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読書記録|関裕二『邪馬台国とヤマト建国の謎』

読了日:2023年4月4日

 「謎を解き明かす!」系の本は、著者の趣味趣向とも言えるような突飛なこじつけが散りばめられているともあり、内容によってはエンタメ的な感覚で読むことが多いのだが、こちらはなかなか真に迫るものだった。

 邪馬台国はどこにあったのか?卑弥呼とは誰なのか?

 この問題は今でも熱く議論されていることろだが、実際にその時代へ行って確認しなければ「絶対にこうだ」ということは誰も言えない。(よって、口喧嘩に至るような、議論を超えた持論の吹っ掛け合いは不毛だと私は思う)
 つまり、結論を出すことは皆無に等しい。単に可能性が高いものをチョイスして「〜ではないか?」と言うのが精一杯。
 そういう意味で、この著者は多くの参考文献を読み、それを元に可能性の高い「〜ではないか?」を求めていて、よくありがちな現実から乖離するような(スピリチュアル的な)部分がないのが良かった。

 邪馬台国卑弥呼が日本史上の問題になったのは『魏志倭人伝』の存在があったからだ。
 『魏志倭人伝』は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻にある、烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条の略称で、長い書物の中の一節にすぎない。
 その部分を元に、日本のどこに邪馬台国があって、卑弥呼とは一体どんな人物だったのか、長年その謎は残ったままだ。
 ここで一つ思うのが、その『魏志倭人伝』ですら、一から了まで一寸も事実と違うことなく正確な記述かどうかはわからない、ということ。
 ゆえに、これまでこの文献を元に様々な読み解きがなされ、様々な説が生まれてきた。
 邪馬台国の在処について、歴史好きな人なら北部九州説畿内説の二つを聞いたことがあると思う。
 私個人としては九州説(北部ではなく九州の真ん中あたりでは?と過去に読んだ本でそういう印象を受け取った)が有力かと感じているが(当然、その考えなので卑弥呼は奈良県の箸墓古墳の主ではないと思ってる)、今回、この本で”放射説”というのを初めて知って「おお!」となった。

 『魏志倭人伝』では、魏の帯方郡から出発して邪馬台国までのルートを説明しているが、これが記述通りに辿ると途中で九州の大陸から突き抜けてしまう。
 そこで、日本の東洋史学者である榎一雄氏が唱えたのが”放射説”。
 伊都国(現在の糸島地方。福岡県北西部)までのルートはそのまま解釈、その後は文章の書き方がどうやら伊都国を中心として「(伊都国から)東に○里」というように、出発点を伊都国に設定して書かれているのではないか?という説。

 なるほど、これなら九州から海に突き抜けることもなく九州内で収まるし、畿内説のように南と書いてあるものを無理やり”東の間違いだ”と東方向にこじつける必要もない。
 
 もちろんこの説も”可能性”の話であって、これが事実だと言い切ってるものではない。が、なかなか面白いと思った。

 日本書紀では『魏志倭人伝』からの引用もあるが、その日本書紀でさえ(同じく古事記も)、編纂した者の何かしらの意図が組み込まれてると考えるのが妥当で、大化の改新(乙巳の変)などのクーデターがあった後に記紀が書かれていることを考えると、「歴史とは勝者の記録」というフレーズが頭に浮かんでくる。
 単純に考えても、記紀を編纂したのは大化の改新でクーデターを起こした側なのである。
 そういったことも含めて、こうだったのではないか?ああだったのではないか?と想像することに歴史の面白みがあると思う。

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