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【連載①】『アセンブリ』を読んで3.11以降の社会運動を考える-「広場占拠とアセンブリ」

ーー『帝国』『マルチチュード』などの著作で、現代思想と反グローバリズム運動を結びつけてきた世界的な思想家、ネグリ=ハート(以下N=H)。彼らの新著『アセンブリ』の翻訳が、今年2月に出た。2011年のオキュパイウォールストリートなどの街頭集会を論じた本書は、同年の3・11原発事故による反原発運動・街頭行動の高揚の良い点、反省点、これからについてとても参考になる。運動の発展や議論のために、『アセンブリ』を参照しながら3・11以降の運動を振り返ってみたい。第1回は、『アセンブリ』の内容を紹介する。(吉永剛志)

① 集会・デモ=「アセンブリ」

 ネグリ=ハート(以下N=H)の新著『アセンブリ―新たな民主主義の編成』は、新型コロナ前の2017年に書かれた。その翻訳が今年2月に出た。
 「アセンブリ」とは何か? まずは、集会やデモのことだ。とりわけ2011年前後から世界中で広場を占拠し、集会し、自らの考えを社会に波及させようとする活動が巻き起こったことを指す。「アラブの春」、NY/ズコッティパークのオキュパイウォールストリート、立法院(国会)の占拠までいった台湾のひまわり革命…。国によっては政権が崩壊した。日本も原発震災以降、国会や官邸、電力会社前に人があふれた。
 N=Hはその占拠のとき、「一時的に都市空間が
〈共〉になった」、と言う。〈共〉という言葉をあえて使うのは、従来の「〈私〉/〈公〉」概念では大事なものが見逃されてしまうからだ。「魔法のような感覚が創出された」ともN=Hは言う。占拠された広場は、オープンなアクセスと民主的な管理運営の実験の場となった。これからの社会の予示だ。
 しかしこれらの動きは、世界中どこでも沈滞している。それどころじゃない。以前より悪い統治体制になっているところもある。日本も例外じゃない。
 その中で本書の眼目は、「へこたれるな」ということだ。「完全に賭けに勝ったと言えるケースは、あるとしてもごくわずかである。だが、負けたからと言って、必ずしもそれが悪い賭けだとは限らない」。そうN=Hは言っている。
 めげるな、持続的な変化を達成しよう。耐久性のある新しいオルタナティブを生み出そう。これまでとは別の仕方で権力を掌握しよう。そのために、運動内の論議や理論的展開をできる限りフォローし、さらに進むべき方向へと推し進めよう。本書『アセンブリ』は、そうした「運動から発した思考形態」の本だ、とN=Hは言う。

② 高度に組織された「指導者(リーダーシップ)なき運動」

 そのため、N=Hはこの2011年前後の広場の占拠はどうやって起こったのか、から話を始める。大体、マスメディアでは自然発生的に起こった、ということになっている。さらには当事者もそう思いたがっている。
 現在の運動では、垂直型の組織構造など、誰も望んでいない。水平さ、フラットさが重んじられる。この今日の運動における指導者や組織の欠如は、言ってみれば「指導者なき運動」だ。偶発的でも単発的でもない。「深くて大きな歴史的変化の徴候」だ。
 しかし同時に大事なのは、指導者の欠如が組織化の欠如を意味するものではないことだ。実は「指導者なき運動」は、自然発生的なものでは決してなく、高度に組織されたものだ。ここがポイントだ。垂直性を追い払って、ただ盲目的に水平性をあがめ、耐久性のある社会構造の必要性を無視してしまうのも、指導への正当な批判を、すぐ持続的な政治組織や政治制度の拒否へと翻訳してしまうのも、間違いなのである。

③ 「運動に戦略を、指導に戦術を」「起業家精神(アントルプルナーシップ)をもとう」

 そのため、N=Hは「指導」概念を徹底して放逐する代わりに、「指導」が持つ政治的機能の核心を特徴づけ、そうした機能を果たす新しいメカニズムと実践を発明すべきだ、と提言する。
 「指導」の持つ二つの主要機能は、N=Hによれば意思決定と集合形成だ。個々人の声が不協和音を奏で、政治的プロセスが麻痺してしまうのを防ぐために、指導者は人々を首尾一貫した全体へとまとめ上げる。それとともに、運動を持続させ、最終的には社会を変革するために、必要な難しい選択を行うことができなければならない。要は指導者は「政治的な起業家」でなければならない。
 そんな難しい立場があり得るのか? 「ある」とN=Hは言う。誰かを導く必要は全くない。「指導」に必要なのは、政治的行動の潜勢力がどれくらい変化したかを測定し、さらにはその潜勢力を増幅させることだ。
 だからN=Hは従来の役割を逆転させて言う。「運動に戦略を、指導に戦術を」。いわば、指導は「裏方」にまわる。自分が「主人公」ではない。やることは、参加者の主体性を増幅させ、参加者が立案する「戦略」をスムースに回すことだ。

④ 課題に正面から向き合う

 N=Hのこの楽観さには、疑問の声も上がるはずだ。そもそも、「指導は裏方」「起業家精神」など、今のNPO活動からいったら常識だ。たくさんある問題点を挙げるほうが楽なくらいだ。
 しかしネグリの問題意識はもっと苛烈だ。ネグリの言いたいことを日本の文脈に置き換えると、2015年の安保法制反対で注目を浴びたSEALDsは、主体形成として失敗だった、くらいのことだ。どういうことか? ネグリはイタリア生まれ。かつて、イタリア共産党が生み出した「ユーロコミュニズム」という構造改革派が冷戦期に存在した。しかし「構造改革」は、イタリアにおいて西側のNATO=安全保障体制を不問に付した。ネグリは歯噛みしてこう言っている。「イタリア共産党は、乗り越えられない国際情勢を理由に、立憲民主主義の形式的ルールに自らを服従させることを正当化した」。
 それが現実主義だ、代案はなかったという反論も可能だろう。しかし不問に付したまま、91年にソ連が崩壊したら、結局イタリア共産党も解散した。ネグリは言う。「NATO批判をやるという実践にどんな障害が発生するか、真剣に向き合って、クリティカルに明らかにしなかったからこそ、結局ズルズルとイタリア共産党は存在理由を失っていったんだ」。
 もし向き合っていたら、「たとえ脆弱な仕方であったとしても」、運動の社会的形成と主体性の生産との間の関係を、結びつけることができた。その素晴らしい反ファシズム的・民主主義的な遺産を次世代のアクティビストに手渡しつつ、ヨーロッパの革命運動の歴史に連続した線を創り出すことができた…。
 ネグリの言っていることは、例えば2015年安保法制反対の運動に対して、「立憲主義に反しているというだけでなく、日米安保体制の存在理由そのものを問うことから組み立てるべきだった」と言っているに等しい。
 他人事でなく、自分事としてそんなことが大衆運動としてできたのか?そんな観点で、次回からは3・11原発事故後の反原発運動以降の運動を、『アセンブリ』を参照しながら振り返ってみたい。振り返るのは、大きく言えば、「革命」の展望を「脆弱な仕方であったとしても」見出すためだ。正直、私の力量を超えた課題だが、やってみたい。

吉永剛志《1969年高知県生まれ。「地域・アソシエーション研究所」運営委員。著書に『NAM総括』(航思社/2021年)》

『アセンブリ―新たな民主主義の編成』
著者:アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート/翻訳:水嶋 一憲/A5版・492㌻/岩波書店
/発売・2022年2月/定価:4,950円


(人民新聞 2022年9月20日号掲載)

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