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【引用】継起としてでなく、純粋形式としての時間

時間は論証的な概念や、 よく言われるような一般概念ではなく、感性的直観の純粋な形式である。異なった時間は同一の時間の諸部分にすぎない。ところで、なんらかの唯一の対象によってのみ与えられる観念は直観である。「異なった時間は同時にはありえない」という命題は、一般概念からは導きだされえないであろう。この命題は総合的であり、概念だけから生じるものではない。ゆえに、この命題は直観と時間の観念にじかに含まれているのである。

同書p. 87

仮にヒュームが一世代あとに刊行された本書を読んだとしたら、悶絶したであろう箇所はここである。

先立つ有名な空間論―空間は感性的認識の直観的な形式としてアプリオリであり、認識の素材たる知覚印象に尽きるものではない―に対しては、恐らくヒュームは「理性的区別」(『人間本性論』第一巻第一部第七章等)、すなわち経験的に構成される抽象観念としての"延長"で応じえたはずだ。

しかし、単なる知覚の継起としての"時間"(の虚構)に関しては、この経験的抽象の作用は確たる地盤を築きえない。なぜなら、延長が知覚内容それ自体と直接的に関係する性質であるのに対し、時間はその地平で動く対象の可感的性質(印象)のどこを掘っても見出すことはできず、心像として表象不可能であるがゆえに概念的構成ができないから。

知覚の継起は因果関係の成立における最重要要件であり、なおかつ諸々の経験を自我(self)の経験として引き受ける主体化作用を担うものでもあって、ヒューム哲学全体の屋台骨である。「異なった時間は同時にはありえない」というのがアポステリオリな総合判断ではありえない限りで、「知覚は継起するものとしてあり、(時間的な)先後関係を必然的にその内に含む」とする想定はカントが純粋直観と呼ぶところの"形式み"を帯びる他ない。同じ想定にすがっているからには、「その"時間"という観念は印象的な起源を持たず理解不能だ!」と叫んでも苦しい。

『純理』に続く『プロレゴメナ』のなかで、ヒューム経験論を「形而上学の全歴史に対して加えられたうちで最も決定的な攻撃」と評したのはカントその人であった。しかし、背筋の凍るようなカウンターの鋭すぎる一閃は、このとき既に加えられているのである。


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