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子育て:ある日の意識

ある日、我が家の一人娘が、通っている園でほんのちょっとした揉め事を起こした。

子供同士の些細なケンカで、なんてことはない話なんだけど、しょぼくれた顔で帰ってきた娘を前にして、意識のうちにさまざまな思考が流れ込んでいく。

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怒ろうか?して、どのぐらい怒るか?さすがに友達に手を出してしまったのは良くなかった。

世の中の決まりごとは教えられなければならない。最低限、他人に迷惑をかけないように暮らさなきゃね。

いまこそ、親の役目を果たすべきときだ。


いや待てよ。そうでなく、寄り添うべき?

良くなかったことは確かだけども、事情もいろいろとあるみたいだし、なにより、いつもは空気を読みがちな娘。自分の気持ちを表明して、毅然と立ち向かった点は評価に値する。

いやいや、それでもやっぱり暴力はいけない。ここはビシッと説教だ。

うーんでも、「怒っても人に手を出すべきでない」って、わざわざ言わなきゃダメなことかな?そのぐらいは自然と、社会的実践のなかで身につくもんなのではないか。我が家の環境と周辺社会の環境を見渡せば、そこまでトガッた子に育つことは到底考えられない。長期的な目線で考えなければ。

そうであってみれば、むしろ良かった点をしっかり肯定してあげることが本人のためになるかもしらん。社会が担うような学びではない、家庭だからこその学びを提供せなばならん。

本人にもいろいろと心労があったことだろう。誰よりも無条件に、全てを許してあげることができる存在 is 親。親以外に、この局面でこのポイントを肯定してあげられる立場は皆無だ。

でもこの理路だと、どんな価値観であっても無限に肯定できてしまうよな。どうしよう。

ていうか、そもそも自分のこうした教育観、理想とする親子関係のあり方みたいな像はどういう次第でできてるんだっけ?実家由来?めちゃくちゃバイアスかかってる?この基準を良しとしている判断の根拠って、そこまで確からしいものではないんじゃないか。


ん?ていうかていうか、親がなにがしかメッセージを発することで与える影響を重く見すぎてないか自分?こうしてあれこれ考えて設計したコミュニケーションが、子供の人格陶冶にどのくらい寄与するもんだろうか。

指導的な対話が大して響かないなら、それはそれとして、より本人が自信を持てるような、純粋にポジティブなだけの対話をこそ。

でもそもそも、どういう目標に対しての発育なのか。状態目標?行動目標?

それって親のパラダイムの中で決めていいものだっけ?決められるものだっけ?良いか悪いか?どっち?


待て待て落ち着け、これは無限発散コースだ。ここは足場が組めそうなところに立ち戻るべきだ。


大事なのは確固たる目標ではなくて、なんとなくの方向性だ。少なくとも、我が家的価値観みたいなのを手すりとして、今見えるなかでの妥当なあり方を探っていこう。共同体(家庭)の叡智を集結するんだ。


ていうか、それ以前に、自分と妻からのコミュニケーションの総体で考えるべきだ。自分がどう対話するか、とかでなく、二人→娘にどう対話するかが肝要だ。子育てとはチームプレイなのだった。

さて、思うに、妻と自分では今回の件については微妙にスタンスが違う。

ここはバランスか。アメとムチか。どっちかが怒り、どっちかが優しく、か。

いやでもそれってなんなんだっけ?安心感?刹那的な救いにはなりそうだけど、だからなんなんだっけ?そういうことでもない気がするぞ。

ここはひとつ、二人のベクトルの違いをうまく調停しつつ、統一的なメッセージを出そう。出し方において、二人が相互にどういう役割を担うかが大事だ。さなければ、子供が混乱してしてしまう。

いや、てか、いちいちここまで設計するもんなんだっけ改めて。なんかめんどくさいぞ。めんどくさいし、子供との対話をちょっとシステム的に捉えすぎてないか?いくつかの要素を押さえれば学びを構成できると安易に考えすぎてないか改めて?

それに、この両親間の微妙な意見の違い自体が、ナマの社会の縮図というか、キレイに整えられすぎたコミュニケーションの場って、実社会における規範的なあれこれを教えようとするときに、なんらか実効的な力を持ちえるんだっけ?

あとワイら両親の心理的負荷もどうなる。異なる意見をすり合わせていくのもそれなりにコストがかかるし、揉めるのはふたりとも好きじゃない。子育てとは、ある程度は自然状態に根ざした関係の場であるべきではないか?教育のために親が死ぬのはなんか違わないか。子育てが常に人生の中心的価値であるべしとも思わないし、マクロで見れば勝手に育っていくもんだろうし。

とすると、子育てとはなんだ?育てようと思うことすらおこがましい?子供の人権上、最低限のラインを超える介入はむしろすべきでない?

義務?責任?種の保存?

自分が自分の人生を生きて、妻も妻の人生を生きて、それでいて二人が親としての人生も生きる。子供は子供としての人生を生き、それでいて自分の人生を生きる。そこが交わる場があって、交わった中にあってはいろいろ頑張っていきましょうってこと?

そう考えると、うちの娘は、紛れもなく自由で主体的な個人だ。自分の「娘」であることからは逃れられないのも事実だけど、そこに生物学的な関係以上のなんらかの意味を過剰に読み込んではいけないのかな。

すると、子育てってなんだろう?それも、社会全体にとって子育てとは。我が家がこの社会において子育てをすることの意義は?


そいえば、なんというか、自分が子供のころはもっとずっと、親の「子」であったような気がする。自分と娘の間には、親子にまつわる儀礼的なものも、歴史を感じさせるものも、特に無いような気がする。すると、この親子関係には実質的な代替可能性が潜んでいるな。この2つの関係の圧倒的な非対称性ゆえ、事実確認もままならないのだけど。

う〜〜む。

子供ってなんだろうな。

いや違うな。

いま、子供とはなんだろうな。

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記録はここで終わっている。



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