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子規になぜひかれるのだろう

それほど著作を読んでいるわけではないのだが、正岡子規という存在になぜか心を惹かれる。

子規の出身は愛媛県。わたしの父方は愛媛から北海道に入植している。

子規は肺の病を患っていた。わたしはぜん息もちで、息苦しさ、咳のツラさが肌身に沁みている。

子規は野球に熱中した。わたしも野球が好きだ。主に見る方だが。

子規はお酒を飲めない。せいぜい5勺(90ml)。わたしもお酒はあまり飲めない。缶ビール350mlを持て余す。

子規は無類の柿好きだったというが、そこだけはまったく共感できない。柿とタコは私の弱点だ。


司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、3人の主役のひとりとして描かれるが、どうしても日露戦争を戦った秋山兄弟の方が印象が強く、前半で退場する子規についてはいまひとつ活躍の場面が少ないように感じたものだ。さらに、子規が日本語の文章表現に革命を与えたという説明に、今ひとつピンとこなかったこともある。

最近、久しぶりに子規の文章を見かけて興味が再燃し、子規研究者の本を読んでみた。坪内稔典さんの『柿喰ふ子規の俳句作法』である。

ようやく気がついた。子規は、100年以上前に、既にいま我々が楽しんでいるエッセイと同じような文章表現をしているのだ。そこから表現方法は基本的にほとんど変わっていないのだ。我々の日記にしても、つぶやきにしても、論文にしても、その原型のひとつは子規から始まっているのだ。教科書では、俳句や短歌の改革者として書かれているが、実は普段使いの文章表現を確立したひとりなのだ。


子規が訴えた写生、事象を並べるところに発見と感情が生まれるという文章様式が、わたしは好きだ。そのことを改めて認識する。

なんとなく「気になる」だったものに、好ましく感じていた理由がつけられた感じがして、なんだか楽しいのである。

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