「反穀物の人類史」
刺激的で面白い本でした。面白いことに、この本を読んだ後、別の本を読んでいてもこの本の視野で考えることが増えた。こういう読書体験って愉快だな。
あらすじは出版社のページを参考ください。
人類は、狩猟採取のつらい移動生活から安定した定住生活に移行し、集団社会が形成され、やがて国家が成立していく。これが現代文明までひとつながりの「公式」のように刷り込まれていました。
しかし、筆者はこの基本的なところから違和感を読者に投げつけます。
植物を植え、世話をし、実を守るという、定住に伴うリスクを見過ごしている。P 59
これは農業を実践すると身にしみてよくわかります。肥料や農薬を使わずに、完全手作業、無肥料無農薬って本当にたいへん。まして、虫や野生動物ばかりでなく、人による強奪だってある。
著者は東南アジアでの調査経験や、自身が農業や養蜂を実践していることで、体感的、直観的に感じるものがあるんでしょう。
歴史の「常識」に対し、最近の考古学や古代史研究の成果を用いながら、体感的で説得力のある論議が展開されます。
そして、その視点の中心は次第に、文字に書かれてこなかった人たちの歴史にうつっていく。そもそも文字は支配者が被支配民から効率的に搾取するために必要だったものだとする。文字は支配の象徴とも解釈でき、支配の外の人たちは、文字を使うのを拒否したんですと。
よく考えたらそうだよね。
文字で残されていない言葉や歴史の方が圧倒的に多いはずなのである。
歴史なんて、後からいくらでも書き換えることができてしまう。残された言葉が全てではない、ということを慎重に考えなければならない。
我々だって、過去の出来事を主観的に都合よく解釈してしまっているではないか。
主題の「穀物」に関しては、国家が成り立つためには支配者層が収奪するための手段=税を徴収する必要があり、それが穀物であったと綴られる。
そして、狩猟採取生活からは税を取ることは難しい。近頃は、支配も被支配もない、狩猟採取生活が見直されてきているように感じる。
その意味では、自然の中で生き、自然との向き合い方もよく理解していたアイヌの文化が少しだけど残されていることは、この上もない幸福だと思う。
この本でひとつ欠けている視点があるとすれば、それは穀物が「美味しい」ということではないだろうか。
根拠はないけど、農耕の出発点って「美味しい」「楽しい」なんじゃないかと思っている。自然の中からいろいろなものが十分採集出来る、それなのに面倒な手間ひまかけるということは、美味しいと思ったからなんじゃないだろうか。採集して食べたら美味しかった、じゃあもっと取りやすいところで増やそう。あと、育てるのが楽しい。そんな素朴な気持ちが始まりなんじゃないかな。個人の妄想ですけどね。
いい本でした。おススメです。