『会って、話すこと。』について ①だいじなことはちゃんと書いてある
ここのところ、田中泰延さんの著書『読みたいことを、書けばいい。』(以下『読み書け』)と『会って、話すこと。』(以下『会って話す』)をループ再読していた。
『会って話す』を読んだら『読み書け』の記載が気になり、『読み書け』の言葉から『会って話す』を再び辿ってしまい、容易に抜け出せなくなったのだ。幸いなことに、4回目くらいでいったん飽きた。飽きるというのは、人間に備わった危機回避能力のひとつだ。知らんけど。
この2冊は姉妹本と言って良い。デザインの統一感だけでなく、最初の話題がゴリラ(『読み書け』)とバナナ(『会って話す』)であるなど両書の繋がりを示す仕掛けが随所にある。なにしろ『会って話す』の冒頭で「密接に関連している」と書いてある。
、、、なんだ、書いてあるじゃん。
さらに、
「書く」については本書の姉妹篇たる『読みたいことを、書けばいい。』をお勧めしろと(後略)(『会って話す』P222)
書いてあった。適当なことを書かなくて良かった。一次資料の確認は大事だ。
書いていて恥ずかしくなってきたので、きちんと引用して2冊の内容と関係性を確認してみる。田中さんは伝えたいことを冒頭で示してくれている。なんと親切な著者なのか。
『読み書け』はこのようなテーマ設定だ。
本書では「自分が読みたいことを書く」ことで「自分が楽しくなる」ということを伝えたい。(中略)書くことで実際に「現実が変わる」のだ。そんな話を始めたい。(『読み書け』P7)
書くのは自分、楽しいのも自分、変わるのも自分。主題は書き手自身に向いている。
また、このような記述もある。
この本は、そのような無益な文章術や空虚な目標に向う生き方よりも、書くことの本来の楽しさと、ちょっとのめんどくささを、あなたに知ってもらいたいという気持ちで書かれた。(『読み書け』P34)
問題は「生き方」に行き着くのだ。「ちょっとのめんどくささ」へ踏み出すには勇気が必要だ。「生き方」、「勇気」とくれば、名著『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健)を思い出す。なんと、ほんの2ページ前にこの書名が登場する。思い出せと言わんばかりに。
そこで知人に相談した。ダイヤモンド社から『嫌われる勇気』という本を出版している古賀史健さんと、コピーライター・「ほぼ日刊イトイ新聞」主催の糸井重里さんだ。(『読み書け』P31~32)
一見、文脈は異なるようだが、無関係であるはずがない。本書には、石川啄木など引用されていても名前が出てこない人がいる。それは本書の重要な論点ではないからだ。逆に、名前が載っている人は大事な関係があるとみて良い。
ならばと、『嫌われる勇気』を確認する。、、、、 開いた冒頭から驚いた。1ページ目にこんな文字が、
青年:では、改めて質問します。世界はどこまでもシンプルである、というのが先生の持論なのですね?
哲人:ええ。世界は信じがたいほどにシンプルなところですし、人生もまた同じです。(『嫌われる勇気』P1)
田中さん著書の副題は2冊とも「シンプルな○○術」だ!
こんな明快なキーワードに今まで気付かなかったなんて。もしかしたら、田中泰延さんと古賀史健さんは同一人物なのではないか。
おちつけ。『嫌われる勇気』をもう少し確認する。
哲人:(前略)いま、あなたの目には世界が複雑怪奇な混沌として映っている。しかし、あなた自身が変われば、世界はシンプルな姿を取り戻します。問題は世界がどうであるかではなく、あなたがどうであるか、なのです。(『嫌われる勇気』P6)
やはり、主題は自己の意識に向けられている。『読み書け』は「書く」ことに焦点を当てているが、自己の変革という提示は『嫌われる勇気』と似ている。やはり、同一人物なのか。
などとエラそうに考察していたら、ご本人達がちゃんと語っておられた。
古賀 泰延さんが『読みたいことを、書けばいい。』を書き終わったとき、ぼくが以前書いた『20歳の自分に受けさせたい文章講義』を参考にしたけれどまったく違う本になった、でも読み返すと『嫌われる勇気』とよく似た本になった、とおっしゃっていて……。(下記サイトより)
なんだ、すべてご自分で語っておられた。そして田中さんと古賀さんは同一人物ではなかった。ここまでわたしは何を書いてきたのか。
気を取り直して、片や『会って話す』の主題を確認する。
会話と、それによって生まれる人間関係。なにより会話によって我々はどのように幸せになれるのか、そんな話を始めたい。(『会って話す』P5)
会話は入り口で、最終目的は「幸せ」なのだ。究極だ。哲学的領域に大きく踏み込んでいる。
「幸せ」といってもいろんな解釈がある。定義が必要だ。『会って話す』では、後半に「幸せ」の定義と思しき記載が登場する。
じつに、人間というものは、悩んでいる自己、鬱陶しい自我、自分自身が消える瞬間が幸せなのだ。そのとき見ているものが、風景なのだ。(『会って話』P239)
自己の消え去る瞬間が「幸せ」という定義は、個人的に深く沁みる。実は『嫌われる勇気』とその姉妹本『幸せになる勇気』(2大勇気本)にも、類似した記載がある。
哲人:人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないことです。(『嫌われる勇気』P252)
哲人:まさに。幸福なる人生を手に入れるために、「わたし」は消えてなくなるべきなのです。(『幸せになる勇気』P240)
物質的な幸せ、自己実現による幸せ、いろいろな定義はあろうが、『会って話すこと』で語られる幸せは、二大勇気本とかなり近いところにあるようだ。
『会って話す』に戻ろう。自己が消えて幸せを感じるときに、「風景」が見えるとあった。では、この「風景」とはなにか。
話す「わたし」と「あなた」の間に、意味がないことでもいい、「なにか」が発見され、「なにか」が発生する。その「なにか」こそ、人間の向こうにある「風景」であり、それを共に見たことが人生の記憶になる。(『会って話す』P263)
風景は「人間の向こう」にあり、だれかとの間に発生する「なにか」だという。「なにか」は英語でサムシングだ。ああ、田中さんよく言ってるわ、サムシング。
違う、違う、そうじゃ、そうじゃない。
『会って話す』には、会話すると「必ず傷つく」(『会って話す』P136)と書かれている。会話は人間関係と言い換えてもいい。その上でなお、「あなた」と「わたし」はその外部に新たに生まれた「なにか」、すなわち「風景」を共有することで、幸せになるのだという。
『嫌われる勇気』とその姉妹本『幸せになる勇気』(二大勇気本)の記載はどうか。
哲人:(前略)不幸の源泉は対人関係にある。逆にいうとそれは、幸福の源泉も対人関係にある、という話です。(『嫌われる勇気』P181)
哲人:人間の喜びもまた、対人関係から生まれるのです。「宇宙にひとり」で生きる人は、悩みがない代わりに喜びもない。(『幸せになる勇気』P178)
哲人:アドラーの語る「すべての悩みは、対人関係の悩みである」という言葉の背後には、「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されているのです。(『幸せになる勇気』P178)
すべての悩みは対人関係から生じ、幸福・喜びも対人関係から生じる。対人関係を「あなたとわたし」に置き換えると、「幸福」「喜び」は、「なにか」が生まれた瞬間、共に見た「風景」に相当する。なんと美しい同調だろう。
『会って、話すこと。』は、『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を「わたし」に落とし込んだ、具体的な実践編なのだ。少なくともわたしはそう読んだ。読んで感激してしんみりして、嬉しかった。なんで嬉しいのか分からなかったが、嬉しかった。
ツイッター界には同じことを感じておられる人がおられる。
さちこさんが言うんだから間違いない。お会いしたことないけど。
幸せについて、『幸せになる勇気』からもう少し引用する。
哲人:利己的に「わたしの幸せ」を求めるのではなく、利他的に「あなたの幸せ」を願うのではなく、不可分なる「わたしたちの幸せ」を築き上げること。それが愛なのです。(『幸せになる勇気』P239)
「わたしたちの幸せ」とは、『会って話す』の「なにか」、「風景」と同義に違いない。そして、それはすなわち「愛」!?
ならば「なにか」を「愛」、「風景」を「わたしたちの幸せ」と読み替えてみよう。
話す「わたし」と「あなた」の間に、意味がないことでもいい、「愛」が発見され、「愛」が発生する。その「愛」こそ、人間の向こうにある「わたしたちの幸せ」であり、それを共に見たことが人生の記憶になる。(『会って話す』P263を改変)
ちょっとくどいが、なんだかスッキリするのは、私だけだろうか。
「愛」について、『幸せになる勇気』では「愛される技術」ではなく「愛する技術」が必要と書かれている。
哲人:(前略)しかし、アドラーの語る愛は全く違うものでした。彼が一貫して説き続けたのは能動的な愛の技術、すなわち「他者を愛する技術」だったのです。(『幸せになる勇気』P231)
同書の極めて重要なメッセージであるが、抽象的でやや分かりにくさも残る。
それがなんと、『読み書け』に次の記載が。
「対象を愛する」方法には2つある。(『読み書け』P182)
『読み書け』!!! おそろしい子!
さらに『読み書け』の最終章にこんな文章がある。
「事象に触れて生まれる心象」。それを書くことは、まず自分と、もしかして、誰かの心を救う。人間は、書くことで、わたしとあなたのあいだにある風景を発見するのである。(『読み書け』P267)
「わたしとあなたのあいだにある風景」! もう書いてあった!!
『会って話す』の主題を追いながら、『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』を巻き込み、『読み書け』に循環してしまった。なんという深淵。やはり同一人物なのか。
こんな下書きを保存していたら、すでに下記の記事が公開されていた。
アドラーの名前がある。
これ、わたしが書かなくても良かったやつかもしれない。