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蟲魂2 -ガザミ(中編「蔵の中」)-

 蛻吉たちは、根津の御前屋敷の表玄関の前に立っていた。
「随分すんなりと入れたわねぇ…」
 あさり、ちょっと拍子抜けの表情。
「入れたより、入れてくれたって言う方が近いと思うぜ」
 蛻吉、ニヤニヤ。
「とんでもないお化けが、入って来る人間を待ち構えてるということでしょうか?」
 伊織、にこやかに笑っているが腰が引け気味。
 ガザミ、蛻吉の懐の中で遊ぶ。
「まぁ兎も角、中へ入らない事には始らないぜ」
「そうね。行きましょう」
 二、三歩歩み出した蛻吉とあさり、ふと足を止めて振り向く。
「伊織様。どうかなさいましたかい?」
 伊織、モジモジ。
「入らないといけませんか?」
「そりゃぁー、お仕事ですもの。伊織様っ」
 そう言いながら、あさりは伊織の隣に立つと腕に抱き着いて言った。
「大丈夫、伊織様。あたしが、ちゃんと守ってあげますから」
「あさり殿。誠か?」
「もう。あさりって呼び捨てにしましょう。あたしも、伊織って呼んじゃって良い?」
「あっ。は、はは。構わぬでござるよ」
「やったぁ。伊織。行くわよ」
 あさり、伊織を引っ張って前へ。
 そんな二人を蛻吉は、呆れ顔で見送る。
 そして彼は、懐のガザミを撫でながら言った。
「ガザミ。俺から離れるなよ」
            *
「本当に誰も居ないって感じねぇ…」
 あさり、ちょっと嬉しそうにひと言。
「まぁ。奥へ行こうぜ」
            *
 畳廊下の先、左に折れた角の陰に潜んでこちらを見ている子供に蛻吉は気づいた。
 …あれ、あのガキ…
 その子は、蔵の中で折檻される女を覗き見ていた男の子だった。
 子供は蛻吉と目が合うと、顔を引っ込めて隠れた。
「こっちだ。行くぞ」
 そう言って振り向いた蛻吉だったが、視線の先に伊織とあさりの姿は無かった。
 …まったく。何処へ行きやがった…
 仕方なく蛻吉は、懐のガザミと例の男の子の後を追った。
            *
「ははうえ…」
 その子は、物陰から蔵の中の様子を見つめながら呟いた。
 …あの子だ…
 蝋燭が揺れる度、女の声が響く。
 蛻吉もまた、男の子と責められる女とを交互に隠れ見続ける。
            *
「まったく。蛻吉のやつ、どこに消えちゃったのよ」
 あさりは蛻吉を探し疲れて床の間に腰を下ろして言った。
「見つかりませんね。少し休みましょう」
 伊織はそう言って彼女の隣に腰を下ろした。
 そして腰につけていた瓢箪を彼女に渡した。
「水です。如何ですか?」
「ありがとう」
 彼女は受取り、それを飲んだ。
「はぁ。ホッとする」
 そう言って笑みを漏らす彼女につられて、伊織も笑った。
「あさりさん。蛻吉さんや徳兵衛さんとは何時から?」
「何時からかしら。子供の頃からだから、結構長いわね」
「へえー」
「子供の頃のある時期、あたしと徳兵衛、蛻吉の三人は山奥にある蟲魂売りの住む村で一緒に過ごしていたの。あたしの家はその村の庄屋で、あたしは跡取り娘。徳兵衛は江戸で名の知れた札差の跡取り息子。お爺さん、お父さんと徳兵衛の三代に亘っての蟲魂集めの道楽者でね、あたしの家とは先々代のころから付き合いがあってね。徳兵衛って子供の頃は身体が弱くて、親が心配してあたし達の村で過ごすことになったの。田舎のほうが元気なれるとお医者様が進めたみたい。それでウチで預かったんだけど、お爺さんやお父さんにしてみれば口実だったのね。息子の様子を見に行くと言っては、蟲魂探しに夢中で息子の健康どころじゃなかったわよ。お陰であたし達三人は放ったらからされたから三人で毎日、好き勝手に遊び回ってわ」
「ふーん」
「徳兵衛は一年で江戸に戻って、あたしと蛻吉は蟲魂取りの修行。だから三人で過ごしたあの一年間が、一番楽しかった時期ね」
「ぜいきちさん。珍しい名前ですが平仮名ですか?」
「いいえ。漢字なの。こんな字よ」
 あさりは蛻吉の名前を畳の上でなぞって見せた。
「蛻。抜け殻のこと?」
「そう。蝉とか虫の抜け殻のこと。変な名前でしょう?」
「変わってるますね」
「名は体を表すっていうじゃない。だから蛻はあの子そのものなのよ。蛻吉は、あたしの生まれた村の出じゃないの。あの子は幼い頃に人買いに誘拐されて、蛻吉の今のお父さんに買われたのよ。蛻吉の家は村に古くから続く蟲魂売りの家なんだけど、後を継ぐ子に恵まれなかった。それで蛻吉を買って跡取りにしたわけ」
「へえー。でもそれと、蛻吉さんの名前にどんな関係があるんですか?」
「蟲魂売りの家には、それぞれ独特の流儀があるのよ。例えば、ウチは蟲釣りの系統。蟲を餌にして蟲魂を取るやり方。蟲って、人の心の闇の他に昆虫を食べるのよ。食べる昆虫の特性が蟲魂の変化や能力に出るのはそのせいだって言われてる。だからあたしは、昆虫の遣い手でもあるの」
 あさり、ドヤ顔。
「あさりさんの名前にも由来が?」
「海にいる貝を思わせる名前だけど違うの。昆虫や蟲をあされるようにって。代々の跡取りが継ぐ名前でね、だからもし、あたしが男の子だったら『あさる』って名前だったわ」
 伊織、笑いを堪える。
「カッコ悪い名前よね」
「それで、蛻吉殿は?」
「あぁ。蛻吉の家は虫籠遣いの系統。虫籠を罠として使う家柄なのよ。蟲魂が好きな匂いで蟲魂を心の中から誘き寄せ、朱色の虫籠を使って獲る。でもね、蟲魂が強いと朱色の虫籠で歯が立たなくて。その時は、『洞蟲籠(うろむしかご)』って特殊な虫籠を使うのよ」
「うろむしかご?」
「人の心の洞を虫籠みたいに使って蟲魂を取るのよ」
「そんなことが可能なんですか?」
「蛻吉の養父の血族たちって、生まれながらにして心の中に洞を持っている稀な一族なの。だからそんな事が可能なのね」
「でもそれって?」
「そう。蟲魂取り自身が餌となっておびき寄せ、洞に蟲魂を封じ込めて獲る」
「…」
「ある意味、究極の技ね。それだけに危険も多い。洞に封じ込んだのは良いけど、力が弱ければ、喰らい尽されて命を落とす。物凄い大物を得られる機会も増えるけど、命を落とす確率も高くなる。現に蛻吉の家の血族は蛻吉の養父を覗いて全て死に絶えてしまったわ。だから蛻吉の養父は代々の流儀を継がせるために蛻吉を買ったのよ」
「でも蛻吉さんの心に洞は無いでしょう?」
「そう。だから買い取った蛻吉の童心を抜き取って、心の中に洞を作ったのよ」
「バカな。そんなことをしたら死んでしまう」
「普通ならね。でも蛻吉は生き残った。伝説的な蟲魂取りとなって、今も生き残っている。童心を奪われたから、かえって生き残れたのかも知れないわ」
 あさり、虚ろに宙を見つめる。
「だからね、蛻吉って人の感情が理解できないところがあるのよ。特に愛かな。親子の情愛とか、慈愛とか、無償の愛とかね。そんな風に聞くと、冷血極まりないように思うかもしれないけど、そうじゃない。むしろ逆で、凄く優しいところがあるのよ。あたしも徳兵衛も、蛻吉のそんなところをよく解かっているから付き合いが続いている。イラっとさせられるし、誤解されやすい人だけど、伊織っち、我慢して付き合ってあげてね」
「い、伊織っち?」
「そう呼んじゃ、ダメ?」
「…」
「伊織っち。可愛い」
            *
「ははうえ…」
 蛻吉は、そう言い続ける男の子の眼差しを理解することができなかった。
 それは母が苛まれる姿を見て自然と湧く恐怖や不安では無かった。
 また母を苛み続ける傍らの男に対する憎悪とも違った。
 母への暴力を止められない己の無力さに対する絶望でも無い。
 成す術も無く途方暮れた悲嘆でも無力さとも違う。
 苦しみ、悶える母に対する嫌悪でも無い。
 …何だ。あの子の眼差しは…
 多くの心の闇を覗き、そこに根差した負の感情を見続けて来た蛻吉にとって、その男の子の眼差しはこの上ない好奇心をそそった。
 男の女に対する罵りが蛻吉の耳を覆う。
「うぬが。下賤の輩が。まだ、解らぬかッ」
 鞭打つ音が響く。
 女は悲鳴を上げない。
 ただ呻き、自分を責める男を時折見つめるだけ。
「強情な。声を上げぬかッ」
 鞭打つ音は、さらに大きく激しく続く。
「叫べっ」
「…」
「悲鳴を上げよ」
「あぁう…」
「儂に許しを乞えっ」
 太い天井の梁から吊り下げられた女の身体がゆっくりと回転する。
 そして和蝋燭の灯火に照らされた彼女の顔が蛻吉に向き合った時、彼は眉間に皺寄せた。
 …快楽。苦痛の悦びなのか…
 女の顔は苦痛で歪がみはしていたが、弛緩の笑みで満ちている。
 女の身体はゆっくり回っていたから彼女の表情を蛻吉が捉えたのはほんの一瞬のことではあったけれども、彼は確かに女の表情中に苦痛ではなく歓びが潜んでいることを感じた。
 再び蛻吉が男の子の眼差しを見た時、攻め苛められる母親の姿を食い入るように見つめている男の子の眼差しの中に彼は、母親と同じものを見た。
 蛻吉の中に男の子への好奇心が一層沸き立つ。
 …あの子の心を覗いてみたい…
 好奇心に負けて蛻吉が歩み出そうとした時、懐の中のガザミがソワソワ騒ぎ出す。
「ガザミ。大丈夫だ」
 蛻吉は、着物の上からガザミを撫でながら小声で言った。
 鞭打つ音と呻き声は続く。
 蛻吉は気配を消して、その場から男の子の背後へと移動した。
            *
「伊織っちって、生まれはどこなの?」
 あさりは並んで歩いている伊織に訊いた。
「生国は丹波です」
「あら。京の都の近くね」
「いやいや。播州と丹後との境近くの山深き村の生まれですよ」
 伊織、ハニカミながら笑う。
「京の都に近い場所には、伊織っちみたいな好い男が多いのね…」
 あさり、うっとり。
「そんなことは…」
 伊織、満更でもない。
「日向守様のお家に代々お仕えなんでしょうね?」
「いいえ」
「違うの?」
「殿より仕官をしないかと誘われました」
「へぇー。意外」
「遠縁の者が殿にお仕えしていた関係で、殿にお目通りする機会があって」
「そうなんだ。きっと優秀なんですね」
 伊織、ふっと笑いを漏らして言う。
「まさか。才覚など無いし、まして腕っぷしが強いように見えますか?」
 華奢で小柄な彼の姿を見て、あさりは納得したように言った。
「才覚の方は判りませんけど、確かに腕っぷしはねぇ…」
「それは少し言い過ぎではないか?」
「あらっ」
 二人、顔を見合わせて笑う。
 笑顔の伊織は美しく、あさりは思わず見とれてしまう。
「あさり?」
「…」
「顔に何か付いているか?」
「素敵ッ」
 伊織、溜息。
「矢張りそこか」
「えっ」
「顔の話です」
「?」
「仕官が決まったのは、この面相のお陰でして」
「えっ。まさか日向守様って若衆の御趣味が?」
「殿にその手の御嗜好はない」
「じゃあ、どうして?」
「当節。見目麗しく若い家臣を側に置くのが流行らしく、競ってるくらいです」
「そうなんですか?」
「泰平の世が続いていると言うことさ」
            *
 女の表情は歪んだ悦楽と歓びで満ち溢れている。
 …間違えねぇ。あの女、責められて興奮する性質でいやがる…
 蛻吉、笑み。
 …おやおや…
 鞭を持って傍らに立つ男を見て、蛻吉の笑みが重なる。
 …殿様も興奮されておられる…
 白い寝間着姿ながら、男の股間が頑なっているのは明らかだった。
 …殿様。随分とご立派でいらっしゃる…
 男の女の全身から汗が吹き出て、男が鞭を振るう度にそれが飛び散る。その内の数滴が蛻吉の足元に届いた時、彼は嫌な顔をした。
 …ちぇっ。汚ねえなぁ。早いとこ坊主の心を覗いて去るとすっか…
 蛻吉は、目の前にいる男の子へ手を伸ばした。
            *
 物陰に立ち、何かを掴もうと手を伸ばしている蛻吉に迫る大蜘蛛。
 8本の長い肢を縦横に伸ばして身体を固定し、巧みに糸を投げかけて蛻吉の動きを封じていく。
 意識が完全に違う世界へと飛んでいるのか、蛻吉は背後の敵に気づいていない。
 大蜘蛛はゆっくり動き、蛻吉の背後にピタリと迫ると毒を蓄えた鋭い針を先端に備えた二本の顎を慎重に伸ばした。
 その切っ先は、蛻吉の首元へ迫る。
            *
 蛻吉が男の子の頭に触れた瞬間、目の前の光景が変わった。
 歪む景色。
 淫靡で生温かい空気。
 心ならずも昂揚が蛻吉の全身を貫く。
「春之助。心に刻むのです」
 女の声。
「ははうえ。怖い…」
「怖い。それだけですか?」
「父上が憎い」
「春之助」
「はい」
「まだ、己を偽っていますね」
 母と子のやり取りを見ていた蛻吉は一瞬、吐き気を催した。
 …普通じゃないぜ。この親子…
            *
 大蜘蛛は蛻吉を即座に仕留めるのを止めて、毒針の先で彼の全身を触り始めた。
 彼の身に迫っている危険とただならぬ様子に気づいたガザミは、蛻吉の懐の中で慌て騒ぎ始める。
            *
「本当に怖く、恐ろしく、憎い。それだけですか?」
「…」
 春之助の全身が強張る。
「春之助。本当のことを口になさいッ」
「は、ははうえ…」
「さぁ。言うのです。それが、あなたの心の闇を深く、強く、無限に広げるのですよ」
 女のうめき声。
「ははうえ」
「来てはなりませぬ」
 女の汗が飛び散る。
「ちちうえ。止めてッ」
 男は息子の声に益々興奮し、女を一層激しく打ち据える。
「ああ。あぁぁぁ…」
 女が血を吐いた。
 その数滴が春之助の顔に降り注いだ時、その表情が一変する。
「春之助。さぁ、言うのです」
 苦渋とも、嫌悪とも、そして興奮と快感とが混濁した表情で春之助は母を見つめる。
            *
 全身を触り終えて、大蜘蛛は二本の毒針を蛻吉の首元に据えた。
            *
騒ぐのを止め、蛻吉の懐でブルブルと震えていたガザミだったが遂に意を決する。
そして、蛻吉の心の洞に入り始めた。
…えっ。ガザミ。止せッ…
蛻吉の制止も無視して、ガザミの身体は蛻吉の中に消えた。
            *
「さあ。春之助。本当の気持ちを言いうのです」
 全身汗まみれの春之助、震える唇を動かして言った。
「ははうえ。気持ち好い…」
 母の顔が、不気味な笑みで包まれた。
            *
 大蜘蛛の左右の毒針が蛻吉の首筋を貫こうとした瞬間、彼の全身から突然現れた甲羅に阻まれ跳ね返される。
 突然の出来事に戸惑う大蜘蛛。
 甲羅の表面の瘤の幾つかが先端に刃を備えて角と化して伸び、大蜘蛛の四肢を容赦なく切断した。
 蔵の床にドスンと音を立てて大蜘蛛の身体が落ちる。
 甲羅の角によって蜘蛛の糸が切れ、身動きが自由になると蛻吉は振り向いた。
 唯一残った大蜘蛛の左右の顎が蛻吉を襲う。
 甲羅の角の刃が大蜘蛛の顎を切払い、蛻吉は5つある大蜘蛛の複眼の内4つに蟲針を打込んで動きを完全に封じた。
「さて。手仕舞いといこう」
 そう呟くと蛻吉は、蟲鉈で大蜘蛛の残る一つの複眼を切り裂いた。
 大蜘蛛の身体は瞬くに崩れ落ち、黒い灰の山となって四散する。
 蛻吉は、身をかがめて朱色の虫籠の入口を開けて自分の前に置いた。
 黒い灰は一か所に集まり、やがて紅蓮の蟲魂となった。
 …ほう。紅蓮魂か…
 蟲魂は誘われるように朱色の虫籠の中に納まる。
 蛻吉は虫籠を持ち上げ、ニヤリと笑うといつものようにそれに触れた。
 彼は一瞬、自分の身に何が起きたのか分からなかった。
 ただ全身に鳥肌が立ち、意味も無くブルブルと身体が震え続ける。
 …闇に呑み込まれる…
 その刹那、彼の目に嘲笑う女の顔が映った。
 …ヤバい…
 籠を持つ蛻吉の手をガザミの甲羅が覆い、彼の手から朱色の虫籠を弾き飛ばす。
 蔵の床に虫籠が転がり、ガザミもそれを弾き飛ばした反動から蛻吉の心の洞から飛び出て転がる。
 その場に倒れた蛻吉。
 朱色の虫籠の中の紅蓮玉は、燃えて灰となって消える。
「ガザミッ」
 転がって蔵の壁にガザミは何度かぶつかる。
「ガザミッ」
 一度叫び、数度ガザミの名を叫んだが声にならない。
 壁に呑み込まれるガザミを見ながら、蛻吉は意識を失った。


(中編『婚礼舞』へ続く)
(次回アップ予定:2021.8.14)


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