見出し画像

【絵画読解】揺れる〈向こう〉と去る記憶

ソロモンはそのときこう言った。
「主は、密雲の中にとどまる、と仰せになった。
荘厳な神殿を
いつの世にもとどまっていただける聖所を
わたしはあなたのために建てました。」

『列王記(上)』,新共同訳,8.12-13

いま絵画のサブスクCasieで借りている作品である吉田絵美〈向こう〉を題材にして、前回同様に自分なりの考察を綴っていきたい。

〈向こう〉,吉田絵美

まず、タイトルと絵全体の印象から受け取れること。

キャンバス全体の半分以上を占める金ピカのもの―これは雲のようなものとしか表現しがたい―の向こうに、ステンドグラスのような、モザイク画のような、なにやらカラフルで怪しげな形象が顔をのぞかせている。両者の専有面積はおよそ3:2で、金ピカのほうがやや優勢といった程度なのだけど、直感的にそちらが覆っていると見てしまう。

向こう側に見えているカラフルなアレはなんだろう。一見すると雑多に乱れているようだが、その中にも直線や図柄の繰り返しのパターンがあり、幾何学的な面で割られている。見えている部分の左下に写真立てっぽいものが見えるから、もしかするとなにかの風景の断片的なイメージなのかな。記憶とか、夢とかいった心理的なもの。なんにしても、自然物というよりは、人工的な、精神的なものの介在を感じざるをえない。

これに対して、前面(?)の雲のような覆いのフォルムは概してなめらかで、直線的な部分についても規則性を感じるものではない。無意思で自然と漂っているような、自身よりも1段上の秩序に身を委ねているような、そんな印象を受けた。キラキラするラメっぽいものが散りばめられていて、絵肌の質感がきめ細かい。すごく神々しい雰囲気がある。

全体として、どこかそわそわするが同時に配置的な美しさも感じる”向こう側”のものを、神々しい雰囲気の雲が覆っている。このコントラストがとてもいい具合である。

ここでは何が、表現されているのだろう。

覆われる―認識の協同体制

そもそも、何かが「覆われている」とはどういうことを意味するのか、少し考えてみたい。

覆われている確固とした対象があって、それが別の対象から"覆い"を"こうむっている"ということだ。隠されていること。それはなによりもまず、受け身的な所作である。

しかるに、これは知覚の問題であり、表象の問題であるだろう。

どういうことか。覆われているものは、視覚的に、あるいは触覚的に、隠されている=意識に現れない、ということだ。これは知覚する主体(私やあなた、あの人)がいて初めて成立する事態であり、知覚する主体に相対的なものであるということを意味する。

認識以前には、単に物体と物体との間の固有の配置があるにすぎず、覆われるという事態が成立することはない。ゆえに、覆われているというのは、〈誰かにとって〉〈なにかが〉〈なにかに〉覆われているということに他ならない。

キャンバスが絵で覆われているというとき、それは単に布地と絵の具が隣接している関係を、キャンパスに正対して見る鑑賞者のみが言いうる事柄である。裏側から見れば何も布を覆っていないし、絵の具から見れば何かが何かを覆っている事態は生まれない。まんじゅうの皮があんこを覆っているとき、あんこから見ると皮が空を覆っている(「今日は曇りだ」)となりうるし、皮から見ると空とあんこの二元的世界のなかで、何かが何かを覆うことはできない。そこでは絶対的な3次元的空間座標も、一点透視的な視点も、もはや意味を持たないのだ。視覚のための器官を持たない主体にとって「〜から見れば」という謂いは無効である、と主張することも可能だろう。

「覆われる」という事態は、「知覚主体ー遮蔽物ー対象物」という三者協同による産物である。この3者が揃わないと、何かを"覆う"ことはできない。


何か対象物が他のものに完全に覆われている場合、なぜそれとわかるのだろう。実に、それは単なる信念にすぎない。完全に隠されている対象が、その裏で現に存在し続けていると言える知覚的な根拠を我々は持ち合わせていない。

そもそも、地上のすべてのものは大気に覆われている。大気の存在は見る者の、そして見える事の絶対的な条件だが、しかし/それゆえに、大気は我々の視覚世界の背後に隠れてしまっている。我々の視覚は大気を見ていない。

すると知覚者には、静的で確固たる存在であり、そして実際にそれが放つ鮮やかで活き活きとした印象だけが”見えている”ことになる。そして見えるものだけが、覆われて見えなくなる事ができる。

覆い、覆われる―認識論的ヒエラルキー

次に、それが部分的な覆いである場合、それぞれ異なると思しき2つの対象のうちどちらがもう一方を覆っているのか、我々は厳密な意味で決定できるだろうか。空を見上げたわれわれは、空が雲を覆っている(=空に穴があいていて奥の雲が見える)のでなくて、雲が空を覆っていると本当に断言できるのだろうか。

当然、より奥にあると"知っている"ものが、覆われている。覆う性質を持っていると"知っている"ものが、覆っている。対象物のサイズと遠近感からも、推論に必要な証拠を引き出すことができる。つまり多くの経験的な推理によって、我々はそれを総合的に判断している。

もちろん、そうした推理の材料が十分に得られない場合はたくさんある。例えばよく知らない対象において、例えば絵画において、例えばすごく遠くの景色において、見え方が曖昧なものにおいて、こうした判断はうまく働かない。

そのような場合には、―そう、まさに本記事が相手にしているこの絵においても―知覚者に対して現れる「覆うー覆われる」という関係は、ただ単に見えている光景、その知覚的内容のみに関わるのでなくて、価値のヒエラルキーにも関わっている。より強そうな対象、より規則的な対象が、よりそうでない対象との境界線で途切れているとき、人は前者を覆われていると考える。

この絵でいくと、直感的により遮蔽されていると感じるのは、カラフルなモザイク模様の側だろう。直線が途切れている、一定のパターンが途中で終わっている、逆側の金色部分が雲=覆いのイメージである等々が、こうした印象を作り出している。しかし、この印象を取り払って丹念に眺めていると、どちらが手前でどちらが向こうか、どんどん分からなくなってくる。

こうして、見るというのはとことん精神的な営みである。

これは、絵画における前景-中景-後景の画面プラン分割法にまつわる議論と地続きでもある。初期ルネサンスのマザッチオやダ・ヴィンチが用いはじめた透視図法(遠近法)が達成したのは、視覚情報の二次元平面の上での模写と再現に尽きるものでは全然なく、むしろ見るという行為に宿る想像力とその帰結としての知覚的な統一の原理の露呈であったと言える。精神的主題としての中景が、前景と後景、すなわち奥行きを分離せしめ、「空間的にモノを見ている」意識が生まれ出てくるのである。

だから何かが覆われているとき、我々は同時に、覆われているものの静的で確たる存在に思いを馳せている。ビビッドな表象や、その強さ、規則性を、覆われている部分にも無意識に延長していく。

いったん覆われている本丸が定められたら、今度はその論拠となった確実な観念を土台として、見えている箇所と遮蔽部分による全体の位階的な構造を安定させようと努める。自らの判断を正当化し、補強するために、強烈な空想力をもって隠された裏側の全体を思念の上で思い描こうとする。そうせざるをえないよう心が強制的に推移していくのである。

マスク補正/マスク詐欺について考えてみよう。いややっぱり、もう少しまともな例で。

〈洛中洛外図屏風〉1,狩野派,東京富士美術館
〈洛中洛外図屏風〉2,狩野派,東京富士美術館

狩野派のこの有名な洛中洛外図において、屏風全体に広がる異様な金雲は、鑑賞者の眼前に幻想的な場を一挙に立ち上がらせる。市街図としての遠近的な画面構成やバランスが大きく後退し、覆い隠され分断されることにより、区切られたそれぞれが"場面"として活き活きと動く。京の都の全体が讃える観念的な巨大さが、逆に市中を行き交う人々の具体的な情景を映えさせている(なお筆者は大学時代に京都御所のすぐ横あたりに住んでいたので、自分がいたところが1枚目の右あたりだな、と分かっていつ眺めても楽しい)。

あるいは、キリスト教の神について考えてみよう。神は我々に対して隠されているが、その摂理や恩寵は教会での秘跡として、あるいは自然そのものの完全性として、さまざまに痕跡を残している。人はその存在を推理し、想像し、信じる。この信念体系を採用しない人にとって痕跡は完全に隠されているが、信じる人にとってはその一端が現に意識に直接与えられていて、それが直接的な神の存在証明へと至りまでする。

こう思えば、〈向こう〉の"奥側"も、それを奥側にあるものとして、確固たる存在として鎮座させないと済まないような心持ちに支えられている。直線が多くモノ的で固体的で、流れ去るイメージは薄い。

もしかしたら、この絵も未来の都市の洛中洛外図なのかもしれない。

覆い合う意識―観念の闘争

しかしときに、ヒエラルキーとしての前景と後景は主導権を巡って拮抗する。それが知覚的な与件のみでは確定できない場合、不確実で不安定な複数の対象が、意識という場でより大きい価値を求めて争う。

ルビンの壺

普段、目だけでものを見ていると思い込んでいるわれわれだからこそ、だまし絵が引き起こす知覚の混乱に対して新鮮な驚きを覚える。

認識上の混乱を避け、一貫して整然とした知覚の枠組みを築くことが意識の喫緊の課題であるがゆえに、目に見える様々な対象の間の階層秩序を早々と確定しようとする。前述のように、われわれは覆われたものの確固たる実在性を信じるよう習慣づけられているが、それにはまずどれが覆われている当のものかを決める必要がある。

認識とはそれゆえに、意識における対象どうしの激しい闘争の場でもあるのだ。そして決めるのが難しい場合、見れば見るほど、そして考えれば考えるほどに、決定的な論拠はどこにも見いだせず、前後関係はむしろ混乱し、不安定の度を増していく。

〈向こう〉も、そう名付けられた絵の帰結として、非常な不安定さをはらむことになる。見る者は、「〈向こう〉性とはなにか」を考えることを迫られる。

覆うもの-覆われるものの相互侵入

金雲で覆われていると見えながら、ときに背後の模様が力強くそこに侵入し、干渉しているようにも見える。覆われていると思っていた背後のものが、金雲を突き破って自らの領土を拡大する。もとの雲の流体的なフォルムとは異なる、幾何学形な境界。左下には、葉のような形。

異質な表象同士が、覆い覆われ、合理的な世界の一つの像を為そうと拮抗している。しかしそれが一つの安定した像を結ぶことは遂に無い。

このような戦いがむしろ、知覚の混乱を通じて、「見る」という行為の実態を我々の意識に対して開いてくれるように思う。覆う-覆われるという関係の変転は、認識の中心的な働きであり、空気のようなものだ。

自然主義的な絵画やリアリズム的手法はことごとく現実の視覚の再現を志向し、透視図法の洗練に関わる。がしかし上の意味において、抽象絵画もまた鑑賞者にこうした認識の再考を迫ることを通じて、内観的な遠近法をおのずと装填せずにはおれないのかもしれない。なぜならそれは、われわれ人間精神が現実の知覚に"覆いかぶせる"ようにして働かせている遠近法なのだから。

別の読解:記憶と忘却と

なので本作もまた、現実のモチーフになぞらえてアレコレとこね回すことを拒み、純粋に形式的な事物間の相互関係を突き詰めることを求めてくる。

しかし最後に、あえてもう少しか細い道を歩みたい。強引な読解、というやつを。

やはり記憶が、本作の主題かもしれない。外界の知覚でなく、純粋な内観の知覚へと向かってみよう。本記事冒頭の印象を再度拾ってみる。奥側のカラフルさを、雑多な記憶のイメージとして捉えてみる。

見えている部分の左下に写真立てっぽいものが見えるから、もしかするとなにかの風景の断片的なイメージなのかな。

記憶は、そのほとんど全体が忘却の霧で覆われているが、部分的に想起可能な一片が拾われて思い出される。記憶した知覚やイメージは脳の中のどこかに存在し、モザイク模様をなしているが、しかしその大半は普段は意識には隠されている。

思い出は、思い出したいときに思い出したいような形で取り出されることもあれば、雑然とした形のまま夢の中に現れることもある。

忘却と記憶。覆いと、覆われるもの。忘れるという働きは、記憶に対する覆いである。そしてそれは人が抗わなければならない恐るべき力である。われわれの現在の意識と経験は、そのほとんどが記憶の風化という形で永遠の暗闇の中に投げ出され、二度と戻っては来ない。我々が必死に生きてきた事実を証立てるはずだった記憶の数々は、襲いかかる忘却の大波の下に沈んでしまう。自らが生きた歩みを振り返ったとき、われわれに見ることができるのは、糸くずのようにか細く点々とした頼りない足あとのみなのである。

確固たる実在性を備えたいつかの経験が、それを遮る力に覆われてしまう。

しかしここで、思い出したい。何かが覆われているとき、我々は無意識に、覆うものと覆われているもののヒエラルキー構造を前提とするのだった。覆われているものの実体性の強さのようなものを足場としつつ、それを更により強く知覚するのであった。

ひょっとすると、記憶も同じかもしれない。我々は無意識に、思い出というものを実際以上に確実で整然としたものと捉え、忘却に抗うものとして位階化しているのではないだろうか。

現在の意識は、あらゆる知覚の濁流である。様々な感覚と価値を含みながら明滅する劇場である。ゆえにナマの記憶も本来は、雑多で怪しく捉えどころのないモザイク模様のはずだ。

どこかざらざらしていて、解釈をはみ出すようなイメージの連なり。変なもの、繋がっていないもの、切れ端、etc..。しかしそれが記憶として取り出される場面では、単純化されてお化粧された分かりやすい観念(例えば「楽しかった記憶」)へと縮減され、思い出補正されていないだろうか。

中2の夏に友達と行ったキャンプが最高に楽しかった記憶から、隣のテントの人たちがなんか少しだけ怖かったこと、蛾が飛び回ってて嫌だったことは抜け落ちている。彼女と行ったプールの思い出に、プールサイドのタイルの間の黒ずみがちょっと気になったこと、アイスの自販機が全部売り切れてしまっていたこと等は入ってこない。

忘れる力が、雑多で多方向的な知覚と価値判断を丸めて、一貫したナラティブを可能にしている面があろう。そして一貫した「わたし」というアイデンティティを可能にしている面も。

どこかバロック的でもある綺羅びやかな形象

絵に戻ろう。モザイク様の記憶を覆う雲は、すべてを消し込む暗黒の力としてではなく、神々しく煌めく荘厳な雲として描かれている。そしてまた、記憶の側の粗く人工的な表象に比して、緻密で有機的である。植物の葉や根のように枝分かれしていく紋様や、動物の毛細血管のように網状に広がる紋様に満ち溢れており、生命的な美しさを感じる。

隠す側、隠すはたらきのこの極端な肯定性なのである。〈向こう〉と題された作品にもかかわらず、向こうのものよりも覆い隠すものの方を限りなく賛美しているように伺えるこの表現を、見落としてはいけない。

ごちゃごちゃでカオスなナマの記憶が、美しく生命的なものに覆われて、我々の人生を形作るパーツとして規整されてくる。もちろんそこは、相互の絶え間ない闘争の場として、あるときは記憶が勝利を収め、あるときは美化の作用が優勢となり、我々の現在へと現れるのだろう。そういう形で、過去から現在に至る人生を、記憶と忘却が協同的に組織しようとしている。

だからこの絵は、自分自身が今まさに創作されている現場なのかもしれない。記憶と忘却、この2つの肯定的な力同士のせめぎ合いによる、描画の現場。




ぼくたちは、忘れてしまった。自分自身の起源である、誕生の瞬間を。一番はじめの、無から有への、爆発的な知覚の濁流を。

そしてまた、ぼくたちは忘れていく。現に今この瞬間にも、自らの遠い過去を。自分という個の方向性が決定づけられた、幼少期から順々に。

ゆえにぼくたちの始まりにはフチが無い。でも、だからこそかえって、記憶と忘却と現在の意識が共同作業して、過去を現在から自由に加工することができる。そしてつねに、新鮮な現前として、自らの記憶を驚きを持って受け止めることができる。

そのまなざしはいずれ容易に他者へと反転し、種全体へと広がって、古代のカオス的神話世界のうちに建国物語―"われわれ"の記憶―を渇望する意識へと至るのだろう。

忘却とは、歴史なのである。

■関連記事


頂いたサポートは、今後紹介する本の購入代金と、記事作成のやる気のガソリンとして使わせていただきます。