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短編小説「夏の陽炎」

2021年坊っちゃん文学賞に投稿した短編小説です。


 わたしは彼女を見たことがある。天啓のようにその考えは落ちてきた。
 東京に住んでいる姉夫婦とその娘が遊びに来たときのことだった。姉夫婦が帰省するときは、いつもわたしが姪の遊び相手を「仰せつかる」ことになっていた。姉は学生時代の友人と遊びに行き、その夫は買い物にでかけた。同居している母は仕事に行き、祖母がひとり居たが、祖母ひとりでは心もとないということで、暇を持て余していたわたしに白羽の矢がたった。
 五歳になったばかりの姪は、それでも前に会ったときと比べて大きくなっており、言葉もしっかりしていた。以前は何を言っているかわからず、何度も聞き返さねばならなかったが(しかし本人はきちんとした文章を言っているつもりなのだ)、今回は複雑な言葉や概念を理解しつつ話しかけてきた。姉が言うには簡単なひらがなやカタカナが読めるようになっているらしい。車に乗っていると、対向車線のナンバープレートを読み上げるのだという。
 へえすごいなあ、とわたしは思った。
 わたしの最初の記憶は幼稚園ぐらいまでしかさかのぼれない。たぶん今の彼女と同じくらいだと思う。そのころはひらがなを読むなんてできなかったし、記憶に残っているのは、お遊戯会のときたくさんの人たちの前で怖くて号泣したことと、寒い日に盛大におもらししてしまったことぐらいだ。先生の顔など覚えていないし、同級生のことも何ひとつ覚えていない。
 子どもの頃、わたしは、いつもひとつ上の姉とセットだった。おでかけ用の服は色違いのセット。勉強机もまったく同じものをふたつ。母は生まれたばかりの弟の世話で忙しく、わたしたちはいつも祖父母に連れられていろいろなところへ行った。
 姉は綺麗なピンクの服を、わたしはそれの色違いで、ブルーのものを着せられていた。年子であるにも関わらず、年少のわたしの方が姉よりも少し大きかったので、よくわたしの方が姉なのだと間違われた。
「なおちゃん!」
 尚子なおこというのがわたしの名前だ。姪の名は彩名あやなという。彩名はわたしの服の裾をひっぱり、思い出にひたろうとしたわたしを現実に引き戻した。おばさんと呼ばれるのは未だ抵抗があって、彼女の両親がそう呼ぶから、彼女もわたしをそう呼ぶ。そういえばわたしの叔父・叔母も名前にちゃんづけで呼ばせていたから、そんなものだろう。よく考えたら、そのころの叔父・叔母は二十そこそこだったのだから。まあわたしは独身のまま三十をとうに過ぎてしまっているが。
「これ! これ!」
 彩名はプリンターにはさまっていた白い紙をひっぱりだし、絵を描き始めた。おそらく何かの女児向けアニメのキャラクターなのだろう。鉛筆で器用に綺麗な曲線を引く。頭をツインテールにし、ミニスカートをはいた少女らしいものをいくつか描いた。
 色鉛筆が、残念ながらうちにはなかった。三十年近く子どものいない家なのだから仕方ない。色鉛筆がないことを知らされた姪は少しがっかりしたようすを見せたが、その分黒い鉛筆で、いろいろなものを描いた。犬のようなもの。猫のようなもの。空とそこに浮かぶ雲。木らしいもの。
「あやちゃんは絵が上手いなあ」
 わたしがそういうと、彼女はどこか誇らしげに鉛筆を走らせた。
「あやなねえ、お絵かきする人になるの!」
 多分彼女の年齢にしたら、標準以上の絵なのかもしれない。なら、絵描きになればいい、今風に言えばイラストレーターか。そんなふうに保育園か幼稚園で大人に言われたに違いない。どうせ子どもの夢なんて一瞬で変わる。すぐに違うことを言い出すだろう。わたしだって子どものころは偏差値も学科も関係ない突拍子もない将来を夢見ていた。わたしは何になりたかったんだったっけ。今となっては忘れるぐらいにどうでもいいことだ。
 その時間が終わるぐらいに、母が帰宅した。母は彩名の絵を見ると、ばば馬鹿(親馬鹿の祖母バージョンのことだ)を発揮し、わたしたちに対するときとはまるで違う猫なで声で孫を褒める。
「植物園行こうか?」
 歩いて二十分くらいのところに、植物園のある公園がある。
「綺麗なお花いっぱいあるよー」
 母の言葉に、彩名の瞳がきらきらと輝いた。
 ボーダーの上着に、スカートの下にレギンスを着こんでいる。今は子どもでもこんなにおしゃれなものを着るのか、とジーンズにTシャツといういい年してみすぼらしい格好をした自分が思わず恥ずかしくなる。
 せっかくだからと、わたしは唯一の趣味である写真を撮るために一眼レフを取り出してきた。そして姪の小さな手をとった。母は少し足を悪くしていて、あまり早くは歩けない。必然的に彩名の世話係はわたしになる。絶対に危険な目に遭わせるなよ、と母からの無言のプレッシャーを感じた。
 初夏の暑さのせいか、植物園にはそれほど人がいなかった。ちょうど藤が見頃になっていて、重たげな花を細いつるがひっぱりあげている。普通の紫の野藤だけではなく、白藤やもっと赤紫っぽい種類のもの、花びらの大きなもの、地面につきそうなほどに長くのびたものもあった。
 池もあるので、気を付けないと、と思うわたしの思惑を尻目に、彩名はその手を振り払って花のあるところへ走る。チューリップや早めに咲いたあじさい、クチナシ、ハイビスカス。あとは名前もしらない赤やピンクや白い花が一斉に咲いていた。
 いくらのどかな植物園といえど、おかしなやからがいないとは限らない。彼女から離れないように小走りで彼女を追う。
「あやちゃん、ちょっと待って」
 せっかく持ってきた重い一眼レフをかまえて姪の名を呼んだ。足をとめて、ふわりと振り向く。
「笑って」
 なんでー? と返事が返ってくる。まだカメラというものの存在は知らないようだ。ピピッとカメラの合焦音が聞こえ、かしゃんと電子シャッターが小さな音を立てた。背景が見事にぼやけ、彼女の姿を写しているが、少しぶれてしまった。彼女が最後に動いてしまったからだ。再びカメラをかまえ、彼女を狙う。
 母と並んだ姿やいろんな花と同じフレームに収めたもの、そして彼女の笑顔をとる。美しいな、と思った。
 幼児らしくぽっこりと出たお腹の丸いライン、つるつるで毛穴ひとつ見えないすべすべしたほお、細く短い腕。夢中になって少しまくれたスカートからのびる、棒のように細い足。何もかもが美しく、花よりもなお輝いている。
 わたしは彼女を見たことがある。いつか、どこかで。


「おねえちゃん、まって」
 わたしは子どものころからからだが大きかったが、そのせいでひどく鈍重だった。同い年の従姉妹や友達と遊んでいても、いつも最後をひいひい言いながら、走っていた。
「まって、おねえちゃん」
 姉はいつも友人たちと一緒に、遠くへ行ってしまい、わたしはひとり家に帰ることになるのだった。運動が得意で、才気煥発な姉はわたしの憧れだった。ほぼ同じものを食べているというのに、わたしは足が遅く、考えは浅はかだった。
 子どもが一番初めに接するのは親、とくに母である。母を求めて泣いていると、必ず大人が振り向いてくれる。
 しかし弟が生まれてから、残念ながらその特権はなくなった。祖母は姉をひいきし、中間子であるわたしはわりと放っておかれて育った。大人になってからわかったが、中間子がそう育つのはめずらしいことではないようで、真面目でしっかり者の長子、空気を読む要領のいい末子のあいだで、ふらふらしている中間子という組み合わせはよくあるらしい。
 結果、自分に一番近い存在はひとつ年上の姉だった。
 いつも姉のしたいことを真似したがり、いつも姉についてまわった。近所の子たちと遊ぶときも、みそっかすであることを承知の上で、仲間に入れてもらうが、結局すぐに鬼に捕まえられてしまうので、わたしはいつも外から見ていた。


 ああ、そうか。ファインダー越しに彩名を見つめる。彼女はときどき振り返っては、わたしの名を呼ぶ。
「なおちゃん!」
 その声を、その後ろ姿を、わたしは識っている。
 子ども特有のつるんとまるいほお。真っ直ぐに伸びた首筋、ふわりふわりとショートボブの髪がゆれては広がる。目を細めて笑いながら、振り返るその姿。
 白い歯を見せて笑う彼女の姿が、記憶に残る姉の姿と重なる。かつてわたしが追いかけた、姉がそこにいた。
 もちろん姉の子なのだから、彼女が姉に似ているのは当然のことだ。しかし。三十年近くたって、またその姿を見ることになるとは思わなかった。
 子を一番見ているのは親だろう。だが子どもだったわたしが見ていたのは、いつも姉の姿だった。一番そばにいて、その後ろ姿を見て、追いかけていた。手を伸ばしても届かないその姿に、わたしは度を外れた憧れを抱いていた。姉にこんなことを言ったら、気持ち悪いと一蹴されるだろう。
「それなに?」
 近くに戻ってきていた彩名はわたしの持つ古い大きな一眼レフを見て言った。
「写真とるやつ」
 ピピッと操作し、取れた写真を見せる。花の鮮やかさと自分の笑顔を見て、彩名は上機嫌になった。この花の前で撮って、ここで撮って、といろいろ指示を出してくるようになった。
 すると、はあはあと歩いてきた母がそのとき追い付いた。
「お母さん、彩名は似てるね」
「誰に」
「お姉ちゃんに」
 取り出したハンドタオルで額をふきふき母は答えた。
「当たり前でしょ、親子なんだから」
「お母さんとわたしらはあんまり似てないよ」
 そうかしら、母は首をかしげる。
「……似てるよ」
 少なくとも、わたしは識っている。あのころ後ろから見た姉の姿とぴったりと重なる姪の首筋にもう一度だけカメラを向けた。
 しゃこん、と小さな音がして、画面が新しくなる。わたしが見た、わたしだけが見ていた、誰も知らない姉の後ろ姿。
 成長するにつれて、やがて失われるだろうその姿を、わたしは一枚だけプリントアウトした。

                              了

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