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私のマインドフルネス実践とそれがどう教員生活の助けになってくれたか

前回は私のマインドフルネスとの出会いとそこで感じたことについてお話しました。今回は私にとってマインドフルネスの実践とはどのような意味を持っていて実際に何をしているのか(していたのか)というお話をしたいと思います。

マインドフルネスの「マインド」とは「Mind your step(足元にご注意ください)」のマインドと一緒で「気がついている」「注意を払っている」という意味です。元々はパーリ語でサティという言葉の英語訳で元々の意味だと「気がついている」「覚えている」「心に留めている」というような意味だと聞きました。マインドフルとは「気づきに満ちた状態」つまり「自分が何をやっているかをわかっていながら何かをしている」ことです。

呼吸をする時には、自分が息を吸っていること、吐いていることに気がついている。歩く時には歩いていることに気がついている。扉を開けている時には扉をあけていることに気がついている。座っているいる時には座っていることに気がついている。自分の中(身体&心)と外で起こっていることに気がついている。それがマインドフルであるということです。

マインドフルネスには2つの働きがあると言われています。1つは「止まる」こと。走り続けている思考を止めてスローダウンすること。何かから逃避するために他の何かで埋め合わせをしようとすることを止めること。何かをする前に一度立ち止まって選択をすること。マインドフルネスはそのことを助けてくれます。

もう一つは「深く見つめる」ということです。食べ物を食べていたらその食べ物を育ててくれた自然の恵みや人々の働きに気がつくということ。自分の苦しみの原因を深く見つめること。誰かの周りに苦しみを与えるような行動の奥にある原因やそれを起こしている条件を深く見つめること。マインドフルネスはそのことを可能にしてくれます。

私自身はマインドフルネスと出会って「今ここに生きていること」が奇跡なんだと日々(前よりは)気づけるようになったな、と思います。朝目覚めるとガーター(偈頌)を心の中で唱えます。「目覚めて微笑む 生まれたての24時間 一瞬一瞬気づきを忘れず すべてを慈しみの眼で見られますように」(ティク・ナット・ハン著 島田啓介訳『今このとき すばらしいこのとき』p14)そうして窓を開けてゆっくり息を吸って、吐いて、鳥の声に耳をすませると爽やかな気持ちで一日を始めることができます。

坐る瞑想を短くても(5分10分でも)できるだけ毎日するようにしています。シスターインサイトというフランスのプラムヴィレッジにいるシスターが「10分坐れなかったら呼吸10回でもいいの!それができなかったら1回でも気づきの呼吸ができたらそれでいいの!」と言っていたのを聞いて、集中できなくて10分も坐れない時は10回意識的な呼吸をするようにしています。大事なのは長さよりも継続することですからね。まあ、30分とか長くやれた方が落ち着いて良いというのはあるので、長くできる時は長くしています。

学校に行っていた時は、学校の近くの駅から学校までの道のりを少しだけ遠回りをして公園を通って歩く瞑想をしていた。鳥の声を聴きながらゆっくり歩くと気持ちが良いし心が落ち着く。職員室からトイレまでの道のりも歩く瞑想のコース。気持ちを落ち着かせるのに良い時間。自分が歩いている一歩一歩と呼吸に気がつきながら歩く。扉を閉めながら扉を閉めていることに気がつく。

呼吸に意識を向ける時間が増えて半年とか1年とかたつと、日常生活の中で変化を感じるようになりました。自分の感情が動いている時とか、イラっとした時とか、疲れている時に、自分で自分の状態に気がつくようになります。「ああ、今私はいらっとしている」とか気づくことができれば、ちょっとトイレに向かってその途中で歩く瞑想をしたり、途中で立ち止まって深呼吸をすることもできるわけです。誰かにイライラしたまま当たってしまう代わりに。

自分の中で誰かを責めている思考が起こっている時にもそれに気づくことができるようになります。「ああ、自分は今相手を心の中で責めていて、どう『相手が間違っていて私が正しいか』を考えている」と気がつきます。相手を責めている思考が起こっている時には、さらに怒りが湧いてきて、怒りが湧くとさらに相手を責める言葉が湧いてくるという循環で自分の中の怒りが大きくなってしまいます。でも「私は今怒っている」ということに気がついて、自分の身体の中の変化や呼吸に意識を向けることができれば、相手を責める思考によって自分の中の怒りを燃え上がらせるのと違って段々落ち着いてきます。そして時間がたってからその怒りを深く見つめることができれば、実は自分の思い込みだったり、相手のことをよく理解していなかったりすることが原因だったと気づくこともあります。

そして、自分の中の「喜びの種」に意識的に水やりをすることができます。朝目覚めて鳥の声を聞いた時。庭に出てヒマワリの成長を見た時。一歩一歩を今歩けるということに。自分が健やかに呼吸をできることに。家族が今日も生きているということに。生徒がそこにいてくれるということに。今は私は学校には行ってませんが、学校に言っていた時は毎朝生徒を見ると嬉しくて「今日も生徒たちがこうやって生きていてくれて嬉しいな」と思っていました。「おはよう」という時に心の中で「今日もあなたがいてくれて嬉しいよ。ありがとう。」と唱えながら「おはよう」と言っていました。(時々生徒に会うと最初からニコニコしているので「先生、どうしたんですか?」と聞かれることもありました。「みんなに会えて嬉しいんだよ」と言うと、男子生徒に「うわー」って言われることも。笑)

自分の中で喜びの種に水をやっていると、自然に怒ったり、寂しくなったりということが減っていくものなんだなと思います。なんか、我慢するとかじゃなくて気にならなくなるんですよね。器が大きくなる感じというか、樹の幹が太くなる感じでしょうか。ちょっとした風が吹いても揺らがなくなる感じがありました。

生徒がテストを受けている時にも「テスト監督の瞑想」をしていました。テスト監督って他のことを何もしないで教室にじっとしていなきゃいけないから先生によっては「テスト監督は飽きるから嫌だ。何かをしていたい。」という人もいます。でも、私にとっては、呼吸を楽しむ時間。そして生徒一人一人がそこにいることを深く感じて深く見つめる時間。その子がそのテストを受けるまでに注いできたエネルギーと家族のサポートと様々な状況を想像しながら監督をしていると豊かな気持ちになります。(採点する時も。)

自分自身が新しい職場に移った時に中々人の役に立てるような仕事ができなくて、周りの足手まといになっているんじゃないかと感じていた時には自分の呼吸は浅くなっていました。浅くなっていることには気づいていましたが呼吸を深くしようとすると苦しくて、呼吸を深くすることができませんでした。後から思うと呼吸が浅い方が痛みや苦しさを感じなくてすむということがあるからきっと私の身体がそうしていたんだろうな、と思います。半年ぐたいしてふと立ち止まることができた時に「私は生徒には『そのままでいい』と言っていたけれど、自分自身は『人の役に立たなければ価値がない』って思っていたんだな」と気づくことができた時に自分自身が楽になって前より息がしやすくなった気がしました。

この「人の役に立たなければいけない」という思い込みは自分の中に根深くあって、色んなところでまた出会うことになりました。人はただそこにいるだけで素晴らしくて、役に立たなくったっていいんだって頭では思っているのですが「人の役に立てただろうか」と気にしている自分に気づくことはその後もありました。現代社会の呪いかな、と思うんですが、知らず知らずに「生産性」とか「人の役に立つ人」が価値があるんだ、という考えが自分の中にも刷り込まれているんだな、と思います。

やまゆり園の事件で「生産性のない障害者は死んだ方がまし」という価値観を持った犯人の行動にもショックを受けましたがそれに対して「それは分かる」と応答する人が少なからずいたことはさらにショックでした。社会から「役に立て、さもなければお前の居場所はない」と迫られて、競争にさらされて、神経と魂をすり減らしている人が今の社会にたくさんいて、そしてその価値観は私の中にも知らず知らずに刷り込まれているんだな、と思います。

私にとってマインドフルであるということはどういうことか、というと、「役に立つ/立たない」ということを超えてそこにいるということ、あるということを祝福するということです。仏教の言葉で「無願」という言葉があって英語だとaimlessnessですが、目的を持って「何かになろう」とするのではなく、今そこにある自分をただそのまま受け入れて気がついて微笑むプラクティスをしています。

時々マインドフルネスの実践の広告を見ていると「今世界のリーダーに求められているセルフコントロール力を身につける」とか「思い通りの人生を送るために」みたいなフレーズがついていることがあるんですが、私にとってはマインドフルネスって人生をコントロールしたり思い通りにしたりするためにあるものではなくて「思い通りにならない人生をそれでも受け入れる」ためにあるものだと思っています。

好きなものと嫌いなものに分けて、好きなものを手に入れようとして、嫌いなものを避けようとする代わりに、すべてに微笑みかけて、自分の中の扉を全てに対して開くってことだと思っています。

2年前に免疫の病気に急になって、地元のクリニックに行ってMRI検査を受けたら「大きな病院にすぐに行ってください」と言われた時に、何が原因かその時は分かっていなくて「これは命に関わる病気なのだろうか」とタクシーの中で混乱していたのですが、その時に自分の中に怖れがあって怖れが大きくなっていることに気がついて呼吸に意識を向けました。そして「それがなんであったとしても受け入れよう」と心を定めることができました。「私はプラムヴィレッジに無条件で受け入れられたじゃないか。私がやっているプラクティスは自分にとって都合の良いことだけを選んで都合の悪いことは拒否するプラクティスじゃなかったはず。自分に起こることを無条件で受け入れよう。」と思って呼吸ができたことでその時は落ち着くことができました。

人生って自分にとっては望まないことも起こるし、嫌だと思ってもどうしようもないこともあります。ブッダはそれを「苦」だと表現しました。思い通りにならないこと、という意味です。人生は思い通りにならないことばかりです。好きな人とは別れ、自分を苦しめるような人と出会い、望んだものが手に入るとは限らないし、思わず病気になることもある。私たちがそれが起こるかどうかを選ぶことはできないとしても、それをどう受け止めるかは変えることができます。

息を吸って、息を吐いて、それがどんな呼吸であってもそのまま受け入れるプラクティスを通して、自分の中に起こるどんなことに対しても微笑んで受け入れる力が育っていくと感じています。

よく言われるんですが、マインドフルネスって筋トレと同じだから毎日毎日続けていくことでマインドフルネス筋が育っていくということです。「気づきの力」とリラックス力は確かに成長していくんだな、と私自身は感じています。

でも、それは「結果としてそうなるだけ」ということも言えます。「マインドフル筋を倍にする」ためにやったり、どこか到達点を目指してやっている訳ではないのです。一瞬一瞬の呼吸を楽しむこと、今ある喜びを深く味わうこと、強い感情に出会った時に相手を責める代わりに自分の身体に労わりの気持ちを向けることで強い感情を和らげることができること、その一瞬一瞬の中に「こちらの方が良い」ということがあってそれを実践していたら気がついたら変化が起こっていたという感じかなと思います。

あと、プラムヴィレッジの僧侶の皆さん(ブラザーシスター)に出会うと、自分の心が喜ぶのが自分で分かります。本当に実践をしている人って存在が清らかになって、側にいるだけで嬉しいものなんですよね。

時に「お坊さん」と言っていて、立派なことを言っていても、その人のあり方や普段の言動が伴っていないとやっぱりそれはそれで分かるし、その人の話を聞きたい、その人と一緒にいたいとは思えません。でも、その人が自分を見つめて自分に慈愛を向けるプラクティスを深くしていたら、自然と周りの人は「その人の側にいたい。その人の言葉を聴きたい。」って思うものなんだな、と感じます。何を言っているか、よりも、誰が言っているか、というのは結構大きいと感じます。その人の存在のあり方が、その人が意識していなくても言葉に現れるんですよね。自分の心と言葉を振る舞いに気をつけたいな、と思います。

パンデミックの時代になって今ほどマインドフルネスが大事な時もないとも感じています。怖れがどんどん大きくなる世の中で、自分自身の怖れを見つめて抱きしめること。どんな状況であってもそれに微笑んで受け入れること。物理的に離れていたとしても、つながりを思い出して味わうこと。自分の中の喜びの種に水をあげること。自分の見方に囚われないで執着を手放すこと。今生きていることの喜びを思い出すこと。今苦しんでいる誰かに想いを馳せること。

気づきの呼吸がそのことを思い出させてくれます。

もちろん色々と気づかないでやっていることもあるけれど、日々思い出したいものだな、と思います。今ここに私やあなたが生きていることがそれだけで素晴らしいことなんだって。一瞬一瞬が味わい深い大事な時だって。

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