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楽趣公園(ルーチー・コンユァン) -全編-

第1話 Long DIstance

 SNS:埼玉、純太 ― 台北、老板によるビデオ通話。

『老板。久し振り』

 老板(らおばん)。
 台北郊外の猫空(マオコン)にある茶園の主人。
 向うでは、店主のことを老板と呼ぶことが多い。
 茶園で親しく話しかけてきた時、名前が分からないからそう呼んでいる。
 彼にも本名はあり、純太も当然それを知ってはいるが、彼のことをそう呼んでいるうちに馴染んでしまった。

『純さん。元気だったかね?』

 老板は彼をいつもそう呼んでいる。
 二宮純太。
 三十二歳。
 ネット稼業の個人事業主3年目の独身男だ。

『元気です。半年振りくらいですか』
『お父さん。ご愁傷様。落ち着いたかね?』

 半年前に純太の父が癌で他界した。
 四十九日が過ぎるまでは実家と自宅の往復生活。
 何だか大変そうな生活に聞こえるが、実家は同じ市内にあって自転車で10分の距離。歩きでも三十分掛からない。
 現在、実家には彼の母親が一人で暮らしている。

『お陰様で少し落ち着きました。でも人が一人、この世から居なくなるのに手続きがこんなにも大変なのかと、しみじみと実感させられましたよ』
『お父様は幾つで亡くなられたのかね?』
『七十歳でした』
『おや、随分と若かったねぇ。俺より二歳も若いじゃないか』
『えっ。老板。七十二歳なんですか。若いなぁ』
『そうかい。嬉しいねぇ』
 老板、ニヤニヤ。

 純太が台湾の一人旅を始めたのが十年前で、以来毎年一回行っている。
 だが今年と去年はパンデミックの影響で海外旅行が封印されて行けなかった。

『まぁ、七十年も生きていると浮世のしがらみが多くなるから。あの世へ旅立つにも手続きが要るのさ。海外旅行するにもパスポートとか必要だろ。あれの複雑版だね』
『冥土へのパスポートですか?』
『俺の時も、息子や娘たちから後始末が大変だって思われちゃうのかなぁ?』
『老板は若く見えるから、当分の間はそんな心配しなくて良いんじゃないの。それに死んだ後のことまで心配しても始まらないでしょう』
『それもそうだ』
 二人、笑う。
『佐和子さん、気落ちされてないか?』

 佐和子とは僕の母のことだ。
 母にせがまれて台北旅行をした折、老板の茶園を案内した。
 その時は、老板の太太(タイタイ。夫人のこと)も店にいて、茶道の先生をしている僕の母親と妙に馬が合ったらしく、茶の話で盛り上がっていた。
 それ以来、母もちょくちょく台北に行っていらしい。
 僕が茶園を訪れた時に老板から「この前、佐和子さんが友達と一緒に来たぞ」と言われて驚くことも一度や二度ではない。

『夫婦。仲が良かったから心配だったんですが、むしろ今の方が元気そうです』
『それは一人息子に心配掛けないよう気を張って見せてるんじゃないのかい』
『そうですね』
『大事にしてあげな』
 老板は惚けた雰囲気があるが、中々鋭いところがある。
『太太はお元気ですか?』
『日に日に元気だよ。亭主の俺がびっくりするくらいね』
『それは何より。好いことですよ』
『女房が元気過ぎるというのも考え物さ』
『どうしてですか?』
『パンデミックの影響で日本や外国へ行けないだろう。国内旅行は飽きちゃってる人だからストレスが溜まってね』
『喧嘩が絶えないとか?』
『逆だよ』
『えっ?』
『構われ過ぎて困ってるよ』
 老板、トホホ顔。
『昔、日本で亭主元気で留守がイイなんてフレーズが流行ってましたが、老板の場合は逆ですね。太太元気で留守がイイ』
『アッ、ハッハッ。それだよ、それ。本人の前じゃ、絶対に言えないフレーズだけど』
 二人、苦笑。
『でも。太太の気持ち解るような気がする。実は、僕も台湾ロスで禁断症状始まってるし』
『台湾ロスかね?』
『はい。ひどいもんですよ』
『おや。どれだけ病んでるんだい?』
『今日。こっち梅雨の雨模様なんです。窓の外を見ていて、しっとり濡れる町の様子とか街路樹の葉っぱから落ちる雨の滴に台北の景色が目に浮かんで』
『そりゃあ重症だね。大変だ』
『そちらも梅雨でしょう。重なるんですよね』
『いいや。今朝の天気はバッチリ良いぞ』
 僕、溜息。
『まぁ、元気出しなさい。パンデミックも長く続かんよ』
『そうですね。老板の店の茶油麺線が恋しい』

 茶油麺線とは中華スープに素麺を入れたシンブルなヌードルだ。薬味はネギだけで茶の種から絞った油が風味づけに入っている。初めて見た時、あまりのシンプルさに何じゃこれはと不安になったが口にするなりファンになった。
 以来、台北に来る度に必ず食べている。

『ありゃあ美味いよ。特に太太の作るのが一番旨い。二日酔いの朝なんか絶品だね』
『林森北路(リンセンペイルー)懐かしい』
 老板、含み笑い。
 インターホンが鳴った。
『老板。何か届いたみたいです。ちょっと待ってて』
 僕は席を立った。
             *
 母からの宅配物を受取って戻ると、老板と一緒に小玲(シャオレイ)が映っていた。
 小玲は高校二年生になる老板の孫娘だ。
 初めて会った時、彼女は小学二年生だった。
 彼女が相棒と呼んでいた飼い犬の阿財(アツァイ)との散歩から店に戻って来たところに丁度僕が居合わせた。
 数学と水泳が好きな女の子だったが、背がすらりと高い美人になった。高校で結構人気があるらしい。

『おう。小玲。元気かい?』
『元気、元気』
『阿財は残念だったね』

 彼女の相棒の阿財は今年の春に死んだ。
 十八歳の大往生だった。

『うん。でも、今は富富(フーフー)が居るから大丈夫』
 彼女は膝に載せていた子犬の富富を見せた。
 富富は阿財の孫で今年生まれた。
『可愛いね。それに少し大きくなったかな』
『そうなの。阿財の生まれ変わり』
 そう言われると、阿財の面差しに似ていた。
 小玲が学校へ行くと老板が荷物のことを聞いてきた。
『佐和子さん。何を送ってきたのかね?』
 老板に即されて箱を開けると真新しい下駄があった。
『あっ。下駄だ』
 老板にそれを見せると、彼はニコニコしながら言った。
『あぁ。知ってるよ。日本の履物だね』
 下駄を見つめている僕に老板が話しかけた。
『面白いね』
『下駄が?』
『違うよ。佐和子さん』
『お袋が?』
『佐和子さん。家が近いのに宅配で送る。直接届ければ良いのにね』
『年に一回。年末に来る以外は、ここに来ないって決めてるみたい』
『一人っ子の自立の為かね?』
『ちょっと違うかな。来るとあれこれ目について、お節介焼きたくなるのが目に見えているから嫌らしいよ』
『佐和子さんらしいね』
 二人、苦笑。
『好いお母さんだ』
『そうかなぁ?』
『息子に干渉しないからね。太太も少し見習って欲しいね』
『太太が聞いたら怒るよ』
『ダメだよ。太太には内緒。二人の秘密ってことにしておいてくれ』
 二人、再び苦笑。
             *
 僕→母:電話。

「どうしたの?」
「下駄。届いたよ」
「そう」
 普段通り素っ気ない返事だ。
「買ったの?」
「お父さんが履きたがって買ったのよ。靴はサイズ合わないでしょう。留守番用に置いておく一つを除いて全部捨てようと整理したら、靴箱の隅にそれがあったのね。何だか知らないけど急に下駄を履きたいってお父さん言い出して、一緒に買いに行った時の事を思い出しちゃったわよ。結局履かず仕舞いで終わっちゃて。それ、結構高かったのよ。捨てるのもったいなくて。下駄なら履けるんじゃないかと思って送って見たんだけど、どう?」
「うーん。どうかな?」
「引籠りみたいな仕事なんだから下駄を履いて散歩したら。下駄って健康に良いそうよ」
 実家の玄関の引き戸が開く音が微かに聞こえた。
「あら。お弟子さんみえたわ。切るわね」
「うん」
「身体気をつけなさい」
 母は、普段通りあっさりと電話を切った。
 僕は苦笑気味に箱の中の下駄を眺めている。
             *
 数日後。
 梅雨の晴れ間の朝。
 純太は空調の効いた部屋の窓越しから、爽やかに見える朝の空を見ている。
「好い天気だなぁ…」
 見たまま気持ちを思わず独り言。
 日射しは強くて、明るくて、夏の兆しを感じる。
 純太は二十年以上愛用し続けている木の机の上で左右並んで鎮座している下駄を横目で見て、散歩に出かけるか迷った。
 窓の外の街路樹の枝葉は梅雨の長雨に洗われてキラキラ輝いているけど、ピクリとも動いていない。
 …無風かぁ。きっと蒸し暑いに違いない…
 ネガティブな自分が心の中でそう呟く。
 溜息。
 僕は席を立ち、逃れるようにリビングルームへ向かった。

 テレビをつける。
 ニュースが流れる。
 オリンピック開催反対の民意を伝える報道。
 反対の世論が強い割りに開催するらしい。
 オリンピックやパラリンピックに無関心な僕だけど、民意に向き合わない政府の姿勢に何となく怖さを感じつつ欠伸をした。
 昨日、一日の感染者数が初めて千人を超えたらしい。
 専門家の予想では二千人越えは時間の問題で、暫くの間この勢いは止まらないらしい。
「ステイホーム。皆さん、不要不急の外出は避けて下さい」
 溜息。
 僕はテレビを消して仕事部屋へ戻った。

 木机の上の下駄が、純太を出迎えた。

『引籠りみたいな仕事なんだから下駄を履いて散歩したら。健康に良いわよ』

 やれやれ、母親の言葉が耳に響く。
 僕は試しに部屋で下駄を履いてみた。
 …うん…
 木肌に触れる足の裏の心地よさ。
 …えっ。好いかも…
 何だか心がウキウキしてきた。
 …散歩。行っちゃおーか…
 下駄を履いたまま玄関に出て、ドアを開けた。
 陽光。
 身体に染入る日射しの心地よさ。
 でも湿度は高く、汗が流れ落ちた。
 …まぁ、好いか…
 鍵を閉め、純太は散歩へ出掛けた。
             *
 純太の部屋はマンションの二階の角部屋。
 ここは七階建てのマンションだからエレベーターもあるけど、普段の昇り下りは階段を利用している。
 …今日はエレベーターを使うべきか…
 履き慣れない下駄履きが僕の気持ちを揺さぶったけれど、普段通り階段を利用することにした。
 下駄は三千年前からあるらしく田圃で履かれた田下駄が起源らしい。日本では稲作の伝来と共に入って来て弥生時代の遺跡からも見つかっている。下駄という名称が使われ出したのは戦国時代に入ってからで支配者層の履物だった。庶民が履くようになったのは江戸時代後期らしい。昭和三十年代をピークに履かれなくなった。昭和の東京オリンピックを境に団地や高層ビルや住宅が増え出し階段を利用しての昇り下りの機会も増えるから下駄が履かれなくなった一因になっているかしれない。
 下駄で階段を利用してみたが、昇りは良いけど下りは気をつけないとちょっと怖いなと感じ、純太は下駄に慣れるのに時間を要すると思った。
 歩くと音が鳴る。
 いわゆるカランコロンというやつだ。
 意外と耳について最初の内は何だか気恥ずかしかった。周囲に目立つと言うか、日常と違うことをしている感覚が僕の心を支配するようで、初めの内は他者目線に気負わされたのが気恥ずかしさを独りよがりに意識していた。
 だけど人間は得てして図々しいというか、鈍感力に強いと言うか、その手の羞恥は最初の内だけで時と共に気にならなくなる。
 一週間も下駄履き散歩を続けるうち僕も気にならなくなった。
 パンデミックの影響なのか人通りが少ない。丁度一年前の春から今の時期に掛けては恐怖と他者監視も相まって僕の住んでいる界隈もゴーストタウンよろしく、人気が全くなくなったが、今回は流石にそこまでのことはなく人の姿をチラホラ目にする。一年も経つとパンデミックすら慣れてしまうのかもしれない。
 あの時の無人の町は理由もなく不気味で怖わかった。
 でも、それすら想い出の風物とし、日常化したパンデミックと上手く付き合って暮らす人間の逞しさにも敬服させられる。
             *
 町内掲示板があった。
 市の公報に混じって個人のお知らせなんかも張ってある。
 目についたお知らせは二つ。

『太極拳体操。参加者自由。無料。日曜祝日を除く朝九時から。南台公園にて』

『オスのキジトラ猫、探してます。情報をお知らせください。(写真)。年齢:四歳です。(西暦で二週間前の日付)に(某マンションの八階)から脱走しました。見掛けた情報でも構いませんので一報をお願い致します。(連絡先のメールアドレス)』

 太極拳体操やキジ猫探してますに興味も関心も無かった僕だけど、好奇心と文中フレーズに心惹かれた。

 …太極拳。カンフー。道衣での体操…
 幼い頃に父と観た香港のカンフー映画を思い出して、僕の好奇心が疼く。
 …『脱走』。ひどい目に遭う…
 そんな勝手な想像が脳裏を過るのだが、このフレーズ表現に僕は惹かれてしまった。
 宅配か出前の受け取りで飼い主がドアを開けた機に隙間から外に出て、一気に駆け去ったに違いない。『脱走』の二文字から、そんな鮮烈なワンシーンが目に浮かぶ。
 …自由を求めて逃げちゃったのかな…
 ふとそんなことを思いながら僕は散歩を続けた。
             *
 次の日から三日間、雨が続いて四日目に快晴の朝がやってきた。
 下駄履き散歩スタート。
 太極拳体操や脱走したキジトラ猫のことをすっかり忘れていた純太だったが、近所の交差点を前にして足が止まった。
 …脱走したキジトラキャット…
 その猫とは立ち止まって純太をジッと見ていたが、やがてプイッと顔を前へ向けると歩き去って行った。
 …どこへ行く。キジトラキャット…
 純太、奴を追跡。
             *
 やっと追いついた時、歩行補助を兼ねた座れるショッピングカートに座るおばあさんに撫でられながら身体をクネクネさせていた。
 何気ない風情で僕は近づく。
 …めちゃ懐いてる…
 キジトラは警戒心が強く中々心を開かない。
 …意外と気難しいんだよなぁ…
 機嫌の悪い時に迂闊に手を出して撫でようものなら引搔かれるか噛まれる。鈍感さ故に負傷した友人たちを僕は数か限りなく見て来たから、他人にあれ程懐いている光景を久し振りに見た。
 …うわ。腹間で見せちゃって…
 奴が脱走したキジトラキャットだとすると、飼い主は相当嫌われていたのだろう。
 …むしろ飼い主の顔を見てみたい…
 自分の下世話な好奇心に僕は苦笑した。
 純太は、何もしなくても猫に懐かれることが多かった。
 …純太。ネコよりのゲイだから同類と思われているんじゃない…
 口の悪いゲイ友にそういってイジられて久しい。
 残念なことにキジトラたちに懐かれても、猫アレルギー持ちの純太としては困るのだが、彼らは忖度してくれない。
 …奴も懐いてくれるだろうか…
 愛に飢えてるなと、最近シミジミ感じることが多い。

 純太には、彼氏はいる。
 付き合って三年になり彼は二歳年上、台北在住だ。
 名前はサミー。
 外国人のような名前だが、れっきとした台湾人。
 容姿も東洋人。
 本名は陳柏睿(チン・ボウルイ)。
 一生を通して賢く聡明な人という意味の名前らしいが実際にはそうでもなく、かなりの天然だ。
 一緒にいるとホッとする。
 ここ二年間、リアルに会ってないせいもあって、純太とサミーの間には微妙な空気が見え隠れしている。
 直近でのサミーとのビデオ通話は十日前だった。台北と日本での遠距離だけど昔と違って顔が見えるから助かる。
 それでも二年間もリアルに会えないでいると切ない。

『パンデミックが僕らの愛の邪魔をする』

 彼にしては珍しく、そんなことを言っていた。
 付き合い始めてから一緒に過ごせた時間は圧倒的に少ないし、いつでも会える期間よりビデオ通話でしか顔を見れない時間の方が多くなってしまっている。お互いに口に出して言わないけど我慢するしかないやるせなさは、きっと同じなのだと純太はひしひしと感じている。
 でも彼は、あまり考えないようにしている。
 今は二人にとって、こういう時期なのだから。

 キジトラの奴と距離を縮めようと歩く。
 カラン、コロン。
 腹ばいのキジトラキャット。
 キッとこちらを見る。
 僕は足を止めた。
 見つめ合う僕とキジトラキャット。
 もう一歩踏み出す。
 カラン。
 奴はくるっと身体を回して起き上がるやハンティングポーズ。
 更にもう一歩。
 コロン。
 奴はプイッとソッポを向くとスタスタと歩き出して公園前のT字路に姿を消した。
 どうやら完全には嫌われてはいないようだ。
             *
 奴の後を追って公園前のT字路に着いた時、奴はブルドックと見合っていた。
 肩をちょっと落として警戒ポーズ。
 それに反してブルドックは、弛んだ頬や肥満気味の腹のぜい肉を震わせながら息づき、キジトラキャットの奴を見たり無視ししたりと忙しい。
初対面ではないらしく、互いに気にはなってはいるように思えた。
そんな両者の緊張を打ち破ったのは、ブルドックの飼い主らしい大学生らしいカップルたちだった。
「あら。キジちゃん。可愛いッ」
 彼女はテンション高く絶賛。
 キジトラキャットに駆け寄り撫でようとするが、奴はするりと躱して去って行った。
 彼氏は、そんな彼女をにこやかに見守る。
 二人の様子に呆れ、小馬鹿にしたようなブルドックの眼差しに僕は苦笑した。
 …まぁ、引掻かれなくて良かった…
 無邪気に燥いでる二人とすれ違いながら僕は安堵した。
 …でもあいつ、案外賢い奴なんだな…
 キジトラは止まり、純太の顔を見ている。
 下駄の音を響かせながら、純太はキジトラとの間合いを気にしながらゆっくり歩いてすれ違った。
 …でも。結構すれっからしだな…
 彼の心の声が聞こえのかもしれない。
 キジトラキャットはプイッとソッポを向くと公園の中へ入って行った。
             *
 南台公園。
 昔からある太い幹の樹木に囲まれた公園だ。
 半分は砂場や遊戯施設からなる高台で、残り半分は低地に広場。
 僕はキジトラキャットを追って高台側の入口から公園に入った。
 早朝ということもあって人は疎ら。
 散歩途中の休憩でベンチに座る高齢の男女と砂場で子供を遊ばせている親子。若い母親に見守られて砂場で楽し気に遊んでいる一歳くらいの男の子。しゃがんでシャベルで砂を掘る男の子に寄り添っている猫を見て僕は呟いた。
「あっ。キジトラの奴。完全に懐いてる…」
 純太は足を止め、その予想外の光景を見入った。
 キジトラの奴は男の子のぶっきらぼうな撫で撫でにウットリするだけでなく、時折り甘えた鳴き声すら奏でている。
 …女子大生には拒絶モードだったのに…
 男の子に身体を擦り擦りさせて甘えん坊全開である。
 …あいつもゲイか…
 猫のゲイの存在の有無は不明ながらキジトラと男の子の仲睦まじい姿に見入っている純太を、男の子の母親が眉間に皺を寄せて警戒モード全開に注視した。
 …ヤバい。不審者だと思われているか…
 男の子の母親と目が合わなよう顔を前に向け、純太はグランドに向かって歩き出した。
             *
 グランド。
 近づくに連れて、純太はエッと思った。
「イー、アー、サン、スー…」
 中国語で一、二、三、四。
 気のせいか思って聞き流していると、悠久の歴史を想起させる胡弓の音色と旋律。
 広場へ近づくほど音は大きくなる。
 そこへ通じる石造り階段の最上段に立って、純太は目を瞠った。
 …太極拳体操…
 瑞々しい樹木に囲まれた広場いっぱいに体操をするお年寄りたち。
 ただ残念ながら誰一人としてカンフー道着の人はいない。
 普段着かジャージ姿が大半だった。
 …ひょっとしてラジカセか…
 参加者の前面に立つリーダーの女性の近くにかなり大きい発泡スチロール製の箱が置かれていて、その中に箱の大きさに見劣りしないCDラジカセが収まっている。
 そこから太極拳体操放送が流てれいる。
 発泡スチロール製の箱の口は参加者へ向けられているから、きっと音の拡声装置として機能しているのだろう。
中々のアイディアだと感心しつつ、発泡スチロール製の箱にこんな使い方もあるんだなと新鮮な発見だった。
「イー、アー、サン、スー…」
 四、五十人くらいの高齢者たち。
 胡弓の調。
 梅雨の長雨で湿った地面から湧き上る湿気。
 木漏れ日。
 瑞々しくきらめく樹木の枝葉。
 どこかで見た光景に似ている。
「イー、アー、サン、スー…」
 リーダーの掛け声に合わせて乱れることなく全員が動く。
 動きやすい普段着姿のお年寄りたち。
 平均年齢はきっと、七十代後半。
 …台北でいつも泊まるホテルの近所の公園…
 フラッシュバックさながら蘇った場所と目の前の光景が重なる。
「雙臂高擧(シュアンピーカオチュー/両腕を高く上げて)」
 リーダーの足元に置かれてカセットデッキから中国語で発せられたそのフレーズを耳にした時、僕は単純に思った。
 …ここは、きっと台北の朝に違いない…
             *
 それから二日、雨が続いた。
 散歩出来ない日々は、それを恨めしく眺める純太を嘲笑うように雨を降らせ続けた。
 三日目の朝は快晴。
 逸る気持ちを押さえつつ下駄を履き、僕は南台公園へ向かった。
 公園の中には入らず道を歩きながら太極拳体操を遠巻きに見ることにした。
「イー、アー、サン、スー…」
 …うわぁ。やってる、やってる…
 今朝は日射しが強い。
 お年寄りの面々は直射日光を避けて木陰に広がって体操をしている。人数に変わりはないからちょっと密気味。
 ゆったりとした身のこなし。
 身体が固くて曲げきれない人もいるけど息はピッタリ合って、全体に美しい。
 ラジオ体操とは違った雰囲気がある。
 二つ目の角を曲がると僕とお年寄りたちの距離は一段と近くなった。
「イー、アー、サン、スー…」
 …やっぱりこの雰囲気、台北でよく見かけた風景に似てるわ…
 幻想とはいえ台湾ロスが一時癒される。
 僕はふと立ち止まり、この様子を映像に記録しようとスマホを構えた。
「イー、アー、サン、スー…」
 ズズズ。
 広場の砂利の擦れる音。
 突然、お年寄りたちが一斉にこちらを向き右手を前へ突き出した。
「ウー、リュオ、チー…」
 …うわっ。見られている…
 お年寄り全員の視線が僕へ振り注がれた。
「はい。ゆっくり前を向いて」
 女性リーダーの掛け声と共に広場の砂利の擦れる音。
 機械仕掛けのように、お年寄りたちはゆっくり前を向いた。
 何となく固まっていた僕もまた、スマホをポケットにしまうと前を向いて歩き出した。
             *
 純太の話を聞いた老板はカッカッカと高笑い。
『太極拳体操かね』
『そうなんです。結構な人数のお年寄りたちで』
『そういえば最近、太太も友達に誘われてたなぁ』
『太太も?』
『本人曰く、あたしは参加するにはまだ早いって。やんわり断ってた』
 純太が送った映像を見ながら老板は続ける。
『純さんも参加したら?』
『四十年後に考えます』
 二人、苦笑。
『でも、マジで台北の朝を思い出しましたよ』
『これでかい?』
『違いますか?』
『うーん。似たような体操している人たちはいるけどね』
 老板、ニヤニヤしながら続けて言った。
『純さん。かなり重症だね』
『何がですか?』
『台湾ロス』
『やっぱりそう思います?』
『今の状況が、もう一年続いたら死んじゃうかもね』
 純太は窓の外の空を何となく見た。
『そうなんですよね…』
『まぁ、心配ないよ。ここにも日本ロスは大勢いるから』
『太太ですか?』
『太太もそうだね。でも少なくとももう一人、猛烈な日本ロスが身近に居るよ』
『えっ。誰ですか。僕が知ってるいる人ですか?』
『多分ね』
『えっ。誰だろう?』
『言わないで置くよ』
『えっ。そんなぁ。益々気になるじゃないですか』
 老板、ニヤニヤしながら言った。
『ロスを超えて、あれは既に禁断症状だね』
『ええっ。誰誰誰?』
『きっと、そのうち解かるよ。この後に仕事が入っていてね。今日のところはこの辺でお開きにしよう。またね』
『えっ。老板ッ』
 老板の画面、ブラックアウト。
 …えっ。ちょっと。もう気になる…
 瞬時、呆然とする僕。
 画面の片隅に表示された時間が目に留まった。

 09:03

 …あっ。散歩。太極拳体操…
 下駄を履き、玄関ドアのノブを握る。
向こう側で待っているバーチャル台北の朝に、僕の心はウキウキしている。


第2話 台北早晨

 SNS:純太と老板によるビデオ通話。

『純さん。お茶、ありがとうね』

 父の死を知った老板は、僕に香典を送ってきてくれた。そのお返しに日本のお茶を送ったのだが、どうやらそれが届いたらしい。

『いやー。日本のお茶。美味しいね』

 純太は東京に隣接した埼玉県下の町に住んでいる。この辺りは都心への通勤圏にあるが日本茶の産地としても知られている。パンデミック以前、この町に住んでいると言うと大抵の人は都心から離れた所に住んでいると言われたものだが、実は意外とそんな遠くでもなく急行電車なら30分掛からない。そうした事実が知られていないせいか、駅郊外の開発は緩やかだった。
 数年前に駅舎が改築してビル化し駅の周辺はそれなりに賑やかになった。
 それとは対照的に郊外は畑と雑木林が点在する住宅地が広がり、雰囲気は何となくのんびりしている。程よい加減で都会と田舎が混在していて住みやすく、不便も感じない町といえる。
 ところが最近、この辺りの地価が上がっているらしい。
 オリンピック景気と思いきやそうではなく、パンデミックによるリモートワーク推奨により移住を希望する人が増えたことによる。それまでイメージ先行の穴場的場所だった我が町の便利さが気づかれてしまったということかもしれない。個人的には、今以上に都市化してくれない方がありがたい気もするのだが、そうはいかないかもしれない。
 ともあれそうした感じの町だから、駅から少し歩くと茶畑を目にすることになる。
 南台公園と通りを隔てて立ち並ぶマンションや有料の高齢者施設の裏側にも、かなりの広さの茶畑が広がっている。新茶の季節となると若葉から目に鮮やかで綺麗で、心も和むし好きな風景だから、都市化の波に押されても残って欲しいと思う。
 老板の茶園がある猫空(マオコン)に惹かれたのも、平地と山の斜面の違いがあるものの茶畑が広がる風景に心が和んだからかもしれない。

『純さんの送ってくれた新茶。静岡のとは香りも味も趣が異なって旨いね』

 茶の生産者の同業者組合のような組織が台湾にもあって、老板も加入している関係から静岡へは何度か行ったことがあるらしい。だから静岡茶に関しては知っていたが、僕が住んでいる町のお茶については名前を聞いた事がある程度だった。新茶が出ると、僕は老板へ毎年送っているのだが、気に入ってくれているようだ。老板で五代目となる茶園主に褒めて貰えると、生産者では無いけど僕も嬉しい。

『太太と毎朝、楽しませてもらっているよ』
 老板は、茶を飲みながら穏やかな笑みを浮かべた。
『ところで純さん。一つお願いがあるんだがね』
『何です?』
『送ってくれたお茶は純さんちの近所で作っているんだろう?』
『ええ』
『追加で送ってくれないかね』
『良いですよ?』
『実はね、友達が気に入っちゃってね。少しお裾分けしんだよ。そいつも太極拳体操をしてるんだよ。毎朝。公園で。純さんちの近所にある公園と一緒。年寄連中の健康体操』
『その人って、ひょっとして老板を体操に誘ってます?』
 老板、ニヤニヤ。
『バレたね。そうなんだよ。でも、俺はやらないよって言ってる』
『健康に良さそうですよ』
 老板、再びニヤニヤ。
 純太の問いに答える気が無い。
『そいつがね、お裾分けしてやったお茶を公園へ持って行って、体操の後に振る舞ったらしんだよ。そうたら意外と好評でね。もうちょっと無いかって言ってたんだよ』
『へぇー。好評。意外ですね』
『私もびっくりだよ』
『この間送ったお茶は、葬儀屋さんで手配していた物なので同じのを送れないですけど良いですか?』
『良いよ。大丈夫。大丈夫。あぁ、それとお金もちゃんと払うから』
『それは気にしないで下さい。老板にはお世話になってるから』
『それは駄目だよ。純さんの商売に繋がるかもしれないからね。ビジネスはビジネス。ビジネスにお金の行き来は何よりも大事だよ。請求書も入れて送ってね』
 老板、真顔。
『分りました。ちゃんと請求します』
『そうそう。それが大事』
『美味しいやつを探して送りますね』
『頼むね』
             *
 翌日、晴れ。
 太極拳体操を横目に見ながら南台公園を一周する朝の散歩は、純太の日課となっていた。
「イー、アー、サンー、スゥー…」
 広場で体操するお年寄りたちへ目を向けると誰とはなしに目が合うことがある。
 互いをチラッと見て、目を逸らすとそれぞれの前を見る。
 純太はお年寄りたちが何となく気になるけど、熱心に体操をするお年寄りたちの無表情からすると彼に対する関心は無いようにも思える。ただ、そう断言しきれない不思議な空気が純太とお年寄りたちとの間に漂っているいるような気もした。
 朝の時間をどう過ごすのかを決めている人が意外と多いらしく、公園で出くわす顔ぶれも多い。
 太極拳体操のお年寄りたち。
 1歳くらい息子を砂場で遊ばせる主婦。
 歩行補助を兼ねた手押しカートを押しながら散歩をするお婆ちゃん。
 ブルドッグと散歩をするご夫婦。
 預かっている子供たちを散歩に連れて歩く近所の保育所の先生と園児たち。
 キジトラキャット。
 すれ違うと会釈する程度だけど、偶に見掛けないと妙な気持ちになるから不思議だ。
 手押しカートのお婆ちゃん。
 僕が寝坊をして散歩の時間が普段より遅くなった時があった。
 目にする人々や公園の雰囲気が普段と違い、それはそれで新鮮だったのだけれども、翌朝も手押しカートのお婆ちゃんと出会った。彼女は立ち止まって繁々と純太の顔を眺めている。彼女の表情は、久しぶりに実家へ戻った時に母親が見せる表情と純太には重なって見えた。
 手押しカートのお婆ちゃん、その日の朝はカートに腰掛け、散歩途中の保育園児たちと談笑し触れ合っていた。
「イー、アー、サンッ、スー…」
 彼女の向うで太極拳体操。
 彼女の周囲に保育園児だち。
 彼女を挟んで二つの世界が和んでいる。
 ふと彼女は僕へ和やかな無表情を向けた。
 彼女の和やかな空気に誘われて、僕もそこへ足を向けそうになった。
「さぁ。みんな。行こうね」
 引率の保育園の先生の声。
 潮が引くように歩き出した園児たちを見送りながら手押しカートのお婆ちゃん、少し重い感じで腰を上げると、手押しカートを押して歩き始める。
 彼女は、純太と目を合わせることなく前を通り過ぎて行く。
 彼女の後姿を見送りながら純太は、ずっと昔に見た日本映画を思い出した。
 …横溝正史。悪魔の子守歌…
 あっ。
 あのオープニングシーン。
 ぶつくさ言いながら峠越えをする姉さん被りに腰の曲がったお婆さん。
 彼女を見送る金田一耕助。
 …えっ。僕って。金田一耕助なの…
 彼の表情は曇りながらも、ちょっと変な期待でウキウキ。
 …この後、事件が…
 そう思う純太の耳に、太極拳体操の掛け声が届くのだった。
「イー、アー、サンッ、スー…」
             *
 事件とは呆気なく起きるものらしい。
 午後、純太は老板に頼まれたお茶を買いに出かけた。
 お茶の産地なので駅前のデパートの他、近所にもお茶を売ってる店が何件かある。
 コーヒー党の彼にとって、緑茶を飲む機会は少なくペットボトルのお茶を時々飲むくらいである。お茶の産地に居住しながらこの体たらくなのだが、昨今のお茶事情を体現している典型的な市民が自分みたいな人間かもしれないと彼は思った。
 南台公園を一周散歩するのが日課となってからは、近所を散策することは減った。それでもそれ以前は、探索がてら近所をうろついていた。その際に気になる店が幾つかあったのだが立ち寄ることもなく、横目に見ながら店の前を通り過ぎるのが常だった。その中でも一番気になる軒先の看板に『坂本園』と看板の掛かる店に赴いた。
 茶園が経営している個人店舗である。
 自動ドアではない引き戸の扉を開けて中に入る。
 誰も出で来ない。
 お店の中はといえば、どこか時間の止まった感じのする雰囲気だった。
 茶飲み話をするにはうってつけの丸テーブルと椅子があり、テーブルの上には瓶掛けがあり、その中の五徳の上に置かれた鉄瓶の口から湯気が静かに出ている。懐古に属する風景で、今どきの日本では絶滅に等しい。でも、そんな天然記念物級の雰囲気に想食いしても動じることなく受け入れられるのは、台湾でこれと似た風景を目にすることが多かったからもしれない。
 …あっ。キジトラキャット…
 脱走中の奴を探す手配書が壁の新茶のポスターの隣に納まっている。
 どうやら、まだ見つかってないらしい。
 純太は陳列棚のお茶を手に取って見てた。
 すると、背中に人の気配。
「いらっしゃい」
 背中に年配の女性の声。
 振り向いて声の主の顔を見て僕らは思わす声を上げた。
「あら。お客さん」
「あっ。手押しカートのお婆さん…」
 思わず発した『お婆さん』の僕の一言に彼女はムッとしながら言った。
「朝。下駄の人」
 …これは事件だ…
 内心苦笑しながらそう思いつつ、純太の頭の中に『悪魔の手毬唄』のワンシーンが過るのだった。
             *
「お茶ですか?」
「はい。友人から送ってくれって頼まれて。お薦めはありますか?」
 彼女はちょっと困った顔をして僕を見ている。
「どうかなさいました?」
「難しいねぇ
「何がです?」
「お薦めのお茶ねぇ…」
 彼女、それきり沈黙。
「難しいですか?」
「送る相手の人を、わたしは知らないしね」
「…」
 普通こういう場合は、呆れるのかもしれない。
 大抵の人はこんな風に言われてしまうと面食らうだろうし、中には商売する気があるのかと怒り出す人もいるに違いない。そんな人は怒る前に憮然とした表情を向けた店を出て行くに違いない。こんなトラブルを避けたいから、店でよく売れている或は、店主のお薦めを案内するという展開になるのだが彼女は違った。
「どんな人に送るの?」
「台湾人の友人です」
「ふーん」
 彼女、再び沈黙。
 沈黙に耐えかねて、純太は勝手に喋り出す。
「少し前に父が無くなりまして」
 彼女、不可解な微笑で小首を傾げる。
「そのことを知った相手がパイパオ(白包)を送ってくれたんです」
「パイパオ?」
「ああ、日本の香典に当たるものです。香典用の白い封筒にお金を入れて渡すので、向うではそう呼ばれています」
「黒じゃないの?」
「向こうで喪の色は『白』ですね。正式には麻衣だったかなぁ。純白というより少しくすんだ白色となりますか」
「ふーん。でも、戦前の日本もそうだったよ。今じゃ、黒があらたまった色で冠婚葬祭に着られるけど、その当時は白だったね。子供の頃にね、祖母の葬式に立ち合った時も白い喪服姿の人が多かったよ」
「へえー。そうなんですか」
「黒って本来はハレの色で格式も高かったんだよ。だから江戸時代に黒門付きの羽織を着れるのは上様お一人だったらしいよ」
「詳しいですね」
「聞きかじりだけから。信用しないでね」
 二人、笑い。
「結婚のご祝儀は何色なの?」
「赤です。ちなみにご祝儀はホンパオ(紅包)って呼ばれています」
「ポンパオ?」
「赤い封筒に入れて渡すんですが、『ホン』が『赤色』のことです」
「お包は幾らくらいが相場なの?」
「気持ちですから。でも偶数金額を包みますよ」
「偶数。嫌だねぇ…」
「日本で『偶数』は『分れる』に通じると考えますからね。でも向うでは、『割り切れる数字』だから『どんどん増える』って考えます」
「おや。物は言い様ねぇ。それじゃあ、御香典は奇数の金額かい?」
「鋭いなぁ。奇数金額を包みます」
 彼女、無関心。
「それで、お茶はそのお返しですか?」
「いいえ。お返しは済んでます」
「?」
「老板。どうやら僕が送ったお茶を友達に振る舞ったようで。日本の緑茶が好評だったので追加で送ってくれって頼まれました」
「台湾の人でも日本の緑茶を気に入るのかい?」
「?」
「烏龍茶だと思っていたけどねぇ」
「そうですね。老板の本業も茶園のご主人で烏龍茶を作ってますしね」
「えっ。そのラオバンとか言う人。うちみたいにお茶を作って売ってるの?」
「はい」
「妙な人だねぇ」
「そうですか?」
「烏龍茶を売っているお店で日本の緑茶を振る舞ってるんだろ?」
「はい」
「自分の商売そっち除けで日本茶かい?」
「まぁ。そっち除けじゃないと思いますけど。そうなるかなぁ?」
 彼女、苦笑。
「その人の店の烏龍茶。どんな味なんだい。美味しいの?」
「飲んでみます?」
「えっ?」
「うちにあるから持ってきますよ」
「うちって。あんた、このご近所さんなの?」
「南台公園の横のマンションです」
「あぁ。あそこ。だから毎朝、下駄履きで散歩してるの?」
「気分転換兼ねて」
「ふーん」
「ちょっと。待ってて下さい。直ぐ戻って、老板の烏龍茶を持ってきますから」
             *
 マンションへ烏龍茶を取って坂本園へ向かう途中で見覚えのある猫に出くわした。
 …あっ。キジトラキャット…
 向こうも純太に気づいたらしい。
 歩みを止めると悠然と顔を彼へ向ける。
 ちょっとの間、見合っていたがキジトラの奴はプイッと顔を前に向けると再び歩き始めた。
 純太もまた、奴を追うように歩き出した。
             *
 純太の先を行くキジトラキャットの奴は、なんと坂本園の前にいた。
 ニャーオと鳴くと、ピシャリと閉じられているドアへ猫パンチを繰り出し続けている。
 その光景を僕が小首を傾げて見ていると、店のドアが開いた。
 キジトラキャットの奴は顔をこちらへ向け、純太をジッと見るや店へ入って行った。
 猫の表情なんて代わり映えしないだろうと思っていたが、その時のキジトラキャットの表情はドヤ顔に見えた。
             *
 店に入る。
 先ず目に映ったのは、瓶掛けの隣で餌を食べるキジトラキャットだった。
「おや。戻って来たんだね」
 彼女は僕の顔を意外な表情で見ながら言った。
「烏龍茶。持ってきました」
 彼女はお茶の入った銀色の袋を繁々と眺めた。
「おや。好い香りだね」
 彼女は笑って言った。
「これで幾らするんだい?」
「400元くらいだったかなぁ?」
「四百元?」
「日本円に換算すると1500円前後ですね」
「おや。ウチで売っているお茶と大して変わりないね」
 僕は苦笑した。
「えっ。どうしたの?」
「向こうで400元あると余裕で二食、店を選べば三食は食べられますよ」
「おや。そうなの?」
「はい」
「そう考えると随分、お高いお茶なんだねぇ」
 今度はちょっと敬い気味に、彼女はお茶の入った袋を見つめた。
「一緒に飲みましょう」
「良いのかい?」
「えっ?」
「高いお茶みたいだしねぇ」
「気にさないで下さい。一緒に飲もうと思って持って来たんですから」
             *
「おや。美味しいねぇ。このお茶」
 一口飲むなり、彼女はそう言った。
「香りもね。ホッとするわ」
 彼女はどうやら老板の烏龍茶を気に入ったようだ。
 散歩ですれ違う度に見せていた無表情は消え、今の彼女はキュートな笑顔が魅力的なお婆ちゃんだった。
「自己紹介がまだでしたね。あたしは坂本です。名前は真由美」
「坂本さんですね」
「真由美で良いですよ。ここの店番なんだけどね、主人が無くなってからは私が引き継いでここをやってます」
「茶園の方も?」
「そっちは息子夫婦に任せてますよ。あたしは営業担当」
 二人、和やかな笑い。
「お客さん。お名前はなんと仰るの?」
「二宮です。二宮純太」
「二宮さんね」
「純太で呼んでも貰っても良いですよ。老板は、僕のことを『純さん』と呼んでますし」
「そう。純さんね。よろしくお願いします」
             *
 キジトラキャットの奴、満腹になったらしく瓶掛けの隣で眠っている。
 キジトラキャットと奴の壁に貼られた指名手配書のチラシを僕が交互に見ていると、真由美さんが話しかけて来た。
「ちょっと前からフラッと来るようになってね。餌もくれるから気に入られたかしらね」
 真由美、苦笑。
「でも、この猫はあれじゃないですか?」
 純太は指名手配書のチラシを指さした。
「どうかしらね」
 真由美は茶目っ気たっぶりに惚けて見せた。
「私は中立だから」
「中立?」
「この猫、飼い主の家から脱走したんだろ」
「そうみたいですね」
「居るのが嫌だから逃げたってことだね。逃げても外の暮らしが大変ならもどる。でも、戻らないところからすると戻る積りもない。だから、それらしい猫が居ても飼い主へ連絡する気はないわよ」
「可愛そうですよね」
 真由美さんはにっこり笑って否定した。
「違うよ。ネコに恨まれたくないから。それに壁に指名手配書を貼ったから。ご近所への義理は果たしたかな」
「それで中立なんですね」
 純太、ニヤニヤ。
「でもこいつ、指名手配の猫に似てませんか?」
 純太の言葉に反応したのか、キジトラキャットの奴が薄目を開けてこちらを見たような気がした。
 真由美、キジトラの奴をチラ見。
「どこにでもいるキジトラの野良猫だよ」
 真由美さんは静かに烏龍茶を啜った。
「そうですね」
 純太がそう言うとキジトラの奴、身体に顔を埋めて眠り続ける。
             *
「朝の散歩は日課ですか?」
「散歩?」
「南台公園の回り。手押しカートで…」
「あぁ。あれね」
 真由美、苦笑。
「引籠っていると惚けるからね。足腰も弱るし」
「太極拳体操はなさらないんですか?」
 真由美、再び苦笑。
「ああいうのはね、向き不向きがあってね。私には向いてないんだよ」
「向き不向きですか?」
 真由美、頷く。
「体操とか、スポーツとか苦手ってことですか?」
「違うよ。こう見えて、毎週土曜日に卓球をしているんだよ」
「卓球?」
 手押しカートを押しながら歩く姿と卓球に興じる真由美さん像が重ならない。
「駅前のジムでね。場所を借りて2時間ね」
「にっ、2時間もですか?」
 真由美、ドヤ顔。
 …この人、謎だ…
「公園の体操。リーダーがいるじゃない」
「はい」
 真由美は溜息を漏らしながら言った。
「私はどうも、ああいうのが苦手なんだよ」
 僕、苦笑。
 真由美さんとは知り合って一時間だが、話すほどにこの人は面白い。
「ラジオ体操も好きじゃなかったからね。きっと、みんなと一緒がダメなんだね」
 真由美、烏龍茶を啜る。
「だから周りで見るだけにしてるんだよ」
 僕のイジリ心に火がつき、彼女に尋ねた。
「でも本当は太極拳体操をやりたいとか?」
「そうかもしれないね」
 あっさり素直に返され、僕は少しガッカリ。
「だから観察することにしたんだよ」
「それで毎朝、体操を遠巻きに見ながら散歩ですか?」
 真由美、頷く。
「あの手の集団は入ったら中々抜けられないだろ。だから観察し慎重に見極めないとね」
 キジトラキャットの奴が目を覚ました。
 テーブルの上に四肢で立ち、背中を伸ばすと欠伸。
 眠気をまだ引き摺ったような眼差しで僕らを交互に見ると、奴はひょいとテーブルから飛び降りドアを猫パンチ。
 真由美さんは心得たように奴の傍らに立ち、ドアを開けてやった。
 キジトラキャットは振り向きもせず外へ出掛けて行った。
 一連の様子を見ながら僕は、真由美さんを老板に会わせたいと思った。
「まったく好い気なもんだ。ここを自分ちだと思ってるのかねぇ…」
 彼女は苦笑気味に言っているが、様子からすると満更でもない。
「真由美さん、明日の朝も散歩されますか?」
「お天気が良ければするよ」
「公園で老板に会いませんか?」
「?」
 真由美、小首を傾げる。
「老板さん。台湾だろ?」
「はい」
「?」
「勿論、リアルじゃなくて。ネット経由で」
「あぁ。そういうことね」
「どうです?」
「他に用事もないから良いよ」
「では明日の朝、九時過ぎに公園で」
             *
『老板。おはようございます。そちらは八時頃ですか?』
 彼は朝食中らしい。
『純さん。おはよう。こんなに早く、どうしたんだい?』
『日本の太極拳体操風景を見てもらおうかと思って』
『ほう。そうかね』
 僕は、広場で一糸乱れぬ体操風景を老板へ送った。
『どうです?』
『凄いね。太極拳だよ』
『台北っぽいでしょう?』
『そうだね…』
 ニコニコ笑いながら老板、間を置いて言った。
『でも、ちょっと違うね』
『違いますか』
『ちょっとね』
『どんなところが違いますか?』
『みんな日本人らしいよ』
 …そりゃあ、そうだろう。ここに台湾人はいない…
 そう思いつつも僕は、更に聞いてみた。
『日本人らしいって?』
『みんな、マジメだね』
『マジメ、ですか…』
『台湾人。もっと気ままにやってるよ』
 僕、なんとなく納得。
『体操、揃ってて綺麗だね。でもなぁ…』
『でも?』
『表情。硬いね』
 確かに、そんな気がした。
 真剣な感じの表情には見えるけど、ゆったり、リラックスという感じではない。
『朝から硬い所は一か所だけで良いね』
 シマッタと気まずい僕の強張る表情とは裏腹に、真由美さんは腹を抱えて笑っている。
「純さん。面白いわね、この人」
 ハタとこの時、真由美さんが何故笑っているのかと僕は素朴な疑問。
「まっ、真由美さん。中国語解かるんですか?」
 真由美は、僕の疑問に答えるかのようにスマホを見せた。
「翻訳アプリよ。パンデミックの前はね、この辺りにも外国の観光客が来てね。中国とか台湾のお客さんも多かったから。意外と重宝してたのよ」
 僕、目が点。
『純さん。横の人は誰かね?』
「はじめまして。私は坂本真由美です。あなたが老板さんですね?」
 真由美さん、中々流暢な中国語である。
「凄い。話せるんですね」
「挨拶程度だね。今以上に込み入った話になると解らないから翻訳アプリ頼り」
『坂本真由美さん』
『真由美で良いですよ』
『真由美さん。気さくな方だ。純さんとは御親戚か何か?』
 純太が代わりに答えた。
『昨日知り合ったんです。老板から頼まれた日本のお茶を買いに入ったお茶屋さんのご主人です』
『おや。うちの太太と一緒だね』
『あれっ。店の切り盛りは老板じゃないの?』
 と、純太。
『私は店番。ボスは太太だよ。その方が商売上手くいくんだね』
 真由美、苦笑。
「老板。面白い人だねぇ」
「そうなんですよ」
「ところで、いま召し上がってらっしゃるお食事は何ですの?」
『これですか。これは、油条(ヨーティアル)と言いまして揚げパンの一種ですよ』
「おや。揚げパンが朝ごはんなんて、栄養が偏りそうだよ」
『大丈夫。大丈夫。これをね、こんな風に牛乳に浸して食べるんですよ。牛乳につけますから栄養も大丈夫』
「家で揚げて作るのね?」
『毎朝、家の近所に揚げパンの移動販売が来るんですよ。美味しくてね。うちも含めて、ご近所連中が買いに来ますよ。直ぐ売り切れ。寝坊すると買い損ねるから、決まって朝食抜きになるね』
「そりゃあ大変だね。手作りの揚げパンはね。コンビニでは売ってなさそうだね。早起きは健康に良いからさ。揚げパン健康法だね」
『真由美さん。今度、ご一緒に油条でもどうかね?』
「あら。台湾へ行かなきゃならないねぇ。どうしよう?」
 真由美さん、満更でもない様子。
『来てくれたら、色んな所へご案内しますよ』
「おや。楽しみだね。でもパスポートを持ってなくてねぇ」
「パスポートなら駅ビルのセンターで作れますよ」
「えっ。そうなの?」
「駅ビルの建て替えに合わせてセンターもオーブンしました」
「でもねぇ。この歳でパスポートとか海外旅行なんてねぇ。気恥ずかしいよ」
『大丈夫。大丈夫。旅に歳は関係ないよ。大事なのは気力、体力、お金ね』
「海外。行ってみたいねぇ」
『気力。大丈夫だね』
「お金。あるよ」
『お金、オッケーね』
「体力がねぇ。歳が歳だからねぇ。明日から、散歩を一周から二周へ増やそうかね」
『体力、問題ないね。パンデミックが下火になるの、もうちょっと先。明日から二周へ増やすの良いアイディアね。その頃、真由美さん、マッチョで筋肉モリモリね』
「じゃあ。頑張ってみようかね」
『真由美さん。チャレンジね。素敵ですよ』
 真由美、笑顔。
 嬉しいらしい。
「老板さん。パンデミックが収まったらお会いしましょうね」
『是非。是非』
「あと油条も…」
『もちろん。ごちそうしますね』
 二人の会話は終わった。
 …初めてだよ。男女の橋渡しの通訳なんて…
 通話がオフとなるや、純太はどっと疲れた。
「純さん」
「はい」
「パスポート作りに行かなきゃねぇ」
 純太、苦笑。
「乗り掛かった舟みたいなものだから、パスポートの手続きのお手伝いしますよ」
 真由美、フフフ笑い。
「ありがとうね」
             *
 純太と真由美さんは広場の太極拳体操を眺めていた。
「あれやった方が、散歩より体力が付きそうじゃないですか?」
「それはそうだろうけどねぇ…」
「嫌いですか?」
「別に嫌いじゃないよ」
「性に合いそうにない?」
「それもねぇ…」
「参加したら抜けられないんじゃないかって不安?」
「そんなの気にしないよ」
 真由美、ニヤニヤ。
 何かを隠している。
「…」
「あのリーダーの人」
 彼女は指さす。

「イー。アー。サンー…」

「実はさ…」

「スー。ウゥウー…」

「あたしの一番下の妹なんだよ」

「リュウ…」

「ちょっと入り難いんだよ」

「チー…」

「さあ。みんな。手を真直ぐ、空へ向かって上げて」

 リーダー、何だかキッパリ口調。
 彼女の掛け声に合わせて参加者の両手が一斉に上がる。
 僕と真由美さんは、その光景を静かに見続けた。

「パァ…」

「だからちょっとさ…」
 そう言うと、真由美さんは僕の顔を見て続けた。
「面倒くさいんだよ」

「チィオー」

 純太と真由美さんの間に乾いた沈黙。
 すると突然、何かが、ズドンと音を立ててテーブルの上に乗った。
 …うぉッ。キジトラキャット…
 奴は、テーブルの上を闊歩。
そして、奴は純太のPC端末に臭い付けの身体スリスリ。
…それは俺のだって…
 純太、PCを閉じる。 
「おや。お前、来たのかい」
 彼女はキジトラキャットを撫でる。
「ミャーオ」
 ひと鳴き。
 なんと奴はPC端末の上に乗っかり、座る。
「ウワッ」
 そしてキジトラキャットは大欠伸をし、純太のPC端末の上で眠るのだった。

第3話 around FREE

 SNS:純太と老板によるビデオ通話。

 南台公園。
 快晴の朝。
 広場で太極拳体操。
「イー、アー、サン、スー…」
 お年寄りたちは日射しを避けて分散して体操をしているため、なんだか少しばかり窮屈そうな感じに見える。
 …世の中的にはこれを『密』と言うんだろうなぁ…
 純太、ぼんやりとそんなことを思った。
 真由美さんと純太は、広場を見通せる東屋風の休憩所に居る。
「純さん。これって何だい?」
 彼の隣で覚えたての動画系SNSをいじっている真由美さん。
 未知の機能に遭遇するたび僕に質問を繰り返す。
「ああ、その機能は…」
 機能や操作方法を説明しているとキジトラの奴がヒョイと姿を見せ、テーブルに置いているパソコンの周りをウロウロ。身体をスリスリさせ臭い付けを終えると安心顔で大欠伸をしながら身を横たえた。

『早安。純さん。真由美さん』
 画面に老板(ラオバン)の顔が映る。
 バルコニーで朝のお茶を楽しんでいるらしい。
「老板。おはようございます。天気が良さそうですね」
 見通しの良い山間に朝の日差しに照らされている台北の町並みが老板板の後ろに見える。
『良い天気だよ。梅雨が明けたからね。そちらも良い天気みたいだね』
「梅雨の晴れ間です。こちらの梅雨はこれからが本番ですかね」
 突然、老板の膝元から白い子犬が顔を出し、甘えるような鳴き声をする。
「あれ。富富(フーフー)。おはよう。元気かい?」
 純太の声に富富、機嫌の良い鳴声。
『孫が高校へ行っている間、私が富富の面倒を見ているんだよ』
 老板は、にこやかに語った。
 富富の鳴声で目を覚ましたキジトラ。
 目の前に突然現れた富富に面食らい少しの間見入っていたが、やがて何を思ったのか舌を出してハーハーしてる富富の顔に猫パンチ。
 そしてミャーとひと鳴きすると、再び身体を横たえて富富を退屈そうな眼差し見続けた。
『初対面の二匹の挨拶が終わったようだね』
 老板と純太は笑った。
「あら。老板さん。おはようございます」
『早安。あぁ、いいや『おはようございます』です。真由美さん」
 老板の日本語は、相変わらずたどたどしい。
「おや。日本語を話せるんですね」
『カタコトですよ』
「発音良いですよ」
『そんな。まだまだですよ。真美由美さん、お世辞が上手い』
「お世辞なんて言いませんよ」
『そうですか。嬉しいですよ。先生の教え方が良いんだな、きっと』
「あら。どなたかに習っているの?」
『純さんの彼氏にですよ』
 僕、咳込む。
「彼氏。彼女じゃなくて?」
『彼氏です。あれっ。純さん、真由美さんには秘密だったかい?』
「いいえ。そう言う訳じゃなくて。知り合って間もないから話す機会がなくて…」
「純さん。そっちの人なの?」
「あ。ああ。はい。実はゲイです」
「そう」
 真由美、拍子抜けするほど無関心な面持ち。
「あれ。びっくりしませんでしたか?」
「別に。最近、多いじゃない。店にくる外人さんのカップルでそっちの人って結構多いのよね。だから今更、びっくりなんかしないね」
『純さん。最近、サミーと話しをしたかい?』
「ああ。実は、あまり話ができていません」
「サミーって彼氏かい?」
『そうなんですよ。真由美さん』
「彼氏。写真無いのかい?」
「ありますけど…」
「お見せ」
 純太は待受け画面のサミーを真由美さんに見せた。
「おや。ハンサムだね。あんたより年下かい?」
「いいえ。僕より二歳年上。今年、三十五歳です」
「若く見えるね。あんた、三十三歳かい?」
「はい」
「彼氏の方が若く見えるよ」
『クックック』
 老板の笑い声。
 それに誘われるように富富が尻尾を振りながらクンクン鳴いている。
『サミー。最近、元気ないね』

 以前は二、三日に一度の割合でビデオチ通話をしていたが、最近は一週間と十日とか間の空くことが多い。
 喧嘩をしたとか熱が冷めたという感じではないし、倦怠期という感じでもない。ビデオ通話を通して他愛も無い世間話をして過ごすのだが、特に会話が弾むというかんじてもなく時間だけが過ぎていく感じだ。互いの顔を見て、声を聴き、共に時間を過ごすだけでも心が安らぐし、二人の関係は安定していた。
 でも前の年の年末あたりからサミーが塞ぎがちになり始めた。他のSNSでのやり取りは頻繁に続いているのだが、ビデオ通話での会話をサミーが避けることが多くなった。時を同じくして純太は個人事業主としての仕事が軌道に乗り始めて忙しくなっていたから、サミーを気に掛ける余裕が少なくなっていった。
 四月に父が亡くなり葬儀やら何やらで、サミーとの交流が少し途絶えた。
 五月に入って久し振りにサミーとビデオ通話をした時、彼は元気を装ってはいるけど笑顔の端々に翳りを感じることが多かった。
 父のことは勿論知っている。
 でも何かが、彼の心に暗いものを落としている。
 サミーのために何かしようにもどうにも出来なくて、純太はそんなもどかしさからイライラした。

『パンデミックが僕らの愛の邪魔をする』

 二週間前。
 ビデオ通話の終り際、サミーがそんなことを言った。
 あまり深く考えないようにすごすのだが、彼の言葉が心に引っ掛かる。
 すれ違いが続き、顔が見れず、声も聞けない日々がただ過ぎていく。
 そして三日前、やっとビデオ通話ができた。
 彼の表情はちょっと沈んでいて、寂しそうに見えた。

「顔を見て話しが出来たのは三日前です。でも、その日まで二週間。間が空きました」
「今のご時世に二週間。彼氏の顔を見れなかったのかい?」
 真由美さん、ちょっとお怒りモード。
「はい」
「二人は好き合っているんだろ?」
「はい」
「便利なアプリがあるんだよ。毎日、顔を見て会話しな」
「…」
「出会いも別れも一瞬だけど、絆っていうのは日々の積み重ねなんだ」
 真由美さんはそう言い切るとプイッと横を向き、広場の太極拳体操に目をやった。
 そして一言、呟いた。
「生きている間しか結べないんだ…」
 富富が吠える。
 キジトラキャットがビクッと身体を震わせて目を覚ました。
 富富は舌をだしてハーハーしながらキジトラの奴を見つめていたが、当の本人は時折目を合わせては逸らし、やがてニャーと鳴くとテーブルを飛び降りる。そして僕と真由美さんに背を向けて砂場へ向かって歩き去って行った。
『流石、真由美さん。良い事を言うね』
 老板の言葉に答えるでもない真由美は太極拳体操をボンヤリと眺め続けていたが、自分のスマホを取り出して広場の様子を写真に撮る。そして彼女は、何やら操作し始めた。
『純さん』
「はい?」
『心配しなくて大丈夫だよ。サミーのことは私や太太が気に掛けるからさ。でも一番大事な事は二人がお互いに気遣い続けることだよ。心配ないと思うけどさ、純さんの方から少し、しつこいくらいサミーを構った方が嬉しいかもしれないよ』
 画面の端に真由美さんからのメッセージが届いたことを知らせるアイコンが点滅した。
 どうやら同じメッセージが老板にも届いたらしい。
 それは広場の様子を伝える写真だった。
 …真由美さんからの初メッセージ…
 純太が彼女の横顔を見ていると、老板が嬉しそうに言った。
『真由美さん。素敵な写真だね。ありがとうね』
『おや。ちゃんと送れた?』
『もちろん。大丈夫ですよ。太太にも見せてやらなきゃ』
 老板、富富の頭を撫でながらニコニコ。
『これで真由美さんと写真のSNSのやり取りができるね』
「これ、みんなに見られるのかね?」
『世界中の人が見るね』
「ちょっと気恥ずかしいねぇ」
 そう言う間に真由美さんの写真に『いいね!』がつく。
「おや。なんかマークで出たよ」
『真由美さん。それ『いいね!』だよ』
「いいね?」
『真由美さんの写真を気に入ったってマークだよ』
「なんか褒められたみたいだねぇ。ひょっとして老板さんかい?」
『残念だけど違うよ。『いいね!』の一番取りたかったのに誰かに先を越されたね』
「えっ。それじゃあ誰だい?」
 僕は真由美さんに代わって『いいね!』の相手を調べた。
「えっ。マレーシアの人らしいですよ」
「マレーシアかい」
 真由美、ちょっとウキウキ。
「私も随分とインターナショナルになったもんだねぇ。知らない人だけど、褒められると気分の好いもんだね」
 気がつくと老板と真由美さんとの間でSNSを介して盛り上がっていた。
 やり取りが漢字だから何となく会話が成立するらしい。
 二人の様子を見ているうちに僕も気が楽になって来て、脳裏にサミーの顔が浮かんだ。
 …ナーバスになり過ぎてたかもしれないな…
 純太は苦笑した。
 そして彼の耳元に馴染みの音声が届く。
「イー、アー、サン、スー…」
 純太はふと、サミーに会いたくなった。
             *
「おや。あのキジトラ。随分と懐いているねぇ」
 砂場の手前で足を止めた真由美さんが、興味深げに言った。
 …あっ。あの母子…
 散歩の途中でよくすれ違う母親と男の子だった。
 母親は三十歳前後で息子は一歳ぐらい。
 毎朝、母親は息子を乳母車に乗せて公園にやってきて、砂場で遊ばせてから帰る。
 今朝も普段通りなのだが、様子が少し違うのは息子の傍らにキジトラキャットの奴が身を寄せていることだった。
 男の子は右手でプラスチック製のスコップで砂を穂ながら左手をキジトラキャットの奴の胴に回して抱きかかえている。
 男の子は何やら呪文のような独り言を口にしながら掘った砂で山を築いたり、バケツの中に入れたりしてご満悦である。そして時折、思い出したようにキジトラキャットを見ると奴の頭をスコップでジャブしたり、掬った砂を掛けたりするのだった。
 …虐め。虐待だ…
 半ば信じられない光景に吃驚し、半ばキジトラキャットの奴が怒り出さないかとハラハラする僕の心配を他所に、キジトラキャットの奴は男の子に好きにさせている。顔つきからすると嫌でもないらしい。それどころか奴は、男の子のご無体がその身に降り注ぐほどに益々身体を男の子にピタリと密着させながら、スフィンクス座りをし続けるのだった。
 僕と真由美さんは顔を見合わせた。
 そして真由美さんが、先に声を発した。
「ありゃあ、一体どうしたんだろうね?」
「さぁ?」
 そう言いながら純太は首を捻って見せた。
「危ないところを、あの男の子に助けられたのかねぇ?」
「それであいつ、男の子の家来になったって言います?」
「桃太郎に犬は出て来ても、猫は出て来ないはずなんだけどねぇ…」
「あいつのことだから、キビ団子でも貰ったんじゃないですか?」
「キビ団子なんて、今どき売ってないよ」
「そうですかぁ。時々、コンビニで売ってるのを見掛けますよ」
「あいつ。甘党なのかねぇ?」
 キビ団子をムシャムシャ食べる猫というものを見たことがない。
でも、あのキジトラキャットの奴が旨そうにキビ団子にがっつく姿は純太の豊かな想像力を超越していた。
「今、コンビニでキビ団子打ってるかねぇ?」
「食べたくなったんですか?」
「違うよ。好きなら食べさせてやろうと思ったんだよ」
 真由美さんの意外な発言を耳にして、純太は彼女をマジマジと見つめてしまった。
「ええっ。何で、そんなジロジロと見ているんだい?」
「真由美さん。優しいんですね?」
「優しい?」
「あいつの好物を用意しておいてやろうなんて。優しいですよ」
 真由美、溜息。
「違うよ」
 そう言って彼女は含み笑いをしながら続けて言った。
「お団子を食べる猫なんて珍しいと思わないかい。だから動画に撮ってSNSにアップしてやろうと思ってるのさ」
「はあ…」

「きっと『いいね!』がいっぱいつくよ」

 映えの反響を妄想して喜々とする真由美さん。
 …うわっ。もう『いいね!』病に感染してる…
 彼女のSNS吸収力たるや恐るべしである。
 …真由美さん、どこまで嵌っちゃうのかなァ…
 キジトラキャットの奴はミャーとひと鳴きすると大欠伸。
 そして、男の子に一層身を寄せると居眠りを始めた。
 …まったく。よく寝る奴だ…
 僕は苦笑した。
             *
 コンビニ。
 なんとキビ団子を売っていた。
 真由美さんはご満悦でウキウキ。
 公園に戻ると太極拳体操は終盤あたりだった。
 広場の脇の道路を歩いている僕と真由美さんは、例の親子に出くわした。
 キジトラキャットの姿はなかった。
 母親が押す乳母車の中で、男の子は相変わらず呪文のような独り言を繰り返している。
 親子とすれ違った時、ザッザッザと砂混じりの土を踏みしめる音。
 広場のお年寄りたちが一斉にこちらを向く。
 何人かが乳母車の中の男の子に気づき、思わず微笑んでみせた。
 …なんだ。微笑む余裕あるじゃん…
 純太、苦笑。
 老板の言う通りお年寄りたちの表情は硬かったようだ。
「おやおや。だったらもう少し、にっこりしながら体操すれば良いのにねぇ」
「まっ、真由美さん。ダメですよ。そんなこと言っちゃあ…」
「大丈夫。大丈夫。どうせ聞こえやしないよ。耳が遠いからね」
「…」
 僕はちょっと頭を抱え、真由美さんはスタスタと先を行く。
 再び、ザッザッザ。
 お年寄りたちの身体がゆっくり旋回し、彼らは僕らに背を向けた。
 …やれやれ…
 内心そう思いながら純太、溜息。
 ふと何気なく体操のリーダーを見ると、彼女は眉間に皺を寄せて二人を見ていた。
 …うわっ。ちょっと気まずい…
 彼女と視線を合わせないように顔を前へ向け、真由美さんの後を追った。
             *
 SNS:純太とサミーによるビデオ通話。

『純太さぁ。この真由美さんって誰?』
 真由美さんがアップしたSNSの写真を見ながら、サミーは浮かない顔で言った。
「近所でお茶を売っているお店のオーナーさん」
『女性?』
「うん」
『純太と頻繁に会ってるんだね』
「まぁね。朝、公園の散歩で会うことが最近多いかな。明日もパスポートの手続きに付き合ってくれって頼まれてるし」
『ふーん…』
 サミー、ちょっと不機嫌。
「あれっ。サミー。どうした?」
『別に…』
 このところ会うたびに彼は無表情が多かったから、不機嫌やイラついている表情でも自分に向けてくれる何故か嬉しい。
「妬いてる?」
『別に』
 僕、ニヤニヤ。
『ただ頻繁に会ってて、純太も楽しそうだしさ』
「まぁ。楽しいよ」
 僕、ニヤニヤ。
 サミー、カリカリ。
『良いよな。その人。純太に毎日会えて』
「うーん。やっぱり」
『なに…』
「妬いてる」
『ああ。妬いてるよ。その女の人に』
 純太、クスクス。
『なんで笑うんだよ』
「嬉しいから」
『嬉しい?』
「サミー。ずっと浮かない顔してからね。本当は笑った顔が見たいけど、不機嫌な表情でも見れればホッとできる」
 サミー、しかめっ面。
『何だよ。それ』
 穏やかな笑顔を彼へ向けて、僕は言った。
「サミー。ご両親、幾つだっけ?」
『パパは77歳。ママは75歳』
「真理子さん。サミーのご両親より、ちょっと年上かな。それに真理子さん、老板とも友達だよ。どっちかっていうと老板と真理子さんの方が怪しいけど」
『…』
「まぁ。正確な年齢は知らないけどね」
『だからさ。年齢は関係ないの。俺は中々会えないのに、その女性が純太と頻繁に会ってることにイライラする』
「そうだね。僕たち会えてないね」
『そうだよ』
 サミーは僕の顔をジッと見つめている。
『それに純太。時折、仕方ないって顔する時があるし』
 えっ。
 そんな覚えは無いのだが、知らず知らずのうちにそんな顔をサミーへ向けていたんだなと反省した。
「そっか。ごめん」
『うん。いいよ』
 サミーは晩飯を一口食べた。
「サミー。夕飯は何?」
『豚の角煮入りのチャーハン。屋台のテイクアウト』
「美味い?」
『まぁまぁかな。でも純太と話しながら食べていると、旨さが二割増しかな』
 僕ら、笑い。
「じゃあ。明日の夜、一緒に食べる?」
『一緒?』
「うん」
『無理でしょう。俺は台北で純太は日本だよ』
「もちろん物理的には無理だけど。バーチャルなら可能じゃない?」
『?』
「晩飯のメニューを二人で会わせて、ビデオ通話しながら食べるってどう?」
 サミーの表情がパッと明るくなった。
 思いつきだけど、我ながら良いアイディアだと思った。
 何よりサミーの笑顔が嬉しい。
『純太。明日、何食べたい?』
「明日か。そうだなぁ。肉じゃが」
『肉じゃが?』
「最近、食べてないからね」
 サミー、困り顔。
『ちゃんと作れるかなぁ?』
「えっ。サミーが作る?」
『うん。その方がさ、よりリアルっぽくない?』
 純太、ちょっと引き攣り気味に笑顔。
 …サミーの手作り。じゃあ、僕も…
 でもサミーは喜々とし、何だかその気になってる。
 …やれやれ。まぁ付き合いますか…
「一緒に作るところからやる?」
『えっ。やるやるッ』
 サミーは、本当に嬉しそうだった。
 かくて翌日から、二人の夕食づくりが始まったのだった。
             *
 駅ビルにあるパスポートセンター。
 そこはパンデミックのせいで閑古鳥が鳴いていた。
 一見するといただけない光景ではあるのだが、悪い事ばかりでもなかった。
 突然目の前に現れた純太と真由美さんを見るなり、それまで沈んでいた職員の皆さんの目に生きる活力が戻り、二人は職員の女性三人から懇切丁寧の極みともいえる世話を焼かれるのだった。
 手続きがひと段落し、純太と真由美さんは長椅子に腰掛けて話しをした。
「ここ役所だろ?」
「そうですね」
「随分と親切な職員さんだね」
 ご満悦の真由美さんを見ながら純太は苦笑した。
「なんだい。何がおかしいんだい?」
「いいえ。おかしいことは何も無いですよ」
「でも、ちょっと笑ったじゃないか」
 純太はカウンターの向こう側で喜々として作業をしている彼女たちを見て言った。
「親切というより、嬉しかったんじゃないてすか?」
「何だい。それ?」
「ここ。暇でしょ。パンデミックで海外渡航が制限されてるし。手続きに来る人が居ないんだと思うんですよ」
「まぁね」
「つまり超ヒマ。たまにヒマなら良いけど、ずっとヒマだと辛い」
「そうだね」
「そこへ真由美さんがパスポートを作りにやって来た。やっと働ける。仕事ができる。その悦びが彼女たちの親切に繋がったと。彼女たちと真由美さんとの間のギャップが何となく面白くて、ちょっと笑っちゃいました」
 真由美、憮然。
 そして彼女は言った。
「大体、あんたは理屈っぽいよ。他人にはどうか知らないけど、あたしに親切ならそれで良いんだよ。起用手続きしてパスポートを受取ったら十年は来ないんだ。親切で良い人たちだったよねっていう好い思い出に浸れるじゃないか。笑うところじゃないよ」
「はい。済みません」
 真由美さんはギロっと純太を見て続けて言った。
「ところで肉じゃが、作ったことあるのかい?」
 ここに来る道すがら僕は、サミーとのことを話していた。
「オンライン飲み会っていうのはよく聞くけどねぇ。オンライン晩飯っていうのかねぇ。初めて聞いたよ」
「僕も初めてです」
「埼玉と台北かい。両方で同じ晩御飯を作ってテレビ見ながら一緒に食べる」
「テレビじゃなくてパソコンですけど…」
 真由美、ギロり。
「どっちでも良いけど、二人が仲良くできるんだから好いことだよ」
「はい」
「ご飯は一人でより、誰かと一緒に食べる方が美味しいよ」
「…」
 僕が何かを言おうとした時、それは職員の声によって阻まれた。
「坂本真由美さぁ~ん」
「はい。呼ばれたから行ってくるよ」
 彼女は席を立った。
             *
「肉じゃがねぇ…」
 午後一番ということもあってスーパーは閑散としていた。
 パスポートセンターの帰り、純太の材料の買い出しに真由美さんが付き合ってくれた。
「料理なんかするようには見えないけどねぇ」
「学生時代は自炊が基本でしたよ。一人暮らしでしたから」
「ふーん。意外とちゃんとやってたんだね」
「お金も無かったですから。それに自炊って案外楽しいですよ」
「でも最近はしてなかったんだろ」
「あぁ。つい面倒臭くなっちゃって。コンビニも近いし」
「まぁ。これを良い機会と捉えて生活を変えるんだね」
 純太、苦笑。
「ところで調味料なんてあるのかい?」
「ありますよ。一応一通りは揃えてます」
「あんたじゃないよ。相棒さん」
「あぁ…」
「台湾だろ。日本の調味料なんて置いてあるのかい?」
「ありますよ」
 真由美、ギロり。
「あぁ、多分」
「…」
「日本人が多いし。日本ファンも多いから、酒とか調味料もスーパーで売ってます。無辜のお米で作った日本酒なんかもありますから」
「ふーん。それなら良いけど」
「心配されました?」
「別に。ただ、調味料が無くて二人が喧嘩するもの考え物だと思ってね」
 真由美、プイッと他を見る。
 真由美さんの表情とキジトラキャットのそれとがダブり、僕は苦笑した。
 すると彼女はツナ缶を手に取ると、それを僕が持つ籠に投げ入れた。
「えっ。それは…」
「お得価格だよ。買っておきな。それに明日の晩御飯、今日の残りとそれでチャーハンを作れば家計の足しになるよ」
「はぁ…」
 ツナ缶。
 台北のスーパーで売ってたっけ。
 サミーに後で確認しなきゃと、純太は思った。
             *
 純太とサミーはネットで同じ料理動画を見て、ビデオ通話を介して肉じゃがを作った。
 案外、楽しい。
 二人による初のオンラインディナーは、結構イイ感じだった。
 食べるだけでなく一緒に作る過程があったから尚のこと良かったのかもしれない。
『ところで真由美さんだっけ。パスポートの手続き取ったんだね?』
「うん。どうした?」
『ネットにアップしたパスポートの写真を見たよ』
「あっ。そうなの?」
『まだ見てなかった?』
「うん。後で見ようかな」
 肉じゃがをモグモグ頬張っていると、サミーが言った。
『あっ…』
 そう言ったきり、サミーはスマホを見つめている。
「どうした?」
『真由美さんのSNS。動画。口の周りが真っ黄色の猫』
「えっ?」
 純太は真由美さんのSNSを開いて見た。
「うわっ。キジトラの奴…」
 どうやらコンビニで買ったキビ団子を食べたらしい。
 口の周りの毛がすっかり黄色く変色している。
 食い意地張って食べたのは良いが、餅が歯に絡みつくらしく不自然に口を開け閉め室告げていた。
 …クックック。バカな奴…
 結構『いいね!』も付いている。
 コメントも多数。
 何気なく閲覧すると、老板のコメントも載っていた。
『老板。コメント付けてるよ』
 サミーも気づいたらしい。
 二人は老板のコメントを一緒に見た。

『可愛的 ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡』

「ねぇ。サミー」
『うん?』
「老板って、こんなにお茶目な人だったっけ?」
 サミーは僕のことをジッと見つめている。
『…』
「…」
『本当はきっと、そうなんじゃない?』
 二人は和やかに笑った。


第4話 猫空(Mao Kong)

 雷が鳴った。
 バケツをひっくり返したような土砂降り。
 道路を隔てた茶畑が雨煙に霞んで見える。
 純太は坂本園でお茶を飲みながら外を眺めた。
 稲光。
 そして雷鳴が再び轟いた。
 隣にキジトラキャットの奴が居る。
 奴ときたら彼の閉じたノートPCの上を占拠して眠っている。
 …僕のパソコンを寝床と勘違いしていやがる…
 好い気なもんだ。
 一際大きな雷鳴。
 純太は突然のことにブルッと身体を震わせながら、近くに雷が落ちたなと思った。
 それでもキジトラの奴は目を覚まさない。
 …普通。雷でビクビクするのは動物の方だろう…
 でも、ここでは違うらしい。
 純太が苦笑いしながらキジトラの奴を見ていると、店の照明が消えエアコンも停まった。
 キジトラの奴もこの異変には気づいて目を覚まし、辺りをキョロキョロ見ている。
「おや。停電だねぇ…」
 そう言いながら店の奥から出て来た真由美さんに僕は悲鳴を上げた。
「ギャッ…」
 懐中電灯を点けて持ってきたのは良いのだが、あろうことか顔を下から照らしている。
「幽霊…」
 心ならずも思わず放った一言に、真由美さんはギラリと純太を睨む。
 彼女が何かを言おうとした時、店内に明かりが戻った。
「幽霊って。失礼だねぇ。まだお迎えは来ていないよ」
 純太はキジトラの奴を抱き寄せる。
 迷惑顔ながらも奴は僕の腕の中から逃げ出そうとはしない。
「随分、あんたにも懐いたもんだねぇ」
 真由美さんはクスッと笑いながら椅子に座ってお茶を飲んだ。
            *
 激しい雨音は相変わらず続いていて雨脚が衰える兆しはまだ見えなかったけれど、和やかな時間がゆったりと過ぎていた。
 キジトラは純太の膝の上で眠り、スヤスヤと寝息を立てている。
「これで梅雨明けかねぇ?」
「そうですね」
「今年もまた、暑いのかねぇ?」
 去年は、35度越えが一ヶ月近く続いた。
「歳をとると猛暑は堪えるよ」
 真由美さんはそう言って、お茶を啜った。
「雨。止みますかねぇ?」
「そうだねぇ。直ぐに止むよ」
 ちょっと不安気な純太へ真由美さんは続けて言った。
「キビ助が教えてくれるよ」
 キビ助とは真由美さんがキジトラの奴につけた名前だ。
 きび団子以来、ここがすっかり気に入ったらしく毎日来るようになった。それで真由美さんは奴のことそう呼ぶようになった。
 命名の由来はSNSにアップした写真と動画。
 結構反響があり、フォロアーがいつしか『キビ助』と勝手に命名した。キビ団子を食べて口の周りを真っ黄色にしたのが命名の由来らしい。
「こいつが?」
「猫とか犬ってお天気に敏感だろ。雨が止むころには、キビ助も目を覚まして店の中をうろちょろし始めるよ。まぁ、ゆっくりしていきな」
 キジトラの奴、未だ爆睡。
 …よく寝る奴だ…
 純太、苦笑。
            *
「真由美さん。こいつもすっかり看板猫になりましたねぇ」
 彼女のSNSを見ながら僕は、ぼんやり呟いた。
「良いことばかりじゃないよ」
「えっ。でも、お店の宣伝になって良いじゃないですか」
「店の名前は出さないよ」
 閲覧数も、イイねも、共に順調に伸びている。
 ただ僕は、真由美さんがお店の名前を出さないポリシーが気になっていた。
「宣伝で始めたことじゃないよ。一つは機会に慣れるため。もう一つは老板さんたちに見せる面倒を減らすため。最後は自慢だよ」
「真由美さんらしいなぁ」
 純太、苦笑。
「世間様に知られるってことは善いこともあるし、悪い事も引寄せる。気に病むともないけどさ、ウカウカもしてられないよ」
 終始浮かない顔を崩さず、真由美さんはキジトラの奴を見ながら言った。
 彼女の言葉が少し気になったが、彼女の懸念がまさか現実のものとなろうとは、この時純太は露ほども予想していなかった。
            *
 純太とサミーは映画『大脱走』を、ホップコーン片手に観ている。
 台詞は英語だけど、僕は日本語字幕でサミーは繁体字字幕で見ている。
『マックイーン。カッコイイ』
 画面越しのサミーは、トライアンフに跨ってナチの収容所を颯爽と脱出するスティーブ・マックイーンにうっとり。
 パソコンの画面越しに映るサミーに横顔の表情に、僕はちょっと嫉妬する。
 第二次大戦下。
 連合国捕虜の脱走に手を焼いたナチは、収容所の札付きの脱走常習犯たちを警戒厳重な捕虜収容所に集めて徹底監視した。札付きの連中は、最高レベルの警戒を誇る収容所にも関わらず集団脱走を計画し、苦難の末に実行する。
 二人が見ている場面はこの映画の有名なアクションシーンだ。
 純太はこの映画が好きで何度も見ていたが、サミーは初めて。
 昔の映画だから観るのを渋っていたサミーだったが展開の面白さとスティーブ・マックイーンのカッコよさが相まって、いつしか映画に夢中になっていた。
 料理に始まったビデオ通話でのやり取りが、今では映画鑑賞にまで拡大した。
 最初は映画を観ながら感想を好き勝手に話すというものだったけど、何だか違うという意見が一致。試しに対面ではなく横顔を映しながらやってみたら、映画館にいる感覚に近くて調子が良かった。それ以降、このスタイルが続いている。
『このバイク。カッコ良くない?』
 サミーがポップコーンを齧る音。
「トライアンフだよ」
 純太がポップコーンを齧る音。
『有名なの?』
「多分」
 残念ながら僕もサミーもバイクや車に興味がない。
 だからバイクに跨り疾走するスティーブ・マックイーンの姿容をカッコイイとは思いつつも、会話はそこ止まり。
 トライアンフは丘の連なる平原を疾走する。
 脱走が成功するに思えた瞬間、目の前を連なる有刺鉄線の壁。
 躊躇うことなく、そこへ向かうマックイーン。
 サミーがポップコーンを齧る音。
 純太がポップコーンを齧る音。
『あっ』
 サミーが突然、声を上げた。
 有刺鉄線をバイクで飛び越えようとしたが、マックイーンは失敗する。
『マックイーン。捕まっちゃうよ…』
 絡みつく有刺鉄線のなかで逃げようともがく彼の元にゲシュタポたちがやって来た。
 独房に放り込まれたマックイーンを観るサミーの横顔にはガッカリとうっとりが入り混じっていた。
リアルが望ましいけど、現在はこれで満足まんぞく。
 二人はポップコーンを食べながら、映画の続きを観ている。
            *
 キジトラの奴が突然、坂本園に姿を現さなくなった。
 失踪、初日。
「あいつ。今日は姿を現しませんねぇ?」
「アイツって誰のことだい?」
 真由美さんは顔色ひとつ変えずにお茶を啜っている。
「キジトラ。あっ、いいや。キビ助のことですよ」
「野良猫だからねぇ。ここに来ない日だってあるよ」
「まぁ。そうですけど」
 純太が続けて言おうとしたら真由美さん、それを遮るように続けて言う。
「お腹が空いたら、フラッと現れるよ」
 失踪、二日目。
「あいつ。昨日、姿を見せました?」
「アイツって、誰だい?」
 心のモヤモヤを隠そうとしているが、真由美さんのイライラを感じる。
「それはキビ助でして…」
「あぁ。あいつのことかい?」
「はぁ。きっとお腹が空いたら、フラッと…」
 ぎらっと僕を見て、真由美さんは言った。
「知らないねぇ」
 失踪、三日目。
「あいつ。昨日はどうでした?」
「アイツって。キビ助のことかいッ」
真由美さん、もう不機嫌を隠さない。
「は、はい」
「帰って来やしないよ。まったく。SNSの写真もアップできないし」
「どうしたんだろう。腹、空かせてないかなぁ」
 プイッと顔を背け、通りの向う側の茶畑を眺めながら真由美さんは呟いた。
「どっか他所で、好いとこ見つけたんだろ…」
 失踪、四日目。
「あいつ。昨日も?」
「キ、キビ助…」
 心配で眠れなかったのか、真由美さんの目に隈ができていた。
「キビ助の奴、どこへ…」
「えっ。キビ助かい。どこ。どこ、どこ。戻ったのかい?」
「ま、真由美さん。落ち着いて。落ち着きましょう…」
 溜息を漏らすと真由美さんは静かに純太を見上げて、ポツリと言った。
「キビ助。元気にしてるよね?」
 純太は何も言えず、ただ黙って頷き続けた。
 突然、お店のドアが開く音。
 入口で佇む男を見て、真由美さんは思わず言った。
「あんたは、NPOの…」
            *
「どうも。ご無沙汰しております」
「真由美さん。あの人。誰です?」
 純太と同世代の男。
 不必要なくらいニコニコしているが、彼の笑顔に嫌味や魂胆を感じない。
男は僕の前に立つと、名刺を差し出した。
「NPO法人。えんまん?」
「はい。藤木と申します。えんまんで代表を務めさせて頂いています」
「真由美さんのお知り合い?」
 彼女より先に藤木が答えた。
「いいえ。ただ、あれの件でお世話になりまして」
 藤木はそう言いながら、壁に貼られているキジトラの指名手配チラシを指さした。
 よく見ると隅に『藤木』の名前が載っている。
「あぁ。ネコ探しの?」
「はい」
 NPO法人えんまん。
 広義には動物愛護を目的としている非営利団体らしい。活動は多岐にわたるらしいが、最近はキジトラの奴のように飼い主の元から逃げたペットや里親探しが活動の主力となっているらしい。
「特に迷い猫探しは、飼い主の皆さんから大変感謝され、やり甲斐があります」
 藤木、少し胸を張り気味でにこやか。
要はニーズが切れ目なくあり、ビジネスチャンスも多いらしい。
「それで今日は?」
「はい。今日伺いましたのはお礼を申し上げたかったのと、あれの回収でして」
 藤木は指名手配書を指さした。
「あれの、回収?」
「はい」
 純太と真由美さん、呆然。
「お陰様であの猫ちゃん。見つかりまして」
「見つかった?」
 真由美さん、僕の腕を握る。
 純太は、思いのほか強い彼女の握力に驚いた。
「無事に保護し、飼い主さんの所へ無事戻りました」
「…」
「…」
「ご協力。ありがとうございました」
 いそいそと指名手配チラシを剥がす藤木の背中を、純太と真由美さんは放心で見つめた。
「それでは、今日はこれで失礼させて頂きます。これもご縁ですから、今後も何かありましたらご協力給われませんでしょうか?」
 放心から解放されない真由美さんは、藤木の顔を穴が空くほど見つめている。
 一向に声を出しそうにない真由美さんに代わって、純太が答えた。
「まぁ。それは構いませんが…」
「ありがとうございます。ご協力に感謝致します」
 藤木は深々と頭を下げ、挨拶を済ませると静かに店を後にした。
 店内、シーン。
 真由美さんは、指名手配チラシが無くなった壁の空白を呆然と見つめながら呟いた。
「キビ助…」
            *
 南台公園の早朝。
 夏らしい青空が木々の枝の隙間から見える。
 気温は上がってきているけど、木陰はまだ快適だ。
 広場を半分くらい覆う木陰の下で今朝も、普段と変わりなく太極拳体操が行われている。
 公園のテーブルを前に備え付けの椅子に座る真由美さんの表情は冴えない。
「はぁ…」
 真由美、溜息。
「真由美さん。元気出しましょうよ」
 こんな時に言ってはいけないひと言だけど、つい言ってしまう僕。
 そんな純太を責めもせず、ちょっと虚ろな眼差しで見て、彼女は再び溜息を漏らす。
「はぁ…」
 情が移る。
 それはきっと、こんな感じなのかもしれない。
 ツンデレの真由美さんと滅多に懐かないキジトラキャット。
 どちらも無関心を装いながらも、出会いは運命だったのかもしれない。
 感情も平易で穏やかな日々を送っていた真由美さんにとって、それはきっと恋にも似た衝撃だったに違いない。不必要に距離を縮めまいと見て見ぬ振り、適度な素気なさ、面倒くさいという顔つきで餌を与え続けた日々。それは彼女にとって、もう忘れてしまった甘酸っぱい日々を彼女に想い出せたのかもしれない。
 恋。
 そう、それは真由美さんのキジトラキャットに寄せた恋に違いない。
 そして真由美さんとキジトラキャットの奴は引き裂かれ、齢八十を過ぎて真由美さんの情熱の恋は破れたのだった。
 純太、勝手な妄想でニヤける。
 ふと気づくと、真由美さんは眉間皺を寄せて訝し気な表情で、にやける僕をジッと見つめていた。
「何か、変なことを考えていたんじゃないだろうね」
 遠回しの図星に、僕の身は強張る。
「あんな野良猫。居なくなってせいせいしているよ」
 真由美、勝手に言い始める。
「第一ね。寄り付かれて困っていたんだよ。餌代だってタダじゃないんだ。それにうちはねぇ、人様の食べ物を扱う商売なんだよ。あんなのに寄りつかれて、仲間なんかも増えて、猫屋敷にでもなったら、商売上がったりじゃないか」
「まぁ。ねぇ。でも、インスタで人気も出て、多少お客さんも増えたんじゃ?」
 真由美、キッと彼を睨む。
「人気。たまたまじゃないか。それだって、あたしが上手く撮ってやったからだろ。可愛いだとか、キュートだとかおだてられて。果ては看板猫とか持ち上げられて。ちょっと人気が出たからって図に乗ってんじゃないよ。うちはねぇ。坂本茶園はねぇ、あんな勘違い猫が居なくたって、ちゃんと商売成り立っての。分ったかいッ」
 真由美さんは一気にまくし立てて啖呵を切った。
 でも言い終えるなり、深い溜息を漏らすのだった。
「ふぅ…」
「真由美さん…」
「良いから。放っておいておくれ」
 真由美さんは僕に背を向け、広場に目を向けた。
「イー、アー」
「まったく」
「サン、スー」
「良い年齢して。いつまで体操やってんだい」
 聞こえていないだろうから好いようなものの単なる八つ当たりである。
 純太がオロオロしていると、真由美さんの視線は公園に沿った道路を歩く女性へターゲットオンされていた。
 その女性は次第に近づいてくる。
 ちょっと着飾り、公園側の右手には猫ゲージを握っている。
 彼女は歩くペースを次第に緩め、二人の横を通り過ぎるのに合わせて猫ゲージの入口をワザと見せた。
 透明なプラスチック製の扉の向う側から、僕らをジッと見つめる一匹の猫。
 それは紛れもなくキジトラキャットの奴。
「キビ助…」
 見つめ合うキジトラキャットと真由美さん。
 何故かその時、純太は大脱走のワンシーンを思い出していた。
 脱走に失敗してゲシュタポに捕まり、独房に入れられたスティーブ・マックイーン。壁を背にして座り、壁にボールをぶつけて遊び続けるシーン。
 飼い主の女性は勝ち誇ったように僕と真由美さんの前を通り過ぎて行った。
 純太はふと心配になって真由美さんを見ると、彼女は何故かニコニコ笑っている。
 すると彼女は、ポツリと言った。
「ふん。時間の問題だよ」
「えっ?」
 そう言うと、彼女は飼い主を目で追った。
「勝った気で居るが良いさ」
「…」
「結局泣きを見るのは、あんただからね」
 そう言いながら真由美さんは、飼い主の背中を見送るのだった。
            *
 翌朝。
 下駄での散歩はとても心地よかったけれど、真由美さんを見掛けなかった。
 ちょっと心配になって昼過ぎに坂本園へ出向くと、真由美さんは意外と元気だった。
「何だい。また、タダ茶を飲みに来たのかい」
「ひどいなぁ。客に向かって」
「なにが客だい」
 毒舌炸裂。
 でも、元気になったようで安心した。
 そこへもう一人、意外な人物が現れた。
「おや。あんたは…」
「NPO法人えんまん代表の藤木でございます。その節はお世話になりました」
「どういう風の吹き回しだい」
 真由美、不愛想。
「実は、またお願いがあって参りました」
「お願い、お願いって。今度は何だい?」
 真由美、つっけんどん。
「いえ実は、また猫探しのチラシを貼らせて頂けないかと…」
「猫なんか、ここには居ないよ」
 真由美、凄い剣幕。
「まぁまぁ、そう仰らずに…」
 そう言いながら藤木は、真由美さんに新しいチラシを渡した。
 真由美は渡されたチラシを見るなり言った。
「この猫がどうだって言うんだい?」
 真由美さんはぶっきらぼうにそう言い放つとチラシを純太に渡すのだったが、彼はチラシの中の迷い猫を見るなり思わず言った。
「キビ助の奴…」
 素知らぬ風情だが、純太がそう言うなり太腿を思いっきり抓った。
「い、痛いッ」
「まぁ。壁も殺風景だから好きにするが良いさ」
「ありがとうございます」
 藤木は数日前に指名手配チラシを剥がした場所に、新たなそれを貼った。
「また脱走かい?」
「ええ。どうもそうらしいです」
「ちゃんと餌とか与えてるのかい?」
「それは十分なくらい。餌だって値段の高い物を与えてるみだいですし、自分の子供みたいに可愛がってますよ」
「それで何で脱走するのかねぇ」
「さあ。そこは私にも解りません。見掛けたら連絡お願いします」
「あぁ。そうだね。気に掛けとくよ」
 藤木は静かに店を出て行った。
「ふん。猫ってのはねぇ、猫ッ可愛がりを一番嫌うんだよ」
 真由美さんは口角を僅かに上げて、そういった。
「真由美さん。キビ助の奴。ここに来ますかねぇ?」
「案ずるまでもないよ」
 そう言うと彼女は、扉を指さした。
「えっ。キビ助」
 奴は扉のガラスを猫パンチしている。
 真由美さんがそっと扉を開けると、その隙間を何食わぬ顔でキジトラの奴は通り抜ける。
 店内に入るとテーブルに飛び乗り、閉じたままの僕のノートPCの上に寝そべった。
「朝。あたしが言った通りになっただろう?」
「えっ?」
「時間の問題だって」
 そして真由美さんは、不敵に笑いながら居眠るキジトラの奴を見つめた。
            *
 三日間の平和の後、四日目に事件が起きた。
 朝の南台公園。
 二人がベンチに座って世間話をしていると、砂場で小さい男の子のけたたましい泣き声が響いた。
「えっ?」
 泣き出したのはキジトラキャットの奴を家来のように手懐けていた二歳ぐらいの男の子だった。
「おや。キビ助の姿がないよ」
「さっきまで砂場で泣いている男の子に抱えられていましたよ」
 そう言って砂場に目をやると、キジトラの奴の姿は消えて母親に抱きかかえられながら男の子が泣いている。僕と男の子の母親の目が合うと、彼女は怒りと恐怖の入り混じった表情で広場を指さしている。
 何かを抱えて足早に公園を去ろうとしている男の後ろ姿があった。
 その男は一度立ち止って振り向き、僕らと母親のそれぞれに申し訳なさ気な表情で頭を下げた。
 …藤木さん…
 そして彼は両手で抱え持ったキャットゲージと共に公園から姿を消した。
 純太と真由美さんは砂場に向かった。
「大丈夫ですか?」
 純太の問いに母親は何度も頷くが、男の子は母親の胸に顔を埋めたまま泣いている。
「どうしたんですか?」
 母親は男の子の背中を摩りながら、事の次第を語り始めた。
 男の子は母親の傍らで、キジトラを抱えながら砂遊びをしていたらしい。
 するとそこへ藤木が現れ、自己紹介を手短に終えると言ったそうだ。
「実は、お子さんが抱っこされているようなキジトラの猫を飼い主の方から探すように頼まれておりまして」
「はい。そうですか」
「この猫はお宅様の飼い猫ですか?」
「いいえ。ウチのマンションはペット禁止ですから」
 藤木は母親に指名手配チラシを見せた。
「この写真の猫とお子さんが抱っこされている猫。同じに見えませんか?」
「そうなんですか?」
「そっくりです」
「はぁ…」
「申し訳ありませんが、飼い主に代わって私が連れて帰ります」
「はぁ?」
 藤木はゲージの扉を開け、砂場を囲むコンクリート製の縁の上にゲージを置いた。
「少し待って頂けませんか。私とこの子はもう直ぐ家に帰ります」
「はい」
「せっかく仲良く遊んでますし。もう少し遊ばせてやってもらえませんか?」
「ダメです」
 藤木、冷たく即答。
「この猫は逃げ足が早いんです。今のうちに捕まえて置かないと、この先が困るので」
 藤木はキジトラキャットが眠っている隙に、半ば強引な仕草でキジトラの奴を抱きかかえると、それを猫ゲージに入れた。
「あなた。何をするんですか?」
 母親、凄い剣幕。
 男の子、吃驚して号泣。
「ちょっと、あなた待ちなさいッ」
 藤木は男の子の母親を振り切るように砂場を後にした。
 男の子は泣き止んだが余程怖かったのだろう。親指を銜えて周囲をキョロキョロ目玉だけで追っている。
「ひどい事をする奴だねぇ。怪我は無いかい?」
 真由美さんは母親の隣に腰掛けると、彼女の背中を摩りながら言った。
「怪我はないみたいだねぇ。良かった、良かった」
 キジトラの奴を藤木さんに連れ去られた後にも関わらず、真由美さんは男の子の母親を労り、男の子に話し掛け続けた。
 子供が無き止むと、母親は男の子を乳母車に乗せて歩いた。
 二人を見送りながら、真由美さんは呟くように言った。
「ふん。どうせまた、時間の問題だよ」
             *
 午後。
 坂本園のお店はちょっと険悪な空気に包まれていた。
 藤木がキジトラの奴の指名手配チラシを剥がしにやって来た。
「今回も猫探しにご協力を賜りまして、ありがとうございました」
 僕を遮るように真由美さんが言った。
「別に協力なんかしてないよ」
 指名手配チラシを剥がし終えた藤木は、ニコニコ顔で振り向いて言った。
「このチラシをここに貼らしてもらうだけで、十分協力頂いてますから」
「ふーん。そうかい」
 余所余所しく白けた空気。
「ところで、あの猫。ここの看板猫みたいですね」
「看板猫?」
「SNS。フォローさせて貰ってます」
「おや。それはありがとう」
「一昨日も写真、アップされてましたね」
「…」
 藤木は真顔ではないけれど、にこやかだからちょっと不気味だ。
「誤解しないでください。私は坂本さんのSNSの純粋なファンです。だから写真のアップを楽しみにしてますから」
「でも。もうそれも叶わないねぇ」
「そうなんですか?」
「あの猫も飼い主の元へ戻ったからね」
「まぁ。それは確かにそうなんですけどね」
 藤木はそれまでとは違って、口元を上げてニヤッと笑った。
「また脱走するみたいな口ぶりだね。あの猫、飼い主をそんなに嫌っているのかい?」
「さぁ、どうでしょう。私は猫じゃありませんから」
「確かにそうだ。でも不思議だね。虐待するような飼い主でもなさそうだし。むしろ溺愛している雰囲気で猫冥利に尽きる暮らしぶりだろうにさ。なんで逃げだすのかねぇ?」
 藤木は真由美さんをちょっと見つめると、静かに言った。
「猫って。そういう動物でしたっけ?」
 真由美、ちょっと間を置いて苦笑。
「あんたもそう思うかい?」
「さぁ。僕は猫じゃありませんから」
「まぁね」
「逃げれば、猫探しっていう私のビジネスチャンスの機会を得られるだけです」
「そうかい。仕事頑張って下さいな」
 店を出て、次第に遠のく藤木の背中を見ながら真由美さんは呟いた。
「時間の問題だね」
             *
 数日後。
 坂本園でお茶を飲んでいる僕と真由美さんの前を、キジトラキャットの飼い主の女性が猫ゲージを片手に通り過ぎて行った。
 奴の顔がワザと見えるようにゲージを向けて、ドヤ顔で彼女は悠然と通り過ぎる。
 純太はちょっとムッとしたが、真由美さんは平気の平左。
 素知らぬ顔でお茶を飲んでいる。
「あいつ…」
 飼い主の背中を見送る僕に真由美さんは言った。
「きっと今夜。決行だね」
 真由美さんは、それが我がことの如く不敵な笑みを浮かべた。
             *
「あっ…」
 翌朝。
 SNSを見ていた僕は、真由美さんのそれを見て思わず声を上げた。
 …キジトラキャット…
 アップされた写真に添えられたメッセージは刺激的だった。
『ESCAPE AGAIN』
 …えっ。こんなこと書いちゃって大丈夫かよ…
 でもキジトラの奴、元気そうで安心した。
             *
 次の日、純太は開店直後に坂本園を訪れた。
 既に藤木も来ていて、例の場所に指名手配チラシを貼っている。
 彼は何故か嬉しそうだった。
 真由美さんは、いつもの場所で悠然とお茶を飲んでいた。
「おや。いらっしゃい」
 キジトラキャットの奴はテーブルの上で身を横たえて鼻提灯を作りながら眠っている。その姿には脱獄に成功した大物の貫禄と余裕すら漂っていた。
「タダ茶かい?」
「…」
「支度してあるよ」
 真由美、茶を啜る。
「まぁ、座ってゆっくりしなよ」
 言われるがまま席に着くと、純太は真由美さんが入れたお茶を飲んだ。
「いつ戻って来たんですか?」
「昨日の夕方。フラッと来てね。いつものことだよ」
「いつものことって…」
 指名手配チラシを貼り終えると、藤木が振り向いた。
「貼り終えました」
 彼は普段以上にニコニコしている。
「おや、そうかい。御苦労さん」
 純太は、彼と爆睡中のキジトラの奴とを交互に見た。
「ここに座って、お茶でもどうだい?」
「ま、真由美さん…」
「そうですか。ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
「えっ。ちょ、ちょ、ちょっと待って」
 二人は目をパチクリさせながら僕を見ている。
「真由美さん。良いんですか。藤木さんは、こいつのを…」
 キジトラの奴を指さしながらそういう僕に答えたのは藤木だった。
「ご心配なく。今日は、この猫ちゃんを捕まえたりしませんから」
「はぁ?」
「ここに来れば遭遇率が高いことが確認できましたから。タイミングを見て捕まえさせてもらいますよ」
「タ、タイミングって何ですか?」
「直ぐに捕まえて飼い主の所へ戻したら、この人の商売にならないだろう。多少は、探した振りをしないとありがたみがないだろう」
 藤木、キジトラキャットの目の前に座ってお茶を飲んだ。
「いやー、ここのお茶は本当に美味しいですね」
「そうかい。好かった。ゆっくりしな」
 キジトラ、爆睡。
 …こいつら、つるんでるのかよ…
 そう邪推するものの、キジトラの奴まで加担しているとは思えない。
「ひょっとして、あたし達がつるんでるとでも思っているのかい?」
 真由美さんは僕の心を見透かすように言った。
「そんな後ろ暗いことなんかしてないよ」
「…」
「そうだろう?」
「はい」
 ごく自然に肯定した後、藤木は更に言った。
「予定調和です」
 …だから、それをツルむと言うんだッ…
 純太がそう言おうとした矢先、突然店のドアが開いた。
「あんたたち。やっぱりグルだったのねッ」
 三人の視線、ドアへ。
 そこには、仁王立ちする飼い主が立っていた。
 ポカンとした間合い。
 キジトラの奴の寝息。
 湯の沸く音。
 茶を啜り湯呑を机に置くと、真由美さんは言った。
「いらっしゃいませ」
 真由美、微笑み。
 藤木がお茶を呑みこむ音。
 僕、ハラハラ。
 飼い主は、真由美さんと藤木とを交互に睨んだ。
「一体。これはどういうことですか?」
 藤木はちょっと身を固くして彼女と視線を合わさない。
「オカシイと思ってたのよ」
「?」
「…」
「(意味不明の発汗)」
「あなた。マックちゃんの外出を見計らって捕まえて、ここに預けてたのね」
「マックちゃんって、何だい?」
「マック…」
 純太の脳裏にスティーブ・マックイーンの顔が浮かぶ。
「いやぁー。流石にそこまでは…」
「そこまでって、どこまでよ。あなた、やっぱり脱走の手引きしてたのね」
「いやいや。脱走の手引きだなんて…」
「やってないって言うの?」
 大脱走のワンシーンが僕の脳裏を駆け巡る。
 ゲシュタポの制服に身を包んだ飼い主。
 彼女の気を逸らす藤木。
 ゲシュタポから奪ったトライアンフに跨るキジトラキャット。
 エンジンの爆音。
 キジトラの奴を手引きする真由美さん。
 …あぁ。イカン、イカン。こんな妄想を楽しんでる場合じゃない…
「じゃあ、あなたですねッ」
 飼い主は、真由美さんを指さした。
 憶することなく飼い主を直視して、真由美は言った。
「この猫に対して『手引き』なんて芸当が通用するとでも思っているのかい?」
 二人の女の視線がぶつかり合い、見えない火花がバチバチ。
 だが対峙に負けて、視線を逸らしたのは飼い主だった。
「…」
「どうやら、解ってるみたいじゃないか」
 飼い主、唇を嚙みしながら真由美さんを睨む。
「この猫は、誰からの束縛にも屈しない子だよ。例えそれが、あたしだろうとね」
 キジトラキャットの奴が、突然目覚めた。
 大欠伸。
 身を横たえたまま背伸びをし、身体をブルッと震わせる。
「ともかく。今日は、ウチのマックちゃんを連れて帰りますからッ」
「どうぞ」
「それと、藤木さんッ」
「ハイっ」
「今回のお支払いは致しませんから。そのお積りで」
 藤木、何も言えず肩を落とす。
 キジトラキャットの奴はノー天気な顔つきで人間たちのやり取りを眺めている。
「マックちゃん」
 キジトラ、気の抜けた生返事のようなミャーオ。
 四肢で立つと、再び身体を大きく震わせた。
「帰りましょうね」
 飼い主が手を伸すと、奴はすこし遠ざかる。
「あら。どうしたの?」
 更に手を伸ばすも、奴は遠ざかる。
「おウチに帰って、朝ごはん食べましょね…」
 飼い主は苛立ち気味に一層手を伸ばす。
 純太、ちょっと嫌な予感。
 真由美さん、チラ見。
 藤木、内心でヤバいと思う気持ちが顔に滲み出る。
 飼い主の手がキジトラの奴の身体に触れようとした瞬間、奴は即座に身体を反転させてるや飼い主の手に鋭い爪を向けた。
「ギャァァァーッ」
 キジトラキャットの甲高い威嚇。
「きゃぁぁぁーっ」
 飼い主の小さな悲鳴。
 二つの声が重なった。
「こらッ。キビ助。止めな」
 真由美さんは、咄嗟にキジトラの奴を抱きかかえる。
「危ないッ」
 藤木も咄嗟に飼い主を庇おうと、彼女とキジトラの奴との間に割って入った。
「痛てぇッ」
 藤木の手の甲に三本の爪痕。
 そこから血がにじみ出した。
 飼い主は、藤木の手の甲を無関心にチラ見すると、彼を押しのけた。
「マック、ちゃん…」
 力なく飼い猫の名前を呼ぶも、真由美の懐に納まって彼女を睨み続けるキジトラキャットを目の当たりにして言葉を失った。
 飼い主は溜息を大きく漏らした。
ガックリ項垂れ、上目遣いにキジトラの奴をジッと見つめる。
「もう。結構です」
 それだけを言い残して、彼女は店から出て行った。
             *
「痛いっ」
 藤木、消毒が沁みて眉間に皺。
「我慢しな」
 傷口の手当てをしながら真由美さんは言った。
 キジトラの奴は、テーブルの上で猫座りして二人を見ている。
 手当の間、藤木はキジトラの奴と飼い主との経緯を語って聞かせた。
 捨て猫だったらしい。
 保健所で殺処分スレスレだったところを、飼い主だった彼女が引取りを申し出た。
 だから彼女は、キジトラの奴の命の恩人ということになる。
「飼い主の女性とキビ助を仲介したのが、あんただったんだね?」
「そうです」
 飼い主の彼女。
 南台公園と道路を隔てて隣接する高齢者福祉施設近くのマンションに住んでいるらしい。
「善い人なんですが、猫に対する思い入れが少々強い方でして」
 今住んでいるマンションに越してきたのは今年に入って直ぐだったようだが、その引っ越しの理由が猫だったらしい。
「前のお宅で十二年飼っていた猫が居たらしいんですが去年の秋口に亡くなり。その猫との思い出が辛くて引っ越されたそうです」
 オスのキジトラだったらしい。
「猫は飼わない積りだったそうです」
 でも、寂しかったのだろう。
 だからペット可の賃貸マンションを選んだようだ。
「北海道のご出身でご両親も健在らしいんですが、パンデミックの影響で帰省できず。年末年始の外出規制でかなり落ち込まれたそうです」
 寂しさを埋めようと猫サイトを見る内に藤木が主催する『えんまん』のサイトに辿り着いたそうだ。
「そこでキビ助を見つけたのかい?」
「はい。運命の出会いを感じられたそうです」
「やれやれ…」
 手当を終えて救急箱を片付けながら真由美さんは、呟くように言葉を漏らした。
 坂本園のことや真由美さんのことはSNSで知ったらしい。
「まぁ。猫、大好きの人ですから。坂本さんが写真をアップされた、割との初めの頃から知っていたみだいです」
「だったら、直接ここに来た方が早いと思うけど」
「それができない人なんだよ」
「真由美さんの仰られる通りです。それもあって当方に依頼があったと言う訳でして」
『世間様に知られるってことは善いこともあるし、悪い事も引寄せる。気に病むともないけどさ、ウカウカもしてられないよ』
 純太は、以前に真由美さんがそう言っていたのを思い出した。
「でも解らないなぁ。可愛がってた猫なんですよね」
「はい」
「嫉妬だね。あたしに懐いてるのが悔しかったのさ」
 藤木、苦笑い。
「勘違いも甚だしいよ。この猫は誰にも懐かないのにねぇ」
 真由美さんはお茶を啜り、続けて言った。
「でも、あの人も寂しかったんだろうよ。きっと」
 真由美、ポツリ。
「誰と一緒だって、独りぼっちが紛れることなんて無いのさ」
「…」
「…」
「そんなご都合をキビ助に背負わせちゃ、気の毒だよ」
 真由美さんはそう言って、キジトラキャットの額を指先で撫でた。
             *
 あの騒動から二週間が過ぎた。
 あれ以来、飼い主は純太たちの前に現れることは無かった。
 キジトラの奴は相変わらず坂本園に来ては餌をねだっている。
 真由美さんの朝の散歩にも付いて来て、僕らの会話を聞きながら居眠りをするのが日課となっていた。たまに砂場で、自分の事を家来だと思っている男の子がいると家臣宜しくその男の子の元へ出向いて身体を寄せて一緒に過ごした。
 その日も例の男の子を見つけ、砂場へ軽快な足取りで向かった。
 この二週間の間に真由美さんに一つの変化か生じた。
 朝、僕が真由美さんに中国語を教え始めた。
「亭主が死んで二十年になるんだよ。一人暮らしも退屈でね。中国語の一つも話せるようになって、老板さんを驚かしてやろうと思ってね」
「イー、アー、サン、スー」
 太極拳体操の掛け声と真由美さんの四声がハモる。
 突然、キジトラの奴がひょいとテーブルの上に飛び乗り、僕の閉じたノートPCの上で寝そべった。
 砂場を見ると、男の子を乗せた乳母車の傍らに立っている母親が、こちらを見ている。
 どうやら、家に帰る時間らしい。
 男の子の母親軽く会釈すると、乳母車を押して歩み始めた。
「ウー、ルー、チー」
 そうそう。
 変化なら、もう一つ起きていた。
 居眠りを始めたキジトラの奴に首輪。
「真由美さん。飼うことにしたの?」
「そんな気は無かったんだけどね」
 一昨日、藤木氏が店にやって来て、元の飼い主がキジトラの所有権を放棄したと告げたそうだ。
「また、猫を飼う積りなのかなぁ?」
「猫は懲りたらしいよ。それで今度は犬にするらしいって、藤木が言ってたよ」
「犬ねぇ…」
 僕は何故かその時、渋谷駅前の忠犬ハチ公の像を思い出した。
 …あんな関係になってくれると良いけど…
 なんとなくそんな風に純太が思っていると、真由美さんが吐き捨てるように言った。
「所有権の放棄って。勝手なもんだ」
「まぁ、キビ助には良かったんじゃないですか?」
「そうなんだけどねぇ…」
 真由美さん、ちょっと浮かない顔つき。
 キジトラの奴は晴れて自由を得た訳だけど、権利の行使と享受は簡単ではないらしい。
「ウチで餌をやるのは良いんだけど、野放しにしてると保健所に持って行かれるんだよ」
 そんな訳で坂本園の連絡先を記した首輪を付けることにしたそうだ。
「縛る積りはないけど。身元引受人ってところかね。正直言って、この歳でそんなお役を買って出ちゃうと無責任なんだけど。取りあえず仕方ないね」
 真由美、苦笑。
「キビ助を看取るまで、あの世に居る亭主に会えないことになっちゃったよ」
 そう言って真由美さんは、指先でキジトラの奴の額を撫でた。
 目を閉じたままキジトラの奴は欠伸をし、身体をブルッと震わせる。
 その拍子に首輪の鈴が揺れ、澄んだ音が公園に響いた。


第5話 baby carriage

 柏木愛梨がパートで勤めているネット通販の受付センター内の託児所。
 休憩時間を使って彼女は託児所に預けている息子の想(ソウ)の様子を見に来た。
「あら柏木さん」
 顔馴染みの保育士が彼女に気づいて声を掛けた。゛
「想くん。今、お昼寝なの」
「あら。そうですか」
 保育室を覗くと友達に挟まれて眠る想の寝顔が見える。
 愛梨はホッとした。
「想。先生の言う事をちゃんと聞いてますか?」
 保育士の女性は穏やかに笑いながら言った。
「聞き分けも良くて、結構ここの人気者ですよ」
 愛梨は想の寝顔を見守った。

 喫煙室で一服していると、下田恵美子が愛梨に声を掛けて来た。
「休憩?」
 彼女は煙草を取り出しながら言った。
「はい。下田さんも?」
「社員だと決まった休憩ってお昼以外なくて。ちょっと息抜き」
 彼女はそう言いながら電子煙草を一服吸った。
 下田恵美子。
 彼女は、柏木愛梨の最初に配属されたチームのリーダーで愛梨に仕事イロハを教えてくれた上司だった。今年五歳になる息子を保育園に預けて仕事をしているのだが、同年代の愛梨よりも仕事をテキパキこなし、子育てと家事をこなしながら、海外に単身赴任しているご主人が不在の家を守っている彼女を、愛梨は密かに尊敬していた。
「柏木さん。例の話、考えてくれてる?」
 例の話とは、パートから社員への登用の件だ。
「はい」
「どうかしら?」
 下田は愛梨の能力を評価していて社員登用への推薦をしてくれていた。
「お受けしたい気持ちはあるんですが…」
「踏ん切りがつかないの?」
 社員となれば本社勤務の可能性もあり、パートで勤務先が固定されている現状に大きな変化が生じることも考慮しなければならない。仕事の性質上、在宅での勤務が難しく本社勤務となれば通勤せざるを得ない。本社に託児所はあるが、設備の規模も小さく環境的にも保育園の内容と同等とは言えない。シングルマザーの愛梨にとって育児を分担できる相手はいないから、想を伴っての通勤を覚悟しなければならない。そう考えると、保育園が決まってから社員登用に応じたいと思いのだが、ままならないのが現状だった。
「保育園が決まらないから不安?」
「会社の託児所に不満はありませんが、想を預ける先が決まれば安心ですし」
「そうねぇ…」
「我が儘を言って済みません」
「子育ての大事な時期ですもの。安心して預けられる場所が良いわよ」
「済みません。保育園には何とか掛け合って見ますから」
「わかった。でも、そう長く待てないかもしれないから。その時は保育園が決まってなくても決断してね」
「はい」
             *
 母の佐和子から純太の元へ宅配便が届いた。
 箱を開け、中身を見て純太は絶句した。
 …あぁ。母さん…
 夏野菜の詰合せパック。
 通販番組が好きな母は、気に入ると買ってしまう。
 それが本人だけに留まるのなら良いのだが息子にも有用な品だと判断すると、自分と純太の分まで注文してしまう。
 そして時折、唐突に、嬉しい母心の品が純太の元へ届くことになる。
有用な品もあれば、有用ではない品もある。
 今回の場合は食材なので一人暮らしの純太にとって有用な品には違いないのだが、些か量が多すぎるのである。
 最近、サミーとの間でティスタンスクッキングが始まり、それまですることが無かった自炊の機会が増えてはいるが、それにしても量が多すぎる。
 …使い切れないよ…
 夏野菜がギッシリ詰まった発泡スチロールの箱を前に、純太は途方に暮れた。
 …真由美さんたちにお裾分けするか…
 純太、苦笑い。
             *
 朝。
 南台公園。
「イー、アー、サン、スー」
 太極拳体操は今朝も健在だ。
「それにしても、あんたのお母さんも豪快だねぇ」
 目の前の箱の中にある野菜を目にして、さすがの真由美も呆れている。
「じゃあ。遠慮なく戴くけど、うちも年寄一人に猫一匹だから。ご期待に沿えるような量は貰えないよ」
 真由美は愛用のエコバックを広げると、野菜を物色しては入れていく。
 幾らか減りはしたが、箱の中にはまだ相当量の野菜が鎮座している。
 そこへキジトラキャットの奴が、テーブルの上にひょいと飛び上がって現れた。
 奴の登場に会わせて例の砂場の親子が現れた。
「この間は、色々とありがとうございました」
 お辞儀をする母親。
 どうやら砂場での一件のお礼らしい。
 息子は乳母車の中で玩具を手に遊んでいる。
 そんな彼を見ながらキジトラキャットの奴は、テーブルの上からミャーオとひと鳴き。
「あたし柏木愛梨と言います。この子は息子の想です」
 …息子のそうって、何がそうなんだ…
 ボケ混じりに混乱し、無言で宙を見つめている僕を尻目に真由美さんが言った。
「『そう』という名前かい?」
「漢字で『想』とかいて『そう』です」
「珍しいけど、好い名前だね。そうちゃん」
 真由美は、想君に手を振って見せた。
「自己紹介が先だったね。あたしは、坂本真由美。そこの坂本茶園の店主だよ。それでこのボーっとしてる男が、二宮純太。ひょんなことから知り合ってね、今は中国語を習っているんだよ」
「へぇー。中国語ですか。堪能でいらっしゃるんですか?」
「いやぁー。それほどでも。仕事でよく使うもんで」
 謙遜混じりに頭を掻いていると、真由美さんが言った。
「そうだ。柏木さん。あんた、野菜要らないかい?」
「野菜ですか?」
 そう言いつつも愛梨は、夏野菜の入っている発泡スチロールの箱をチラ見。
 何となく見覚えがある箱に、彼女は一昨日の夜を思い出した。

『夏野菜の詰合せを二セットでございますね?』
『お願いするわ』
『二宮様。お送り先は、こちらでご登録させて頂いておりますご住所で宜しいでしょうか?』
『ワンセットはそこにお願いしますけど、残りのワンセットは別の住所へ送りたいけど大丈夫かしら?』
『お送り可能です』
『あら、良かった。それではお願いするわね』
『それではお送り先のご住所とご連絡先、お送りされる方のお名前をお願い致します』
『息子の所なんだけどね。住所、住所はと…』
 …あら。ウチのご近所のマンションの住所…
『送り先なんだけど。二宮純太。その人宛にお願いね』

 …あの時、申し込みを受け付けた野菜だわ…
 二人には気づかれないように愛梨は苦笑した。
「二宮さんのお母さんがね、一人暮らしの息子を気遣って送ってきたのは良いんだけど量があり過ぎて困ってるんですって。人助けと思って貰ってやってくれないかねぇ」
「戴いて宜しいんですか?」
「どうぞ、どうぞ。想ちゃんの分もね。遠慮なく持って行って」
「嬉しい。助かります。最近、お野菜が高くなって。この子、意外と野菜が好きなんで頂けるなんて本当に助かります」
「そうかい。野菜好きなの。想ちゃん。いっぱい持って帰ってね」
 それでも最後の遠慮をしている愛梨を気遣って、真由美さんは僕を見て言った。
「あんたが黙ってちゃ、愛梨さんも取りづらいじゃないか。ボーっとしてないで何か言ったらどうなんだいッ」
「あーっ。済みません。どうぞ、どうぞ。遠慮なく幾らでも。何なら、この箱ごと持って帰って貰っても構いませんから」
「そうですかぁ。それじゃぁ、遠慮なく」
 愛梨、野菜を物色し始める。
             *
「本当に好いのかい。それっぽっちで」
 真由美は、ちょっと不服気に愛梨が取り分けた野菜を見ながら言った。
「ええ。本当に十分戴きました」
「そうかい」
 太極拳体操が終わり、参加メンバーが広場から出始めた。
 その時、公園脇の道路が子供たちの声で賑やかになった。
 近所にある保育園、すくすく広場の園児たちによる朝のお散歩だ。
 前後を保育士さんに守られた十人ほどの子供たち行列。
 六人は二人一組で手を繋いで歩き、残りの四人は特大の乳母車に乗っている。
 一行が公園の入口に差し掛かると行列は止まり、太極拳体操を終えて広場から出て来たお年寄りたち数名と会話し始めた。
 純太、真由美、愛梨の三人は、その様子を眺めた。
「皆さん、何だか楽しそうですね」
「『孫ロス』だよ」
「真由美さん。『まごロス』って何ですか?」
「あんたの『台湾ロス』と同じだよ。パンデミックで孫に会えない年寄りが増えているからねぇ。ああやって、ジジババの心の渇きを解消してんのさ」
「『孫ロス』って、そのロスのことですか。初めて聞きました」
「初めても何も、あんたが言う『台湾ロス』を文字って『孫ロス』を作っただけだよ」
 純太、苦笑。
 ほのぼのした光景である。
 キジトラの奴がまた、ミャーオと鳴いて身体を伸ばした。
 そして飛び跳ねると想が乗る乳母車へダイブした。
「キビ助ッ」
 純太は慌ててキジトラの奴の動きを封じようとしたが叶わなかった。
「キャッ、キャッ、キャッ」
 身を乗り出し、テーブル腰に乳母車の中に目をやると、想とキジトラキャットはじゃれあって遊んでいた。
「どうも済みません。こらッ。キビ助っ」
 そう言いながら愛梨の顔を見ると、彼女は浮かない表情で保育園児たちの様子を見つめていた。

「どうかしたのかい?」
 真由美は、愛梨を気遣うように話し掛ける。
「何か心配ごとかい?」
 愛梨、曖昧な微笑で真由美さんを見ながら言った。
「保育園。空かないから…」
「うん?」
「…」
「待機中なのかい?」
「はい」
「困ってそうだねぇ?」
 愛梨、気の抜けたように笑う。
「あたし。シングルマザーなんです。離婚して。パートの掛け持ちで想を育ててます」
「そりゃあ、大変だ。元のご亭主は、養育費をちゃんと送って着ているのかい?」
「時々。当てになりません」
「それでコールセンターの仕事を?」
 今度は僕の顔を見て、愛梨は頷いた。
「よくしてくれる先輩がいて。社員登用へ推薦してくれたんです」
「良かったじゃないか。それなら安心だねぇ」
「でもまだ、返事ができなくて」
「なんでだい?」
「社員になると先ず本社勤務になるみたいで。そうなると保育園に想を預けないと、なかなか難しんです」
「会社で子供を預ける施設は無いんですか?」
「一応あって。今の職場でも利用してはいるんですが、このままずっと預けるにはちょっと不安があって。子連れで通勤するのも気が引けて。ちょっと思案してます」
「そうだねぇ。保育園が決まらないとしんどそうだね」
「待機待ちって目途は?」
「三か所申し込んでいるんですけど、どこも満杯で。空きの目途はついてません」
「…」
「…」
 愛梨、笑顔を二人に向ける。
「まぁ。何とかなりますから。心配しないで下さい」
 愛梨は、想ちゃんの膝の上にいるキジトラの奴を抱きかかえるとテーブルの上に置いた。
「そろそろ行きますね。お野菜。ありがとうございました」
「とんでもない。想ちゃんと召し上がって下さい」
「はい」
「何かあったら言うんだよ。余り力にもなれないけど、話すだけでも気が晴れるから」
「ありがとうございます。たまにそうさせて頂きます」
「ここか、店に居るから。気軽においで」
「はい」
 愛梨は想を乗せた乳母車を押して、その場から立ち去った。
 僕らは親子を見送る。
 そして、僕はポツリと言った。
「みんな。それぞれ何かを抱えてるんですね」
「そりゃあ、そうさ。生きている以上、誰にでも何かあるさ」
 真由美は、マジマジと純太の顔見て言った。
「比較的呑気なのは、あんたとキビ助くらいのもんさ」
「えっ。ひどいなぁ。俺だって、まぁ、色々とありますよ」
 苦笑いしながら立ち上がろうとする真由美。
 そんな彼女に誰かが声を掛けた。
「真由美さん」
「おやっ。仁美さん」
 彼女の名前は長野仁美。
 真由美さんの小学校の同級生で、愛梨が申し込んでいる保育園の裏に住んでいるらしい。
「太極拳の方は終わったのかい?」
「さっきね。最近、朝ここでよく見かけるねぇ」
「中国語のレッスンだよ」
「中国語?」
「この人が先生」
 真由美さんが僕を指さすと、仁美と一緒にいたもう一人が純太を見る。
「あ、あぁ。二宮と言います」
「へぇー。若いのに偉いね」
「はい?」
「中国語、話せるなんて。凄いよ」
 他の二人も感心したように頷く。
 富富の鳴声。
「えっ。犬。どこ?」
 三人は辺りを見回すが犬の姿はない。
「あぁ。ここです」
 ノートPCの画面にドアップされて映る富富の顔を純太は指さした。
「どこの犬?」
 怪訝な表情でそういう仁美の目の前に、富富を抱いた老板が顔を見せた。
『ニーハオ』
「えっ。真由美ちゃん。誰だいこの人?」
「老板さんだよ」
「老板。珍しい名前だけど、何で中国語の挨拶なんだい?」
「だって台湾の人だからねぇ」
「えっ。台湾人?」
 二人、再び純太に注目。
「あぁ。ビデオ通話です。現在これ、台北と繋がってまして」
「台北。台北って台湾の首都のことかい?」
「よくご存知ですね。台北に行かれたことはありますか?」
「観光で一度だけ。そんなに詳しくないわよ。でも、真由美さんの亡くなったご主人、確か台湾出身よね」
「えっ。真由美さん。本当ですか」
「まぁね。義父が向こうで先生をしてたらしくてさ。亭主、あっちで生まれたんだよ」
「真由美さんのご主人、湾生の方だったんですね」
 湾生。
 戦前に台湾で生まれ、終戦を機に日本に引き上げて来た人をそう呼ばれている。純太は言葉として知っていたが、こんな身近で出会うとは思って見なかった。
「でも真由美さん、ご主人と結構歳が離れてますか?」
「17歳違うかね。うちの主人、生きていれば95歳だから。あたし、今年で78歳になったよ」
「…」
『真的。真由美先生。七十八歳嗎?』
「老板。対、対」
『看起来年軽…』
「えっ。老板さん。何?」
「お二人とも若く見えるって言ってます」
「そうかい。老板さんも若く見えますよ。でも、そう言ってもらえると、嬉しねぇ」
 真由美、ぶっきらぼうにそう言って微笑む。
 眠そうにしていたキジトラの奴が、富富に向かってミャーオと吠えた。
 それに応えるかのように富富が吠えた。
 その様子を見ていた仁美、感心したような表情で言った。
「向うでも犬はワンワンと吠えるんだねぇ」
「妙ちゃん。犬の鳴声なんて日本も台湾も変わりないよ」
「中国語っぽのかと思ったけど、日本と同じなんですねぇ」
「…」
「ちょっと安心した」
 仁美、屈託なく笑った。
             *
 夕方近く。
 坂本園。
「さっき仁美さんからメールが着てね。一緒にいたもう一人と中国語を習いたいそうなんだけど良いかい?」
「あぁ。別に構わないですよ」
「そうかい。それじゃあ、仁美さんに返事しとくよ」
「いつからですか?」
「勿論。明日からだよ」
「えっ」
「ダメなのかい?」
 真由美、問答無用の眼差し。
「い、いいえ。問題ありません」
 純太はお茶を啜った。
 店のドアが開く。
 愛梨が想を抱っこして立っていた。
「おや。いらっしゃい。仕事の帰りかい?」
「はい」
「お疲れ様。まぁ、ここに座って。ゆっくりしていきな」
 眠そうにしていたキジトラの奴、徐に立つとテーブルを飛び降りると愛梨に駆け寄り彼女の足元をグルグルと回った。
 想はキジトラの奴を見つけるなり、意味不明の言葉を発しながら手を伸ばしている。
 愛梨が椅子に腰掛け、隣の椅子に想を座らせると彼の膝の上をキジトラの奴が占拠した。
「お野菜。ありがとうございました」
 愛梨、純太の前に二つ、真由美の前にも同じ紙袋を置いた。
 紙袋の中身はどうやらお菓子らしい。
「お礼したくて」
「こんなに気を使っちゃダメだよ。今回はありがたく頂戴するけど、これからは止めなね。キリが無いよ」
 真由美はそう言って、袋を受取った。
「そうですよ。僕だって助かってるんですから。ところで僕には何で二つあるんですか?」
「一つは二宮さんへ。もう一つは、二宮さんのお母様へ」
「あぁ。母の分まで気を使って頂いて。ありがとうございます」
「そうそう。あたしもね、あんたのお母さんにお返しと思ってたんだよ」
 真由美は用意していた紙包を紙袋に入れた。
「うちのお茶で申し訳ないけど。お母さんに宜しくお伝えしておくれ」
「真由美さんこそ。今後、こういうのは無しにしましょうね」
「おや。そうだったね」
 三人、笑う。
 想が純太の袖を引っ張った。
「えっ。想ちゃん。どうしたの?」
 意味不明の言語発生。
 だが、どうやら想は純太の膝に座りたいらしい。
「想。ダメよ。おじちゃんの膝の上なんて」
 …えっ。おじちゃん…
 想は愛梨の静止も聞かず、身体をモグモグ動かしながら純太に接近。
 キジトラの奴は、不機嫌そうに床へ飛び降りる。
「あぁ。別に構わないですよ」
「で、でも…」
 純太は想を抱き上げると自分の膝の上に座らせた。
「もう。この子ったら。意外と人見知りなところがあるんですけど。二宮さんのことはお気に入りみたいで。済みません」
 想、上機嫌。
 …従妹の子供を抱っこした時以来かな…
 乳臭い子供の感触を新鮮に感じながら、純太は同時に心地よさも楽しんだ。
 床の上をフラフラ歩き回っていたキジトラだったが想の姿勢が安定すると、ぴょいと飛び上がって想の膝の上に乗った。
 キジトラの奴の重みが、ズドンと純太の膝に伝わる。
「おや。好い感じだねぇ」
 真由美、スマホを取り出して構える。
「今日のネタが無かったんだよ。一枚、撮らせてもらうよ」
「えっ」
「愛梨さんも寄って。一緒に撮るよ」
 愛梨は純太の隣に座り直した。
「ほら。もう少し身体を寄せて。はい。撮るよ。ハイ、チーズ」
「…」
「…」
「もう一枚ね。笑って。ハイ、チーズ」
 シャッター音。
 真由美は、撮った写真を空かさずSNSにアップした。
「毎日アップするのも大変だよ。今日はこれでオッケーだけどさ」
 上機嫌の真由美さん。
そんな彼女とは対照的に、坂本園のSNSを見た純太の脳裏を嫌な予感が走った。
             *
『純太。この写真、何?』
 ビデオ通話の向う側でサミーが怒っている。
「えっ。あぁ、これ?」
『この女の人。誰?』
「愛梨さん…」
『この子。誰?』
「この子は愛梨さんの息子…」
『純太の子供?』
「ち、違うよ。勘違いするなよ」
『家族みたいな写真』
「たまたま。たまたまだって。家族とかじゃないから。誤解するなよ」
『誤解って。何?』
「いや。だからさぁ…」
 純太はこの後、延々とサミーをなだめ続けるのだった。
             *
 どうにかサミーのご機嫌を治してビデオ通話を終えてホッとしたのも束の間、今度は母親の佐和子が純太に電話を掛けて来た。
「母さん、こんな時間にどうしたの?」
「見たわよ。写真。綺麗な女の人じゃない」
「ええっ?」
「あなたも、やっと女性へ目が向くようになったのね」
「あぁ?」
「ゲイでも女性と結婚している人もいるみたいだし」
「彼女は違うって」
「連れ子だって好いわよ」
「母さん…」
「病気だなんていう人もいるのよ」
「ゲイは病気じゃないから」
「解ってるわよ。病気だなんて。あり得ないわよ。個性。純太の人格だもの」
「…」
「でもね」
「でも、何?」
「こんな写真を目にするとね…」
 純太、返す言葉が見つからない。
 ふとサミーと一緒に撮った写真を見て、純太は言った。
「母さん?」
「…」
「こんな時に何だけどさ、僕には、サミーって恋人が居る」
「知ってるわよ」
「彼を愛してる」
「知ってる。太太からも、老板さんからも。その人の素晴らしさも聞いてる」
「…」
「サミー。その人が純太をどれだけ愛しているかも聞いてる」
「うん」
「色々勉強して。太太や老板さんにも相談して。理解して。純太は、あたしの子供だから。ちゃんと受け入れようって心に決めて。でも…」
「でも?」
「こんな写真を見てしまうと心が揺らぐのよ」
「…」
「ダメよね。あたしも、まだまだわ」
「母さん。ゴメン」
「何で謝るの?」
「俺、母さんを苦しめてるし…」
「違うわよ」
「…」
「葛藤」
「葛藤?」
「違う価値観を理解して許容する瞬間には葛藤がつきものでしょ」
「母さん…」
「葛藤の先にハッピーがあるのよ。だから純太は自分に正直に生きれば好いの」
「うん」
「ねぇ」
「何?」
「サミー」
「サミー?」
「そろそろ会わせなさい。こんな状況だから仕方ないとは言え、彼の件であたしとちゃんと向合おうとしないのはダメよ。パンデミックを言い訳にして先延ばしするなんて純太らしくないわよ」
「母さん…」
「太太や老板さんとか、色々な人からサミーって人のことを聞く内に会って直接話をしてみたいと思ったのよ。だからちゃんと機会を作ってね」
「わかった。そうする」
「あら。こんな時間なのね。もう寝るから」
「母さん」
「なぁに?」
「ありがとう」
「おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
             *
 純太が住んでいるマンションの通りを隔てた対面にコンビニがある。
屋外の一画が喫煙スペースになっていて、純太の部屋からそこがよく見えた。
 仕事の合間。
 何気なくその喫煙スペースを眺めていた純太の目に愛梨の姿が目に留まった。
 …へぇー。愛梨さんタバコ吸うんだ…
 傍らに想を乗せた乳母車。
 彼女が煙草を吸う姿を初めて目にしたが、出会う時には必ず想ちゃんが居たから吸わないようにしていたのかもしれな。
でも今は他に吸っている人も居ない屋外だから、息抜きの一服なのだろう。
ところがそこへ、一人の男性が現れる。
スーツ姿の男は愛梨から少し距離を置いて立ち、煙草を吸い始めた。
 …愛梨さん。せっかく気兼ねなく据えたのに…
 愛梨は煙草を吸いながらスーツ姿の男をジッと見つめている。
 …気の利かない奴だ…
 愛梨への同情半分でスーツ姿の男の顔を見て、純太は声を上げた。
「えっ。藤木さん?」
 愛梨は煙草を吸う手を止めて、藤木に声を掛ける。
 藤木も手を止め、愛梨を見る。
 …ありゃー。ちょっとマズくないか…
 なにしろ藤木は砂場事件の張本人。
 想から無理やりキジトラの奴を取り上げ、泣かせてしまっている。
 愛梨にすれば避けたい相手に違いない。
 不必要にハラハラしながら純太は二人の成り行きを見守っていたが、彼の予想に反して事は意外な展開を見せる。
 藤木は煙草を吸うのを止めて、愛梨に近づいて行った。
 片や愛梨、藤木の接近を嫌がるどころか歓迎モード。
 やがて二人は、親し気に話し始めた。
 …えっ。ひょっとして、あの二人…
 その時、部屋のインターホンが鳴った。
 …ちぇッ。こんな時に…
 純太は、渋々部屋を出た。
 部屋に戻って喫煙スペースを見た時、愛梨親子と藤木の姿はもう無かった。
            *
 藤木と愛梨親子は南台公園に居た。
 砂場で想を遊ばせている。
 二人は、遊ぶ様子を見守りながら会話する。

 数日前。
 意気消沈した表情で建物から出て来た愛梨に出くわした藤木は、彼女に声を掛けた。
「あのぉー。顔色が良くない感じですけど、大丈夫ですか?」
「…」
 身構えながら顔を上げ、藤木の顔を見て愛梨は声を上げた。
「あっ。あなたは砂場の…」
「はい。藤木です」
 立ち去る積りの愛梨だったが、藤木の穏やかな笑顔に何故か惹かれた。
「大丈夫ですか。気分が悪そうだけど?」
 大丈夫ですと言いかけて、愛梨は気の抜けた苦笑する。
「難しいみたいです」
 そう言って、彼女は保育園の看板を見つめた。
「空きが出ないんですか?」
 愛梨、頷く。
「柏木さん。少し、お時間ありますか?」
「えっ?」
「公園で少し、話しをしませんか?」

 いつの間にか現れたキジトラキャット。
 想の傍らに寄り添っている。
 一方、想はキジトラに砂を掛けたりして遊んでいる。
「あの時、本当は断られるかなって思いながら誘ったんですよ」
「やっぱり?」
「予想外の展開だったんでちょっと驚きました」
 二人、和やかに笑う。
「保育園。三か所とも難しいって言われて。あそこが三か所目だったの。何だか目の前が真っ暗になって、途方に暮れちゃって。誰かと話したいなぁって切実に思っていた時だったから。嬉しかった」

「ブランコにでも乗りませんか?」
 藤木は、公園に入るなり彼女に言った。
「えっ?」
 ベンチでの会話かなと思い込んでいた愛梨にとってブランコの提案は意外だったが、同時に新鮮でもあった。
 藤木は飄々とした足取りでブランコへ向かう。
 決して強引では無いのだが、包まれるような誘導に彼女の心は和らいだ。
「この時間帯の公園って意外と人が少ないんですよ。だから好い年した大人がブランコに乗っていても変な目で見られずに済むんですよ」
 隣りのブランコに腰掛けた藤木は呑気に話し続けた。
「俺、仕事とかで煮詰まった時や面白くない事に出くわして気分が塞ぎ気味になった時なんかに時々、ブランコに乗りに来るんですよ」
 藤木の話を聞きながら愛梨は、周りの景色を見た。
 公園を囲む樹林が灼熱の日差しを遮ってくれているお陰で、園内は真夏にも関わらず涼しく快適だった。
「ブランコって、腰掛けていると自然に体が揺れるじゃないですか。気まぐれなフラフラに身を任せて空とか見ていると、いつの間にか頭の中が空っぽになる感じがして気分が楽になれるんですよ」
「…」
 本当なのって、そんな顔つきの愛梨。
 ふと彼女が隣の藤木を見ると、自分に顔を向けた彼と目が合った。
「コツがあるんですよ」
「コツ?」
「最初に目を瞑るんです。身体は動かしても、動かさなくても好い。自然のまま身を任せていると、周りと一体になれるような感覚になれますよ」
 彼女は目を瞑った。
 蝉がジリジリと鳴いている。
 次第に感覚が鋭敏となっていくのが解かった。
 空気の流れ。
 木陰の涼しさの中にも混じる熱風の揺らぎが肌に伝わる。
「好きな時に目を開いて、空を見ると好いですよ」
 愛梨は言われるがまま、ゆっくりと目を開いた。
 気まぐれに吹き抜けた微風が、木々の枝が揺らす。
木漏れ日に照らされて、キラキラと輝くが深緑の葉々。
 枝の切れ目に顔を覗かせる夏空に白い入道雲が浮かび、ゆっくりと流れていた。
 愛梨の強張った心が緩んだに違いない。
 無意識のうちに彼女は、涙を溢れさせながら泣いた。
 ひときしり泣き続けて涙を拭い、愛梨は隣りの藤木を見た。
 彼もまた、ぼんやりと夏空を見つめていた。

 キジトラキャットは四肢で立つと、全身を大きく震わせて毛の間に入り込んだ砂を飛び散らした。
 突然の振舞いをキョトンと見ていた想の表情は飛び散る砂が顔に当たって驚くそれへと変わり、やがてハプニングを楽しむ笑顔へと変わった。
「話をしましょうって誘われた割には、余り話さなかったのよね」
「そうですね。でも気分がスッキリした顔になってましたよ」
「あんなに涙を流したの久しぶりだったから。お陰でスッキリしました」
「感情が閉じちゃってる時って、泣けるけど涙は出ないものです。笑ってるけど、心の底から笑えないのと同じです」
「涙が溢れ出しちゃって止められなかった」
「感情が開いたからですよ」
 想とキジトラキャットは相変わらずじゃれあっている。
 愛梨は穏やかな眼差しで想たちを見つめた。
「何一つ解決していないし、問題の原因が取り除かれてた状況じゃないんだけどね。でも、気分は楽になれました」
 想が愛梨に抱き着いた。
「もう。砂まみれじゃない。お家に帰ってお風呂に入ろうね」
 そう言いながら彼女は、息子を思いっきり抱きしめた。
 想にフラれたキジトラキャット、仕方なく藤木にスリスリ。
 藤木はそんなキジトラの頭を指先で撫でると、気持ち好さそうにニャーとひと鳴き。
「好いアイディアを思いつきました」
 突然そう言う藤木を、愛梨は小首を傾げながら見た。
「ちょっと用事を思い出しましたので、今日はこの辺で」
「えっ。えぇ…」
「想ちゃん。じゃあ、またね」
 キジトラキャットを抱え、想とハイタッチを済ませると藤木は立ち上がり、そそくさった行ってしまった。
「変な人ねぇ…」
 愛梨は苦笑混じりにそう言って、藤木の背中を見送った。
             *
「はぁ~」
 浮かない表情で真由美さんは溜息を漏らした。
「おや。珍しいねぇ。真由ちゃんが溜息なんて」
 仁美は、少しからかうような表情で言った。
「どうかしたんですか?」
「別に何でもないよ」
「イー、アー、サン、スー」
 太極拳体操の掛け声は、今朝も健在だ。
「でも、気になるねぇ」
「顔色も良くないし。熱とかあるんじゃないの?」
 仁美が真由美の額に手を近づけるが、真由美はやんわりと躱す。
「熱は無いよ。あったら、ここに来ないさ」
 真由美は辺りを見回した。
 …流石に居ないよね…
 内心そう思い、ホッと一安心。
 …それにしたって藤木の奴。一体どういう積りなんだい…
 数日前から、頻繁に藤木が顔を出しは頼み事をしてくる。
 …想ちゃんを預かってくれって、うちは託児所じゃないんだ…
 毎日来ては、ノラリクラリの押しで真由美にウンと言わせようとする。
 しかもその上、どうしたものかキビ助が掌を返したように藤木に懐いているものだから始末に負えない。
 藤木は懐柔したキビ助をダシに坂本園に顔を出すのである。
「真由美先輩。本当に大丈夫ですか?」
「煩いねぇ。あんた達。太極拳。行かなくて良いのかいッ?」
「だって今日から中国語のレッスンじゃないか。遅刻しちゃねぇ」
 仁美と真央、互いを見て頷く。

 長野仁美。
 66歳の元保育士で、二年前まで妙子さんの裏にある『おひさま保育園』に勤めていた。庭の柿を取ろうと脚立に昇り、うっかり落ちて腰を痛めて保育園を止めた。
 惜しまれつつの円満退社だった。
 長男の嫁の果林とはソリが合わない。
 嫁と姑の対立のモデルそのものである。
 長男にできた初孫の裕英(今年、四歳)を溺愛しているが、パンデミックの関係で会えずにいる。
 …隣町に住んでるのに何で会えないのよ…
 果林の策略に違いないと仁美は疑っている。

 鈴木真央。
 72歳。
 大学を卒業後、地銀に入行して60歳の定年退職まで勤め上げる。現在、ご主人が経営するコンサルティング会社の経理を預かっている。
 卓球が趣味。
 真由美が所属する卓球クラブの会員だ。
付き合いは長いらしいが、先輩後輩の間柄でもないのに真由美を『先輩』と呼んでいる。

「レッスンは体操の後からじゃないか。サボっちゃダメだよ」
「今朝は、腰の調子が良く無いのよ。明日から、気を引き締めて頑張るわよ」
 仁美、しれっと言い訳。
「あたし。昨日の夜、旦那と家飲みしたのよ。それで今朝、寝坊。遅刻で気が引けるからこっちに来ちゃった。明日から気をつけるわ」
「あんたたちときたら…」
 真由美が何気なく視線の先を広場に向けると、妹の江津子と何となく目が合う。
 遠目にも妹の眉間に皺が寄っているのが分る。
真由美は、惚け顔で視線を逸らした。
「太極拳体操。明日の朝からは、ちゃんと出席してね。妹に叱られるのは、あんた達じゃなくて、あたしなんだから」
 そう言って釘を刺す真由美を、二人は苦笑い。
「ねぇ。二宮先生って、お幾つ?」
「三十過ぎよ」
「独身なんですって?」
「そうね」
「割とイケメンよね?」
「そうねっ」
「彼女とか居るのかしら?」
「そ、う、ねッ」
「居そうよね」
「あんた達に関係ないでしょう」
「そんな、怒んなくたって…」
「この人。昔から短気なのよ」
「何か気に障ること言った?」
「先生が、三十過ぎの独身でイケメンでも、あんた達には関係無いのッ」
「確かに関係は無いわよ」
「そうよ。若いんだし。こんなお婆ちゃんたちに興味無いわよ」
「それに、この歳で迫られてもねぇ。困っちゃうわよ」
「…」
「あら。真央さんなら大丈夫ですよ。卓球やってて体力あるし」
「そんなこと無いわよ。仁美ちゃんだって、この中で一番若いじゃない」
「でもねぇ。あたし、腰傷めちゃってるし。やっぱり、仁美さんじゃない?」
「えっ。どうして、あたしなの?」
「仁美さん。こうして見ると一番美人よ」
「そうですか?」
 照れる、仁美。
「困るわ、それって。うちの亭主、まだ元気だし」
「ストップ」
 真由美、一喝。
「…」
「…」
「平均年齢71歳がなに妄想してんだい」
「えっ。72歳よ」
「流石。元銀行員」
「あたしも電卓で計算したけど、72歳が正解ね。計算早いッ」
 真由美、つくづくイライラ。
「良いかいッ。ここは勉強の場なの。ナンパ会場じゃないんだからね。それに、二宮先生は絶対にあんた達に振り向かない」
「何でよ」
「そこまで言わなくて良いじゃない」
「誰にだって夢を見ることは邪魔できないすよ」
「あのねぇ」
「イー、アー、サン」
 太極拳体操の掛け声がBGMのようにコダマする。
「二宮先生はゲイだから独身なの。結婚したくても、この国に同性の結婚を認める制度がないからしないの。彼女じゃなくて彼氏が居るの。彼氏はサミーと言って、海の向こうの台湾に居るの。先生もイケメンの部類だけど、彼氏のサミーもイケメンなの。パンデミックで二人は会えないけどラブラブなの。だからあんた達、つまらない妄想に走らないで、中国語のレッスンに集中しなさい。良いわねッ」
 そこへ純太が現れた。
「あれっ。皆さん、お揃いですか。でも、早いですね。太極拳体操、まだやってますよ」
 何だか気まずいような、しれっとした空気が漂う。
「あー、どうかなさいました?」
「良いの。気にしないの。初レッスンで緊張してんのよ。この人たち」
 三人は訝し気に純太を見つめ続ける。
「えっ。でも、何だか…」
「ちょっと早いけど揃ってるし。レッスン、始め…」
 真由美を遮り、妙子が口を開いた。
「先生。ちょっと伺いたいことがあるんだけどねぇ」
 妙子、何だか怖い。
 他の二人も大同小異の怖さ。
「は、はい。何でしょうか?」
「単刀直入に聞くけどねぇ」
「はい」
「先生は女に興味が無いの?」
 静寂。
「イー、アー、サン、スー」
 静かに響き渡る太極拳体操の掛け声。
 機械音なにの、何故か興味本位の意志をその中に感じさせる。
「どうなんですか?」
「ハッキリさせましょう」
 純太は三人の顔を一様に見ると、静かに言った。
「はい。僕はゲイ。つまり同性愛者です。問題ありますか?」
「…」
「…」
「もし不愉快に感じられるのなら、レッスンは止めにしましょう」
 三人は押し黙り、やれやれと言った顔つきで真由美は他所を見ている。
 沈黙が続く中、純太がノートPCを仕舞い掛けていると藤木が現れた。
「あのー。皆さん。おはようございます」
 藤木の声に真由美が、ビクッと反応して彼の顔を見た。
「な、なんだい。こんな所にまで現れて」
 藤木、曖昧な微笑。
「実は、例の件でお願いに…」
「何度も断ってるだろう」
「そこを何とか」
「しつこいよ」
「人助けだと思って」
 それまでの重い空気が一変。
「人助けって何ですか?」
「えっ。こちらの方は?」
 純太が二人を紹介した。
「こちらは長野仁美さんで、一番左側の方が鈴木真央さん。皆さん、真由美さんのお友達で中国語レッスンの生徒さんです」
「藤木と申します。NPO法人の代表を務めています」
「おや。動物愛護かい」
「はい」
「動物愛護ってお金になりますの?」
 真央、好奇心満々。
「まぁ、やり方次第で。最近は、家出ペット探しが多いです」
「家出捜索。探偵さんみたいね」
「はぁ…。当たらずとも遠からずですか。それが縁で坂本さんを知りまして」
「あんたなんか知らないよ」
「真由ちゃん。今度は何に怒ってんだい?」
 真由美はソッポを向いた。
「実は、真由美さんもよく知っておられるお子さんが保育園の待機児童でして」
「あら。保育園。入れないんだ」
 数年前まで携わっていた業界だけに、仁美の喰いつきは他の二人よりも良い。
「そのお子さんの母親、シングルマザーなんですがコールセンターのパートをしながら必死に育てていらっしゃるんです」
「おや。大変だねぇ。コールセンターだけじゃ食べていけないんじゃない?」
「そうなんです。他にも幾つかのパートを掛け持ちされて」
「気の毒だねぇ」
「最近、コールセンターから社員にならないかって打診されてまして」
「おや。良かったねぇ。勿論、受けるんだろう?」
「それが、そうすんなりとはいかなくて」
「あら。どうして?」
「色々と事情があって。保育園が決まってくれないとYESと返さないんです」
「まぁ、最近はねぇ。どこの保育園も人手不足でねぇ」
「それであんた、真由ちゃんに預かれないかってお願いしてんのかい?」
「はい」
「真由美さん。難しいの?」
「犬猫じゃないんだよ。もし万一、子供に何かあったらどうするんだい。責任持てないよ」
「どうして坂本園なんだい?」
 藤木はテーブルの上で居眠りしているキジトラの奴を指さしながら言った。
「その猫。想ちゃん、あぁ、そのお子さんの名前が『想』というんですが、想ちゃんにとても懐いていまして。坂本園が良いかなと」
「ウチは客商売だよ。商売に差し障りが出るじゃないか。猫の世話だけで精いっぱいなのに他人様の子供まで面倒見切れないよ」
「坂本園って、そんなに忙しかったっけ?」
 天然ボケの純太をキッと睨みつけると、真由美は言った。
「あんたは余計なことを言わなくて良いんだよ」
「真由ちゃん。先生の言う通りだよ。坂本園、どう見ても暇な店だよ」
「ちぇッ」
「ねぇ。何だったらあたり、坂本園で面倒見ても良いわよ」
 全員の視線が仁美に集中した。
「そうねぇ。それ、良いかもしれない」
 真央に続いて妙子も賛同した。
「そりゃあ、あんたは適役だよ」
「えっ。適役って何ですか?」
「この人ね。二年前まで現役の保育士だったんだよ」
「そうなんですか?」
 藤木の目に輝き。
「腰傷めちゃって辞めたんだけどね。それが無かったら、今も続けたかな」
「ずうっと預かるってわけても無いんだろう?」
「はい。多分、長くても数ヶ月。保育園の空きが出るまでで構いません」
「真由ちゃん。良いだろう。あたし達も手伝うから。一肌脱いであげなよ」
 真由美、三人をギラッと睨む。
「先輩、そんな怖い顔しないで」
 真由美、溜息をつく。
「わかったよ。良いよ。一肌脱ぐよ。但しあんた達、逃げたら承知しないよ」
「ありがとうございます」
 藤木は挨拶もそこそこに走り去った。
 そして程なくして愛梨の手を引き、想を抱っこして戻って来た。
 全員が唖然と見守る中、藤木は愛梨に言った。
「保育園の空きが見つかるまで、ここに居る皆さんが坂本園で想ちゃんを預かってくれることになりました」
「えっ。ええ?」
 愛梨もまた、唖然とした表情で藤木を見た。
 藤木、ただニコニコ。
 妙子が真由美を突いた。
 真由美は彼女をチラ見すると、即されて言った。
「愛梨ちゃん。困ってんだろう。保育園が決まるまで、想ちゃんはウチで面倒見てあげるから安心おし」
「真由美さん…」
「社員の話。早く返事しないと他の人に持って行かれるよ」
             *
 純太は真由美から昼食を誘われた。
 お昼のピークは外れた時間帯だったからほどよく空いていた。
 注文したパスタを真由美は、浮かない顔つきで待ち続けた。
「結局。今日はレッスンできませんでしたね」
「うん…」
 生返事。
 どうも普段の真由美と勝手が違う。
「どうかしました?」
 溜息を漏らし、彼女は言った。
「ごめんね」
「はぁ?」
「今朝のことだよ。あの三人。あんたが来る前に、あたしが余計なことを言っちゃったもんだから。気を悪くしたろう?」
「僕がゲイだってことですか?」
「あたしが言う事じゃなかったよ。本当にごめんなさいね」
 純太は苦笑いしながら言った。
「別に気にしてませんよ。そんなに謝らないで下さい。それに…」
「それに?」
「レッスンを始める前に言おうと思ってましたから」
「えっ?」
「隠すの止めたんです」
「大っぴらにしてるのかい?」
「はい」
「昔からかい?」
「いいえ。割と最近ですね。サミーと付き合い始めたのが切っ掛けでした」
「ふーん」
「隠して生活するのって、身も心も結構消耗するんですよ。面倒くさいなぁって感じる事は多々あったんですが、オープンにして生じる厄介ごとも嫌だなって。ゲイですって顔に書いてあるわけでもないし、静かに暮らしていれば波風も立ちませんからね。外見もこんな感じですから女性から好意を持たれることもあるけど、ノラリクラリと逸らして誤魔化せば回避できるし。でも、サミーと台湾で出会って付き合うようになって、考え方が一変しちゃいました」
「一変?」
「台湾って割とオープンというか気にしないんです」
「そうみたいだねぇ。同性婚も認められてるんだろう?」
「よくご存知ですね」
「最近、あんたと知り合ってから、あたしも少しは勉強したよ」
 二人、笑い。
「向こうで一緒に生活してた時、凄く楽だったんですよ。周りの目も余り気にならないし。自分らしく生きるっていうと大袈裟ですけど、隠さず生きてみて初めてある事に気づかされたんです」
「?」
「案外、自分で自分自身を傷つけて生きていたんだなぁって」
 純太、苦笑。
「隠すのってある意味、究極の自己否定ですから。日本に居た時は、全然そんな風に考え無かったけど、そうだよなって気づかされて腑に落ちてしまったわけです」
「それで隠すのを止めたのかい?」
「はい」
「でも、日本では大変だったんじゃないかい?」
「日本だからってことは無いと思います。何かを変える時って、良い悪いに関わらず何かと起こるじゃないですか。最初の一言を発するまではドキドキしてたけど、いざ口にしてしまうと何でもなくなる。そんな感じでした。実際、行動に移して色々と発見もあったし」
「発見かい?」
「勝手に思い込んでた『拒絶』とか『孤立』が、案外無かったとか」
 純太は呑気な様子で話しを続けた。
「勝手に妄想して怖がってましたしね。でも怖がってばかりだと何も変わらない。それで新しい出会いがあった時、真っ先に自分のセクシャリティを伝えることから始めました。最初に言うってところがポイントで、このタイミングを逃しちゃうと、人間関係が濃密になって行く程、嘘を重ねることになりますからね。嫌な人はそれ以上寄ってこないし、気にしない人だけが僕の周りに残るわけです。」
「なるほどねぇ。隠し続けるのも辛いだろうね」
純太は笑って答えた。
「慣れると辛くも無いですよ。それが習い性になってますから。でも、その相手と深く関われなくなる。無意識に距離を置いちゃうし、感情も抑制するのが当たり前となって。結果として相手との距離が縮まらない。喜怒哀楽を素直に顔に出すっていう行為も案外苦手となるから益々距離が縮まらない。もっとも、その頃は苦手ってことの自覚すら無かったですから。でもサミーと付き合うようになってから無自覚だった課題が色々見えだしてきて。素のままに生きるのがこんなに気楽だったんだって、しみじみと実感しました」
 二人、和やかに笑う。
「とても気楽な生活を送れるようになりました。多分、昔よりも、今の方が人生エンジョイできているような気がします」
 だから純太の表情に不自然な力みが無いのかと、真由美は思った。
「本当は、こんなこと考えなくても気持ちのままに恋愛できる世の中になってくれれば、もっと楽なんですけどね」
 純太、苦笑い。
「カミングアウトっていうのかい。やっぱりした方が良いのかね?」
「それは、人それぞれじゃないですか。良し悪しあるし。事情や都合もあるし」
「難しいねぇ…」
 純太は和やかに笑いながら真由美に答えた。
「難しくは無いですよ。ただ、LGBTであることすらが、人生をエンジョイできる選択肢の一つとなる、そんな世の中になってくれれば好いかなぁとは思いますね。でも、先ずは自分から。手探りながら進んで行ってますよ」
 純太に対して自分にできること、それが何だろうと真由美はふと思った。
「あしたさ」
「はい?」
「明日の朝、レッスンしてくれるよね」
「…」
「…」
「もちろん。今朝が飛んじゃいましたから。その積りでいますよ」
「あの二人も…」
「真由美さん」
 純太は彼女を真直ぐに見つめて続けた。
「無理強いはダメですよ」
「…」
「楽しくなくなりますからね」
 注文したパスタが二人の前に置かれた。
「僕たちのパスタと同じですよ」
「パスタかい?」
「僕と真由美さん。注文したパスタ、違うでしょ。食べたいメニューを強制されたら美味しくないじゃないですか」
「そうだね」
「習いたければ来るだろうし。まぁ、来なかったとしても、真由美さんが習ってくれる限りはレッスン続けますよ」
「ありがとう」
「さぁ。冷めないうちに食べましょう」
             *
 夜。
 サミーはウキウキしていた。
「サミー。何か良い事があった?」
『うん。あったよ』
「どんなこと?」
『後でね。それより純太、元気ないね。どうした?』
「判る?」
『冴えない顔してるからね』
「大したことじゃないんだ」
『隠し事は無しって約束だろ』
「そうだね」
 小さな隠し事が積み重なって疑心暗鬼が生じたことがあった。
 それ以来、僕とサミーは隠し事をしない約束をした。
 何でも話す、これが意外と遠距離恋愛を長続きさせる秘訣の一つかもしれない。
 僕はサミーに朝あったことを話した。
『うーん。色々あった一日だったんだね。一つは未解決で、もう一つは解決した』
「まぁね」
『未解決の方。気にしてる?』
「そうでもないって言いたいけど。ちょっと引きずってるかな」
『明日の朝が勝負だね。その三人がレッスンに来るかどうか。明日来なかったら、すっぱり忘れちゃうのが良いかな。でも、来るんじゃないの?』
「そうだね」
『純太。考え過ぎないようにね』
「うん。ありがとう」
 子供っぽいところが多いサミーだが、こんな時は頼りになる。
 だから僕は、彼に惹かれているのかもしれない。
「ところでサミーの好い事って何?」
『出張で日本へ行く事になった』
「マジっ?」
『マジ。マジ』
「いつから?」
『来週。そっちへ行くよ』
「やったぁ。会えるね」
『まぁね。でも二週間隔離だから会うのはその後になっちゃうけどさ』
「どのくらい日本に居られるの?」
『一ヶ月』
「ウチに泊まるよね?」
『どうしようっかなぁ。ホテル。結構リッチみたい』
「じゃあ来なくて良いよ」
『拗ねるなよ』
「拗ねてないけど」
『拗ねてるね』
 純太、破顔。
「僕がホテルに行けば好いんでしょ?」
『YES』
 サミー、破顔。
『ホテルと純太の家。どっちに居ても、一緒に過ごせば良いじゃん』
「サミー」
『うん?』
「やっと会えるね」
『うん』
             *
 翌朝。
 純太と真由美は広場を眺めていた。
「イー、アー、サン」
 太極拳体操の掛け声は、いつも通り今朝も健在だ。れ
 だが体操をする面々の中に妙子たち三人の姿は無かった。
 純太も真由美も当然そのことに気づいていたが、敢えて触れることはしなかった。
 体操が終わり解散となって参加者が公園を出始めると、純太はレッスンの支度を始めた。
 すると二人の前に人が立った。
「あっ。妙子さん…」
「先生。レッスン。これから?」
「あぁ。これからですよ」
 真央にそう答えると、仁美が駆け寄って来た。
「ごめんね。遅刻しちゃった」
「大丈夫ですよ。これから始めるところでしたから」
「良かった」
 純太と真由美は、互いの顔を見合わせる。
 そして真由美は彼女達に言った。
「突っ立ってないでサッサとお座りよ。レッスン、始められないじゃないか」
 ぶっきらぼうな言い方だが、笑顔だ。
「じゃあ。始めましょうか」
「あっ。先生。お願いがあるんですよ」
 突然、真央が言った。
「何ですか?」
「先生の恋人。写真見せて」
「真央さん。あんたね、先生に失礼だよ」
「だって。イイ男だっていうから」
「少しは遠慮しなよ」
「まぁ、まぁ、まぁ。喧嘩しない」
「だって真央がさ。失礼だよ」
「気にしてませんから。大丈夫です」
「先生…」
「サミーの写真が見たいんですか?」
「彼氏さん。サミーって名前なんですね」
 仁美、興味津々。
「サミー・ディビス・ジュニアみたいだねぇ」
「真央さん。その人、誰ですか?」
「おや。知らないの。昔の歌手よ」
「米国人。有名よ」
 真央に続いて仁美が言った。
「亡くなって随分と経つんじゃない?」
 三人による無限会話ループが始まりそうになったが、真由美さんが一喝した。
「まったく。あんた達はいつまで喋ってんだい。レッスンが始まらないじゃないか」
 真由美さんの舌鋒が激しかったのか、彼女の脇で眠っていたキジトラが目を覚ます。
 そして、ミャーオとひと鳴きした。
「彼氏の写真。良いですよ。でも、レッスンが終わってからにしましょう。早速始めます」
 顔には出さないが、純太はホッとした。
 …サミーの言った通りになったな…
 その彼にも間もなく会える。
 …日本に着たら、彼女達にもサミーを紹介しよう…
 純太の心は、自然と浮き立った。
             *
 夜。
 SNSを見ていた純太の目が点になった。
「マジかよ」
 真由美さんのSNSに信じられない光景が映っていたからだ。
 それは茶道を習い始めた真由美さんと彼女を始動する母親の写真だった。
「この二人。いつの間に…」
 明日、じっくり問い詰めてやろうと純太はニンマリした。


第6話 You 打疫苗了嗎

「うぉッ。くそッ。あぁぁぁぁぁッ。あーぁ、負けた…」
 純太は悔し気にVRゲーム機のゴーグルを外した。
 ソファーに座ってノートPCの画面を見ると、やはり同じようにゴーグルを外しニヤケながらもドヤ顔のサミーがソファーに座って純太を見ていた。

 ことの起こりは、三十分前。
 いつものようにビデオ通話をしていた純太とサミーだったが、話題がオリンピックの開催とパンデミックの衰えることのない蔓延へと言ってしまう。
 そして必ず…。
『純太。ワクチン打った?(YOU 打疫苗了嗎?)』と。
「残念ながらまだ打ってないよ。接種券は来てるけど、予約が取れなくて。サミーは?」
『日本への出張前に、会社が手配してくれた。二回とも終わってるよ』
「良いよね。大手企業にお勤めの方は。こんな時、フリーランスは弱者だよ」
『でもネットビジネス。今、景気良いじゃん』
「感染者がこんなに増えて来ると、お金より命、ビジネスより健康だよ。今日だって東京の感染者が千人越えたし。こんな状況でオリンピックやるのかな」
『やるんじゃない。日本の総理、意外と頑固そうだし』
「選手に申し訳ないけど、大丈夫なのかって思うよ」
『まだ、打ってない人多いの?』
「高齢者を除けばウジャウジャいるよ。みんな予約とれないって匙投げてるし」
『ふーん』
「それなのに三回目の接種の話まで出てさ。自分が打つ前に三回打ったなんて人が周りで出て来そうで、ちょっと切ない」
『それにしても日本の感染者数、【うなぎ上り】(日本語)だね』
 純太は、クスッと笑った。
『えっ。何が可笑しい?』
「うなぎ上りって、そういう風に使うんだっけ?」
『違った?』
「まぁ、好いんじゃない。あながち間違ってないしさ」
 二人、苦笑。
「何だか話題が暗い方へと行っちゃうね」
『うーん。そうだね…』
 純太は、点けっぱなしにしているテレビを何となく見た。
 オリンピックのメイン会場と開会式の準備模様が流れていた。
「サミーってオリンピックって見る人だっけ?」
『あまり見ないね』
「そうだよね。スポーツとか無縁そうな感じだし」
『そうでもないよ。ジムにはきちんと行ってるよ』
 サミーの細マッチョな身体を、純太は思わず思い出してしまった。
『何を想像してんの?』
「いや。別に…」
『嘘だね。俺の身体、想像してたね』
「してない、してない」
『誤魔化しても無駄だね。目が一瞬、イッた。見逃してないよ』
 サミー、ドヤ顔。
「はいはい。想像しました」
『もうちょい待っててね。毎晩、見せてあげるから』
「アホ」
 二人、和やかな笑い。
「でも、ジムだけでしょう。他にスポーツ、何かやってた?」
『卓球』
「マジ?」
『中学と高校の時にやってた。結構上手いよ』
「そうなの?」
『純太は?』
「中学の時に卓球とバレー。高校はテニス」
『ふーん。卓球。やってたんだ?』
「まぁね。一応、学校のだけどクラブに入ってレギュラーだったよ」
『レギュラーねぇ』
 サミー、どこか挑戦的。
「何だよ?」
『純太。卓球、上手いの?』
「だから、そこそこだって」
『今、勝負しない?』
「しても良いけどさ、今は無理でしょう」
 サミーはVRのゴーグルを見せた。
「えっ。マジ。E卓球?」
『対』
「やりたいの?」
『対』
「今?」
『対、対』
「勝ったら飯おごる?」
『良いよ。でも多分、純太は勝てないからご馳走になるけどさ』
 サミー、挑発発言。

 かくして海を挟んだ卓球対戦が始まる。
 そして結果は、純太の惨敗。

『純太。御馳走様』
「日本で何が食べたいの?」
『懐石料理』
「高ッ」
『ふぐかスッポンでも良いよ』
「似たような物だよ。値段的には大差ないよ」
 サミー、ニヤニヤ。
「よし分かった。おごるよ。でも条件がある」
『なぁーに?』
「こっちに来たらリベンジマッチやる」
『リベンジねぇ。純太が勝ったら飯をおごるのをチャラとか?』
「何を甘い事を言ってるんですか。サミーがおごるの」
『はぁ。それって何だかおかしくない?』
「別に…」
『まぁ、好いけどね。どうせ純太が返り討ちに遭うだけだから』
 サミー、不敵に笑う。
「サミー。甘いな」
『はいはい』
「ところでサミー、こっちには何時来るの?」
『来週、月曜の便で行くよ。まぁ、二週間は隔離だけどさ』
「毎日連絡してよ」
『純太もね』
             *
 次の日の午後、坂本園。
「まったく、あんたとサミーさんときたら。国際通話でそんな話しかしないのかい。随分と高くつくねぇ」
 真由美、呆れ顔。
「そうでも無いですよ」
「懐石料理だ、ふぐだのスッポンだのって。景気の好い話だよ」
 想はキジトラキャットと遊んでいる。
 すっかり馴染んだ感じだった。
「良い匂いがしますねぇ」
 昼飯を食べ損ねた純太にとって、この匂いは食欲をそそった。
「お勝手で真央がお昼の支度をしているんだよ。あの人、今日が当番だっていうのに遅刻するから昼抜きになるところだったよ」
 坂本園で想を預かることになってから仁美と真央が日替わりの助っ人として来ていた。
お昼の支度は二人が分担している。
「何だい。お腹空いているのかい?」
「えぇ。実は午前中忙しくて抜きました」
「やれやれ。真央さぁーん」
「はぁーい」
 真央が奥から顔を出した。
「あら先生。いらしてたの?」
「ついさっき」
「真央さん。お昼、もう一人分大丈夫かい?」
「えぇ。平気ですよ。あら、ひょっとして先生、お昼食べて無いの?」
「実は、そうなんです」
「そう。じゃあ、食べてって」
「良いんですか?」
「ちょっと多めに作っちゃったから。食べて、食べて」
             *
 野菜炒めと、みそ汁にご飯。
 中々の美味である。
 子供向けのメニューという感じではなかったが想は嫌がる風もなく、むしろ上機嫌で食べていた。
 彼の脇でキジトラの奴もキャットフードを食べている。
「ところで何だったかねぇ?」
 味噌汁を啜った真由美は、純太の顔を見ながら思い出したように言った。
「何だったって、何でしたっけ?」
「…」
「真央さん。野菜炒め美味しいです」
「あら。そう。先生、ありがとう」
「何でしたっけって、何だって。こっちが聞いてるんだよ」
 真由美、憮然。
「先生。お替りは?」
「良いですか?」
 純太は空のご飯茶碗を真央に渡した。
「味噌汁も良いですか?」
「いいわよ。食べて、食べて。沢山あるから遠慮しないで。先生」
「…」
 真由美のこめかみがピクピク動く。
「先生。ご飯のお替り。はい」
 真央は純太へ、ご飯をよそった茶碗を渡す。
 純太は御飯茶碗と引き換えに味噌汁椀を真央へ渡した。
 真由美は、自分の目の前で繰り広げられる純太と真央のやり取りを見て次第に苛立つ。
「先生。野菜炒め。もう少しあるわよ。食べない?」
「えっ。良いんですか。それじゃあ、遠慮なく…」
 真由美、ついに爆発。
「ちょっと、あんたたち。ここを何処だと思ってんだい」
 真由美の突然の剣幕に、純太と真央のみならず想とキジトラキャットまでが真由美の顔を注視した。
「真央さん。何やってんだい。先生の世話ばかり焼いて。息子じゃ無いんだよ。見てごらんよ、想ちゃんのおかずが空じゃないか。先生なんか放って置いて良いから、想ちゃんの面倒を見ておくれ」
 突然、想が泣き出した。
「あぁ、ぁぁぁぁぁぁぁ。ゴメンね。想ちゃん。怖くない、怖くないよ」
 真央がなだめる想の傍らにキジトラの奴、身体を摺り寄せながらミャーミャーと鳴いて彼の機嫌を取る。
「純さん。あたしの話を聞いてんのかい」
 純太は真由美にそう言われると飲みかけの味噌汁椀を置いた。
「まだ食べるのかい。まったく。人の話は聞かない。昼ごはんはバカバカと食べる。食べて行きなとはいったけど、もう。昼ごはん代、貰うからね」
「ちょ、ちょっと。先輩。そんなけち臭いこと言ってどうするのよ」
 想をあやしながら真央、呆れ顔。
「誰の財布でやってると思ってるんだいッ。純さんも立派な大人。社会人。御馳走するなんて失礼だよ」
 想は泣き止む気配がない。
「あぁ。想ちゃん。怖くない。怖くない。泣かないで。良い子にしなとね」
 純太は想を抱き上げると自分の膝の上に乗せた。
「びっくりしたね。大丈夫だよ」
 突然傍らか想が消えて戸惑っていたキジトラキャットだったが、床へ飛び降りると純太の脚に身体をすり寄らせ、ミャーミャー鳴き始めた。
 想定外の顛末に流石の真由美さんも戸惑い気味。
 びっくり反応でギャーギャー泣く想を見ながら彼女は思った。
 …家に幼い子が居るって、こんな感じだったわよね…
 顔には見せないが内心苦笑しつつ、真由美は溜息混じりで言った。
「想ちゃん。ゴメンね。想ちゃんは悪くないの。悪いのは、このお婆ちぁんだから。ゴメンね。ゴメンね。機嫌を直しておくれ」
 真由美は、想を自分の膝に乗せると彼の機嫌を取り続けながら懇願。
 そして、ようやく想が泣き止んだ。
「はぁ~」
 真由美はホッとして溜息をついた。
「それで、何だったけ?」
 彼女は純太に尋ねた。
「あー、何でしたっけ?」
 小首を傾げる純太。
「なっ、何でしたっけじゃないだろう」
 また声を荒げようとする真由美を純太は指さす。
 その先にいる想は、真由美に抱かれながらスヤスヤと眠っていた。
 キジトラキャットは、真由美の脚に身を擦らせながらウロウロと彼女の足元を歩き回っていたが、想が眠ったのを察したように奴もまた床に身を横たえて眠った。
「…今日来たのには、何か頼み事でもあったんじゃないのかい?」
 真由美、小声で話す。
「あぁ。そうでした。そうでした」
「もう。じれったいねぇ。何だい?」
「卓球」
「卓球?」
「卓球です」
「卓球がどうしたんだい?」
「特訓です」
「はぁ?」
「あぁ。ですから…、卓球の特訓をお願いしたいんです」
「?」
「?」
 真由美と真央は互いの顔を見合わせると、口を揃えて言った。
「特訓~ッ」
 二人の素っ頓狂な声に、純太は自分の唇へ指を立て『シーッ』の仕草。
 想はスヤスヤと眠り続ける。
「あたし達に卓球の特訓をして欲しいって言うのかい?」
 純太、頷く。
「先生。急にまた、どうして?」
「勝ちたいんです」
「誰にだい?」
「サミーです」
「特訓ねぇ。でも、先生。卓球経験あるの?」
「あるらしいよ。中学校だかの時に卓球部のレギュラーだったらしいから」
「へぇー。ずぶの素人ってわけでもないんですね」
「はい。多少の素養はあります。ブランクが長いだけで」
「ふーん」
「ブランクねぇ」
 二人の様子に純太はたじろぎ、少し嫌な予感がする。
「まぁ、好いけど。教えるのは真央さん、頼んだよ」
「えっ。先輩じゃないの?」
「お昼ごはんを甲斐甲斐しく世話してるところなんか、母親みたいだよ」
「は、母親って。せめてお姉さんくらいにねぇ」
「…」
 純太、二人のやり取りを唖然と見守るしかない。
「何でも好いけどさ。あんたが教えて。好いねッ」
 真央は頷いた。
            *
 スポーツジム。
 無料開放されているスタジオに卓球台が並んでいる。
 卓球クラブの開始時間前にも関わらず真由美や真央を始めとする会員たちは既に集まっていて、卓球の練習を開始している。
 スタジオの入口からその様子を見て、純太は呆然として佇んだ。
「レベル。高過ぎ…」
 そんな純太の傍らに、顔馴染みの女性スタッフが彼に声を掛けた。
「あれ。二宮さん。今日は卓球ですか?」
「あぁ。はい」
「意外ですね。土曜日のこんな早い時間帯にお見えになるのそうだけど、卓球をされるなんですね。ちょっとビックリしました」
 彼女、ニヤニヤ。
「あら。先生。来ましたね」
 真央が純太に気づいて、そう言いながら近寄って来た。
「あら、鈴木さん。二宮さんとお知り合いなんですか?」
「そうなのよ。あたしと先輩の中国語の先生」
「えっ。中国語、なされるんですか?」
「あぁ。まぁ、少し」
「すごーい」
「そうなの。こう見えて、ちょっと凄いの。この先生」
 そう言われ、喜んで見せて良いのかどうか迷う純太。
「卓球の特訓をしたいって言うから、今日からね。あたしが先生なの」
 真央、ウキウキ。
 それに反して女性スタッフは、急に心配そうな顔つきで純太を見た。
 純太は彼女の表情を見て、増々不安を募らせた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。経験あるみたいだし。それに若いから」
「でもー。この卓球クラブは…」
「えっ。何かあるんですか?」
 純太が不安そうに尋ねると、彼女は曖昧な笑みで答える。
「結構、ハイレベルですよ」
 それは見れば判る、と思いつつ純太は彼女に訊いた。
「ハイレベル?」
「市内でシニアの卓球クラブって十チームあるんですけど、ここダントツに強くてどこも勝てないんです。県内の大会でもベスト3の常連競合チームだし」
「えっ」
 シニア卓球クラブとナメていた自分に、純太は猛省を促した。
「それに…」
「それに?」
「結構スパルタで。続く人が少なくて」
「ス、パ、ル、タ…」
 ちょっと言い過ぎたと思ったのか、女性スタッフは再び曖昧な笑みを浮かべて言った。
「まぁ。二宮さんならOKですよ。それに先生も鈴木さんですから。大丈夫、大丈夫」
 根拠のない慰めを残して、女性スタッフはその場を去って行った。
「さぁ。先生。特訓ッ。始めましょう」
 やたらと張り切っている真央に、純太は少し怯えつつ聞いた。
「そう言えば、真由美さんの姿が見えませんね」
「あぁ。先輩?」
「はい」
「今日は、お休みですって」
「えっ?」
「想ちゃんの歯の検診。昨日、愛梨さんから頼まれて連れて行っているの」
「歯の検診ですか…」
「それがね。歯医者さんが先輩のご次男さんの医院なんですって。偶然ねぇ。それもあって連れて行く事を引き受けたんですって。今頃、歯医者の待合室かしら。でも卓球の特訓はあたしだから大丈夫。楽しく卓球をしましょう。先生」
 純太は、真央によって半ば引き摺られるようにスタジオへ入って行った。
             *
 歯医者。
「柏木想ちゃーん。中でお待ちください」
 受付で呼ばれ、真由美と想は待合室のソファーを立った。
 診療室のドアが開くと、下田恵美が息子の朗の手を引いて現れた。
「あら。想ちゃん」
 恵美は二人を交互に見ながら言った。
 彼女から声を掛けられた真由美だったが、センスの良い服とアクセサリーに身を包み、聡明さを感じさせる彼女の雰囲気に真由美はハッとさせられた。そして、この人と知り合いだっただろうかと思い記憶を総動員させるのが思い出せない。
 朗は想を見つけると嬉しそうに笑い、想の傍に立った。
 想と朗はじゃれ合い始めた。
「想ちゃんのお祖母さんでいらっしゃいますか?」
「?」
 真由美がキョトンと彼女を見ていると、恵美が続けた。
「私、下田と言います。想ちゃんのお母さんと同じ職場で仕事をしています」
「あぁ。コールセンターの…」
「朗と想ちゃんは、職場の保育所が一緒で。仲良くさせて頂いてます。今日は、息子の歯の治療で来ました。想ちゃんも虫歯ですか?」
「あの子は虫歯なんかじゃありませんよ。歯の検診だって。お母さんの愛梨さんから頼まれましてね。連れて来たんです」
「あら。お祖母様かと思って失礼しました」
「いえ、いえ。良いんですよ。下田さん、今日はお休みですか?」
「はい」
 休日でもこんなにお洒落なのかと、理由のない違和感を覚えながら真由美は彼女を見続けた。
「あら。あたし、うっかりしちゃったわ。今日、想ちゃんの歯の検診日だって聞いていたのにシフト変更の配慮しなくって」
 すこしガッカリしている恵美を見て、彼女が愛梨の言っていた尊敬している上司なのだと真由美は察した。
「柏木さんへ、次からはシフトを配慮するからごめんなさいとお伝えください」
 ドアが開き、院長が姿を現すなり言った。
「あれっ。母さん。今日、診察日だっけ?」
「えっ。院長先生のお母様でいらっしゃられるんですか?」
「えぇ。まぁ。次男なんです」
「下田さん。母さんのお知り合い?」
「今日が初めてだよ。この子のお母さんの職場の上司の方」
「あぁ。そうでしたか。えっ、なんで母さんが想ちゃんを連れて来たの?」
「この子のお母さんに頼まれたの。想ちゃん。中へ入るよ」
 想の手を引いて真由美は診療室に入って行った。

 想を診療台の椅子に座らせると、真由美は待合室へ移った。
 予約待ちの患者の居ない待合室で院長は会計を済ませて出て行く下田親子を見送った。
「それにしてもお洒落で美人さんだねぇ」
「…」
「ちょっと。良い年齢して。なに見とれてんだいッ」
「あっ。違うよ。ちょっと心配でね」
「心配?」
「朗君」
「息子ちゃんかい?」
「虫歯だらけなんだ」
「甘いものが好きなのかねぇ?」
「それなら良いんだけど。ネグレクトじゃないかってね」
「ネグレクトって育児放棄のことかい?」
 院長は小さく溜息をついた。
「色々な人の歯を見ていると、その人の生活や人生が垣間見えたりするんだよ。美人でお洒落。服や身に着ける物もセンスが良くて。会社でも優秀な感じだろ。どこから見ても非の打ちどころがない人なんだけど息子の口の中は虫歯だらけ。息子の歯の手入れまで気が回らないってことが多くてね。歯だけなら良いけど、実際育児放棄というケースも多くて。最近、案外多いんだよ」
「でも息子、お母さんにベッタリだったよ」
 院長は、苦笑しながら答えた。
「育児放棄や親から虐待されている子供って、親を物凄く慕うし離れないんだ」
「えっ。ひどい目に遭わされているのに、そうなのかい?」
「親に棄てられたら生きていけないだろう。動物の本能らしいよ」
「…」
「嫌な予感。外れてくれることを祈っているよ」
 院長はそう言うと診療室へ戻って行った。
             *
 真由美と想が坂本園に戻ると、純太と真央が店の前で待っていた。
「おや。来てたんだねぇ。待たしちゃったかい?」
「あら先輩。大丈夫。想ちゃん、歯の検診どうでした?」
「虫歯無し。良く磨いていますって、先生に褒められたんだよね」
 想、嬉しそう。
「純さん。随分くたびれてるねぇ。大丈夫かい?」
 純太、力なく頷く。
「先生がこんなに体力無かったなんて想定外だったわ。基礎体力も鍛えなきゃ」
「若いのにだらしないねぇ」
 真由美、ニヤニヤ。
「それで筋の方はどうなんだい?」
「うーん。まぁ、センスはありそうね。でも土曜日だけじゃ、サミーさんの来日に間に合わないかな」
「おや。そうかい。それで、どうするんだい?」
「来週から毎日、特訓しかないわね」
「えっ」
 純太、唖然。
「スタジオの卓球向けの無料開放空いてるみたい。毎日今日の時間帯で予約しといたから。先生、月曜日から頑張りましょう」
「え、えぇっ。毎日…」
「基礎体力もつくし。良い機会よ。先生ッ」
「…」
 真由美は、店の鍵を開けた。
「まぁ。みんな、中に入ってゆっくりしていきな」
             *
「あっ。下田さん」
 コールセンターの喫煙ルームで煙草を吸っている彼女を見つけ、愛梨は話しかけた。
「あら。柏木さん。休憩?」
「はい。今日、お休みじゃなかったんですか?」
「仕事でちょっと思い出したことがあって」
「急ぎのお仕事だったんですか?」
「そうじゃないけど。気になると先伸ばすのが嫌なの。性分よ」
 愛梨、ちょっと羨望の眼差し。
「朗君は託児ルームですか?」
「ええ。土日でも稼働してくれてるから助かるわ」
「本当にそうですよね」
 二人、和やかに笑う。
「そう言えば今日、歯医者さんで想ちゃんに会ったわよ。近所の方に見て貰ってるの?」
「ええ。でも保育園が決まるまでの間ですよ」
「その方、坂本医院の院長先生のお母様なんですってね。ビックリしたわ」
「朗君も歯の定期健診ですか?」
「虫歯。あの子、甘いものが好きで。虫歯できちゃったの」
「あら。可愛そうに…」
「ちょっと掛かりそうなの。困ったわ。あぁ、それはそうと、院長先生のお母様とお知り合いなの?」
「はい。最近知り合ったばかりなんですけど、真由美さん達には助けて頂いてます」
「良かったわね。良い人に出会えて…」
「はい。良い出会いに感謝してます」
             *
 坂本園。
 愛梨が想を迎えに来た。
「ママ」
「想。ママ、来たよ」
 愛梨は想を抱き上げた。
「真由美さん。ありがとうございました」
「なに言ってんだい。気にしないの。それに想ちゃん、虫歯無かったからね」
 想は愛梨に甘えている。
「そう言えば、歯医者さんで下田さん親子に会ったよ」
「えっ。下田さんですか?」
「よく話してた尊敬する上司って、あの人のことだろう?」
「はい」
「品の好い、身に着ける物もセンス良くて。仕事できる人って感じだね」
「そうなんです。それに責任感が強くて。今日も、お休みの日なのに仕事のことで会社に来てましたし」
「息子さんも一緒だったのかい?」
「ええ。会社の託児所に預けて」
「ふーん」
「でも、朗ちゃん。歯医者って、どうしたのかしら?」
「虫歯らしいよ」
「そうなんですか?」
「あの年頃の子だから甘いものが好きなんじゃないのかい」
 愛梨、少し腑に落ちない顔つきで真由美を見る。
「どうかしたのかい?」
「あっ。いいえ。でも、ちょっと腑に落ちなくて」
「何か気になるのかい?」
「甘いもの、あまり食べさせないようにしてるって以前に言ってたんですよ」
 ふと、真由美の脳裏の次男の言った一言が過った。
 …ネグレクトじゃなきゃ良いけど…
 真由美は母親に無邪気に甘える想を見つめた。
             *
 サミーが来日した夜、彼は隔離滞在中のホテルから純太へビデオ通話をした。
『純太。マジかよ』
 サミーは大笑いしながら言った。
『卓球で俺に勝ちたいからって、近所のおばさま達に特訓してもらってるって?』
 純太、憮然。
『特訓は良いけどさ、俺がそっちへ行く前に過労で倒れたりしないでくれよ』
「倒れれないよ…」
 サミー、再び爆笑。
「何が、そんなにおかしいんだよ」
『だってさぁ。顔がげっそりしてるし。それに少し痩せたんじゃない?』
「身体。引締まったの。特訓の成果だから」
『特訓の成果ね。その割にはやつれて見えるけど』
 サミー、そう言いながらニヤニヤ。
「何だよ。面白がっちゃって」
『怒るなよ。こう見えて心配してんだからさ』
「全然、そんな風に見えないよ。止めろとも言わないし」
『言って欲しいのか?』
「…」
『止めたって聞かないだろ?』
 純太、少し拗ね顔。
『本当に無理するなよ。何かあったって、二週間は駆け付けられないんだからな』
「普段に何かあったって駆け付けられないじゃん。台湾と日本だし」
『現在は俺、日本に居るよ』
「知ってるよ」
『台湾じゃなくて純太と一緒の国に居る』
「うん」
『万一、純太に何かあっても隔離期間中だから、駆け付けようにも出来ないんだぜ』
 真面目な顔つきで純太を見つめながら、サミーは続け言った。
『それって滅茶苦茶辛い』
 純太は和やかな面持ちで言った。
「サミー。大袈裟。でもさ、凄く嬉しいよ」
 二人、笑う。
『うん。俺も、隔離期間中にホテルの部屋で自主トレしようかな』
「卓球できる施設とかあるの?」
『無いよ。でも、これがある』
 サミーはVRゲームのゴーグルを純太に見せた。
「持って来たんだ」
『まぁね。隔離期間中の退屈凌ぎだよ。純太に負けられないし』
「今度は、絶対俺が勝つから」
 サミーは、ちょっとドヤ顔で言った。
『まぁ、純太君。精々頑張ってくれたまえ』
             *
 夕方。
 坂本園。
 疲労困憊の純太は店の奥、人目のつかない場所にあるソファーに横たわってノビていた。
 真由美は買物に出掛け、想の世話は仁美が焼いている。
 真央はお勝手で夕食の支度中。
店のドアが開く音。
 目だけで音源を追った純太の視線の先で、藤木が立っていた。
「あれっ。藤木さん」
 純太は節々の痛む半身を起すと、彼に手を振って見せる。
 店の奥にいる純太を見つけ、藤木は会釈した。
「純太さん。昼寝中でしたか?」
「いいや。そう言う訳じゃないんですけどね」
「想ちゃんは?」
「母屋で仁美さんと一緒に居るけど、何か?」
「お迎えに来ました」
「お迎え?」
 藤木はスマホを取り出すと、愛梨からのメッセージを見せながら言った。
「会社でトラブルが発生したようで、想ちゃんの迎えを頼まれました」
「えっ。トラブルって?」
「会社の上司のお子さんの具合が悪くなって、病院へ付き添ったらしいです」
「付き添い?」
「親しい上司のお子さんらしいですよ。その方、日帰りの出張中で直ぐに戻れないようでです。愛梨さん、丁度シフト明けのタイミングだったようです。自分が病院へ行きまでの間、息子さんに付き添ってやって欲しいと頼まれたんだそうです」
「それで藤木さんが愛梨さんの代わりに来たと」
「はい」
 藤木はそう言うと、何やらクンクンと鼻を動かして見せる。
「カレーですか?」
「確かにカレーの匂いですね。多分、夕飯はカレーなんじゃないかなぁ」
 藤木の腹が鳴った。
「お腹空いてます?」
「実は、昼を食べ損ねまして」
「一緒に食べて行かれたら如何ですか?」
「えっ。良いんですか?」
「カレーだし。多めに作ってると思いますよ」
「では遠慮なくご馳走に預かりたいのですが?」
「真央さんに聞いてきます」
             *
 病室。
 愛梨は、点滴を打ってベッドに眠っている朗の寝顔を見ながら、彼を担当した医師から言われたことを思い出していた。

『朗君のお母さんでいらっしゃいますか?』
 医師は訝し気な眼差して愛梨を見て言った。
『いいえ。私はお母さんと職場が一緒の者でして。朗君のお母さん、今日は仕事で地方へ行かれていまして。戻るまで付き添って欲しいと頼まれました。それで、朗君の具合はどうなんでしょうか?』
『栄養不良に伴う疲労です。点滴を打ったので、しばらくの間安静にしていれば落ち着くと思われます。今日、家には帰れるでしょう』
『栄養不良ですか?』
 頷き、医師は答えた。
『虫歯も多数あって酷い状態ですから。物がよく噛めなくて食が細くなってるいる可能性はありますけど、この状態は度を越えていますね』
『…』
『歯の治療は勿論ですが、柔らかく、消化が良くて栄養価の高い食事を心がけるよう、朗君のお母様にお伝え下さい』

 …栄養不良…
 愛梨はショックだった。
 愛梨の知る限り、下田家は食事に困るような生活ぶりではない筈だった。夫婦共働きで、彼女の夫は海外へ単身赴任中。
経済的にはどちらかと言えば裕福で、夫婦ともに仕事で忙しいことを除けば何の支障もない生活を送れている印象だった。ただ、ご主人からの連絡があまり来ないことを愚痴混じりにボヤいていた事があり、愛梨は下田の意外な一面を目にしたことはあったが、彼女のあっけらかんと話す様子に聞き流していた。
…育児放棄…
朗の虫歯が酷く、育児放棄の不安があると真由美から聞かされた時も、愛梨はまさかそんなことがある筈がないと聞き流したが、今はその不安を拭えないまま朗に付き添うしかなかった。
 スマホ。
 下田からのSNSのメッセージが届いた。

『愛梨さん。今、病院?』
『はい』
『朗の具合は?』
『点滴打って。今は眠っています』
『点滴?』
『言いにくいんですけど、お医者様によると栄養不良による疲労だって』
『栄養不良?』
『はい』
 少し間があって、返信が届く。
『あの子、虫歯が酷くて。最近、食が細くなってたから』
 愛梨は少しイラッとした。
『お医者様は、栄養不良の原因は虫歯だけじゃないようだって仰ってました』
 下田、返信なし。
『下田先輩。今、どこに居らっしゃるんですか?』
 下田、既読スルー。
『早く病院にいらして下さい』
 下田、既読スルー。
『先輩』
 下田、未読スルー。

「一体、何を考えているのよ…」
 愛梨は苛立ち、ぞんざいにスマホを小机の上に置いた。
 彼女は眠る朗の手首を優しく握った。
 掌から伝わる痩せて細くなった手や腕の感触が、酷く痛々しく感じられた。
             *
 坂本園。
 真由美が買い物から戻って、面々は真央の作ったカレーを食べている。
 そしてその中に今夜は、藤木の姿もあった。
 旨い旨いと言ってカレーを食べ続ける面々の顔を見ながら、真由美は思った。
 …うちは最近、息子や孫もあまり寄りつかないっていうのに何でこうなるんだい…
 ちょっと不機嫌気味な真由美に気づき、純太が話しかけた。
「真由美さん。食べないんですか。真央さんのカレー、絶品ですよ」
「分ってるよ」
「早く食べないと、お替り無くなりますよ」
 真由美、無言。
 …しかも他人ばっかり。何で毎日毎日、こうも増えるんだい…
 真由美、心の中でボヤキながら憮然。
 そして彼女は、純太の顔を見た。
 …この男に出会ってから、あたしは振り回されっぱなしだよ…
「ばぶぅー」
 想は意味不明な声を上げながら、手にしたスプーンで砂場遊びのようにカレーを口へ運んでいる。
「あらあら。口の周り。カレーだらけにして」
 仁美はニコヤカにそう言いながら、慣れた手つきで想の口の周りのカレーを拭取る。
 そんな二人を見ながら真由美は溜息を漏らすと、仕方なさ気にカレーを食べた。
 藤木のスマホに電話が入り、彼は席を立った。
            *
 朗が目を覚ました。
「あっ。朗君。目が覚めた?」
 朗はキョトン顔で愛梨を見ている。
「ママは?」
 愛梨は朗の手を握り締めて言った。
「まだ、お仕事なの。でも、直ぐに来るからね」
「ふーん」
 朗は見慣れない病室を見回した。
「ここ、どこ?」
「お家の近くの病院よ」
「僕、どうしてここに居るの?」
「具合が悪くなって。お医者さんに診てもらったのよ」
「?」
「気分はどう?」
 朗は答えず、傍らに置かれたテレビを見て言った。
「愛梨おばちゃん、テレビ見よう」
「テレビ?」
「うん」
「何の番組が見たいの?」
 朗は幼児向けのアニメ番組を言った。
 愛梨はネットで朗が見たいアニメの動画を探し、それを彼に見せた。
 朗は両手で愛梨のスマホを持って、そのアニメを見続けた。
 愛梨はナースセンターの看護師に朗が目を覚ましたことを告げると、程なくして看護師がやって来て点滴を外した。
 アニメを無心に見ている様子を見て、看護師が言った。
「朗君。顔色も良くなりましたね。点滴が終わって、目が覚めたら帰宅しても構わないと主治医の先生がおっしゃってました。少し様子を見て、何も無ければご帰宅下さい」
「はい。ありがとうございます。まだ、この子のお母さんがいらして無くて」
「大丈夫ですよ。多少、遅くなってもウチは構いませんから。ご心配なく」
「ありがとうございました。助かります」
 愛梨は看護師を見送りながら『下田先輩、早く来て』と心の中で叫んだ。
             *
「もしもし。愛梨さん?」
「洋輔さん。ゴメンね。電話するのが遅れちゃって」
「大丈夫だよ。想ちゃん、こっちで夕飯食べてる」
「そう。良かった」
「そっちは大丈夫なの?」
「それが、もう大変よ。病院」
「えっ?」
「付き添いで行ったのは良いけど、ワクチン打ったのとか、接種証明しろとか。煩くて。そうでないと付き添いを遠慮しろって。でも朗君を一人に出来ないじゃない。職域で二回ワクチン接種を打ち終えたって言っても信じてくれなくて、証明しろってよ。接種証明書を持ち歩いてたから、それを見せて。渋々OK出て。あぁ、面倒くさい」
「大変だったね。それで、朗君は?」
「さっき目を覚まして。元気になったみたい。アニメが見たいっていうからスマホで探して見せてたんだけど、先輩からSNSのメッセージが着て」
「お母さん、まだ来てないの?」
「そうなの。もう、とっくに出張先から戻っても良い時間なのに来なくて。その矢先に連絡着て。でも、ちょっと様子が変なのよ」
「変って?」
「朗君が目を覚ましたって連絡してから随分経って返信が来てね。病院に来るのかと思ったら、家まで連れて帰って欲しいって。それでちょっと腹立って、何度も電話を掛けたんだけど全然出なくて。様子、おかしいでしょう?」
「普通じゃないね」
「それで先輩の家へ様子見に行こうと思うのよ。洋輔さん、一緒に行ってくれない?」
「良いけど、どうして?」
「何だか嫌な予感するのよ。朗君が具合悪くなったのも栄養不良によるものだって。ちゃんとご飯食べさせてますかなんて、主治医の先生に言われちゃったし。その事を先輩に伝えてから返信がばったり途絶えて。様子が普通じゃない気がするし」
「朗君はどうするの?」
「それなのよ。一旦、坂本園で預かってもらって、私たち二人で様子を見に行きたいの」
「一緒に連れて帰った方が良いんじゃ無いの?」
「正直に言うと、下田先輩、育児放棄っぽいのよ」
「…」
「何でも無ければ良いけど、悪い予感当たっちゃうと」
「じゃあ。二人で行こう。向こうに何か言われたら、想ちゃんと遊んでてとか何とか言って誤魔化してさ」
「うん。そうする」
             *
 坂本園。
 真由美は、愛梨の傍らに立つ朗を渋い顔で見つめた。
「二人で行くのは良いけど、一緒に連れて帰った方が良い気がするけどねぇ」
 愛梨が何かを言おうとした時、想の弾んだ声が響いた。
「あきらくんだぁ」
「あっ。ソウちゃんだ」
想は朗に駆け寄って手を取った。
「あきらくん。遊ぼう」
「好いよ」
 真由美たち三人が唖然と見つめる中、想と朗は奥へ走り去って行った。
「やれやれ。それで、その下田さんのお宅はここから近いのかい?」
「駅前にできたタワーマンションです」
「おや。随分と凄い所にお住まいなんだねぇ」
「それじゃあ、愛梨さん行きましょう」
 二人を見送って、真由美はボソリと独り言を口にした。
「まったく。ウチはお茶屋で、保育所じゃないんだよ」
             *
 駅前のタワーマンション。
 下田の部屋の番号を押すと、無言でオートロックが解除された。
 二人は中へ入った。
             *
 朗は想の隣に座って、真央の作ったカレーを食べている。
「よっぽど、お腹が空いてたんだねぇ」
 ムシャムシャカレーを食べ、あっという間にお皿が空になると朗は真央を見た。
「お替り?」
 朗は、こっくりと頷いた。
             *
 部屋の前。
インターホンを何度か押すが返事がない。
二人は怪訝な表情で互いを見た。
愛梨が試しにドアノブを回してみると、鍵は開いている。
ドアを引くと施錠チェーンも外れていた。
「中へ入れるみたい」
「うん。そうらしいね」
 ドアを開ける。
 照明は消えて、部屋の中は真っ暗だった。
「下田先輩。いらっしゃいますか?」
 返事はない。
「下田先輩。いらっしゃるんでしょう。柏木です。中に入りますよ」
 愛梨はドアを開けて玄関に入り、廊下の照明をつけて唖然とした。
「えっ…」
 そして愛梨の背中越しに廊下を除いた藤木も思わず言った。
「うわっ。ゴミ屋敷だ…」

 放置された段ボール荷物やゴミで埋まる廊下の僅かな隙間をぬって二人がリビングルームに辿り着き、その部屋の照明をつけて二人は唖然とした。
 二十畳くらいのスペースはあろうかというリビングルームには、衣服とゴミが堆く散乱していた。
「先輩。下田先輩。どこですか?」
 二人はゴミと衣服を掻き分けて下田を探す。
「愛梨。こっち、こっち」
 キッチンから藤木の声がして、そこに言って愛梨は呻くように言った。
「先輩…」
 キッチンの一番奥で、下田は膝を抱え、蹲るように座ってブルブルと震えていた。
 愛梨が近寄ろうとすると、彼女は叫ぶように言った。
「こっ、来ないでッ」
「先輩。あたしです。柏木です」
「いや。見ないで」
 下田は二人に背を向けて拒絶する。
「あたし。あたし。ちゃんと、朗を育ててる」
「ええ。良く知ってますよ、先輩」
「ちゃんと、ご飯だって食べさせてるの」
「そう。先輩は悪くないですよ」
「でも、あの子、食べないの。あたし、一生懸命に作ってるのに。食べないの」
 愛梨は少しずつ下田に近づき、そしてやっと彼女の傍らにしゃがむと震える両肩を抱きながら背中を摩った。
「先輩は悪くない。絶対に悪くない」
「あたし。一人で。一生懸命やったの」
「大丈夫。先輩を悪く言う人なんか居ませんよ」
「あたし…」
 下田はボロボロと泣き始めた。
「良いの。何にも悪くないんだから。思いっきり泣いて。気持ち、全部吐き出して」
「朗のために。一生懸命頑張ったの」
「辛かった。不安だった。怖かったんですよね、先輩。相談できる人も居なくて」
「…」
「大丈夫。私、ずっと傍に居ますよ」
 下田は愛梨の胸に顔を埋めて号泣した。
             *
「それでウチへ連れて来たのかい」
「真由美さん。済みません。ご迷惑をお掛けしてしまって」
「彼女を責めないでやって下さい。僕も見ましたが、どの部屋も凄い事になってまして。とても落ち着いて寝られるような状況ではなかったので」
 藤木をギラっと睨んで、真由美。
「それでウチだったって訳かい?」
「はい」
 愛梨と藤木の声が重なる。
「他に頼るところが無くて。先輩、ガンとして動こうとしないし」
「それで息子さんを坂本園まで迎えに行こうってことで、漸く連れ出せた訳で」
「ウチわねぇ。お茶屋なんだよ。下宿屋でも、ホテルや旅館でも無いんだよ」
 シュンとしている愛梨と藤木を庇うように仁美が言った。
「でも真由美さん。部屋なら余ってるんでしょう。みんな、寄りついてないし」
「煩いよ」
「まぁ、良いじゃない。先輩も人助けだと思って泊めてあげたら。それに口ではそう言ってるけど、本音は満更でもないんでしょう?」
「何だい、それは?」
「先輩。賑やかなのが好きでしょう?」
 真央、ニヤニヤ。
「そうですよ。愛梨ちゃん。気にしなくて良いのよ。真由美さんって、本音とは真逆の態度で振る舞うことで有名なの」
「それで、良く誤解されるんだけどね。根は優しくて、困ってる人を黙って見てられないのよ。だから今日は、あんた達も泊めてもらいなさい」
「えっ。ええっ?」
 素っ頓狂な声で驚く、真由美。
「だって先輩、想ちゃんと朗君。仲良く一緒の布団で眠っちゃってますよ。それをわざわざ起こして追い出すような真似しませんよねぇ?」
「しないよ。出来ないよ。そんなことしたら人じゃないだろう」
「いやー。僕までお世話になっちゃ、申し訳ないなぁ」
 真由美、藤木をギラッと睨んで。
「何で、あんたが泊まるんだい。愛梨さんと想ちゃんだけだよ」
「そんな。僕も関係者の一人ですし…」
「あんたは、自分の家に帰る。あしたも仕事だろう。帰れ、帰れ」
 藤木はガックリと項垂れた。
「あれ。そう言えば先生は?」
「帰ったんじゃないの?」
「夕飯は一緒に食べてたよ。帰るにも挨拶ナシかい」
 真由美、憮然。
 その時、真央が店の奥から真由美と仁美を呼んだ。
「何だい?」
 真由美、面倒くさ気な表情。
「先生。ここ」
 真央が指さした。
 純太は店の奥にある例のソファーに横たわり、鼾をかいて眠っている。
 彼の腹の上でキジトラキャットが身体を丸めて熟睡していた。
「先生。よっぽど疲れてたのね。よく寝てるわ」
 仁美は嬉しそうに小声で笑った。
「キビ助まで一緒に寝ちゃって。先輩、こっちも起こせないわね」
 真由美は顔を上げて天井を見ながら言った。
「いいかい。ここは坂本園。お茶の販売店なんだからね」
「はい。先輩」
「よく解かってまーす」
 真由美は二人の顔をじっくり見て言った。
「あたしは二階で休ませてもらうから。泊まるなり、帰るなり勝手におし。但し、自由に使って良いのは一階だけ。二階には上がって来るんじゃないよッ」
「ハーイ」
 二人の声が、再び重なった。
             *
 二週間が経った。
 あの後下田恵美は会社へ長期の休みを取り、親子して真由美さんの厄介になって静養に努めた。
彼女は専門医のカウンセラーを受けて育児ノイローゼと診断された。
 ネグレクトに至った原因は、彼女の責任感の強さとプライド故だった。夫が単身赴任中の家庭を守り、朗の養育も完璧にこなし、会社の仕事も完璧にこなす。それらの精神的な負担が重く圧し掛かると同時に彼女を追い込んで疲弊させた。やがて家事の放棄に端を発して朗への育児放棄へと繋がっていった。
 ハンデミックで在宅勤務が増えて他人との交流が減ったことも、想像以上に彼女を孤立させたようだった。
「そんなに無理しなくても親やご主人に相談するとか、何か手立てがなかったのかい?」
 そう言う真由美に対して、愛梨は静かに言った。
「必至だから誰にも頼れなかった。誰に相談したら良いのか、誰を頼ったら良いのか。そんなことすら見えなくなっちゃったんだと思います」
「…」
「私には、下田先輩の気持ちがよく解かります。二宮さんや真由美さん達、それに洋輔さんに出会うまで、先輩と同じでしたから」
 この期間に純太と藤木の尽力で恵美の両親と連らが取れ、事情を知った恵美の母親が上京して彼女と朗の面倒を見る事になった。
 そして単身赴任中のご主人とも、やっと連絡が取れた。
 恵美の旦那は、ビデオ通話の向う側で悔しさと途方に暮れた感情の入り混じった表情で藤木や純太の話を聞き続けた。
 やがて、押し殺したような声で言った。
「どうしよう。直ぐに駆け付けたくても、恵美の傍に居てやろうにも、この状況ではどうにもならない」
 純太には、彼の頭を抱えた姿にサミーが言っていた言葉が重なって見えた。

 『それって滅茶苦茶辛い』

 純太は彼に言った。
「下田さん。どんなに離れていても、奥様とコミュニケーションとれる手段はいくらだってありますよ。一番大切な事は、大切な相手と触れ合おうっていう気持ちだと思います」
 下田は顔を上げた。
 そんな彼に、純太はにっこり笑って言った。
「一人で悩まないで。諦めないで下さい」
「時々でも、相談に乗って頂けますか?」
「もちろん。いつでも」
             *
 オリンピックが終わろうとする頃、純太の元へワクチン接種券が届いた。
 中国語のレッスンの後、接種券をネタに純太は真由美たち三人と話している。
「皆さんは、もうワクチンを二回打ち終えたんですよね?」
「とっくの昔に打ち終わったよ」
「先生。これからでしょう?」
「早速打ちたいと思うんですけど」
「予約取れました?」
「取れないみたいよね。ニュースで連呼してるものね」
「騒ぐだけ騒いどいて、大した為体だよ。政府もだらしない」
「この調子だと、ワクチン打てるのって秋ごろかなぁ?」
「秋に打てるかしら?」
「ひょっとしたら年末まで行くわよ」
「ええッ。そんなぁ…」
「あんた達。不安を呷ってどうするんだい」
「不安を煽るなんて人聞きの悪い」
「そうよ、先輩。仁美さんの言う通り。煽ってなんかいませんよ」
「そうには…」
「えっ…」
そう言って仁美は口を噤んだ。
「あら…」
 真央は純太を指さした。
「えっ。何ですか?」
 その時、純太は背後から誰かに抱きしめられた。
「えっ。えぇッ?」
 戸惑う純太の耳元で中国語が囁かれた。

『You 打疫苗了嗎?』

 それまで緊張が走っていた純太の表情が一気に崩れ、笑顔に変わった。
「サミー?」
「対。小純太」
             *
「えっ。あれがサミーさん?」
「画面で見るより数段イイ男だねぇ」
「先輩。それに滅茶苦茶背が高くないですか?」
「本当。まるでモデルみたい」
「スタイル良いよね。羨ましいよ」
 真由美はスマホを取り出すと、目の前にいる二人を撮り始めた。
「あら。先輩。ズルい。あたしも」
「私だって。撮る、撮る」
 三人、撮影に夢中。
             *
 純太が振り向くと、サミーが笑っている。
 二人は強く抱合った。
「サミー」
「うん?」
「やっと会えた」
「うん」
「嬉しいよ」
「三回分。嬉しいよ」
「三回?」
「隔離から解放されて。日本を自由に動き回れる」
「もう一つは?」
「もちろん」
「…」
「純太…」
 二人はキスをする。
 予想外の展開に三人はスマホ片手に目を離し、純太とサミーをガン見。
「サミー。愛してる」
「純太。僕も君を愛してるよ」
 再び二人は、唇を重ねた。
 そんな彼らを見つめる彼女の目には、ほとんど忘れてしまっていた遠い昔のある風景が映っているようだった。
             *
 スポーツジムのスタジオで卓球台を挟んで純太とサミーが話している。
「純太。負けたら。わかってるな?」
「勿論。男に二言はない。サミーこそ、負けたらご馳走してもらうよ」
「あり得ないね」
 サミー、不敵な笑み。
「俺だって。二週間前の純太様じゃないからさ」
 純太、自信に満ちたドヤ顔。
「まったく。四十手前の二人が、ガキの喧嘩だね」
 真由美、呆れ顔。
 彼女の隣に座っている想と朗、ピンポン玉で勝手に遊んでいる。
「先生。頑張ってッ」
 仁美、黄色い声援。
 真央が吹くホイッスルの音がスタジオに響いた。
 そして、純太とサミーの卓球決戦の火ぶたが切って落とされた。


第7話 HANABI

              ふぐ鍋

「先輩。家でふぐ鍋なんて初めてよ」
「ふぐ料理屋やってる従弟に電話したら、パンデミックの煽りで休業中だったんだよ。頼んだら出張でやってくれるって言うから来てもらったけど。あんた達、運が良いよ。こんなご時世だから食べられないと思ってたんだけどね」
「でも、ふぐ鍋って冬もんだと思ってましたけど、中々美味しいわね」
「夏ふぐって言うのもあるらしいよ。いつでも美味しいって従弟が言ってたよ」
「あたし。初めて食べました。美味しいですね。洋輔は食べたことあるの?」
「一度だけ。大阪で食べたよ」
 想は藤木の膝の上で愛梨がよそった小皿の中のふぐを箸で突きながら遊んでいる。
「想。食べ物で遊んじゃ。はい。あーんして」
 愛梨は細かく食べやすく分けたふぐを、想の口に入れた。
「おいちい」
 嬉しそうに笑いながら想は口をもぐもぐさせた。
「はい。朗君も食べて」
 キジトラを抱きながらキョトン顔の朗の口に愛梨はふぐを食べさせた。
「おいしい?」
 朗はふぐを噛みながら笑顔で頷いた。
「恵美ちゃんの具合はどうなんだい?」
「今日は来るって言ってたんですが、直前でダメだったみたいで。彼女のお母さんが恵美先輩に付き添ってます」
「そうかい。お母さん、早く良くなると善いねえ」
 真由美はそう言いながら、朗の頭を撫でた。
「サミー。遠慮しないで食べてるかい?」
「真由美の気遣いを純太が通訳すると、サミーは満面の笑みを彼女へ向けた。
「鍋も美味しいけど、ひれ酒が気に入ったみたいですよ」
「従弟の自家製だからね。注ぎ酒は、二、三杯いけるから。飲みたかったら言いな」
 二人は、注ぎ酒のお代わりを頼んだ。
 そして、それに続いて柄にもなく遠慮気味に藤木も頼んだ。
「ちょっと、洋ちゃん。飲みすぎないでね」
 愛梨の尻に敷かれている洋輔に、他の面々は苦笑する。
 そしてキジトラキャットは、大欠伸をすると朗の膝の上で居眠りを始めた。

             告白の風景

 坂本園から帰り道。
酔い覚ましを兼ねてそぞろ歩きする純太とサミー。
お盆前の夜は熱帯夜だが、時折過る風に秋の気配が感じられる。
「結構飲んだね」
「うん。ひれ酒。初めて飲んだけど美味しかったよ。純太は飲んだことあるの?」
「何度かね。日本酒を出す店で。でも自家製のヒレだから味が濃厚で美味しいよ」
 サミーが純太の手を握った。
「どうしたの?」
 サミーは何も答えず、握る手を強めたり緩めたりしている。
「変なの」
 少し照れながら純太がそう言うと、サミーは彼の手を引っ張りながら言った。
「少し公園で涼んで行こうよ」
「サミー。涼むって熱帯夜だよ」
「大丈夫」
「マンションまで一分で帰れるよ。その方が涼しいと思うけど」
「嫌かい?」
「嫌じゃ無いけど、蚊に刺されるし」
「大丈夫」
 純太の返事を待たず、サミーは純太を公園へ連れて行った。

 入口付近の自動販売機で水を買い、広場を見渡せるベンチに座って二人は水を飲んだ。
 広場の片隅で親子が花火をしている。
 そこから少し離れたところにあるベンチに大学生の男女のカップルがイチャイチャしていた。
「あれっ?」
「純太。どうした?」
「あそこのカップル、見たことあるなぁ」
「知合い?」
「違うけど…」
 そうだ、あの二人は楽趣公園の朝の散歩を初めて間もない頃、キジトラキャットを追いかけていた時、奴と対峙していたカップルだった。
 その様子を思い出して、純太はサミーに話した。
「彼女の方が、きゃー可愛いなんて燥ぎながらキジトラの奴に駆け寄ったんだけど、奴にスルーされてたよ。彼氏の方はちょっと困り顔でオロオロしてさ。なんだか面白いカップルだったよ」
 花火を終えた親子が、後片付けを済ませて公園から出て行く。
 辺りは虫の音だけの静かな夏の夜となった。
 サミーは純太の手を握り続けながら身体を彼に寄せている。
 純太は苦笑しながら言った。
「サミー。汗だらけだよ」
「そう?」
「全然、涼めてないし」
「熱帯夜だかね」
「バカじゃん」
 二人、笑い。
「あっ。二人。見て」
 サミーが小声で言い、二人は大学生カップルを見た。
 彼と彼女は抱合ってキスをしていた。
「何だか初々しい。出会った頃って、俺たちもあんな感じだったのかなぁ」
「うーん」
 サミー、思わせ振り。
「そうだったでしょう?」
「秘秘」
「秘密って何?」
 サミーは笑って誤魔化した。
「ねえ。サミー?」
「うん?」
「母さんがさ、サミーをちゃんと紹介して欲しいって」
 サミー、純太を見つめる。
「ダメ?」
「ううん。良いよ」
「大丈夫?」
 サミーは握っていた純太の掌を自分の胸に当てた。
 純太の掌にサミーの激しく打つ鼓動が伝わった。
「大丈夫」
 純太、彼の顔を見つめる。
「でも、もの凄くドキドキしてる」
「大丈夫。心配しなくても。俺も付いてるから」
 ちょっと困った顔つきでサミーは純太に言った。
「うーん。それが一番心配」
「何だよ。それ…」
 サミーは、純太を抱きしめた。

             純太の実家

 仁美が運転する車中。
 助手席の真由美は、バックミラー越しに後部座席の純太とサミーをチラ見し続ける。
 二人とも少し改まった感じのサマージャケット姿で座っているのだが、どちらも緊張しているが見て取れた。純太はまだしも、サミーは緊張の極みらしく表情も硬い。
「やれやれ…」
「ま、真由美さん。どうかしました?」
「二人とも暑くないのかね。この暑い盛りにジャケットに長ズボン。革靴まで履いて」
「あら真由美さん。二人とも似合ってるし、お洒落でカッコイイですよ」
「相手の親の所へ結婚の挨拶に行くみたいじゃないかい」
 真由美は、からかい気味に茶化して言った。
「分ってるくせに。あまり二人をいじめちゃ可哀そうですよ」
「別に悪気はないよ。サミーがガチガチだから緩めてやろうと思ったまでさ」
「真由美さんに言われたら益々固くなっちゃいますよ」
「何だよ。それは?」
「はい。そろそろ着きますよ」
             *
 純太の実家は、近隣の中では大きい純日本家屋である。
 彼が小学生の時、遊びに来た友達は玄関を見てお風呂屋さんと言い、家の中に入ると部屋数が多くて迷うことから忍者屋敷と言われた。
 サミーはそんな外観を見上げていたが、彼の緊張度がもう一段上がったことは言うまでもない。
「サミー。緊張し過ぎ」
「えっ。でもさぁ…」
「サミー。ゆっくり深呼吸しよう」
 サミーは純太に言われるまま数回、深呼吸。
「少し落ち着いた?」
 サミー、小さく数回頷く。
「今日、サミーを紹介することはお袋に伝えてあるし、君の事は俺以外にも老板や太太から聞いているから心配ないよ」
「そうかなぁ…」
「それにさ、今日は仁美さんがお茶の稽古の見学も兼ねてるから。真由美さんも居るから大船に乗った気持ちで居れば良いよ。だからリラックス。リラックス」
 純太の笑顔に答えようとサミーも笑顔を作るが、まだ固くぎこちなさは抜けなかった。
「さぁ。入りましょうか」
 純太は玄関を開けた。
「あら。ここの玄関、広いのねぇ…」
 そう言って仁美がキョロキョロ眺めていると、純太の母が面々を迎えた。
「あら。皆さん。いらっしゃい」
 着物姿の純太の母親、佐和子へ面々の視線が集中する。
「えっ。どうなさったの。皆さん、早く上がって」
 真由美に伴われて仁美が上がった。
「先生。こちらがお話した長野さんです」
「長野です。初めまして。宜しくお願い致します」
「こちらこそ。ご足労頂きまして。さぁ。中へどうぞ」
 仁美は真由美と一緒に奥へ行った。
「純太。何やってるの。早く上がって」
 佐和子に即され純太が隣のサミーを見ると、彼は直立不動に立っている。
 そして突然、彼は挨拶を始めた。
「はっ、初めまして。サミー。あっ、いや陳柏睿(チン・ボウルイ)と申します」
 そう言うと彼は、直角に腰を曲げて頭を下げて挨拶する。再び、顔を上げた時の彼の表情は硬く緊張の極み。
 悪いとは思いつつ、そんな彼を見ながら純太はクスッと笑った。
 ちょっと面食らった佐和子だったが、彼の生真面目さを感じ取ったのか彼女も息子動揺にクスっと笑い、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「初めまして。純太の母です。さぁ。上がって下さい。ほら。純太。ちゃんと案内しなさい。サミーさんも自分の家だと思って寛いでね」
 純太はサミーの肩に手を回して、コチコチに硬くなっている彼を優しく即した。
             *
 真由美さんの点前を見るのはその日が初めてだったが、結構スムーズに薄茶点前をしている。
純太は、彼女の上達ぶりに舌を巻いた。
 上座に仁美、末座にサミーが正座している。
純太は二人の間に入って、お菓子の食べ方やお茶の飲み方を教えた。
仁美さんは、女子高でお茶をやっていた経験があり、純太がひと言、二言伝えればサラサラと対応できた。
だがサミーは、全くの初心者。
自然と純太が、手取り足取りでサミーにレクチャーとなった。
「サミー。お菓子は箸で懐紙の上に載せて食べるんだよ」
「懐紙?」
「この紙の束を懐紙って言うんだ」
 サミーは懐紙を手に取ると表にしたら裏返して見たらと興味深く見ている。
「折り目を自分の方へ向けて、一番外側の一枚を折り返すんだ。そうしたら自分の前に置いて、箸でお菓子を取って懐紙の上に載せると」
「こう?」
「そうそう。箸の先が汚れてるから、菓子の隅に置いて、角を三角に折って拭いて」
「こんな感じ?」
「そう。初めてにしては上手だよ」
「うん。拭いたらどうするの?」
「先ず、菓子器の蓋をして」
「こう?」
「OK。そうしたら蓋の手前から三分の一くらいの所に箸を揃えて横に置く」
 サミーは箸を置いた。
「そうしたら菓子器を少し左側に寄せて置くんだ」
「えっ。どうして?」
「前に置くと、お茶を取りに行く時に邪魔だからね。予め脇に寄せて置くのさ」
「ふーん。次の事も考えてるんだね」
「うん。それじゃあ懐紙を両手で持ち上げ、お皿として使ってお菓子を食べる」
 サミーはお菓子をジッと見つめている。
「どうしたの。食べないの?」
「どうやって食べるの?」
 純太は右手を上げて言った。
「手で食べる」
「手?」
「女性は菓子切りって道具を使うんだけどさ、男性は手で食べるんだ」
「どうして?」
「そう教わったからね」
「ふーん」
「まぁ、食べてみて」
 サミーはお菓子を摘んで眺めている。
「因みに今日のお菓子は『祭りはなび』って名前だよ」
「まつりはなび?」
「夏祭りで打ち上げる花火だよ」
「あぁ。その花火ね」
「練り切りの皮に花火の絵があるだろ」
「成程ね。皮に包まれている黄色いのは何?」
「黄味餡だよ」
「きみあん?」
「卵の黄身を混ぜて作った餡だよ」
「餡子ね」
「その黄色で花火のパッと散った明かりを表現してるいるんだと思うよ」
「へえー。趣向が凝らしてあるんだね」
「ここの黄味餡は美味しいよ」
「そう?」
 一口で食べようとするサミーを純太は慌てて止めた。
「あぁぁぁぁ。ちょっと待って」
 サミー、小首を傾げて純太を見る。
「何口かに分けて。味わって食べてね」
「うーん。そうなんだ?」
 そう言いながらサミー、一口食べた。
「うわッ。美味しい」
             *
 仁美、純太に続いてサミーの薄茶が出された。
「サミー。座ってて。僕が代わりに取って来るから」
 そう言って純太は立ち上がる。
そして茶碗を持って戻ると、それをサミーの前に置いた。
サミー、茶碗を見つめている。
そして彼は、純太の顔を見るなり言った。
「どうやって飲んだら良いの?」
「先ず、ちょっと頭を下げて『頂戴します』って言いながら挨拶をするんだ」
「頂戴致します」
 頭を上げたサミーに純太は言った。
「右手で茶碗を取って左手の掌の上に載せて、ちょっと持ち上げる」
「こんな感じ?」
「そんな感じ。上手いよ」
「何でこんなことするの?」
「押戴くって言う所作でさ、お茶を作ってくれた人たちへの感謝の意を表してるんだ」
「ふーん」
「そうしたら茶碗の正面を二回に分けて左に回して、正面が左真横に向けるんだ」
 サミーはぎこちない手つきで茶碗を回す。
「何で回すの?」
「お茶碗の正面を汚さないためだよ。亭主が一番見せたいと思っている部分が正面だからね。そこを綺麗に扱うことで、亭主に敬意を表すのさ」
「ふーん。ところで亭主って、旦那の事?」
 純太、ちょっと呆然。
 純太以外の面々は思わず笑った。
 ちょっと気を取り直して、純太は答えた。
「亭主っていうのはお茶を点てた人の事だよ。ここでは真由美さんだね」
「ああ、そういうことね」
「さぁ、一口飲んでみて」
 サミー、恐る恐る薄茶を口にする。
 最初は、何となく渋い顔。
でも間もなく、サミーの表情がパッと明るく変わる。
そして彼は、ちょっと興奮気味に言った。
「純太。これメチャ美味しいよ」
 薄茶を点てた真由美と佐和子が、ホッとした表情になった。
 ところがその時、仁美が急に大声を上げた。
「あっ。あぁ。ちょっと。あっ、足が、痺れた…」
「あらあら。無理しないで。足、崩して良いわよ」
 和やかな時が流れている。
             *
 点前が終わった後、庭を見たいと言ってサミーは外へ出た。
 その彼の元へ、佐和子が歩み寄った。
「やっぱり、外は暑いわね」
「そうですね」
「ジャケット。脱いだら?」
「大丈夫です。ここは木陰で涼しいですから」
「そう」
「中国語。お上手ですね」
「そうでも無いわよ。難しいことは聞き取れないし、話せないし。純太の方が流暢よ」
「はい。中国語は純太から?」
「いいえ?」
「では、どうやって?」
「老板さんや太太と台湾や東京で遊んでいる内に何となく覚えちゃったの」
「凄いですね」
 佐和子は屈託なく笑いながら言った。
「あの子は教えてくれないのよ」
「えっ、どうして?」
「きっと、私に気を使っているのね」
「…」
「私の子供の頃ね、近所に中国と韓国の人が住んでいたの。私の母は、あの独特な賑やかさが肌に合わなくて毛嫌いしてたのよ。その影響で私も、中国や韓国の人を嫌厭していたのよ。だから、あの子にも何となくネガティブなイメージを与えちゃったのね。でも純太は中学に入った時に中国語を勉強したいって言ってね。でも、私が良い顔しないのわかっていたから、目につかないように勉強していたみたい。私の目につくところでは英語の勉強に勤しんで、隠れて中国語を勉強。私が嫌がると思ったのね」
 庭の真ん中にある紅葉を見上げながら佐和子は続け言った。
「この紅葉ねぇ、ここの庭を作った時にあの子が植えたの」
 サミーも紅葉を見上げる。
「あの子って、ああ見えて意外と頑固なの。嫌なことや、納得のいかない事は絶対にしないし。好きなことや、やりたいと決めた事は絶対にする。でも、そんな風でいて気遣い屋さんだから、他人の気分を害さないように振る舞うから、意外と溜め込むのね」
「変なところに我慢強いです。もっと自由に発散すれば良いのにね。だから僕は、彼がそうならないように気遣います」
「サミーさんは、あの子の良き理解者なのね」
 二人、笑う。
「純太って、子供の頃から茶道を習っているのですか?」
「幼稚園の頃からよ」
「そんな歳からやってるんだ」
「だから人に教えられるレベルで、先生の資格も取っているのよ」
「あいつ。お茶の先生、やれば良いのに」
「そうね。きっと向いてると思うわ」
 佐和子、ちょっと寂しげな表情を一瞬過らせる。
 そんな彼女を見て、サミーが言った。
「先生。しないんですか?」
「時々、時間が開いた時に手伝ってくれるわよ。でも、本格的にお茶の先生業をしようとは思っていないみたい」
「どうしてかなぁ?」
「私ね、純太が茶道に勤しむことについて誤解していたのよ」
「誤解ですか?」
「物心つくか、つかないような幼い内から稽古を始めたし。無理強いしたこともないし、自分からやりたいって感じで稽古を続けていたから、好きなんだろうなって思っていた。だから私も、将来はこの稽古場を純太が引き継いで、純太の子供や孫が茶道をするようになったら好いなと思っていた。でもね、私の勝手な願望が純太の重荷になっていたのね」
 サミーは、話し続ける佐和子を静かに見守った。
「私ね。父を早くに亡くしたの。母は、再婚せずに女手一つで私を育ててくれたんだけど、私の中には『家族』とか『家』に対する憧れや想いが人一倍強いところがあるのね。だから純太が生まれた時、自分が思い描くような『家族』や『家』が築けるって思った。でも、私の身勝手な願望が純太を苦しめる結果となってしまったのよね」
「でも純太は、お母様のことを深く愛していますよ」
「ええ。そうなの。純太は優しい子なのよ。だから私をガッカリさせたくなかったし、私や主人を傷つけまいと我慢して、本当のあの子ではない、言い方は良くないけどいわゆる『普通』という姿で日常を振る舞い続けさせてしまった。それが、あの子をどんなに傷つけるかなんて考えもせずにね」
 佐和子が淡々と語るだけにサミーには、彼女の言葉がより深く心に突き刺さった。
「そこまでご自分を責めなくても…」
「そうじやないの。サミー。責められるべきは全て私なのよ」
「…」
「私ね、あの子がゲイかもしれないってかなり早くから感じ取っていたのよ」
「えっ。それって、いつからですか?」
「幼稚園の頃から」
「そんなに早くから?」
 茶庭の前に広がる借景の雑木林で、油蝉がジリジリと鳴いている。
「私が産んだ子だもの。解かるわよ」
「…」
「でもね。その事を認めたくなかったの。それは純太の一時の気の迷い。どんな子でも同性への興味本位。時が経てば『普通』に戻るって信じてた。いいえ。信じたかったのね。だからね、私は、あの子の母親にも関わらず、在りのままの純太に向き合いたくなかった。見ないで済ませようと思った。いいえ。そうじゃ無いわ。私はまだ、正直に語っていない。そうじゃ無いの。あの子の在りのままを受け入れ、認めてしまったら。純太が私の手の届かない所へ行ってしまうと、心底から恐れたわ。変でしょう。でもね、本当に怖かったのよ。だから必死だった。そうならないようにするにはどうしたら良いかって。あの子が手元から離れないように、繋ぎ止めて置けるようにって。笑われるかもしれないけど、この家も、茶道も。あの子を繋ぎ止めるためにも利用した」
「お茶で繋ぎ止める?」
「バカよね。でも、あの子は茶道を自分から始めたの。自分の意に沿わないことは絶対にしないあの子が、誰に勧められるでもなかったのにね。それならば茶道を教え続ける限り、あの子は離れて行かないと思ったのよ。でも浅はかな考えだった。そんなことをしても純太を縛りつけることはできないし、どう抗おうとも、あの子は自分で歩いて行く」
 そして佐和子は、遠くを見るような眼差しで紅葉を見上げると言った。
「自分がゲイだとあの子から打ち明けられた時、自分の非力を痛感させられたわ」
 佐和子の表情からは苦渋が滲み出ていたけれども、同時にどこか吹っ切れたような安堵にも満ちていた。
「カミングアウト。純太が大学二年生の時でしたよね」
「知ってるのね?」
「彼から聞いています。辛かったけど、楽になったと言ってました。一方で悔やんでもいました。墓場まで持って行くつもりの荷物を母に背負わせ換えただけだったって。その為に母を苦しませてしまったと。言わなきゃ良かったと後悔していると。でも僕は、その時彼へ、それは違うと言ったんです。誰かに違う苦しみが始まるかもしれないけど、それは純太が自分の生き方を始めるために必要なことなんだと。そして、それはストレートとかゲイであるとかに関わりなく、誰もが通過するに違いないことなんだと。だってそれは、親から独り立ちする時に大なり小なり生じる葛藤に他ならないですから」
「そうね。そうなのよね。あの子のカミングアウトで私は苦しんだし、自分を責め続けた。でもその果てで、あることに気がついたのよ。あの子もまた、私と同様の苦しみの中で生きてきたんだなってね。彼が不条理に受けてきた苦しみに比べたら、自分の苦しみなど高が知れていると。不思議なものでね、本当のあの子へ向き合い受け入れると覚悟した時から、何かが変わり始めたわ。それまで心に描き、夢見た願望や想いを諦め、捨てるしか無かったけど老板や太太、あなたも含めて新しい出会いに恵まれた。お陰でつまらない拘りや偏見からも解放された。呪縛からあの子を解き放って。あの子が自分らしい生き方を歩めるようになって、私もまた自由になれたの。良かったと。今は、とても感謝してる」
「そうですか。良かった」
「でも感謝しつつも、今日まで自信が持てなかったのよ」
「自信が持てなかった?」
「そう。あの時に始まった受容と解放が、純太にとって本当に正しかったのってね」
「…」
「今日の稽古場での純太があなたへ熱心に教えている様子やサポートする姿を見て、これで良かった、正しかったんだと確信できたわ」
「そうなんですか?」
「嬉しそうにしながら楽しく熱心にお茶を教えるあの子の姿を、今日初めて見たもの。あの子はサミーのことが本当に好きで、あなたと一緒にいることが一番の幸せなんだなって解った。そして、それが純太の歩むべき人生なのだとね」
 佐和子はサミーの手を握ると、彼の目を見て言った。
「サミー。純太の事を頼むわね」
「はい。任せて下さい」
「そして忘れないで。今日からあなたは、私にとってもう一人の息子よ」
「佐和子さん…」
「違うでしょう。お母さんよ」
「はい。お母さん」
 そこへ、純太が姿を現した。
「母さん。サミー。何やってるの?」
「サミーと二人で、あなたの悪口を言っていたのよ」
 そう言って佐和子は長身のサミーの顔を見上げると、軽くウィンクして見せた。
「そうでしょう。サミー?」
「うーん。そうそう。悪口で結構盛り上がってたよ」
「はい、はい。俺の悪口で二人が意気投合できるなら、平和で結構なことですよ」
 少し拗ねた顔の純太を、二人は和やかに笑った。
「ああ。そうだ。言い忘れてた。早く家に入ってよ」
「どうしたの?」
「仁美さんが持ってきたケーキ。切り分けたんだ。みんなで食べましょうって」
「あら。良いわね。直ぐに戻るわ」
「早くね。熱中症になられても困るからね。早くねッ」
「わかったわよ」
 純太は先に戻った。
 彼の後を追うように歩み始めた佐和子を、サミーは呼び止めた。
「お母さん」
 佐和子、立ち止まって振り向く。
「サミー。どうしたの?」
「純太のことですけど」
「純太?」
「はい」
「純太がどうしたの?」
「あいつ、きっと…」
「うん?」
「茶道。嫌いじゃないから。心配しないで下さい」
「…」
「以前に一度。茶道をどう思ってるのって聞いたことがあるんです」
「それは、純太にとって茶道がどんな存在なのかってことかしら?」
「はい」
「…」
「あいつ。面白いことを言ってました」

『たかが一杯の茶を飲むのに道具を選び。準備し。七面倒くさい点前はしなきゃならん。茶を待っている間に足は痺れる。やっと飲めたお茶は苦くてさ。好い事なんてお菓子を食べるくらいかな。まぁ、でもさ。こんな事。好きでなかったら絶対にやらないでしょう』

「その時、純太の奴。とても嬉しそうに笑って、そう言ってましたよ」
「…」
 佐和子は何も言わず、サミーの話を聞いていた。
 そして彼女は、純太が植えた紅葉を改めて見上げる。
 彼女の瞳が潤み、眦から一滴の涙が溢れ落ちた。
 袂から取り出したハンカチで、佐和子は涙を拭った。
「イヤーねぇ。汗かしら」
 そして彼女は、穏やかな笑みを彼に向けて言った。
「やっぱり、ここは暑いわね。早く家に入りましょう」
 佐和子はサミーの手を取って、みんなが待つ家へ戻って行った。

            それぞれの不機嫌

 夜中、雷鳴混じりのにわか雨が降った。
 朝、純太とサミーが公園へ行こうと外に出た時、路面は乾いていたが公園のグランドは所々ぬかるんでいた。
そのせいで太極拳体操は、普段と逆の配置で行われていた。
二人はグランドを見渡せるベンチにグランドに背を向けて隣り合わせに座って話していたが、体操をする面々の視線が背中に突き刺さるようで妙に居心地が悪かった。
二人の前のコンクリのテーブルにキジトラがひょいと飛び乗り、ミャーオとひと鳴きすると腹ばいで横になった。
「おはよう。キビ助」
 純太はキジトラに挨拶をし、サミーはキジトラの背中を撫でた。
             *
「イー、アー、サン」
 参加メンバーに相対して体操する江津子もまた、今朝は何だか落ち着かなかった。
 …目にする景色が変わったかしら…
 自分の立ち位置は、普段と180度変わっているから、その違和感が落ち着かない原因だと思っていたが、やがてそうではないと気がつく。
 …みんな。何をキョロキョロ見ているのかしら…
 メンバーがチラ見する先で何が起きているのかを、それへ背を向けている彼女には伺い知ることができない。メンバーのソワソワが自分に伝搬していること、加えて何が起きているの確認のしようがない状況の二つが彼女のイライラの原因だった。
 そして彼女は、そんなイライラを振り払うように声を上げて言った。
「さぁ。皆さん。体操に集中してッ」
             *
 体操が終わってメンバーが三々五々に家路へ向かう中、江津子は仲睦まじく語り合う純太とサミーたちの後ろ姿を見上げて舌打ちする。そして彼女は、苛々を鬱積させた顔つきで二人が居る高台の広場へ通じる石段を足早に昇って言った。
             *
 背中をサミーに撫でられてご満悦のキジトラの奴、突然ビクッと震わせて二人が背を向ける方へ顔を向けて何かをジッと見つめた。
「キビ助。どうした?」
 純太が言い終えるより先、江津子が二人の前に仁王立ちした。
 えらい剣幕。
 彼女の気迫に押され、二人は口をポカンと開けたまま彼女の顔を見る。
「あんたたち。朝だっていうのに公園でイチャイチャしてるんじゃないよッ」
「…」
 突然の不条理な批判にムッとする純太。
「…」
 発言の意味は解らないが彼女が怒っていることだけは理解し、ただニヤニヤ顔を向けるしか他に手立てが見つからないサミー。
「あんたたち。どっちも男だろッ」
 気押されて思わず頷く二人。
「朝っぱらからブラブラして。イチャイチャして。働いたらどうなんだいッ」
 純太、切れる寸前。
 だが堪えて、静かに返す。
「僕ら働いてますよ。リモートだし」
 頷く、サミー。
 彼女がキレた。
「冗談じゃないよ。ゲイだかオカマだか知らないけど。あんたたち、目障りだよッ」
 純太、頭の中でブチっと何かが切れる音。
「うるせえッ」
 彼女に手を上げようとする純太をサミーが必死で止める。
 騒ぎを聞きつけて太極拳体操のメンバーが集まる。
 その中には、恵美と真央もいた。
 普段の純太からは想像できない彼の怒りに二人はオロオロする。
「シャオジュン(小純)…」
 サミーは、純太を強く抱きしめる。
 純太は怒りと興奮で身体を小刻みに震わせ続けた。
「何だい。男同士で抱き合ってメソメソしてんじゃないよ」
 プラスとマイナスの感情を帯びた視線が、江津子へ集まる。
「だから。だから…」
 涙を流しながら彼女は二の句を継ごうとするが、思うように声が出ない。
やがて彼女は絞り出すような声色で純太へ言葉を放った。
「だからオカマは…」
「江津子。お止めッ」
 真由美の怒声が彼女にそれ以上言わせることを阻んだ。
 そして真由美は、自分をもの凄い形相で睨んでいる妹へ言った。
「お願いだから。もうそれ以上、言うのは止めておくれ…」
 手の甲で涙を拭うと江津子は、その場から立ち去った。

              家族写真

 チャッ、リーーーーーン。
 真由美、不機嫌表情で仏壇の前で正座をするなり八つ当たりのように鐘を叩く。
 手を合わせ、目を閉じ、苛々を解消するかのように般若心経をブツブツ。
「…色即是空、空即是色…、…、…、般若波羅蜜多ッ…」
 手を合わせたまま開けた彼女の目に、文庫本と殆ど同じサイズの額縁の中で呑気に笑う連れ合いの遺影が目に入る。
 手を下ろし、亭主の顔を見て溜息をついて、彼女はポツリと言った。
「まったく、どいつもこいつも…」
             *
「いらっしゃい…」
 店に姿を現したのは愛梨親子と藤木だった。
「おや、お揃いで。どうしたんだい?」
 キジトラは想を見るなり駆け寄り、想はキジトラを抱き上げた。
「今日は、会社を休んだんじゃなかったのかい?」
「はい」
 そう言って藤木を見る愛梨の表情は何だか楽し気でソワソワしていた。
「好い事でもあったのかい?」
「実は僕たち、さっき役所へ婚姻届を出して来ました」
「えっ?」
「あたしたち、結婚しました」
「そっ、そうかい。そりゃあ、おめでとうだね」
 真由美の返事は、どこかぎこちない。
「まぁ。お座りよ」
             *
 藤木と愛梨のラブワールド。
 そんな二人を横目に見ながら真由美は、二人にお茶を入れた。
「随分と急だったね」
「はい。でも、何となくお付き合いはしていて」
「何となく察してはいたけどね。それで、式とかはどうするんだい?」
「少し先にしようかって二人で決めました」
「二人でね」
 真由美、お茶を二人にふるまう。
「ハンデミックもしばらく続きそうですし。籍だけ入れて暮らし始めようって」
 嬉しさを隠すつもりもない愛梨。
「想も彼に懐いてますし。好いタイミングかなって」
 藤木、デレデレにこにこ。
「新居は決まったのかい?」
「あぁ、それはまだ追々。当面の間は、僕のマンションで一緒に暮らします」
「そうかい。お幸せにね」
 頷く二人、お茶を啜るタイミングもバッチリ。
「それで、真由美さん。一つ、お伝えしなきゃならいことが有って」
「何だい?」
「想のことなんですけど」
「想ちゃん。あぁ、うちは大丈夫田だよ。あんたたち二人も何かと忙しいだろうから、これまで通り預かるのは構わないよ」
「あぁ。いいえ。そうじゃ無いんです」
「えっ?」
「保育園。やっと空きが出て。そちらへ預けられることになったんです」
「おや。そうかい…」
 平静さを装う真由美だったが落胆は大きく、そう言いながらキジトラと戯れる想の愛くるしい顔を見つめた。
「良かったじゃないか。ちゃんとした所に預けられるんなら、その方が安心だよ」
 真由美が二人へ笑顔を向けると、藤木と愛梨はホッとした表情を見せた。
「それで、保育園いつからだい?」
「明日からです」
「明日…」
「はい」
「それも随分と急な事だね」
 白々とした空気が場を支配する。
「まぁ。時々、想を連れて遊びに来ますから」
「あ、あぁ。そうだね。近くに住んでるんだし。今生の別れって大袈裟なことでもないしね。実家だと思ってさ、いつでもおいでよ」
「はい。真由美さんには本当にお世話になって」
「嫌だよ。止めておくれ。想ちゃんは、孫みたいなもんなんだから」
 でも真由美、ちょっとホロリ。
「真由美さん。一緒に写真を撮りませんか。家族写真」
「家族写真かい?」
「撮りましょう。撮りましょう…」
 真由美の膝の上に想が座り、彼の膝の上にはキジトラ。
 彼女の背後に藤木と愛梨が並んで立った。
「ハイ。チーズ」
             *
「真由美さん。時々、想を連れて遊びに来ますね」
「何時でもおいで」
 三人は店を出ると振り返り、見送る真由美に挨拶した。
「バァーば。またね!」
 手を振る想。
 真由美は三人の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
             *
「まったく、どいつもこいつも」
 妙にガランと静まり帰った部屋の殺風景が、久々に真由美の心に沁みた。
 そして彼女は、朗の顔を思い浮かべた。
 …あの子も来なくなったら、もっと寂しくなるのかねぇ…
 キジトラが彼女の脇に座り、背中でスリスリした。
「キビ助かい」
 そう言いながら背中を撫でながら彼女は、少し前に愛梨が送って寄越した『家族写真』を見つめながら呟いた。
「家族でも何でも無いのにね」
 フッと顔を上げ、穏やかな笑顔で連れ合いの遺影を見つめた。

             それぞれの普通

 あの騒動があってから、純太は広場で太極拳体操の行われるいる時間帯に公園へ出向くことを避けるようになっていた。
 少し情緒不安定気味の純太を心配して、サミーは彼の傍を片時も離れようとしない。
「サミー。俺、大丈夫だから。仕事に戻って」
「仕事。今日の分はもう終えてる。リモートにフレックス。ありがたい制度だよ」
 笑いながらそう言って、純太の心配を取り合わない。
 そんなサミーに少なからずの申し訳なさを感じつつも、純太は彼の存在ありがたさを痛感していた。
 コンクリのテーブルの上にひょいと飛び上がって、キジトラが二人の前に姿を現した。
 最近のキジトラはサミーのことがすっかり気に入ったらしく、二人の前に姿を現すと必ずサミーにすり寄って甘える。
 甘えるキジトラを笑って見ながら、純太は少しばかり奴に嫉妬した。
 そんな純太の気持ちを知ってか、知らずか。
サミーは笑いながらキジトラを優しく撫で続けた。
 犬が吠えた。
 キジトラが犬の方へ顔を向け、それに応えるようにミャーオとひと鳴き。
 でも両者の間に敵対はない。
むしろそれは、顔馴染み同士の挨拶といった風情だった。
「ここに座っても良いかしら?」
 何度か見掛けたことのある犬連れのご夫婦。
 話しかけてきたのは、奥さんの方だった。
「あっ。どうぞ」
 純太とサミーの対面に二人は腰掛けた。
 長い年月を共にしてきたご夫婦には違いないのだが、純太は二人に何かの違和感のような物を覚えていた。
「お二人。カップルでしょう?」
 ストレートな物言いだったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「はい。彼はサミー。僕は二宮純太です」
「私は柴田市太郎と言います。彼は、伴侶の奈緒子です」
「?」
「?」
「イチコ。ややこしいよ」
 旦那がそう言うと、彼女は悪戯っぽく笑った。
「二人とも性同一性障害というやつでしてね」
「あぁ…」
「まぁ、結婚した時は市太郎と奈緒子だったんですけど、途中で本来の性で生きたくなってね。市太郎は彼女に、僕は彼になりました。僕は彼女のことをイチコと呼んでますし、彼女は僕のことをナオさんって呼んでます」
 ナオはサミーに通訳する純太に言った。
「彼は台湾人?」
「はい」
「二人とも英語は大丈夫?」
「大丈夫です」
「それじゃあ、英語で話しましょう」
 何とも珍妙な展開だが、四人は屈託なく笑った。
「お二人とも英語、上手ですね?」
「僕ら、普段はアメリカに住んでいるからね」
「あぁ。それで…」
「サミーさんとは結婚されているの?」
「恋人です。僕は日本人だから、彼と結婚するとなるとクリアーしなければならないことが色々とあって」
「国も国籍も、愛に対しては時として厄介だから」
 ナオの発言に三人はそれぞれに笑った。
「お二人は帰国されたんですか?」
「一時帰国ね。グリーンカードも取得しているから、現在は二人とも米国人よ。今回の帰国が、ひょっとして最後になるかもしれないわね」
「最後?」
「イチコのお母さん。義母が亡くなりましてね。その後始末ですよ」
 後始末という言葉に純太はちょっと引っ掛かったが、イチコは気にする風もない。
「ねぇ。この間『オカマっ』て言われていたわね」
 イチコ、何だか楽し気に言う。
「はい」
「侮蔑を込めて『オカマっ』て言う人を久し振りに見たけど、ショックだった?」
 純太、力なく頷く。
 そんな彼の肩をサミーは優しく抱いた。
「私もそう言われて、昔よく罵られたわ」
「僕は『オカマ』じゃなくて『レズ』とか『おなべ』だったけど」
「どっちも煮炊きの道具ね。ゲイって、台所用品なのかしら?」
「なら、家の中で少しは役に立ってるってことだね」
 四人、互いの顔を見て失笑。
「でも、お二人はゲイとかじゃないでしょう」
「まぁ、そうだね」
「見た目がこんなだから好きになる相手は同性と思われているけど、自分自身に従うなら同性愛じゃないわ」
「何ともややこしいけどね」
 ナオは飄々と話す。
「私たちが出会ったのは中学生の時だったけど、その時はどちらも『オカマ』とか『おなべ』とか呼ばれる存在だった。僕は女子が好きだったし、イチコは男性に惹かれ」
「人は外見で判断するでしょう。どちらも内面に従えばごく普通のことなんだけど、外見に基づいた行動様式としては同性愛としか見られない。だから怯えて、違和感に嫌悪し、とても辛かった」
「そんな二人が恋に落ちた?」
 サミーがそう言うと、二人は嬉しそうに笑った。
「恋に落ちた。素敵ね」
「一目惚れっていうのかな。僕らの普通なら惹かれるはずないのに抑えられなかった」
「私は戸惑ったわよ。何で女子を好きになるんだって」
「そうだったの?」
「彼から好きだって告白されて、私は正直に全部打ち明けたのよ。そうしたら、彼も同じだって判って」
「へぇー」
「高校も大学と一緒で。同じ大学の医学部に入ったのよ」
「お医者さんなんですか?」
「研究医だね。二人とも性同一性障害の研究をしてる」
「えっ、それ何年前ですか?」
「四十年近く前。研究者が米国かヨーロッパにしか居なくて。何でそんな研究を二人で熱心にやってんだって変な目で見られたわよ」
「医局でも僕たち、変わり者扱いだったなぁ」
「あたしは違うわよ」
「気づいてないだけだよ」
 四人、和やかな笑い。
「ご結婚されたのは?」
「米国へ留学する直前。とても祝福されたわ。特に、どちらの親もね、同性愛が治って良かった、孫の顔が見られるって、どっちの親も手放しの大喜び」
「次は子供の期待なのかって、ちょっと複雑な思いだったけど」
「お子さんは?」
「二人。娘と息子」
「姉と弟だね」
「下の子はね、日本の大学院に留学中なのよ」
「アニメが好きでね。この近くに住んでますよ」
 ナオは少し改まった表情で二人を見ながら続けて言った。
「最初の子が出来た時、本来の自分達になろうって二人で決めたんですよ」
 ナオはそう言うと、膝の上に前脚を乗せて甘える犬の頭を撫でた。
「本来の自分、ですか?」
「そうよ。あたしは市太郎であることを捨ててイチコへ」
「僕は奈緒子からナオへ」
「周りの反応はどうでした?」
「大騒動よ。生まれて間もない娘を連れて帰国したんだけど、あたしの母泣き出すし、彼の母親は気を失っゃって。初孫との対面なんかどっかに吹っ飛んじゃったわよ」
「そりゃあ、そうさ。娘が息子へ変わり、息子が娘になって、孫連れて米国から帰ってきたんだからさ。何が起きたのなんて通り越したパニック状態。当に修羅場でしたね。その後はどちらも勘当みたいになって、音信拒絶でした」
「米国ではどうだったんです?」
「丁度タイミングが良くてね。LGBT運動が盛んになり始めた頃だったから。周りにもそんな感じの友人や知人も多くいて。だから色々とサポートしてくれました」
「二人の子供の教育の点では良かったわね」
「そうだね」
「日本だったら…」
「暗い仮想ばなしは止めましょう」
 四人、苦笑。
「一時帰国は息子さんに会うためですか?」
「いいえ。実は、あたしの母から突然連絡が着たの。会いたいって」
「余命宣告受けたようです。僕の場合は、もう二人とも亡くなりましたが、勘当されたとは言っても気持ち的な蟠りはあって。今となっては解消も叶いません。イチコにそんな思いをして欲しくなかったから。会うことを勧めました。実は、今回こんな展開となったのは息子が尽力しましてね」
「こちらに留学中の息子さん?」
「ええ。日本に着て直ぐ、会いに行ったみたいです。初めの内は門前払いで会ってもらえず。でも少しずつ打ち解けていって、今回の連絡に至ったわけです」
「でも気持ちの整理がつかなくて。帰国を先延ばしてたの」
「それで、直接お会いになれたんですか?」
「ギリギリ。パンデミックが酷くなる直前だったわ。本人の意識がしっかりしている内に会うことができた。会話ができる最後のタイミングだったわね」
「どうでした?」
「親子してずっと泣いてましたね。何度も詫びられたし」
 ナオがイチコの手を握った。
「あたし。母から一度だけ、『オカマッ』て言われたことがあるのよ。だから、母はそのことについて何度も何度も詫びてた」
「…」
「母、ずっと悔やんでいたみたい。私も、その時の母のことが忘れられなかった。だからその時に、あの当時の正直な気持ちに伝えたの。そうしたら母が急に泣いて詫びて。もう良いから、もう大丈夫だからって、私も言い続けて。母の手を握ったの。自分が知っていた母の手なんかより小さく痩せ細って。でも母の手の温もりだけは昔のままだった」
 ナオは、更に強くイチコの手を握った。
「母は安心した様子で眠ってしまって。寝顔を見続けている内に、心の中でモヤモヤしていた蟠りはすっかり消えて無くなってたわ。母も思わず口にしてしまった侮蔑の言葉だったけど、母の負った心の傷は私以上に深かったのかもしれないわね」
 イチコはニッコリ笑い、続けて言った。
「あなたに侮蔑の言葉を吐いた彼女も、きっと母と同じだと思うの。だから、もし彼女があなたへ許しを乞う機会に恵まれたら、受け入れてあげて。それは、彼女のためではなくて、あなた自身の為になることだから」
 純太は何も言わず、ただ頷いて見せた。
 クラクションが鳴った。
 その音に向かって夫婦の愛犬が吠えた。
 公園前の道路に横付けされた乗用車。
 その前で若い男が手を振っていた。
「息子ですよ。戻るのが遅くなったから迎えに来たんでしょう」
 夫婦は腰を上げた。
「もう行かないと。お二人の邪魔をして済まなかったね」
「とんでもない。楽しかったです。少し元気になれました」
「そう。良かった。どんな時も、二人で乗り切ってね」
「はい。そうします」
「さぁ、行こうか。自慢の息子がお待ちかねだ」
 純太とサミーは、ナオとイチコ夫妻を見送った。

          ターニングポイント

 坂本園の柱時計が、夕方五時の時を告げた。
 仁美が朗の相手をしている。
 キジトラキャットは朗の膝元で居眠り。
 奥のキッチンで真央が夕飯の支度。
 普段と変わりない光景。
 …そろそろお迎えの時間かねぇ…
 彼女はそう思いながら何気なく外を見ていると、坂本園の扉が開いた。
「いらっしゃいませ?」
 真由美はそう言って挨拶はしたものの、開いた戸口に立つ男に見覚えがなかった。
 初めてのお客さんかと思っていると、朗の声が店内に響いた。
「パパっ…」
 朗は、その男の許へと駆け寄った。
 突然の異変に目を覚ましたキジトラだが目をパチクリさせながら辺りを見回し、駆け去る朗の背中を見るとミャーオとひと鳴きし、再び目を閉じて眠りに落ちた。
「朗っ」
 男は朗を抱き上げた。
 久し振りの再会に歓喜し、父親に甘える朗。
「恵美さん…」
 消えて無くなってしまいそうな気配で控えめに佇み、父と子の様子を少し不安気な様子で見ている彼女へ、真由美は更に声を掛けた。
「ご主人?」
 恵美、無言で頷く。
「下田です」
 男が差し出した名刺には『下田誠也』とあった。
「しもだ、せいやさん?」
「はい。家内と息子が大変お世話をお掛けしました」
「お世話だなんて。大したことはしていませんよ。ねぇ、恵美さん」
 恵美は誠也の背後で俯くだけ、ひたすら影が薄い。
「まぁ。ご主人が帰国なされて良かった。これで、ちょっと安心だねぇ…」
 恵美は、ぎこちない笑顔を真由美へ向けた。
             *
 真由美は、下田親子にお茶を出した。
「どうぞ。遠慮なく召し上がって下さい」
「うわ、美味しい」
 真由美のお茶が本当に美味しかったらしく、誠也は無邪気に感動しながら飲んでいる。
「ホッとしますよ。日本に戻って来たって身に沁みて実感です」
「大袈裟ですねぇ。でも、お世辞でも褒められると嬉しいですよ」
「お世辞なんかじゃありません。このお茶、本当に美味しいですから」
 対照的な夫婦だった。
 いいや、あの日を境に二人の関係はこうなってしまったのだろうか。
 恵美に初めて会った時、彼女は颯爽として自信に満ちあふれていた。でも、彼女が発するあの輝きの影で彼女は苦悩し、不安と恐れの海に漂いながら救いを求めていたのかもしれない。誠也とは恵美のネグレクトが露見した直後にネットを介して話してはいたが、実際と当人と話す機会を得て、真由美は一抹の不安を覚えた。一見、快活を思わせる彼の明るさの中に、形容しがたいガサツさと無神経を感じたからだった。同時にそれは、誠也が望む『恵美』を彼女が演じ続けなければならない一因だったようにも思えた。
「暫くの間、日本にいらっしゃる感じですか?」
「二週間程ですか。日本に戻れるよう会社に掛け合っているんですが、後任が決まる迄は会社も配慮しづらいようで。帰国すると空港での留め置き含めて一ヶ月は空けることになるので。まぁ、今回は出張という扱いです」
 誠也から二週間と聞いて、真由美は内心ホッとした。
 それは恵美にとって誠也が傍に居ることが反って重荷となるのではないかという勝手な思い込みからだったが、何気なく目にした恵美の顔にも安堵からくる表情の緩みを感じたから、自分の洞察は案外間違ったものではないと真由美は思った。
「二週間ですか。お仕事。お忙しいのですね」
 言ってしまって真由美は嫌味に聞こえやしなかったかと後悔したが、誠也は気にする風情も無く笑顔を見せながら膝に乗せた朗の相手をしている。
「朗ちゃんのことはご心配なく。うちは全然構いませんから、お気になさらず」
「あぁ。その件なんですが。すっかりお世話になってしまって。感謝しております。ただ、幸い保育園に空きが出まして。朗を預けられるようになりました」
「おや。それは良かった。保育園、いつからですか?」
「明日から通うことになります。今日は、私と恵美で入園の手続きに行ってまして」
「明日から。そ、そうですか…」
 真由美、朗の顔をジッと見つめる。
「そう。明日から…」
 朗、父親の膝の上から離れて真由美に抱き着いて甘えた。
 そんな彼の頭を撫でながら真由美は、朗に話し掛ける。
「明日から保育園だね」
「ほいくえん?」
「お友達、いっぱいできるよ」
「バァーば…は?」
「バァーば、ここに居るよ。いつでも遊びにおいで」
 朗はフッと父親の顔を見てから言った。
「来ても良いの?」
「おいで。キビ助も待ってるよ」
「うん」
「ママも一緒に来て良い?」
「もちろんだよ」
 恵美は真由美の一言にハッとし、顔を上げて彼女を見た。
 そんな彼女の顔を見ながら真由美は言った。
「朗ちゃんのママとバァーばとは、お友達だよ。いつでも二人の傍に居るよ」
             *
「バァーば。またね!」
 手を振る朗。
 真由美は、三人の後ろ姿が夜の街に消えるまで見送った。

            それぞれのモヤモヤ

 朝、九時。
 真由美は、シャッターを上げて店の外に出で身体を伸ばした。
 店の前に広がる茶畑は夏の朝日に照らされ、葉の朝露がキラキラ輝いている。
「イー、アー、サン」
 公園の広場から微かに聞こえる太極拳体操の掛け声。
「そろそろかねぇ…」
 掃除をしようと箒を手にし、店の前の通りを眺めて普段通り呟いた彼女だったが、ハッとして手を止めて溜息を漏らした。
「二人とも、今日から保育園だったね」
 二人が通うはずの保育園の外観を不機嫌に見ながら、真由美は店の前の掃除を始めた。
             *
 朝、九時。
江津子は、公園の広場で太極拳体操をして身体を伸ばしていた。
彼女の面前の参加者たちは木陰に散開し、無表情だが体操に精を出している。
「イー、アー、サン」
 蝉の声に混じって太極拳体操の掛け声が広場に響く。
…今朝も、あの二人来てない…
広場から公園への階段を上ったところにあるテーブルベンチ。
毎朝そこにあった二人の姿は、あの騒ぎ依頼途絶えていた。
…ふん。清々するよ…
そう強がってみるが、彼女の心は言葉とは裏腹にスッキリしない。
             *
 朝、九時。
 寝起きの純太は、バルコニーに出て朝の町を眺めている。
 傍らに居ない純太を探し、バルコニーに彼を見つけるとサミーもベッドを出る。
「イー、アー、サン」
 公園の広場から微かに届く太極拳体操の掛け声。
「早安(ザオアン:おはよう)」
 サミーは純太の越しに手を回し、背中越しに彼を抱きながらそう言った。そして彼の首に口づけをすると彼の肩に顔を乗せて言った。
「公園。ゆっくりで好いんじゃない」
 純太、安堵の嘆息を漏らすとサミーの手に自分の手を重ねて握った。
             *
 太極拳体操が終わって。
 高台のテーブルベンチに座って仁美と真央は話している。
「先生。今朝も来ませんでしたね」
「あんなことがあったから。来難いわよ」
「あたし、先生に連絡してみようかしら」
 スマホを取り出そうとする仁美を真央は押し止めて言った。
「そっとしときなさいよ。サミーさんもいるんだし」
「そうですね」
 二人の前を保育園児たちの一団が通り過ぎる。
 その中に想と朗の姿もあった。
「あら。想ちゃんと朗ちゃん」
 仁美がそう言って二人を見ていると、彼らも気がついて手を振る。
 彼女たちは、彼らに手を振って見送った。
「最近、先輩も公園に姿見せないわね」
「あの子たちを保育園に取られちゃいましたものね」
「先輩。落ち込んでるのかしら?」
「えっ?」
 仁美、小首を傾げながら真央を見る。
「大丈夫だと思いますよ」
「えっ?」
「心配されているんですか?」
 真央、仁美の顔をマジマジと見つめて言う。
「午後。様子見に行ってみるわ」
             *
「静かな朝だね、キビ助」
「ミャーオ」
 真由美、茶を啜る。
「寂しい朝だね、キビ助」
「ミャーオ?」
「どうして誰も来ないんだろうね、キビ助」
「ミャーオ…」
 真由美、突然キビ助を抱き上げる。
「みゃーおッ」
 真由美、キビ助に頬ずり。
「み、ゃーーーぉ…」
「みんな。どこへ行っちゃったの?」
「みャ…ォ…」
 真由美が余りにも強く抱きしめるので、キビ助は苦しくなって唸りながら鳴く。
「本当は、あたしだって寂しいんだよ」
「…ゃ、…ぉ…」
 真由美、キビ助に頬ずりハラスメント。
「キビ助。あんただけは傍にいてね」
「…、…、み…、ゃ…お…」
 柱時計が、午前十時の刻を告げる。
 ボーン、ボーン、ボーン…。
 その音に真由美は驚き、キビ助を抱締める力が抜けた。
 キビ助はひょいと真由美の抱擁から抜け出し、床の上へ飛び降りるなり大きな背伸びをした。
 そして、真由美の顔を見ながらミャーオとひと鳴きした。
「キビ助。お前まであたしを捨てるのかい」
 その時、ドアが開くと顔馴染みの宅配業者が店に入って来た。
「おはようございます」
 彼と入れ替わりにキビ助は外に出た。
「何だいッ」
「あっ。その、荷物です」
「間の悪い」
 突然小言を言われ、宅配業者の若者は苦い顔。
 ガラス戸の向うで、キビ助は毛づくろいをしている。
「キビ助。戻って来ておくれ」
「だから坂本さん。お荷物ですって」
「ミャーオ」
「あっ。キビ助。行かないで」
「坂本さん。ハンコお願いします」
「行かないで。あたしを一人にしないで」
 キビ助の後ろ姿を見送るしかない、真由美。
「ハンコ。あっ、そこじゃぁ…」
「えっ?」
 ふと我に返り、宅配業者の顔を見て真由美は当惑した。
 憮然とする宅配業者の若者。
 真由美は、彼の額にハンコを押していた。
             *
 午後、坂本園。
 閉じたシャッターの貼紙を見て、真央は呆然と立ち尽くす。

『午後、休みます。店主』

 足元で身体をスリスリさせながら甘えているキジトラキャット。
「キビ助。あんた、先輩と一緒じゃなかったの?」
真央の不安、増々募る。
 貼紙を写真に撮ると、それを空かさず仁美へ送る。
 だが、いつまで経っても返事はない。
 彼女の不安は更に募る。
「先輩の身に何か起きたんだわ」
 勝手に空騒ぎの真央。
「どうしよう。どうしよう。どうしたら良いの?」
 彼女はキジトラの奴を抱き上げる。
「ねぇ。キビ助。どうしたら良いか教えてよ」
 もがき、動き回って逃げようとするキビ助。
「頼むから。キビ助。私、どうしよう」
 居心地の悪い彼女の胸の中でキジトラキャットは一際大きく鳴いた。
「ミャーーーオッ」

           ここから始める

 駅ビルのスーパーで買い物中の純太とサミー。
 そこで二人は、買い物途中の江津子にバッタリ出くわした。
「あっ…」
 純太は小さく声を上げ、思わず立ち止まった。
 目の前の江津子も気まずそうな顔つきで立ち止まり彼の顔を見たり逸らしたり、純太と目を合わせたり背けたりと落ち着ない様子。
 目のやり場に困った純太だったが、彼女が右手に下げるエコバックから顔覗かせている花束に目を留めた。
 江津子は、彼の視線を気にしてかエコバックを背後に回す。
 純太が彼女へ話しかけようとした時、彼を後ろから呼ぶサミーの声が届いた。
「シャオジュン」
 純太が振り返るより先に隣に立ったサミーだったが彼もまた江津子を見て顔色を変え、
純太を庇うように彼女と彼との間に立った。
「サミー」
 そう言ってサミーの顔を見上げ、彼は恋人の右手を握った。
「いいよ。行こう」
 サミーは黙って頷き、純太の手を強く握る。
 そして二人は、江津子に背を向けて歩き出した。
「待って」
 江津子の声に二人は足を止める。
「朝のこと…」
「…」
「本当にごめんなさい。謝ります」
 二人が振り返って彼女を見ると、江津子は深々と頭を下げていた。
 互いの顔を見合わせる純太とサミー。
 レジ待ちしている数人の買い物客の視線を感じ、純太は言った。
「もう良いですよ。解りましたから。頭を上げて下さい」
 そう言われても、彼女は下げた頭を上げようとしない。
 困り顔で互いを見合わせる二人。
 見かねたサミーが彼女の肩に手を置くと小刻みに震えていた。
 サミーは当惑気味に純太を見る。
 純太、溜息。
「ところで、お墓参りですか?」
「えっ?」
 純太は、彼女が下げているエコバックから顔を覗かせている仏花の束をゆび指した。
「あぁ。これ?」
 ちょっと間が空いて、江津子が答えた。
「今日。息子の命日だから」
「そうですか。では、僕たちはこれで…」
 立ち去ろうとする二人を江津子が再び呼び止める。
「もし、良かったら」
 振り返る二人に彼女は言った。
「もし良かったら、お墓参りに付き合って戴けないかしら?」
 二人、当惑顔。
「ごめんなさいね。ご迷惑なのは承知の上でのお願いの」
「僕たち。息子さんのことを存じ上げませんから。参る理由がありませんよ」
 冷やかに純太は告げた。
「そう、そうよね…」
 項垂れて肩を落とす彼女へ、サミーは穏やかに言った。
「どうして僕たちに?」
「サミー」
「詫びたら受け入れてあげるんだろう」
 サミーが諭すと純太は従った。
「どうして僕たちに、一緒に墓参りをして欲しいんですか?」
「それは…」
 江津子は意を決したように二人へ告げた。
「息子はゲイで、それが理由で自ら命を絶ってしまったんです」
             *
 江津子が二人を連れて行ったのは寺ではなかった。
そこは駅ビルから歩いて十分くらいの住宅地の中にあって、ブロック塀に囲まれ鉄の扉を供えた一族の墓所地だった。吉村家と坂本家の墓所地が隣り合わせにある。
「一族の立派な墓所地ですね」
 純太が尋ねると江津子は素気なく答えた。
「坂本家が本家で吉村家は分家。どちらの家も、この一帯の開拓民の末裔」
「開拓民って、ご先祖は江戸時代ですか?」
「吉村家は鎌倉時代。坂本家は平安時代よ」
 純太は溜息を漏らした。
 江津子は吉村家ではなく坂本家の墓所に入って行った。
「あれっ。そっちじゃないんですか?」
 振り返り、純太の顔を見ただけで江津子は何も答ええず墓所内へ入って行った。
             *
「こっちです」
 墓所内には、大小の幾つかの大理石の墓石が連立していたが、それだけを取って見ても坂本家の歴史を感じるに十分だった。だが江津子に案内された先にある墓石は、周囲とは対照的な自然石の墓標だった。
 その表裏に墓に眠る主の名前は刻まれていない。
 その無名の墓の前で身を丸めて屈め、江津子は手を合わせて祈っていた。
「これが、亡くなった息子さんのお墓ですか?」
 純太の問いに江津子は顔を上げなかったが、泣きながら何度も頷いているのは二人にも見て取れた。
「えっ。でも、どうして坂本家の墓所にあるんです。吉村家の…」
 江津子か堰を切ったように泣き出した。
「分家の墓所に葬ることを一族が拒んだからだよ」
 二人が振り向くと真由美が居て、江津子に代わって答えた。
「ゲイであることを苦にして自殺した。世間体が悪いってね」
 真由美は江津子の傍らにしゃがみ震え続けている彼女の両肩を抱いて顔を上げさせた。
「どうしてよ。あの子の何が悪いのッ」
「悪くないよ。江津子。何も悪くないよ」
「でもお姉ちゃん。悪くないあの子を私も主人も責めた。悪いと言い続けた。病気だって責めて。『オカマなんて止めなさいッ』て何度も言ったの。でもそれは、それは、そんな事を信じたくなった。そんなはずが無いって自分に言い続けて。だって。だって、だってそうでしょう。周りの男の子たちは女の子を好きになって、結婚して、家庭を持って。あたしだって、あの子がそうなって孫が生まれて、孫に色々なものを買ってやったり、お小遣いをあげたりして、吉村の家が代々続いて。そんな夢を見ていたのに、どうして私だけ夢を見ちゃいけなかったの。諦めなきゃならなかったの。ねえ、どうして。どうして。どうしてよ。どうして、あたしだけが、そうしちゃいけないの。どうしてダメなの?」
「…」
「あの子には両想いの人がいたの。でも、彼には絶対会わせなかった。あの子を家に閉じ込めて。連絡の手段も絶って。その人からの手紙も全部処分して。そうすれば、あの子はきっと思い直してくれるって。考え直してくれるって。そう信じてた」
「江津子。もう良いから…」
「あの子が亡くなった朝。朝ごはんを部屋へ持って行ったの。ノックをしたけど返事が無くて。声を掛けたけど、何度もあの子の名前を呼んだんだけど返事が無くて。ドアのノブを回すと、ほんの少しだけ開いて。その隙間から、あの子のパジャマが見えて。あの子、ドアの前に座ってて。何度押してもドアが開かなくて。あの子の名前を叫んでも返事が無くて。隙間に手を差し入れてパジャマ越しにあの子の腕に触るけど冷たくて。何度押しても、ドアが開かなくて。あの子が死んじゃったの。死んだんじゃない。あの子を、あの子を私が殺したの。私のせいで死んでしまった。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめん…」
「もういいよ。もう、十分苦しんだ。だから、好きなだけお泣き。辛かったんだね」
 江津子は、姉の胸に顔を埋めて泣いた。
「あの日からずっと、江津子の時間は止まったままなんだよ。悔やんでも、悔やみきれない。どんなに自分を責め続けても失ったものは取り戻せない。そんな妹に追い打ちをかけたのはお墓のことだった。分家の一族が埋葬を拒絶してね。お骨は行き場を失った。途方に暮れた妹を救ったのが、うちの亭主だったんだよ。あの人の一言で、ここに埋葬することになってね。本家の惣領の決定だから誰も文句は言えなかったけど、くちゃくちゃいう輩は少なからず居てさ、無記名の墓石だけになったんだよ。でもさ。これって故人に対する存在否定じゃないか。この子に対して何もしてやれなかった無力さが、妹を一層傷つけてしまった。毎月、命日が来ると江津子はここに来て我が子に泣きながら詫び続けてね」
「そんな。なんで。江津子さんが、そこまで苦しまなきゃならないんです?」
「そうせずには居られなかったんだよ。心を閉ざして、いいや殺して、自分を責め続けるとしか他に思いつかなかった。でも辛いから、他のことで気を紛らわすしかない」
「それが太極拳体操だったんですか?」
「そうだよ、サミー。あの体操のリーダーを務めることで、自分が世の中から存在を認められてる、亡くなった息子のことを忘れられる時間を持てたんだよ。ずっと落ち着いていたんだけどね。二人を見掛けるようになってから、妹の心が動き始めた」
 純太とサミーは互いの顔を見合わせた。
「ごめんなさい」
 そう言って、江津子は涙を拭いながら顔を上げて二人を見た。
「あなた達が悪いんじゃないの。憎しみとか侮蔑とかでもない。ただ悔しかった」
 二人、それぞれの思いで江津子を見る。
「誰の目を気にするでもなく。自然に、幸せに振る舞っているあなた達を見て、息子も生きていればあんな風に誰かと幸せになれたかもしれない。二人のように笑って暮らせたかもしれない。そう思うとやり切れなくて。悔しくて。その権利を奪ってしまったのは他ならぬ自分だと思うと無性に腹が立って。ムシャクシャして。忌々しくて。口を突いて出た罵声が『オカマッ』だった。ごめんなさい。でも、これは言い訳にしかきいてもらえないかもしれないけど、本当は、あの侮蔑の言葉はあなた達二人へ向けたんじゃないの。あれは、私自身に向けた言葉だった。だから、本当にごめんなさい」
 純太はサミーの顔を見た。
 サミーはニッコリ笑うと、励ますように純太の背中を押した。
「江津子さん」
「えっ?」
 彼女の前にしゃがむと、純太は江津子の目を見て言った。
「僕たち二人にお線香を上げさせて貰えませんか?」
 サミーもまた、純太の隣にしゃがんで江津子へ微笑みかけた。
             *
 お墓の前で手を合わせる二人。
 細く、ゆっくりと立ち上る線香の煙。
 二人の背中を見守る江津子と真由美。
 墓前で百合の花が、晩夏の夕風で心地好く揺れた。
             *
 翌朝、中国語レッスンが再開された。
「ええっ。先輩、お休みなんですか?」
 真央の顔色が変わった。
「真由美さん。午前中、用事があるとかでレッスン休むって聞いてますよ」
 純太は、真央の不安をどこ吹く風といった様子で真由美の欠席を伝えた。
「ええっ。ええええっ。だ、だって。先輩。昨日の午後、お店も休んで…」
「真由美さんからは、私の所にも連絡着ましたよ」
 仁美も普通に話す。
「大丈夫かしら…」
「大丈夫じゃないですか?」
「先生の言う通りだと思いますけど、真央さんは何を心配されてるんですか?」
 仁美、キョトン顔。
「だっ、だって。先輩だけじゃないのよ。太極拳体操だって。リーダー、休んでるし。あの姉妹に何かあったのよ」
「真央さん。かーん考え過ぎですよ」
「何かあったか。まぁ、確かにあったかもしれないなぁ…」
 純太、含み笑い。
「ええっ。先生。あのお二人に何かあったのを知ってるんですか?」
「別に何もないと思いますよ」
「そうですよねぇ。真央さんの考え過ぎに決まってますよね」
 純太、悪戯っぽく小首を傾げる。
 そんな彼の様子に真央の不安はクライマックス。
「えええええええッ。先ぱぁーーーい…」
              *
 佐和子が点てた茶を飲む江津子の表情がふっと解れ、彼女は思わず気持ちを口にした。
「美味しい…」
「そうですか。それは良かった」
 飲み終えて、茶碗を体の前に置くと江津子は佐和子に尋ねた。
「純太さんには、大変失礼なことを申し上げました。お詫びします」
 佐和子は、江津子の隣に座る真由美の顔をちょっと見る。
真由美は穏やかに頷いて見せた。
「江津子さんに比べたら私なんかは幸せな方だけど、息子のことでは私だって辛かったんですよ」
「…」
「私だって思い描き続けてきた大半を諦めなければならなかったから。それに自分自身を随分責めましたしね。でも、何よりも辛かったことは心の内を誰にも言えなかったこと」
「先生も?」
 静かに頷き、佐和子は言った。
「誰かに亡くなった息子さんのことを話すことから、先ず始めてみては如何ですか?」
 江津子の表情がパッと華やいだ。
「だって私もゲイの息子の悪口を誰かに言いたくて仕方ないんですもの。でもね、同じ悩みを持った人でないと解らないじゃない」
「…」
「江津子さんならきっと、息子に関する愚痴を山ほど聞いてくれそうだわ」
 思わず江津子が笑みを漏らした。
「だから、ここで」
「ここで?」
「ここから始めましょう。あたし達が笑顔になれる人生を」

             それぞれの朝

 真由美は店の外に出ると、大きく背伸びをして深呼吸をした。
 …今日も一日が始まるねぇ…
「想ちゃんッ」
 朗の声を耳にして真由美はハッとする。
 声のする方へ目を向けると、愛梨に手を引かれて保育園へ向かう想に駆け寄る朗の姿を目にした。
 そんな息子を小走りに追い駆ける恵美。
 保育園の前でじゃれ合う想と朗を挟んで、カジュアルスーツ姿の愛梨と恵美か談笑を始めた。
 ふと恵美が自分たちを見ている真由美に気がつき、二人は彼女へ会釈した。
 真由美も軽く手を振って二人の挨拶に答えた。
 …元気そうで何よりだよ…
 保育園に入って行く想と朗。
 息子を送り届けて職場へ向かう愛梨と恵美。
 真由美は四人を見送り、店のシャッターを開けると店の中へ姿を消した。
             *
 朝。
 公園へ向かう純太とサミーの傍らに車が停まった。
 開いたドアウィンドウからイチコが顔を覗かせる。
「おはよう」
「あっ。おはようございます。お出かけですか?」
 純太の問いにイチコが笑って答えた。
「今日、帰国なの」
「あぁ。そうでしたか」
「お二人とも、またね」
 そう言いながらイチコは二人へ名刺を渡した。
「米国に来た連絡して。歓迎するわ」
 走り去る車を二人は手を振って見送った。
             *
「イー、アー、サンッ…」
 純太とサミーが公園に着いた時、太極拳体操は始っていた。
 普段利用しているベンチと備え付けのテーブル。
 数日振りに目にした光景だったが、純太の目にそれは新鮮に映った。
 テーブルの真ん中でキジトラキャットが寝そべっている。
 二人がベンチに座ると、眠そうに欠伸をして眠り始めた。
 サミーは、そんなキジトラの背中を指先で優しく撫でる。
 キジトラは喉をゴロゴロ鳴らしながら目を閉じ、上機嫌。
 ぼんやり体操を眺めていたが、二人は江津子と目が合った。
 純太とサミーを見て、江津子がウィンクしてみせた。
 予想もしないハプニング。
 二人の表情は固まり、サミーの指先も停止。
 そして彼らは互いの顔を見合わせて言った。
「ウィンク。してたよね?」
「対、対。ウィンク」
 二人は思わずもう一度、江津子を見る。
 そこには仏頂面で太極拳体操に励む、普段と変わりない彼女が居た。
             *
 純太たち四人が座るテーブル付のベンチ。
 そこへ真由美が姿を現した。
 ホッとした表情の真央が何かを言おうとした時、真由美はキジトラをギラリと睨むと溜息混じりで言った。
「朝から姿を見掛けないと思ったら、こんな所に来てたのかい。まったく。気ままな猫だよ。明日から、朝ごはんは要らないね」
 物憂げに目を覚ましたキビ助、立ち上がってサミーの手をすり抜けるとテーブルの上から真由美の脇に飛び降り、身を摺り寄せながら横になった。
 調子の好いキジトラを撫でながら、真由美は溜息混じりに言った。
「まったく。キビ助の奴。調子の好いよ」
 中国語のレッスンが始まった。

             HANABI

 ゴールデンウィーク明けから間もない皐月のある夜。
 真由美が目を開けると男の顔があった。
「ぎゃーッ」
 ガバッと彼女が上体を起こすと、目の前で腰を抜かして座る白装束の林太郎が居た。
「お、お父さん…」
「真由美。驚かさないでくれよ。心臓が止まるかと思った」
「それはこっちのセリフですよ。それにお父さんの心臓は止まってるでしょう」
「あぁ。そうだった」
「もう…」
 二人、苦笑。
「どうしたんです。急に現れたりして」
 そう言いながら真由美は、林太郎の両脇で甲斐甲斐しく世話をする美女たちを見た。
「最近、元気が無さそうだから様子を見に来たんだよ」
 鼻の下を伸ばして呑気にそう言う林太郎を、真由美は溜息混じりに眺めて言った。
「お父さんは随分と元気そうですね」
「まぁね」
 林太郎、デレデレ。
 もう一度、今度は疲れた溜息をついて真由美。
「そろそろ、あたしもそっちへねぇ…」
 林太郎は困った顔つきで彼女を見ながら言った。
「それはダメですよ」
「どうしてですか。今、あたしがそっちへ行くと困るんですか?」
 林太郎は首を左右に振って言った。
「違うよ。だって真由美は、私の遺言を果してくれてないじゃないか」
「えっ」
「そんなに急がなくたって。お迎えなんて、その内に嫌でも来るからさ。待ってて」
「でも…」
 林太郎、両脇の美女たちとまたイチャイチャ。
「それにさ。もう直に、こっちに来たくなくなるくらい楽しくなるからね」
「楽しくなるって。お父さん…」
 林太郎たちの姿が乳白色の霞の中にフェードアウト。
「お父さんッ」
             *
 真由美は突然目覚め、上体を起こした。
「あっ。夢…」
 そこは寝室として使っている居間。
まだ弱い朝日にほんのりと照らされた部屋は普段と何一つ変わりなく、その一つ一つを見て確認すると真由美の昂っていた気持ちが落ちついた。
真由美は布団を抜け出すと襖を隔てた隣にある仏間へ行く。
仏壇の前に座ってチャリーンと一叩きして手を合わせる。
気分が落ち着いて目を開けると彼女は、経机の隅に置かれたプラスチック製の小箱を手に取って眺めながら呟いた。
「もう。林太郎のやつ。あんな遺言残して…」
             *
 真由美が話した夢の話と中国語を勉強しようと思い至った経緯を聞いて、サミーと純太は腹を抱えて笑った。
「ちょっと、お前さんたち。笑い過ぎだよ」
「それが中国語を勉強しようと決心した理由だったなんて」
「だって。悔しいじゃないか。若い美女二人に挟まれて。デレデレ楽しそうにして。何であの人だけが好い思いするんだい」
「でも、その美女二人。本当に中国人だったんですか?」
 サミー、ニヤニヤしながら真由美に尋ねる。
「大陸か台湾かは知らないよ。でもあの二人、確かに中国語を話していたよ。だからさ。私だって流暢に中国語を話せるようになって、大陸か台湾のイケメンをゲットして亭主の奴を見返してやろうと思ったんだよ」
「済みません。そんな矢先に会っちゃったのが自分で」
 純太、ちょっとお道化た様子。
「パッと見良かったから、当たりだって思ったんだけど。開口一番、僕はゲイですなんてカミングアウトするもんだから調子狂っちゃったよ」
「純太。ちゃんとカミングアウトしたんだ」
「まぁね」
「サミーも良かったんだけどねぇ…」
「彼を狙っても無駄ですよ」
 純太はサミーと腕を組んだ。
「バカ云ってるよ」
             *
 数日後、事件が起きた。
 純太とサミー。
 真央と仁美。
 中国語レッスンの面々だったが、その日は珍しく真由美が中々姿を現さない。
「珍しいですね。真由美さんが遅刻するなんて」
 仁美がそう言い終える間際で、真央が不安クライマックスに声を上げた。
「先輩。きっとトラブルに巻き込まれたのよ」
「そんなぁ。真央さん。心配のし過ぎですよ」
「そんなことない。そんなことない。ねぇ、どっちでも良いから電話して」
「またぁ。真由美さん、直に姿を現すから。真央さん落ち着いて」
「そんなぁ。仁美は先輩が心配じゃ無いの?」
「そんなことはありませんけど。真央さん。ちょっと騒ぎ過ぎ…」
「まぁ、まぁ。お二人とも落ち着いて。僕がちょっと電話してみますから」
 そう言ってスマホを取り出した純太の顔が曇った。
「あっ。真由美さんからメッセージだ」
 彼女からのメッセンジャー見て、純太は思わず腰を浮かした。
「えっ。どうしたのよ」
「真由美さんが…」
「どうしたの?」
「階段から落ちて足を挫いたって」
「えーーーーッ」
 仁美と真央、ほぼ同時に声を上げる。
「純太。早く行かなきゃ」
 彼は頷く。
「僕も一緒に行くよ」
 二人は公園の出口へと向かう。
「えっ。ちょっと待って」
 真央、慌てふためく。
「あたし達も行くから…」
 仁美は、オロオロする真央を立たせて二人の後を追った。
             *
 坂本園。
「真由美さんッ」
 店に入るなり純太が彼女を呼ぶ。
「あぁ。来てくれたのかい」
「直ぐ行きますから」
 純太とサミーは、階段の降り口で挫いた足を摩りながら座り込んでいる真由美を見つけるや彼女の横へ駆け寄った。
「痛みますか?」
「はぁ。ちょっとね。でも、大したことないよ。でも、立てなくてねぇ」
「純太。病院」
「そうだね。真由美さん。かかりつけのお医者さんとかいます?」
 純太が尋ねると、彼女は近所で救急外来のある総合病院の名を言った。
「娘がね。そこで内科医をしててね」
「じゃあ。そこへ急ぎしましょう」
 両脇を二人に支えられ、漸く真由美が立ち上がったところで真央と仁美が来た。
「先輩…」
「仁美さん。済みませんが病院へ連絡して下さい」
 純太、真由美の娘が勤務する総合病衣の名前を言った。
「あぁ。じゃあ。私、病院へ連絡するから、真央さんはタクシー呼んで」
 二人が手配している間、左右の純太とサミーの顔を見ながら真由美は笑った。
「どうしました?」
「イケメンの若い男たち二人に抱きかかえられて。この様子を死んだ亭主に見せたら、奴さんヤキモチ妬くかねぇ…」
 純太は、こんな状況でも冗談交じり強がりを言う真由美を見て少しホッとした。
             *
「軽い捻挫ですね」
 医師は真由美の処置を終えると続けて言った。
「だからと言って無理は禁物ですよ、坂本さん。最低、一週間は安静にして下さい」
「一週間」
「あくまでも最低の期間です。こう申してはなんですが、お歳なんですから。完治されない内に負担を掛けると、治る捻挫も治らなくなりますよ」
「挫いただけで大袈裟だねぇ」
 真由美は、プイッと横を向いた。
「お母さん。先生の言う事聞かないと歩けなくなるわよ」
 ドアに真由美の次女の蘭子が、腰に手を当てて立っていた。
「あぁ、坂本先生」
「済みません。母が我がまま言って」
「いえ。そんなことはありませんよ。軽い捻挫ですから安静にして頂きさえすればよくなりますよ」
 蘭子は真由美の傍らに立つ純太とサミーに声を掛けた。
「純太さんとサミーさんですね」
「あっ。はい…」
「母がいつもお世話になっております。今回も病院まで連れて来て頂いて。本当にありがとうございました」
 恐縮する二人。
「お二人のことは母から聞いてます。気難しい年寄の相手をして下さって感謝してます」
「気難しい年寄って誰だい?」
 純太とサミー、苦笑。
「あんたたちも何笑ってるんだい」
「まぁまぁ。坂本先生。お母さまもそれだけ元気でしたら大丈夫でしょう。湿布の薬は少し多めに出しておきますから」
             *
 病院のロビー。
「本当に申し訳ありません。何から何までお世話になりっぱなしで」
「大丈夫です。家も坂本園から近いですし。サミーは、この後出社なんで僕だけで真由美さんを家までお送りします」
「お母さん。家で大人しく過ごしてね」
「言われなくても分かってるよ。あんたも忙しんだろ。早く仕事にお戻り」
「もう。宜しくお願い致します」
 真由美は、蘭子に声を掛けた。
「えっ。どうしたの?」
「忙しいのに、ありがとうね」
 蘭子は笑顔で手を軽く振って、職場へ戻って行った。
             *
 坂本園、二階。
「真由美さん。本当に二階で過ごす積りですか?」
「だって普段寝起きしているのはここだからね。それにお仏壇もあるし」
 線香を上げ、鐘を鳴らすと真由美は仏壇に手を合わせた。
 この家の二階に上がったのは初めてだったから、純太は部屋を繁々と眺めた。
 もう亡くなってしまったので今は無いが、純太が子供の頃に遊びに行った祖父母の家に雰囲気が似ていた。
「どうかしたかい?」
「いいえ。何だか祖父母の家に雰囲気が似ていたので懐かしいなって思って」
「おじいちゃん、おばあちゃんは元気かい?」
「どちらも亡くなりました。僕が高校生の時でした」
「そうかい。聞いちゃいけなかったねぇ」
「そんなことないです。大丈夫です。二人が住んでいたその家は二人が亡くなって人手に渡り、新しい持ち主が立て替えたので今はありません」
「それは残念だったねぇ」
「僕もお線香を上げさせてもらっても良いですか?」
「どうぞ。どうぞ」
 純太は真由美と入れ替わりで仏壇の前に座り、お線香上げる。
 鐘を鳴らすと、彼は手を合わせた。
 顔を上げた純太を見て、真由美は言った。
「ありがとうね」
「どういたしまして。こちらこそ、ありがとうございました」
「あの人もきっと喜んでいるよ」
 純太は、真由美の亡夫の林太郎の遺影を見て言った。
「お幾つだったんですか?」
「83歳だったね」
「亡くなられて随分経つんですか?」
「12年前。生きていれば95歳だね。あたしとは、17歳離れていてね」
「へぇー」
「不思議な人だったね。一緒に居て飽きなかったけど」
 柔和な笑みの真由美は、林太郎の遺影を見つめながら話を続ける。
「農業試験場の事務員のアルバイトに行ったら、この人が居てねぇ。上司だったんだけどね、向こうがあたしに一目惚れしちゃって。気がついたら結婚してたよ」
「運命の出会いですね」
「そんなのじゃないよ。向こうはそう思ってたかもしれないけど、あたしの方は全然」
 二人、笑う。
「でもねぇ。一緒に居るとホッとできる人だったね。お茶ッ葉のオタクみたいな人だったけどね、あたしにも子供達にも穏やかで優しい人だった」
 真由美は遺影を手に取ると、顔の上あたりをハンカチで拭いた。
「湾生って知ってる?」
「ワンセイって、戦前に台湾で生まれた日本人の方たちのことでしょう?」
「そう。うちの主人ね、その湾生の一人でね」

 湾生とは、台湾が日本の植民地だった50年間に台湾で生まれた日本人のことだ。第二次世界大戦終結後に台湾が独立し、湾生たちは日本へ帰国した。何年か前に彼らを取材したドキュメンタリー映画をサミーと見たことがあったが、まさかこれほど身近に湾生の一人が居たとは純太の思いもよらなかった。

「義父は、坂本富三郎と言ってね。坂本本家の三男に生まれた。跡継ぎじゃないから気楽な御身分だったらしいけど、東京帝国大学の農学部に入ってね。茶葉の研究をしたんだよ。卒業後、台湾へ渡って茶葉の改良と技術指導をしながら台湾帝国大学で教鞭をとっていたらしい。経歴だけ見ると変わり者だろ。亭主の林太郎は台湾で生まれて、台湾帝国大学の農学部入って父親と同じ道へ進んだんだよ。あの親子、似た者同士だったね」
 真由美、苦笑。
「義父の兄弟たちは割と早くに亡くなって、その子供たちが本家を継いだんだけど戦局の悪化で次々に兵隊に取られて戦死。それで富三郎さんが急遽継ぐってことになって帰国したんだそうだ」
「林太郎さんも、その時に?」
「ううん。あの人は大学に入っていたから一人、台北に残ったんだよ。理系の学部だったから学徒動員も外れて。そのまま終戦を迎えたんだけど、帰国に苦労したそうだよ。やっと戻って東大の農学部に入り直して茶葉の研究に戻ったんだけど、大学院の卒業と同時に地元の農業試験場に入ったのさ。東大生が来るような職場じゃなかったもんだから、どう扱って良いのか分からなくて大変だったみたいだよ。ずっと独身でね。見合いとかは何度かやったらしいけど、お茶ッ葉オタクの変わり者だからまとまらなかったね。本人もその手のことには無関心でさ。お茶ッ葉の研究に没頭できる方が良かったから、周りがどう思うが平気の平左。自由気ままだったね」
「それでも、真由美さんと運命の出会いがあったわけですよね?」
「運命の出会いね。あの人が聞いたら、きっと喜ぶよ。まぁ、そういうことにしておこうかね。あたしのことが何だか気に入ったみたいで、周りが驚くぐらい積極的で。人目なんか気にしない人だから、押しの一手で。あの人ね、意外と人の懐に入るのが上手いんだよ。気がついたらさ、あたしの両親がえらく気に入っちゃってて。流石に歳の差があるから好い顔しなかったのにガラッと懐柔しちゃって。惚けた人だよ」
 二人、笑う。
 楽し気に語り続ける真由美を見ていると、純太は林太郎に会いたくなった。
「最後の最後まで、本当に惚けた人だった」
「えっ。どうしたんです?」
「実はね、この人の遺言に困ってるのさ」
「遺言?」
 真由美は頷き、林太郎の遺影を仏前に戻した。
「歳をとってから、生まれ故郷の台湾が恋しくなったみたいで。台北へ行きたいと思ってはいたらしんだけど果たせなくてね。いよいよ最後になって、あたしに頼んだんだよ。俺が死んだら、遺髪を台湾大学の農場の片隅に埋めてくれって。最期じゃないか。あたしも感極まって涙ボロボロ流して。わかったよ。お父さんとの約束、必ず果たすからねって約束してさ。お父さんも、うんうんと頷いてくれてね。穏やかな顔で目を閉じて。あたし、涙を拭きながら、あの人の顔を繁々と見ながら大変な事に気づいちゃったんだよ」
「えっ?」
「あの人ね。写真で見て通り。ツルッ禿なのさ」
「あっ」
「だから遺髪になるような髪の毛が無いんだよ。それで慌てて、あたしは言ったよ。お父さん。目を覚まして。お父さん、お父さん。お父さん、髪が無いッ」
「…」
「でも目を覚ましてくれなくて。そのまま昇天しちゃった」
「はぁ…」
「困ってねぇ。子供達ともどうしようかって。それでね、遺髪は無理として爪なら取れるからそれで勘弁してもらおうってことになって」
 真由美は、仏前供えられた濁白色のプラスチックの容器を手に取った。
 それは、百円ショップでよく見かける容器である。
 彼女は蓋を開けて、純太に中身を見せた。
「林太郎さんの遺爪(いつめ)」
「…」
「時々、あの人が夢枕に立つんだけどね。この約束を果たすまではこっちに来ちゃダメって言われてるのさ」
 真由美は、力なく溜息を漏らしながら言った。
「遺言。約束は約束だからねぇ…」
「あっ。もしかして中国語を習おうと思ったのって、本当はご主人との約束を…」
 真由美は頷きながら言った。
「実現するなら大学と交渉しなきゃならないだろう。多少、話せた方が良いかと思って」
 しょんぼり話す真由美を見て、純太は可愛いと思いつつ苦笑を堪えた。
「いつ実現できることやら」
             *
 PC画面の向こう側で膝に乗せた愛犬の富富(フーフー)の背中や頭を撫でながら、老板は笑った。
『真由美さん。あんな感じだけどお茶目な人なんだね』
 サミーは淹れたてのコーヒーの入ったカップを純太に渡すと、彼の隣に座った。
『サミー。久し振りだね』
「老板も元気そうですね」
 老板の隣に太太(タイタイ)が座り、富富の頭を撫でながら純太たちに話し掛けた。
『サミー。ちょっと貫禄ついたかい?』
「それ、太ったって言ってます?」
 太太は、ニヤニヤしながら言った。
『幸せなんだね』
 富富は甘えるようにクンクン哭きながら太太の掌を舐めている。
 サニー、破顔。
 純太、赤面。
『ところで、真由美さん。足を挫いたそうじゃないか』
「あぁ。そうなんですよ。軽い捻挫です」
『大変ねぇ。後でお見舞いのメッセージを送っておくわよ』
「太太からのお見舞い。喜ぶと思います」
『私も送ったんだがねぇ』
『あんたのメッセージじゃねぇ』
『ダメかい?』
『だって、あんたは気の向いた時しか送らないじゃない。その点、あたしは普段からやり取りしてるから。真由美さんとの親密度は大だよ』
 老板も太太も、真由美さんと結構やり取りしているのかと、純太はちょっと驚いた。
「流石にちょっと気落ちしてて…」
『そうだろうね』
「亡くなったご主人との約束を果たすのがこれでまた、ちょっと遠のいたなって」
『約束って?』
『太太。真由美さんの亡くなったご主人、湾生らしいよ』
『おや。台湾生まれの日本人なんだ』
「そうなんですよ。戦後に引き揚げて以来、台湾へ行けずに亡くなったらしいです」
『そう。生まれ故郷に戻れなかったなんて可哀そうに…』
「望郷の念はあったのか遺言で、遺髪ならぬ遺爪を台湾に埋めて欲しいって」
『ふーん』
『今は無理だろうけど、パンデミックが明ければ飛行機で二時間。直ぐに来れるわよ』
 太太以外の三人、苦笑。
『えっ。どうしたの?』
 純太は、少し困った様子で言った。
「埋める場所の指定がありまして。ちょっと難しい場所なんですよ」
『どこ?』
『台湾大学。しかも農学部の農場らしいよ』
 サミーがそう言うと、太太は気の抜けた表情になった。
 無理もない。
 日本で言うなら差し詰め、東京大学農学部の農場に個人の遺髪を埋めてくれと言っているようなものである。
『どうしてそこなの?』
「戦中に農学部の学生だったみたいです。お父さんも台湾大学の同じ学部で教鞭をとられていたみたいで」
 太太は老板の顔を見て言った。
『あんた。何とかならないの』
『えっ』
『あんたも台湾大学の卒業生じゃない。しかも農学部だし』
 太太以外の三人、それぞれに無表情。
 沈黙を破ってサミーが言った。
「老板。台湾大学のOBなんですか?」
 小さく頷く、老板。
 続いて、純太が追随。
「しかも、農学部のご出身?」
『まぁね』
『まぁね、じゃ無いわよ。この人ね、こう見えて同窓会の事務局の一員なのよ。同窓会のパーティの音頭取り。同窓会があると酔っぱらって。毎年、あたしが車で迎えに行ってるのよ。ここ2年はパンデミックで同窓会ないから平和だけど。他ならぬ真由美さんのお願いだよ。亡くなったご主人との約束が果たせるように尽力しなさいよ』
『そうは言ってもねぇ…』
『飲んだくれてるだけの老人連中なんだから、こんな時くらい人助けしな』
 富富、太太に歩調を合わすかのように一声軽く吠える。
『そんな、無理いうなよ』
『義が廃るよッ』
 頼もしい太太に、純太とサミーは手を叩く。
『参考までに聞くけどね、真由美さんの亡くなったご主人の名前を知ってるかい?』
「確か、坂本林太郎」
『えっ』
 老板、驚愕の表情。
「お知り合いですか?」
『ひょっとして。その坂本林太郎さんのお父さんって、富三郎さんかい?』
「はい。確か、そんなお名前でした」
 老板、絶句の後に肩を落とす。
 そして彼は、諦め顔で言った。
『知合いも何も。林太郎さんは亡くなった親父の親友で、富三郎先生は親父が世話になった恩師だよ』
「ええッ?」
 純太とサミーの声が重なる。
『あんた。それなら、解ってるねッ』
 厄介なことに突然巻き込まれて途方に暮れつつ、力なく頷きながら小声で言った。
『こりゃあ、もう逃げられんかぁ…』
             *
 朝の公園。
 純太、サミー、真央そして仁美の四人は、真由美の到着を待ちながら会話をしている。
「縁っていうのは、どこで繋がっているのか分からないものねぇ」
 真央がそう言うと、仁美は身を竦めた。
「でも、ちょっと怖いですね。台湾と日本。今と昔がこんなに繋がってるなんて」
「だから、悪い事なんかしちゃいけないんだよ。来世で仕返しされるよ」
「ちょ、ちょっと。真央さん。変なふうにくすぐらないで下さいよ」
 仁美はブルッと身体を震わせ、自分にちょっかいを出す真央を不機嫌に睨んだ。
「冗談よ」
「それにしても、真由美さん遅いですね」
「そうねぇ」
「それにキジトラも来てないし。何かあったのかなぁ」
             *
 キジトラキャットは、店と母屋を繋ぐ出入り口に腰掛け、鼾をかきながらその場に座っている真由美に身体を摺り寄せて甘えた。
「ミャーオ」
 返事は無い。
 その代わり彼女は、首がガクッと項垂れるとそのまま横になった。
 真由美の口元に鼻を近づけて彼女の臭いを嗅いでいたキジトラキャットだったが、やがて何かの異変に気がついたのか、二、三歩後退り。
 そして、その場から飛び降りると小走りに店の入口へ向かった。
 シャッターは開いていて、キジトラは普段しているように扉の縁を何度も引掻いて引っ張る。やがて扉が僅かに開くと、その隙間から外へ出て猛ダッシュで公園へ向かった。
             *
 噂をすれば何とやらで、真由美を待つ面々の前にキジトラが突然現れた。
「キビ助」
「遅かったねぇ。先輩はまだかい?」
 何だかソワソワし、キジトラの様子が普段と違う。
 キジトラの背中を撫でようと伸ばしたサミーの手をすり抜けると、キジトラキャットは純太の膝の上へテーブルから飛び降りた。
 サミー、小首を傾げてキジトラを見る。
「おっ。どうした。キジトラ?」
 純太がそう言い終わるかしない内に激しく鳴きながら彼のTシャツを引掻いた。
「あっ。ダメだって。止めろよ、キジトラ」
 サミーがキジトラを抱き上げようとすると、唸り声を上げて威嚇。
「キビ助。ダメ」
 仁美の叱責を無視。
「純太。何か様子がおかしいよ」
 オロオロする純太。
「ひょっとして、キビ助は何かを伝えようとしているんじゃないの?」
 真央にそう言われ、純太は両手でキジトラを持ち上げた。
「ギジ。どうした。真由美さんに何かあったのか?」
 キジトラは激しくもがき、純太の手から離れて地面に着地。そして空かさず、純太のスニーカーをTシャツ同様に引掻き始めた。
「小純。坂本園。早点去坂本園吧ッ(早く、坂本園へッ)」
              *
「真由美さんッ」
 純太は倒れている彼女に駆け寄り、抱き起して彼女へ声を掛ける。
「小純ッ(シャオジュン)」
「サミー。早点叫救護車(早く救急車呼んで)」
 仁美と真央が駆け付けた。
「早点叫救護車。救護車ッ」
「えっ」
「何、なに?」
「救護車ッ」
「あっ。先輩」
「早く。救急車」
「あっ。救急車、救急車」
             *
 サイレンの音。
 真由美は脳梗塞で緊急入院した。
             *
 朝、公園のいつもの場所。
 思い空気の中で真由美の話をする四人。
「入院して三日ね。先輩、どうなのかしら?」
「昨日、蘭子先生から連絡があって、手術の方は成功したらしいんですが…」
「重症なの?」
「どちらかと言うと軽いみたいなんですが、どういうわけか意識が戻らないらしくて。このままだと後遺症が出るか、麻痺も残るかも知れないそうです」
「えっ。後遺症。麻痺って。先輩。どうなっちゃうのよ…」
「真央さん。落ち着いて」
「だって。先輩。えっ。どうなるのよッ」
 三人、無言。
「誰か。先輩のこと。何とかしてよッ」
             *
 目覚めた時、真由美は濃い靄の中に居た。
「やっと気がついたかい?」
「えっ?」
 声のする方に目をやると、点滅する小さな炎がある。
 それは煙草らしく、香煙が時折彼女の鼻をくすぐった。
「誰?」
 男の頭の辺りだけ靄が晴れ、船頭が良く被っている麦わらの三角編み笠が見えた。
「死んだの亭主の声を忘れたかい?」
 男は振り向いた。
「林太郎、さん…?」
「あぁ、そうだよ。真由美」
 彼はニッコリ笑って見せた。
             *
 真由美が入院してから十日が経った。
 彼女が入院している総合病病院の受付ロビーで純太とサミーは蘭子を待った。
 真由美が倒れて入院して以降、キジトラキャットを蘭子が預かっていたのだが、彼女の住むマンションはペット禁止。
 隠れて預かるのもそろそろ限界で、思いあぐねた末に純太に相談したのだった。
「蘭子先生」
 蘭子は猫用のキャリーバッグを持って、二人の前に立った。
「コーヒーでも飲みましょう」
 二人は席を立った。
             *
「また夢ですか…」
 そう言う真由美を、林太郎は少し困った顔つきで見返した。
「えっ。夢じゃないんですか?」
 林太郎は、曖昧に頷いて見せた。
「じゃあ、ここはあの世?」
「うーん。近いけど、ちょっと違う」
 周囲の靄が少し薄くなり、目の前に川が見えた。
「これって、もしかして三途の川?」
「そうだよ。向こう岸の先が、あの世だよ」
「そうなんだぁ…」
 感心しきりに三途の川を眺めていた真由美だったが、ハッとして林太郎を見る。
「えっ。でも。どうして、お父さんがここに?」
「迎えに来たんだよ」
 林太郎の頭からつま先まで繁々と見回して。
「でも、何で昔の船頭さんの恰好なんです?」
「三途の川の渡し守だからね」
「また、アルバイトですか?」
「まぁね。雰囲気あるかい?」
 二人、笑い。
 林太郎は、吸い終えた煙草を吸殻ケースに入れた。
「最近は煙草の投げ捨てすると叱られるのさ。現世みたいに罰金は取られないけどね」
 二人、再び笑い。
「お父さんがお迎えに来てくれたんですね」
「まぁね」
「もう二度と会えないと思ってましたよ」
「夢枕で何度も会ってるじゃないか」
「それとこれとは…」
「会えて嬉しいよ」
「私も」
 手に手をとって見つめ合う二人だったが突然、林太郎が妙に照れ始めた。
「お父さん。どうしました?」
「実は、ここに迎えに来れた理由があってね」
「理由?」
「つまり。その。あれだ」
「?」
「真由美。俺と一緒になった時。初めてだったろ?」
「初めて?」
「初夜というか、処女というか。つまり俺が、最初の男だったろ?」
「あ、あら。嫌だ。お父さん。何言ってるの」
 真由美、初々しくモジモジ。
「どうも三途の川の渡しの決まりで、初めての男が迎えに行くの約束事になっているらしくてさ」
「えっ。そんな決まりがあるんですか?」
「兎も角、俺が迎えに来れて良かったよ」
             *
 総合病院の食堂。
 昼食時を過ぎた時間だったから、蘭子たち三人以外の利用客は居なかった。
 蘭子は自販機の紙コップコーヒーを、意識が戻らないで眠り続けている真由美を映した映像を見ている二人の前に置いた。
「良かったら召し上がって」
 二人は彼女に会釈し、再び映像を見た。
「症状は幸い軽かったから、意識が戻っていてもおかしくないはずなんだけど。一向に戻らなくて。今日で十日になるわ」
「このまま意識が戻らないってことじゃ無いんでしょう?」
 純太の問いに、蘭子は不安気に首を振った。
「それが…」
「えぇッ」
「そんなぁ…」
             *
「さぁ、そろそろ行こうか」
「愈々、行くんですね」
 そう言って真由美は、靄に沈む殺風景な三途の川の岸辺の風景を見回した。
「やっぱり行きたくないかい?」
 真由美、返事を躊躇う。
「少し前までは、あんなに行きたがってたのにさ」
「もう。イジワル」
「気持ちは解るよ。純太さんたちと出会って、世界が広がり。毎日に刺激があって。あの世に来たがってた頃が嘘のように楽しく過ごしていたからね」
「…」
「だから前にも言ったろ。お呼びなんて、来て欲しくない時でも勝手に来るって」
「そうですね。つまんないままでじゃなくて死ぬ前にちょっとだけ、忘れちゃってた人生の楽しみを思い出せたんだから。果報者と思わなきゃイケませんよね」
 林太郎は、穏やかに頷いて見せた。
「でも…」
「?」
「純さんたちに、最期のお別れを言いたかった」
 真由美は再び振り向き、荒涼たる岸辺をもう一度見た。
「真由美」
 向き直った彼女に林太郎が手を差し伸べた。
「一緒に行こう」
             *
 キジトラが入れられている猫用キャリーバッグを蘭子は、純太たち二人の前に置いた。
「ごめなさいね。こんなお願いして。この猫ちゃん、母の命の恩人だから私の兄や姉のところで面倒見たいんだけど。マンション、どこもペット禁止で。私のところで内緒で預りはしたんだけど、暇持て余した煩いご近所さんが居て厳しいの」
「大丈夫です。うちのマンションはペットOKですから。それにキジトラの奴とは僕もサミーも旧知だし、特に、僕よりサミーに懐いてますから。安心して下さい」
「ホッとした」
 二人がキャリーバッグの覗き口から中を見ると、キジトラキャットは眠っていた。
「また眠ってるよ、こいつ」
「猫って眠るのが好きなんだよ。そう言えば、純太も居眠り…」
「サミー。煩いっ」
             *
「ねぇ。お父さん」
 真由美は、竿を操って舟を進める林太郎に話し掛けた。
「何だい?」
「あの世って、どんなところなの?」
 彼女に問いに答えず、林太郎は竿を川から上げて船に置くと、舳先側で彼女に向き合うように座った。
「お父さん。舟、大丈夫なの?」
「もうここまで来ればね。後は、水面が勝手に舟を向う岸まで送り届けてくれるよ」
「そうなの…」
 そう言って、真由美は押し黙る。
 彼女の胸を寂寥が包んだ。
「そう。そうなんだ…」
 林太郎は編み笠を取って膝の上に置くと、そう言って彼女の顔を見た。
「もう。戻れないのね」
 柔和だが曖昧な笑みを浮かべて、真由美はポツリと言った。
             *
 キジトラが目を覚まし、大欠伸をしながらミャーオと小さく鳴いた。
「まだ眠いのかなぁ」
「呑気な奴だ」
 二人に気づくとキジトラは、前脚を伸ばしてキャリーバックの入口を撫でる。
「出たいんじゃないかな?」
 サミーがそう言うと、純太は蘭子に尋ねた。
「ちょっと出してやっても良いですか?」
「純太。ここ病院だよ」
「ちょっとの間だけ」
「良いわよ。出してあげて。ずっと中に居たから」
 純太がバッグの口を開き、サミーがキジトラを抱き上げる。
「キジ。元気だったか?」
「ミャーオ」
 サミーが膝の上にキジトラを乗せて頭や背中を撫でてやると、キジトラは気持ちよさそうに目を細め大人しく収まった。
「本当によく懐いてる」
「こいつに出会ったのは僕の方が先で、付き合いもサミーより長いんですけどね。キジトラの奴、サミーがお気に入りみたいで」
 純太はキジトラをちょっと睨んで。
「ちょっと妬けます」
 蘭子とサミーは、そんな純太を見て苦笑した。
             *
「そう言えばキビ助、あたしが居なくて大丈夫かしら?」
「心配しなくても、大丈夫だよ。純太さんとサミーさんの二人が面倒見てるから」
「そう。良かった…」
 ホッとしながらもどこか寂し気な表情が、真由美の顔を過る。
「なんだかんだ言っても、キビ助のことは可愛がっていたね」
「可愛くないわよ。気ままで惚けた猫。よく居眠りしてるし。変わった猫よ」
「看板猫だったじゃないか。店にキビ助目当てのお客さんも増えたし」
「一時のブーム。SNSだって、最近サボってるし」
「でも、キビ助のこと気に入ってるだろ」
「そうね。確かに認める」
 林太郎は、静かに煙草を吸い始めた。
「変わり者だけど居ないと気になるし、居るとホッとする。お父さんみたいだった」
「えっ。俺って、猫かい?」
「さぁ。どうでしょう?」
             *
「キジトラって、不思議な奴なんです」
「不思議?」
「人寄せ磁石みたいな奴で。僕と真由美さんもキジトラが引き合わせたようなもんです」
「この猫がねぇ…」
 真由美を初めとして、この数ヶ月に出会って交流の始まった人々の顔が、純太の脳裏に次々と過って行った。
             *
「お父さん。初めてのデートを覚えています?」
「よく覚えているよ。八津元スーパーだろ」
「映画か遊園地に連れて行ってくれるのかと思ってたのにスーパーなんて」
「開店したてだったから、見てみたかったんだよ。一人じゃ、何となく入り難かったから。ダメだった?」
「気持ち、分からないでもないけど。あそこ、親戚のスーパーよ。二人の買物の一部始終を叔父に見られちゃってて。後で冷やかされて大変だったんだから」
「そっか。ゴメンね。でも、あの店の店頭で買って食べた焼きトウモロコシ、凄く美味しかったな」
「あぁ。あれは美味しかった。忘れられない味の一つ」
「もう一度、食べたいな」
「ねぇ。お父さん」
「うん?」
「あの世に焼きトウモロコシって、売ってるかしら?」
「さぁ。どうかな…」
             *
 キジトラキャット、蘭子が出したキャットフードを食べている。
「ところで、午後の診療は?」
「今日は午前中だけなの」
 蘭子はコーヒーを一口飲んだ。
「あっ。そうそう。餌代とか、掛かった費用は遠慮なく請求してね」
「別に構わないですよ」
「そう言う訳にはいかないわよ。預かってもらうんだし。本当なら、預り料をお支払いしなきゃならないんだから」
 キジトラキャットは、ガリガリ音を立てながらキャットフードを旨そうに食べている。
             *
あの世のことが出ると、林太郎は妙に話しを逸らした。
そのことが気になってはいたが、真由美は深く聞くこともせず話題を切り替える。
「そう言えばお父さんから、台湾のことを聞いたこと無かったわね」
「そうだったかい?」
「台北に住んでたんでしょ?」
「まぁね。家は青田街にあったよ」
「あおた…?」
「現在の永康街の隣町だね。軍や政府高官の家が集まってた町だったよ。台湾大学の官舎もあって、親父が台湾帝国大学で教鞭をとっていた関係からウチの家もあったんだ。静かな住宅地で、日本でいうところの青山みたいな感じの町だったね」
「ふーん」
「近所に葱抓餅(ツォンジャアピン)、葱の入った薄焼きの餅なんだけどさ、それを売っている店があってさ。おやつで毎日食べてたんだけど、あれは旨かったなぁ」
「ツォンジャアピン?」
「うん」
「お父さんの台湾の思い出ばなし、初めて聞いた。もっと聞かせてよ」
「うん。話し切れるかなぁ?」
「そんなにあるの?」
「うん」
「大丈夫。あの世に行ってからも、たくさん聞くから」
「…」
             *
 満腹で眠くなったのか、キジトラキャットはサミーの膝の上で目を細めたり、開いたりしている。
「純太。キジの奴、眠そうだから。俺たちもそろそろ帰ろうか」
「そうだね」
「そう。帰られます?」
「はい。真由美さんの様子に変化があったら、教えてください」
「そうさせてもらうわね」
 サミーが猫用キャリーバッグのファスナーを締めようとすると、キジトラの奴が突然目覚めた。
「キジ。どうした?」
 そう言ってサミーがキジトラの頭を撫でようとすると、それをスルリと交わしてバッグから飛び出した。
「キジ。おいで」
 サミーの声を無視し、キジトラはスタスタと食堂の出口へ向かってキャットウォーク。
「しょうがない奴だ」
 二人が立ち上がり、キジトラを捕まえよう追い駆ける。
 キジトラキャットは振り向き、二人の顔を見てミャーとひと鳴き。
 そして、全速力で走り去った。
「ああッ」
「キジッ」
 二人もキジトラキャットの後を追った。
             *
 霞に煙る対岸が見えた。
「もう直ぐね」
「うん」
「向こうに着いたら、二人で何をしましょうか?」
「…」
「あぁ。そうだ。台湾の思い出ばなし。いっぱい聞かせて貰わないとね」
「真由美ッ」
「はいっ?」
「さっき、あの世ってどんな所って聞いたろ?」
「えぇ」
「正直に言うと、俺も知らないんだ」っ
「えっ…」
「実は俺、成仏しきってないから。あの世へ行けてない。だから知らないんだよ」
「そうなの?」
「でも、あの世に行くとどうなるか。これだけは知っている」
「どうなるの?」
「現世での記憶。きれいサッパリ消えて無くなってしまうんだよ」
             *
 キジトラキャットは病院の廊下を駆け抜け、階段を昇る。
 その後を純太とサミーが追い、少し遅れて蘭子が続いた。
             *
「えっ。嫌よ。そんなのイヤっ」
「真由美…」
「お茶ッ葉オタクで、会話なんてろくすっぽしてなかったじゃない。旅行とかもしなかったし。あの家で、二人で過ごした想い出ばっかり。それでも良かった。お父さんは時々夢枕に現れて、おしゃべりに付き合ってくれたし。でも本当は、お父さんのことを何も知らなかったって思うの。子供の頃のことや、台湾での思い出とか。あたしだって、お父さんに子供の頃のこととか、学生の頃の思い出とか話したかった。もっと、お父さんのことを知りたいって、ずうっと思うようになって。お父さんがそっちに行っちゃってから、増々その想いが募って生きていたのよ。夢枕に現れてくれたけど、あたしの聞きたいことには何にも答えてくれないし。知りたいことがいっぱいあるのに話してくれないし。でも、あの世に行って一緒に暮らせたら、お父さんからいっぱい想い出を聞こうと思っていたのよ。それなのに全部忘れちゃうって何よ。そんなの嫌ッ。絶対にイヤッ」
「そうか。済まなかったな、真由美」
 林太郎は彼女の背中を摩った。
「真由美はさ、僕にとっての未来だったんだ」
 彼女は顔を上げた。
「だから、過去の事は話さなくても良いって勝手に思っていたんだよ。そんなに僕のことを理解しようとしてくれたなんて。生きている内に気がついていれば真由美の知りたい話や僕自身を伝えられたのかもしれなかったね。ゴメンな」
 真由美は泣きじゃくりながら言った。
「ねぇ、お父さん」
「うん?」
「どうしても、あの世に行かなきゃならないの?」
 林太郎、絶句。
「全部忘れて、成仏しなきゃならないの?」
 林太郎、咄嗟に彼女の口を塞いだ。
「そんな罰当たりなこと言っちゃダメだよ」
「でも…」
「成仏できない人の方が多いんだよ。それに成仏すれば来世での縁も繋がる」
「再会できても、何にも覚えて無いんでしょ。目の前にいるお父さんのことをもっと理解したいのに、それは叶わないんでしょ」
 駄々をこねる子供のような真由美を見て、林太郎は少しあきれながらも彼女を心底から可愛いと思った。
「俺だって、忘れたくないよ。でも、もう後戻りできないから」
 ガタっと小刻みに揺れ、舟が止まった。
 林太郎は立ち上がり、竿を握ると真由美を振り切るように船から川辺へ飛び移った。
 振り向き、こちらへ移らせようと彼女へ声を掛けようとしたが、舟の様子から違和感を覚えた林太郎は無言でその場に立ち尽くす。
 …あれ。舟。停まってる…
 岸に乗り上げる筈が、舟は少し離れた水上でピタリと停まったまま動かないでいた。
 それはまるで、接岸を舟が拒んでいるようにも思えた。
 …ひょっとして、真由美はまだお呼びじゃないか…
 林太郎、混乱。
 …いや、いや、いや。それならどうして、真由美は三途の川を渡った…
 その時、生温かい嫌な一陣の風が、林太郎の周囲を駆け抜けた。
 …いや。マズい。懸衣翁(けんえおう)のジジイが来やがった…

 三途の川の畔に衣領樹(えりょうじゅ)という木が生えているが、懸衣翁はそこに住んでいる鬼だ。三途の川を渡って来た亡者から衣服を剝ぎ取って木の枝に掛け、重みを調べて上役である十王に報告する。
 重みは衣服を剝ぎ取られた亡者の罪の軽重で、重ければ当然地獄行きとなる。
 生前の罪の重い連中は川を泳いで渡らされ衣服が水を吸ってその分重くなるから極楽行は最初から無理ということになる。
 亡者の中には衣服を着ていない連中も結構多く、川を泳いで渡った連中も衣服を流されて岸辺に着いたりするのだが、そんな衣服を剝ぎ取れない連中の場合、懸衣王は皮を剥がして罪の重みを計るというから、何とも荒っぽい鬼である。

 …奪衣婆が最初に来る筈なにの、何で懸衣翁が先に来たんだ…
 三途の川を渡った亡者が、真っ先にお目にかかるのがこの老婆の鬼である。
 やはり衣領樹に住んでいて、懸衣翁とはワンペアー的存在である。
 ただこの二人が夫婦かどうかは、ちょっと怖すぎて誰も真偽を確かめられない。
 いいや、誰も関心が無い。
 その名の通り、亡者から衣服を剥ぎ取って懸衣翁へ渡すのがこの婆さんの役目。
 かなりヤバい容貌で、トップレスと言えば聞こえが良いが胸をはだけていてもお構いなし。なりふり構わない格好で現れる。
 ところが最近、エグいホラー映画を見慣れた連中からすると奪衣婆の風貌は物足らないらしい。いいやそれどころか、そうした亡者連中の目にはパンクでファンキーに映るらしく怖がらないばかりか、可愛いだの、カッコイイだの、キュートだの言われる始末。奪衣婆も悪い気がしないらしく、お陰でボケが進んだようで懸衣翁を困らせているらしい。
 林太郎は、目の前に立っている懸衣翁に竿先を向けて対峙した。
 対峙したと言えば聞こえが良いが、腰はかなり引けていてブルブル震えが止まらない。
 そんな林太郎など眼中に無い様子でガン無視し、懸衣翁は真由美の乗っている舟をジッと見つめ、やがて落胆の溜息を漏らして言って頭を抱えた。
「ババアの奴。また、しくじりやがった」
 そして、林太郎を見て懸衣翁が言った。
「おい。お前。奪衣婆に迎えに行けって言われたのか?」
「はっ。はい」
             *
 キジトラ、病院内を疾走。
 三階まで階段を一気に駆け上ると、キジトラは踊り場から純太たちの姿をチラ見。
 たまたま見上げた純太と目が合うと、三階の廊下へ姿を消した。
             *
 少し前のことである。
 美女二人と川原の散歩を満喫していた林太郎の前に突然、奪衣婆が現れた。
「ちょっと、兄さん。現世名、坂本林太郎さんだろ?」
「はい」
 奪衣婆の口臭と体臭が鼻を突き、そう言うのがやっとだった。
「真由美さん、もう直に来るよ」
「えっ」
「ねぇ。船頭のバイトしない?」
「?」
「真由美さんを迎えに行く船頭のバイトだよ」
「時給、幾ら?」
「恋女房にリアルに会えるんだよ。金の問題かいッ」
             *
 日頃の運動不足が祟ったらしい。
 三階の踊り場で純太たち三人は、肩で息をしながら座り込んでいる。
「猫ちゃんは?」
「はぁー。キジの奴、三階」
 純太、咳込む。
「小純。キジ、どっち?」
「右」
「右に行った?」
 頷くと、純太は蘭子に尋ねた。
「せ、先生。右側。何ですか?」
「えっ。三階。右?」
「キジの奴。そっちへ」
「あっ。お母さんの個室」
「えっ」
「小純。行こう」
「うん…」
             *
「あのババア…」
 懸衣翁、再び頭を抱えるが両肩が苛立ちで震えている。
「あのー。何か問題でも?」
「ババアが、最近ボケてんじゃないかって噂、聞いてるだろ?」
「はぁ。その噂なら…」
「ボケてんだよ。だからよ、迎えに行かなくても良い連中へお迎えを手配したりして。尻ぬぐいで追われているわけ」
「えっ。じゃあ。真由美は…」
「まだ、お呼びじゃ無いよ」
「でも。彼女、脳小梗塞の昏睡で意識が戻らいんじゃ…?」
「まだ死んでないでしょう。死の一歩手前だったから向う岸に来ちゃったけど、本来なら死んで7日目に来る場所なんです」
「はぁ」
「だから舟だって、岸に乗り上げないで停まったままだろ。ヤバいなぁ。ヤバい。十王様、あぁ、十王様っていうのは俺やハバアのオッカナイ上司なんだけど、バレたらまたどやされちゃうよ」
 その時、一陣の生温かくも不快な風が二人の間を吹き抜ける。
「ヤベえ。ハバアの奴、こっちに近づいてるよ。お、おい。お前。林太郎だっけ。持っている竿の先で、舟の舳先を突け」
「はぁ?」
「今ならバレないで済むから」
「突けって言われても…」
「舟を操って来た船頭にしか、突けねぇーんだよ」
「突く?」
「ババアが着たら、お前の女房の衣服を剥ぎ取っちまうぞ。そしたら、俺はそれを衣領樹の枝に掛けなきゃなんねーの。そうなったら、お前の恋女房が死んでないって十王様にバレちまうんだよ。どやされ、始末書。処分。あーーーーー、嫌だ。イヤダ」
 懸衣翁、嘆く。
「えっ。でも、僕としては彼女と一緒に居たいわけで」
「懸ちゃーーーーん。どこ?」
「早くやれって。ハバアの奴、強欲だからお前の恋女房を見るなりスッ裸にしちまうぞ」
「ええッ」
「けーんちゃーーーーーーん」
「早く」
「真由美」
「な、なぁーに。お父さん。どうしたの?」
「まだ、お呼びじゃないって」
「えっ?」
「まだ、生きろって」
「ええっ?」
「あっ。けんちゃーーーーーーーん」
「早くッ」
「またな、真由美」
「ええええッ?」
 林太郎は、舟の舳先を竿の先で思いっきり突いた。
 舟が後ろへ動き出す。
 その反動で、真由美が尻餅をついた。
「あっ。真由美ッ。大丈夫か?」
「だ、大丈夫…」
 濃い靄の中に真由美を乗せた舟は溶け込み、彼女の声だけが林太郎の耳に残った。
             *
「い、居た」
 キジトラキャットは、個室のドアを一心不乱に引掻いている。
「あ、あそこ。あの部屋。お母さんが居る個室」
 その時、個室のドアが開いて蘭子と顔馴染みの看護師が出て来た。
「あっ。蘭子先生」
 キジトラは、開いたドアの隙間から部屋へと姿を消した。
             *
 キジトラはひょいと飛び上がり、ベッドで眠る真由美の腹の上に乗った。
「ミャーオ」
 ひと鳴きすると、眠り続けている真由美の鼻の頭を肉球でポンポン叩く。
「キジ。ダメだろッ」
 ドアを開けて部屋に入り、ベッドの上のキジトラを見て純太は強い口調で言った。
「小(シャオ)、…小純(シャオジュン)ッ」
             *
 …誰だい。あたしの鼻の頭を叩いてるのは…
 目覚めると目の前にキビ助の顔があり、真由美はキビ助と目が合う。
『真由美。そろそろお目覚めの時間だよ』
 キビ助と林太郎の顔が重なり、真由美の耳に林太郎の声が残った。
「お、お父さん…」
 真由美は呟いた、
             *
 …まったく、こいつは何をやってるんだ…
 純太に抱き上げられて真由美から引き離されたキジトラ、ひと鳴き。
「ミャー―――ぉ」
 サミーに続いて入って来た蘭子が叫んだ。
             *
「お、お母さんッ」
「マユミさんッ」
 蘭子とサミーの声が重なる。
「えっ?」
 純太が慌てて真由美を見ると、彼女の目が開いていた。
「ま、まゆみさん…」
 純太とキジトラの顔を見て、真由美は言った。
「キビ助。ちゃんとご飯食べたかい?」
             *
 数日後。
 真由美の傍らに座って、蘭子は梨の皮を剥いている。
「あんた、仕事しなくて良いのかい?」
「今日、私はお休みの日なの」
「じゃあ、何で白衣を着ているんだよ」
「これ着て無いと叱られるのよ」
「叱られるって、何だい?」
「パンデミック。普通なら面会禁止。でも、これ着てればお医者さんでしょ」
「面倒くさいね」
「はい」
 蘭子は、フォークに刺した梨を真由美の口元へ突き出した。
「食べて」
 脳梗塞の後遺症で真由美の左半身に軽い麻痺が残った。
会話はできるが、物を噛むのに苦労する。
 蘭子が梨の小片を口に入れると、真由美は不器用に口をモグモグさせた。
「美味しい?」
 真由美、何度も小さく頷く。
「良かった。もっと食べてね。リハビリを兼ねているんだから」
 娘にそう言われて真由美の表情が少し曇った。
「辛いのは解るけど早い内から手足を動かしたりして刺激を与えないと麻痺したままになるから。お母さん、頑張ってね」
 真由美は梨をねだり、蘭子が口に入れるとソッポを向いた。
 そんな母親を見て蘭子は、溜息混じりにぼやいた。
「まったく。しっかりしてよ、お母さん」
             *
『純さん。真由美さんの具合はどうだい?』
 老板が純太に尋ねた。
「左半身に麻痺が残ったみたいですけど元気に過ごされているみたいです。リハビリも始まったみたいですし。パンデミックもあって、直接お見舞いに行けないのが残念ですが」
『リハビリって早くないかい?』
「最近は、そうみたいですよ。早く刺激を与えた方が、麻痺も残らず倒れる前の状態に戻る確率が高まるんだそうです。でも、結構辛いらしくて。本人、嫌がってるみたいです」
『励ましたいねぇ』
 太太、膝に乗せた富富を撫でながら言った。
『あっ。そうだ。あんた、台北の町をビデオに撮って送るっていうのはどうかしらね』
 太太、老板を見つめる。
 老板、ちょっと腰が引ける。
「あっ。そのアイディア、好いかもしれません」
『じゅ、純さん…』
『パパ。どうせ暇でしょう』
『えっ。え、えぇぇぇぇ…』
 純太と太太は、ビデオ撮りの選定で盛り上がる。
 老板は、ちょっと情けない表情で二人のやり取りを見守った。
             *
 純太たちからのビデオレター。
 真由美は、それを黙って見続けた。
 励ましてくれる気持ちは嬉しかったが、辛いリハビリを思うと彼女は素直に喜べないでいた。
 そんな時、ある風景が彼女の目に留まった。
「蘭子。今さっき映っていた場所をもう一度見せてくれないかい」
「止める所で言ってね」
「あぁ。ストップ。止めた所から再生しておくれ」
 巻き戻して再生した映像は、観光客で賑わう永康街の町並みの様子だった。
「止めておくれ」
 彼女は静止映像をジッと見つめた。
 通りに面して出された店の看板には『葱抓餅』とある。
「ここは、何所だい?」
 真由美が尋ねると、蘭子が言った。
「あぁ。ここは永康街じゃない」
「ここが永康街かい」
「台北へ遊びに行ったら必ず行ってる町だから間違えないわよ。ここがどうしたの?」
「この看板のお店へは行ったかい?」
「見掛けることはあるけど、行った事はないかな。このお店がどうかしたの?」
 真由美は蘭子に答えず、葱抓餅を買って食べる地元の老若男女を見つめる。
             *
『これが、林太郎さんの言っていたソウルフードなんだね』
『そうだよ』
 真由美は、そう言う林太郎の声を聴いたような気がした。
『美味しいのかしら』
『もちろん』
『でも。もう食べられないわね』
『もう弱音吐いてる』
『だって』
『真由美らしくないよ』
              *
「お母さん…。お母さんったら」
 真由美は、いつの間にか眠っていたらしい。
 目が覚めた時、テレビでパラリンピックのダイジェスト映像が流れていた。
「お母さん、大丈夫?」
 真由美、頷く。
「そう。それなら安心した」
「スゴイね。この人たち…」
「えっ。あぁ、パラリンピックの選手たち」
 映像に熱中し、真由美は食入るようにそれを見つめる。
「蘭子。私さ、元気になれるかね?」
「元気なれるよわよ」
「リハビリに励めば麻痺も取れて、元のように歩けるようになるかねぇ?」
「大丈夫。絶対に歩けるようになるから」
「台湾へ行けるようになるかね?」
「行けるわよ、お母さん。だから、リハビリを頑張って見ましょう」
 何か月、いいや何年掛かっても良いから、元気になって、歩けるようになって、台湾へ行って葱抓餅を食べたい。

 …同じ人間だもの。私にだって出来るはず…

 彼女はテレビを見続けた。
              *
 パラリンピック閉会式の夜。
「真由美さん。僕のことが見えますか?」
 純太とサミーは、画面の向こう側にいる彼女へ手を振って見せた。
「真由美さん。キビ助もいますよ」
『キビ助。あたしが分かるかい?』
 上体を起し、ベッドの上で座っている真由美はぎこちなく左手を少し振ってみせると、キジトラはミャーオとひと鳴きした。
 二人とも口に出しては言わなかったが、入院当初は麻痺で動かせなかった左手を動かせるようになった彼女を見てホッとし。胸が熱くなった。
「真由美さん。今、僕たちは夜の公園に来ています。これから花火を始めます。見せることしか出来ないけど、今夜は楽しんで下さいね」
 純太に続いて、サミーも言った。
「真由美さん。一日でも早く良くなって下さいね」
 サミーが持つ花火に、純太は火をつけた。
 花火。
 自分を元気づけると言いながら、子供の様に騒いで楽しんでいる二人。
 浴衣姿で花火に興じる藤木親子、恵美と朗の母子の姿も見えた。
 真央と仁美は、線香花火をしてどちらの火球が先に落ちるか競っている。
 ヒューーーッ。
 ロケット花火が打ち上る音が響いたかと思うと、夜空で弾けて散った。
 三段花火の炎が、その場にいる面々の顔を明るく照らした。
 …来年は、あの輪の中に私も入らないとね…
 左手の指を動かしながら、真由美は自分にそう誓った。
 盛大に打ち上げられた花火の音が、テレビからも届いた。
 パラリンピックの閉会式が始まったらしい。
 …私だって、まだまだ…
 いつまでも真由美は、純太たちの楽し気な姿を見つめ続けた。
             *
 サミーは膝の上にキジトラを抱きながら、純太と線香花火をしていた。
 二人の間をフッと秋の気配を感じさせる冷気が過り、風向きの加減で煙がキジトラの鼻をつく。
「ミャーォ」
 キジトラは不機嫌にひと鳴きする。
 その様子を見て、純太とサミーは顔を合わせて笑った。
 刹那、サミーが寂しげな眼差しで純太を見つめる。
「サミー。どうかした?」
「純太」
「うん?」
「あのさ…」
「…」
「台北に戻らなきゃならなくなった」
 純太の線香花火の火球が地面に、あっけなく落ちた。


最終話 茶油麺線

 サミーが帰国する日。
羽田空港、出国ロビー。
「サミー。頼んだことが判ったら知らせてね」
「うん。任せろ」
「台北に着いたら連絡くれよ」
「あぁ。分かってる。でも、いつもそうしてるだろう?」
「それでもさ、念のため」
 サミーは、子犬を撫でるような仕草で純太の頭を撫でた。
「子供っぽいから止めろよ」
 照れる純太を、サミーは抱締めた。
「サミー。周りの人が見てるって」
「構わないさ」
 ふっと笑いがこぼれ、純太もまたサミーを抱締めた。
 自分より背の高いサミーに抱きしめられると、いつも決まって力の抜けるような安堵が
が純太の心を広がる。
 サミーが、ふと呟いた。
「小純(シャオジュン)。もう、こんな別れは、今回でお終いにするから」
「えっ?」
 純太が顔を上げると、サミーが優しく笑って彼の目を見つめている。
「小純。我愛您」
 サミーは再び、純太を強く抱きしめた。
             *
 一年後。
 パンデミックの鎮静化に伴って世界の国々で、渡航制限が撤廃された。
 そして、台湾政府も渡航制限撤廃を宣言した。
 真由美は、その様子を伝えるニュースを店のテレビで見ていた。
 そして杖をついて徐に立ち上がると、彼女は母屋へ姿を消す。
 チーーーン。
 仏壇の鐘の音が店先まで届くと、物憂げに首を上げたキジトラがミャーォと鳴いた。
             *
「イー、アー、サン」
 太極拳体操の掛け声が響く公園。
 いつものテーブルベンチに腰掛けた純太と真由美は、PCの画面越しに老板、サミーの二人と話している。
「老板。それって、台湾大学が真由美さんを招待してくれるってこと?」
『純さん。それは、ちょっと違うね。真由美さんの義父にあたる坂本富三郎先生と、ご主人の坂本林太郎さんを彼らの台湾大学への貢献に対して、同窓会から感謝の意を表したいということになったわけさ。表彰に当たっては大学を使って良いと許可が下りてね。農場に林太郎さんの遺爪を埋めるというのは無理だったけどね』
「そっか。まぁ、国立大学だから無理筋かなって思ってたんだけど」
『がっかりするなよ、小純。老板にしては、かなり頑張ったから』
『なんだよ。かなり頑張ったって。サミー、酷いね』
 老板、小純、サミーの三人は笑った。
「老板さん。ありがとうございました。亡くなった主人や義父も喜ぶと思います」
「それでサミー、表彰式の日程とか決まってるの?」
『決まってるんだけど、ちょうどゲイパレードの直前なんた』
「えっ。それじゃあ、ホテルとか予約取れないんじゃない?」
「ゲイパレード。何だい、それ?」
『真由美さん。ゲイパレードってね、ゲイのお祭りですよ。世界中からLGBTの人たちが来てくれてねぇ。ウチのお茶もたくさん売れるから助かってますよ』
『あんた。つまらないこと言わないでよ。恥ずかしいねぇ』
 富富の散歩から戻った太太が、会話に加わった。
「サミー。そうだとすると、もうホテルとか取れないんじゃない?」
『残念ながらどこも一杯でさ、真由美さんの泊まるところを確保するのが精いっぱい』
「えっ。それじゃあ、あたし一人で台北へ行くのかい?」
『真由美さん。大丈夫、大丈夫。純さんが一緒だから』
「だけど泊まるところが無いんだろ?」
『真由美さん。心配しなくてもあるから大丈夫よ』
 太太がそう言うと、サミーはニヤニヤし始めた。
「えっ?」
 横にいる純太へ目をやると、彼もまたニヤニヤ。
「ああー、そういうことだね。ごちそうさま」
『一年振りのリアル再会だから。二人っきりにしてやらないと』
 太太、ニヤニヤ。
「いやいやいや。真由美さん、台北のご案内は僕がちゃんとしますから」
「いいよ、好いよ。無理しなくてさ」
『そうだよ。あたしが真由美さんを案内するから、大船に乗ったつもりで居て好いよ』
『太太。私だっているから』
 太太、老板の顔をジッと見て一言。
『運転手で大活躍してね』
             *
 羽田台北松山機場へ向かう飛行機の中。
「真由美さん、飛行機は初めてですか?」
 ビールを飲み、普段よりは静かな様子の彼女に純太は話しかけた。
「今回で三度目かね。前は、前の二回は沖縄へ行く時だったよ。海外は初めてだけどね」
「具合とか大丈夫ですか?」
「平気だよ。ただ、高い所が苦手でね」
 そうとは知らず窓側の席を用意したことを、純太は少し後悔した。
「少し眠らせてもらうよ。おやすみ」
             *
 方々で、正月の厄払いの爆竹の音が絶え間なく響く。
 台北市内を流れる淡水川の河原には物売りの屋台が建ち並び、元宵節を祝う浮かれる人々で賑わっていた。
 その日、林太郎は両親と一緒にここに来ていた。
「林太郎ッ」
 呼び止められ、声のする方へ向くと小学校の同級で親友の林田龍英と妹の梅芳がいた。
「やぁ。ロンイン。メイファン」
 二人を普段通りそう呼んだ林太郎だったが、父の富三郎から諭されるように言われた。
「林太郎。ここは他の人も多いから、名前は内地風に言いなさい」
「はぁーい」
「坂本さん。ご家族でいらっしゃってましたか」
 龍英と梅芳の父で、猫空(まおこん)に代々から引き継がれてきた広大な茶園を有する林家の当主、龍太(ロンタイ)が、富三郎へ話し掛けてきた。
「いやぁ、林田さん。ご家族でいらしてたんですな」
 改姓政策が推進され、林から内地風の呼び名である林田を苗字として使っていた。
「明けましておめでとうございます」
「こちらこそ。今年も宜しくお願い致します」
 龍太たちの実家は台北郊外の山中の猫空にあるが、商売の都合から茶葉を販売する店は大稲埕にあり、普段は富三郎一家が居を構える青田街の一角に家を構えて住んでいる。双方の家が近所にあったことに加え、台湾大学で茶葉の改良研究をしていた関係から林家を訪れることが多く、その関係もあって両家の親交は深かった。
 林太郎と龍英は同じ歳。
 二人は幼馴染から親友となっていた。
「タイロン。天燈上げ、見に行こうぜ」
 龍英は普段、林太郎のことをタイロンと呼んでいる。
「メイファン。一緒に行こう」
 林太郎は、彼女の手を握って龍英の後を追った。
「こら。龍英。あまり遠くへ行くんじゃないぞ。まったく落ち着きが無くて」
 龍太、渋い顔。
「好いじゃないですか。元気があって」
 そう言って富三郎は、三人を見送った。
             *
 お昼の機内食が配られ始めた。
 純太は、眠っている真由美に声を掛ける。
「真由美さん。もう直ぐ食事がきますよ」
 起きる気配はない。
 純太が振り向くと、キャビンアテンダントと目が合った。
「彼女。ぐっすり眠っているみたいですから。食事は置いといて下さい。それと、飲み物はビールでお願いします」
             *
林太郎、龍英と梅芳の三人は、屋台のオヤジが焼いている葱抓餅(ツォンジャアピン)をジッと見つめていた。
親たちは、三人の様子を見て一様に溜息を漏らした。
「龍英。涎が出てるぞ」
 龍太に言われ、龍英は袖で慌てて口を拭った。
「まったく、あなた達ときたら。葱抓餅なら永康街のお店で毎日食べてるでしょう」
「母さん。まぁ、そう言いなさんな。好きな物って、目にしたら食べたくなるものだよ」
「もう。お父さんは、そうやって林太郎たちを甘やかすから」
「葱抓餅、三つ」
 富三郎が注文すると、大人たちが呆れるほど子供たちは大はしゃぎした。
             *
「お食事は和食と中華からお選び頂けますが、如何なされますか?」
 キャビンアテンダントは、真由美の食事の選択を純太に訊いた。
「あぁ。中華でお願いします」
             *
 葱抓餅を食べながら三人は、天燈上げを眺めた。
 快晴の冬空は、天燈でひしめいていた。
「色が無いのが残念だね」
 そう言う龍明に梅芳が聞いた。
「色?」
「本当はね、お願いしたい事によって、紙の色を変えるんだよ。例えば、桃色だったら幸せになれますように、橙色だったら好きな人と結ばれるようにとね。すると天の神様やご先祖さまたちに早く伝わるだろう」
 梅芳は空を見上げると、呟くように言った。
「みんな、白い色だね…」
「そうだね。でも、白い紙でもお願い事はちゃんと伝わるんだよ」
「父さん。僕も天燈上げをしたい」
「あっ。あたしも」
「メイファンはダメなんだぞ」
「何でよ、お兄ちゃん」
「女だから、一人で上げちゃダメなんだ」
 龍明が息子をたしなめ様と何か言おうとした矢先、林太郎が言った。
「メイファン。僕と一緒に上げよう」
 それまで拗ねていた梅芳の表情が、パッと明るく変わった。
「お願いごと何にしたの?」
 林太郎がそう言って見ようとすると、梅芳は願い事を手で隠した。
「ダメ。見ちゃ」
「見せてよ」
「ダメ」
「あッ」
 龍英の叫び声。
 天燈を上げた直後に突風が吹き、大きく傾いて覆いの紙へ火が燃え移った。
 彼の上げた天燈は火の玉となって昇って行った。
 梅芳が兄の騒ぎに気を取られている間、林太郎は彼女の願い事を見た。

『林太郎兄さんのお嫁さんになれますように』

「あっ。見たっ?」
「えっ。見て無いよ」
「うそ。見たでしょう?」
「見てないって。大丈夫だから。一緒に上げよう」
 二人は、空の彼方へ遠ざかって行く天燈を見上げた。
「メイファン。今度は、夜に上げようね」
「夜?」
「すっごく綺麗なんだ」
「うん」
             *
 真由美、目覚める。
「あっ。真由美さん。起きました?」
「あぁ。眠ってたね」
「ランチ。中華を選んじゃいましたけど良かったですか?」
「好いよ。それで」
 メインディッシュは、蒸し鶏のネギソースかけだった。
「美味しそうだねぇ」
 シャキッとした爽やかな葱の歯応えと肉汁と絡んだ甘みが口に広がる。
「美味しい。それに何だか懐かしい味だよ」
             *
 間もなく台北松山機場へ到着するアナウンスが機内に流れた。
 真由美は窓から台北の町を眺めている。
「平気ですか?」
「えっ?」
「高い所が苦手だと言ってたから」
「高過ぎると平気みたいだよ。東京とは違う景色だね」
「気に入りそうですか?」
 彼女は頷いて言った。
「きっと気に入るよ」
             *
 荷物受取所で待つ間、真由美は何だかソワソワしていた。
「随分と大勢の人が居るねぇ」
「平日なのにこの賑わい。どちらかと言えば混雑気味ですかね」
「ふーん。それにしても男の人が多いこと」
「ゲイパレードが近いですから。それで多いんでしょう」
 真由美、目をキョロキョロさせて見回す。
「イケメンも沢山いるねぇ」
 純太、笑いを堪える。
「何だよ。何がおかしいんだい?」
「気に入った人、見つかりました?」
「馬鹿言ってんじゃないよ」
「あぁ。いるんだ」
「うるさいよ」
「お幸せに!」
「もうっ」
「でも一つだけ。ここも含めて、普段に比べてLGBTの人が多いですよ」
「わかってるよ。夢を壊さないでおくれ」
             *
 入国ロビーに出た時、出迎える人々の熱気で真由美は一瞬たじろいでしまった。
「うわっ。凄い。こんなの久しぶりに見た」
 そう言って見回した出迎えの人々の中に自分達の名前が記されたネームプレートを見つけて純太は苦笑する。
「何だか照れくさいなぁ」
 老板が、周囲の熱気に負けじと手を振っている。
「真由美さん。あそこ。老板がいますよ」
「えっ。おや、老板さん。太太さんも一緒だねぇ」
 真由美は二人へ手を振って返した。
 純太も同様に手を上げたが、突然後ろから誰かに抱かれた。
 前に回した手を握って純太、満面の笑み。
「小純。お帰り」
「サミー。ただいま」
 サミーは純太の頬にキス。
 真由美が咳払いした。
「あぁっ。真由美さん」
「あぁ、じゃないよ。まったく。相変わらず、オアツイ二人だね」
             *
 五人は、老板の車で真由美が泊まるホテルへ向かった。
「真由美さん。中山にある日系のホテルを予約してありますから。スタッフは全員、日本語が話せますから安心して下さい」
「あぁ。あのホテル。一度、泊まったことがあるけど、好いホテルでしたよ。ホテルの周りも静かだし」
「そうかい。先生も同じホテルかい?」
 純太は、笑いながら答えた。
「僕は、サミーの家に泊まりますから」
「あぁ。そうだったね。野暮なことを聞いちゃってゴメンよ」
「ところで真由美さん。明日は、どこか行きたいところがありますか?」
「そうだねぇ…」
「どこでも、お好きな所をご案内しますよ」
 サミーに即されて真由美は答えた。
「青田街って知ってるかい?」
「もちろん。永康街の隣町ですよね」
「そこへ行ってみたいんだよ」
「青田街」
 老板は少し不思議そうな表情を浮かべる。
「亡くなった連れ合いが住んでいた町らしいんだよ」
「日本人が多く住んでた町だって聞いてましたけど、ご主人も住んでいたのね。高級住宅街だったんでしょう?」
「義父は台湾大学で教鞭をとってましたからねぇ。その関係で官舎よろしく家を借りて住んでいたみたいだよ」
「ふーん。お金持ち」
 太太がそう言うと、老板がちょっとドヤ顔で言った。
「ウチも青田街の住人だったんだよ」
「えっ?」
「戦争が終わるまで、オヤジが手広く商売やっててね。店も大稲埕にあってさ。猫空だと何かと不便だから青田街の家を買って住んでいたんだよ」
「義父さんは立派だったね。あんたの代で庶民に戻っちゃったけど」
「でも幸せだろ。細く長くが、気楽で好いんだよ」
「青田街へ行くのなら、包子(パオツー)の店を予約したら」
「今から取れるかなぁ?」
「実はねぇ。永康街で食べたい物があるんだよ」
「何に食べたいんです?」
「葱抓餅」
「?」
「…」
「ダメかい?」
「ダメじゃないけど。葱抓餅なら町中に売っている屋台がありますよ」
「永康街みたいなお洒落な街じゃ、もう食べられないかねぇ」
「いえいえ。老舗の葱抓餅屋さんがありますよ。私もね、子供の頃によく食べてました。結構旨くて、今でも人気ですよ」
「本当に食べたいんですか?」
「亡くなった連れ合いがね、子供の頃によく食べてたみたいなんだよ。どんな味なのかなと思ってね。でも、やっぱり行かない方が良いかね?」
「そんな事はありませんよ。真由美さん、ご案内します」
             *
 夕方、ホテルのロビー。
 荷解きを終えて、真由美が姿を現した。
「真由美さん。美味しいものを食べに行きましょう」
 太太の提案に彼女は笑った答えた。
「純さんたちも行くだろう?」
 老板がそう言うと、二人は曖昧に笑った。
「あれっ。二人は行かないのかい?」
 真由美が聞くと、純太が申し訳なそうな顔つきで答えた。
「今夜はちょっと、二人で行きたいところがあって」
「二人でね」
 太太、ニヤニヤ。
「今日。僕と純太が出会った日なんです」
「おや。そうだったのかい。二人の運命の出会いはどうだったんだい?」
「運命かぁ。そうとも言えなくもないなぁ」
 老板、意味深。
「老板さん。知ってのかい?」
「太太もね。サミーから何回聞かされたことか。純太が屋台での麺の注文で困っているところを助けたんだったね」
「はい」
 二人、ニヤニヤ。
「その後、サミーと純太の愛が深まったというわけですよ」
 老板と太太、ニヤニヤ。
「先生。早く言っておくれよ。記念日なんだろ。早く、二人でね」
 三人は、二人を見送る。
 太太が、ふと呟いた。
「若いって良いわね…」
「太太さん。年寄くさいよ。あたしたちだって、若い者に負けちゃいられないよ」
「真由美さんこそ、年寄みたいですよ」
 三人、苦笑。
             *
 CLUB‐Fの入口は普段の週末以上の混雑だった。
「すごく混んでるね。ちょっと出遅れたかな」
「ゲイパレード前だからね。でもさ、今日で良かったよ」
「どうして?」
「平日で、まだ七時過ぎなのにこの盛況ぶりだろ。週末だと入れないかもしれないから、今日来て正解だったよ」
「ねぇ。何で出会った日に僕がゲイだって判ったの?」
 サミーは、にやにやしながら答えた。
「麺を二人で食べていた時、この店の名前を出したら、反応していたからね」
「反応って?」
「週末になると千人くらいゲイが集まって楽しいよって振ったらさ、そんなの興味ないって感じの素振りになって。その様子がぎこちないから可愛いなって思ったよ」
 純太、溜息。
「ちょっと期待してさ。それで週末のCLUB‐Fへ行ったんだ。店への入り方がわからなくて不安そうにウロウロしている君を見つけた時、心の中でガッツポーズしたよ。滅茶苦茶嬉しかったんだけど、偶然を装って声を掛けた」
「やっぱりそうだったんだ。偶然しちゃ、出来過ぎだと思ってたんだ」
「でも、運命の出会いだったと思うよ」
「どうして?」
「千人の中から純太を、ちゃんと見つけたんだから」
「クサイよ。その台詞」
 二人はCLUB‐Fへ入って行った。
             *
 翌日のお昼近く、真由美がホテルのロビーで迎えを待っていると太太が現れた。
「おや、太太。それに老板さんも」
「純太とサミー。今日は来れないって」
 太太、ニヤニヤ。
「えっ。二人、具合でも悪いのかい?」
「具合は好いと思うよ」
「ちょっと、あんたは…」
 太太、老板を軽くはたく。
 二人の様子から察した真由美は、笑って言った。
「葱抓餅、三人で美味しく食べるとしましょうかね」
             *
 先に目を覚ました純太がサミーの寝顔を見つめていると、彼も目覚めた。
「起きてたの?」
「ちょっと前に目が覚めた」
 サミー、純太の髪の毛にキス。
「なぁ。覚えてる?」
「何?」
「初めて会った屋台で食べた麺のこと」
「名前は忘れたけど葱入りの麺線だったね」
「うん」
「小純(シャオジュン)。怖い顔して麺を見てたよ」
「お腹空いて。食べたいけど上手く言えなくて。そのうち屋台の人も待ってるお客さんたちも苛々し始めて。八方塞がりみたいな気持ちになって、表情も強張っちゃって困った」
「僕がツンツンって突いたら、もの凄く怖い顔で見てさ」
 二人、失笑。
「日本人だって直ぐ判ったよ。日本語で話しかけたら泣きそうな顔してたね」
「してないよ。でもさ『それ、食べたいの?』って日本語で言われた時、地獄で仏に会ったみたいな感じだった」
「僕も食べたかった麺線だったから『一緒に食べよう』って誘ったらOKしてくれて。それが嬉しかったよ」
「あの状況だったからね。不思議と警戒もせずにOKしたんだけど、ひょっとしてナンパとかだった?」
「違うよ。食い気の方が勝ってたし」
「やっぱり、ナンパじゃん」
「疑り深いなぁ。二人分を一緒に頼めば早く食べれるだろ」
「ふーん」
「あの時、小純の心、滅茶苦茶殻に閉じこもっていたよね」
「失恋の直後だったし。他にも色々とあって。会社を辞めて、今の仕事を始めて。でも、思ったほど順調に進まなくて。孤軍奮闘、四面楚歌、メチャ孤立って感じで辛かったよ。気分を変えようって台北に来たけど、言葉もあまり通じないし。慣れないことも多くて。帰国まで一週間くらい残っているのにどうしようって。すごく不安だった」
「旅行なのに、折角の台北を満喫してないなぁって感じてさ。自分もちょうど休暇中だったから、色々な場所を案内してあげたいなって思った」
「でも、いきなり茶油麺線のことを話し始めたから、ちょっと戸惑った」
「何で?」
「だって、麺線が美味しいって評判の店で、もっと美味しいのがあるって自慢し始めるから。店の人に聞こえたらどうするんだってドキドキしたよ」
「大丈夫だよ。日本語でしゃべってたし。分らないよ」
 二人、笑う。
「その後、猫空のことを話し始めて。サミー、滅茶苦茶楽しそうに話すから。イヤな事なんか自然に忘れちゃって。楽しかった。気分も解れたし。猫空、行ってみたくなって。知り合ったばかりの人に連れてってもらうなんて大丈夫かなって、普段の自分だったら警戒してたはずなのにさ、あの時はそんな気持ちに全くならなくて。不思議だったなぁ」
「茶油麺線も美味しかっただろう?」
「絶品。太太の麺線は、最高だよ。老板にも出会えて。本当に良かったよ」
「実はさ、あの時は純太の気を引こうと必死だったんだ」
「えっ。そうだったの?」
「会って、直ぐ好きになってさ。少しでも長く一緒にいたいから、あの手、この手。共通の話題とか分からないから、麺の話から始めたんだ。話しているうちに太太の麺線の味を思い出して。必死だった」
「そうだったんだ」
「猫空なら二人きりになれるし」
「えっ?」
「山頂までロープウェイだから。足元から下の景色が見えるゴンドラの話をしたら、純太、ものすごくノッてきちゃって。案内することになって。平静を装っていたけど、本当は心の中でガッツポーズしてた」
「やっぱりナンパだったんだ」
「違う、違う」
「まぁ、好いけどね。僕だって、サミーと一緒にいたかったし。熱心に誘われて嬉しかったよ。あっ…」
「えっ。どうしたの?」
「ひょっとして、CLUB‐Fも作戦だった?」
「ない、ない。あれは、本当に偶然だから」
「本当かなぁ?」
「確かにさぁ、純太に会えないかなって淡い期待はしてたけど。会えるとは全然考えていなかった。だからさ、あの人混みの中で純太を見つけた時時、これはもう絶対に運命だって。ガチで確信したよ」
「それって、ちょっと怖くない?」
「じゃあ、小純はどうだったの?」
「うーん。ビックリしたけど、もっと単純かな」
「単純?」
「あっ。サミーもゲイだったんだなって。単純にそう思った」
「…」
 サミー、ちょっとガッカリ顔。
 そんな彼を見て、純太は笑いながら言った。
「だから、すごく嬉しかったんだ。もしかしたら恋人になれるかもって、期待しから」
             *
 葱抓餅が焼き上がるのを待っているお客が数人いる、そんなローカルな店だった。
 …ふーん。こういう味だったんだね…
 真由美は一口食べるなり、心の中でそう思いながら林太郎の顔を思い出していた。
 三人は店からほど近いところにある公園で葱抓餅を食べていた。
 老板にとっても葱抓餅はソウルフード。
 懐かしかったのか、昔話と葱抓餅自慢を太太としている。
 …おや。あれは林太郎…
 その男は公園から出る所を見掛けたのだか、彼の後ろ姿は林太郎に似ていた。
 真由美は無意識に杖を持って立ち上がり、その男の後を追った。
老板と太太は会話に夢中で公園から出ようとしている真由美に気がつかなかった。

 『昭和文物市場』

 林太郎によく似た男は、表の入口の上にそう書かれた看板の掛かっているビルに姿を消した。
 そして真由美もまた、彼の後を追ってビルの中へ入って行った。
 薄暗い廊下の両脇にアンティークを扱う店舗が並んでいた。
 …おや。懐かしいねぇ…
 昭和の匂いのする品物が多い。
 真由美は店巡りに熱中し、彼女の脳裏を林太郎との思い出が次々に駆け巡った。
 彼女は、子供たちの声を耳にして足を止めた。
             *
 突き当りに階段に座る三人の子供たち。
 女の子を挟んで男の子が座っている。
「お兄ちゃん、ズルい」
「龍英(ロンイン)、梅芳(メイファン)に少し分けてあげなよ」
「嫌だよ。だから言ったんだ。みんなで一緒に食べようっていってるのに、先にメイファン一人が食べちゃうから。気にしなくて良いよ。林太郎。二人で食べようぜ」
 ロンイン、自分の葱抓餅にかじりつく。
「あぁ」
 メイファンは急に泣き出した。
「泣かなくて良いよ。メイファン。ほら、二人で分けて食べよう」
 林太郎は葱抓餅を二つに分けて彼女へ渡した。
 メイファンは泣きじゃくりながら葱抓餅を持つと、それを一口食べた。
「美味しい?」
 彼女は頷いた。
「ありがとう」
 頷くと、林太郎も葱抓餅を食べた。
「まったく。林太郎(リンタイラン)はメイファンに甘いよ」
 そう言うと龍英は、残りの葱抓餅を夢中で食べ始めた。
             *
「真由美さんッ」
 太太が自分を呼ぶ声で真由美は振り向いた。
「もう。探した。居なくなっちゃったから心配したんだから」
「見つかった。良かった…」
「あっ。ごめんなさい」
「どうしちゃったの。急に…」
 …林太郎によく似た男の人を追ってここへ来たとも言えないし…
「まぁ。見つかったんだし。良いじゃないか。それにしても、よくこんな場所を見つけましたねぇ」
「あたしも知らなかったわ。こんな場所があったのね」
 太太、興味津々。
「真由美さん。お願いだから、もう一人でどっか行っちゃうのは止めてね。もしそうしたくなったら声を掛けて」
「はい。そうさせてもらうよ」
 太太と老板、店巡りを始める。
 真由美は三人の子供たちのことを思い出して振り向き、階段を見るが彼らの姿はない。
 …ロンイン。メイファン…
…そして、ロンタイラン…
             *
台湾大学。
 真由美は表彰式の事前打ち合わせのために老板たちと台湾大学に来ていた。
 式典の細かい段取り打合わせの最中、真由美は窓の外に見える農場を見て訊いた。
「あのー。こんな時に何なんだけどねぇ」
「真由美さん。どうされました?」
 純太が尋ねると真由美はニッコリ笑って言った。
「あれ。ひょっとして農学部の農場かね?」
「あぁ。そうですよ」
 老板が答えると、真由美。
「ちょっと見させてもらって良いかね」
「えっ。真由美さん。まだ打合わせの途中ですよ」
 戸惑う純太を横に、大学側のスタッフが笑顔で答えた。
「大丈夫ですよ。ご覧になって下さい。ご案内しますよ」
「あぁ。打合わせを続けて下さい。一人で見に行ってきますよ」
「真由美さん。大丈夫?」
 太太、心配気。
「大丈夫。大丈夫。ちょっと見させてもらうだけだから。直ぐに戻るから」
「でも、迷ったら…」
「その時は、これで太太さんに連絡するから」
 真由美はスマホを振って見せた。
「そう。何かあったら直ぐ電話して下さいね」
「そうさせてもらうよ」
 真由美は杖を片手に部屋を出て行った。
 整然と整備され、かなり広い農場だった。
 畑、田んぼ、ビニールハウスが見える。
 風が心地よい。
 農場を一望できる学生向けのコーヒーショップが目に入り、真由美はそこへ向かった。
 支払いはカード。
 余り会話も交わせずにコーヒーを買った。
「謝謝」
 学生バイトらしい女の子がちょっと口角を上げて、真由美に優しく言った。
「謝謝」
 便利な世の中になったものだと、真由美は思った。
 小銭のやり取りがあると面倒でこんな感じにスイスイと行かなかっただろうけど、これもパンデミックのお陰だと妙に感じ入りながら、彼女はコーヒーカップを手にした。
「ちょっと大きめのカップだねぇ」
 苦笑しながらカップを持ち上げ、一口飲んで彼女はホッとした。
 …おや。茶畑もあるんだねぇ…
 それは普段から見慣れた、お茶の木の隊列だった。
 コーヒーを飲みながらその景色を見ていると、自分は坂本園にいるのではないかと何度も錯覚に陥って彼女は苦笑する。
「リンタイロンっ」
 その名を聞いて、真由美はえっと思った。
 女学生に呼ばれた男子が茶の木の間からヌッと身体を起し、彼女を見つめると手を振って名前を叫んだ。
「メイファン」
「えっ。偶然かい。リンタイロンとメイファンって…」
 そして二人は、真由美の隣に座った。
             *
「もう。デートっていうから。大学の農場じゃない」
「ここだと人目を気にせず会えるじゃないか」
「でもなぁ…」
「俺は親父の研究室に用事があるって口実で出入りできるし、メイファンの父さんは俺の親父の研究のスポンサーだから出入りしてても不自然じゃない。外で二人っきりで逢ったりしてるところを人に見られでもしたら何を言われるか分らないご時世だもん。逢引きには格好の場所さ」
 林太郎は、鞄の中からポットとコップを取り出した。
「お茶を淹れるよ」
 お茶の入ったコップをメイファンの前に置いた。
「ありがとう。でもなぁ。全然ロマンチックじゃ無いじゃない」
 林太郎は笑いながら言った。
「淡水。一緒に行かないか?」
「二人で?」
「うーん。まぁ、結果的には二人になるかな」
「何それ?」
「来週末、親父が淡水の大学で講演するんだ。俺にもついて来いって」
「あぁ。その講演なら、うちの父も行くって言ってた」
「講演の間、ちょっと抜け出して見に行こう。だから、君にもお父さんと一緒に来て欲しいんだよ」
「無理よ」
「大丈夫。君の親父さん。君に甘いから。一緒に行きたいってせがんだら、きっとダメとは言わないんじゃないかな」
「あー。そうよねぇ」
 メイファン、悪戯っぽく笑う。
「淡水の夕日の景色を見せたいんだ」
「夕日の景色?」
「水面に夕日が当たるとさ、水面とさざ波がオレンジ色の夕日に染まってキラキラ輝いて。ものすごく綺麗なんだよ。だから君にあの景色を絶対見せたいんだ」
「あたしに?」
 林太郎は頷いて見せた。
「淡水の夕日かぁ。早く見てみたいなぁ…」
             *
「真由美さん。…まゆみさんッ」
 純太の声で彼女は目を覚ました。
「こんな所で居眠りしたら風邪をひきますよ」
「あぁ。寝ちゃってたんだね。夢を見ていたよ」
 呆れたような顔つきで、純太は笑った。
「打合わせ。終わったのかい?」
「はい。バッチリ。後は表彰式に臨むだけですよ」
「本当に良いのかねぇ。あたしなんかが、ご大層な表彰を受けちゃって」
「良いんですよ。義理のお父さんと亡くなったご主人の代理なんですから。真由美ん以外に適役はあり得ないですから」
「ちょっと緊張するよ」
「大丈夫。大丈夫」
 二人、それぞれに笑顔。
「先生。淡水って場所を知っているかい?」
「もちろん知ってますよ。と、言うか僕にとっては忘れられない思い出の場所ですから」
「へぇー。綺麗な場所かい?」
「淡水川が海と合流する河口にある町で、船の行き来が多い場所です。夕方になると水面が夕焼けに照らされてキラキラ輝いて、川辺の建物もオレンジ色に輝いて。マジで素敵な場所ですよ。夜市も賑やかだし。ところで淡水がどうかされました?」
「連れて行ってくれないかねぇ。夕焼けの景色、見たいんだよ」
             *
 龍英の父親、龍太(ロンタイ)が運転する車は、淡水へ向かっていた。
 悪路ではなかったがガタガタ揺れる。
「富三郎先生は、昨日のうちに淡水へ行かれたのかね?」
「はい。向こうで会う人が何人も居るらしく。ロンタイおじさん、誘われませんでした?」
 龍太は笑って答えた。
「私は下戸だから。富三郎先生が気を遣って頂いたんだろう」
 林太郎は龍太の言葉を聞き流しながら、助手席に座る梅芳の横顔を見た。
 そんな彼の頭を龍英が、軽く小突いた。
「な、何だよ」
「抜け駆けしやがって」
「えっ」
「惚けやがって。メイファンと二人、なんて画策してたろ」
「そ、そんなことは…」
「お前がやろうとしていることなんか、全部お見通しなんだよ」
 林太郎、渋い顔。
「まぁ、俺が来てやったから安心しろ」
「な、なんだよ」
 龍英は林太郎の耳元で、コソコソ声で言った。
「俺に任せろ」
「…」
「ちゃんと、二人っきりにしてやるから」
 そう言うと龍英は窓の外の景色を見た。
 林太郎は苦笑し、再び梅芳の横顔を見つめた。
             *
「やっぱり」
「予想通り」
 淡水駅前の混雑を前にして、真由美は唖然として立ち尽くした。
「すごい人出だねぇ…」
「ゲイパレード前だし、今日の天気抜群に良いから混むと思ったんだよね」
「でも例の店、予約したんでしょ?」
 純太がそう言うとサミーはドヤ顔で頷いた。
「ばっちり。貸し切りにしたし」
「えっ。貸し切りかい?」
 真由美、思わずサミーの顔を見る。
「大丈夫なのかい?」
「えっ、どうしました?」
「だって、書き入れ時だろう。それにこんな時期に貸し切りなんて、高いだろ」
「大丈夫ですよ。そこ、僕たちが初デートした時に利用したお店ですから」
「そうだからって…」
「真由美さん。心配なさらなくても平気ですよ。そのお店、僕の姉がやっているカフェですから。眺めが最高なんですよ。さぁ、行きましょう」
             *
 龍英にしては珍しく有言実行により、林太郎と梅芳は二人きりになれた。
「ここ。好さそうだけど、どうかな?」
 老街をブラブラ歩き、二人は川辺のパーラーに入った。
             *
「サミー、来たわね。純太も久しぶり」
 サミーの姉は二人と挨拶を済ませると、真由美を見て言った。
「真由美さんですね?」
「えっ。あたしを知ってるのかい?」
「もちろん。二人からよく聞いてますから。私のことは、マリアンと呼んで下さい」
「マリアンさん」
「はい。さぁ、どうぞ。どうぞ」
 三人は、マリアンの勧める席に座った。
 真由美は、窓から見える景色に感動した。
「綺麗だねぇ」
「夕日の頃になると、最高に綺麗だから。楽しんで下さい」
 マリアンは、お茶を出すと奥へ引っ込んだ。
「おやっ。マリアンさんは一緒しないのかい?」
「姉さんはこれから姪っ子を迎えに外出するんです。その間、僕らが店番というわけで」
「あぁ。それで貸し切りかい」
「まぁ。そういうことで」
 三人、笑う。
「初めてのデートの時も、そうだったね」
「そうだね。僕もサミーから貸し切りだって言われて、驚いたんですよ」
「お陰でゆっくりと話しができたろう」
「まぁね」
「あの頃、純太って心を閉ざしてたんですよ」
「へぇー。あんたがねぇ」
「色々あって。ここに来たら何だか無性に話したくなって。洗いざらい、何もかも、魂っていたものをサミーに話しちゃったらスッキリしました」
「そうかい。それは良かった。何でも話せる人が、やっと見つかったんだね」
 純太とサミーは互いの顔を見合わせた。
「ちょっとテラスに出ても良いかい?」
「あぁ、どうぞ。ご一緒しますよ」
「先生はサミーさんと話しをしてな。一人で風に当たってみたいんだよ」
 二人を置いて、真由美はテラスへ出た。
 川面から真由美に触れる風は柔らかく、優しく、心地よい。
 水辺に来ると、心がホッとする。
 …どうして、こんなに心地いいんだろうねぇ…
 対岸へ渡る連絡船を、ぼんやりと眺めた。
 ふと、彼女は隣の店を見た。
 マリアンの店とは対照的な、レトロな雰囲気のカフェ。
 …隣にあるのに気づかなかったねぇ…
 窓辺のテーブルを挟んで、若い男女が座っている。
 二人とも俯いたままで、話しが盛り上がっている様には見えなかった。
 …何だか、初々しいねぇ…
 男の方が顔を上げて外を見た時、真由美は彼と目が合った。
 …何だか見たことがあるような顔だねぇ…
 そう思いながらも真由美は、チラ見だけして視線を逸らした。
             *
 林太郎は、何故か緊張していた。
 それは梅芳も同じらしく、俯いたまま顔を上げようとしない。
 何を話して良いのか分からず、林太郎は何げなく窓の外の景色に目をやった。
「メイファン。ご覧よ。夕日の景色」
「えっ」
 窓から差込む夕日が、メイファンの顔をほんのり紅く照らした。
「うわっ。綺麗…」
「…」
「見て見て。外。綺麗だから」
             *
 再び視線を川面へ戻した時、真由美は思わず絶句した。
「うわっ…」
 連絡船が通り過ぎて生じた波頭が、夕日に照らされて煌めく。
 やがて夕日は川辺の建物や木々、人々までも茜色に染め上げていった。
「何て綺麗なんだい。この景色…」
 夕日は、瞬く時の移ろいと共に変化する。
 茜色は刻一刻と、その色合いを、輝きを帯びた色彩から深く夜の訪れを感じさせずにはいられない深く濃い色へと、濃淡織り交ぜながら変化していった。
 西の水平線が鮮やかな茜色で包まれると、全ての景色が夜の闇に呑み込まれていった。
             *
 純太とサミーも、窓の外の夕日に染まる景色を眺めながら二人の初デートのことを静かに話し合っていた。
「あの日も、こんな感じだったね」
「そうだな」
「あと何日居るのって聞かれて、本当はちょっと寂しかったんだ」
「えっ。そうだったの?」
「日本に帰ったら、もう途切れちゃうんだろうなって思ったし」
「そんな積りで聞いたわけじゃ無かったんだけどな」
「そうだったの?」
「うん」
             *
 真由美は、再び隣の店にいる若いカップルを見た。
 女性は景色を見てはしゃぎながら、彼の手を握っていた。
             *
 梅芳は無邪気に言いながら、林太郎の手を握った。
 はしゃぎ終えて、彼の手を握っていることに気づいて手を引っ込めようとしたが、林太郎はその手をしっかり掴んだまま放さなかった。
「えっ?」
             *
「好きだ。純太。俺と付き合おう」
             *
「メイファン。結婚を前提に僕と付き合ってくれませんか」
 梅芳は、嬉しそうに頷いた。
「良かった」
 二人は手を握り合った。
「今度、九份へ行こう」
「九份って金鉱の町?」
「メイファンに絶対見せたい景色があるんだ」
             *
「残り日数の中で告白しようと思ってたから。でも…」
「いきなり告白されてビックリしたけど、何故だかOKしちゃった。どうしたんだろうと今でも解らないんだけどね。勢いに押されちゃったのかなぁ」
「後悔したかい?」
 純太は首を振って、言った。
「ううん。嬉しかった。途切れないで良かったって思った」
「そっか」
「淡水の夕日の魔力のお陰かな」
             *
 それまで自分に背を向けていた彼女が、ふっと真由美へ顔を向けた。
「えっ…」
 彼女の顔を見て、真由美は言葉を失った。
             *
「真由美さん」
 純太に呼ばれて彼女が目覚めた時、日はすっかり暮れていた。
「大丈夫?」
「あっ。あぁ。また、居眠りしちゃったかねぇ」
「疲れてるんじゃないですか?」
「大丈夫だよ。毎日、楽しいしね」
「ねぇ。晩ごはんにしない?」
 マリアンがテラスに居る三人に声を掛けた。
「晩ごはんまでご馳走になっちゃ」
「遠慮はダメですよ。姉の料理、結構イケますから。是非、食べて下さい」
「そうかい」
 三人が店の中へ戻ろうとした時、真由美は隣家を見た。
 レトロな外観はそのままだったが、人のいる気配が全くなかった。
「あれ。ここは空き家かい?」
「あぁ。ここはそうですよ。戦前からある建物で、姉の店がオープンする少し前まで喫茶店だったんですけどね。その後はずっと空き家ですよ」
 サミーはそう言うと、店の中へ入った。
「真由美さん。この家がどうかしました?」
 真由美、怪訝な面持ち。
「さぁ。中に入って。食べましょう」
 マリアン、二人を呼ぶ。
「まぁ。何でもないよ」
 そう言って真由美は、何かを察したように笑いながら店へ入って行った。
             *
「それなら。瀑布へ案内してあげたら?」
 食事の後、日本人があまり行きそうにない観光地を行きたいと言い出した真由美に対してマリアンがそう言って応えた。
「ばくふ、かい?」
 純太とサミーは苦笑した。
「姉さん。そう言っても分からないよ」
「瀑布っていうのは、滝のことです。台北の郊外に十份大瀑布という横幅の広い滝があるんです。台湾のナイアガラとも呼ばれていて。知る人ぞ知る観光地です」
「あそこなら近くに十份もあるし、ちょっと足を延ばせば九份も行けるから好いんじゃないかしら」
「良いけど、車がいるなぁ」
「サミーの車は?」
「点検に出した。戻ってくるの二週間先」
「そっか。老板にお願いしてみようか?」
「太太を味方につけよう」
「良いかも」
 二人が悪だくみに花を咲かせている間、真由美はマリアンと瀑布の話をしていた。
「平渓線というローカル線の沿線にある滝で、以前は入場料を払わないといけなかったんですよ。それがちょっと面白いのは、線路脇に入口があって、その建物が駅みたい感じなんですよ。以前は、その滝を法人が所有していてそこが作ったらしいんですけど、もちろん電車は停まらなくて。変でしょう。昔は、隣駅から線路伝いに歩いて行ったみたいで、事故とかで危ないから今は禁止になってますけど、実際に歩いて行った人もいて。感想聞くとワイルドだったって」
「今はどうなってるんだい?」
「市が買い取って無料で見れるみたいですよ。十份から歩いて行くか、車かバス。観光バスも出てるみたいだけど。周りに公園なんかも整備されたって聞いてます。話のネタに一度行ってみる価値はあると思いますよ」
「ふーん。二人にとっても想い出の地だって」
「想い出ねぇ」
 マリアン、二人をニヤニヤ顔で見ながら一言。
「サイクリングで行って、二人で初めてキスしたって言ってましたよ」

             *
「ナイアガラにしては穏やかだねぇ」
 滝を見て、真由美は率直な感想を口にした。
「そりゃー、真由美さん。ここのは、台湾版ですから本家と比較しちゃ可哀そうですよ」
 老板はニコヤカに言った。
 規模は小さいが、横幅はそれなりにあって写真などで見ている御本家に形は似ていた。
「記念に一枚、撮ってもらおうかねぇ」
 太太と撮り終えた写真を見て、真由美は満足気に言った。
「後でSNSに上げるとしようかねぇ」
 写真を見ていた真由美は、少し離れた場所で映っている男に目がいく。
 …淡水で見た若い男の人…
 彼女は慌てて男が映っている辺りを見た。
 その男は、まだ同じ場所にいて彼女を見ていた。
 彼の顔を見てハッとし、真由美は心の中で叫んだ。
 …林太郎さん…
 もう一度見直した時、彼の姿は消えていた。
             *
 梅芳が、肺の病気で入院した。
 入院先の台湾大学病院からの帰り道、一緒に見舞った龍英が林太郎へ言った。
「林太郎。これから滝を見に行こうぜ」
「えっ」
「行くぞ」
 半ば強引に腕を引っ張られ、その勢いで台北駅から列車に乗った。
 瑞芳で平渓線に乗り換えて大華駅で二人は降りた。
「ロンイン。何で、ここで降りたんだ?」
 林太郎はちょっと苛立ち気味で言った。
 無理もない、駅の周辺には何もなくホームだけが浮いたように目立っていた。
 龍英はホームを飛び降り、線路の横に立つと林太郎へ言った。
「早く降りて来いよ」
「えぇッ」
「良いから来いって」
 梅芳のことが頭から離れないせいか、線路沿いに歩く二人は無口だった。
 途中、上り列車が近づく音がした。
「林太郎。こっちだッ」
 龍英は林太郎の肩を抱くと、線路下の物陰に身を潜めた。
 列車が通り過ぎると、林太郎は自分の肩に掛けている龍英の手を払って言った。
「どこへ連れて行くつもりだよッ」
「滝を見せるって言ったろ」
「どこに滝があるんだよ」
「あのトンネルの向う側さ」
 思ったほどに長くはなかったのかもしれないが、抜けない間に列車が通るのではないかという不安が、通り抜けるまでの時間をより長く林太郎に感じさせていた。
 トンネルを抜けてホッとしたのも束の間、龍英が林太郎を呼んだ。
「こっちだ」
 石段を下りて視界が開けた時、林太郎はハッとさせられる。
「滝だ…」
「どうだ?」
 林太郎は満足げな笑顔を龍英へ返した。
「なぁ。林太郎」
 無心で滝を見ていると、ふいに龍英が話しかけて来た。
「メイファンと付き合ってるんだろう?」
「ああ。卒業したら結婚する」
 龍英は林太郎の目を真直ぐに見ていたが、やがて彼の表情は破顔へ変わると言った。
「妹のこと頼んだぞ」
「えっ。あぁ…」
「もう時間がない」
「えっ?」
「…」
「お前、まさか…」
「特攻に志願した」
「えっ。と、特攻って。メイファン、どうするんだよ」
「だからお前に頼むんだ」
「バカやろうッ」
 林太郎は龍英を殴りかけて止めた。
「いつだ?」
「来週の木曜日」
「なんで特攻なんだよ」
 それには答えず、龍英は林太郎に笑顔を向けて言った。
「妹には、お前がいれば大丈夫だ」
「…」
「だから俺は、安心して行ける。頼んだぞ」
             *
「ここ。五年前と変わってないね」
「人が増えたけどな」
 パンデミック解禁とゲイパレード直前で、滝の周辺は混雑気味だった。
「あそこだったね」
「えぇっ。あぁ」
「周りに人が居なかったから。誰かさん、急にキスしてくるし」
 サミー、笑って惚ける。
「でも、好い想い出だよ」
 純太がそう言うと、サミーは彼を背中越しに抱いた。
「ダメだって。人が見てる」
「いいさ。平気だよ」
「恥ずかしいじゃん」
 サミーは純太の頬にキスをして言った。
「ずっと一緒だよ」
「もう。サミー」
             *
 十份大瀑布の見物を終えて、五人は十份駅に来ていた。
 純太とサミーは台北で用事があり、電車で戻る。
 電車待ちの間、天燈上げを見物した。
「これが天燈上げかい。随分とカラフルなんだねぇ」
「8色あるみたいですよ。それぞれの色に意味があって、叶えたい願いによって色が決まるらしいです。でも全部の色は選べなくて、4色までみたいですよ」
「それで色が四つの天燈が多いんだねぇ」
「純太は上げないのかい?」
「ゲイパレードの後、夜にここで天燈上げのイベントがあるんです。だから、その時に二人で上げようって約束してるので。今日は、止めておきます」
 そう言うと、駅舎の壁に貼られている天燈上げのイベントポスターを指さした。
「夜に上げると、さぞ綺麗だろうねぇ」
 そう言いながら真由美は、夢で見た天燈上げの約束を思い出した。
「このイベント、誰でも参加できるのかい?」
 サミーがポスター参加規程を呼んで答えた。
「大丈夫そうですよ。真由美さんも参加されますか?」
「是非やってみたいよ」
「それじゃあ、僕らと天燈上げしに来ましょうか」
「お願いするよ」
 電車の到着を知らせるベルが響いた。
 待合室で座っていた老板と太太が、真由美たちの所へやって来る。
 何とも不思議な景色だった。
 土産物屋などの店舗が線路ギリギリのところに立ち並んでいる。電車が来ない内は、線路上に人が往来し買物をしているのだが、電車が到着すると線路上の人々は左右に引く。線路上に人が居なくなると、それに合わせたかのように電車が姿を現す。その様子は、まるで狭い店舗街を店の軒先を電車が縫うように走っているかに見えた。そして、電車が出発してしまうと、両脇から湧いて出るように人々が線路上に現れ買物をするのだった。
 電車が出発すると真由美たち三人は、手を振って見送った。
             *
 十份から九份へ移動途中、真由美は老板が運転する車の中で眠った。
「真由美さん。疲れたみたいね」
「台北へ引き返した方が良いかなぁ?」
「行くだけ行ってみましょうよ。真由美さんが一番行きたがってた場所だから」
 そうだね、と言った老板の声を最後に真由美は眠りに落ちた。
             *
 梅芳が入院している病院の一室。
 彼女の顔色は、前回に会った時よりも一層透けたように思えた。
 …とても伝えられない…
 龍英が特攻で戦死した公報が届いたのは三日前のことだった。
 …俺から伝えることじゃない…
 林太郎はそう思い直して彼女に話し掛けた。
「兄さん、元気にしてるかしら?」
「あぁ。元気だそうだ」
 彼女の家族は、龍英は高雄の大学へ行っていると伝えている。
「会いたいなぁ」
「早く良くなって、高雄へ会いに行こう」
 梅芳は窓の外へ目を向けたまま何も言わない。
「それにさ、メイファンとの約束。まだ果たせてないから。早く良くなってくれないと、僕も困るからさ」
「約束?」
「二つしたろ。一つは、結婚すること」
「うん」
 彼女の表情が、少し明るくなった。
「もう一つは…」
「九份ね。見せたい景色があるんでしょ」
「覚えててくれたんだね」
「当り前じゃない。だから、私も約束するね」
「うん」
「一つは、絶対に治って約束守るから」
「絶対な」
 彼女は頷いた。
「もう一つは、私も林太郎さんに見せたい景色があるの」
「どこ?」
「それは治って一緒に行くまで秘密」
「何だよ、それ」
 梅芳は悪戯っぽく笑った。
             *
 九份は、観光客でごった返していた。
「随分と賑わってるんだねぇ」
 真由美、目を丸くする。
「真由美さん。はぐれないでよ」
「あぁ。分かってますから。心配しないでおくれ」
 駐車場に車を停めた老板が戻って来た。
「お待たせ。行きましょうか」
「あんた。どこへ行くの?」
「あぁ。まぁ、ブラブラして」
「真由美さんをこの人混みの中でブラブラしろって言うのかいッ」
「いや。まぁ、それは…」
 太太、スマホを取り出して店の写真を見せた。
「ここへ行くよ」
「ここは?」
「スィーツのお店。席も予約しあるから。先ずは、ここで一服して次に行く観光スポットを決めましょう」
 老板、渋い笑い顔でやり過ごす。
「はい。こっち、こっち」
             *
 葬儀。
 梅芳が急逝した。
 彼女の遺影を前にして、林太郎は祈りも忘れて呆然と立ち尽くした。
 仏前に彼女の好物だった豆花のスィーツを目にした時、隣太郎の目から涙が止めようもなくあふれ出し、押さえていた感情が爆発したかのように号泣した。
 悲しみの感情が一気に連鎖し、それまで静まり返っていた会場全体から嗚咽が響いた。
 泣き崩れる林太郎を富三郎が支え、彼を抱えて葬儀会場を後にした。
             *
「白玉のあんみつかい?」
「豆花(トウファ)ですよ。白玉みたいなもんですけど」
「最近、このお店の豆花が人気なの。食べてみて」
「食べきれるかねぇ。ちょっと量が多いよ」
そう言いつつ一口食べると、真由美は目を丸くして二人を見た。
「おや。美味しいねぇ」
 真由美は、夢中で豆花を食べ始めた。
             *
 墓前。
 梅芳の墓に花を供え、その前で立ち尽くしている林太郎へ、富三郎が話しかけた。
「本当に残るのか?」
 林太郎は何も言わず、ただ頷いた。
「内地で大学に入り直すという手立てもあるんだぞ」
 林太郎は振り向くと、穏やかな眼差しで父を見ながら言った。
「ロンインと約束も、メイファンとの約束も、僕は果たせなかった」
「それは、お前のせいじゃない」
「そうだね。でも、僕は内地へ行けない」
「どうしてだ?」
「僕はリンタイロンだよ」
「お前…」
「台湾で生まれ、台北で育った。ロンインやメイファンも、ここで眠っている。だから僕の故郷は、ここなんだよ。だから、僕はここで生きる。ごめんなさい、お父さん」
 頭を下げた息子の顔を上げさせて、富三郎は言った。
「わかった。お前は、お前らしく生きろ。もう止めないさ」
 自分の胸に顔を埋めて無く息子の背中を摩りながら、富三郎は言った。
「でも、これだけは忘れるなよ。お前はどこに居ても、何があっても俺の息子だ。そして日本にも帰る場所があるからな」
             *
 展望台に到着した時、あまりの混雑ぶりに三人は絶句した。
「これは景色を見るどころの騒ぎじゃないねぇ」
「真由美さん。大丈夫ですよ。何とかしますから」
 老板は人混みの中へ入って行った。
「ちょっと、あなた。戻って」
 太太の声も空しく、老板の後ろ姿は人混みの中へ埋もれるように消えた。
「真由美さん。ここに居てね。あたし、あの人を連れて戻って来るから。絶対に動いちゃダメですよ。どこにも行かないで。お願いですよ」
「はい、はい。動かないでここに居るから。安心しておくれ」
 人混みへ向かう太太を、真由美は見送った。
 そして彼女は石段に腰掛けると、行き交う人々を眺めた。
 ゲイパレードが近いこともあって、心なしか同性同士の若いカップルが多いように思われた。
 …けっこう美男美女も多いねぇ…
 そう思って、彼女は思わず苦笑する。
 …良い歳して、なに浮かれてんだか…
 空を見上げると、雲一つない青空が広がっている。
 スマホがブルブルと振動する。

 見ると、純太からのメッセージ。
『九份。楽しんでますか?』
『楽しんでいるよ。天気も良いし。人が多いのがちょっと、だけどね』
『真由美さん。運が良いですよ』
『?』
『九份。滅多に晴れないんです』
『そうなのかい?』
『山と海岸線が一望できますよ。満喫して下さい』
『ありがとう』

 スマホから目を離して周囲を見るが、相変わらず景色を見るどころではない。混雑は、むしろひどくなっているようにも思われた。
 呑気に構え始めた時、人混みの中に林太郎を見掛けた。
 …まさか。お父さんが…
 もう一度見直すと、自分をジッと見つめている林太郎と目が合った。
 …お父さん…
 彼は、真由美を誘うように歩き始める。
 …待って…
             *
 サミーは、猫空の山中のある墓へ純太を連れて行った。
 墓碑には『林田梅芳』と刻まれている。
「日本人のお墓?」
「台湾の人だよ」
「名前が日本人だけど」
「戦中に亡くなったから。当時は日本の植民地で、日本風の姓を名乗ることが推奨されていたからね。当時の彼女は『ハヤシダウメカ』と呼ばれていた。でも家族や親しい人たちの間での彼女の名前は『林梅芳(リン・メイファン)』。ここは代々の林一族が墓所として使っている山なんだよ」
「リン一族って、もしかして老板のご先祖さまたちが眠る場所なの?」
「そうだよ」
「凄いなぁ。坂本家の墓所も広いと思ったけど、老板の方は山全体。スケールが違うわ」
「昔は風水で個人の埋葬地を決めたから墓所地もバラバラになるのが普通だから、ここみたいなお墓は珍しいよ」
「リン・メイファンって誰?」
「老板の叔母さん。つまり彼のお父さんである林龍英さんの妹さん」
「その人って林太郎さんの親友だった人でしょう?」
「うん」
「それでメイファンって人がどうしたの?」
「林太郎さんと結婚の約束をしてたらしい」
「えっ」
             *
 林太郎は、老街の高台に建つ茶館と土産物屋を兼ねた店に入って行った。
真由美も彼の後を追って、その店の中へ入って行った。
 店の奥にある階段を昇って行く彼の姿を見て、真由美もそれに続いた。
 三階。
 踊り場の奥の部屋、そこに林太郎の姿があった。
「えっ。お父さん?」
それは真由美が知る以前の若い林太郎だった。
「やぁ。やっと再会できたね」
 言葉を発しようとしたが自分の中にもう一人の誰かが居て、その誰かが真由美自身が話すことを阻んだ。
「うん。やっと。でも、ずっとあなたの傍に居たのよ」
「あぁ。分かっていたよ、メイファン」
 …メイファン…
「死んだ後、真由美として生まれ変わったんだろ」
 …えっ。あたしが梅芳さんの生まれ変わりかい…
 壁に掛かった鏡に映る自分の顔を見て、真由美は混乱した。
 …何で、こんなに若返ってるんだい…
「どうして判ったの?」
「だって君と真由美、瓜二つだったからね」
 彼女は、嬉しそうに笑った。
「二つの約束。覚えるよね」
「うん」
「結婚。それは果たしたよ」
「そうね」
「もう一つの約束。今日それを叶えることにするよ」
 メイファンは頷いた。
「さぁ。ここにおいで」
 林太郎とメイファンは、窓辺に並んで立った。
             *
 老街の高台にある建物の三階の窓を見た老板は振り向き、その建物を指さしながら太太へ叫んだ。
「太太ッ。真由美さん。あの建物の三階」
「えっ。どこ?」
 太太、老板が指さす先を見る。
「まゆみさーーーん」
 太太、咳込む。
「先に行くから。太太、ゆっくり着て」
 手を振りながら『行って』と伝える太太をその場に残し、老板はその建物へ向かった。
             *
「ちょっと不思議な話なんだけどさ」
 サミーは、メイファンの墓を知った経緯を語り始めた。
「帰国の翌年の清明節、老板と一緒に彼のお父さんの林龍英さんの墓参りに来たんだよ」
「清明節に他人の墓参りをしたの?」
「まぁね。老板たってのお願いだったから断れなくてさ。お陰で僕の母は滅茶苦茶ご機嫌斜めで、なだめるのが大変だったよ」
 サミー、苦笑。
 無理もない、と純太は思った。
 日本では、お盆、お彼岸、命日と年に何回も墓参りをするが、台湾を含めて中華系の人々は年に一回の清明節にだけ墓参りをする。
 先祖を大切にする民族だから、この手の行事に参加するのが当たり前。それにも関わらず他人の墓参りに行ったのだからサミーの母親が怒るのは無理もない。
 サミーの母親の機嫌を損ねたのには他にも理由がある。
 中華系の人々のお墓は、日本の家単位と違って基本的には個人墓が主流だ。そのためお参りしなければならない墓が幾つもあり、場所も風水で決めるからバラバラ。お供え物も墓ごとに用意するので時間も労力もバカにならない。そんな事情にも関わらず、息子が不参加の墓参り。彼のお母さんがむくれるのは想像に難くない。
「ロンインさんの墓を掃除してお参りをしたんだけど、太太が忘れ物を思い出して取りに行く事になったんだ。老板が彼女を車に乗せて行ったんだけど、二人が戻るまでロンインさんの墓で待つことになってさ」
「お墓で一人?」
「まぁね。ぼんやりして座っていたら、突然ロンインさんの幽霊が現れたのさ」
「またぁ」
「本当だよ」
「何で幽霊のロンインさんだって判ったの?」
「だって、自分から『リン・ロンイン』って名乗ったんだぜ。お墓に刻まれた名前と同じだったからね。それなら幽霊しかあり得ないだろ」
 サミーの不思議な受容力には慣れっこだが、この時も彼らしいと純太は苦笑した。
「じゃあ、ロンインさんがサミーを彼女のお墓まで案内してくれたの?」
「うん。道々、林太郎さんとの想い出やメイファンさんとの経緯を話してくれたよ。お墓を掃除して、お線香を焚いてお参りしたらロンインさん、もの凄く喜んでくれたよ」
「えっ。ロンインさんが幽霊で現れたんなら、メイファンさんにも会えたの?」
 サミーは首を振った。
「ロンインさんによると、メイファンさんはもうここには居ないんだって」
「居ない?」
「生まれ変わったらしいよ」
             *
 青い空。
 入江。
 山と町。
 まるで美しい一枚の絵のような絶景が、メイファンの視界に広がった。
「これが、メイファンに見せたかった景色だよ」
 彼女の眦から一筋の涙が流れる。
「ごめんな。君が元気な時に連れて来れなくて」
             *
 老板が三階まで登って来た時、踊り場にいた男の顔を見て老板は思わず言った。
「お、父さん…」
「おう。久し振り」
「幽霊。ですよね」
 龍英は笑って言った。
「当り前だろ。俺の死に水を取ったのも、葬式を出したのもお前じゃないか」
「でも、随分と若返って。良いですね」
「変な事に感心してんじゃない」
 そこへ太太が到着するが、龍英の幽霊を見て思わず叫んだ。
「お、お義父さん…」
 そう言って太太、気絶。
「お、おい。太太。大丈夫か。しっかりしろ」
「大丈夫だ。心配しなくても、直に目を覚ます」
「しかし…」
「そこに寝かせておけ」
「あっ」
「うん?」
「真由美さんッ」
 部屋に入ろうとした老板を龍英は押し止めた。
「もう少し、二人っきりにしてやれ」
「えっ?」
「今、林太郎と妹が逢ってる」
「妹って、メイファンさん?」
 龍英、黙って頷く。
「でも部屋の中には真由美さんしか居ない…」
「真由美さんは妹の生まれ変わりだよ」
「まさか?」
「メイファン。やっと望みが、一つ叶ったな」
 龍英はそう言って、静かに部屋の入口を見つめた。
             *
 メイファンの墓で手を合わせた二人は、そこから見える眺望を見た。
 開けた視界全体に青空の下で輝く台北の町並みが広がっている。
「ここの景色を彼女が一番気に入っていたんだって。だから、いつかこの景色を林太郎さんに見せたかったんだけど病気が重くなって、叶わないまま逝ってしまった」
「そうなんだぁ…」
 秋の風が二人を包むように吹き抜けると、純太はサミーに言った。
「そうだ、サミー。真由美さん、ここに連れて来てあげよう」
「えっ?」
「きっと、メイファンさんも喜んでくれるから」
             *
「ごめんな。君が元気な時に連れて来れなくて」
「ううん」
「ロンインからメイファンを守ってくれって頼まれたのに何もできなかった」
「そんなことない」
「台湾に留まることすらできなかった」
「そんなに自分を責めないで」
「済まなかった」
「好いの。あたしは幸せだったから」
「メイファン…」
「ありがとう…」
 自分の中からメイファンの存在が消えた時、彼女が成仏したのだなと真由美は思った。
「真由美…」
「…」
「怒ってる?」
「究極の浮気だね」
「まぁ、そう言うなよ」
「何時から気づいてたの?」
「出会った時から。顔がそっくりだったし」
「ヒドイ人だ。だから私に会うなり人が変わったように積極的、猛攻勢だったんだ」
 林太郎、曖昧に頷いて惚ける。
「随分な色男だこと」
 真由美はソッポを向き、窓の外に広がる絶景を見た。
             *
「はぁ…」
 そう言って、龍英は安堵の表情を老板へ向けた。
「どうしんたですか?」
「妹のやつ、やっと成仏できたよ」
「そうですか…」
 老板、ちょっと意味ありげに龍英を見る。
「何だ?」
「それじゃあそろそろ、お父さんもご成仏頂いて」
「残念ながら成仏はまだ先だな。まだやり残したことがあるんでね」
「何ですか。やり残したことって」
 龍英、ニヤニヤ。
「今の世の中、結構面白いしな」
「面白くないですよ。天国の方が絶対良いと思いますよ。何ですか。やり残したことって。特攻で出撃したけどエンジントラブルで不時着、名誉の戦死ってことになってるから生きて故郷へ返せないから内地で終戦まで隔離生活をしいられ、戦後台湾に戻ったのは良いが死んでいった戦友に申し訳ないと粉骨砕身。やりたい放題。父さんにやり残したことあるだなんて、冗談にしか聞こえませんよ」
「…」
「もう、早く成仏してくださいッ」
 老板、龍英にげんこつで頭を小突かれる。
「バカモンっ。そんなだから女房の尻に敷かれまくりなんじゃ」
 老板、シュン。
「ほら。もう直ぐ太太が目を覚ますぞ。快方してやれ」
「えっ」
 太太、目覚める。
「あぁ。あなた」
「大丈夫かい?」
「ええ。ビックリした。ゆっ、幽霊の、お義父さんは?」
「そこに居るよ」
 指さしながら老板が振り向いた時、もうそこに龍英の姿はなかった。
             *
「やっぱり怒ってるか?」
 真由美は真直ぐ前の景色を見続けるだけで、何も答えない。
「スタートが不純だったのは悪かったよ。でも、これは言い訳にしか聞こえないだろうけどさ。本当に気持ちを聞いてくれる?」
「言ってみて」
「メイファンと顔は瓜二つだったよ。でも直ぐに気づいたんだ。メイファンと真由美は別人だって。だから僕は、真由美が好きになった。真由美でなきゃダメになった。真由美と一緒にいたい。未来を築きたいと思った。真由美を…」
 真由美は噴き出して笑った。
「まったく。何年夫婦やっると思ってるんだい。そんなこと。わかってるよ。お父さんの気持ち、全部わかってるよ。子供だって、孫だっているんだよ。お父さんは私のことを、私はお父さんのことをずっと見て生きてきたんだからね」
「真由美…」
 名前を呼ばれ、真由美はちょっとキツイ表情で林太郎を見て言った。
「でも、本当はね、まだちょっと怒ってましたよ」
「えっ…」
「でも、この景色。本当に見せたかったのは私だったんだろ?」
 林太郎、柄にもなく照れる。
「そう言う所は、嘘がつけない人なんだから」
「…」
「まぁ今回は、この綺麗な景色に免じて許してあげようかね」
             *
 老板が太太を伴って部屋の入口に立った時、窓の外の景色を真由美はいつまでも、優しく穏やかな眼差しで静かに眺め続けていた。
             *
 台湾大学、農学部内の応接室。
「何だか落ち着かないねぇ」
 真由美、ソワソワ。
「真由美さんなら大丈夫ですよ。緊張しない、しない」
「そう言われると、増々緊張しちゃうよ」
「賞状を一枚受け取るだけですから」
「だけど、その後に挨拶のスピーチをしなきゃならないんだろう」
「現行通り呼んで、聞いている人の顔を時々見れば大丈夫ですから」
「そのチラ見っていうのが、余計に困っちゃうんだよ。どこでチラ見して良いのか…」
「じゃあ、合図を出しますから。私が手を上げたらチラ見」
「…」
「どうしました?」
「原稿を読むんだろ」
「そうです」
「合図、どうやって見たら良いんだい?」
 老板、絶句。
 太太、呆れ顔で助け舟。
「好いの、好いの。真由美さんは自分の想いのままに原稿を読めば大丈夫。聞いている日立がどう感じるかなんて関係ないから。それより、これ見て」
 太太は真由美にスマホの動画を見せた。
「サミーから。ゲイパレード、始まったみたいですよ」
「随分と賑やかだねぇ。お祭りじゃないか」
 応接室のドアが開く。
「坂本様。そろそろ始まりますので、会場へお越しください」
 真由美、太太の手を握った。
「真由美さん。大丈夫。深呼吸して」
             *
 パンデミック解禁直後のゲイパレードとあって、主催者側の発表でパレードの参加者は二十万人に迫る勢いだった。
「サミー。メチャ盛り上がってない?」
 純太、興奮気味。
「うん。そうだね」
 彼とは対照的にサミーは何故か固く、緊張気味だった。
「どうしたの。具合でも悪い?」
「そんなこと無いよ。楽しんでるよ」
 ゲイパレードは市政府中心前を出発した。
             *
 学部長による挨拶が始まる。
「ねぇ。真由美さん、凄く緊張してるわよ」
 老板は、ニヤニヤしながら答えた。
「あんな真由美さん、初めて見たよ。あんなに緊張するもんだねぇ」
「あんた。また他人事みたいに言って。あぁ、可哀そう。何とかならない?」
「そう言われてもなぁ…」
「本当に冷たいわね。まったく、この人ったら」
 長い挨拶が終わって学部長から真由美さんが紹介されると彼女の緊張はクライマックスに達したが、それは傍目にも歴然としていた。
「あぁ。緊張で鉄棒みたいになっちゃってる」
「真由美さん。鉄棒?」
「例え話よ。あぁ、可哀そうに…」
             *
 ゲイパレードが折り返しの西門町に差し掛かっても、サミーの表情は強張っていて動きや反応もギクシャクしていた。
 そんな彼をチラチラ見ながら純太は、心の中でニヤニヤしていた。
 …まぁ、緊張するのも無理ないか…
 そして彼は、前夜の真由美との会話を思い出していた。
             *
『先生。心配ごとかい?』
『いいえ。大丈夫ですよ』
 真由美、ニヤニヤ。
『先生も嘘をつくのが下手な人だからねぇ。気掛かりがあるんだろう。顔に出てるよ』
 純太、苦笑。
『あたしで良かったら聞くよ?』
 純太は、座り直して言った。
『サミー。近頃、ちょっと変で…』
『あぁ。その事かい』
『気づいてました?』
『何となくね』
『大丈夫でしょうか?』
『大丈夫だよ。多分ね』
 妙に自信ありげな真由美を、純太は怪訝な眼差しで見た。
『うちの亭主の時によく似ているよ』
『林太郎さん?』
『プロポーズした時の様子にね』
『えっ』
『期待を持たせちゃ悪いと思って黙ってたんだけどさ。サミーさん、そんな感じがする』
『…』
『厭かい?』
 純太、頭を激しく振って否定する。
『ちょうど好い頃合いなんじゃないのかい』
『でも結婚するとなると、お互い外国人で。色々、越えなきゃならない課題が…』
 真由美は、純太の口を塞いで言った。
『二人が結婚するのに、お上公認の紙ッぺらが必要かい?』
 純太、真由美をガン見。
『形式なんかじゃないんだよ。一番大事なのは心だよ』
真由美は彼の胸に手を当て、続けて言った。
『離れたくない。一緒に居たい。一緒に歳を重ねたい。その気持ちが一番なのさ』
 純太の心臓の激しい鼓動が、真由美の手に伝わった。
『でもね、男っていうのはバカな動物なんだよ。勢いで何でもやらかす割には、肝心要で形式とかカッコに拘ってさ。素直に直ぐ言えば好いのに、無駄な時間を過ごしたがるもんなんだよ。だから、知らんぷりして、言い出すのを待っておやり』
 純太の表情が少し曇った。
『本当に言うのかなぁ?』
『言うに決まってるじゃないか。ゲイパレード。格好の機会だよ。だからわざわざ、こんな人出の多い時期に台北へ来させたんじゃないか』
『えっ。それは、真由美さんの…』
『鈍いねぇ。老板と太太の二人がサミーの味方だよ』
『あっ…』
 腑に落ちながらも、純太はまだ不安だった。
『でも、もし、そうでなかったら…』
『さっさと捨てちまいなッ』
『えッ?』
『そんな意気地のない男なら、さっさとバイバイだよ。大丈夫。だって、今、台北には世界中のゲイが集まってんだよ。選り取り見取り。パラダイスさ』
             *
 純太、ニヤニヤ。
「えっ。純太。どうした。思い出し笑いして」
「ううん。何でもないよ」
「ほんとう?」
「本当だよ」
 サミーが更問しようとした時、雨が降って来た。
             *
「では早速、坂本真由美さんにご挨拶頂きましょう」
 拍手か沸き起こった。
 真由美は登壇した。
「今日は義父の富三郎と夫の林太郎のことで皆様から表彰を頂戴いたしまして、本当にありがとうございます。心からお礼申し上げます。義父も夫も生きてこの場にいましたら、さぞや喜んだ事と存じます。二人に代わって重ねてお礼申し上げます」
 真由美が頭を下げて挨拶した。
「真由美さん、意外と落ち着いて話してるよ」
「そうよね。本番に強いタイプなのね」
 下げた頭をゆっくりと上げ手元の原稿を読み始めようとして表情が固まり、真由美はただ一点を見つめたまま沈黙した。
「えっ」
「やっぱり緊張してるのかしら…」
 老板と太太は振り向き、真由美の視線の先を見るが何もない。
「大丈夫かなぁ?」
「真由美さん、頑張って」
 会議室が少し騒めき始めると、彼女から少し離れた所に控えていた事務局長が咳払いしながら真由美の名前を呼ぶ。
 フッと我に返った真由美は、もう一度原稿に目を落とした。
 …まさか。そんなはずない…
 思い直してもう一度前を向き、原稿を読み始めようとして彼女は思わず呟いた。
「お、お父さん…」
 座席の最後列に座った林太郎が、彼女へ手を振っている。
 …えっ。なんで…
 彼は口パクで『がんばれ、真由美』と言っている。
 …こういう時は『がんばれ』と言われると余計に緊張するのに…
 そう思って苦笑すると、彼女は手に持った原稿を机に置いた。
「幾つになっても緊張するものなのですね。お陰で昨日の晩に徹夜で覚えた原稿をすっかり忘れてしまいました」
 会場に笑い声が響く。
 真由美は、林太郎の顔を見つめる。
 にっこり笑って、林太郎は頷いた。
             *
 雨が降って来た。
 それでもゲイパレードが止まることはなかった。
 サミーはそれまで握っていた純太の手を離した。
「えっ」
 離されたサミーの手が自分の肩に回されて、純太の表情は不安から笑顔へ変わった。
「寒くない?」
 サミーの肌の温もりが、純太へジンジンと伝わる。
「大丈夫」
「きっとにわか雨だから、直ぐに止むよ」
 頷いて純太もまた彼の腰に手を回し、サミーの身体を少し自分へ引寄せた。
 熱気は雨で冷めるどころか、それを蒸発させるかのように盛り上がる。
             *
 手にしていた原稿をそっと演台に置くと、真由美は静かに語り始めた。
「本日、お招き頂きましたことは光栄で感謝しています。義父も主人も草葉の陰で喜んでいることでしょう。でも、このお話を最初にお聞きした時、台湾へ行って二人の代わりに栄誉を授かることを、私はとても躊躇いました」
 老板は太太の顔を見て小声で言った。
「真由美さん。原稿と違うことを言い始めたよ。どうしよう」
「きっと大丈夫よ。静かに聞きましょう」
 二人は、真由美を見守る。
「義父が戦前から戦中にかけて台湾で仕事をしていたことは知っていましたが、義父も夫も当時の思い出などにつて多くを語らなかったからです。夫にいたっては、台湾で生まれ育ったことすらも私に話したことはありませんでした。だから私は、二人の台湾時代のことを全くと言っていいほど知らない。そんな私が、二人に成り代わって賞を受取るにふさわしい人間だと思えなかったからでした」
 居合わせた全員の視線が、彼女へと注がれる。
「戦後、主人と同じ職場で働き、私に一目ぼれし猛烈にアタックされて結婚に至りました(笑い)。ですから私は、日本に居る彼氏か知らなかったのです。それが、死を目前して遺言を残しました。その時、私は彼の中の望郷の念を初めて知りました。彼の遺言を抱きながらその後を生き続け、主人の本当の気持ちが分らなくなりました。単なる望郷の念だけだったのか。それ以外の想いが他にあったのか。とても厄介な宿題でした。悪戯に一人歳だけを重ね、あと幾つ寝るとお迎えかしらと思っていました(笑い)。そんな矢先、主人が私の枕元に立ちました」
 真由美は、優しい眼差しで林太郎を見つめる。
「彼は、相変わらず惚けた表情で私の寝顔をジッと見つめていました。私はビックリして飛び起きました。そんな私を笑いながら主人は『真由美さん、元気ないねぇ』と。そろそろ迎えに来てよと言いましたら『僕との約束を果たしていないからダメだよ』と、あっさり断られてしまいました(笑い)。その時、私は約束を果さないと死ねないんだと、拍子抜けしたように観念しました。あの日を境に私の日常が変わった気がします。中国語を習おうかと学び始め、お陰さまで今日この場でつたない中国語で自分の想いを伝えられるようになり(拍手)、私に中国語を教えてくださった純太先生との交流から思いもよらない出会いを得ることができました。あちらにお座りの老板さん、太太さんのお二人を初めとして沢山の友人たちとの知己を得ることができました。台湾を訪れて見たい、いつしか思うようになりました。そんな矢先の私を脳梗塞が襲いました。半身に麻痺が残り、ベッドで寝ながら台湾へ行けなくなったことを残念に思いながらも、どこか安心した自分が居ました。台湾へ行けば主人が決して話して聞かそうとしなかった、私の知らない主人を知ることになるのではないかと不安だったからです。台湾時代の主人を知らなくても、私は彼からとても愛されていましたし、幸せでしたし、もうそれで充分でした。もう、それ以上は何も要らない。そう思っていました」
 真由美は、一口水を飲んで続けた。
「実はあの時、私は死にかけたんです」
 会場、シーンと静まり返る。
「皆さん、三途の川をご存知でしょうか。私、主人が漕ぐ舟で向う岸まで渡りました。その時、主人に頼みました。あの世へ行ったら台湾の思い出ばなしをたくさん聞かせて欲しいと。そうしたら彼、とても寂しい顔をして『無理』だと言ったんです。あの世に着いたら生前の記憶はきれいサッパリ忘れてしまうんだそうです。その時になって、初めて私は死にたくないと思いました。きっと、その想いと執着が強かったんでしょうね。私を乗せた舟は三途の川の向こう岸に乗り上げることなく、川面で停まってしまったのです。彼は岸に飛び移りましたけど、私は腰が抜けてしまったみたいになってできませんでした。でも今思うと、行きたくなかったんだと思います。意識が戻って、容態が落ち着いた頃にパラリンピックを見ながら思いました。折角生きてるんだから、あの人たちみたいに動けるようになって、自分の目で彼の故郷を見に行こう。そして可能な限り彼、坂本林太郎のことを知ってやろうと思ったのです。純太先生の恋人、サミーさんという台湾人の男性なんですが、彼が帰国する時にお願いしました。台湾時代の主人のことを調べて欲しいと」
「えっ。太太。純さんやサミーから聞いていたかい?」
「知らないわよ。初耳…」
「主人には、台湾に結婚を誓い合った女性が居たそうです。その女性の名前は、日本名を林田梅芳(うめか)。台湾でのお名前を林梅芳(リン・メイファン)。老板さんのお父様で主人の親友だった、林龍英(リン・ロンイン)さんの妹さんだそうです。彼女は若くして亡くなったので二人は結婚できませんでした。出征の前に妹を守ると親友と交わした約束が果たせず、最愛の人に見せると約束した景色も見せられないまま、日本へ帰らざるを得なかった。二人に対する申し訳ないという気持ちが、生まれ育った台湾に再び戻ることを躊躇させ続けたと、台湾に来るまでずっと思っていました。でも、違ったんです。あの人は、自分のやり残したことを、私を使って全部やってしまうと考えたのでした。あなたは本当にヒドイ男です」
 真由美は林太郎を少し睨んで見せた。
             *
 雨が上がると声が上がった。
「虹が出てる」
 パレードが止まり、参加者たちが指さす方の空を純太とサミーも見た。
 純太とサミーも足を止め、空に掛かった虹を見つめた。
「綺麗な虹だね」
「小純…」
 サミーは純太の名前を呼ぶと、彼と向合って立った。
             *
 …楽しかったろ…
 …悔しいけど認めますよ…
 …あの時言ったろ。これから楽しいことがあるよって…
 …そうね。でも、もう充分だわ…
 …そろそろお迎えが来て欲しいのかい…
 …潮時じゃない…
 …そうだなぁ。でも、まだダメじゃないかな…
 …ええっ。ダメなの…
 …忘れたのかい…
 …忘れたって、何を…
 …お迎えなんて、お呼びになったら勝手に来るもんだって…
             *
 優しく微笑み、真由美は話しを続けた。
「でも、それは違うと直ぐに気がつきました。つまり彼が台湾でやり残した心残りの後片付けの手伝いをさせたかった、そのためだけに私を台湾へ導いたのではなかったと」
 真由美の話し口調が変わった。
「そうなんでしょう。お父さん?」
 会場の騒めきを気にするでもなく、真由美は続けた。
「お父さんは私に、自分の生まれ故郷を直に知って欲しかった。直に感じて、直に味わって、直に見てもらいたかった。そうなんですよね、お父さん」
「…」
「だってここは、あなたが生まれ育った故郷。大切な想い出がいっぱい詰まった故郷。あなたには何物にも代えがたい大切な宝物。あなたにとってここは、私の知らない坂本林太郎が存在した唯一無二の場所なのですから。その大切な故郷でのことを、どうしても私に伝えたかったのですよね」
 林太郎は彼女へ頷いて見せた。
「そうすることで、私が、坂本林太郎という男の全てを知る唯一無二の存在となることを望んだのですよね」
 林太郎の頬を一滴の涙から流れた。
「私が生きている限り、私の中で生き続けることができるから…」
             *
「純太」
 いつになく真剣な眼差しで見つめていたが、サミーは少し声を震わせて言った。
「この機会を逃したくないし、この瞬間に、君への気持ちを伝えたい。君と一緒にいると幸せで、楽しくて、いつまでも一緒に居たい。そして一緒に歳を重ね、君と二人で唯一無二の人生を築きたい。僕と結婚してください、純太…」
 サミーは片足で跪き、指輪の入った箱の蓋を開けて純太へ差し出した。
 ハッピーな期待を帯びた眼差しが、二人を囲む人々から注がれる。
 純太はサミーを立ち上がらせ、二つの指輪を手に取ると一つを彼に渡して言った。
「サミー。この指輪を僕の薬指に通してみて」
 彼が差し出した左手を軽く握り、サミーは純太の薬指に指輪を通した。
「サイズ。ぴったりだね」
「…」
 彼の曖昧な態度にサミーは不安気な顔つきになるが、それを気にする風でもなく純太は彼の左手を取って薬指に指輪を通すと言った。
「絶対、外しちゃダメだよ」
「えっ」
 サミーの表情が一転、パッと明るく変わった。
「サミー。僕たち結婚しよう」
 二人が抱合うと、彼らを見守る人々から歓声が沸き上がった。
             *
「そんな訳で、私はまだまだ長生きしなければならなくなりました。だって私の中で、私が生き続ける限り、坂本林太郎が生き続けているんですから」
 もう一度、真由美は林太郎を見て微笑んだ。
「今日、皆さんとお会いできて本当に良かった。今日のこの機会を設けて頂くに当たって尽力頂いた皆さんの知己を得て、関われ、一緒の時間を過ごせたことに感謝しています。義父も主人も喜んでいると思います。何故なら、私や皆さんの心の中で自分たちが生きているとわかったでしょうから。ありがとうございます」
 林太郎はにっこり笑って頷いて見せた。
「それでね、折角だから私、この場を借りて宣言することにしました」
 静寂、誰もの視線が彼女へ向けられた。
「しばらくの間、まだお迎えも来ないようだし、皆さんと出会うこともできました。あの世からお呼びが掛かる寸前まで、人生を楽しもうと思ってるんです。だから来年、いいえ再来年、三年先も、四年先も、もっとずっと先まで、台湾に来ようと思っています。まだ知らない所にもたくさん行って。知らないこともたくさん学んで。人生を存分に楽しもうと思っています。ですから皆さん、もしどこかで私を見掛けたら声をかけて下さいね。改めて皆さんに心から感謝申し上げます。皆さん、本当にありがとうございました」
 拍手が沸き起こる中、真由美は林太郎の姿を追った。
 だが、もう何処にも彼の姿は無かった。
             *
 目を開け、墓石に刻まれた彼女の名前を彼女はジッと見つめる。
 そして、言った。
「あなたの傍に林太郎さんの遺爪を埋めますよ」
 プラスチックケース中の遺爪をつまんで墓の脇に掘った穴の中に入れ、土を被せると、彼女は墓前で手を合わせた。
「さて、これで約束も果たせたようだね」
 少しよろけそうになりながらも杖を支えに立ち上がる真由美は純太とサミーに支えられながら立ち上ると、お墓の向う側に見える景色を彼らと一緒に見た。
「気持ちの好い秋晴れだねぇ。静かだし。台北の町も一望できる。綺麗な景色だよ」
 爽やかな秋風を満喫しながら、真由美は穏やかな表情で言った。
「きっとこれが、林太郎さんに見せたかった景色なんだね…」
             *
 夜、7時。
 真由美は、純太とサミーと十份に来ている。
「すごい人だねぇ」
「ゲイパレードの後ですから」
 そう言う純太と傍らに立つサミーの指に同じ指輪が、真由美の目に留まった。
「おや。二人とも同じ指に同じ指輪かい?」
 顔を見合わせて照れる二人。
「サミー。プロポーズしたんだねぇ」
「はい」
「いつだい?」
「ゲイパレードの時です」
「おやおや。大胆ねぇ」
 真由美、含み笑い。
「真由美さん。天燈上げますよね」
 彼女は純太へ頷いて見せた。
 二人は天燈を売っている店へ真由美を連れて行った。
「紙の色を選んで願い事を書くんでよ」
「えっ、先生。色を選べるのかい。何を選んだら良いかねぇ?」
 サミーは、色の意味が書いてある紙を真由美に渡して簡単に説明した。
「それじゃあ、赤の健康、ピンクの幸福、オレンジ色の恋愛と白の明るい未来を選ぼうかねぇ。これから人生を楽しむのにどれも大事だからさ」
 真由美は筆を渡され、願い事を書いた。
 ランタンを持って三人が店を出ると、スタンバイ状態のランタンが溢れている。
「おや。みんな、上げないのかい?」
「みんな、一斉に上げるんですよ。イベントのクライマックスです」
 サミーはそう言って、純太と二人で天燈を持った。
「真由美さん。合図で手を離しますからね」
 純太は片手で真由美の天燈も掴んで、上げる瞬間を待った。
 スタジオで進行役の説明が終わり、周囲でカウントダウンが始まる。
「十、九…」
 カウントダウンに熱気が帯び始める。
「八、七、六…」
 嬉しそうに互いを見る、純太とサミー。
「ウー、スー、サン…」
 …真由美…
 隣を見ると、天燈を一緒に持って微笑む林太郎がいた。
 …お父さん…
 …一緒に上げるよ…
 純太はいつの間にか手を離していた。
 それを見て真由美は頷き、こぼれる笑みで林太郎を見た。
「アー、イー。零(リン)。GOッ」
 無数の天燈がそれぞれの願いを載せて、夜空へ一斉に昇っていく。
 サミーは純太の肩を抱いて、夜空を見つめる。
 林太郎は真由美の手を握って、二人の天燈を静かに見つめた。
 真由美は夜空を見上げる林太郎の横顔を見て微笑むと彼に身体を少し寄せ、赤く輝いて昇る天燈を心ゆくまで静かに見つめた。
             *
SNS:台北、純太‐埼玉、仁美によるビデオ通話。

『仁美さん。お元気ですか?』
『元気、元気。あら、真由美さんたちは?』
『みんなで茶油麺線を食べてます』
『あら。噂のね。えっ、外なの?』
『老板のお店のバルコニーです。台北の町、見えます?』
 純太は、カメラを山間に見える台北の町へと向けた。
『見える、見える。好い眺めねぇ。行きたいなぁ…』
『来年。みんなで来ましょう』
『行くわよ。あたしがスケジュール立てるから』
『ところで公園からですか?』
『そうよ。江津子さんと真央さん。見える?』
 仁美はカメラを公園の広場へ向ける。
 江津子の凛々しい姿と真央の背中が見えた。
『元気そうですね』
『戻るの明後日だっけ?』
『はい。あぁ、そう言えばサミーさんのプロポーズOKしたんですってね』
『えっ。何で知ってるんですか?』
『佐和子先生からね』
『何で母が知ってるんだろう。まだ言ってないのに。老板か太太?』
 仁美は笑って言った。
『違うわよ。あなたとサミーさん。ネットでちょっとした有名人よ』
『えっ。何で?』
『ゲイパレード。レインボープロポーズの二人って。ロマンチックねぇ』
 仁美、ニヤニヤ。
『あっ。あぁぁ…』
 突然、画面にキジトラキャットのドアップで映った。
『ミャーオ』
 それまで純太の膝の上で寝ていた富富がキジトラの鳴声で目覚めて、画面を見ながらひと鳴きした。
「小純。できたよ」
 純太の茶油麺線を持ってサミーがバルコニーに姿を現した。
「サミー。どうしよう。僕らのプロポーズの様子がネットに拡散してる」
「あぁ。そのこと」
「え、えッ。知ってたの?」
「ギャラリーにあれだけ動画を撮られてたら止めようがないさ」
 サミー、惚けて笑う。
 その時、SNSに佐和子が参加してきた。
『純太。あら、サミーさんも居たの?』
『お義母さん。おはようございます』
 義母と言われて、ちょっと戸惑い気味に照れる佐和子。
『二人。いつ、こっちへ来るの?』
 口ごもる純太をよそに、サミーはキッパリ言った。
『明後日。純太と一緒に伺います』
『宜しい。待ってるから。ちゃんと挨拶に来てね』
 太極拳体操を終えた江津子と真央が仁美の所へやって来た。
『純太さん。うちの姉さん、元気?』
『江津子さん。真由美さんならお元気です。今、中でこれを食べてます』
 純太は茶油麺線を見せる。
『あら、美味しそうね』
『美味しいですよ。そうだ江津子さんも、来年台北へ行きましょう』
『来年?』
『みんなで来ようって話してたんです』
『あたしも、良いの?』
『もちろん』
『急に言われてもねぇ…』
『太太の茶油麺線は絶品ですよ』
『そうだよ。日本に引き籠ってないで、台湾に来な』
 真由美がそう言うと、真央が叫んだ。
『あっ。先輩――――ッ。無事だったんですね』
『大袈裟だねぇ』
「随分賑やかねぇ」
 そう言って太太が姿を現わした。
『あら。佐和子さんじゃない』
『太太。元気?』
『もう寂しいわよ。三年、会ってないもの。来年、来れるんでしょう?』
『行くわよ。待ってて。また美味しい物食べて、遊びましょう』
『お店。開拓しておくから』
『OK』
「あっ。そうだ」
「サミー。どうしたの?」
「みんな集まったんだし、記念写真撮らない?」
「あら良いわねぇ。それなら、あの人に撮ってもらいましょう」
 そう言うと太太、老板を呼んだ。
「みんな。急にいなくなってどうしたんだい?」
「あなた。記念写真撮って」
「何だよ、急に…」
『老板さーん』
 老板は、画面の中で手を振っている佐和子を見て状況を察した。
 そしてスマホを構えると、みんなへ言った。
「あぁ、もうちょっと。みんな、身体を寄せて」
 スマホを覗き込んでいた老板だったが、何かを思い出したように顔を上げ、みんなを見ながら言った。
「俺抜きの記念写真かい?」
 無言。
「それなら僕が撮りま…」
「サミーは良いから。純太の隣に居て」
キッと老板を見て、太太。
「もう、あなたは。気が利かない。取りあえず一枚撮って、次に入れば良いじゃない」
『あぁ、そうかあ…』
 再びスマホを覗き込んだ老板だったが、また何かに気づいて一言。
「悪いけどさぁ…」
「何よ?」
「佐和子さんたち、小さすぎて写りが悪いよ」
「そんな細かい事は良いの。気持ちよ。き、も、ちッ」
 老板、ちょっと苦笑い。
「それじゃあ、撮りますよ」
「イー」
「アー」
「サン」
 キジトラと富富も同時に吠えた。
「はい。茄子(チーズ)ッ」

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