『会って、話すこと。』について ③バナナ問題
田中泰延著『会って、話すこと。』は、心地よく生きるための素晴らしい手引きである。しかし、最初に読んだときからずっと引っかかっていることがある。
なぜ、バナナなのか。
前作『読みたいことを、書けばいい。』では、冒頭の「あなたはゴリラか?」で多くの読者に人間の自覚を呼び起こさせた。二作目の冒頭に「バナナ」を置くことで、前作との関連性を強く示した、というのが大方の見方であろう。しかし、本当にそうなのか。
「ボケ」と「ツッコミ」の事例に示した文章であるが、「ボケ」としてはあまりに“雑”だ。もう少し似たもの、気の利いたものをバナナに例えられたはず。皮で滑るでも良かったのではないか。
さらに、われわれはなぜ、ゴリラとバナナが関連していると早合点してしまうのか。ゴリラの生息地はアフリカ、バナナの原産地は東南アジアである。本来ゴリラとバナナは遠い存在だったはず。そこにあなたは疑問を持たないのか? 田中さんから、そう問われている気がしてならない。そんな悶々とする日々が続いた。1日ほど。
こころに溜まったモヤモヤを解決するため、私はバナナについて調べた。2時間ほど。
バナナといえば、中尾佐助の名著『栽培植物と農耕の起源』である。他の人はどうか知らないが、私のバナナはまずここだ。
いちばん重要な存在。いちばん最初の存在。バナナは農業界のアダムと言って良い。まさか、『会って話す』がアダムで、『読み書け』のゴリラがイブ、そんな示唆があるのか?!
疑問を追求すべく、我々取材班はゴリラを調査するためアフリカへ向かった、、、くらいの気持ちになった。
ゴリラといえば山極壽一氏だ。残念ながら山極氏のゴリラに関する著書は私の本棚にない。しかし、ウェブは便利だ。糸井重里氏との対談がほぼ日刊イトイ新聞のサイトで読める(「おさるの年にゴリラの話を。」)。
いきなりきた。やっぱりだ。ゴリラとバナナを安易に結びつけるのは間違いなのだ。
ゴリラを知ることで、忘れられた人間の姿を理解できるという。
おふたりは、ゴリラを通して男としてのカッコよさを語っている。
われわれ人類は、遠い昔に共通の祖先からサルと別れ分化した。ゴリラにこの祖先の面影をみるという。しかも男としてカッコいい。ゴリラこそ、アダムの比喩ではないのか。しかしそれではアダムとアダムになってしまうではないか?!
いや待て、バナナを再検証すべきだ。あの形状に惑わされるな。
古来、作物は繁殖、豊穣のイメージから、女性神と関連づけられることが多い。古事記にも穀物は女性から生まれたと書かれている。さらにバナナは三倍体で「雄花の花粉がなくても実る」(『栽培植物の〜』)のであり、雄の因子は見出せない。
そう、バナナこそイブなのだ。
『読み書け』のゴリラがアダム、『会って話す』のバナナはイブ。この二冊は創世記なのだ。では、ゴリラとバナナが揃うことで何が生まれるのか。それはフンだ。フンは分解、物質循環の象徴である。
生めよ、増えよ、地に満ちよ、梓みちよ。いっこ変なのが混じったが気にするな。要は、二冊揃うとなんだかありがたいということだ。
ちょっと強引な気はするが、なんとなく満足した。
少し興奮したので、『会って話す』の一番好きなページで気を落ち着けよう。
読むほどにじんわりくる。新婚旅行で訪れた沖縄のバナナ園を思い出す。大きな葉が揺れている。人生に記憶されるその風景は、美しい。
そのとき自然と口から出るのは、おそらく「ライフ・イズ・ビューティフル」だ。
ん?
「あなたはゴリラか?」(『読み書け』P2)。ゴリラは霊長類=サル類だ。「これバナナちゃう?」(『会って話す』P2)。バナナも出てきた。そして、最終メッセージがライフイズビューティフル!?
そっちか! そっちなのか?
などとくだらない下書きを溜め込んでいる間に、こんなツイートがTLに流れてきて驚いた。
(全面的にごめんなさい)
もしかして、こっちか?! これは傘でバナナだ!