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楽趣公園(ルーチー・コンユァン)-台北早晨(Taipei Morning)-

 SNS:純太と老板によるビデオ通話。

『淳さん。お茶、ありがとうね』

 父の死を知った老板は、僕に香典を送ってきてくれた。そのお返しに日本のお茶を送ったのだが、どうやらそれが届いたらしい。

『いやー。日本のお茶。美味しいね』

 僕は東京に隣接した埼玉県下の町に住んでいる。この辺りは都心への通勤圏にあるが日本茶の産地としても知られている。パンデミック以前、この町に住んでいると言うと大抵の人は都心から離れた所に住んでいると言われたものだが、実は意外とそんな遠くでもなく急行電車なら30分掛からない。そうした事実が知られていないせいか、駅郊外の開発は緩やかだった。
数年前に駅舎が改築してビル化し駅の周辺はそれなりに賑やかになった。
それとは対照的に郊外は畑と雑木林が点在する住宅地が広がり、雰囲気は何となくのんびりしている。程よい加減で都会と田舎が混在していて住みやすく、不便も感じない町といえる。
ところが最近、この辺りの地価が上がっているらしい。
オリンピック景気と思いきやそうではなく、パンデミックによるリモートワーク推奨により移住を希望する人が増えたことによる。それまでイメージ先行の穴場的場所だった我が町の便利さが気づかれてしまったということかもしれない。個人的には、今以上に都市化してくれない方がありがたい気もするのだが、そうはいかないかもしれない。
ともあれそうした感じの町だから、駅から少し歩くと茶畑を目にすることになる。
南台公園と通りを隔てて立ち並ぶマンションや有料の高齢者施設の裏側にも、かなりの広さの茶畑が広がっている。新茶の季節となると若葉から目に鮮やかで綺麗で、心も和むし好きな風景だから、都市化の波に押されても残って欲しいと思う。
老板の茶園がある猫空(マオコン)に惹かれたのも、平地と山の斜面の違いがあるものの茶畑が広がる風景に心が和んだからかもしれない。

『淳さんの送ってくれた新茶。静岡のとは香りも味も趣が異なって旨いね』

 茶の生産者の同業者組合のような組織が台湾にもあって、老板も加入している関係から静岡へは何度か行ったことがあるらしい。だから静岡茶に関しては知っていたが、僕が住んでいる町のお茶については名前を聞いた事がある程度だった。新茶が出ると、僕は老板へ毎年送っているのだが、気に入ってくれているようだ。老板で五代目となる茶園主に褒めて貰えると、生産者では無いけど僕も嬉しい。

『太太と毎朝、楽しませてもらっているよ』
 老板は、茶を飲みながら穏やかな笑みを浮かべた。
『ところで淳さん。一つお願いがあるんだがね』
『何です?』
『送ってくれたお茶は純さんちの近所で作っているんだろう?』
『ええ』
『追加で送ってくれないかね』
『良いですよ?』
『実はね、友達が気に入っちゃってね。少しお裾分けしんだよ。そいつも太極拳体操をしてるんだよ。毎朝。公園で。淳さんちの近所にある公園と一緒。年寄連中の健康体操』
『その人って、ひょっとして老板を体操に誘ってます?』
 老板、ニヤニヤ。
『バレたね。そうなんだよ。でも、俺はやらないよって言ってる』
『健康に良さそうですよ』
 老板、再びニヤニヤ。
 純太の問いに答える気が無い。
『そいつがね、お裾分けしてやったお茶を公園へ持って行って、体操の後に振る舞ったらしんだよ。そうたら意外と好評でね。もうちょっと無いかって言ってたんだよ』
『へぇー。好評。意外ですね』
『私もびっくりだよ』
『この間送ったお茶は、葬儀屋さんで手配していた物なので同じのを送れないですけど良いですか?』
『良いよ。大丈夫。大丈夫。あぁ、それとお金もちゃんと払うから』
『それは気にしないで下さい。老板にはお世話になってるから』
『それは駄目だよ。純さんの商売に繋がるかもしれないからね。ビジネスはビジネス。ビジネスにお金の行き来は何よりも大事だよ。請求書も入れて送ってね』
 老板、真顔。
『分りました。ちゃんと請求します』
『そうそう。それが大事』
『美味しいやつを探して送りますね』
『頼むね』
            *
 翌日、晴れ。
 朝、太極拳体操を横目に見ながら南台公園を一周する散歩は僕の日課となっていた。
「イー、アー、サンー、スゥー…」
 広場で体操するお年寄りたちへ目を向けると誰とはなしに目が合うことがある。
 互いをチラッと見て、目を逸らすとそれぞれの前を見る。
 僕はお年寄りたちが何となく気になるけど、彼らはどうなんだろう。熱心に体操をするお年寄りたちの無表情からすると僕に対する関心は無いだろうと思うけど、そう断言しきれない不思議な空気が僕とお年寄りたちとの間に漂っているいるような気もした。
 朝の時間をどう過ごすのを決めている人が意外と多く、公園で出くわす顔ぶれにもそれが反映されているかのようだった。
 太極拳体操のお年寄りたち。
 1歳くらい息子を砂場で遊ばせる主婦。
 歩行補助を兼ねた手押しカートを押しながら散歩をするお婆ちゃん。
 ブルドッグと散歩をするご夫婦。
 預かっている子供たちを散歩に連れて歩く近所の保育所の先生と園児たち。
 キジトラキャット。
 すれ違うと会釈する程度だけど、偶に見掛けないと妙な気持ちになるから不思議だ。
 手押しカートのお婆ちゃん。
 僕が寝坊をして散歩の時間が普段より遅くなった時があった。
 目にする人々や公園の雰囲気が普段と違い、それはそれで新鮮だったのだけれども翌朝に手押しカートのお婆ちゃんと出会った時、彼女は立ち止まって繁々と僕の顔を見ていた。その彼女の表情と久しぶりに実家へ戻った時に母親が見せる表情が重なって見えた。
 その時僕は、遅刻しないで散歩しないと心配掛けるなと思い込んだのだった。
 手押しカートのお婆ちゃん、その日の朝はカートに腰掛け、散歩途中の保育園児たちと談笑し触れ合っていた。
「イー、アー、サンッ、スー…」
 彼女の向うで太極拳体操。
 彼女の周囲に保育園児だち。
 彼女を挟んで二つの世界が和んでいる。
 ふと彼女は僕へ和やかな無表情を向けた。
 彼女の和やかな空気に誘われて、僕もそこへ足を向けそうになった。
「さぁ。みんな。行こうね」
 引率の保育園の先生の声。
 潮が引くように歩き出した園児たちを見送りながら手押しカートのお婆ちゃん、少し重い感じで腰を上げると、手押しカートを押して歩き始める。
 彼女は僕と目を合わせることなく前を通り過ぎて行く。
 彼女の後姿を見送りながら僕は、ずっと昔に見た日本映画を思い出した。
 …横溝正史。悪魔の子守歌…
 あっ。
 あのオープニングシーン。
 ぶつくさ言いながら峠越えをする姉さん被りに腰の曲がったお婆さん。
 彼女を見送る金田一耕助。
 …えっ。僕って。金田一耕助なの…
 そして僕の表情は曇りながらも変な期待。
 …この後、事件が…
 そう思う僕の耳に声が届いた。
「イー、アー、サンッ、スー…」
            *
 事件とは呆気なく起きるものらしい。
 僕は午後、老板に頼まれたお茶を買いに出かけた。
 お茶の産地なので駅前のデパートの他、近所にもお茶を売ってる店が何件かある。
 コーヒー党の僕にとって、緑茶を飲む機会は少なくペットボトルのお茶を時々飲むくらいである。お茶の産地に居住しながらこの体たらくなのだが、昨今のお茶事情を体現している典型的な市民が僕みたいな人間かもしれない。
 南台公園を一周散歩するのが日課となってからは、近所を散策することは減った。それでもそれ以前は、探索がてら近所をうろついていた。その際に気になる店が幾つかあったのだが立ち寄ることもなく、横目に見ながら店の前を通り過ぎるのが常だった。その中でも一番気になる軒先の看板に『坂本園』と看板の掛かる店に赴いた。
 茶園が経営している個人店舗である。
 自動ドアではない引き戸の扉を開けて中に入る。
 誰も出で来ない。
 お店の中はといえば、どこか時間の止まった感じのする雰囲気だった。
 茶飲み話をするにはうってつけの丸テーブルと椅子があり、テーブルの上には瓶掛けがあり、その中の五徳の上に置かれた鉄瓶の口から湯気が静かに出ている。懐古に属する風景で、今どきの日本では絶滅に等しい。でも、そんな天然記念物級の雰囲気に想食いしても動じることなく受け入れられるのは、台湾でこれと似た風景を目にすることが多かったからもしれない。
 …あっ。キジトラキャット…
 脱走中の奴を探す手配書が壁の新茶のポスターの隣に納まっている。
 どうやら、まだ見つかってないらしい。
 僕は陳列棚のお茶を手に取って見てた。
 すると、背中に人の気配。
「いらっしゃい」
 背中にお婆ちゃんの声。
 振り向いて声の主の顔を見て僕らは思わす声を上げた。
「あら。お客さん」
「あっ。手押しカートのお婆さん…」
 思わず発した『お婆さん』の僕の一言に彼女はムッとしながら言った。
「朝。下駄の人」
 …これは事件だ…
 内心苦笑しながらそう思いつつ、僕の頭の中に『悪魔の手毬唄』のワンシーンが過るのだった。
            *
「お茶ですか?」
「はい。友人から送ってくれって頼まれて。お薦めはありますか?」
 彼女はちょっと困った顔をして僕を見ている。
「どうかなさいました?」
「難しいわね」
「何がです?」
「お薦めのお茶ねぇ…」
 彼女、それきり沈黙。
「難しいですか?」
「送る相手の人を、わたしは知らないしね」
「…」
 普通こういう場合は、呆れるのかもしれない。
 大抵の人はこんな風に言われてしまうと面食らうだろうし、中には商売する気があるのかと怒り出す人もいるに違いない。そんな人は怒る前に憮然とした表情を向けた店を出て行くに違いない。こんなトラブルを避けたいから、店でよく売れている或は、店主のお薦めを案内するという展開になるのだが彼女は違った。
「どんな人に送るの?」
「台湾人の友人です」
「ふーん」
 彼女、再び沈黙。
 僕、沈黙に耐えかねて勝手に喋り出す。
「少し前に父が無くなりまして」
 彼女、不可解な微笑で小首を傾げる。
「そのことを知った相手がパイパオ(白包)を送ってくれたんです」
「パイパオ?」
「ああ、日本の香典に当たるものです。香典用の白い封筒にお金を入れて渡すので、向うではそう呼ばれています」
「黒じゃないの?」
「向こうで喪の色は『白』ですね。正式には麻衣だったかなぁ。純白というより少しくすんだ白色となりますか」
「ふーん。でも、戦前の日本もそうだったよ。今じゃ、黒があらたまった色で冠婚葬祭に着られるけど、その当時は白だったね。子供の頃にね、祖母の葬式に立ち合った時も白い喪服姿の人が多かったよ」
「へえー。そうなんですか」
「黒って本来はハレの色で格式も高かったんだよ。だから江戸時代に黒門付きの羽織を着れるのは上様お一人だったらしいよ」
「詳しいですね」
「聞きかじりだけから。信用しないでね」
 二人、笑い。
「結婚のご祝儀は何色なの?」
「赤です。ちなみにご祝儀はホンパオ(紅包)って呼ばれています」
「ポンパオ?」
「赤い封筒に入れて渡すんですが、『ホン』が『赤色』のことです」
「お包は幾らくらいが相場なの?」
「気持ちですから。でも偶数金額を包みますよ」
「偶数。嫌だねぇ…」
「日本で『偶数』は『分れる』に通じると考えますからね。でも向うでは、『割り切れる数字』だから『どんどん増える』って考えます」
「おや。物は言い様ねぇ。それじゃあ、御香典は奇数の金額かい?」
「鋭いなぁ。奇数金額を包みます」
 彼女、無関心。
「それで、お茶はそのお返しですか?」
「いいえ。お返しは済んでます」
「?」
「老板。どうやら僕が送ったお茶を友達に振る舞ったようで。日本の緑茶が好評だったので追加で送ってくれって頼まれました」
「台湾の人でも日本の緑茶を気に入るのかい?」
「?」
「烏龍茶だと思っていたけどねぇ」
「そうですね。老板の本業も茶園のご主人で烏龍茶を作ってますしね」
「えっ。そのラオバンとか言う人。うちみたいにお茶を作って売ってるの?」
「はい」
「妙な人だねぇ」
「そうですか?」
「烏龍茶を売っているお店で日本の緑茶を振る舞ってるんだろ?」
「はい」
「自分の商売そっち除けで日本茶かい?」
「まぁ。そっち除けじゃないと思いますけど。そうなるかなぁ?」
 彼女、苦笑。
「その人の店の烏龍茶。どんな味なんだい。美味しいの?」
「飲んでみます?」
「えっ?」
「うちにあるから持ってきますよ」
「うちって。あんた、このご近所さんなの?」
「南台公園の横のマンションです」
「あぁ。あそこ。だから毎朝、下駄履きで散歩してるの?」
「気分転換兼ねて」
「ふーん」
「ちょっと。待ってて下さい。直ぐ戻って、老板の烏龍茶を持ってきますから」
            *
 マンションへ烏龍茶を取って坂本園へ向かう途中で見覚えのある猫に出くわした。
 …あっ。キジトラキャット…
 向こうも僕に気づいたらしい。
歩みを止めると悠然と顔を僕へ向ける。
 ちょっとの間、僕らは見合っていたがキジトラの奴はプイッと顔を前に向けると再び歩き始めた。
 僕もまた、奴を追うように歩き出した。
            *
 僕の先を行くキジトラキャットの奴は、なんと坂本園の前にいた。
 ニャーオと鳴くと、ピシャリと閉じられているドアへ猫パンチを繰り出し続けている。
 その光景を僕が小首を傾げて見ていると、店のドアが開いた。
 キジトラキャットの奴は顔をこちらへ向け、僕をジッと見るや店へ入って行った。
 猫の表情なんて代わり映えしないだろうと思っていたが、その時のキジトラキャットの表情はドヤ顔に見えた。
            *
 店に入る。
 先ず目に映ったのは、瓶掛けの隣で餌を食べるキジトラキャットだった。
「おや。戻って来たんだね」
 彼女は僕の顔を意外な表情で見ながら言った。
「烏龍茶。持ってきました」
 彼女はお茶の入った銀色の袋を繁々と眺めた。
「おや。好い香りだね」
 彼女は笑って言った。
「これで幾らするんだい?」
「400元くらいだったかなぁ?」
「四百元?」
「日本円に換算すると1500円前後ですね」
「おや。ウチで売っているお茶と大して変わりないね」
 僕は苦笑した。
「えっ。どうしたの?」
「向こうで400元あると余裕で二食、店を選べば三食は食べられますよ」
「おや。そうなの?」
「はい」
「そう考えると随分、お高いお茶なんだねぇ」
 今度はちょっと敬い気味に、彼女はお茶の入った袋を見つめた。
「一緒に飲みましょう」
「良いのかい?」
「えっ?」
「高いお茶みたいだしねぇ」
「気にさないで下さい。一緒に飲もうと思って持って来たんですから」
          *
「おや。美味しいねぇ。このお茶」
 一口飲むなり、彼女はそう言った。
「香りもね。ホッとするわ」
 彼女はどうやら老板の烏龍茶を気に入ったようだ。
 散歩ですれ違う度に見せていた無表情は消え、今の彼女はキュートな笑顔が魅力的なお婆ちゃんだった。
「自己紹介がまだでしたね。あたしは坂本です。名前は真由美」
「坂本さんですね」
「真由美で良いですよ。ここの店番なんだけどね、主人が無くなってからは私が引き継いでここをやってます」
「茶園の方も?」
「そっちは息子夫婦に任せてますよ。あたしは営業担当」
 二人、和やかな笑い。
「お客さん。お名前はなんと仰るの?」
「二宮です。二宮純太」
「二宮さんね」
「純太で呼んでも貰っても良いですよ。老板は、僕のことを『純さん』と呼んでますし」
「そう。純さんね。よろしくお願いします」
            *
 キジトラキャットの奴、満腹になったらしく瓶掛けの隣で眠っている。
 キジトラキャットと奴の壁に貼られた指名手配書のチラシを僕が交互に見ていると、真由美さんが話しかけて来た。
「ちょっと前からフラッと来るようになってね。餌もくれるから気に入られたかしらね」
 真由美、苦笑。
「でも、この猫はあれじゃないですか?」
 僕は指名手配書のチラシを指さした。
「どうかしらね」
 真由美は茶目っ気たっぶりに惚けて見せた。
「私は中立だから」
「中立?」
「この猫、飼い主の家から脱走したんだろ」
「そうみたいですね」
「居るのが嫌だから逃げたってことだね。逃げても外の暮らしが大変ならもどる。でも、戻らないところからすると戻る積りもない。だから、それらしい猫が居ても飼い主へ連絡する気はないわよ」
「可愛そうですよね」
 真由美さんはにっこり笑って否定した。
「違うよ。ネコに恨まれたくないから。それに壁に指名手配書を貼ったから。ご近所への義理は果たしたかな」
「それで中立なんですね」
 僕、ニヤニヤ。
「でもこいつ、指名手配の猫に似てませんか?」
 僕の言葉に反応したのか、キジトラキャットの奴が薄目を開けてこちらを見たような気がした。
 真由美、キジトラの奴をチラ見。
「どこにでもいるキジトラの野良猫だよ」
 真由美さんは静かに烏龍茶を啜った。
「そうですね」
 僕がそう言うとキジトラの奴、身体に顔を埋めて眠り続ける。
            *
「朝の散歩は日課ですか?」
「散歩?」
「南台公園の回り。手押しカートで…」
「あぁ。あれね」
 真由美、苦笑。
「引籠っていると惚けるからね。足腰も弱るし」
「太極拳体操はなさらないんですか?」
 真由美、再び苦笑。
「ああいうのはね、向き不向きがあってね。私には向いてないんだよ」
「向き不向きですか?」
 真由美、頷く。
「体操とか、スポーツとか苦手ってことですか?」
「違うよ。こう見えて、毎週土曜日に卓球をしているんだよ」
「卓球?」
 手押しカートを押しながら歩く姿と卓球に興じる真由美さん像が重ならない。
「駅前のジムでね。場所を借りて2時間ね」
「にっ、2時間もですか?」
 真由美、ドヤ顔。
 …この人、謎だ…
「公園の体操。リーダーがいるじゃない」
「はい」
 真由美は溜息を漏らしながら言った。
「私はどうも、ああいうのが苦手なんだよ」
 僕、苦笑。
 真由美さんとは知り合って一時間だが、話すほどにこの人は面白い。
「ラジオ体操も好きじゃなかったからね。きっと、みんなと一緒がダメなんだね」
 真由美、烏龍茶を啜る。
「だから周りで見るだけにしてるんだよ」
 僕のイジリ心に火がつき、彼女に尋ねた。
「でも本当は太極拳体操をやりたいとか?」
「そうかもしれないね」
 あっさり素直に返され、僕は少しガッカリ。
「だから観察することにしたんだよ」
「それで毎朝、体操を遠巻きに見ながら散歩ですか?」
 真由美、頷く。
「あの手の集団は入ったら中々抜けられないだろ。だから観察し慎重に見極めないとね」
 キジトラキャットの奴が目を覚ました。
 テーブルの上に四肢で立ち、背中を伸ばすと欠伸。
 眠気をまだ引き摺ったような眼差しで僕らを交互に見ると、奴はひょいとテーブルから飛び降りドアを猫パンチ。
 真由美さんは心得たように奴の傍らに立ち、ドアを開けてやった。
 キジトラキャットは振り向きもせず外へ出掛けて行った。
 一連の様子を見ながら僕は、真由美さんを老板に会わせたいと思った。
「まったく好い気なもんだ。ここを自分ちだと思ってるのかねぇ…」
 彼女は苦笑気味に言っているが、様子からすると満更でもない。
「真由美さん、明日の朝も散歩されますか?」
「お天気が良ければするよ」
「公園で老板に会いませんか?」
「?」
 真由美、小首を傾げる。
「老板さん。台湾だろ?」
「はい」
「?」
「勿論、リアルじゃなくて。ネット経由で」
「あぁ。そういうことね」
「どうです?」
「他に用事もないから良いよ」
「では明日の朝、九時過ぎに公園で」
            *
SNS:純太、真由美と老板によるビデオ通話。

『老板。おはようございます。そちらは八時頃ですか?』

 彼は朝食中らしい。

『純さん。おはよう。こんなに早く、どうしたんだい?』
『日本の太極拳体操風景を見てもらおうかと思って』
『ほう。そうかね』

 僕は、広場で一糸乱れぬ体操風景を老板へ送った。

『どうです?』
『凄いね。太極拳だよ』
『台北っぽいでしょう?』
『そうだね…』

 ニコニコ笑いながら老板、間を置いて言った。

『でも、ちょっと違うね』
『違いますか』
『ちょっとね』
『どんなところが違いますか?』
『みんな日本人らしいよ』

 …そりゃあ、そうだろう。ここに台湾人はいない…
 そう思いつつも僕は、更に聞いてみた。

『日本人らしいって?』
『みんな、マジメだね』
『マジメ、ですか…』
『台湾人。もっと気ままにやってるよ』

 僕、なんとなく納得。

『体操、揃ってて綺麗だね。でもなぁ…』
『でも?』
『表情。硬いね』

 確かに、そんな気がした。
 真剣な感じの表情には見えるけど、ゆったり、リラックスという感じではない。

『朝から硬い所は一か所だけで良いね』

 シマッタと気まずい僕の強張る表情とは裏腹に、真由美さんは腹を抱えて笑っている。
「純さん。面白いわね、この人」
 ハタとこの時、真由美さんが何故笑っているのかと僕は素朴な疑問。
「まっ、真由美さん。中国語解かるんですか?」
 真由美は、僕の疑問に答えるかのようにスマホを見せた。
「翻訳アプリよ。パンデミックの前はね、この辺りにも外国の観光客が来てね。中国とか台湾のお客さんも多かったから。意外と重宝してたのよ」
 僕、目が点。

『純さん。横の人は誰かね?』

「はじめまして。私は坂本真由美です。あなたが老板さんですね?」
 真由美さん、中々流暢な中国語である。
「凄い。話せるんですね」
「挨拶程度だね。今以上に込み入った話になると解らないから翻訳アプリ頼り」

『坂本真由美さん』
『真由美で良いですよ』
『真由美さん。気さくな方だ。純さんとは御親戚か何か?』

 僕が代わりに答えた。

『昨日知り合ったんです。老板から頼まれた日本のお茶を買いに入ったお茶屋さんのご主人です』
『おや。うちの太太と一緒だね』
『あれっ。店の切り盛りは老板じゃないの?』
『私は店番。ボスは太太だよ。その方が商売上手くいくんだね』

 真由美、苦笑。

「老板。面白い人だねぇ」
「そうなんですよ」
「ところで、いま召し上がってらっしゃるお食事は何ですの?」

『これですか。これは、油条(ヨーティアル)と言いまして揚げパンの一種ですよ』

「おや。揚げパンが朝ごはんなんて、栄養が偏りそうだよ」

『大丈夫。大丈夫。これをね、こんな風に牛乳に浸して食べるんですよ。牛乳につけますから栄養も大丈夫』

「家で揚げて作るのね?」

『毎朝、家の近所に揚げパンの移動販売が来るんですよ。美味しくてね。うちも含めて、ご近所連中が買いに来ますよ。直ぐ売り切れ。寝坊すると買い損ねるから、決まって朝食抜きになるね』

「そりゃあ大変だね。手作りの揚げパンはね。コンビニでは売ってなさそうだね。早起きは健康に良いからさ。揚げパン健康法だね」

『真由美さん。今度、ご一緒に油条でもどうかね?』

「あら。台湾へ行かなきゃならないねぇ。どうしよう?」
 真由美さん、満更でもない様子。

『来てくれたら、色んな所へご案内しますよ』

「おや。楽しみだね。でもパスポートを持ってなくてねぇ」
「パスポートなら駅ビルのセンターで作れますよ」
「えっ。そうなの?」
「駅ビルの建て替えに合わせてセンターもオーブンしました」
「でもねぇ。この歳でパスポートとか海外旅行なんてねぇ。気恥ずかしいよ」

『大丈夫。大丈夫。旅に歳は関係ないよ。大事なのは気力、体力、お金ね』

「海外。行ってみたいねぇ」

『気力。大丈夫だね』

「お金。あるよ」

『お金、オッケーね』

「体力がねぇ。歳が歳だからねぇ。明日から、散歩を一周から二周へ増やそうかね」

『体力、問題ないね。パンデミックが下火になるの、もうちょっと先。明日から二周へ増やすの良いアイディアね。その頃、真由美さん、マッチョで筋肉モリモリね』

「じゃあ。頑張ってみようかね」

『真由美さん。チャレンジね。素敵ですよ』

 真由美、笑顔。
 嬉しいらしい。
「老板さん。パンデミックが収まったらお会いしましょうね」

『是非。是非』

「あと油条も…」

『もちろん。ごちそうしますね』

 二人の会話は終わった。
 …初めてだよ。男女の橋渡しの通訳なんて…

 SNS:純太、真由美と老板によるビデオ通話終了。

 僕はどっと疲れた。
「純さん」
「はい」
「パスポート作りに行かなきゃねぇ」
 僕、苦笑。
「乗り掛かった舟みたいなものだから、パスポートの手続きのお手伝いしますよ」
 真由美、フフフ笑い。
「ありがとうね」
            *
 僕と真由美さんは広場の太極拳体操を眺めていた。
「あれやった方が、散歩より体力が付きそうじゃないですか?」
「それはそうだろうけどねぇ…」
「嫌いですか?」
「別に嫌いじゃないよ」
「性に合いそうにない?」
「それもねぇ…」
「参加したら抜けられないんじゃないかって不安?」
「そんなの気にしないよ」
 真由美、ニヤニヤ。
 何かを隠している。
「…」
「あのリーダーの人だけどさ」
(イー。アー。サンー…)
「実はさ…」
(スー。ウー…)
「あたしの一番下の妹なんだよ」
(リュウ…)
「ちょっと入り難いんだよ」
(チー…)
「さあ。みんな。手を真直ぐ、空へ向かって上げて」
 リーダー、何だかキッパリ口調。
 彼女の掛け声に合わせて参加者の両手が一斉に上がる。
 僕と真由美さんは、その光景を静かに見続けた。
(パァ…)
「だからちょっとさ…」
 そう言うと、真由美さんは僕の顔を見て続けた。
「面倒くさいんだよ」
(チィオー)
 僕と真由美さんの間に乾いた沈黙。
 すると突然、何かが、ズドンと音を立ててテーブルの上に乗った。
 …うぉッ。キジトラキャット…
 奴は、テーブルの上を闊歩。
そして、奴は僕のPC端末に臭い付けの身体スリスリ。
…それは俺のだって…
僕はPCを閉じた。
「おや。お前、来たのかい」
 彼女はキジトラキャットを撫でる。
「ミャーオ」
 ひと鳴き。
 なんと奴はPC端末の上に乗っかり、座る。
「ウワッ」
 そしてキジトラキャットは大欠伸をし、僕のPC端末の上で眠るのだった。

(END:「楽趣公園 ―台北早晨(Taipei Morning)―」)
(次回作:「楽趣公園 ―around FREE―」)
(次回作アップ予定:2021.10.31予定)


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