見出し画像

楽趣公園(ルーチー・コンユァン) 最終話-茶油麺線(Tea oil somen noodies)-

 サミーが帰国する日。
 羽田空港、出国ロビー。
「サミー。頼んだことが判ったら知らせてね」
「うん。任せろ」
「台北に着いたら連絡くれよ」
「あぁ。分かってる。でも、いつもそうしてるだろう?」
「それでもさ、念のため」
 サミーは、子犬を撫でるような仕草で純太の頭を撫でた。
「子供っぽいから止めろよ」
 照れる純太を、サミーは抱締めた。
「サミー。周りの人が見てるって」
「構わないさ」
 ふっと笑いがこぼれ、純太もまたサミーを抱締めた。
 自分より背の高いサミーに抱きしめられると、いつも決まって力の抜けるような安堵が
が純太の心を広がる。
 サミーが、ふと呟いた。
「小純(シャオジュン)。もう、こんな別れは、今回でお終いにするから」
「えっ?」
 純太が顔を上げると、サミーが優しく笑って彼の目を見つめている。
「小純。我愛您」
 サミーは再び、純太を強く抱きしめた。
             *
 一年後。
 パンデミックの鎮静化に伴って世界の国々で、渡航制限が撤廃された。
 そして、台湾政府も渡航制限撤廃を宣言した。
 真由美は、その様子を伝えるニュースを店のテレビで見ていた。
 そして杖をついて徐に立ち上がると、彼女は母屋へ姿を消す。
 チーーーン。
 仏壇の鐘の音が店先まで届くと、物憂げに首を上げたキジトラがミャーォと鳴いた。
             *
「イー、アー、サン」
 太極拳体操の掛け声が響く公園。
 いつものテーブルベンチに腰掛けた純太と真由美は、PCの画面越しに老板、サミーの二人と話している。
「老板。それって、台湾大学が真由美さんを招待してくれるってこと?」
『純さん。それは、ちょっと違うね。真由美さんの義父にあたる坂本富三郎先生と、ご主人の坂本林太郎さんを彼らの台湾大学への貢献に対して、同窓会から感謝の意を表したいということになったわけさ。表彰に当たっては大学を使って良いと許可が下りてね。農場に林太郎さんの遺爪を埋めるというのは無理だったけどね』
「そっか。まぁ、国立大学だから無理筋かなって思ってたんだけど」
『がっかりするなよ、小純。老板にしては、かなり頑張ったから』
『なんだよ。かなり頑張ったって。サミー、酷いね』
 老板、小純、サミーの三人は笑った。
「老板さん。ありがとうございました。亡くなった主人や義父も喜ぶと思います」
「それでサミー、表彰式の日程とか決まってるの?」
『決まってるんだけど、ちょうどゲイパレードの直前なんた』
「えっ。それじゃあ、ホテルとか予約取れないんじゃない?」
「ゲイパレード。何だい、それ?」
『真由美さん。ゲイパレードってね、ゲイのお祭りですよ。世界中からLGBTの人たちが来てくれてねぇ。ウチのお茶もたくさん売れるから助かってますよ』
『あんた。つまらないこと言わないでよ。恥ずかしいねぇ』
 富富の散歩から戻った太太が、会話に加わった。
「サミー。そうだとすると、もうホテルとか取れないんじゃない?」
『残念ながらどこも一杯でさ、真由美さんの泊まるところを確保するのが精いっぱい』
「えっ。それじゃあ、あたし一人で台北へ行くのかい?」
『真由美さん。大丈夫、大丈夫。純さんが一緒だから』
「だけど泊まるところが無いんだろ?」
『真由美さん。心配しなくてもあるから大丈夫よ』
 太太がそう言うと、サミーはニヤニヤし始めた。
「えっ?」
 横にいる純太へ目をやると、彼もまたニヤニヤ。
「ああー、そういうことだね。ごちそうさま」
『一年振りのリアル再会だから。二人っきりにしてやらないと』
 太太、ニヤニヤ。
「いやいやいや。真由美さん、台北のご案内は僕がちゃんとしますから」
「いいよ、好いよ。無理しなくてさ」
『そうだよ。あたしが真由美さんを案内するから、大船に乗ったつもりで居て好いよ』
『太太。私だっているから』
 太太、老板の顔をジッと見て一言。
『運転手で大活躍してね』
             *
 羽田台北松山機場へ向かう飛行機の中。
「真由美さん、飛行機は初めてですか?」
 ビールを飲み、普段よりは静かな様子の彼女に純太は話しかけた。
「今回で三度目かね。前は、前の二回は沖縄へ行く時だったよ。海外は初めてだけどね」
「具合とか大丈夫ですか?」
「平気だよ。ただ、高い所が苦手でね」
 そうとは知らず窓側の席を用意したことを、純太は少し後悔した。
「少し眠らせてもらうよ。おやすみ」
             *
 方々で、正月の厄払いの爆竹の音が絶え間なく響く。
 台北市内を流れる淡水川の河原には物売りの屋台が建ち並び、元宵節を祝う浮かれる人々で賑わっていた。
 その日、林太郎は両親と一緒にここに来ていた。
「林太郎ッ」
 呼び止められ、声のする方へ向くと小学校の同級で親友の林田龍英と妹の梅芳がいた。
「やぁ。ロンイン。メイファン」
 二人を普段通りそう呼んだ林太郎だったが、父の富三郎から諭されるように言われた。
「林太郎。ここは他の人も多いから、名前は内地風に言いなさい」
「はぁーい」
「坂本さん。ご家族でいらっしゃってましたか」
 龍英と梅芳の父で、猫空(まおこん)に代々から引き継がれてきた広大な茶園を有する林家の当主、林龍太(ロンタイ)が、富三郎へ話し掛けてきた。
「いやぁ、林田さん。ご家族でいらしてたんですな」
 改姓政策が推進され、林から内地風の呼び名である林田を苗字として使っていた。
「明けましておめでとうございます」
「こちらこそ。今年も宜しくお願い致します」
 龍明たちの実家は台北郊外の山中の猫空にあるが、商売の都合から茶葉を販売する店は大稲埕にあり、普段は富三郎一家が居を構える青田街の一角に家を構えて住んでいる。双方の家が近所にあったことに加え、台湾大学で茶葉の改良研究をしていた関係から林家を訪れることが多く、その関係もあって両家の親交は深かった。
 林太郎と龍英は同じ歳。
 二人は幼馴染から親友となっていた。
「タイロン。天燈上げ、見に行こうぜ」
 龍英は普段、林太郎のことをタイロンと呼んでいる。
「メイファン。一緒に行こう」
 林太郎は、彼女の手を握って龍英の後を追った。
「こら。龍英。あまり遠くへ行くんじゃないぞ。まったく落ち着きが無くて」
 龍太、渋い顔。
「好いじゃないですか。元気があって」
 そう言って富三郎は、三人を見送った。
             *
 お昼の機内食が配られ始めた。
 純太は、眠っている真由美に声を掛ける。
「真由美さん。もう直ぐ食事がきますよ」
 起きる気配はない。
 純太が振り向くと、キャビンアテンダントと目が合った。
「彼女。ぐっすり眠っているみたいですから。食事は置いといて下さい。それと、飲み物はビールでお願いします」
             *
 林太郎、龍英と梅芳の三人は、屋台のオヤジが焼いている葱抓餅(ツォンジャアピン)をジッと見つめていた。
親たちは、三人の様子を見て一様に溜息を漏らした。
「龍英。涎が出てるぞ」
 龍明に言われ、龍英は袖で慌てて口を拭った。
「まったく、あなた達ときたら。葱抓餅なら永康街のお店で毎日食べてるでしょう」
「母さん。まぁ、そう言いなさんな。好きな物って、目にしたら食べたくなるものだよ」
「もう。お父さんは、そうやって林太郎たちを甘やかすから」
「葱抓餅、三つ」
 富三郎が注文すると、大人たちが呆れるほど子供たちは大はしゃぎした。
             *
「お食事は和食と中華からお選び頂けますが、如何なされますか?」
 キャビンアテンダントは、真由美の食事の選択を純太に訊いた。
「あぁ。中華でお願いします」
             *
 葱抓餅を食べながら三人は、天燈上げを眺めた。
 快晴の冬空は、天燈でひしめいていた。
「色が無いのが残念だね」
 そう言う龍明に梅芳が聞いた。
「色?」
「本当はね、お願いしたい事によって、紙の色を変えるんだよ。例えば、桃色だったら幸せになれますように、橙色だったら好きな人と結ばれるようにとね。すると天の神様やご先祖さまたちに早く伝わるだろう」
 梅芳は空を見上げると、呟くように言った。
「みんな、白い色だね…」
「そうだね。でも、白い紙でもお願い事はちゃんと伝わるんだよ」
「父さん。僕も天燈上げをしたい」
「あっ。あたしも」
「メイファンはダメなんだぞ」
「何でよ、お兄ちゃん」
「女だから、一人で上げちゃダメなんだ」
 龍明が息子をたしなめ様と何か言おうとした矢先、林太郎が言った。
「メイファン。僕と一緒に上げよう」
 それまで拗ねていた梅芳の表情が、パッと明るく変わった。
「お願いごと何にしたの?」
 林太郎がそう言って見ようとすると、梅芳は願い事を手で隠した。
「ダメ。見ちゃ」
「見せてよ」
「ダメ」
「あッ」
 龍英の叫び声。
 天燈を上げた直後に突風が吹き、大きく傾いて覆いの紙へ火が燃え移った。
 彼の上げた天燈は火の玉となって昇って行った。
 梅芳が兄の騒ぎに気を取られている間、林太郎は彼女の願い事を見た。

『林太郎兄さんのお嫁さんになれますように』

「あっ。見たっ?」
「えっ。見て無いよ」
「うそ。見たでしょう?」
「見てないって。大丈夫だから。一緒に上げよう」
 二人は、空の彼方へ遠ざかって行く天燈を見上げた。
「メイファン。今度は、夜に上げようね」
「夜?」
「すっごく綺麗なんだ」
「うん」
             *
 真由美、目覚める。
「あっ。真由美さん。起きました?」
「あぁ。眠ってたね」
「ランチ。中華を選んじゃいましたけど良かったですか?」
「好いよ。それで」
 メインディッシュは、蒸し鶏のネギソースかけだった。
「美味しそうだねぇ」
 シャキッとした爽やかな葱の歯応えと肉汁と絡んだ甘みが口に広がる。
「美味しい。それに何だか懐かしい味だよ」
             *
 間もなく台北松山機場へ到着するアナウンスが機内に流れた。
 真由美は窓から台北の町を眺めている。
「平気ですか?」
「えっ?」
「高い所が苦手だと言ってたから」
「高過ぎると平気みたいだよ。東京とは違う景色だね」
「気に入りそうですか?」
 彼女は頷いて言った。
「きっと気に入るよ」
             *
 荷物受取所で待つ間、真由美は何だかソワソワしていた。
「随分と大勢の人が居るねぇ」
「平日なのにこの賑わい。どちらかと言えば混雑気味ですかね」
「ふーん。それにしても男の人が多いこと」
「ゲイパレードが近いですから。それで多いんでしょう」
 真由美、目をキョロキョロさせて見回す。
「イケメンも沢山いるねぇ」
 純太、笑いを堪える。
「何だよ。何がおかしいんだい?」
「気に入った人、見つかりました?」
「馬鹿言ってんじゃないよ」
「あぁ。いるんだ」
「うるさいよ」
「お幸せに!」
「もうっ」
「でも一つだけ。ここも含めて、普段に比べてLGBTの人が多いですよ」
「わかってるよ。夢を壊さないでおくれ」
             *
 入国ロビーに出た時、出迎える人々の熱気で真由美は一瞬たじろいでしまった。
「うわっ。凄い。こんなの久しぶりに見た」
 そう言って見回した出迎えの人々の中に自分達の名前が記されたネームプレートを見つけて純太は苦笑する。
「何だか照れくさいなぁ」
 老板が、周囲の熱気に負けじと手を振っている。
「真由美さん。あそこ。老板がいますよ」
「えっ。おや、老板さん。太太さんも一緒だねぇ」
 真由美は二人へ手を振って返した。
 純太も同様に手を上げたが、突然後ろから誰かに抱かれた。
 前に回した手を握って純太、満面の笑み。
「小純。お帰り」
「サミー。ただいま」
 サミーは純太の頬にキス。
 真由美が咳払いした。
「あぁっ。真由美さん」
「あぁ、じゃないよ。まったく。相変わらず、オアツイ二人だね」
             *
 五人は、老板の車で真由美が泊まるホテルへ向かった。
「真由美さん。中山にある日系のホテルを予約してありますから。スタッフは全員、日本語が話せますから安心して下さい」
「あぁ。あのホテル。一度、泊まったことがあるけど、好いホテルでしたよ。ホテルの周りも静かだし」
「そうかい。先生も同じホテルかい?」
 純太は、笑いながら答えた。
「僕は、サミーの家に泊まりますから」
「あぁ。そうだったね。野暮なことを聞いちゃってゴメンよ」
「ところで真由美さん。明日は、どこか行きたいところがありますか?」
「そうだねぇ…」
「どこでも、お好きな所をご案内しますよ」
 サミーに即されて真由美は答えた。
「青田街って知ってるかい?」
「もちろん。永康街の隣町ですよね」
「そこへ行ってみたいんだよ」
「青田街」
 老板は少し不思議そうな表情を浮かべる。
「亡くなった連れ合いが住んでいた町らしいんだよ」
「日本人が多く住んでた町だって聞いてましたけど、ご主人も住んでいたのね。高級住宅街だったんでしょう?」
「義父は台湾大学で教鞭をとってましたからねぇ。その関係で官舎よろしく家を借りて住んでいたみたいだよ」
「ふーん。お金持ち」
 太太がそう言うと、老板がちょっとドヤ顔で言った。
「ウチも青田街の住人だったんだよ」
「えっ?」
「戦争が終わるまで、オヤジが手広く商売やっててね。店も大稲埕にあってさ。猫空だと何かと不便だから青田街の家を買って住んでいたんだよ」
「義父さんは立派だったね。あんたの代で庶民に戻っちゃったけど」
「でも幸せだろ。細く長くが、気楽で好いんだよ」
「青田街へ行くのなら、包子(パオツー)の店を予約したら」
「今から取れるかなぁ?」
「実はねぇ。永康街で食べたい物があるんだよ」
「何に食べたいんです?」
「葱抓餅」
「?」
「…」
「ダメかい?」
「ダメじゃないけど。葱抓餅なら町中に売っている屋台がありますよ」
「永康街みたいなお洒落な街じゃ、もう食べられないかねぇ」
「いえいえ。老舗の葱抓餅屋さんがありますよ。私もね、子供の頃によく食べてました。結構旨くて、今でも人気ですよ」
「本当に食べたいんですか?」
「亡くなった連れ合いがね、子供の頃によく食べてたみたいなんだよ。どんな味なのかなと思ってね。でも、やっぱり行かない方が良いかね?」
「そんな事はありませんよ。真由美さん、ご案内します」
             *
 夕方、ホテルのロビー。
 荷解きを終えて、真由美が姿を現した。
「真由美さん。美味しいものを食べに行きましょう」
 太太の提案に彼女は笑った答えた。
「純さんたちも行くだろう?」
 老板がそう言うと、二人は曖昧に笑った。
「あれっ。二人は行かないのかい?」
 真由美が聞くと、純太が申し訳なそうな顔つきで答えた。
「今夜はちょっと、二人で行きたいところがあって」
「二人でね」
 太太、ニヤニヤ。
「今日。僕と純太が出会った日なんです」
「おや。そうだったのかい。二人の運命の出会いはどうだったんだい?」
「運命かぁ。そうとも言えなくもないなぁ」
 老板、意味深。
「老板さん。知ってのかい?」
「太太もね。サミーから何回聞かされたことか。純太が屋台での麺の注文で困っているところを助けたんだったね」
「はい」
 二人、ニヤニヤ。
「その後、サミーと純太の愛が深まったというわけですよ」
 老板と太太、ニヤニヤ。
「先生。早く言っておくれよ。記念日なんだろ。早く、二人でね」
 三人は、二人を見送る。
 太太が、ふと呟いた。
「若いって良いわね…」
「太太さん。年寄くさいよ。あたしたちだって、若い者に負けちゃいられないよ」
「真由美さんこそ、年寄みたいですよ」
 三人、苦笑。
             *
 CLUB‐Fの入口は普段の週末以上の混雑だった。
「すごく混んでるね。ちょっと出遅れたかな」
「ゲイパレード前だからね。でもさ、今日で良かったよ」
「どうして?」
「平日で、まだ七時過ぎなのにこの盛況ぶりだろ。週末だと入れないかもしれないから、今日来て正解だったよ」
「ねぇ。何で出会った日に僕がゲイだって判ったの?」
 サミーは、にやにやしながら答えた。
「麺を二人で食べていた時、この店の名前を出したら、反応していたからね」
「反応って?」
「週末になると千人くらいゲイが集まって楽しいよって振ったらさ、そんなの興味ないって感じの素振りになって。その様子がぎこちないから可愛いなって思ったよ」
 純太、溜息。
「ちょっと期待してさ。それで週末のCLUB‐Fへ行ったんだ。店への入り方がわからなくて不安そうにウロウロしている君を見つけた時、心の中でガッツポーズしたよ。滅茶苦茶嬉しかったんだけど、偶然を装って声を掛けた」
「やっぱりそうだったんだ。偶然しちゃ、出来過ぎだと思ってたんだ」
「でも、運命の出会いだったと思うよ」
「どうして?」
「千人の中から純太を、ちゃんと見つけたんだから」
「クサイよ。その台詞」
 二人はCLUB‐Fへ入って行った。
             *
 翌日のお昼近く、真由美がホテルのロビーで迎えを待っていると太太が現れた。
「おや、太太。それに老板さんも」
「純太とサミー。今日は来れないって」
 太太、ニヤニヤ。
「えっ。二人、具合でも悪いのかい?」
「具合は好いと思うよ」
「ちょっと、あんたは…」
 太太、老板を軽くはたく。
 二人の様子から察した真由美は、笑って言った。
「葱抓餅、三人で美味しく食べるとしましょうかね」
             *
 先に目を覚ました純太がサミーの寝顔を見つめていると、彼も目覚めた。
「起きてたの?」
「ちょっと前に目が覚めた」
 サミー、純太の髪の毛にキス。
「なぁ。覚えてる?」
「何?」
「初めて会った屋台で食べた麺のこと」
「名前は忘れたけど葱入りの麺線だったね」
「うん」
「小純(シャオジュン)。怖い顔して麺を見てたよ」
「お腹空いて。食べたいけど上手く言えなくて。そのうち屋台の人も待ってるお客さんたちも苛々し始めて。八方塞がりみたいな気持ちになって、表情も強張っちゃって困った」
「僕がツンツンって突いたら、もの凄く怖い顔で見てさ」
 二人、失笑。
「日本人だって直ぐ判ったよ。日本語で話しかけたら泣きそうな顔してたね」
「してないよ。でもさ『それ、食べたいの?』って日本語で言われた時、地獄で仏に会ったみたいな感じだった」
「僕も食べたかった麺線だったから『一緒に食べよう』って誘ったらOKしてくれて。それが嬉しかったよ」
「あの状況だったからね。不思議と警戒もせずにOKしたんだけど、ひょっとしてナンパとかだった?」
「違うよ。食い気の方が勝ってたし」
「やっぱり、ナンパじゃん」
「疑り深いなぁ。二人分を一緒に頼めば早く食べれるだろ」
「ふーん」
「あの時、小純の心、滅茶苦茶殻に閉じこもっていたよね」
「失恋の直後だったし。他にも色々とあって。会社を辞めて、今の仕事を始めて。でも、思ったほど順調に進まなくて。孤軍奮闘、四面楚歌、メチャ孤立って感じで辛かったよ。気分を変えようって台北に来たけど、言葉もあまり通じないし。慣れないことも多くて。帰国まで一週間くらい残っているのにどうしようって。すごく不安だった」
「旅行なのに、折角の台北を満喫してないなぁって感じてさ。自分もちょうど休暇中だったから、色々な場所を案内してあげたいなって思った」
「でも、いきなり茶油麺線のことを話し始めたから、ちょっと戸惑った」
「何で?」
「だって、麺線が美味しいって評判の店で、もっと美味しいのがあるって自慢し始めるから。店の人に聞こえたらどうするんだってドキドキしたよ」
「大丈夫だよ。日本語でしゃべってたし。分らないよ」
 二人、笑う。
「その後、猫空のことを話し始めて。サミー、滅茶苦茶楽しそうに話すから。イヤな事なんか自然に忘れちゃって。楽しかった。気分も解れたし。猫空、行ってみたくなって。知り合ったばかりの人に連れてってもらうなんて大丈夫かなって、普段の自分だったら警戒してたはずなのにさ、あの時はそんな気持ちに全くならなくて。不思議だったなぁ」
「茶油麺線も美味しかっただろう?」
「絶品。太太の麺線は、最高だよ。老板にも出会えて。本当に良かったよ」
「実はさ、あの時は純太の気を引こうと必死だったんだ」
「えっ。そうだったの?」
「会って、直ぐ好きになってさ。少しでも長く一緒にいたいから、あの手、この手。共通の話題とか分からないから、麺の話から始めたんだ。話しているうちに太太の麺線の味を思い出して。必死だった」
「そうだったんだ」
「猫空なら二人きりになれるし」
「えっ?」
「山頂までロープウェイだから。足元から下の景色が見えるゴンドラの話をしたら、純太、ものすごくノッてきちゃって。案内することになって。平静を装っていたけど、本当は心の中でガッツポーズしてた」
「やっぱりナンパだったんだ」
「違う、違う」
「まぁ、好いけどね。僕だって、サミーと一緒にいたかったし。熱心に誘われて嬉しかったよ。あっ…」
「えっ。どうしたの?」
「ひょっとして、CLUB‐Fも作戦だった?」
「ない、ない。あれは、本当に偶然だから」
「本当かなぁ?」
「確かにさぁ、純太に会えないかなって淡い期待はしてたけど。会えるとは全然考えていなかった。だからさ、あの人混みの中で純太を見つけた時時、これはもう絶対に運命だって。ガチで確信したよ」
「それって、ちょっと怖くない?」
「じゃあ、小純はどうだったの?」
「うーん。ビックリしたけど、もっと単純かな」
「単純?」
「あっ。サミーもゲイだったんだなって。単純にそう思った」
「…」
 サミー、ちょっとガッカリ顔。
 そんな彼を見て、純太は笑いながら言った。
「だから、すごく嬉しかったんだ。もしかしたら恋人になれるかもって、期待しから」
             *
 葱抓餅が焼き上がるのを待っているお客が数人いる、そんなローカルな店だった。
 …ふーん。こういう味だったんだね…
 真由美は一口食べるなり、心の中でそう思いながら林太郎の顔を思い出していた。
 三人は店からほど近いところにある公園で葱抓餅を食べていた。
 老板にとっても葱抓餅はソウルフード。
懐かしかったのか、昔話と葱抓餅自慢を太太としている。
…おや。あれは林太郎…
その男は公園から出る所を見掛けたのだか、彼の後ろ姿は林太郎に似ていた。
真由美は無意識に杖を持って立ち上がり、その男の後を追った。
老板と太太は会話に夢中で公園から出ようとしている真由美に気がつかなかった。

 昭和文物市場。

 林太郎によく似た男は、表の入口の上にそう書かれた看板の掛かっているビルに姿を消した。
 そして真由美もまた、彼の後を追ってビルの中へ入って行った。
 薄暗い廊下の両脇にアンティークを扱う店舗が並んでいた。
 …おや。懐かしいねぇ…
 昭和の匂いのする品物が多い。
 真由美は店巡りに熱中し、彼女の脳裏を林太郎との思い出が次々に駆け巡った。
 彼女は、子供たちの声を耳にして足を止めた。
             *
 突き当りに階段に座る三人の子供たち。
 女の子を挟んで男の子が座っている。
「お兄ちゃん、ズルい」
「龍英(ロンイン)、梅芳(メイファン)に少し分けてあげなよ」
「嫌だよ。だから言ったんだ。みんなで一緒に食べようっていってるのに、先にメイファン一人が食べちゃうから。気にしなくて良いよ。林太郎。二人で食べようぜ」
 ロンイン、自分の葱抓餅にかじりつく。
「あぁ」
 メイファンは急に泣き出した。
「泣かなくて良いよ。メイファン。ほら、二人で分けて食べよう」
 林太郎は葱抓餅を二つに分けて彼女へ渡した。
 メイファンは泣きじゃくりながら葱抓餅を持つと、それを一口食べた。
「美味しい?」
 彼女は頷いた。
「ありがとう」
 頷くと、林太郎も葱抓餅を食べた。
「まったく。林太郎(リンタイラン)はメイファンに甘いよ」
 そう言うと龍英は、残りの葱抓餅を夢中で食べ始めた。
             *
「真由美さんッ」
 太太が自分を呼ぶ声で真由美は振り向いた。
「もう。探した。居なくなっちゃったから心配したんだから」
「見つかった。良かった…」
「あっ。ごめんなさい」
「どうしちゃったの。急に…」
 …林太郎によく似た男の人を追ってここへ来たとも言えないし…
「まぁ。見つかったんだし。良いじゃないか。それにしても、よくこんな場所を見つけましたねぇ」
「あたしも知らなかったわ。こんな場所があったのね」
 太太、興味津々。
「真由美さん。お願いだから、もう一人でどっか行っちゃうのは止めてね。もしそうしたくなったら声を掛けて」
「はい。そうさせてもらうよ」
 太太と老板、店巡りを始める。
 真由美は三人の子供たちのことを思い出して振り向き、階段を見るが彼らの姿はない。
 …ロンイン。メイファン…
 …そして、ロンタイラン…
             *
 台湾大学。
 真由美は表彰式の事前打ち合わせのために老板たちと台湾大学に来ていた。
 式典の細かい段取り打合わせの最中、真由美は窓の外に見える農場を見て訊いた。
「あのー。こんな時に何なんだけどねぇ」
「真由美さん。どうされました?」
 純太が尋ねると真由美はニッコリ笑って言った。
「あれ。ひょっとして農学部の農場かね?」
「あぁ。そうですよ」
 老板が答えると、真由美。
「ちょっと見させてもらって良いかね」
「えっ。真由美さん。まだ打合わせの途中ですよ」
 戸惑う純太を横に、大学側のスタッフが笑顔で答えた。
「大丈夫ですよ。ご覧になって下さい。ご案内しますよ」
「あぁ。打合わせを続けて下さい。一人で見に行ってきますよ」
「真由美さん。大丈夫?」
 太太、心配気。
「大丈夫。大丈夫。ちょっと見させてもらうだけだから。直ぐに戻るから」
「でも、迷ったら…」
「その時は、これで太太さんに連絡するから」
 真由美はスマホを振って見せた。
「そう。何かあったら直ぐ電話して下さいね」
「そうさせてもらうよ」
 真由美は杖を片手に部屋を出て行った。
 整然と整備され、かなり広い農場だった。
 畑、田んぼ、ビニールハウスが見える。
 風が心地よい。
 農場を一望できる学生向けのコーヒーショップが目に入り、真由美はそこへ向かった。
 支払いはカード。
 余り会話も交わせずにコーヒーを買った。
「謝謝」
 学生バイトらしい女の子がちょっと口角を上げて、真由美に優しく言った。
「謝謝」
 便利な世の中になったものだと、真由美は思った。
 小銭のやり取りがあると面倒でこんな感じにスイスイと行かなかっただろうけど、これもパンデミックのお陰だと妙に感じ入りながら、彼女はコーヒーカップを手にした。
「ちょっと大きめのカップだねぇ」
 苦笑しながらカップを持ち上げ、一口飲んで彼女はホッとした。
 …おや。茶畑もあるんだねぇ…
 それは普段から見慣れた、お茶の木の隊列だった。
 コーヒーを飲みながらその景色を見ていると、自分は坂本園にいるのではないかと何度も錯覚に陥って彼女は苦笑する。
「リンタイロンっ」
 その名を聞いて、真由美はえっと思った。
 女学生に呼ばれた男子が茶の木の間からヌッと身体を起し、彼女を見つめると手を振って名前を叫んだ。
「メイファン」
「えっ。偶然かい。リンタイロンとメイファンって…」
 そして二人は、真由美の隣に座った。
             *
「もう。デートっていうから。大学の農場じゃない」
「ここだと人目を気にせず会えるじゃないか」
「でもなぁ…」
「俺は親父の研究室に用事があるって口実で出入りできるし、メイファンの父さんは俺の親父の研究のスポンサーだから出入りしてても不自然じゃない。外で二人っきりで逢ったりしてるところを人に見られでもしたら何を言われるか分らないご時世だもん。逢引きには格好の場所さ」
 林太郎は、鞄の中からポットとコップを取り出した。
「お茶を淹れるよ」
 お茶の入ったコップをメイファンの前に置いた。
「ありがとう。でもなぁ。全然ロマンチックじゃ無いじゃない」
 林太郎は笑いながら言った。
「淡水。一緒に行かないか?」
「二人で?」
「うーん。まぁ、結果的には二人になるかな」
「何それ?」
「来週末、親父が淡水の大学で講演するんだ。俺にもついて来いって」
「あぁ。その講演なら、うちの父も行くって言ってた」
「講演の間、ちょっと抜け出して見に行こう。だから、君にもお父さんと一緒に来て欲しいんだよ」
「無理よ」
「大丈夫。君の親父さん。君に甘いから。一緒に行きたいってせがんだら、きっとダメとは言わないんじゃないかな」
「あー。そうよねぇ」
 メイファン、悪戯っぽく笑う。
「淡水の夕日の景色を見せたいんだ」
「夕日の景色?」
「水面に夕日が当たるとさ、水面とさざ波がオレンジ色の夕日に染まってキラキラ輝いて。ものすごく綺麗なんだよ。だから君にあの景色を絶対見せたいんだ」
「あたしに?」
 林太郎は頷いて見せた。
「淡水の夕日かぁ。早く見てみたいなぁ…」
             *
「真由美さん。…まゆみさんッ」
 純太の声で彼女は目を覚ました。
「こんな所で居眠りしたら風邪をひきますよ」
「あぁ。寝ちゃってたんだね。夢を見ていたよ」
 呆れたような顔つきで、純太は笑った。
「打合わせ。終わったのかい?」
「はい。バッチリ。後は表彰式に臨むだけですよ」
「本当に良いのかねぇ。あたしなんかが、ご大層な表彰を受けちゃって」
「良いんですよ。義理のお父さんと亡くなったご主人の代理なんですから。真由美ん以外に適役はあり得ないですから」
「ちょっと緊張するよ」
「大丈夫。大丈夫」
 二人、それぞれに笑顔。
「先生。淡水って場所を知っているかい?」
「もちろん知ってますよ。と、言うか僕にとっては忘れられない思い出の場所ですから」
「へぇー。綺麗な場所かい?」
「淡水川が海と合流する河口にある町で、船の行き来が多い場所です。夕方になると水面が夕焼けに照らされてキラキラ輝いて、川辺の建物もオレンジ色に輝いて。マジで素敵な場所ですよ。夜市も賑やかだし。ところで淡水がどうかされました?」
「連れて行ってくれないかねぇ。夕焼けの景色、見たいんだよ」
             *
 龍英の父親、龍太(ロンタイ)が運転する車は、淡水へ向かっていた。
 悪路ではなかったがガタガタ揺れる。
「富三郎先生は、昨日のうちに淡水へ行かれたのかね?」
「はい。向こうで会う人が何人も居るらしく。ロンタイおじさん、誘われませんでした?」
 龍太は笑って答えた。
「私は下戸だから。富三郎先生が気を遣って頂いたんだろう」
 林太郎は龍太の言葉を聞き流しながら、助手席に座る梅芳の横顔を見た。
 そんな彼の頭を龍英が、軽く小突いた。
「な、何だよ」
「抜け駆けしやがって」
「えっ」
「惚けやがって。メイファンと二人、なんて画策してたろ」
「そ、そんなことは…」
「お前がやろうとしていることなんか、全部お見通しなんだよ」
 林太郎、渋い顔。
「まぁ、俺が来てやったから安心しろ」
「な、なんだよ」
 龍英は林太郎の耳元で、コソコソ声で言った。
「俺に任せろ」
「…」
「ちゃんと、二人っきりにしてやるから」
 そう言うと龍英は窓の外の景色を見た。
 林太郎は苦笑し、再び梅芳の横顔を見つめた。
             *
「やっぱり」
「予想通り」
 淡水駅前の混雑を前にして、真由美は唖然として立ち尽くした。
「すごい人出だねぇ…」
「ゲイパレード前だし、今日の天気抜群に良いから混むと思ったんだよね」
「でも例の店、予約したんでしょ?」
 純太がそう言うとサミーはドヤ顔で頷いた。
「ばっちり。貸し切りにしたし」
「えっ。貸し切りかい?」
 真由美、思わずサミーの顔を見る。
「大丈夫なのかい?」
「えっ、どうしました?」
「だって、書き入れ時だろう。それにこんな時期に貸し切りなんて、高いだろ」
「大丈夫ですよ。そこ、僕たちが初デートした時に利用したお店ですから」
「そうだからって…」
「真由美さん。心配なさらなくても平気ですよ。そのお店、僕の姉がやっているカフェですから。眺めが最高なんですよ。さぁ、行きましょう」
             *
 龍英にしては珍しく有言実行により、林太郎と梅芳は二人きりになれた。
「ここ。好さそうだけど、どうかな?」
 老街をブラブラ歩き、二人は川辺のパーラーに入った。
             *
「サミー、来たわね。純太も久しぶり」
 サミーの姉は二人と挨拶を済ませると、真由美を見て言った。
「真由美さんですね?」
「えっ。あたしを知ってるのかい?」
「もちろん。二人からよく聞いてますから。私のことは、マリアンと呼んで下さい」
「マリアンさん」
「はい。さぁ、どうぞ。どうぞ」
 三人は、マリアンの勧める席に座った。
 真由美は、窓から見える景色に感動した。
「綺麗だねぇ」
「夕日の頃になると、最高に綺麗だから。楽しんで下さい」
 マリアンは、お茶を出すと奥へ引っ込んだ。
「おやっ。マリアンさんは一緒しないのかい?」
「姉さんはこれから姪っ子を迎えに外出するんです。その間、僕らが店番というわけで」
「あぁ。それで貸し切りかい」
「まぁ。そういうことで」
 三人、笑う。
「初めてのデートの時も、そうだったね」
「そうだね。僕もサミーから貸し切りだって言われて、驚いたんですよ」
「お陰でゆっくりと話しができたろう」
「まぁね」
「あの頃、純太って心を閉ざしてたんですよ」
「へぇー。あんたがねぇ」
「色々あって。ここに来たら何だか無性に話したくなって。洗いざらい、何もかも、魂っていたものをサミーに話しちゃったらスッキリしました」
「そうかい。それは良かった。何でも話せる人が、やっと見つかったんだね」
 純太とサミーは互いの顔を見合わせた。
「ちょっとテラスに出ても良いかい?」
「あぁ、どうぞ。ご一緒しますよ」
「先生はサミーさんと話しをしてな。一人で風に当たってみたいんだよ」
 二人を置いて、真由美はテラスへ出た。
 川面から真由美に触れる風は柔らかく、優しく、心地よい。
 水辺に来ると、心がホッとする。
 …どうして、こんなに心地いいんだろうねぇ…
 対岸へ渡る連絡船を、ぼんやりと眺めた。
 ふと、彼女は隣の店を見た。
 マリアンの店とは対照的な、レトロな雰囲気のカフェ。
 …隣にあるのに気づかなかったねぇ…
 窓辺のテーブルを挟んで、若い男女が座っている。
 二人とも俯いたままで、話しが盛り上がっている様には見えなかった。
 …何だか、初々しいねぇ…
 男の方が顔を上げて外を見た時、真由美は彼と目が合った。
 …何だか見たことがあるような顔だねぇ…
 そう思いながらも真由美は、チラ見だけして視線を逸らした。
             *
 林太郎は、何故か緊張していた。
 それは梅芳も同じらしく、俯いたまま顔を上げようとしない。
 何を話して良いのか分からず、林太郎は何げなく窓の外の景色に目をやった。
「メイファン。ご覧よ。夕日の景色」
「えっ」
 窓から差込む夕日が、メイファンの顔をほんのり紅く照らした。
「うわっ。綺麗…」
「…」
「見て見て。外。綺麗だから」
             *
 再び視線を川面へ戻した時、真由美は思わず絶句した。
「うわっ…」
 連絡船が通り過ぎて生じた波頭が、夕日に照らされて煌めく。
 やがて夕日は川辺の建物や木々、人々までも茜色に染め上げていった。
「何て綺麗なんだい。この景色…」
 夕日は、瞬く時の移ろいと共に変化する。
 茜色は刻一刻と、その色合いを、輝きを帯びた色彩から深く夜の訪れを感じさせずにはいられない深く濃い色へと、濃淡織り交ぜながら変化していった。
 西の水平線が鮮やかな茜色で包まれると、全ての景色が夜の闇に呑み込まれていった。
             *
 純太とサミーも、窓の外の夕日に染まる景色を眺めながら二人の初デートのことを静かに話し合っていた。
「あの日も、こんな感じだったね」
「そうだな」
「あと何日居るのって聞かれて、本当はちょっと寂しかったんだ」
「えっ。そうだったの?」
「日本に帰ったら、もう途切れちゃうんだろうなって思ったし」
「そんな積りで聞いたわけじゃ無かったんだけどな」
「そうだったの?」
「うん」
             *
 真由美は、再び隣の店にいる若いカップルを見た。
 女性は景色を見てはしゃぎながら、彼の手を握っていた。
             *
 梅芳は無邪気に言いながら、林太郎の手を握った。
 はしゃぎ終えて、彼の手を握っていることに気づいて手を引っ込めようとしたが、林太郎はその手をしっかり掴んだまま放さなかった。
「えっ?」
             *
「好きだ。純太。俺と付き合おう」
             *
「メイファン。結婚を前提に僕と付き合ってくれませんか」
 梅芳は、嬉しそうに頷いた。
「良かった」
 二人は手を握り合った。
「今度、九份へ行こう」
「九份って金鉱の町?」
「メイファンに絶対見せたい景色があるんだ」
             *
「残り日数の中で告白しようと思ってたから。でも…」
「いきなり告白されてビックリしたけど、何故だかOKしちゃった。どうしたんだろうと今でも解らないんだけどね。勢いに押されちゃったのかなぁ」
「後悔したかい?」
 純太は首を振って、言った。
「ううん。嬉しかった。途切れないで良かったって思った」
「そっか」
「淡水の夕日の魔力のお陰かな」
             *
 それまで自分に背を向けていた彼女が、ふっと真由美へ顔を向けた。
「えっ…」
 彼女の顔を見て、真由美は言葉を失った。
             *
「真由美さん」
 純太に呼ばれて彼女が目覚めた時、日はすっかり暮れていた。
「大丈夫?」
「あっ。あぁ。また、居眠りしちゃったかねぇ」
「疲れてるんじゃないですか?」
「大丈夫だよ。毎日、楽しいしね」
「ねぇ。晩ごはんにしない?」
 マリアンがテラスに居る三人に声を掛けた。
「晩ごはんまでご馳走になっちゃ」
「遠慮はダメですよ。姉の料理、結構イケますから。是非、食べて下さい」
「そうかい」
 三人が店の中へ戻ろうとした時、真由美は隣家を見た。
 レトロな外観はそのままだったが、人のいる気配が全くなかった。
「あれ。ここは空き家かい?」
「あぁ。ここはそうですよ。戦前からある建物で、姉の店がオープンする少し前まで喫茶店だったんですけどね。その後はずっと空き家ですよ」
 サミーはそう言うと、店の中へ入った。
「真由美さん。この家がどうかしました?」
 真由美、怪訝な面持ち。
「さぁ。中に入って。食べましょう」
 マリアン、二人を呼ぶ。
「まぁ。何でもないよ」
 そう言って真由美は、何かを察したように笑いながら店へ入って行った。
             *
「それなら。瀑布へ案内してあげたら?」
 食事の後、日本人があまり行きそうにない観光地を行きたいと言い出した真由美に対してマリアンがそう言って応えた。
「ばくふ、かい?」
 純太とサミーは苦笑した。
「姉さん。そう言っても分からないよ」
「瀑布っていうのは、滝のことです。台北の郊外に十份大瀑布という横幅の広い滝があるんです。台湾のナイアガラとも呼ばれていて。知る人ぞ知る観光地です」
「あそこなら近くに十份もあるし、ちょっと足を延ばせば九份も行けるから好いんじゃないかしら」
「良いけど、車がいるなぁ」
「サミーの車は?」
「点検に出した。戻ってくるの二週間先」
「そっか。老板にお願いしてみようか?」
「太太を味方につけよう」
「良いかも」
 二人が悪だくみに花を咲かせている間、真由美はマリアンと瀑布の話をしていた。
「平渓線というローカル線の沿線にある滝で、以前は入場料を払わないといけなかったんですよ。それがちょっと面白いのは、線路脇に入口があって、その建物が駅みたい感じなんですよ。以前は、その滝を法人が所有していてそこが作ったらしいんですけど、もちろん電車は停まらなくて。変でしょう。昔は、隣駅から線路伝いに歩いて行ったみたいで、事故とかで危ないから今は禁止になってますけど、実際に歩いて行った人もいて。感想聞くとワイルドだったって」
「今はどうなってるんだい?」
「市が買い取って無料で見れるみたいですよ。十份から歩いて行くか、車かバス。観光バスも出てるみたいだけど。周りに公園なんかも整備されたって聞いてます。話のネタに一度行ってみる価値はあると思いますよ」
「ふーん。二人にとっても想い出の地だって」
「想い出ねぇ」
 マリアン、二人をニヤニヤ顔で見ながら一言。
「サイクリングで行って、二人で初めてキスしたって言ってましたよ」

             *
「ナイアガラにしては穏やかだねぇ」
 滝を見て、真由美は率直な感想を口にした。
「そりゃー、真由美さん。ここのは、台湾版ですから本家と比較しちゃ可哀そうですよ」
 老板はニコヤカに言った。
 規模は小さいが、横幅はそれなりにあって写真などで見ている御本家に形は似ていた。
「記念に一枚、撮ってもらおうかねぇ」
 太太と撮り終えた写真を見て、真由美は満足気に言った。
「後でSNSに上げるとしようかねぇ」
 写真を見ていた真由美は、少し離れた場所で映っている男に目がいく。
 …淡水で見た若い男の人…
 彼女は慌てて男が映っている辺りを見た。
 その男は、まだ同じ場所にいて彼女を見ていた。
 彼の顔を見てハッとし、真由美は心の中で叫んだ。
 …林太郎さん…
 もう一度見直した時、彼の姿は消えていた。
             *
 梅芳が、肺の病気で入院した。
 入院先の台湾大学病院からの帰り道、一緒に見舞った龍英が林太郎へ言った。
「林太郎。これから滝を見に行こうぜ」
「えっ」
「行くぞ」
 半ば強引に腕を引っ張られ、その勢いで台北駅から列車に乗った。
 瑞芳で平渓線に乗り換えて大華駅で二人は降りた。
「ロンイン。何で、ここで降りたんだ?」
 林太郎はちょっと苛立ち気味で言った。
 無理もない、駅の周辺には何もなくホームだけが浮いたように目立っていた。
 龍英はホームを飛び降り、線路の横に立つと林太郎へ言った。
「早く降りて来いよ」
「えぇッ」
「良いから来いって」
 梅芳のことが頭から離れないせいか、線路沿いに歩く二人は無口だった。
 途中、上り列車が近づく音がした。
「林太郎。こっちだッ」
 龍英は林太郎の肩を抱くと、線路下の物陰に身を潜めた。
 列車が通り過ぎると、林太郎は自分の肩に掛けている龍英の手を払って言った。
「どこへ連れて行くつもりだよッ」
「滝を見せるって言ったろ」
「どこに滝があるんだよ」
「あのトンネルの向う側さ」
 思ったほどに長くはなかったのかもしれないが、抜けない間に列車が通るのではないかという不安が、通り抜けるまでの時間をより長く林太郎に感じさせていた。
 トンネルを抜けてホッとしたのも束の間、龍英が林太郎を呼んだ。
「こっちだ」
 石段を下りて視界が開けた時、林太郎はハッとさせられる。
「滝だ…」
「どうだ?」
 林太郎は満足げな笑顔を龍英へ返した。
「なぁ。林太郎」
 無心で滝を見ていると、ふいに龍英が話しかけて来た。
「メイファンと付き合ってるんだろう?」
「ああ。卒業したら結婚する」
 龍英は林太郎の目を真直ぐに見ていたが、やがて彼の表情は破顔へ変わると言った。
「妹のこと頼んだぞ」
「えっ。あぁ…」
「もう時間がない」
「えっ?」
「…」
「お前、まさか…」
「特攻に志願した」
「えっ。と、特攻って。メイファン、どうするんだよ」
「だからお前に頼むんだ」
「バカやろうッ」
 林太郎は龍英を殴りかけて止めた。
「いつだ?」
「来週の木曜日」
「なんで特攻なんだよ」
 それには答えず、龍英は林太郎に笑顔を向けて言った。
「妹には、お前がいれば大丈夫だ」
「…」
「だから俺は、安心して行ける。頼んだぞ」
             *
「ここ。五年前と変わってないね」
「人が増えたけどな」
 パンデミック解禁とゲイパレード直前で、滝の周辺は混雑気味だった。
「あそこだったね」
「えぇっ。あぁ」
「周りに人が居なかったから。誰かさん、急にキスしてくるし」
 サミー、笑って惚ける。
「でも、好い想い出だよ」
 純太がそう言うと、サミーは彼を背中越しに抱いた。
「ダメだって。人が見てる」
「いいさ。平気だよ」
「恥ずかしいじゃん」
 サミーは純太の頬にキスをして言った。
「ずっと一緒だよ」
「もう。サミー」
             *
 十份大瀑布の見物を終えて、五人は十份駅に来ていた。
 純太とサミーは台北で用事があり、電車で戻る。
 電車待ちの間、天燈上げを見物した。
「これが天燈上げかい。随分とカラフルなんだねぇ」
「8色あるみたいですよ。それぞれの色に意味があって、叶えたい願いによって色が決まるらしいです。でも全部の色は選べなくて、4色までみたいですよ」
「それで色が四つの天燈が多いんだねぇ」
「純太は上げないのかい?」
「ゲイパレードの後、夜にここで天燈上げのイベントがあるんです。だから、その時に二人で上げようって約束してるので。今日は、止めておきます」
 そう言うと、駅舎の壁に貼られている天燈上げのイベントポスターを指さした。
「夜に上げると、さぞ綺麗だろうねぇ」
 そう言いながら真由美は、夢で見た天燈上げの約束を思い出した。
「このイベント、誰でも参加できるのかい?」
 サミーがポスター参加規程を呼んで答えた。
「大丈夫そうですよ。真由美さんも参加されますか?」
「是非やってみたいよ」
「それじゃあ、僕らと天燈上げしに来ましょうか」
「お願いするよ」
 電車の到着を知らせるベルが響いた。
 待合室で座っていた老板と太太が、真由美たちの所へやって来る。
 何とも不思議な景色だった。
 土産物屋などの店舗が線路ギリギリのところに立ち並んでいる。電車が来ない内は、線路上に人が往来し買物をしているのだが、電車が到着すると線路上の人々は左右に引く。線路上に人が居なくなると、それに合わせたかのように電車が姿を現す。その様子は、まるで狭い店舗街を店の軒先を電車が縫うように走っているかに見えた。そして、電車が出発してしまうと、両脇から湧いて出るように人々が線路上に現れ買物をするのだった。
 電車が出発すると真由美たち三人は、手を振って見送った。
             *
 十份から九份へ移動途中、真由美は老板が運転する車の中で眠った。
「真由美さん。疲れたみたいね」
「台北へ引き返した方が良いかなぁ?」
「行くだけ行ってみましょうよ。真由美さんが一番行きたがってた場所だから」
 そうだね、と言った老板の声を最後に真由美は眠りに落ちた。
             *
 梅芳が入院している病院の一室。
 彼女の顔色は、前回に会った時よりも一層透けたように思えた。
 …とても伝えられない…
 龍英が特攻で戦死した公報が届いたのは三日前のことだった。
 …俺から伝えることじゃない…
 林太郎はそう思い直して彼女に話し掛けた。
「兄さん、元気にしてるかしら?」
「あぁ。元気だそうだ」
 彼女の家族は、龍英は高雄の大学へ行っていると伝えている。
「会いたいなぁ」
「早く良くなって、高雄へ会いに行こう」
 梅芳は窓の外へ目を向けたまま何も言わない。
「それにさ、メイファンとの約束。まだ果たせてないから。早く良くなってくれないと、僕も困るからさ」
「約束?」
「二つしたろ。一つは、結婚すること」
「うん」
 彼女の表情が、少し明るくなった。
「もう一つは…」
「九份ね。見せたい景色があるんでしょ」
「覚えててくれたんだね」
「当り前じゃない。だから、私も約束するね」
「うん」
「一つは、絶対に治って約束守るから」
「絶対な」
 彼女は頷いた。
「もう一つは、私も林太郎さんに見せたい景色があるの」
「どこ?」
「それは治って一緒に行くまで秘密」
「何だよ、それ」
 梅芳は悪戯っぽく笑った。
             *
 九份は、観光客でごった返していた。
「随分と賑わってるんだねぇ」
 真由美、目を丸くする。
「真由美さん。はぐれないでよ」
「あぁ。分かってますから。心配しないでおくれ」
 駐車場に車を停めた老板が戻って来た。
「お待たせ。行きましょうか」
「あんた。どこへ行くの?」
「あぁ。まぁ、ブラブラして」
「真由美さんをこの人混みの中でブラブラしろって言うのかいッ」
「いや。まぁ、それは…」
 太太、スマホを取り出して店の写真を見せた。
「ここへ行くよ」
「ここは?」
「スィーツのお店。席も予約しあるから。先ずは、ここで一服して次に行く観光スポットを決めましょう」
 老板、渋い笑い顔でやり過ごす。
「はい。こっち、こっち」
             *
 葬儀。
 梅芳が急逝した。
 彼女の遺影を前にして、林太郎は祈りも忘れて呆然と立ち尽くした。
 仏前に彼女の好物だった豆花のスィーツを目にした時、隣太郎の目から涙が止めようもなくあふれ出し、押さえていた感情が爆発したかのように号泣した。
 悲しみの感情が一気に連鎖し、それまで静まり返っていた会場全体から嗚咽が響いた。
 泣き崩れる林太郎を富三郎が支え、彼を抱えて葬儀会場を後にした。
             *
「白玉のあんみつかい?」
「豆花(トウファ)ですよ。白玉みたいなもんですけど」
「最近、このお店の豆花が人気なの。食べてみて」
「食べきれるかねぇ。ちょっと量が多いよ」
そう言いつつ一口食べると、真由美は目を丸くして二人を見た。
「おや。美味しいねぇ」
 真由美は、夢中で豆花を食べ始めた。
             *
 墓前。
 梅芳の墓に花を供え、その前で立ち尽くしている林太郎へ、富三郎が話しかけた。
「本当に残るのか?」
 林太郎は何も言わず、ただ頷いた。
「内地で大学に入り直すという手立てもあるんだぞ」
 林太郎は振り向くと、穏やかな眼差しで父を見ながら言った。
「ロンインと約束も、メイファンとの約束も、僕は果たせなかった」
「それは、お前のせいじゃない」
「そうだね。でも、僕は内地へ行けない」
「どうしてだ?」
「僕はリンタイロンだよ」
「お前…」
「台湾で生まれ、台北で育った。ロンインやメイファンも、ここで眠っている。だから僕の故郷は、ここなんだよ。だから、僕はここで生きる。ごめんなさい、お父さん」
 頭を下げた息子の顔を上げさせて、富三郎は言った。
「わかった。お前は、お前らしく生きろ。もう止めないさ」
 自分の胸に顔を埋めて無く息子の背中を摩りながら、富三郎は言った。
「でも、これだけは忘れるなよ。お前はどこに居ても、何があっても俺の息子だ。そして日本にも帰る場所があるからな」
             *
 展望台に到着した時、あまりの混雑ぶりに三人は絶句した。
「これは景色を見るどころの騒ぎじゃないねぇ」
「真由美さん。大丈夫ですよ。何とかしますから」
 老板は人混みの中へ入って行った。
「ちょっと、あなた。戻って」
 太太の声も空しく、老板の後ろ姿は人混みの中へ埋もれるように消えた。
「真由美さん。ここに居てね。あたし、あの人を連れて戻って来るから。絶対に動いちゃダメですよ。どこにも行かないで。お願いですよ」
「はい、はい。動かないでここに居るから。安心しておくれ」
 人混みへ向かう太太を、真由美は見送った。
 そして彼女は石段に腰掛けると、行き交う人々を眺めた。
 ゲイパレードが近いこともあって、心なしか同性同士の若いカップルが多いように思われた。
 …けっこう美男美女も多いねぇ…
 そう思って、彼女は思わず苦笑する。
 …良い歳して、なに浮かれてんだか…
 空を見上げると、雲一つない青空が広がっている。
 スマホがブルブルと振動する。

 見ると、純太からのメッセージ。
『九份。楽しんでますか?』
『楽しんでいるよ。天気も良いし。人が多いのがちょっと、だけどね』
『真由美さん。運が良いですよ』
『?』
『九份。滅多に晴れないんです』
『そうなのかい?』
『山と海岸線が一望できますよ。満喫して下さい』
『ありがとう』

 スマホから目を離して周囲を見るが、相変わらず景色を見るどころではない。混雑は、むしろひどくなっているようにも思われた。
 呑気に構え始めた時、人混みの中に林太郎を見掛けた。
 …まさか。お父さんが…
 もう一度見直すと、自分をジッと見つめている林太郎と目が合った。
 …お父さん…
 彼は、真由美を誘うように歩き始める。
 …待って…
             *
 サミーは、猫空の山中のある墓へ純太を連れて行った。
 墓碑には『林田梅芳』と刻まれている。
「日本人のお墓?」
「台湾の人だよ」
「名前が日本人だけど」
「戦中に亡くなったから。当時は日本の植民地で、日本風の姓を名乗ることが推奨されていたからね。当時の彼女は『ハヤシダウメカ』と呼ばれていた。でも家族や親しい人たちの間での彼女の名前は『林梅芳(リン・メイファン)』。ここは代々の林一族が墓所として使っている山なんだよ」
「リン一族って、もしかして老板のご先祖さまたちが眠る場所なの?」
「そうだよ」
「凄いなぁ。坂本家の墓所も広いと思ったけど、老板の方は山全体。スケールが違うわ」
「昔は風水で個人の埋葬地を決めたから墓所地もバラバラになるのが普通だから、ここみたいなお墓は珍しいよ」
「リン・メイファンって誰?」
「老板の叔母さん。つまり彼のお父さんである林龍英さんの妹さん」
「その人って林太郎さんの親友だった人でしょう?」
「うん」
「それでメイファンって人がどうしたの?」
「林太郎さんと結婚の約束をしてたらしい」
「えっ」
             *
 林太郎は、老街の高台に建つ茶館と土産物屋を兼ねた店に入って行った。
 真由美も彼の後を追って、その店の中へ入って行った。
 店の奥にある階段を昇って行く彼の姿を見て、真由美もそれに続いた。
 三階。
 踊り場の奥の部屋、そこに林太郎の姿があった。
「えっ。お父さん?」
それは真由美が知る以前の若い林太郎だった。
「やぁ。やっと再会できたね」
 言葉を発しようとしたが自分の中にもう一人の誰かが居て、その誰かが真由美自身が話すことを阻んだ。
「うん。やっと。でも、ずっとあなたの傍に居たのよ」
「あぁ。分かっていたよ、メイファン」
 …メイファン…
「死んだ後、真由美として生まれ変わったんだろ」
 …えっ。あたしが梅芳さんの生まれ変わりかい…
 壁に掛かった鏡に映る自分の顔を見て、真由美は混乱した。
 …何で、こんなに若返ってるんだい…
「どうして判ったの?」
「だって君と真由美、瓜二つだったからね」
 彼女は、嬉しそうに笑った。
「二つの約束。覚えるよね」
「うん」
「結婚。それは果たしたよ」
「そうね」
「もう一つの約束。今日それを叶えることにするよ」
 メイファンは頷いた。
「さぁ。ここにおいで」
 林太郎とメイファンは、窓辺に並んで立った。
             *
 老街の高台にある建物の三階の窓を見た老板は振り向き、その建物を指さしながら太太へ叫んだ。
「太太ッ。真由美さん。あの建物の三階」
「えっ。どこ?」
 太太、老板が指さす先を見る。
「まゆみさーーーん」
 太太、咳込む。
「先に行くから。太太、ゆっくり着て」
 手を振りながら『行って』と伝える太太をその場に残し、老板はその建物へ向かった。
             *
「ちょっと不思議な話なんだけどさ」
 サミーは、メイファンの墓を知った経緯を語り始めた。
「帰国の翌年の清明節、老板と一緒に彼のお父さんの林龍英さんの墓参りに来たんだよ」
「清明節に他人の墓参りをしたの?」
「まぁね。老板たってのお願いだったから断れなくてさ。お陰で僕の母は滅茶苦茶ご機嫌斜めで、なだめるのが大変だったよ」
 サミー、苦笑。
 無理もない、と純太は思った。
 日本では、お盆、お彼岸、命日と年に何回も墓参りをするが、台湾を含めて中華系の人々は年に一回の清明節にだけ墓参りをする。
先祖を大切にする民族だから、この手の行事に参加するのが当たり前。それにも関わらず他人の墓参りに行ったのだからサミーの母親が怒るのは無理もない。
 サミーの母親の機嫌を損ねたのには他にも理由がある。
 中華系の人々のお墓は、日本の家単位と違って基本的には個人墓が主流だ。そのためお参りしなければならない墓が幾つもあり、場所も風水で決めるからバラバラ。お供え物も墓ごとに用意するので時間も労力もバカにならない。そんな事情にも関わらず、息子が不参加の墓参り。彼のお母さんがむくれるのは想像に難くない。
「ロンインさんの墓を掃除してお参りをしたんだけど、太太が忘れ物を思い出して取りに行く事になったんだ。老板が彼女を車に乗せて行ったんだけど、二人が戻るまでロンインさんの墓で待つことになってさ」
「お墓で一人?」
「まぁね。ぼんやりして座っていたら、突然ロンインさんの幽霊が現れたのさ」
「またぁ」
「本当だよ」
「何で幽霊のロンインさんだって判ったの?」
「だって、自分から『リン・ロンイン』って名乗ったんだぜ。お墓に刻まれた名前と同じだったからね。それなら幽霊しかあり得ないだろ」
 サミーの不思議な受容力には慣れっこだが、この時も彼らしいと純太は苦笑した。
「じゃあ、ロンインさんがサミーを彼女のお墓まで案内してくれたの?」
「うん。道々、林太郎さんとの想い出やメイファンさんとの経緯を話してくれたよ。お墓を掃除して、お線香を焚いてお参りしたらロンインさん、もの凄く喜んでくれたよ」
「えっ。ロンインさんが幽霊で現れたんなら、メイファンさんにも会えたの?」
 サミーは首を振った。
「ロンインさんによると、メイファンさんはもうここには居ないんだって」
「居ない?」
「生まれ変わったらしいよ」
             *
 青い空。
 入江。
 山と町。
 まるで美しい一枚の絵のような絶景が、メイファンの視界に広がった。
「これが、メイファンに見せたかった景色だよ」
 彼女の眦から一筋の涙が流れる。
「ごめんな。君が元気な時に連れて来れなくて」
             *
 老板が三階まで登って来た時、踊り場にいた男の顔を見て老板は思わず言った。
「お、父さん…」
「おう。久し振り」
「幽霊。ですよね」
 龍英は笑って言った。
「当り前だろ。俺の死に水を取ったのも、葬式を出したのもお前じゃないか」
「でも、随分と若返って。良いですね」
「変な事に感心してんじゃない」
 そこへ太太が到着するが、龍英の幽霊を見て思わず叫んだ。
「お、お義父さん…」
 そう言って太太、気絶。
「お、おい。太太。大丈夫か。しっかりしろ」
「大丈夫だ。心配しなくても、直に目を覚ます」
「しかし…」
「そこに寝かせておけ」
「あっ」
「うん?」
「真由美さんッ」
 部屋に入ろうとした老板を龍英は押し止めた。
「もう少し、二人っきりにしてやれ」
「えっ?」
「今、林太郎と妹が逢ってる」
「妹って、メイファンさん?」
 龍英、黙って頷く。
「でも部屋の中には真由美さんしか居ない…」
「真由美さんは妹の生まれ変わりだよ」
「まさか?」
「メイファン。やっと望みが、一つ叶ったな」
 龍英はそう言って、静かに部屋の入口を見つめた。
             *
 メイファンの墓で手を合わせた二人は、そこから見える眺望を見た。
 開けた視界全体に青空の下で輝く台北の町並みが広がっている。
「ここの景色を彼女が一番気に入っていたんだって。だから、いつかこの景色を林太郎さんに見せたかったんだけど病気が重くなって、叶わないまま逝ってしまった」
「そうなんだぁ…」
 秋の風が二人を包むように吹き抜けると、純太はサミーに言った。
「そうだ、サミー。真由美さん、ここに連れて来てあげよう」
「えっ?」
「きっと、メイファンさんも喜んでくれるから」
             *
「ごめんな。君が元気な時に連れて来れなくて」
「ううん」
「ロンインからメイファンを守ってくれって頼まれたのに何もできなかった」
「そんなことない」
「台湾に留まることすらできなかった」
「そんなに自分を責めないで」
「済まなかった」
「好いの。あたしは幸せだったから」
「メイファン…」
「ありがとう…」
 自分の中からメイファンの存在が消えた時、彼女が成仏したのだなと真由美は思った。
「真由美…」
「…」
「怒ってる?」
「究極の浮気だね」
「まぁ、そう言うなよ」
「何時から気づいてたの?」
「出会った時から。顔がそっくりだったし」
「ヒドイ人だ。だから私に会うなり人が変わったように積極的、猛攻勢だったんだ」
 林太郎、曖昧に頷いて惚ける。
「随分な色男だこと」
 真由美はソッポを向き、窓の外に広がる絶景を見た。
             *
「はぁ…」
 そう言って、龍英は安堵の表情を老板へ向けた。
「どうしんたですか?」
「妹のやつ、やっと成仏できたよ」
「そうですか…」
 老板、ちょっと意味ありげに龍英を見る。
「何だ?」
「それじゃあそろそろ、お父さんもご成仏頂いて」
「残念ながら成仏はまだ先だな。まだやり残したことがあるんでね」
「何ですか。やり残したことって」
 龍英、ニヤニヤ。
「今の世の中、結構面白いしな」
「面白くないですよ。天国の方が絶対良いと思いますよ。何ですか。やり残したことって。特攻で出撃したけどエンジントラブルで不時着、名誉の戦死ってことになってるから生きて故郷へ返せないから内地で終戦まで隔離生活をしいられ、戦後台湾に戻ったのは良いが死んでいった戦友に申し訳ないと粉骨砕身。やりたい放題。父さんにやり残したことあるだなんて、冗談にしか聞こえませんよ」
「…」
「もう、早く成仏してくださいッ」
 老板、龍英にげんこつで頭を小突かれる。
「バカモンっ。そんなだから女房の尻に敷かれまくりなんじゃ」
 老板、シュン。
「ほら。もう直ぐ太太が目を覚ますぞ。快方してやれ」
「えっ」
 太太、目覚める。
「あぁ。あなた」
「大丈夫かい?」
「ええ。ビックリした。ゆっ、幽霊の、お義父さんは?」
「そこに居るよ」
 指さしながら老板が振り向いた時、もうそこに龍英の姿はなかった。
             *
「やっぱり怒ってるか?」
 真由美は真直ぐ前の景色を見続けるだけで、何も答えない。
「スタートが不純だったのは悪かったよ。でも、これは言い訳にしか聞こえないだろうけどさ。本当に気持ちを聞いてくれる?」
「言ってみて」
「メイファンと顔は瓜二つだったよ。でも直ぐに気づいたんだ。メイファンと真由美は別人だって。だから僕は、真由美が好きになった。真由美でなきゃダメになった。真由美と一緒にいたい。未来を築きたいと思った。真由美を…」
 真由美は噴き出して笑った。
「まったく。何年夫婦やっると思ってるんだい。そんなこと。わかってるよ。お父さんの気持ち、全部わかってるよ。子供だって、孫だっているんだよ。お父さんは私のことを、私はお父さんのことをずっと見て生きてきたんだからね」
「真由美…」
 名前を呼ばれ、真由美はちょっとキツイ表情で林太郎を見て言った。
「でも、本当はね、まだちょっと怒ってましたよ」
「えっ…」
「でも、この景色。本当に見せたかったのは私だったんだろ?」
 林太郎、柄にもなく照れる。
「そう言う所は、嘘がつけない人なんだから」
「…」
「まぁ今回は、この綺麗な景色に免じて許してあげようかね」
             *
 老板が太太を伴って部屋の入口に立った時、窓の外の景色を真由美はいつまでも、優しく穏やかな眼差しで静かに眺め続けていた。
             *
 台湾大学、農学部内の応接室。
「何だか落ち着かないねぇ」
 真由美、ソワソワ。
「真由美さんなら大丈夫ですよ。緊張しない、しない」
「そう言われると、増々緊張しちゃうよ」
「賞状を一枚受け取るだけですから」
「だけど、その後に挨拶のスピーチをしなきゃならないんだろう」
「現行通り呼んで、聞いている人の顔を時々見れば大丈夫ですから」
「そのチラ見っていうのが、余計に困っちゃうんだよ。どこでチラ見して良いのか…」
「じゃあ、合図を出しますから。私が手を上げたらチラ見」
「…」
「どうしました?」
「原稿を読むんだろ」
「そうです」
「合図、どうやって見たら良いんだい?」
 老板、絶句。
 太太、呆れ顔で助け舟。
「好いの、好いの。真由美さんは自分の想いのままに原稿を読めば大丈夫。聞いている日立がどう感じるかなんて関係ないから。それより、これ見て」
 太太は真由美にスマホの動画を見せた。
「サミーから。ゲイパレード、始まったみたいですよ」
「随分と賑やかだねぇ。お祭りじゃないか」
 応接室のドアが開く。
「坂本様。そろそろ始まりますので、会場へお越しください」
 真由美、太太の手を握った。
「真由美さん。大丈夫。深呼吸して」
             *
 パンデミック解禁直後のゲイパレードとあって、主催者側の発表でパレードの参加者は二十万人に迫る勢いだった。
「サミー。メチャ盛り上がってない?」
 純太、興奮気味。
「うん。そうだね」
 彼とは対照的にサミーは何故か固く、緊張気味だった。
「どうしたの。具合でも悪い?」
「そんなこと無いよ。楽しんでるよ」
 ゲイパレードは市政府中心前を出発した。
             *
 学部長による挨拶が始まる。
「ねぇ。真由美さん、凄く緊張してるわよ」
 老板は、ニヤニヤしながら答えた。
「あんな真由美さん、初めて見たよ。あんなに緊張するもんだねぇ」
「あんた。また他人事みたいに言って。あぁ、可哀そう。何とかならない?」
「そう言われてもなぁ…」
「本当に冷たいわね。まったく、この人ったら」
 長い挨拶が終わって学部長から真由美さんが紹介されると彼女の緊張はクライマックスに達したが、それは傍目にも歴然としていた。
「あぁ。緊張で鉄棒みたいになっちゃってる」
「真由美さん。鉄棒?」
「例え話よ。あぁ、可哀そうに…」
             *
 ゲイパレードが折り返しの西門町に差し掛かっても、サミーの表情は強張っていて動きや反応もギクシャクしていた。
 そんな彼をチラチラ見ながら純太は、心の中でニヤニヤしていた。
 …まぁ、緊張するのも無理ないか…
 そして彼は、前夜の真由美との会話を思い出していた。
             *
『先生。心配ごとかい?』
『いいえ。大丈夫ですよ』
 真由美、ニヤニヤ。
『先生も嘘をつくのが下手な人だからねぇ。気掛かりがあるんだろう。顔に出てるよ』
 純太、苦笑。
『あたしで良かったら聞くよ?』
 純太は、座り直して言った。
『サミー。近頃、ちょっと変で…』
『あぁ。その事かい』
『気づいてました?』
『何となくね』
『大丈夫でしょうか?』
『大丈夫だよ。多分ね』
 妙に自信ありげな真由美を、純太は怪訝な眼差しで見た。
『うちの亭主の時によく似ているよ』
『林太郎さん?』
『プロポーズした時の様子にね』
『えっ』
『期待を持たせちゃ悪いと思って黙ってたんだけどさ。サミーさん、そんな感じがする』
『…』
『厭かい?』
 純太、頭を激しく振って否定する。
『ちょうど好い頃合いなんじゃないのかい』
『でも結婚するとなると、お互い外国人で。色々、越えなきゃならない課題が…』
 真由美は、純太の口を塞いで言った。
『二人が結婚するのに、お上公認の紙ッぺらが必要かい?』
 純太、真由美をガン見。
『形式なんかじゃないんだよ。一番大事なのは心だよ』
真由美は彼の胸に手を当て、続けて言った。
『離れたくない。一緒に居たい。一緒に歳を重ねたい。その気持ちが一番なのさ』
 純太の心臓の激しい鼓動が、真由美の手に伝わった。
『でもね、男っていうのはバカな動物なんだよ。勢いで何でもやらかす割には、肝心要で形式とかカッコに拘ってさ。素直に直ぐ言えば好いのに、無駄な時間を過ごしたがるもんなんだよ。だから、知らんぷりして、言い出すのを待っておやり』
 純太の表情が少し曇った。
『本当に言うのかなぁ?』
『言うに決まってるじゃないか。ゲイパレード。格好の機会だよ。だからわざわざ、こんな人出の多い時期に台北へ来させたんじゃないか』
『えっ。それは、真由美さんの…』
『鈍いねぇ。老板と太太の二人がサミーの味方だよ』
『あっ…』
 腑に落ちながらも、純太はまだ不安だった。
『でも、もし、そうでなかったら…』
『さっさと捨てちまいなッ』
『えッ?』
『そんな意気地のない男なら、さっさとバイバイだよ。大丈夫。だって、今、台北には世界中のゲイが集まってんだよ。選り取り見取り。パラダイスさ』
             *
 純太、ニヤニヤ。
「えっ。純太。どうした。思い出し笑いして」
「ううん。何でもないよ」
「ほんとう?」
「本当だよ」
 サミーが更問しようとした時、雨が降って来た。
             *
「では早速、坂本真由美さんにご挨拶頂きましょう」
 拍手か沸き起こった。
 真由美は登壇した。
「今日は義父の富三郎と夫の林太郎のことで皆様から表彰を頂戴いたしまして、本当にありがとうございます。心からお礼申し上げます。義父も夫も生きてこの場にいましたら、さぞや喜んだ事と存じます。二人に代わって重ねてお礼申し上げます」
 真由美が頭を下げて挨拶した。
「真由美さん、意外と落ち着いて話してるよ」
「そうよね。本番に強いタイプなのね」
 下げた頭をゆっくりと上げ手元の原稿を読み始めようとして表情が固まり、真由美はただ一点を見つめたまま沈黙した。
「えっ」
「やっぱり緊張してるのかしら…」
 老板と太太は振り向き、真由美の視線の先を見るが何もない。
「大丈夫かなぁ?」
「真由美さん、頑張って」
 会議室が少し騒めき始めると、彼女から少し離れた所に控えていた事務局長が咳払いしながら真由美の名前を呼ぶ。
 フッと我に返った真由美は、もう一度原稿に目を落とした。
 …まさか。そんなはずない…
 思い直してもう一度前を向き、原稿を読み始めようとして彼女は思わず呟いた。
「お、お父さん…」
 座席の最後列に座った林太郎が、彼女へ手を振っている。
 …えっ。なんで…
 彼は口パクで『がんばれ、真由美』と言っている。
 …こういう時は『がんばれ』と言われると余計に緊張するのに…
 そう思って苦笑すると、彼女は手に持った原稿を机に置いた。
「幾つになっても緊張するものなのですね。お陰で昨日の晩に徹夜で覚えた原稿をすっかり忘れてしまいました」
 会場に笑い声が響く。
 真由美は、林太郎の顔を見つめる。
 にっこり笑って、林太郎は頷いた。
             *
 雨が降って来た。
 それでもゲイパレードが止まることはなかった。
 サミーはそれまで握っていた純太の手を離した。
「えっ」
 離されたサミーの手が自分の肩に回されて、純太の表情は不安から笑顔へ変わった。
「寒くない?」
 サミーの肌の温もりが、純太へジンジンと伝わる。
「大丈夫」
「きっとにわか雨だから、直ぐに止むよ」
 頷いて純太もまた彼の腰に手を回し、サミーの身体を少し自分へ引寄せた。
 熱気は雨で冷めるどころか、それを蒸発させるかのように盛り上がる。
             *
 手にしていた原稿をそっと演台に置くと、真由美は静かに語り始めた。
「本日、お招き頂きましたことは光栄で感謝しています。義父も主人も草葉の陰で喜んでいることでしょう。でも、このお話を最初にお聞きした時、台湾へ行って二人の代わりに栄誉を授かることを、私はとても躊躇いました」
 老板は太太の顔を見て小声で言った。
「真由美さん。原稿と違うことを言い始めたよ。どうしよう」
「きっと大丈夫よ。静かに聞きましょう」
 二人は、真由美を見守る。
「義父が戦前から戦中にかけて台湾で仕事をしていたことは知っていましたが、義父も夫も当時の思い出などにつて多くを語らなかったからです。夫にいたっては、台湾で生まれ育ったことすらも私に話したことはありませんでした。だから私は、二人の台湾時代のことを全くと言っていいほど知らない。そんな私が、二人に成り代わって賞を受取るにふさわしい人間だと思えなかったからでした」
 居合わせた全員の視線が、彼女へと注がれる。
「戦後、主人と同じ職場で働き、私に一目ぼれし猛烈にアタックされて結婚に至りました(笑い)。ですから私は、日本に居る彼氏か知らなかったのです。それが、死を目前して遺言を残しました。その時、私は彼の中の望郷の念を初めて知りました。彼の遺言を抱きながらその後を生き続け、主人の本当の気持ちが分らなくなりました。単なる望郷の念だけだったのか。それ以外の想いが他にあったのか。とても厄介な宿題でした。悪戯に一人歳だけを重ね、あと幾つ寝るとお迎えかしらと思っていました(笑い)。そんな矢先、主人が私の枕元に立ちました」
 真由美は、優しい眼差しで林太郎を見つめる。
「彼は、相変わらず惚けた表情で私の寝顔をジッと見つめていました。私はビックリして飛び起きました。そんな私を笑いながら主人は『真由美さん、元気ないねぇ』と。そろそろ迎えに来てよと言いましたら『僕との約束を果たしていないからダメだよ』と、あっさり断られてしまいました(笑い)。その時、私は約束を果さないと死ねないんだと、拍子抜けしたように観念しました。あの日を境に私の日常が変わった気がします。中国語を習おうかと学び始め、お陰さまで今日この場でつたない中国語で自分の想いを伝えられるようになり(拍手)、私に中国語を教えてくださった純太先生との交流から思いもよらない出会いを得ることができました。あちらにお座りの老板さん、太太さんのお二人を初めとして沢山の友人たちとの知己を得ることができました。台湾を訪れて見たい、いつしか思うようになりました。そんな矢先の私を脳梗塞が襲いました。半身に麻痺が残り、ベッドで寝ながら台湾へ行けなくなったことを残念に思いながらも、どこか安心した自分が居ました。台湾へ行けば主人が決して話して聞かそうとしなかった、私の知らない主人を知ることになるのではないかと不安だったからです。台湾時代の主人を知らなくても、私は彼からとても愛されていましたし、幸せでしたし、もうそれで充分でした。もう、それ以上は何も要らない。そう思っていました」
 真由美は、一口水を飲んで続けた。
「実はあの時、私は死にかけたんです」
 会場、シーンと静まり返る。
「皆さん、三途の川をご存知でしょうか。私、主人が漕ぐ舟で向う岸まで渡りました。その時、主人に頼みました。あの世へ行ったら台湾の思い出ばなしをたくさん聞かせて欲しいと。そうしたら彼、とても寂しい顔をして『無理』だと言ったんです。あの世に着いたら生前の記憶はきれいサッパリ忘れてしまうんだそうです。その時になって、初めて私は死にたくないと思いました。きっと、その想いと執着が強かったんでしょうね。私を乗せた舟は三途の川の向こう岸に乗り上げることなく、川面で停まってしまったのです。彼は岸に飛び移りましたけど、私は腰が抜けてしまったみたいになってできませんでした。でも今思うと、行きたくなかったんだと思います。意識が戻って、容態が落ち着いた頃にパラリンピックを見ながら思いました。折角生きてるんだから、あの人たちみたいに動けるようになって、自分の目で彼の故郷を見に行こう。そして可能な限り彼、坂本林太郎のことを知ってやろうと思ったのです。純太先生の恋人、サミーさんという台湾人の男性なんですが、彼が帰国する時にお願いしました。台湾時代の主人のことを調べて欲しいと」
「えっ。太太。純さんやサミーから聞いていたかい?」
「知らないわよ。初耳…」
「主人には、台湾に結婚を誓い合った女性が居たそうです。その女性の名前は、日本名を林田梅芳(うめか)。台湾でのお名前を林梅芳(リン・メイファン)。老板さんのお父様で主人の親友だった、林龍英(リン・ロンイン)さんの妹さんだそうです。彼女は若くして亡くなったので二人は結婚できませんでした。出征の前に妹を守ると親友と交わした約束が果たせず、最愛の人に見せると約束した景色も見せられないまま、日本へ帰らざるを得なかった。二人に対する申し訳ないという気持ちが、生まれ育った台湾に再び戻ることを躊躇させ続けたと、台湾に来るまでずっと思っていました。でも、違ったんです。あの人は、自分のやり残したことを、私を使って全部やってしまうと考えたのでした。あなたは本当にヒドイ男です」
 真由美は林太郎を少し睨んで見せた。
             *
 雨が上がると声が上がった。
「虹が出てる」
 パレードが止まり、参加者たちが指さす方の空を純太とサミーも見た。
 純太とサミーも足を止め、空に掛かった虹を見つめた。
「綺麗な虹だね」
「小純…」
 サミーは純太の名前を呼ぶと、彼と向合って立った。
             *
 …楽しかったろ…
 …悔しいけど認めますよ…
 …あの時言ったろ。これから楽しいことがあるよって…
 …そうね。でも、もう充分だわ…
 …そろそろお迎えが来て欲しいのかい…
 …潮時じゃない…
 …そうだなぁ。でも、まだダメじゃないかな…
 …ええっ。ダメなの…
 …忘れたのかい…
 …忘れたって、何を…
 …お迎えなんて、お呼びになったら勝手に来るもんだって…
             *
 優しく微笑み、真由美は話しを続けた。
「でも、それは違うと直ぐに気がつきました。つまり彼が台湾でやり残した心残りの後片付けの手伝いをさせたかった、そのためだけに私を台湾へ導いたのではなかったと」
 真由美の話し口調が変わった。
「そうなんでしょう。お父さん?」
 会場の騒めきを気にするでもなく、真由美は続けた。
「お父さんは私に、自分の生まれ故郷を直に知って欲しかった。直に感じて、直に味わって、直に見てもらいたかった。そうなんですよね、お父さん」
「…」
「だってここは、あなたが生まれ育った故郷。大切な想い出がいっぱい詰まった故郷。あなたには何物にも代えがたい大切な宝物。あなたにとってここは、私の知らない坂本林太郎が存在した唯一無二の場所なのですから。その大切な故郷でのことを、どうしても私に伝えたかったのですよね」
 林太郎は彼女へ頷いて見せた。
「そうすることで、私が、坂本林太郎という男の全てを知る唯一無二の存在となることを望んだのですよね」
 林太郎の頬を一滴の涙から流れた。
「私が生きている限り、私の中で生き続けることができるから…」
             *
「純太」
 いつになく真剣な眼差しで見つめていたが、サミーは少し声を震わせて言った。
「この機会を逃したくないし、この瞬間に、君への気持ちを伝えたい。君と一緒にいると幸せで、楽しくて、いつまでも一緒に居たい。そして一緒に歳を重ね、君と二人で唯一無二の人生を築きたい。僕と結婚してください、純太…」
 サミーは片足で跪き、指輪の入った箱の蓋を開けて純太へ差し出した。
 ハッピーな期待を帯びた眼差しが、二人を囲む人々から注がれる。
 純太はサミーを立ち上がらせ、二つの指輪を手に取ると一つを彼に渡して言った。
「サミー。この指輪を僕の薬指に通してみて」
 彼が差し出した左手を軽く握り、サミーは純太の薬指に指輪を通した。
「サイズ。ぴったりだね」
「…」
 彼の曖昧な態度にサミーは不安気な顔つきになるが、それを気にする風でもなく純太は彼の左手を取って薬指に指輪を通すと言った。
「絶対、外しちゃダメだよ」
「えっ」
 サミーの表情が一転、パッと明るく変わった。
「サミー。僕たち結婚しよう」
 二人が抱合うと、彼らを見守る人々から歓声が沸き上がった。
             *
「そんな訳で、私はまだまだ長生きしなければならなくなりました。だって私の中で、私が生き続ける限り、坂本林太郎が生き続けているんですから」
 もう一度、真由美は林太郎を見て微笑んだ。
「今日、皆さんとお会いできて本当に良かった。今日のこの機会を設けて頂くに当たって尽力頂いた皆さんの知己を得て、関われ、一緒の時間を過ごせたことに感謝しています。義父も主人も喜んでいると思います。何故なら、私や皆さんの心の中で自分たちが生きているとわかったでしょうから。ありがとうございます」
 林太郎はにっこり笑って頷いて見せた。
「それでね、折角だから私、この場を借りて宣言することにしました」
 静寂、誰もの視線が彼女へ向けられた。
「しばらくの間、まだお迎えも来ないようだし、皆さんと出会うこともできました。あの世からお呼びが掛かる寸前まで、人生を楽しもうと思ってるんです。だから来年、いいえ再来年、三年先も、四年先も、もっとずっと先まで、台湾に来ようと思っています。まだ知らない所にもたくさん行って。知らないこともたくさん学んで。人生を存分に楽しもうと思っています。ですから皆さん、もしどこかで私を見掛けたら声をかけて下さいね。改めて皆さんに心から感謝申し上げます。皆さん、本当にありがとうございました」
 拍手が沸き起こる中、真由美は林太郎の姿を追った。
 だが、もう何処にも彼の姿は無かった。
             *
 目を開け、墓石に刻まれた彼女の名前を彼女はジッと見つめる。
 そして、言った。
「あなたの傍に林太郎さんの遺爪を埋めますよ」
 プラスチックケース中の遺爪をつまんで墓の脇に掘った穴の中に入れ、土を被せると、彼女は墓前で手を合わせた。
「さて、これで約束も果たせたようだね」
 少しよろけそうになりながらも杖を支えに立ち上がる真由美は純太とサミーに支えられながら立ち上ると、お墓の向う側に見える景色を彼らと一緒に見た。
「気持ちの好い秋晴れだねぇ。静かだし。台北の町も一望できる。綺麗な景色だよ」
 爽やかな秋風を満喫しながら、真由美は穏やかな表情で言った。
「きっとこれが、林太郎さんに見せたかった景色なんだね…」
             *
 夜、7時。
 真由美は、純太とサミーと十份に来ている。
「すごい人だねぇ」
「ゲイパレードの後ですから」
 そう言う純太と傍らに立つサミーの指に同じ指輪が、真由美の目に留まった。
「おや。二人とも同じ指に同じ指輪かい?」
 顔を見合わせて照れる二人。
「サミー。プロポーズしたんだねぇ」
「はい」
「いつだい?」
「ゲイパレードの時です」
「おやおや。大胆ねぇ」
 真由美、含み笑い。
「真由美さん。天燈上げますよね」
 彼女は純太へ頷いて見せた。
 二人は天燈を売っている店へ真由美を連れて行った。
「紙の色を選んで願い事を書くんでよ」
「えっ、先生。色を選べるのかい。何を選んだら良いかねぇ?」
 サミーは、色の意味が書いてある紙を真由美に渡して簡単に説明した。
「それじゃあ、赤の健康、ピンクの幸福、オレンジ色の恋愛と白の明るい未来を選ぼうかねぇ。これから人生を楽しむのにどれも大事だからさ」
 真由美は筆を渡され、願い事を書いた。
 ランタンを持って三人が店を出ると、スタンバイ状態のランタンが溢れている。
「おや。みんな、上げないのかい?」
「みんな、一斉に上げるんですよ。イベントのクライマックスです」
 サミーはそう言って、純太と二人で天燈を持った。
「真由美さん。合図で手を離しますからね」
 純太は片手で真由美の天燈も掴んで、上げる瞬間を待った。
 スタジオで進行役の説明が終わり、周囲でカウントダウンが始まる。
「十、九…」
 カウントダウンに熱気が帯び始める。
「八、七、六…」
 嬉しそうに互いを見る、純太とサミー。
「ウー、スー、サン…」
 …真由美…
 隣を見ると、天燈を一緒に持って微笑む林太郎がいた。
 …お父さん…
 …一緒に上げるよ…
 純太はいつの間にか手を離していた。
 それを見て真由美は頷き、こぼれる笑みで林太郎を見た。
「アー、イー。零(リン)。GOッ」
 無数の天燈がそれぞれの願いを載せて、夜空へ一斉に昇っていく。
 サミーは純太の肩を抱いて、夜空を見つめる。
 林太郎は真由美の手を握って、二人の天燈を静かに見つめた。
 真由美は夜空を見上げる林太郎の横顔を見て微笑むと彼に身体を少し寄せ、赤く輝いて昇る天燈を心ゆくまで静かに見つめた。
             *
SNS:台北、純太‐埼玉、仁美によるビデオ通話。

『仁美さん。お元気ですか?』
『元気、元気。あら、真由美さんたちは?』
『みんなで茶油麺線を食べてます』
『あら。噂のね。えっ、外なの?』
『老板のお店のバルコニーです。台北の町、見えます?』
 純太は、カメラを山間に見える台北の町へと向けた。
『見える、見える。好い眺めねぇ。行きたいなぁ…』
『来年。みんなで来ましょう』
『行くわよ。あたしがスケジュール立てるから』
『ところで公園からですか?』
『そうよ。江津子さんと真央さん。見える?』
 仁美はカメラを公園の広場へ向ける。
 江津子の凛々しい姿と真央の背中が見えた。
『元気そうですね』
『戻るの明後日だっけ?』
『はい。あぁ、そう言えばサミーさんのプロポーズOKしたんですってね』
『えっ。何で知ってるんですか?』
『佐和子先生からね』
『何で母が知ってるんだろう。まだ言ってないのに。老板か太太?』
 仁美は笑って言った。
『違うわよ。あなたとサミーさん。ネットでちょっとした有名人よ』
『えっ。何で?』
『ゲイパレード。レインボープロポーズの二人って。ロマンチックねぇ』
 仁美、ニヤニヤ。
『あっ。あぁぁ…』
 突然、画面にキジトラキャットのドアップで映った。
『ミャーオ』
 それまで純太の膝の上で寝ていた富富がキジトラの鳴声で目覚めて、画面を見ながらひと鳴きした。
「小純。できたよ」
 純太の茶油麺線を持ってサミーがバルコニーに姿を現した。
「サミー。どうしよう。僕らのプロポーズの様子がネットに拡散してる」
「あぁ。そのこと」
「え、えッ。知ってたの?」
「ギャラリーにあれだけ動画を撮られてたら止めようがないさ」
 サミー、惚けて笑う。
 その時、SNSに佐和子が参加してきた。
『純太。あら、サミーさんも居たの?』
『お義母さん。おはようございます』
 義母と言われて、ちょっと戸惑い気味に照れる佐和子。
『二人。いつ、こっちへ来るの?』
 口ごもる純太をよそに、サミーはキッパリ言った。
『明後日。純太と一緒に伺います』
『宜しい。待ってるから。ちゃんと挨拶に来てね』
 太極拳体操を終えた江津子と真央が仁美の所へやって来た。
『純太さん。うちの姉さん、元気?』
『江津子さん。真由美さんならお元気です。今、中でこれを食べてます』
 純太は茶油麺線を見せる。
『あら、美味しそうね』
『美味しいですよ。そうだ江津子さんも、来年台北へ行きましょう』
『来年?』
『みんなで来ようって話してたんです』
『あたしも、良いの?』
『もちろん』
『急に言われてもねぇ…』
『太太の茶油麺線は絶品ですよ』
『そうだよ。日本に引き籠ってないで、台湾に来な』
 真由美がそう言うと、真央が叫んだ。
『あっ。先輩――――ッ。無事だったんですね』
『大袈裟だねぇ』
「随分賑やかねぇ」
 そう言って太太が姿を現わした。
『あら。佐和子さんじゃない』
『太太。元気?』
『もう寂しいわよ。三年、会ってないもの。来年、来れるんでしょう?』
『行くわよ。待ってて。また美味しい物食べて、遊びましょう』
『お店。開拓しておくから』
『OK』
「あっ。そうだ」
「サミー。どうしたの?」
「みんな集まったんだし、記念写真撮らない?」
「あら良いわねぇ。それなら、あの人に撮ってもらいましょう」
 そう言うと太太、老板を呼んだ。
「みんな。急にいなくなってどうしたんだい?」
「あなた。記念写真撮って」
「何だよ、急に…」
『老板さーん』
 老板は、画面の中で手を振っている佐和子を見て状況を察した。
 そしてスマホを構えると、みんなへ言った。
「あぁ、もうちょっと。みんな、身体を寄せて」
 スマホを覗き込んでいた老板だったが、何かを思い出したように顔を上げ、みんなを見ながら言った。
「俺抜きの記念写真かい?」
 無言。
「それなら僕が撮りま…」
「サミーは良いから。純太の隣に居て」
キッと老板を見て、太太。
「もう、あなたは。気が利かない。取りあえず一枚撮って、次に入れば良いじゃない」
『あぁ、そうかあ…』
 再びスマホを覗き込んだ老板だったが、また何かに気づいて一言。
「悪いけどさぁ…」
「何よ?」
「佐和子さんたち、小さすぎて写りが悪いよ」
「そんな細かい事は良いの。気持ちよ。き、も、ちッ」
 老板、ちょっと苦笑い。
「それじゃあ、撮りますよ」
「イー」
「アー」
「サン」
 キジトラと富富も同時に吠えた。
「はい。茄子(チーズ)ッ」


(END:「楽趣公園 ―最終話 茶油麺線(Tea oil somen noodles)―)
(次回作:「楽趣公園 ―全編版―」)
(次回作アップ予定:2022.3.11予定)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?