「苦しんだ。左様。そうであろうな。苦悩の末、その方は己自身を分離し、嫌悪する自分をこの世に送り出して苦しみから逃れようとした」
「大刀自が分離とは、一体何の事で御座いますよ?」
 日向守、蛻吉を見て言った。
「その方が根津屋敷へ参る際、大刀自と会ったであろう」
「はい」
「その時、大刀自の髪の毛は黒く、打掛は白地であったのではないか?」
「確かに」
「根津の屋敷で遭遇致した大刀自の打掛は異なる色ではなかったか?」
「確かに黒地の打掛を羽織っていたわね」
 あさりの言葉に日向守はニヤリと笑った。
「今、そやつの髪の毛は白く打掛は鼠色。それが本来の姿よ。先祖から背負わされた悲願の成就やら一族の復讐を果さねばならぬ不条理とは別に、そやつの軟な心は化け物と変わる先代を人間に戻したいと願い続けた。矛盾する心はやがて、白と黒の大刀自を己の中に作り互いに牽制し合った。だが一方で黒の大刀自の力は増々強まり、先代の血魍魎の蟲魂に対する執着が芽生えるに至り、大刀自は己の心から黒い大刀自を放り出したのさ。野に放たれた黒い大刀自は先代を大蛟へと変化させることに没頭した。己自身に向き合わず、嫌悪する己を放棄した大刀自の末路がこの結果よ」
 日向守は御前の灰を掬い上げ、掌のそれを元の場所へ流し落とした。
「さて。もう終いと致そう。儂はな…」
 もう片方の手に載せた漆黒の蟲魂を日向守は繁々と見つめる。
「それは、それだけは成りませぬ」
「大刀自よ。もう遅い。儂は先代の力と共に我自身を取り戻す」
 日向守は漆黒の蟲魂を口に入れ、呑み込んだ。
 その時、御前の灰に異変が起きた。
灰は集まり、盛り上がり、やがて日向守の前に御前の姿となった立ちはだかる。
「盗人よ。その蟲魂は我がもの。返せッ」
「う、うわっ…」
 灰が日向守の全身を包む。
 その中でもがき苦しむ日向守。
 やかで動きは止まり、日向守に代わって姿を現したのは大蛟と化した御前だった。
「あと一つ」
 そう言って御前は、蛻吉に抱かれるガサミを見た。
「蛻吉。ガザミを貰おうか」
 蛻吉、御前をキッと睨むや言った。
「こいつは俺なんでね。渡せと言われてはいそうですかと言えないんでさ。お殿様」
「それならば仕方がない。その方を殺して奪うまでのことよ」
 突然目覚めたガザミは蛻吉の懐に飛び込むと、彼の心の洞へ入った。
「ガザミ。無理すんじゃねぇ」
 ガザミの鱗が蛻吉の全身を覆う。
「愚か者が。日向守の若い身体を得た儂の力、以前の比ではないぞ。左様なる鱗など突き破ってくれよう」
 御前の前肢の切っ先がガザミの鱗を貫く。
 更には、八匹の蛟の牙も鱗に深く食い込んだ。
「蛻吉ッ」
 あさりが叫ぶ。
「おやっ?」
 徳兵衛は蛻吉の全身に始まった異変に気づいて声を上げた。
 深々と喰い込んだ毒牙と鱗を貫いたかに見えた前肢に罅が走る。
「うぐっ」
 呻く、御前。
 前肢と毒牙が砕け、血が四散する。
「一体。何が起きたんだい?」
 徳兵衛が目を見張る先に居る蛻吉を覆う鱗が、ボロボロと落ち始めた。
「これは、翡翠魂…」
 蛻吉の全身が翡翠色に輝く。
            *
「あれは翡翠魂ではないか…」
 そう呟く道安を見て徳兵衛は言った。
「道安先生。鎮めの蟲魂と言い伝わっている翡翠色の蟲魂で御座いますか?」
「そうだ。荒ぶる全てを鎮める蟲魂。あの姿ならば大蛟を倒せよう」
「蛻吉殿。大蛟の背に乗るのです」
 言い終えようとした瞬間、大刀自の身体は御前の前肢によって払い飛ばされる。
            *
 大刀自に駆け寄り、彼女を抱き起す道安。
「大刀自殿。しっかり致されよ」
「道安さま…」
 薄目を開けた大刀自は続けて言った。
「大蛟を倒すには伊織殿の力が要りまする」
「私の力が必要?」
 駆け付けた伊織が道安に尋ねた。
「青斬りで一刀両断する以外に大蛟を倒す手立ては無いのです」

「えっ。やっぱりそうなの?」
 伊織の脇で控えていた青斬りが不満気に言った。
「奥義で大蛟の動きを完全に止め、その隙に一刀両断するのです」
「えーっ。でも一刀両断。それは避けたいなぁ」
 青斬り、モジモジ。
「青斬りさん。そんなことを言っている場合じゃありません」
「一刀両断って簡単に言うけど、かなり消耗するのよ。刃だってボロボロになるし。何よりもあたしの美貌が台無し。それどころか、顔も身体も老け込んじゃうの。だからそんな事を言わないで欲しいって大刀自にお願いしてよ」
「青斬りさん。もう時間が無いんですよ」
「でも…」
「何を心配なさってるのですか?」
「ボロボロとなった体を見せたくないの」
「どうして?」
「伊織に嫌わるから」
 伊織、苦笑。
「嫌いませんよ」
「うそ」
「嘘じゃありません」
「…」
「どんな姿容となろうとも、あなたが青斬りさんであることに変わりないですから」
「伊織」
「さぁ。行きましょう。そして無地に戻ってきましょう」
            *
 伊織、刀を構える。
「奥義。無雹。森羅万象」
 静止。
 一瞬の虚をついて伊織が大蛟を一刀両断した。
 断末魔の叫び。
 御前の身体から青い炎を発し、立ち昇る炎の中で御前は消滅した。
            *
「青斬りさん。終わりましたね」
 満身創痍な老女となった青斬りへ、伊織は普段と変わりなく話しかける。
「こんな姿を見られたくなかったわ」
 伊織、にっこり笑って彼女に言う。
「カッコイイですよ、青斬りさん。惚れ直してしまいました」
「何言ってるの」
 青斬りもまた、笑う。
「伊織。お願いがあるんだけど」
「何ですか?」
「あたしを丹波の神滝へ連れてって」
「はい。わかりました」
 伊織は青斬りを鞘に納めた。
            *
「大刀自殿」
 道安の声に大刀自は薄目を開けた。
「大刀自殿。大蛟は倒しましたぞ」
「良かった…」
「気を確かになされ。今、手当致す」
「道安先生」
「うん?」
「春之助を助けることが出来ませんでした」
「もう何も話されるな。傷に障る」
「結局、誰一人救い出せなかった」
「そんなことはないぞ。あれを見なされ」
 蛻吉に抱かれて眠るガザミを道安は指した。
「あの子は助かりましたぞ」
 大刀自の眦から涙が一滴溢れた。
「良かった」
蛻吉は腰を下ろし、ガザミの安らかな寝顔を大刀自に見せる。
大刀自は震える手を伸ばし、ガザミの手を握った。
「温い手」
 そして道安を見つめて大刀自は言った。
「何もかも。これでお終いにすることが出来ますね」
 そう言い残すと、彼女はこと切れた。
            *
 三日後。

『道安先生、危篤』

知らせを受取って徳兵衛は駆け付けた。
「道安先生」
「とくべえさん…」
 徳兵衛は道安の手を握った。
「もう。いいや。やっと逝けるよ」
「そんな」
「大刀自殿の後にも追いつけそうだ」
 道安、穏やかに微笑む。
「あさりさんへ渡しておくれ」
 道安は細長い文箱を徳兵衛に渡した。
「これは、あさりさんにしか出来ない仕事だと言っておくれ」
 そう言い終えて、道安は生涯の幕を閉じた。
            *
 丹波国、月生の里。
 神滝。
「随分と静かな滝になりましたね」
 滝を見上げる伊織の傍らに青斬りが姿を現す。
「そうね。あたしが居ないとこうなっちゃうのよね」
 神滝を見上げる青斬りの顔の傷は癒えず、老婆の横顔だった。
「何見てんのよ」
「痛々しいなぁと…」
「だから言ったでしょ。あいつと戦うとこうなるから嫌なの」
「大蛟は倒せたのでしょうか?」
「さぁね。止めを刺した積りだけど、今回も生き残ったかな」
「えっ?」
「あたしがこうして存在してるんだもの。いつかきっと、どこかに現れるわよ」
伊織、複雑な面持ち。
 青斬りは、帯を解いて全裸となる。
 満身創痍な背中。
彼女は酷く年老いて見えた。
伊織は彼女の両肩に優しく手を置く。
 そして彼女を優しく背中から抱いた。
「青斬りさんを、もうこんな目に遭わせたくない」
「心配してくれてるのね」
「もう、戦わせない」
 青斬りは穏やかに微笑んで言った。
「ありがとう」
 彼女は伊織の手を握る。
「あたしは大丈夫よ。刀を渡して」
「えっ?」
「腰の刀」
 鞘ごと刀を抜き取り、伊織はそれを彼女へ渡した。
「ちょっと待ってて」
 青斬りは両手で刀を抱えるように持って滝壺へ進む。
 やがて彼女の身体が消えて水面を刀だけが移動する。
 そして刀は、滝壺に消えた。
「青斬りさん…」
 その時、異変が起きた。
 それまで細かった滝の水量が増し、天空が瀑布の水蒸気で煙る。
 神滝にかつてのような天水が滔々と降り注ぐ。
 煌々の輝き。
 水面の静止。
 傷が癒えて元の姿に戻った青斬りは、刀を抱えて水面に姿を現した。
「青斬りさん」
 全裸の彼女は伊織に前に立つと、刀を彼へ差し出した。
「綺麗?」
 伊織、無言で頷く。
「ありがとう。でも、ジロジロ見過ぎよ」
 彼は彼女を抱締めた。
「…」
「だから。大丈夫って言ったじゃない」
「もう。絶対に離れませんよ」
「伊織の後釜が出来るまで離れられないから大丈夫」
「うん」
「子供ね」
「…」
「千年一緒に居たら飽きるわよ」
「飽きない」
 伊織、青斬りを一層強く抱きしめた。
「伊織」
「うん?」
「二人で旅に出ましょう」
「旅?」
「あたし、ここに千年居たでしょう。外を見てみたいのよ」
「いいよ。青斬り、行こう」
 彼女は伊織の顔を嬉しそうに見て言った。
「青斬りって、初めて呼んでくれたわね」
            *
 大和国、日向の里。
 あさりの祖母、あさきの墓前。
「おばあちゃん。来たよ」
 あさりは、祖母の墓に道安の遺髪を置いた。
「おばあちゃんと道安先生が若い時に恋仲だったなんて吃驚したわよ」
 あさり、クスッと笑う。
            *
 一ヶ月前。
 泉州屋の離れ。
 蛻吉とあさりは、徳兵衛に招かれてお勢の手料理を食べていた。
「徳兵衛。お勢さんは?」
「眠っちゃったよ。蛻吉にさ、美味しいって褒めれて嬉しかったみたいだよ。ホッとしたんだろうね。先に休むってさ」
「そうねぇ。以前に比べたら、お勢さんの腕前、少し上がったかな」
「こら。あさり。お勢が聞いたら気を悪くするようなことを言うんじゃないよ」
 三人、笑う。
「そう言えば道安先生から、あさりへって預り物をしているんだよ」
 徳兵衛は細長い箱をあさりの前に置いた。
 彼女が蓋を開けると、中に遺髪と手紙が入っている。
「道安先生のご遺髪だよ。覚悟しておられたんだねぇ」
 あさりは道安からの手紙を読み始めた。
「えっ。道安先生とおばあちゃんが?」
 あさりは動揺し、彼女に脳裏に祖母の声が過った。

『お前と同じ。あたしも、若い時に好きになったお人が里の外に居たからね』

 …おばあちゃんの想い人って、道安先生だったんだ…
 あさりは道安の遺髪を手に取って見た。
「あさり。手紙には何て書いてあったんだい?」
「道安先生。おばあゃんと恋仲だったんだって」
「おや。その事かい」
「知ってたの?」
 あさりへの手紙を蛻吉が読み始めた。
「先生から何となく経緯を聞かされてね」
「へぇー。二人の道行。道安先生も中々なるねぇ」
 蛻吉の隣で眠っていたガザミが目を覚まし手紙を見ようとした。
「こらっ。子供が読むもんじゃねぇ」
 ガザミは口を尖らせると翡翠魂へ変化し、蛻吉の懐に飛び込んだ。
「あさき婆っちゃまの墓に遺髪を供えて欲しいと、道安先生の手紙に書いてあるぜ」
「どうするんだい、あさり?」

 あさりの脳裏にあさきの笑顔が映る。
『でもね、今日は晴れ晴れしく、とても嬉しいんだよ。だって、あたしの一番可愛い孫娘のお前が、ご先祖が望みながらも叶えられなかったことを成し遂げるんだからね。これより以上に嬉しいことなんて他にあるかい?』
『本当に好いの?』
『行っといで。だけど、これだけ忘れないでおくれ』

 あさきの墓前で手を合わせるあさりの鼻を線香の煙が擽る。
 離れていた歳月を忘れてしまうほど、久しぶりの帰郷だった。
 あさりは背後に人の気配を感じる。
 彼女が身構えるより先に、気配の主の声が彼女の元へ届いた。
「あさりさん?」
「えっ?」
 振り向いた先の男は、あさりに花束を持った手を振って見せた。
 男は小走りして彼女の元へ向かう。
「やっぱり。あさりさんだ」
「…」
「戻って来られたんですね」
「あなた。山上の佐平治さん?」
「覚えていてくれたんですね。嬉しいな。忘れられてるかと思いましたよ」
 無邪気に喜んでいた佐平治だったが、ふと怪訝な面持ちに変わる。
「どうしたの?」
「確かに、あさりさんですよね」
「ええ。あさりです」
 佐平治の表情から怪訝さは消えない。
「おかしいなぁ」
「何が?」
「いつもだったら私を嫌ってどこかへ行ってしまわれるのに…」
「?」
「でも今日は嫌われてないみたいですし、機嫌も良い」
 純粋に困惑している佐平治の表情を見て、あさりは思わず吹き出して笑った。
「えっ。ええ。やっぱり機嫌を損ねました?」
 あさりは無邪気に佐平治を叩きながら言った。
「そうじゃないの。でも、佐平治さんが可愛くて…」
「えっ。あさりさん。今、何て言いました?」
「だから、佐平治さんが…」
 佐平治、ちょっと涙目。
「えっ。どうかした?」
「だって。今日、初めて、私のことを佐平治って呼んでくれました」
 子供のような佐平治を見て、自分の心が軽くなるのをあさりは感じた。
「ちょっと。佐平治さん。泣かないで」
「嬉しいんです。大好きなあさりさんから、名前を呼んでもらえて」
「涙拭いて」
 あさり、手拭いで佐平治の涙を拭いてやる。
「私はずっと、あさりさんに嫌われていると思っていたから悲しかった。でも、そうではないと判りました。その上、名前で呼んでくれて。嬉しいです」
「佐平治さん。誤解しているわ」
「誤解、ですか?」
「あたし、あなたの事を嫌ったことは一度も無いのよ」
「でも、いつも避けておられた」
「それはね。でも嫌いだからじゃないの」
「嫌いじゃない?」
「ええ」
「でも…」
「だってあたしたち、嫌いになれるほど親しくないじゃない」
「でも、私はあさりさんを…」
「あなたがあたしを好きな事は知ってる。でも、あたしはあなたの事を何も知らない」
 佐平治、ハッとした表情になる。
「そうですよね…」
 落ち込む佐平治の顔を見るあさりの脳裏に、祖母の声が響く。

『あさりは一人じゃないし、帰ることができる場所があるんだよ』

 項垂れる佐平治の肩を両手で持ち、あさりは彼に言った。
「佐平治さんだってあたしのこと、本当は知らないでしょ」
 見つめ合う二人。
「今からだって、お互いに分かり合って行けるんじゃない?」
 佐平治の表情がパッと晴れる。
「これからあたしたち、時間をかけてゆっくり知り合っていかない?」
「あさりさーーーーんッ」
            *
 徳兵衛が店に戻って来た時、中庭で息子の与兵衛が兄の治兵衛の息子の嘉右衛門と遊んでいた。
 廊下の袖から仲良く遊ぶ二人の姿を見ていると、お勢が徳兵衛に話し掛けた。
「旦那様。お戻りになられましたか?」
「つい今しがたね」
「いとこ同士。仲が良い二人ですね」
「兄様が来ているのか?」
「ええ。書庫でお待ちですよ」
 兄が書庫でまっていると聞いて、徳兵衛は胸騒ぎを覚えた。
「どうかなさいました?」
「いいや。気にしなくて良いよ」
            *
 部屋の入口に立った時、徳兵衛は震撼させられる。
 道安から譲り受けた治兵衛の童心の蟲魂を、兄本人が手に取っていたからだった。
「あにさん…」
 治兵衛は、静かに徳兵衛の顔を見つめた。
 徳兵衛は、兄の掌の上にある蟲魂を凝視する。
 穏やかに笑うと治兵衛は、弟に言った。
「心配のようだね」
 兄を見守り続ける徳兵衛。
「心配なのは蟲魂かい。それとも私かい?」
 治兵衛は棚の小皿にその蟲魂を乗せる。
 そして手燭から火のついた蝋燭を外し、蟲魂に近づけた。
「あにさん…」
 蟲魂が燃え、青と赤の混じった炎がメラメラと燃え上がる。
 やがて蟲魂は燃え尽き、跡形もなく消滅した。
「お前には黙っていたけど、私だって多少なら蟲魂を触れるんだよ」
「いつからです?」
「皮肉な話でね。お前に心を抜かれてから少しは触れるようになったみたいだ。野心が抜けてしまって気持ちが素直になったのかもしれないな」
 治兵衛、苦笑。
「私の命を助けたばかりに共に過ごした三十年の間、お前を苦しめてしまったんだな」
「あたしは、あにさんの本当を…」
「奪ってしまったと思っているのかい?」
「…」
「それは違うよ。あの時、わたしは心底から生きたいと思った。そんな瞬間、お前が捨身で手を伸ばしてくれた。わたしはあそこで一度死んで、生まれ直したのさ。それに三十年だよ。失った記憶は曖昧な幼少期の記憶を含めて十年。もう、その三倍も生きて来た。しかも徳兵衛、お前やお前の家族たちと共にね。今、この時の自分が私なんだよ。これからも生き続ける限りの自分が本当の私なのさ。だから、あの蟲魂は必要ない。でも徳兵衛、お前には始末できないだろう。あの蟲魂をどうこうできるのは、私一人だからね。だからきれいサッパリと、徳兵衛が見ている前で燃やすことにしたんだよ。そうすることで、大事な弟を助けてやれるからね」
 徳兵衛が何かを言おうとした時、与兵衛と嘉右衛門が書庫に顔を覗かせた。
「どうしたんだい、嘉右衛門?」
「晩御飯の支度ができたって。与兵衛のおっかさんが父ちゃんたちを呼んで来てって」
「父様。早く来て、来て」
 与兵衛がそう言うと何が楽しいのか二人はじゃれ合い、居間へと戻って行った。
「徳兵衛。私たち二人のつまらない兄弟喧嘩を、あの子たちにまで背負わせちゃいけないと思うだろ?」
 徳兵衛は笑って頷いた。
「さあ。待たせちゃいけないから、早く行こう。お勢さんが丹精込めて作ってくれた料理が冷めちまっては申し訳ない。早く行こう」
 腰の重い徳兵衛を振り返って、治兵衛は弟を見ながら首を捻った。
「徳兵衛。どうしたよ?」
「あにさん」
「うん?」
「お勢の手料理なんですが」
「うん」
「お世辞抜きに味の方はどうなんです?」
「美味しいよ」
 徳兵衛は、真顔で答える治兵衛に嘘や誤魔化しを一切感じなかった。
 …やっはり俺は、あにさんに勝てないな…
 徳兵衛は、廊下を嬉々として先を行く治兵衛の後ろ姿を見ながら思った。
            *
 蛻吉、旅立ちの日。
 …まったく。ガザミの奴。どこへ行きやがった…
 泉州屋の無駄に広い屋敷の中を蛻吉はガザミを探して歩き回った。
            *
 裏庭の井戸の前。
 井戸を背にしてガザミと与兵衛は並んで座って話しをしている。
「お前。名前なんて言うんだ?」
「ガサミ」
「変な名前だなぁ。でも好いや。俺は与兵衛」
「よへえ?」
「うん」
「蛻吉おじさんの子か?」
「違うよ。ぼくも蛻吉」
 与兵衛は首を傾げ、キョトン顔でガザミを見つめた。
「まあ、好いや。ガサミ。お前、肌白いな」
「うん。白い」
「俺と同じだな」
「ぼくの方が白いよ」
「比べっこするぞ」
 二人が腕を並べて肌の白さを競っているところへ、お里が現れた。
「何してるの?」
 お里、ガザミを見つめる。
「この子、誰?」
 お里はガザミを指さしながら、与兵衛に尋ねた。
「ガザミ。お里。人を指さしちゃいけないんだぞ」
 お里、ふくれっ面。
「おさと?」
「従妹」
「いとこ?」
「治兵衛叔父さんの従弟の嘉右衛門の妹」
「ふーん」
 ガザミ、生返事。
「お里。俺とガザミ。どっちが色白い?」
 お里がガザミを指す。
今度は与兵衛がふくれっ面
 お里はガザミの隣に座ると、彼の腕に抱き着いた。
            *
 …ガザミの奴。あんなところに居やがったか…
 蛻吉は、一歩踏み出そうとして肩を掴まれ制止される。
「なんだ。徳兵衛かよ」
「もう少し、あの子たちで遊ばせておやりよ。どうせ急がないんだろ」
 蛻吉、苦笑。
「ガサミの奴には随分と優しいじゃねぇーか」
「あたしはいつだって、誰に対しても優しいよ」
「嘘つけ」
 蛻吉、苦笑。
「ところで徳兵衛よ。治兵衛さん、例の蟲魂を燃やしちまったんだってな」
「自分にしか出来ない始末だって言ってね」
「治兵衛さんの弟思いの優しさは本物だったみたいだな」
「自分を取戻した日向守様の狂気は道安先生のお見立て通りだったけど、あにさんへんそれは杞憂で終わったよ」
「本当に杞憂だったのかい?」
「あにさんは蟲魂に触り、全てを承知していたよ」
「そうか」
 蛻吉は徳兵衛の表情から、以前のような笑みの奥底に隠した強張りが無くなっていると感じた。
「ガザミ。うちの子と一緒に面倒見ても良いんだよ」
「えっ?」
 意外な申し出に蛻吉は、徳兵衛の表情を窺った。
「一緒に暮らすと抜き差しならない時が来るんじゃないかと心配でね」
「…」
「与兵衛とも仲良くなったみたいだしさ」
 蛻吉は穏やかな眼差しでガザミを見ると、彼へ声を掛けた。
「ガザミ」
「あっ。蛻吉」
 ガサミは駆け寄り、蛻吉の腰に抱き着いた。
「そろそろ行くぞ」
 頷く、ガザミ。
 蛻吉はガサミの頭を撫でながら徳兵衛に言った。
「俺とガサミは一緒の方が良いのさ」
「?」
「俺は俺。ガサミはガザミ。それがコイツと交わした約束だからさ」
 徳兵衛はガサミを見て言った。
「そうかい。そうだね」
「ああ。そうさ」
 得心した顔で蛻吉を見ながら、徳兵衛は言った。
「二人の人生は、これから始まるんだねぇ」


(END)
(次回アップ予定:2021.10.4)

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