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欠史八代に続く第10代崇神天皇の足跡(四国で読解く古代天皇)

皆さん、こんにちは、神社ねこです。

今回は、欠史八代に続く、第10代崇神天皇。こと御眞木入日子印恵命(みまきいりひこ・いにえ・のみこと)を四国で見ていきます。

神武天皇が初めて国を統治した事から「始馭天下之天皇(はつくにしらす・すめらみこと)」と言われていますが 崇神天皇は祭祀、軍事、内政など国家の基盤を整えたとされる事から、こちらも「御肇国天皇(はつくにしらす・すめらみこと)」と言われています。

今回も動画と文章を両方準備しましたので、読みやすい方・聞きやすい方の好きな方を選んで頂ければと思います。それではよろしくお願いします。

■動画


1.基本情報

(基本情報)第10代崇神天皇

基本情報を、日本書記で少し補足します。

<日本書記> 天皇即位

  • 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコ・イニエノ・スメラミコト)は開化天皇(かいかてんのう)の第二子である。

  • 母を伊香色謎命(イカガシコメノミコト)という。物部氏(もののべのうじ)の先祖である大綜麻杵(オオヘソキ)の娘である。

    • 伊香色謎命(イカガシコメノミコト)を祭る神社が、全国で唯一、徳島県吉野川市川島町桑村に鎮座する式内社「伊加加志神社」

  • 天皇は十九歳で皇太子となられた。善悪を識別する力が勝れておられ、早くから大きな策謀を好まれた。壮年には心ひろく慎み深く、天神地祇をあがめられた。常に帝王としての大業を治めようと思われる心があった。

⇒ 難しい問題を何とか乗り越えようと苦悩しながら、国を安定させるに至った大君であった事がうかがい知れます。


2.三輪山の大物主神の物語(古事記)

まずはベースを古事記で見ていき、補足として日本書紀を見ていきます。

<古事記>

  • この天皇の御代に、疫病が大流行して、国民が絶滅しそうになった。

疫病の大流行による国民絶滅の危機
  • そこで天皇は、これをご心配になりお嘆きになって、神意を請うための床にお寝みになった。その夜、大物主(おおものぬし)大神が御夢(まゆ)の中に現われて、「疫病の流行は私の意志によるのだ。だから意富多々泥古(おほたねこ)という人に、私を祭らせなさるならば、神の祟たたりは起こらなくなり、国内も安らかになるだろう」と仰せになった。

イニエ(崇神天皇)の夢に大物主現わる
  • そこで急使(緊急用の使者)を四方に分かち遣わして、意富多々泥古(おほたねこ)という人を尋ね求められたと頃、河内国(かわちのくに)の美努村(みののむら)にその人を見いだして朝廷に差し出した。

意富多々泥古の探索
  • そこで天皇が、「そなたは誰の子か」とお尋ねになると、意富多々泥古(おほたねこ)が答えて、「私は、大物主(おおものぬし)が、陶津耳(すえつみみ)命の娘である活玉依毘売(いくたまよりびめ)を妻としてお生みになった子の、名は櫛御方(くしみかた)命という方の子の、飯肩巣見(いくかたすみ)命の子の建甕槌(たけみかづち)命の子が、この私、意富多々泥古(おほたねこ)なのです」と申し上げた。

意富多々泥古(おほたねこ)現わる
  • すると天皇はとても喜んで、「これで天下は穏やかになり、国民は栄えるであろう」と仰せられた。

喜ぶイニエ(崇神天皇)
  • そして、ただちに意富多々泥古(おほたねこ)を神主として、三輪山(みわやま)に意富美和之大神(おおみやのおおかみ)を斎(いつき)祭られた。

大物主を祀る意富多々泥古
  • また伊迦賀色許男(いかがしこお)命に命じて、祭りに用いる多くの平たい土器を作って、天つ神の社地つ祇の社(あまつかみのやしろくにつかみのやしろ)を定めてお祭りになった。

土器作りを頑張る伊迦賀色許男
  • 伊迦賀色許男(いかがしこお)命も伊香色謎命(イカガシコメ)と同様、全国で唯一、徳島県吉野川市川島町桑村に鎮座する式内社「伊加加志神社」で祭られている

伊加加志神社
  • また宇陀(うだ)の墨坂(すみさか)の神に赤色の楯(たて)と矛を奉り、また大坂の神(おおさかのかみ)に黒色の楯(たて)と矛を奉り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまで、ことごとく漏れ残すことなく幣帛(みてぐら)を奉ってお祭りになった。これによって疫病がすっかりやんで、国内は平穏になった。

3.三輪山の大物主神の物語(日本書紀で補足:古事記と異なる箇所)

  • 国内には疫病が多く、民の死亡者は、半数以上に及ぶほどであった。そこで一日中、天神地祇にお祈りをした。その後、天照大神(アマテラスオオミカミ)、倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二神を、天皇の御殿(ごてん)の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。

神威強すぎ
  • そこで天照大神(アマテラスオオミカミ)を豊鍬入姫命(トヨスキイリビメ・ノミコト)に託し、倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀った。そして、堅固な石の神籬(ひもろぎ)(神が降臨されるところ)を造った。

天照大神を倭の笠縫邑に祀る豊鍬入姫命
  • また倭大国魂神は、淳名城入姫命(ヌナキイリビメ・ノミコト)に預けて祀られた。ところが渟名城入姫命(ヌナキイリビメ・ノミコト)は、髪が落ち体が瘦せてお祀りすることができなかった。

倭大国魂神を祀れなかった淳名城入姫命
  • 天皇はそこで神浅茅原(カムアサジガハラ)にお出ましになって、八十万の神々をお招きして占いをされた。このときに、神明(かみ)は倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソノヒメノミコト)に神憑り(かみがかり)して言った。

倭迹迹日百襲姫命に神憑る大物主神
  • 倭迹迹日百襲姫命は、讃岐国の式内社「田村神社」「水主神社」で祭られている。

(讃岐国の式内社)田村神社
(讃岐国の式内社)水主神社
  • ここで疫病がやっと収まり、国内はようやく鎮まった。五穀はよく捻って百姓おおみたからは賑わった。八年夏四月十六日、高橋邑(たかはしのむら)の活日(いくひ)を、大物主神(オオモノヌシノカミ)にたてまつる酒を司る人とした。冬十二月二十日、天皇は大田田根子(オオタタネコ)に大物主神(オオモノヌシノカミ)を祀らせた。

酒を司る高橋邑の活日
  • この日、活日(いくひ)は御酒を天皇に奉り(たてまつり)、歌を詠んでいうのに、

コノミキハ、ワガミキナラズ、ヤマ卜ナス、オホモノヌシノ、力ミシミキ、イクヒサ、イクヒサ。

(この神酒は私の造った神酒ではありません。倭の国をお造りになった大物主神(オオモノヌシノカミ)が醸成された神酒です。幾世までも久しく栄えよ、栄えよ。)
歌を詠む活日
  • このように歌って神の宮で宴を催された。宴が終り、諸大夫(しょだいぶ)が歌った。

ウマザケ、ミワノ卜ノノ、アサ卜ニモ、イデテユカナ、ミワノ卜ノドヲ。

(一晩中酒宴をして、三輪(みわ)の社殿の朝開く戸口を通って帰って行こう。)
  • 天皇も歌っていわれた。

ウマザケ、ミワノトノノ、アサ卜ニモ、オシヒラカネ、ミワノ卜ノドヲ。

(一晩中酒宴をして、三輪(みわ)の社殿の朝の戸を押し開こう。三輪の戸を。)

そして神の宮の戸を開いてお出ましになつた。

  • この大田田根子(オオタタネコ)は今の三輪君(みわのきみ)らの先祖である。

大田田根子(オオタタネコ)
  • 九年春三月十五日、天皇の夢の中に、神人(かみ)が現れて教えていわれた。「赤の楯(たて)を八枚、 赤の矛(ほこ)を八本で、墨坂(すみさか)の神を祀りなさい。また黒の楯(たて)を八枚、黒の矛(ほこ)を八本で、大坂(おおさか)の神を祀りなさい」四月十六日、夢の教えのままに、墨坂神(すみさかのかみ)と大坂神(おおさかのかみ)をお祀りになった。

イニエ(崇神天皇)の夢によく出てくる大物主神
  • 十年秋七月二十四日、多くの卿けいに詔みことのりして、「民を導く根本は教化にある。今、神々をお祀りして、災害はすべてなくなった。けれども遠国の人々は、まだ王化に預かっていない。 そこで卿けいたちを四方に遣わして、我が教化を広めたい」と言われた。

⇒ 古事記と日本書記で幾つか異なる点がありましたが、大筋の「疫病が流行り、オオタタネコを探し、オオタタネコに大物主を祭らせる事で国が鎮まる」という展開はほぼ同様でした。


4.崇神天皇の御代に関わる神社

次からはこの内容に関わる神社を見ていきたいと思います。

<神社①>

  • この章で、最重要人物は「意富多々泥古(おほたねこ)」

  • 崇神天皇こと御眞木入日子印恵命(みまきいりひこ・いにえ)の夢で、大物主大神が「意富多々泥古に私を祭らせれば、神の祟たたりは起こらなくなり、国内も安らかになるだろう」と言わた人物。

  • 四方を尋ね求めたところ、河内国(かわちのくに)の美努村(みののむら)にその人を見いだして朝廷に差し出した。

  • 別動画の「欠史八代を巡る旅(中編)」でも言いましたが、高知県は元々河内(かわち)でしたので、高知県の美努村(みののむら)

    • ※河内(大坂)には「意富多々泥古(おほたねこ)」を祭る式内社はありませんでした。

  • 意富多々泥古(おほたねこ)を祭る神社は、「大川上・美良布神社(おおかわかみ・びらふじんじゃ)」

    • 美良布(びらふ)と美努村(みののむら)。ちょっと似てますよね。

①大川上美良布神社(おおかわかみ・びらふじんじゃ)

  • 土佐国の式内社で縣社

  • 祭神:大田田根古神

  • 合祀:大物主神、玉依比売神、陶津耳神、櫛御方神、飯肩巣見神、美良比売神、健甕槌神

  • 住所:もう一人の天孫降臨ニギハヤヒの動画で紹介した物部川の上流にある「高知県香美市香北町韮生野(こうちけん・かみし・かほくちょう・にろうの)」に位置する。

  • 由緒(抜粋)

  • 古来神徳極めて高く、韮生郷(にろうごう)の総鎮守で、明治五年縣社に列せられた。当社は当国屈指の古社で六国史の第二にあたる続日本紀(しょくにほんぎ)には、第54代仁明天皇(にんみょうてんのう:在位833年3月22日 - 850年5月4日)承和(じょうわ)8年8月辛丑(かのとうし)以土佐国美良布神預官社とあり。

  • 六国史の第六にあたる日本三代実録には、清和天皇(せいわてんのう:在位858年10月7日 - 876年12月18日)貞観八年八月己卯(つちのとう)授土佐国従五位下大川上美良布神従五位上とある。

  • 所伝の棟札に依ると、領主大中臣氏、長曾我部氏の崇敬篤かったことが窺われる。

  • 南路志云 中古より韮生郷(にろうごう)五十余村と定め給うと古は皆山田郷にて大中臣氏(おおなかとみうじ)世々傳領(せいせいでんりょう)の地なること古文書に見ゆもとは美良布野という地名にて則ち此の村よりおこりたる地名たるべし、此村美良布野といひまた美良布神社ましますその名の起りたる源なるを云々

⇒オオタタネコを祭る神社は全国にも多くはなく、大坂の河内国にはオオタタネコを祭る式内社はありません。奈良の大和国には、大神神社の摂社として大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)があります。一方で、高知県の県名の由来である「河内」には、物部川の中流に位置する旧名美良布村韮生野字大宮(びらふむら・にろうの・あざ・おおみや)にオオタタネコを祭る神社が式内社としてありました。

※余談ですが、大川上美良布神社の前には「やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム」があり、やなせたかしさんの父方の実家らしく、オオタタネコとアンパンマンという日本における2大英雄ゆかりの地という凄い所です。


<神社②>

  • 天照大神(アマテラスオオミカミ)、倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二神を、天皇の御殿(ごてん)の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。

    1. そこで天照大神(アマテラスオオミカミ)を豊鍬入姫命(トヨスキイリビメ・ノミコト)に託し、倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀った。そして、堅固な石の神籬(ひもろぎ)(神が降臨されるところ)を造った。

    2. また倭大国魂神は、淳名城入姫命(ヌナキイリビメノミコト)に預けて祀られた。ところが渟名城入姫命(ヌナキイリビメノミコト)は、髪が落ち体が瘦せてお祀りすることができなかった。

  • まずは、御殿から出された2柱目の「倭大国魂神」から紹介

②倭大國魂神社


  • 阿波国の式内社論社で村社

  • 祭神:大國魂命(おおくにたま)、大己貴命

  • 住所:徳島県美馬市美馬町字東宮上(ひがしみやのうえ)

  • 由緒:

    • 創立年代不詳。旧神饌幣帛料供進社。社伝では延喜式内社の倭大國魂神社であるといい、「阿波志」も「延喜式亦(また)小祀(しょうし)と為す重清村谷口里に在り」と記している。この式内社は小笠原氏の崇敬社であったと伝えられる。

    • 同社の御神像は高さ一尺ばかり、剣を杖きて上代(じょうだい)神人の木造で、その背後に「大島郷倭大國魂神社」の墨書(ぼくしょ)がある。明治八年(1875)に村社となる。

  • 補足

    • 式内社「倭大国玉神大国敷神社 二座」があり、徳島県三好市池田町マチにある「醫家神社(いけじんじゃ)」も式内社論社の一つである。

    • 崇神の御代に天皇の御殿から外に出された倭大國神の「やまと」の字は「大和」ではなく「倭」


<神社③>

  • 次に、1柱目の天照大神を祀った、「倭の笠縫邑」に関する神社を紹介

③宇賀神社

(※以前は写真を見れたのですが、今は何も見れなくなっています)

(三豊市役所の宇賀神社紹介ページ)

  • 讃岐国の村社

  • 祭神:豊受姫命(一に曰 笠縫神(かさぬいのかみ) 宇賀魂神)

  • 住所:香川県三豊市豊中町笠田笠岡(かがわけん・みとよし・とよなかちょう・かさだ・かさおか)

  • 由緒:

    • 古くは岡神社と称し、讃岐忌部氏の祖神である手置帆負命(たおき・ほおい・のみこと)に随従してこの地に住み笠を縫い給うたその子孫がこの里に住み祖神笠縫神を祀った。またこの里を笠縫の里といい、笠岡村とよんだ。

    • 『西讃府志(せいさんふし)』に「宇賀大明神、祭神倉稲魂命」とある。嵯峨御所(さがごしょ)から厚く尊崇され、弘化(こうか)四年(1847年)三月・御定紋(ごじょうもん)菊御紋章の幕を寄進せられた。この幕は現在も当社に伝えられている。『西讃府志(せいさんふし)』に「社地三反五畝(せ)」と記されている。当社は明治三十三年大蔵省から献供(けんく)の濁酒(どぶろく)を醸造することを許可され、秋の祭には一般参拝者に神酒(みき・みわ)として戴(いただ)かしている。

  • 補足(三豊市役所の紹介ページ):

    • 春秋二回の祭りの宴に用いる酒造りは、他に類のない珍しいものである。酒造りは各自冶会の当屋(とうや)の家で行われたが、現在は税法上境内において行われ、厳重な制度によって濁酒を作る。その過程は極秘となっていて、古来一子相伝式に伝られている。

    • 現在でも醸造に限っては、一切余人を煩(わずら)わすことなく、ただ一人の杜氏(とうじ)が全責任をもってあたる。酒ができあがると、まずお初は神に供え、神職杜氏はじめ、村のおもだった人30人ぐらいが集まり、社殿で「口開け」を行う。古くは大がめを用いたが、現在では木おけに変わった。色々そろっている用具の中で、もと仕込みに用いる「きつねかき」の操作は秘中の秘で、「口外すべからず。この笊(ざる)の扱い一つが味とこくを左右する」とさえいわれている。

    • 毎年3月には伊勢神宮へも献納している。四国で”どぶろく”造りが許可されているのは同神社だけである。


<神社④>

  • もう一つ、三輪山の大物主神に纏わる神社を紹介しようと思います。

  • それは、皆さんが思っている徳島県徳島市国府町府中(とくしまし・こくふちょう・こう)の式内社「大御和神社(おおみわ)」ではなく

  • 今回は別の神社を紹介しようと思います。

④加麻良神社(かまら)


  • 讃岐国の式内社論社で郷社

  • 祭神:大己貴命(おおなむち)、少彦名命(すくなひこな)

  • 住所:香川県観音寺市流岡町(かがわけん・かんおんじし・ながれおかちょう)

  • 由緒:

    • 往古より加麻良明神、丸山大明神と奉称(ほうしょう)せられる。

    • 神社誌料には、山の名を御神室山(おかむろやま)と云う。大己貴神・少彦名神、四国御経営の時、此の山に御座まりまして、「地方を御治め在らせられし御霊跡なり」とある。古老の伝説口碑に伝うるところ「昔、(神田村羽方二の宮)大水上神社に少彦名命が来りて夜毎に泣き叫ぶ、大水上神は木桝に命を乗せて流すと、神室山の中腹(この下、石宮)に着き泣き止む。土地の人たち、光明を放つこと不思議に思い近寄る人に、のり玉うは「我を大己貴の神の鎮まる此山に祭れ、然れば夜泣きをぞ守給うと」依って祠を厳樫(いつかし)の本に建奉りしなり。此の神の流れ着きし所を御神室(おかむろ)と言う。又此処の古石祠を石宮と偁す(しょうす)。流岡の地はこの事に由来する。

    • 大己貴神と少彦名神は協力してこの四国を拓き(ひらき)、農工商すべての産業開発と、方除治病(ほうよけ・ちびょう)(夜泣き)造酒、製薬、交通、航海安全、縁結び等世の中の幸福を増進することを計られました。人間生活の守護神であらせられます。

    • 神社考には

      • 加麻良神社村社流岡村村黒属之所祭大己貴命按麻與茂通常有之加麻良蓋加茂等之轉也 神代紀曰大三輪神云々此神之子甘茂君等大三輪君等云々 是加茂等之所祭有此称或謂之大山咋神者恐不然

      • ChatGPTで翻訳(完璧ではありませんが、大枠をつかむ程度)

      • 加麻良神社は村社で、流岡村(村黒)の神として大己貴命(おおなむちのみこと)を祭っています。按麻與茂(あまよも?)という名前も通常使われていますが、加麻良は「加茂」の転訛であると考えられます。神代紀には「大三輪神(おおみわのかみ)」と記されており、この神の子供たちが甘茂君(かもぎみ)や大三輪君(おおみわぎみ)と呼ばれています。この名は加茂神社などが祀っている場所にあります。一部の人々はこれを「大山咋神(おおやまくいのかみ)」と呼んでいますが、これが正確かどうかは疑問です。

⇒この由緒は凄いですね。大己貴命と少彦名命が協力して開拓したのは「四国」とはっきり書かれている事に驚きました。心の中で思っていたことが、式内社の由緒に書かれていたという感じがします。(きっと地元の方は知っていたのでしょう。ただ学校で習っている事や通説とは違うから大きな声では言えないですよね。)
欠史八代や崇神天皇の痕跡を見たうえに、更に大国主命と少彦名命が四国を開拓したという事であれば、大物主を祭る三輪山が奈良にあるというのは考えにくく大己貴命と少彦名命を祭り、更に加麻良は加茂の転訛で、甘茂君(かもぎみ)や大三輪君(おおみわぎみ)と呼ばれていたのであれば、この加麻良神社の「御神室山(おかむろやま)」こそが「御諸山:みもろやま」であり「三輪山:みわやま」になのではないかと思うのです。そして神君(みわのきみ)、鴨君(かものきみ)の祖先であるオオタタネコが、国を鎮めるために大物主を祭った三輪山も、この地であったのではないかと想像してしまいます。

そして、ここには大神神社同様に、「三ツ鳥居(みつとりい)」(又の名を三輪鳥居:みわとりい)もあります。

加麻良神社の三ツ鳥居(三輪鳥居)

また加麻良神社と宇賀神社は距離的に近く、ここの石宮(古い石祠)が、もしかしたら豊鍬入姫命(トヨスキイリビメ・ノミコト)が「笠縫邑(かさぬいのむら)に造った堅固な石の神籬(ひもろぎ)であったのかもしれません。

石の神籬?


5.崇神天皇の足跡ダイジェスト

崇神天皇の事績はもう少しあるのですが長尺になってしまうため、最後に崇神天皇の痕跡を地図と共にダイジェストで見てみようと思います。

  • 崇神天皇の母君は伊香色謎命(イカガシコメノミコト)と、兄の伊香色雄(イカガシコオ)は、共に「徳島県吉野川市」にある式内社「伊加加志神社」で奉祀

  • 崇神天皇の御代に国を鎮めた意富多々泥古(おほたねこ)は、「高知県香美市(こうちけん・かみし)」にある式内社「大川上美良布神社」

  • 日本書記において、宮中から出された倭大国魂神は、「徳島県美馬市」にある式内社「倭大國魂神社」

  • 同じく、宮中から出された天照大神(アマテラスオオミカミ)を倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀った痕跡として、笠縫神(かさぬいのかみ)が「香川県三豊市(かがわけん・みとよし)」の「宇賀神社」

  • 意富多々泥古(おほたねこ)が大物主を祭った御諸山または三輪山が、香川県観音寺市(かがわけん・かんおんじし)にある式内社「加麻良神社(かまら)

  • また日本書記で、神明(かみ)が神憑り(かみがかり)をした倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソノヒメ)は、香川県の式内社「水主神社」「田村神社」

  • 全国を教化するために派遣した四道将軍の

  • 大彦命は、香川県の式内社「布施神社」

  • 吉備津彦は香川県の式内社「田村神社」(ヤマトトトヒモモソヒメ同様)

  • 丹波道主命は徳島県のにある式内社「宇志比古神社」(宇志比古は諸説あり)


  • 崇神天皇の事績に登場する多くの人物が四国の神社で祭られている事が分かり、特に母の伊香色謎命(イカガシコメノミコト)を祭る「伊加加志神社」、意富多々泥古(おほたねこ)を祭る「大川上美良布神社」、倭大國魂神を祭る「倭大國魂神社」は、全国で唯一の式内社が四国に鎮座しており、崇神朝が四国にあった事を強く物語る。

  • 崇神朝の神社は、主に伊予二名洲の「伊(い)の国」もしくは「倭(い)の国」にあることが分かります。

崇神天皇に関わる神社

6.皇太子を決めるシーン

  • ただ、崇神天皇の最後に気になる箇所がありました。それは日本書記における皇太子を決める場面です。

    1. 四十八年春一月十日、天皇は豊城命(トヨキノミコト)、活目尊(イクメノミコト)に勅(ちょく)して、「お前達二人の子は、どちらも同じように可愛い、何れを後嗣とするのがよいか分からない。それぞれ夢を見なさい。夢で占うことにしよう」と言われた。二人の息子は命を承って、浄沐(じょうもく:川での水浴や、髪を洗うこと)してお祈りをして寝た。そして、それぞれ夢をみた。

    2. 夜明けに兄の豊城命(トヨキノミコト)は、夢のことを天皇に申し上げられた。「御諸山(みもろやま)に登って東に向って、八度槍を突き出し、八度刀を空に振りました」

    3. 弟の活目尊(イクメノミコト)は、「御諸山(みもろやま)の頂きに登って、縄を四方に引き渡して、粟を食む(はむ)雀を追い払いました」と言われた。

    4. 天皇は夢の占いをして、二人の子に、「兄はもっぱら東に向って武器を用いたので、 東国を治めるのによいだろう。弟は四方に心を配って、稔り(みのり)を考えているので、我が位を継ぐのに良いだろう」と言われた。

    5. 四月十九日、活目尊(イクメノミコト)を立てて皇太子とされた。豊城命(トヨキノミコト)に東国を治めさせた。これが上毛野君(かみつけの・のきみ)、下毛野君(しもつけの・のきみ)の先祖である。

  • 皇太子になった活目尊(イクメノミコト)は置いておいて。気になったのは兄の豊城命(トヨキノミコト)です。父崇神天皇から東国を治めよと言われ、豊城命(トヨキノミコト)に東国を治めさせた。と書かれており、崇神天皇の御代には、既に香川県も徳島県も支配下だったので「東国」というのは、まさに奈良(畿内・本州)という事で、このタイミングでいよいよ四国を離れ、奈良へ行き、奈良(大和国)を統治し始めたのではないかと想像してしまうのです・・・


今回はここまで。調査は継続しますので恐縮ですが気長にお待ち頂けばと思います。長い時間読んで頂き、ありがとうございました。


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