本当に好きなもの
大人は子どもに「1番好きなのは?」と聞きがちだ。
たわいもない質問だから気にしていないが、実は子どもに余計な概念を押し付けている。
「1番好きな食べ物は?」「1番好きな色は?」などなど、その子の好きなものの中で半ば強制的に競わせて、順位をつけさせる。勝手にエントリーさせられて、気づいたら「カレーが1番好き。ということは、カレーよりハンバーグは下なんだ」みたいな分断を生んでいたりする。
「キリンさんが好きです。でも、ゾウさんの方がもーっと好きです」とハッキリと、聞かれてもいないのに、自分の中に好きの順位をつけている子は、そのまま好きにさせたらいい。自分の1番好きなものをわかっていて、どんどん突き詰めていけているのなら、こんなに良いことはない。
そして、悲しきかな、大人になっても、この手の質問は何の気無しに飛んでくるものだ。「1番好きな映画なに?」「1番好きな女優は?」「1番好きな芸人は?」などなど。
しかも困ったことに、大人になると、これへの返答に「センス良いと思われたい」という欲まで入ってきてしまうから、どんどんと、自分のピュアな好きから、遠ざかっていく。
「これが好き」よりも「これを好きな自分が好き」になってしまわないよう、細心の注意が必要だ。もちろん、「これが好きだし、これを好きな自分も好き」が一番いいんだけど。
そこでひとつ、好きの指標を考えてみた。
すべてに当てはまるわけではないが、好きの指標をいくつか持っていたら、単純に「俺はどれが好きかな、どっちの方が好きなんだろう」と困った時に答えやすくなるかもしれない。
これはどうだろうか。
「顔をうずめたいかどうか」
この指標はかなり良いんじゃないかと思う。物体に限るかもしれないが、「顔をうずめたい度」というのは生理的な好きさに直結していると思う。手では触りたいけど、顔はうずめたくない、というものなら、そこまで好きじゃない気がする。指標というより、顔標。うん。これはかなり、評価軸にしやすい。
キリンもゾウも好きだけど、やはり顔をうずめたいとなると、俺は猫が好きになる。猫は「んぐふぅ〜!!」と顔をうずめたいほど好きだ。
となると、やはり、おっぱいはすごい。有無を言わさず、顔をうずめたい度マックスを叩き出してくる。「俺はおっぱいが大好きだ」と、それこそ胸を張って言える。おしりも捨てがたい程大好きだが、「おっぱい派」「おしり派」論争に終止符を打つのも、この「どちらに、顔をうずめたいか」で決着が決まる気がする。
みなさんも、ちょっとした決断、選択の場面で、この「顔をうずめたいか」を考えてみて欲しい。
「さとるくんと、かずやくん、2人同時に告白されてしまった…どうしよう、どっちも素敵で、どっちにも良さがあって選べない…」
どっちに顔をうずめたい?
「かずや…よく聞いてね、お父さんとお母さんね、別々に暮らさなきゃ行けなくなっちゃったの…ごめんね。それでね、お父さんとお母さん、どっちと暮らしたい?お母さんよね?ねぇ…?そうよね?」
どっちに顔をうずめたい?
「なんか、映画でも観ようか〜。なんの映画見る?いっぱいあって迷うなー…」
どの監督に顔をうずめたい?
「夕飯どうしよう、なに食べよう…ラーメンもいいな、カレーもいいな、ハンバーグもいいな、んー、パスタもいいな…うわ、からあげもある…海鮮丼…」
どれに顔をうずめたい?
「9回裏2アウト…ここで打つんだ。絶対に打つ…!…!!くそ…フルカウントだ…絶対に塁に出て次につなげるんだ…!次だ、次はなにが来る?ストレートか?スライダーか?フォークか…!?」
どの球種に顔をうずめたい?
「さぁ、斉藤さん。これを正解すれば1000万円です。先ほど50:50を使ってライフラインはもう残されていません。さぁ、A、B、どちらにしますか…?」
「…A」
「Aの『富士のカチ割り氷』…ファイナルアンサー?」
「……いや、やっぱりBにします」
「Bの『築地もんじゃ焼き』…ファイナルアンサー?」
「………」
どっちの、みのもんたに顔をうずめたい?
きっと選びやすくなったはず。
みんなも、なにか道に迷った時はどっちに顔を埋めたいか、考えてみて。きっと、その道は心から好きだから、没頭できるはず。いや、埋顔できるはずです。
読んでくれて、ありがとうございます。
顔をうずめるって、思いっきし匂いを嗅ぐってのにも通ずるよね。肺を好きなものの空気でいっぱいにするんだ。