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奇跡と魔術の違いと「分断」から「良い関係」

ここ数年、「分断」と言う言葉をよく見聞きする。民主党支持者と共和党支持者。経済的な持つ者と持たざる者。若者と中高年者。資本主義と共産主義。国と国。
分類自体にはどちらが良いも悪いもない。問題は、分類したあと、それぞれのグループ同士が他者に対して「偏見」や「無関心」を持ち、コミュニケーションを諦めてしまう。そして、一度始まった偏見が固定化し、あるいは、悪いほうへ増長する。そうして、ある時急に暴力性を帯びて相手に不満をぶつけ始める。

なぜそうなるのか。人間の特性の一つに「物事を意味付けや価値付けのないままを放置して理解するのは不得意」なのでは、と、私は個人的な仮説を持っている。つまり良いか悪いか。利益か損失か。善か悪か。といった、分類と同時に、観察者の主体的な価値観をセットにして記憶していると言うこと。

また、他の理由として、「正しい一つの答えがどこかにある。」という思い込み(あるは期待)がある。そして、自分の属しているグループが「正しい」と思いたい。あるいは思っている。その「正しさ」強化するために、その他のグループを強く「間違っている」と指摘しているのではないだろうか?


 「A神」を唯一神と信じる「A神村」でひどい干ばつがあった。皆で両手を挙げて祈る。「A神よ。我らに雨の恵みを。」晴天だった空に雲が集まり、みるみる雨が降り出す。彼らは「神の奇跡」と叫び、喜びと感謝を表す。
 その様子を伝え聞いた「B神」を唯一神とする「B神村」。彼らは、A神村の人々を邪教徒と呼び、A神村で起きた「神の奇跡」を「悪魔の仕業」と言い。彼らの祈りを「魔術」と言った。

 一方、翌年B村でひどい干ばつになる。村人は皆で両手を空に掲げて雨を降ることを神に祈った。すぐに雨は降り人々は「神の奇跡」に感謝を表す。
 それを伝え聞いたA神村では、B神村の「神の奇跡」を「悪魔の仕業」と言い。「B神村の邪教徒たちが魔術を使った」と言った。


干ばつ→祈り→雨。A神村でも、B神村でも同じことが起きている。なのに互いに自分の方では神、相手の方では悪のエネルギーが作用しているという。

目の前の現象を、自分の信じる神のおかげと感謝することに何も問題はない。
問題があるとすると、相手の行いや信じることを悪と決めつけるとき。それを知った相手はどう受け止めるだろうか?そこには、感情的な怒り、苛立ち、悲しみ、恐れなど。「互いの良い関係性を作りにくいもの」が生まれるのではないだろうか。そこから、相手に対する暴力的な感情が生まれやすくなるのも簡単に想像がつく。
この暴力的な感情を「悪のもの」とするならば、誰かが相手を悪だと決めつけたその思いが、相手の心の中に「悪を生んだ」と言えないだろうか?「悪」などはじめはなかったのに。

もし、最終目的に相手との良い関係性を望むなら。
「最善の答えは一つじゃない。」という、ある意味矛盾を抱えた認識を持つ必要性があると思う。
「自分が良いと思うものを良いと感じることは自由。だからと言ってほかのものが悪いわけじゃない。」
「自分にとっての絶対的正解はある。でも、それ以外が間違っている証明をする必要はない。」
「自分には唯一だ、と信じるものがある。と、同じように他者にとっても唯一だ、と信じるものがある。」
一人一人が受け止め方によって世界が変わるのなら、一人一人、認識の数と同じ数の世界があるともいえる。だから、一人一人の世界に唯一神がいてもいいんじゃない。


C村では神はいない。A神村とB神村で起きた「神の奇跡」または、「悪魔の仕業」の話を伝え聞いたC村の人々。誰かは「不思議なことがあるもんだ。」と言い。またほかのだれかは「偶然でしょ。」と言った。

D村では、たくさんの神が信じられている。数えきれないほどの神がいた。彼らは、A神村とB神村の神の奇跡、悪魔の仕業の話を聞いて。「A神村の神ってすごね。」「B神村の神もすごいね。」「A神村の悪魔もすごいし、B神村の悪魔もすごいね。」と両村に雨を降らせ、それぞれの村人救った「何者か」の行いに感動した。

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