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あなたはわたしのたったひとりの友達—25年ぶりの懺悔

たったひとり、今でも会いたい友達がいる。
いや、友達だった人、というべきだろうか。
彼女との長い蜜月を捨て、振り返らなかったのはわたしだ。
彼女との縁を切ったのは、わたしの方だった。

中学受験して入った中高一貫校で、わたしは一年の半ばにして居場所を喪失してしまっていた。デブでブスでどんくさく、オタクだったわたしは早々にターゲットにされ、軽微ないじめとからかいを受けた。
クラスメイトたちは、さすがある程度の頭脳はもっていたので、痕が残るような肉体的ないじめや、誰がどう見ても犯罪になるであろういじめはせず、ちくちくと、しかし明確にわたしを削っていった。
一部の運動部の男子たちがわたしを揶揄するイラストなどを紙や黒板に描き、大半のクラスメイトはわたしを居ない者として扱った。プラスチック製のバットで笑いながら叩かれたこともあった。
ひとり、一度だけ声をかけてきた子がいた。
すると翌日、黒板に「偽善者○子」とその名を名指しにしてラクガキされて、友達に慰められていたのを見た。そんなこともあって、みんな遠巻きにして、自分に火の粉がかからないように避けていた。
わたしは自分からはもう誰にも関わらないようにした。
誰かがわたしのせいで傷つくのを見たくなかった。
朝学校にきて、夕方家に帰るまで誰とも口を聞かない。自分が居ないあいだに何かされたら困るので、移動教室の際は必ずカバンを持ち歩いていた。
人の目に怯えて、縮こまって暮らしていた。
それがわたしの中高時代だった。それが五年以上続いた。

学校に居場所がなかったわたしは、学校の外にそれを求めた。
当時既にオタク的好奇心を持っていたわたしは、オタク的趣味を持つ小学校のクラスメイト、その友人とさらにその友人とで、たまに会うようになった。
奈津さんという子が既にペンネームを持っていて、「夏」さんと呼ばれていたので、わたしたちもペンネームを作ることにした。
元クラスメイトは「冬香」さん、その友達は「夏」さん。その友達は「春姫」と付けた。わたしは「秋人(あきと)」と名付けた。
たわいない子どものサークルごっこ遊びだったが、それぞれ少しずつ学校からずれていたわたしたちの「居場所」だったのだと思う。
しかし、冬さんと夏さんは早々に来なくなり、学校も違えば、元クラスメイトでもないわたしと春さんだけが残った。
それからずっと。本当にずっと、わたしはいくつもの季節を「はるさん」と過ごした。

はるさんの家はわたしの家から自転車で20分くらいのところにあった。
毎週のように通い、なんでも話した。
家に遊びに行き、本屋や画材屋・文房具屋をハシゴしてマンガやアニメについて語り、それでも足りず毎日のように電話して、母に長電話を叱られたことがある。
それでも足りなかった。
彼女も学校でいじめを受けていたらしい。
デブでブサイクなわたしとは違い、彼女はすらりとした長身で、かつ人目を引く美しさを持っていた。声は少し高く、かわいかった。
今にして思えば、彼女がいじめられていたのは、そのかわいさゆえだったのではないかと思う。
鈴のような高音で、わたしをいつも「あきとくん」と呼んだ。
わたしは「はるさん」と返した。

彼女は当時大人気だったロボットアニメが好きで、同人誌のアンソロジーを山のように持っていた。彼女の部屋に籠もって二人で本を読んだ。中二になってイベントにもいくようになり、一緒にいろんなイベントに出て、買った本を回し読みした。
そのうちに本を作りたくなってくるのは、自然なことだった。
わたしが初めて作った同人誌は、中学二年の頃、「はるさん」のために作ったものだった。
ヘタクソイラストと、これまた拙いポエムのような小説。
それを褒めてくれたのも、彼女だけだった。いつもわたしの絵をねだり、わたしの存在を欲してくれた。そんな存在は他にはいなかった。
彼女にも、そんな存在はわたししかいなかった。
それを、わたしはよく知っていた。
クラス中の嘲りと男子からの嫌がらせを受けていた彼女にとって、わたしとの時間は特別なものだったのだろう。
一度だけ泣きながら電話をかけてきたことがあった。クラスメイトの男子に「つきあってくれ」と言われたのだそうだ。
「こわいよ、あきとくん」
今思えば、この事件が嫌がらせだったのか、本当に男女交際を求めたものだったのかは定かではない。もしかしたら後者だったのかもしれないが、彼女は前者だと判断し、ますます学校内での孤立を深くしたらしい。

中学を卒業し、彼女は京都の高校に通い始めた。
中学の頃のようにいじめを受けているかどうかはわからなかったが、二人で会うことは変わらなかった。
毎日のように家に遊びに行き、本屋めぐりをし、イベントに行き、日が暮れるまで道ばたでくだらないことを話した。くだらないことだったが、わたしたちには大事で、とても大切なことだった。
彼女との時間がなければわたしはわたしとしていられなかった。
わたしは相変わらず学校では孤立していたが、孤独ではなかった。
「はるさん」がいたからだ。
「はるさん」がいれば、別に学校に友達なんて要らなかった。

少し気になることがあった。
彼女が、自分からわたしに電話をかけてくることがなかった。
いつもわたしの方から電話をして、会うときもわたしから約束するのが常だった。どこどこ行こう。何時に会おう。いつも言い出すのはわたしで、彼女は断ったこともなかったが、彼女から会いたいと行ってくることはなかった。
もうひとつ。
彼女は「決めない人」だった。
何か食べようかと言うときに、必ず「なんでもいいよ」「あきとくんの好きでいいよ」と言う。仕方ないのでどこに行くかはいつもわたしが決めた。
しかし、わたしはその積み重ねに、少し疲れるようになっていった。
他人と一緒の行動について、「決断する」ことはほんの少しだが、ストレスを感じさせる行為だ。彼女が嫌がらないようなものを想定し、選択し、決断する。それの積み重ねでわたしは少し疲れていた。

わたしと彼女は大学に受かり、わたしは東京の大学へ、彼女はたしか京都の大学へ進んだ。離れてしまい、前のように会うことはできなくなったが、かわらず電話はしていた。FAXでイラストのやりとりもしていた。
そんなとき、一度、彼女が東京に遊びにきたことがあった。
どんな文脈でそんな話題になったかは覚えていない。
「あきとくんは強いもん」
たしか笑いながら彼女が言ったその言葉で、頭が沸騰したのを覚えている。
学校で繰り返される軽微ないじめと陰湿な嘲り、ちくちくと刺し、ざりざりと削ってくる悪意に、わたしがどうやって耐えていたかを、おそらく彼女は知らず、それを知らない彼女に、わたしは瞬間、激しい怒りを感じた。
「わたしがほんまに強いとでも思ってんのかっ」
わたしはそう彼女を怒鳴った。
わたしは不機嫌になり、その後一度も話さないまま、翌日彼女は帰っていった。
わたしは強くなどなかった。
彼女の前では無理して強がって、粋がっていた。必死の努力を、彼女は当然のものだと思っていたことがわたしを怒らせた。
今にして思えば、知らないのは当たり前のことだ。
だって知られる場所に、立場に、彼女はいなかった。
だけど、わたしはわかってくれていると、——勝手に——思っていたのだ。

その後も、彼女の方から電話がかかってくることはなかった。
一度だけ、共通の友人の電話番号を聞くためにわたしから電話したことがあった。
「あきとくん!?」
驚いた、しかし嬉しそうな弾んだ声が響いたが、事件のことを引きずっていたわたしは、冷淡に友人の電話番号を聞き、そのまま電話を切った。
その後、彼女と話したことがない。
わたしは東京の大学で人間関係を築くようになり、友人もたくさんできた。
だから彼女を顧みることをしなかった。
ほとんど彼女のことを忘れた。
何年かのち、何度か電話したことがあったが、彼女も彼女の家族も出ることはなかった。帰省したときに彼女の家を見に行ってみると、家族は引っ越したあとで、しばらくして家は取り壊され、他の人が新しい家に住むようになっていた。わたしが帰郷し、生まれ育った町で暮らすようになっても、道ですれ違うこともなかった。
Facebookで、グーグル検索で、彼女の名前を何度も検索したが、今の世の中それほど単純には人の名前は出てこない。本名で、公的な大きな活躍をしていれば別だが、そうでない場合はまず出てこない。しかも彼女の名前はありふれた、めずらしさのない名前だった。
一人だけ彼女と同じクラスだったという人に出会ったことがあるが、「卒業後のことは知らない」「親しくなかったので知らない」と返ってきた。そりゃ自分たちがいじめていた人のことを聞かれたって困りますよね。
だから、彼女の行方は杳としてしれない。

彼女が電話してこなかったのは、わたしに断られるのが怖かったからだ。
彼女がものを決めなかったのは、わたしに嫌われるのが怖かったからだ。
そんなこと、わたしはとっくに知っていたのに、彼女のことを傷つけ、捨て、忘れた。

わたしは謝りたいのだろうか? それとも前のようにつきあいたい?
何もなかったかのように、何も傷つけなかったかのように、また遊びたい?
そうではない気がする。
ただ、もう一度だけでいい。会いたいのだ。
できれば言いたい。ひとことだけ言いたい。
ありがとう、と。
長い長い時間を一緒に過ごした。
魂を削られていく日々の中で、彼女がいなければ、わたしは、きっとこの世に人として存在できなかった。
今わたしが人を信じられるのは、あのときわたしを信じていてくれた彼女がいたからだ。
人生の中で、寒い冬の季節を、肩を寄せ合い、身を寄せ合って過ごした。そして春がやってきた。
あれからわたしは大学でも、同人活動を通じてもたくさんの友人を持つことができた。親友と呼べる人もできたし、書く力・伝える力・残す力を信じられるようになったのは、彼女がいたからだ。
わたしが生まれて初めて作った本は、原稿もろとも無くなってしまった。
彼女のために、1冊だけコピーで作った本。
その後普通に作った本は山とあるが、その本だけわたしの人生で喪われたままだ。
彼女はあの本を捨てただろうか。いや、あれだけ傷つけておいて、今も持っていてくれたらなどとおこがましいことは望まない。
だが、自分のためにだけ描かれた作品があったことを、覚えてくれているだろうか。
あれは、わたしが彼女を愛していたということの証明だった。

「あきとくん」
少し高い声で、そう、わたしを呼ぶ声が、今でも耳の奥に残る。
わたしは大学入学と同時にペンネームを変えてしまい、ほとんどの人がわたしを今のペンネームで呼ぶので、そうわたしを呼ぶ人は彼女しかいない。
わたしを呼び、わたしを形作り、わたしを生きさせた、その声は彼女ひとりのものだ。
わたしは今、わたしが彼女といた頃に好きだったものの創作をしている。
もちろん当時好きだった意味とは違うし、人物解釈も作風も絵柄も当時のものとは違うけれど、おなじ題材だ。
心のどこかで、わたしを思い出した彼女が思い出して、イベントでスペースを訪れてくれないかと、ほんの少しだけだが、期待している。
わたしが描いている二人の歴史上の人物の物語は、一度仲違いした二人が再び関係を修復していく物語だ。
それは史実だからだが、もちろんそんな都合のいいことがわたしと彼女のあいだにも起こるなどと思ってはいない。
だが、彼女がわたしを思い出すことがあれば、と思わずにはいられない。

はるさん。
いま、あなたはどこにいますか。
いま、しあわせですか。
もしあなたがこの記事を読むことがあったら、わたしに連絡をください。
そして、なじってくれていい。あのときのことを怒ってくれてもいい。
こんなに辛かったのだと、責めてくれてもいい。
今のわたしは、そんなことでは傷つかないし、そんなことでは怒らないし、そんなことであなたを嫌ったりはしない。
わたしをそんな風に強くあれるよう作ってくれたのは、あなたでした。


私的なラブレターのような記事を最後まで読んでくださり、誠にありがとうございました。
もしあなたが「はるさん」の知り合いならば、彼女にそっとこの記事について伝えてくださると幸いです。


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