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蟲魂2 -ガザミ(中編「伊予守」)-

 お勢は、夕餉を食する徳兵衛をジッと見つめている。
 箸を口へ運ぶ手を休めて徳兵衛は、お勢の顔をみると微笑んで言った。
「お勢。この煮つけ。とても美味しいよ」
 お勢はちょっとがっかりした顔つきとなる。
「どうしたんだい?」
「…」
「蛻吉にも食べて貰いたかったんだね?」
 お勢、頷く。
「仕事でね。蛻吉の奴。しばらく戻れないかもしれないねぇ」
 お勢、更に深く項垂れ。
「心配しなくてもお勢の気持ちは、ちゃんと蛻吉に届いているよ」
 お勢、顔を上げる。
「次は、必ず食べてもらおうね」
 お勢、頷く。
「だからお勢も、もっともっと料理の腕を磨いておくれ」
            *
 蛻吉は、徳兵衛から預かった喫煙具の手箱を抱えて立ち上がり、襖を開けた。
 …書院か。次は何を見せてくれるのやら…
 違い棚に置かれた香炉から匂いが広がっている。
 …この香り。大刀自様から貰った匂い袋と同じのような…
 部屋に近づく足音の気配。
 蛻吉は喫煙具の手箱を香炉の横に置いて気配を消した。
            *
 その年の四月から、春之助は父から家督を継ぎ伊予守を名乗っていた。
 隠居した伊予守の父は根津屋敷に居を構えたが、家督を譲ったものの当主としての実験を握り続け家政を差配した。そのため家人たちは、彼を『先代様』と呼んで敬い続けたが、伊予守と先代との関係は悪化するばかりだった。
 横嶋の方が流産し、これが原因で子供を生めない身体となったが実家である横嶋家との関係を維持したいが為、先代は彼女を離縁して横嶋家へ戻すことはしなかった。
 嫡子として春之助以外の選択肢を断たれた為、先代は庶子のような存在だった春之助を嫡男に据えた。これが原因で彼と正室との関係は増々冷え込んだが、彼はその一方で正室の流産に疑惑を持ち続けた。

 …子を流産させるため怪しげな呪術が使われたとしか思えぬ…
 彼はそう疑った。
 …あの女の仕業か…
 彼の脳に春之助の実母の顔が過る。
 …そう考えるのが自然だが…
 己の栄達のため、あの奥女中を使い尽してきた。
 …あの術の毒々しさ。醜さ。違和感を覚えてならない…
 自身の心の内で生じた矛盾。
 …何の手も打たず、ただ看過して良いのか…
 ジレンマに陥った末に彼は、一つの結論に達する。
 …実は俺は、あの女のことを何一つ知らない…
 氏素性、生国、家族や生い立ちを。
 …秘密の中で、あの女は存在している…
 彼は、あの奥女中について調べ始めた。
 …谷中道安。奴が、あの女を横嶋家へ仲立ちしたと聞いている…
 横嶋の方付きの医師だったが、流産の責により数日前に解任した。
 …判断を少し早まったか…
 腹心の用人を谷中道安の元へ遣わしたが、既に彼は行方をくらました後だった。
 …何かあるに違いない…
 彼は、腹心の用人たちにあの女のことを探らせ続けた。
 …分からぬ事ばかりだ…
 霧の中でぼんやりと浮かぶ彼女の姿を見ようとする者たちは全て命を落とした。
 …流産から八年が経って何も分らないばかりか、三人の腹心が死んだ…
 だが四人目の腹心、佐野頼母は違った。

 先代様は佐野頼母を伴って書院に入ると、人払いを命じた。
 二人きりとなって、頼母は先代様に言った。
「斯様な仕儀は却って目立つのでは御座らぬのかと?」
「目立つ方が好都合よ」
「?」
「既に三人。この数年の間で相次いで亡くなっておる。このような面会の後で、その方の身に何か起これば、儂の疑念は確信へと変わる」
「これは。何とも厄介な主に仕え、命が幾つ有っても足りませぬ」
「不服と申すか?」
 二人、笑い。
「先ず、谷中道安の所在は判明致したか?」
「いいえ。道安が所在はおろか行方すらようとして掴めませぬ」
「もう江戸に居らぬか或は、死んだか」
 先代様、不機嫌を露にする。
「引き続き調べたく。しばしご猶予を頂きたく願います」
 先代様は頷き、続けて言った。
「他に何か分ったのであろう?」
 頼母、ニヤリと笑いながら答える。
「お腹様の生国が判明つかまつりました」
「何と。あの者の生国。何処じゃ?」
 身を乗り出して尋ねる先代様へ、頼母は答えた。
「ご領地。月谷の庄に所縁の者にございます」
            *
 蛻吉の目の前で展開されている光景は、告げ口虫を介して徳兵衛にも伝えられていた。
『あの奥女中と月谷の庄が繋がったみたいだねぇ』
『ああ。どうやら、そのようだな』
『役に立つ御用人様のようだねぇ』
『頼母って名前だからな』
『面白いことを言うねぇ』
『長く生きてるとな、こんな言い草も口にできるなるんだよ』
 二人、笑う。
『佐野頼母。公儀の隠密だった御仁さ。故あって職を辞し、横嶋家の口利きで御前の家の用人に納まったそうだ。隠密としては、かなり有能だったようだよ。公儀の隠密が一介の旗本の御用人に納まるなんて普通じゃあり得ない話だけど、横嶋の御威光があれば何でも出来ちまうってことかね』
『お前よう。本当に何でもよく知ってんだな』
『情報や知識っていうのは、札差にとっては命みたいな物でね。知るか、知らないかで死生を分けることだってあるんだよ。だから、うちのご先祖たちはね、いつ役に立つか、いいや役にも立たないで埋もれて終わるような些細なことでも記録に残してきたのさ。それを受け継ぎ、次の代にそれを引き継ぐ。おやじは爺様から、あたしはおやじから、跡取りの甚兵衛はあたしからね。記録と蟲魂を渡していくのさ』
『えっ。蟲魂もかよ。あれは爺さんから続く道楽じゃねぇの?』
『道楽なんかじゃないよ。あれは、あたしたちにとっちゃ、大切な情報なのさ』
『ふーん』
『あたしには血の繋がった兄貴が二人いてね。一番上の兄貴は御旗本の嗣養子、年が二つ違いの二番目の兄貴は絹問屋の山城屋さんの跡取り養子となり、夫々に入った家を今ではちゃんと継いでいるよ。末の息子だったあたしが泉州屋を継いだのは、蟲魂を触っても平気な体質をおやじたちから受け継いだからで、それが無ければどこかの養子へ入ってたさ』
蛻吉は、徳兵衛のまだ知らない一面に触れられた気がした。
『おや。自分の長話をしちまったねぇ。あたしは、そろそろ抜けるとするよ』
『一緒に様子を見ないのか?』
『そっちは蛻吉に任せたよ。あたしは、こっちで自分の出来る仕事をするさ』
『何をしようってんだ?』
『谷中道安の名前が出てきてたろう。ちょっと調べてみるよ』
『知ってんのかよ?』
『会ったことは無いけどね。爺様やおやじの日記にちょくちょく出て来てね。横嶋の方付きの医師となる前は、名医と評判なお医者様だったよ。特にさ、心の病を治すことで評判だったのさ』
『まだ生きてるのか?』
『さぁねぇ。でも生きているとしたら、もう九十歳前後じゃないかい』
『多分、この世に居ねぇーな』
『それは、どうかなねぇ。日記に死んだって記述はないしね。まぁ調べてみるよ』
            *
 月谷の庄。
 佐野頼母は奥女中の身元を探るため、月生の里の沼辺家を訪れていた。
「四百年にわたって、この里と月影の里は争い続けてきました」
 沼辺家の当主、沼辺主税(ちから)は静かに語り始めた。
「月影の里。我が里の者たちによって滅ぼされて、もう三十年となります。だから、今となっては、あの里の血を継ぐ者は我が一族だけとなってしまいました」
 幕閣によって封印された月影の里の虐殺を主税が何のためらいもなく話したので、頼母は聊か面食らった。
だがそれ以上に頼母が驚かされたは、沼辺家と月影の里との間に血縁関係があったことだった。
「沼辺家が、月影の里の血族?」
 主税は頷いた。
「妙な話に聞こえますかな?」
「妙というよりは…」
「意外でした?」
「…」
「沼辺家の当主は代々、庶子の中から選ばれるのです。但し、庶子であっても守らなければならない条件があり、それは月影の里長の娘を母親に持つも者でなければならない」
「それが嫡男となるための絶対条件なのてすか?」
「左様」
「何故、庶子から嫡男を選ぶのですか?」
「月影の里長の娘を正室として迎えられないからです。五百年の対立と憎悪や怨念が、それを許さないからです」
 頼母、困惑顔で主税を見る。
「月谷の呪いをご存知ですか?」
「いいえ」
「月生と月影の里は互い無くてはならない存在でしてね、月生の里にある神滝から流れ出す水が月影の里を潤すことによって薬用の高い草木と虫を産出してくれる。月影の里人たちは都に薬を売って得た富によって月生の神滝を守り続けて来た。守る代償として月谷の神は月生の里人に剣の秘儀を授けたのです」
「それが雷霞の流儀?」
「左様。二つの里は互いに協力し合いながら暮らしていたのですが、人々の心から神との約束が薄れて独占を望むようになった。それが今から五百年前のこと。それから百年の間、二つの里は争い合い続けた末、どちらも滅亡の淵に追い込まれた。闘いに疲れ果てた里人たちは、月谷の神に許しを乞うた。神は里人たちを許しはしなかったのですが、血をもって贖うのなら滅亡だけは回避しようと約束した」
「血の贖い?」
「その当時、月生の里を束ねていたのが剣聖と誉高かった御影斎。彼は自らの命を差し出すことで霞の奥義と約束の品として神剣の青斬りを与えた」
「それで月生の里は許されたのですか?」
「いいえ。滅亡は回避できたが、子孫たちにも代償を求めた。それが奥義を極めること」
「奥義を極める?」
「皆伝は里人の一人に与えられます。この皆伝者が神滝で奥義を極めることを神は求めた」
「変な求めですが、それが呪いなのですか?」
「はい。御影斎様以来、奥義を極められた皆伝者は一人もいません。代々の皆伝者は神滝で奥義を求めることに挑戦し、それが叶わぬ代償として己の何かを失った。ある者は身体の一部を奪われ、心を奪われて狂い、或は最愛の親族を失った。それが月生の里に課せられた贖いなのです」
「…」
「月影の里もまた、里長の娘を神の贄として差し出したが受け取らなかった。その代りに蠱術の秘儀を授けた。秘儀の一つに『血重ね(ちがさね)の秘義』というものがあった」
「血重ねの秘儀?」
「恩讐を超えて二つの里人に血縁の交わりを求めたのです。十三代を重ねられたら、月影の里を許すと、神は誓った」
「受け入れられたのですか?」
「神からの申し出とはいえ、どちらの里人たちにとっても受け入れられなかった。百年の恩讐は余りにも深かったから。でも受け入れなければ里が滅亡する。それで沼辺家のご先祖が受けると申し出たのです」
「何故、沼辺家が?」
「当主が里長から嗣養子で入った人物でしてね。御影斎様の血の繋がったの弟でした。反対が多かったのですが当主が説得し、月影の里長の娘を嫁にもらう合意は得られた。だが、正室として受けれることだけは納得を得られなかったのです」
「それ以来、代々の当主を庶子から選ぶことになったのですか?」
「無用な相続争いを避けるため、代々の当主は正室を迎えなかった。正室が居ないので嫁いだ者は側室にもなれない。その屈辱が誇り高い月影の里人に神が与えた罰だったのです」
「代重ねは、どこまで進んだのですか?」
「私が十二代目でした。嫡男に月影の里から嫁いでくれば、あの里も神の許しが得られましただろうけど絶えてしまった。残念なことです」
 主税、遠い眼差しで山々を見つめた。
「もしも十三代まで続いたとしたら、その時は何が起きたのですか?」
「未来永劫。月谷の庄の主となれると神が約束したそうです」
「この地の支配者」
「でも続かなかった。神様もそれを見越しての約束だったのでしょう」
 頼母、真顔で主税を見ながら尋ねる。
「月影の里人は、本当に絶えてしまったのでしょうか?」
「絶えていますよ」
「本当に?」
「あの時の虐殺に私は行っていないけど、戻って来た誰もがそう言ってましたからね」
 頼母、尚もまじまじと主税の顔を見続ける。
主税は、溜息混じりで頼母に答えた。
「でも実は、たった一人だけ遺体の見つかっていない里人が居ました」
「えっ」
「里長の末娘。彼女だけが見つからなかった」
「名前は?」
「さて。昔のことですから。忘れてしまいましたよ」
「逃げたのですか?」
「さぁ。それはどうか。逃げる場所は山しかない。山の奥深くへ逃げおおせたとしても、命は無いでしょう。十歳かそこらの女の子でした。一人、山の中で生き残ることは難しいかと思いますぞ」
「もし生きていたとしたら、今年幾つくらいで御座ろうか?」
「三十路の後半くらいで御座いましょう」
 お腹様の顔が、頼母の頭に浮かんだ。
「蠱術を操れると思われますか?」
「里長の家では二歳、三歳から蠱術に触れると聞きます。ある程度の術であれば可能かと」
「されば、もう一段難しき術はどうか?」
「さぁ、それはどうか…」
「例えば、キクイ虫を変化させる術とか?」
「蝤蠐の術」
「ご存知か?」
「その術の名なら妻より一度聞いた覚えがあります。呪詛を掛けた相手だけでなく、我が身をも蝕む恐ろしき術」
「生き延びた娘に扱える術で御座ろうか?」
「あの術は余程修練を積んだ者でなければ扱えぬ術と耳にしております。故に、無理かと」
 主税、倦んだ表情を見せる。
「もう、お話しできることは御座らぬ」
「…」
「両方の里の血を引く者にとって避けがたき事情があるといえ、三十年前の一件は思い出したくない悲劇で御座った。ご先代様の御申しつけ故お話し申し上げたが、もうご勘弁願えぬだろうか」
「相分かり申した」
「かたじけない」
「最後に一つだけ土地のことでお尋ねしたい」
「…」
「閖舞(ゆるまい)の里への道をお教え頂きたい」
「閖舞の里?」
「名湯の里と聞いております。日頃の疲れを癒したいと存じましてな」
「ああ。それは良い。山一つ越えた所にあります。道を教えて進ぜよう」
「かたじけない。ところで閖舞の里と月影の里は近いので御座ろうか?」
「近いも何も西の山を越えた所だ。その里は大昔に絶えて無いがのう…」
            *
 泉州屋。
 蟲魂の保管を兼ねた書庫。
 徳兵衛は、その部屋で祖父と父の日記から谷中道安に関する情報を調べていた。
 その名が一番古く登場したのは七十年前。
 祖父の与兵衛が気鬱気味となり、その治療を始めたのが交流の馴れ初めだった。
 病気はたちどころに快方へと向かい完治したが、その名はそれ以降頻繁に登場するようになる。
徳兵衛が不思議に思って日記を読み進めると、二人の関係が判明して声を出した。
「どうやら。道安先生は蟲魂商いもなさっていたようだ」
 蟲魂の魅力を祖父に教え、収集を勧めたのは道安先生だった。

 『宝玉の如き蟲魂に見とれ、思わず触り候。道安殿、甚く恐れ候』
 『蟲魂。触りし間、夢うつつ、見知らぬ人の人生を垣間見て候』
 『手を放して後、大事無いか、気は触れて居らぬかと、道安先生狼狽隠しきれず』
 『大事無きを伝え、ほっとされし候。徳兵衛が体質、特異なりと感嘆され候』

 徳兵衛、与兵衛の日記を閉じると目を瞑って思案した。
 …会えるものなら、そうしたいお方のようだね…
 そして目を開け、今度は父の清兵衛の日記を漁る。
 …横嶋の方の医師を辞めたあとの日記が良いかね…
 日記を読み始めて間もなく、徳兵衛はニヤリと笑みを漏らした。

 『道安殿。常には会えず。告げ口虫に道安殿施術の蟲魂を喰わせて導く』

 徳兵衛、日記を閉じた。
 …試してみるかね…
 そして立ち上がり、蟲魂の保管庫へ向かった。
            *
 頼母から一報を読み終え、先代は思案を巡らせた。
 …あの女子、月影の里の生き残りではないのか…
 立ち上がり、書院を出て縁側に座ると一服した。
 …あれ程の蠱術の遣い手。生き残りと思わぬ方が不自然ではないか…
 煙草の煙が先代の鼻をくすぐる。
 …なれど、蝤蠐の術はあの女子に似つかわしくない…
 違和感が先代の確信を揺るがせ続けた。
 …では、誰か…
 ふと、彼の頭の中に春之助の顔が浮かんだ。
 …まさか。当時、あれは七歳の童であった…
 一笑に伏したかったが、春之助の顔が何度も浮かぶ。
 …術の素養すらない童に操れる術ではない…
 ふと、ある思いが先代の心を曇らせた。
 …だが、あれはあの女子の血を引く者…
 そして彼は、昔の些細な出来事を思い出す。

『如何致した?』
 青褪めた表情の横嶋の方を優しく抱く。
『申して見よ』
 横嶋の方、何も言わない。
『怒らぬ。遠慮なく申せ』
 黙り続ける横嶋の方に業を煮やし、彼は奥女中に尋ねた。
『何があった?』
 躊躇う奥女中たち。
『主命ぞ。申せッ』
 一人の奥女中が、懐から懐紙に包んだキクイ虫を彼に見せた。
『長虫か?』
『若様が、これをお方様にお見せ遊ばされ』
 彼は苦笑いした。
『春之助の悪戯か…』

 …確かあの時、見せられた長虫はキクイ虫であった…
 先代の背筋に悪寒が走った。
 …まさか。有り得ぬ。そんなことは、絶対に有り得ぬ…
 否定を重ねるほど、彼の不安は膨らんで行った。
            *
 浅草の外れ、深い藪の中の一軒家。
 告げ口虫が徳兵衛をそこへ導くと、彼の耳の中へ戻って行った。
 木戸を開けて庭へ回ると、縁側で腰掛けている老人が徳兵衛を見た。
「泉州屋の徳兵衛さんだね」
 徳兵衛は、老人面差しに見覚えがあった。
「私のことを覚えていないかね?」
「お会いしたような…」
 老人は笑いながら言った。
「無理もない。三十年近く前に会ったきりだからね。浅黄斑の蟲魂。確かあの時は、徳兵衛さんより少し年長のお兄さんも一緒だったよ。まさか、あれが泉州屋さんの跡取りを決めるためとは聞かされてなかったから。そうかね。矢張り、お前様が跡を継いだかね」
「あぁ。あの時の先生…」
 杖をついて立ち上がった道安は徳兵衛に歩み寄り、彼の手を取って懐かしんだ。
「立派にお成りだ。良かった、良かった」
「先生もお元気そうで」
「いつお迎えが来てもおかしくないんだけどね、中々来なくて困っているよ。さあ、ここに座ってゆっくりしておくれ」
 二人は並んで座った。
            *
 二十七年前。
 泉州屋の奥座敷で徳兵衛と彼の兄の治兵衛は斑に浅黄色が見え隠れする玉を前で並んで座らされていた。
 ぼどなくして父と祖父、道安の三人が部屋に入って来た。
 二人に向き合うように父が座り、彼の後ろに祖父と道安の二人が並んで座った。
 徳兵衛、治兵衛の二人の顔を父の清兵衛が幾分緊張した面持ちで見比べてから二人へ話しかけて来た。
「治兵衛。徳兵衛。父の話を心して聞きなさい。今日は、泉州屋を継ぐ人間を決める」
 まだ十歳だった徳兵衛には父の言葉の意味が解らなかったが、十二歳になっていた兄の治兵衛は重く受け止めながら父の言葉を聞いていた。
「我が家は札差を生業としている。札差とは、お武家様にお金を融通する商売。つまり金貸しと呼ばれている家業だ。人様にお金を貸し、利子をもって店を維持し、店の者の給金を払い、家族が暮らす。お米屋や魚を商うのと何ら変わらぬ営みだが、お金を扱うが故に人は我々を蔑みの目で見ている。それは、お金を用立てるお武家様も同じだ」
 清兵衛は、柔和に微笑むと続けて言った。
「貸したお金は返して頂くのが道理だが、お武家様の場合は時としてその通りが守られないことがある。だから、この商売を行うのに一番大切にしなければならないのが人を見る目を養うことだ。お金を貸して良い相手なのか、お貸するなら幾らまでとするか。人様を値踏みするような行為だが、これが養われなければ瞬く間に破産する。だから人様のことを深く理解し、人様を学び、心根を読まなければならないのだ。解かるな?」
 二人、反射のように頷く。
「これは蟲魂と言ってな、人様の心の機微や明暗をしるための道具だ。これに触ると人様を深く、広く学べ、理解ができ、己や身代を守る糧となってくれる。だからな、泉州屋の主となる人間は、この蟲魂に触れ、扱えるようにならなければならないのだ」
「父さま。触ったり、持ったり出来れば良いのですか?」
 治兵衛が身を乗り出すように言うと、清兵衛は頷きながら答えた。
「そうだ。だからこれから、二人にこの蟲魂を触ってもらう」
 治兵衛は蟲魂を見るのが初めてだったから興味津々といった面持ちだが、徳兵衛は蛻吉やあさりのいる里で接していたから無表情に蟲魂を見つめた。
 …でも兄ちゃん。触って平気なのかなぁ…
 そう思って徳兵衛、治兵衛の横顔を見て少し不安になった。
 そんな徳兵衛を見透かしたように、父は続けて言った。
「二人とも、良くお聞き。触るだけなら簡単だと思うだろうが、力を持たない人間が蟲魂ら触れると正気を失うのだよ。これは脅かしとかではなく本当の話だよ。だから、よくよく覚悟を決めて触らないといけないよ」
 二人、顔を見合わせる。
「怖ければ触らなくても良いんだよ」
 蟲魂をジッと見続けていた二人だったが、治兵衛が先に手を伸ばした。
 その様子を目にすると清兵衛は目を閉じた。
 兄に遅れて徳兵衛も手を伸ばす。
 先に、兄が蟲魂に触れた。
 直ぐに異変が兄の身体を襲う。
 白目を剥きながら兄はブルブルと震えだし、蟲魂を触る手から翅の生え揃っていないイナゴの子供たちが溢れ、兄の身体に纏わりつき始めた。
「兄ちゃんッ」
「徳兵衛。触るんじゃないッ」
 父の一喝は遅く、徳兵衛の身体にも蝝(エン:イナゴの子供)が纏わりつく。
 血のつながった兄弟だったが、蝝の動きは全く違った。
 兄の方は体表全体を蝝が覆ったが、徳兵衛の場合は開けた胸元から身体の中へ螽たちが進入していく。
「道安先生ッ」
 清兵衛の呼びかけに道安が素早く動き、兄の治兵衛の傍らに座る。
 そして兄の額のツボを押し、空いた手で蟲袋の口を開いた。
 蝝たちは治兵衛の身体から離れ、袋の中に入って行く。
 袋の口を閉じると兄の額の指を離した。
 治兵衛が薄目を開けて道安の顔を見ると、道安はニッコリ笑いながら言った。
「お前さんは、もう大丈夫だよ。少しの間、眠っていなさい」
 道安が懐から取り出した匂い袋を治兵衛の鼻に当てると、眠りについた。
 続いて、隣で横たわる徳兵衛の傍らに座った。
 彼は迷うことなく徳兵衛の胸に手を当てる。
すると彼の手は徳兵衛の胸の中へめり込んだ。
徳兵衛の胸の中で何かを探っていた道安だったが、目的の物を探り当てるとそれを握るや一気に手を抜き取った。
彼の手中に浅黄斑の蟲魂があった。
「与兵衛さん。朱色の虫籠」
 呼びかけに与兵衛は、手元にあった朱色の虫籠を道安へ投げた。
 籠を受け取った道安は素早く入口を開け、掌中の蟲魂をその中に入れて封印した。
「やれやれ」
 三人は、笑った。
「二人は大丈夫ですか?」
 不安気な顔つきで二人を交互に見る清兵衛へ道安が言った。
「弟さんの方は大丈夫だよ。これを見てごらん」
 道安は徳兵衛が握りしめている左の掌を開き、掌中にある黒い蟲魂を見せた。
「己蟲魂(きちゅうたま)だよ。この子は、この歳にして己の核となる部分を蟲魂へ凝縮変化させて身を守る術を身に着けている。大した子だ」
「いつの間にこのような術を?」
 与兵衛は孫を驚嘆の眼差しで見つめた。
「蛻吉やあさりと仲が良かったから、自然と覚えたんじゃないのかね」
 道安、苦笑。
「あの二人。荒っぽいから。逞しく育ったというわけですか」
 清兵衛、目を細める。
「お兄ちゃんの方は、少し影響が出るかもしれないよ」
「…」
「二人の身体の間で蝝が同調していた」
「道安先生。それは一体?」
 不安な様子の与兵衛に道安が答えた。
「弟が兄を守ろうとして、兄の欲望を弟が取り除いたような感じかな」
「それで治兵衛の身体から浅黄色と浅黄に漆黒混じりの蟲玉の二つ出て来たのですか?」
 清兵衛の問いに道安は黙って頷いた。
「野心と欲得が除かれた影響で少し記憶が無くなったかもしれないが、命に別状はないから安心して良いよ」
 道安の言葉に二人はホッと胸を撫でおろした。
「泉州屋の跡取りも、この弟さんで決まりかね」
「徳兵衛が跡取り。治兵衛は山城屋さんの嗣養子で迎えられます」
 清兵衛は二人を抱えながら言った。
「この歳で泉州屋さんの身代を背負うかね…」
「それが二人の定めで御座いますよ」
 与兵衛は徳兵衛の額を撫でながら言った。
            *
「お羽。ありがとう」
 道安は、二人にお茶を持ってきた美しい顔立ちの少女へ言った。
 美しい顔立ちだったが、表情の乏しいことに徳兵衛は違和感を覚えた。
「お孫さんですか?」
「それを言うならひ孫かね。だが、私は生憎独り身でね。お安と呼んでいるが、実は人ではないのだよ」
「人じゃない?」
「お前さんたち兄弟の儀式に立ち会った時、三つの浅黄色の蟲魂が生じてね」
「はい」
「お兄さんから出た二つを私が貰い、お前さんの身体から取り出した一つを清兵衛さんの手元に置いた。私はその二つの蟲魂を使って、身の回りの世話をする蟲からくりを作ったんだよ。お安は、最後に作った蟲からくりだよ」
「そんな物も作れるんですか」
「蝝ってやつは数が多いから、からくり物を作るには丁度良いんだよ」
「道安先生は変わり者でいらっしゃる」
 徳兵衛は嬉しそうにクスクス笑った。
「年寄の暇つぶしだよ。お羽ねぇ。あれで、中々役に立ってくれるよ」
 茶を啜り、湯呑を濡れ縁に置くと道安は徳兵衛に尋ねた。
「それで。今日のご用向きは何かな?」
「春之助様のことでございます」
「最近は、根津屋敷の御前と呼ばれているようだね」
「はい。ご存知でいらっしゃいましたか」
「一応、私も蟲魂商いを生業としていたからね」
「存じていらっしゃることをお教え頂けませんでしょうか?」
 道安は、悲し気な眼差して徳兵衛の顔を見てから言った。
「お前さんの知らないことも含めて、あの親子のことは色々と知っているよ。だが、今はまだ話したくないのだよ。あの二人は語るもおぞましい所業を重ね、修羅の道を歩んでしまった。それを私の口から語りたくない。少し時間をくれないかね」
 徳兵衛は、口が重くなった道安にこれ以上何かを尋ねるのも憚られた。
 だが、それでもなお徳兵衛は一つだけ道安に尋ねた。
「御前のご生母様。あの奥女中の方はお亡くなりになられたのですか?」
 道安は意外だという顔つきで首を左右に振りながら答えた。
「まだ生きているよ。齢は私と変わらないが、日向守の屋敷で元気に暮らしているそうだ」
「ひょっとして、その方は?」
「大刀自様と呼ばれて、大層大事にされているそうだ」
            *
 閖舞の里。
 湯煙に包また静かな集落だった。
 山深き地にありながら、名湯を聞きつけて訪れる旅人は多い。
 …よそ者が目立たなくて助かる…
 頼母は街道筋を歩きながら思った。
 …意外と規模が大きいようだな…
 北の山を越えた先には月生の里があり、街道は北国へと抜ける。
 西の山を越えると今では絶えてしまった月影の里があり、街道は西国へと続く。
 北国と西国へ延びる街道の合流地にあるのが閖舞の里で、集落とは言いつつも実態は宿場町に近かいといえる。
 町はずれに近い森に囲まれ、あまり人目につかない場所に周囲の静かさとは対照的な屋敷があることに頼母は気がついた。
 屋敷は無人のようだったが、手入れは行き届いていた。
 不思議に思いながら屋敷の周囲を歩いていると、家路についた農夫に出くわしたので頼母は屋敷の主について彼に尋ねた。
「あぁ。このお屋敷かね。ここは山向うの月生の里に住まわれているお武家様の別邸だ」
「ほう。随分とご立派なお屋敷だが主のお名をご存知か?」
「沼辺様のお屋敷でさぁ」
「沼辺主税殿か?」
「へえ」
「空き屋敷かな?」
「ここ数年は来てねぇみたいだけど、偶に人は来ていたなぁ」
「どんな人だった?」
「人の名前かどうか知らねぇーけど。伊織とか、伊予守とか名乗ってたぜ。あぁ、それとかなりな歳の女の人も来てたなぁ」
「その老女の名前など憶えておらぬか?」
「名前かどうかは知らんけど、刀自様とか大刀自様なんて呼ばれてたなぁ」
「大刀自様…」
 頼母は、核心に近づいているという思いで胸を震わせた。
            *
 夜。
 湯治場の湯殿。
 頼母は湯船に浸かり、窓の月を眺めていた。
 湯殿の木戸が開く音が響く。
 …こんな刻限に人か…
 心なしか、辺りの湯が少し濃くなったように思われた。
 そのせいで湯殿に入って来た客の様子が鮮明に見えない。
 曖昧な身体の線の具合から女のようだった。
 …ひょっとして若い女子ではないか…
 ニヤリと笑い、頼母は鼻の下を長く伸ばした。
 湯船が乱れる音。
 頼母は息を潜めて様子を見守る。
 水面が鎮まり、湯気越しに女子の気配だけが伝わる。
 湯殿が鎮まるに連れて、湯気も少しずつ薄らいでいく。
 霞が開け。
 女性の顔が露わになった時、彼女の美しさに頼母は息を呑んだ。
 …なんと美しい…
 彼女も頼母に気づくが恥じらいと恐れで顔を背け、身体を強張らせる。
 頼母は無遠慮に女へと近づき、震えながら自分に向ける背を抱いた。
「怖がらずとも良い…」
 半ば強引に顔を自分へ向けさせると、彼女の唇に自分のそれを重ねる。
 口づけの後、再び彼女の顔を見て頼母は尋ねた。
「名を何と申す?」
「…」
「聞かせておくれ」
 女は口ごもりながら名乗ったが、頼母は聞き取れない。
「うん。聞こえぬ」
「…と、申します」
 頼母の耳を甘噛みしながら言う女。
「うん?」
「とじ…」
 頼母の返事を待つまでもなく女は唇を重ね、舌を絡めた。
 頼母、甘露な表情。
 だがやがて、彼の眉間に深い皺が刻まれる。
 口の中を何かが蠢き、吐き気を催すような舌ざわり。
 頼母は彼女を突き放し、口の中の異物を吐出す。
 そして湯の中に漂う蝝を見てゾッとする。
 反射的に彼女を見ると、女は笑っている。
 だがそれも束の間、顔が崩れ、頭、身体と崩れ落ちていく。
 無数の蝝が湯面を漂い、頼母に向かった。
「あっ。ああ…」
 恐怖で言葉を失う。
 同時に彼は、彼女が名乗った『とじ』の名に震撼した。
 彼の頭以外の全てが蝝によって覆われた。
「刀自…」
 その言葉を最後に彼の両眼の生気が失われた。
            *
「あの時。徳兵衛さんはお兄様の心の闇を覗いてしまったね」
 その言葉に徳兵衛は、持ち上げた湯呑の手を止めた。
 道安の顔をジッと見つめ、湯呑を濡れ縁に戻すと徳兵衛は言った。
「どうして、それを?」
 道安は朱色の籠に封印された漆黒の蟲魂を彼の前に置いた。
「浅黄と漆黒混じりの蟲魂の残りだよ」
            *
「頼母。戻ったか」
 書院で平伏する頼母が上げた顔を見て、先代は怪訝な表情となった。
「顔色がすぐれぬようじゃが大事ないか?」
 頼母、無言。
 彼の異変に先代は、言い様のない不安に襲われた。
 その時、縁側の障子が開いた。
 不安からくる怒りに任せて無礼者を一喝しようと顔を向けて先代だったが、そこに立つ男を見て口を噤む。
「父上。ご機嫌如何に御座いますか?」
「伊予守…」
 父へ背を向けて障子を閉め終えると、向き直して彼は言った。
「お顔の色がすぐれませぬが、大事御座りませぬか?」
「だ、大事無いッ」
「それは上々。御心労でもお有り遊ばされるのかと心配致しました」
「貴公。本日は何用で参った?」
「ご機嫌伺い。それではご納得頂けませぬか?」
「何を今さら」
「実は、父上がお探しの品を持参致しました」
 伊予守は、不遜に先代の前で立つと懐から懐紙の包みを渡した。
            *
 徳兵衛は、朱色の籠の中の小さな漆黒の蟲魂に触れた。

 荒れ狂う蝝の波間で溺れかけながらも、懸命にもがく治兵衛を徳兵衛は見つけた。
「兄ちゃんッ」
 徳兵衛の声は兄に届かない。
「俺は負けないぞッ」
 治兵衛は何度もそう言って叫び続けた。
「あっ。兄ちゃん」
 蝝の波の中に兄の姿が一瞬消えたが、再び顔を出す。
「なんで。何で俺じゃないんだッ」
 治兵衛は波に抗う。
「兄ちゃん。こっち、こっち」
 徳兵衛は、兄に手を伸ばした。
 だが治兵衛は彼を睨みつけ、弟の手を握ることを拒んだ。
「兄ちゃん。早く掴んでッ」
「イヤだッ」
            *
 懐紙の包みを開くや、先代はそれを投げ捨てた。
 畳の上を転がり、のたうつ虫。
「お探しの物は、これで御座いましょう?」
 青褪めた先代の唇は閉じられも小刻みに震える。
「ご心配召さるな。これは良く肥え太ったキクイ虫。害は御座りませぬ」
 伊予守はそれを拾って掌に載せると、続けて言った。
「これを求めるために無駄に無益な殺生をされましたな」
「な、何のことだッ」
「私にお尋ねあれば済むものを、三人の用人たちの奪っても見つけられなかった。そうで御座いましょう?」
「…」
「父上が当家の用人として召し抱えず上様の下で生き長らえたならば必ずや活躍出来た人材だったことで御座いましょうに、父上は惨いお方だ。そして、この頼母」
 伊予守は、頼母の肩に手を置いた。
「前任の三人たちよりも遥かに有能な人材に御座いました。父上の好奇心、我が儘がこの男の人生を狂わせ、命を奪ったので御座いますよ」
 頼母の首から下が、蝝で埋め尽くされた身体へと変化した。
「この身体。如何様になっているかを父上も見えているはず。惨い最期だとお思いになりませぬか。三人の誰一人として辿り着けなかった核心にこの男は誰よりも近づいた。それが仇となり、今では私の蟲からくりと成り申した」
            *
「どうして徳兵衛なんだよッ」
「えっ」
「徳兵衛は蟲魂に触れて、俺は、どうしてダメなんだよ」
「兄ちゃん…」
「俺と徳兵衛。どこが違うんだよ」
「兄ちゃんの方が凄いよ」
「じゃあ。どうして。俺は店を継げないんだよ」
「それは…」
「あっ。兄ちゃんッ」
 治兵衛の頭が螽の波に呑まれるも、再び顔を出す。
 兄、号泣。
「蟲魂に触れることが、そんなに大事なのかよッ」
            *
 伊予守は、掌のキクイ虫を蝝の蠢く身体に載せる。
 白く、太く、長いキクイ虫の身体は、瞬く間に螽によって喰い尽されて消えた。
「父上は何故、私のことを疑われる」
 先代、伊予守を凝視するのみ。
「父上は何故、私のことをお嫌いになられるのです」
「別に嫌ってなどおらぬ…」
「父上が今あるは、母の蠱術のお陰ではありませぬか。父上をお支えしたい。その一心で私も蠱術を会得し、幼少にして蝤蠐の術の秘儀を操られるまでに成り申した。それを父上にお見せすればきっとお認めになられる。故に、私は我が身を賭して蝤蠐の術を披露も仕上げましたのにお褒めの言葉すら掛けて頂けなかった。むしろ子殺しの疑いを向け、探らせ続けた。何故、斯様な仕儀となりますのでしょうか?」
「それは…」
「それほどまでに、お血筋が大事なので御座いますか?」
「そうではない。それが証に家督をお主へ譲ったではないか」
「家督。確かにお譲り頂きましたな。だが実権は父上が握られておられる。私は父上の傀儡、いいや蟲からくり同様の存在」
「その方は、まだ若い。実権は経験を積ませて徐々に譲るつもりでおる」
「それは何時のことにございますか?」
「?」
「今や私の蠱術は、母のそれを超えております。それは父上もお解かりの筈なのにそれでも尚、私をお認め遊ばされようとされないのは何故で御座いますか?」
「誤解じゃ。儂は、そちを見てめておる」
「横嶋家との婚儀を勝手に進められておられますそうな」
「…」
「それ程までにこの身体に流れている母の血が忌まわしいので御座いますか?」
「そうではない。婚儀を進めておるのは、お前の生末を思ってのことではないか」
「私が怪しくも卑し気で滅ぼされた血族の末裔だからで御座いますか。その家に代々伝わる蠱術をもって今の地位と権力を得たのにも関わらず、尚も血の高貴を求め我らを蔑むのですか。それだけに飽き足らず、ご自分の欲と権力のために我らを利用され続ける目論見に御座りますか。我らから恩恵を得ながら、我らが決して差し出せない血の正当を横嶋家に求められた。我が母の一族を口封じよろしく虐殺し、滅ぼす黒幕となった横嶋の一族に何故、お成り遊ばされようとされるのですか。私は…」
 伊予守、ボロボロと涙を溢れさせながら叫ぶように言った。
「私は父上にとって、一体何なのですか?」
 先代は、恐怖と絶望の混濁した表情で伊予守に告げた。
「化け物が…」
            *
「兄ちゃん。早く掴まってッ」
「イヤだッ。絶対に嫌だッ」
「兄ちゃん。蟲に喰われちゃう」
「喰われない。俺にだって蟲が触れるって認めさせるんだッ」
「兄ちゃんッ。早くッ」
「徳。お前なんか嫌いだッ」
 兄、号泣。
 徳兵衛は、迷いなく螽の海に飛び込んだ。
「とくッ」
 徳兵衛は波間に顔を出すと、空かさず兄の身体を抱えた。
「徳。止めろッ」
「止めないッ」
「俺の身体から離れろッ」
「お前なんか、キライだっ」
「嫌われても良い」
「…」
「俺は、兄ちゃんを助けるッ」
 治兵衛は、徳兵衛の身体に手を回した。
 そして二人の身体は,螽の波に呑み込まれた。
            *
「化け物」
 伊予守の涙が、乾いた笑いへと変わった。
「はっ。ははははッ。俺は、父上の化け物か…」
「伊予守」
「淋しさや孤独を慰め癒してくれたのも」
「…」
「常に寄り添ってくれたのも」
「…」
「唯一の友も」
「…」
「あなたが化け物と蔑む蟲だけだったのですよ」
 伊予守、涙を浮かべながらニヤリと笑う。
「それは、これからも何一つ変わらない」
 伊予守は手を頼母の頭上に置くと、静かに押した。
 蠢く蝝たちは、それを待ち望んだかのように頼母の頭を貪り喰う。
「私の友たちは、これ一つでは満足できないほど飢えているのです」
 先代は腰を抜かしながらも、必死に逃げようとする。
「父上」
 あわあわ言いながら畳の上で惨めにもがく先代。
「我が友たちの翅を生え揃わせるための糧と成られるがよい」
            *
 伊予守は、自分の手に止まった蝝の背中に半分伸びた翅を見ながら呟いた。
「矢張り、父上だけでは足りなかったか」
 蝝の食欲は凄まじく、先代の衣服をも喰らい尽そうとしていた。
            *
 あさりとはぐれた伊織は、青斬り相手に話しながら畳廊下を歩いている。
「あさり、あたしが居なくて大丈夫かしら?」
「大丈夫ですよ。あさりさん、強いですからね」
「でも。あたしが一緒なら守ってあげながら戦えるし」
「それより、拙者の心配をして下さいよ」
「何でよ。奥義を極めたでしょ」
「でも青斬りさん居ないと、私はタダの若造侍ですよ」
「これだけの屋敷なんだから。探せば刀なんて幾らだって転がってるわよ」
「厳しいなあ…」
「それより心配なのは、あさりよ。もう、どこに行っちゃったの?」
「少しは、僕の心配もしてくれませんかね」
「しーッ。隠れて」
 伊織たちは、廊下の陰に隠れて様子を伺った。
 少し先に例の奥女中が現れた。
「どこへ行くのかしら?」
「さぁ?」
「後をつけて」
            *
『徳兵衛。どこで油売ってやがった?』
 漆黒の蟲魂から指を離したとたん、彼の耳に蛻吉の声が響いた。
『済まないね。心配したかい?』
『するかよ』
『ちょっとね、昔の思い出に浸っていたのさ』
『先代の伊予守。蝝に喰われちまったぜ』
『おや大変だ。蝝ってやつは食い意地が張ってるから。先代一人で満足したのかい?』
 蛻吉の目の前を飛ぶ蝝が増え始めた。
『結界の回りを飛ぶ蝝が増え始めやがった』
『おや。飛び回ってるならが蝝じゃなくて、蝗(コウ:成虫のイナゴ)じゃないのかい?』
『翅が、まだ半分しか生え揃ってねぇーんだ』
『それじゃあ蝝だね』
『だから、さっきから蝝だって言ってるじゃねぇーか』
『その子たち、大人のイナゴよりも食い意地が張ってるから気をつけなよ』
『くそ。数がドンドン増えてやがる』
『数が多いのが蝝とか蝗の取り柄みたいなものだからさ。蟲花火で散らして蝝が面食らってる間に逃げるっていうのはどうだい?』
『そんな事したら、屋敷が燃えちまうぞ』
『あぁ。そうだね。言い手だと思ったんだけどね』
『他人事だと思って、呑気な言い草だ』
『道安先生と相談してみるよ』
『道安。谷中道安に会えたのか?』
『目の前で座っていらっしゃるよ』
『行方が分からなかったんじゃないのか?』
『あたしを誰だと思ってるんだい?』
『わかった。わかった。言い手、早いとこ頼むぜ』
『そうだね』
『早くな。そうでないと返事を聞く前に奴らの翅の足しになっちまう』
『頑張ってみるよ』
『お前が居ればよ。蝝の奴を洞にぶち込んで、片っ端から蟲魂にしちまうんだが』
『そんな物騒なこと止めておくれよ。もう歳なんだから身が持たないよ』
            *
 伊予守は蝝たちの不可解な動きに気がついた。
 …誰か居る…
 違い棚を配した床の間を覆う見えない壁があるのか、蝝たちが不自然に張り付いている。
 …結界。気配を消しているところからすると蟲魂取りの輩か…
 少し離れた場所で胡坐をかいて座りると、伊予守は蝝の壁を眺めた。
 …どこまで持ち堪えられるか…
            *
 徳兵衛、涼しい顔で煙草を吸っている。
「良いのかい。蛻吉を助ける算段をしなくて」
「大丈夫ですよ」
「やけに自身が有りそうだな」
「昨日、今日の付き合いじゃ御座いませんから。蛻吉という男は、大層運に強いところが御座いましてね。だから今回も、何とか切り抜けられることに御座いましょう」
「呆れたお人たちだ」
            *
 …今回はヤバいぞ。結界もいつまでもつか…
 結界の壁のあちこちに細かい罅が走り始める。
 …何か無いのか…
 違い棚に手を伸ばした時、箱に触れた蛻吉の表情が明るくなった。
 …そうだ。忘れてたぜ…
 棚の上の手箱を両手で取り、それを膝の上に載せると蓋を開けた。
 …やっぱり思った通りだ…
 蟲除けの匂いが彼の鼻をつく。
 …炭も火おこしも一通り揃ってるぜ…
 手際よく火を起し、炭団へ火を移して火入れに入れた。
 明々と燃える火を見て、蛻吉はニンマリと笑った。
 引き出しを開けると、予想以上の量の蟲除け薬が入っていた。
 …マメな奴だ…
 薬包の一つ一つに蟲除け薬の名前が記されていた。
 …やれやれ。これだけで一財産だぜ…
 蛻吉は、徳兵衛の涼しい顔を思い出しながら呟いた。
「悪いが、俺が豪気に使わせて貰うぜ」
 蛻吉は薬包を片っ端から開き、中身を火入れに入れた。
 立ち昇る蟲除けの煙。
 それは書院床に充満し、蛻吉の身体全体に匂いがしみ込んだ。
            *
 高みの見物よろしく蝝の壁を眺めていた伊予守だったが、蝝たちの異変に気づくのに時間は掛からなかった。
 壁から蝝がバラバラと落ち、畳の上で翅を震わせながら痙攣している。
 …蟲除けの香りではないか…
 それまで張り付いていた蝝は壁から離れようと翅を激しく震わすが、次々に仲間の蝝が重なり止まるので逃げらない。結界の壁に近い蝝はひび割れから漏れだす蟲除けに耐えかねて逃げようとするが叶わない。縁の厚みが増すほどに罅は長く伸び、幅も広がり、流れ出る蟲除けの香りの量は増すばかりだった。
 …いかん。これはマズいことになった…
 予想外の展開に伊予守は狼狽する。
 蝝の壁は混乱を増しそれが反って罅を大きくしていった。
            *
「オカシイないぁ。あの奥女中は、確かにここから入ったんだが…」
 伊織は何度も壁を確かめるが、入口らしきものは見当たらない。
「伊織。本当にここなの?」
 青斬り、イライラ。
「確かですよ」
「でも壁しかないじゃない」
「そうなんですよね。オカシイなぁ…」
 伊織、突然不可解な表情。
「どうしたの?」
「青斬りさん。何か様子。変じゃないですか?」
「そう?」
「煙ってる?」
「えっ?」
「それに蟲除けの香りしませんか?」
「刀の時って、匂いとかダメなのよ。でも壁の向うから何かの気配を感じるわね」
「そうなんですよ」
「面倒くさいわね。スパッと切っちゃいなさいよ」
「壁をですか?」
「ダメ元」
「あまり気乗りしないなぁ…」
 不承不承、青斬りを抜くと伊織は正眼に構えた。
 そして青斬りを頭上に上げると、気合一声と共に壁を袈裟斬りにした。
 壁が消え、真っ二つに切断された二枚の障子戸が伊織の足元に落ちた。
「やっぱり幻覚だったわね」
「そのようですね」
「奥の部屋から、もの凄い蟲魂の気が伝わってくる」
「それより。蟲除けの匂いで咽そうですよ」
            *
 蟲除けの香りを放つ手箱を抱え、外へ通ずる襖の前に蛻吉は立った。
 無数の蝝は香りによって妨げられて蛻吉に近づけず、遠巻きに出方を伺う。
 彼の真正面で、伊予守が刀を構えて立っている。
 そして彼の背後には、あの奥女中、いいや後に大刀自と呼ばれる伊予守の生母か事の成り行きを見守っていた。
「旦那。お前さん、あっしをここで切り捨てちまって良いんですかい?」
「命乞いか?」
「だって旦那は後の世で、あっしと出会って蟲魂を沢山お買いになられるんですぜ。ここで殺られちまったら、珠玉の蟲魂を手に入れられませんぜ」
「うぬが如き蟲魂売りなど掃いて捨てるほど居る。切り捨てた所で痛くも痒くもない。むしろ切り捨てた後、我が友たちの糧と成し、皆を蝗とするほうが有益よ」
「生憎と、あっしはそう簡単に殺られやしやせんぜ」
 伊予守が斬りかかる。
 蛻吉は蟲鉈を構え、伊予守の初太刀を受けようとした。
 だがその時、別人が伊予守の一刀を跳ね返した。
「蛻吉さん。大丈夫ですか?」
「伊織様…」
            *
「そうだ。うっかり忘れるところで御座いました」
 そう言って徳兵衛は煙管をしまい、手元に置いていた風呂敷包を道安の前に置いた。
「何かね?」
「道安先生御所望の品。持参致した」
 風呂敷包を開けると、そこに朱色の虫籠に封印された浅黄色の蟲魂があった。
「あぁ。あの時の蟲魂だね」
 蟲魂を繁々と眺めると、道安はポツリと言った。
「矢張り、お兄様の物に比べとる少し色が濃いようだね」
「兄を連れて逃げるが精一杯でしたから。お手元にある漆黒の蟲魂が少し、私の方にも混じってしまいました。これだと、先生のお役に立つことは叶いませんでしょうか?」
「いいや。充分だよ。頂戴しても良いのかな?」
「もちろん。その為に持参致しました」
「ありがとう」
 徳兵衛は、再び煙草を吸い始めた。
「徳兵衛さん。お兄様はお元気でいらっしゃれるかな?」
「はい。山城屋さんを継ぎ、男の子が二人。娘が一人。三人の子供に恵まれ、夫婦睦まじく幸せに暮らしています」
「そうかね。それは良かった」
「あの日を境に、兄は人が変わったように穏やかで優しい兄となりました。先生が仰られた通り記憶が幾つか失われはしましたが、私との確執や蟠りは消えてしまったようです。幼い頃に仲良く一緒に過ごした記憶ばかりが残って、兄は今でも私によくしてくれます。私の妻、お勢と申しますが、あれの手料理が好きで、うちへよく遊びに来てくれます。私の一人息子の藤兵衛も可愛がってくれて、息子も兄に懐いております」
「どうやら、あの日の事は吉と出たようだね」
 徳兵衛は、漆黒の蟲魂を見ながら静かに言った。
「本当にそうなのでしょうか?」
「うん?」
「兄を助ける為だったとはいえ、兄の兄らしくあるべき部分を私は抜き取ってしまいました。でも、それが何を意味するのかを幼い私には解らなかった。むしろ幼い私は大好きな兄を救えた喜びを誇りに思い、正しいことをしたと信じて疑わないで居りました。でも、歳を重ねるにつれ、正しいと信じて行った行為に対して疑いを感じ、それが心の重荷ともなっていきました。兄の優しさに触れる度、私への思いやりに触れる度、幸せに満ちた兄や彼の家族との交流が深まれば深まるほど、私へ向けられる兄の優しいに接するにつれ、己自身が抱き、心の中の渦巻いた止まない疑念から逃れられなくなるのです」
「疑念」
「目の前で穏やかに笑い、穏やかな、幸せと愛情に包まれた兄は本当の兄なのかと」
 道安、静かに煙草を吸い続ける。
「目の前にいる兄は、私の行為によって作りかえられてしまった兄なのではないか。兄が兄らしく有り得た真の兄を私が奪ったことにより本来の兄を殺してしまったのではないか。今この時を幸せに暮らしている兄は、本当に幸せなのだろうかと思われるのです」
「徳兵衛殿」
「はい」
「何故そのように思い、ご自分を責められる?」
「人は、偽りの自分を生きて本当の幸せを得られるので御座いましょうか?」
「徳兵衛」
「はい」
「ならば、その漆黒の蟲魂をお兄様へ返すかね?」
            *
 蛻吉たちと蝝や伊予守との対峙は続いている。
 正眼の構えを崩さない伊織の肩越しに、蛻吉は事の成り行きを見守っていた。
 そんな蛻吉に伊織が話しかけた。
「蛻吉殿」
「何ですか、伊織様」
「イナゴは冬に生きられますか?」
「はあ?」
 蛻吉は伊織の端正な横顔を見つめた。
「どうですか?」
「冬。いいや、夏が終われば死にます」
「そうですよね。イナゴ。冬、生きられません」
「はい」
「蛻吉殿。少し下がっていてはもらえませぬか。一気にカタをつけたいので」
 蛻吉は、伊織に言われた通り彼から離れた。
 顔を横に向け、蛻吉を確認すると伊織は言った。
「蛻吉さん。寒くなりますから、暖かくなさって下さい」
 言い終えると伊織は、青斬りを持った手をだらりと下げて言った。
「無雹 霞漸雹(かすみざんひょう)の太刀」
 伊織は、青斬りで円を描くように回す。
 すると不思議な事に空気が凍り、突然無数の雹が現れ宙空で静止する。
 …うわ。こりゃあ凍えるぜ…
 蛻吉は火入れを両手で挟み持って暖を取った。
 突然のことに伊予守の全身は凍り、動きが封じられた。
 続いて伊織は正眼の構えに戻るや横一文字に空を切り裂いた。
 静止していた雹が真っ二つに割れる。
 伊織は青斬りを手に振りかぶるや踏み出し、伊予守を切り裂く。
 書院に満ちていた雹が粉々に砕け、蝝を貫いて粉々に砕いた。
 縦真っ二つに割れる伊予守の身体。
 大刀自の悲鳴。
 左右に割れた伊予守の身体から、漆黒の蟲魂が落ちて畳の上を転がる。
 大刀自はそれを拾い上げた。
 一瞬、彼女は伊織と目を合わせた。
 …あなたは…
 伊織が思うや、大刀自は袖で顔を隠す。
 やがて彼女は姿を消した。
 蛻吉が顔を上げると、伊織の笑顔があった。
「蛻吉さん。取り敢えず終わりましたよ」
 書院は何事も無かったかのように静寂を取り戻した。
 蛻吉と徳兵衛は、告げ口虫を介した会話を始めた。

『徳兵衛。どうにか片付けたぜ』
『ご苦労さん』
『伊織の旦那のお陰さ』
『伊織様がねぇ。あたしゃ、何の役にも立てなかったけど、お前さんは運が良いから切り抜けられると思っていたよ』
『まぁな。だがよ、今回は徳兵衛のお陰で命拾したぜ』
『えっ。あたしが何か役に立つようなことをしたかい?』
『お前の蟲除けの薬。全ーんぶ使わせてもらったぜ』
『えっ。ぜ、全部かい?』
 心なしか徳兵衛の声が、微かに震えている。
『ああ。一つ残らず。きれいサッパリ。全ーんぶな。ありがとうよッ』
 普段涼しい顔の徳兵衛が地団駄踏んで悔しがる顔を想像して蛻吉は、ニヤリと笑った。
            *
「どうやら終わったようです」
「そうか。終わったかね」
「ですから申しました通りだったでしょう?」
「うん?」
「蛻吉は運の強い奴だから大丈夫だって」
「そうだね。だが徳兵衛さんは浮かない顔のようだが?」
「長年を掛けて集めた蟲除けの薬を蛻吉のやつに全部使われちまいましてね」
 立腹して不機嫌な徳兵衛を見て、道安は笑った。
「お前さんでも腹を立てることがあるんだねぇ」
「喫煙の手箱を根津屋敷に忘れてきた自分の落ち度、大事な手箱を蛻吉の奴に預けざるを得なかった不運。その二つの不手際に腹を立てているだけで御座いますよ」
「だけど、お仲間は助かった」
「はい。あの手箱との縁はそれまでと、きっぱり諦めることに致します」
「そうだね。それが良い」
「今日の所は、この辺でお暇させて頂きます」
「どうせ、また来るのだろう?」
「はい。大刀自様や蛻吉のことも含めて色々と、伺いとう御座いますから」
「何もかも、お見通しかね?」
「そこまでは。ただの勘で御座いますよ」
「話す気になったら虫の知らせを走らせるとしよう」
「是非。ただ出来れば、お早い目の知らせをお待ち申し上げます」
「あぁ、お仲間たちの命が掛かっているか。期待に沿えるよう心掛けるとしよう」
            *
 徳兵衛が家に戻ると、兄が家族と一緒に来ていた。
「お帰り」
「兄さん」
「商いは首尾よく運んだかい?」
「はい」
「良かったね」
「今日は?」
「お勢さんの手料理が恋しくなってね。押しかけちまったよ」
「旦那様。お戻りになられましたね」
 お勢、心なしかウキウキしている。
「夕餉の支度が整いましたら。二人とも早く、早く…」
 兄弟たちの子供達も現れ、二人の手を引いた。
「兄様。さぁ、参りましょう」
「そうしよう」
 肩に回した兄の手から伝わる温もりが、徳兵衛の心の強張りをジワリと解きほぐした。
            *
 兄の家族が帰った後、徳兵衛は書庫で今日の顛末を日記に書いた。
 全てを書き終えて日記帳を閉じると徳兵衛はフッと息を漏らし、道安から譲り受けた漆黒の蟲魂が封印されている朱色の虫籠に触れた。
 漆黒の蟲魂はピクリとも動かない。
「眠っているのかい?」
 そう呟きながら、徳兵衛は穏やかな笑みを浮かべた。
 …お前さん。あたしのことが嫌いだろ…
 徳兵衛がそう思っても、漆黒の蟲魂は反応しなかった。
 ふと、夕餉を共に少した兄と彼の家族の幸せな顔が思い出された。
 …今更、こいつを戻されても、兄貴は困るだろうね…
 徳兵衛は朱色の虫籠を指先で弾いた。
 籠が少し震えた。
 それでも、漆黒の蟲魂は身じろぎ一つ見せなかった。
 …狸寝入りだろ。分っているよ…
 ニヤッと笑み。
 そして、真顔。
 …墓場まで持って行くさ…
 もう一度、徳兵衛は朱色の虫籠を指先で弾くと言った。
「嫌われ者、厄介者同士。楽しく過ごすとしようじゃないか」


(中編『座敷牢』へ続く)
(次回アップ予定:2021.9.6)


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