同一律に抗う
同一律。
古くはアリストテレスによって普遍的に妥当する論理的な思考原則として定式化されたもので、
〈A = A〉
と表現される。AはAと異なるものではない。
これはより厳密には、矛盾律と排中律として示された2原則から導出される。
前段の(無)矛盾律は「Aは非Aと両立しない」といい、後段の排中律は「Aと非Aには中間が無い」という。すると、「Aは非Aではなく、中間のものでもないゆえにAと等しい」という3つ目の原則が出てくる。
矛盾律の引用箇所の言葉づかいを見るとわかるように、現実世界の個物の説明原理がアリストテレスの主題であった。だから、アリストテレスにおける同一律には、存在論的な同一性(経験的な事柄における等しさ)と論理学的な同一性(記号的な等しさ)という2つの視点があったはずである。
論理学自体がアリストテレスの創始ゆえ、上述の同一性の原理がこの分野のスタンダードになった。
後の近代以降の論理学においては、同一律はある命題pに対して
〈p ⇒ p〉
と表現される。pならばp、すなわち、命題pが真なら、命題pは真である。当たり前である。
さて、一見して至極当たり前のように成り立つ同一律は、科学や哲学の歴史において特別な地位を与えられ、大いにその権能を振るったように思う。
この基礎的原理の普遍性は世界の秩序の完全性を証立てていると永らく見なされてきたし、それを理性的に把握できることが人間知性の完全性を表しているとされたこともあった。ライプニッツは同一性の名のもとに存在論的=論理学的な神を召喚しさえした。
20世紀における言語論的転回を経たあと、この原理はすべての基盤としての絶対者的立ち位置を一層強固に保持しているとも言えるかもしれない。
しかしこの「同一律」、かなり問題含みの論理ではないだろうか。ここから帰結する完全性の全面的支配に対して、カジュアルに抗ってみたい気持ちがある。
存在論的な同一性(経験的な事柄における等しさ)と論理学的な同一性(記号的な等しさ)に加えて、前者の派生型である、記号的な同一性についても見てみよう。
①存在論的な同一性
A = A、即ちリンゴはリンゴと等しく、熱さは熱さと異なることはありえない。現にあるもの、知覚しうるものの間にある等号。
まず、個物としてのリンゴ1とリンゴ2が、リンゴという一般名辞の元に”同じ”であるという事態は、言語の働きそのものとしては興味深いものの、厳密な意味での同一律には当たらないだろう。2個のリンゴ、すなわち数的に「多」であるものは、数的に「一」であるものと、端的に異なる。個物の同一性には、どこまでいってもこの難点がつきまとう。
では次に、可感的な性質の同一性はどうだろう。熱さと熱さの、あるいは赤と赤の等しさ。赤は赤でないものではない。A=A。
ここにおける「A」は、明らかにタイプ概念とでも言うべきものを必要としている。かくかくしかじかの「熱さ」や「赤さ」は、我々がそうと判明に区別する働きがあって初めてそれとして姿を表す。熱さとはこういうものあり赤さとはこういうものであると、あらかじめ内観的に類型的な把握をしておくことなしには、個々の熱さや赤さをそれと同定することは出来ない。
ある赤と別のある赤が同じものであると指摘するとき、タイプ概念が2度使われている。つまりここでは同一性の見なしに先んじて、当人の心のなかでタイプ概念が形成されている必要があるのである。
幾多の経験のなかで個別の知覚として現れてくる熱さや赤さを、帰納的な仕方で独立した抽象的なタイプとしてまとめ上げる働きが同一律の前提とならざるを得ないとすると、これは少々問題である。なぜといえば、同一律こそ、誤謬を含み得ない普遍的で絶対的な原理であったはずだからだ。
個々の赤さを抽象的な「赤さ」へとまとめ上げる作業に随伴するファジーさがある。それぞれ全く独立した知覚の印象であるはずの個々の赤さは、タイプ概念の成立以前には同じものであるとは判じえないはずのものである。それらをどのような基準で同じタイプへと結びつけられるかは大きな謎ではなかろうか。なんらかの類似性に基づくとして、その「類似性」というタイプそれ自体の成立が何に基づいているのか。これは無限後退へと繋がる道である。
タイプ概念の成立も、成立後に2つのAとAをそのタイプへと格納する判断の際にも、普遍性よりかは経験的で主観的な原理が目立つことになる。
「このリンゴは(一般名辞としての)リンゴである」というパターンの同一律も同じ論点によって退けることが可能だろう。
こうして存在論的な同一律は、それが経験と表象の外側へと出られないがゆえに確たる基礎を持てないと思われる。
②記号的な同一性
①の派生型として、非経験的な対象同士の同一性、たとえば「1 = 1」のような形式的な同一性がある。これをどう捉えればよいだろう。
今回の場合が前述の同一性の場合よりも手強いのは、現実世界での数的な「多」を含んでいないからである。全く純粋に、観念的な等しさのみが担保できれば事足りるのである。空間的に別の場所を占める2つの事柄が出てくることもなければ経験に基礎を置く必要もない。
しかし、意外とそんなことはないかもしれない。ここにもやはり重大な難点が潜んでいるように思われる。
まず、"字面としての等しさ"だけをここでの同一律の根拠とすることはできない。両項を単に"同じ形をした記号の塊"と見るとき、それは2つの(存在論的な)物を知覚しているに過ぎず、これは①において退けられていたのだった。
そうではなく、コトの核心が記号の"意味"に触れるものであると主張されるとき、"カジュアル"に「意味とはなんぞや!」と切ってみることができそうだ。
純粋に意味に即したとき、1=1は2=2と同義であるし1+(5-5)=1(-10+10)とも同義であることになるが、これらの例において左右の項は過不足無く同一の「意味」だろうか。 フレーゲが意味と意義の区別を以てこのあたりを論じている気がするがよく知らないので素通りする。これを同一としてしまうと、同一性それ自体の意味が限りなく拡張されていく。
あるいは、各人の認識から離在した普遍的な"意味"があると考えるとき、それこそ人間にとって"意味"があるものなのかかなり怪しい。
以下はマヤ文明で使われていた絵数字の「1」である。
認識に依らないまったき意味だけの「1」が存するとすると、「1=(↑この絵数字)」という同一律を記述できる。できるのだが、これを絶対的な同一性原理の反映とするものとしたところで、マヤ絵文字についての知識を持つ人以外にとって普遍的に成り立つ同一性とは言えない。右の項が世界の誰も知らない言語で書かれた1だったとき我々は途方に暮れるしかないだろう。
知識と経験を介して相対的な意味を符号させる作業を通過しないと得られない普遍性であれば、それはかなり限定された普遍性と言わざるを得ない。現代の指示理論(指示対象と指示内容の関係についての理論)も社会的な合意の契機から逃れられていない以上、認識や言語から隔たった純粋な意味を拾う試みには困難ばかりが伴うと言わざるをえない。
タイプ概念は我々の認識の基本的な前提にほど近い場所に常に巣食っていて、アプリオリな原理をことごとく拒もうとする。
③論理学的な同一性
p ⇒ p。これも①の場合と比べるとはるかに自明な原理と考えられる。
「もし雨が降っているなら、雨が降っている」。前半の命題が真(=事実、雨が降っている)なら、後半の命題も真である。論理学的な同一律はこういう形を取る。
しかしこれは、①と②の難点をフルセットで含んだものと考えられないだろうか。
この論理式の外見的な形象のみを問題にする場合には論理学的な同一律が含意する「命題の真偽の同一性」が担保できないし、命題が経験的な事柄についてのものであれば真偽の判定に際して①同様にタイプ概念が登場するし、真偽値は個々の判定者に委ねられもする。
非経験的な命題(例えば「1=1」のような命題)はすべからく②の背理から逃れられないように思われる。純粋に論理的な形式だからと言われても事態は変わらない。
あるいは、命題間の同一性はさることながら、命題に伴う真偽値は、どのように伴う/一致する/内属する?というのだろうか。前件の「真」と後件の「真」はどのようにして同一と言えるのだろう。
このように難点を挙げていくだけで、ここでは十分なはずである。
以上の考察は、「論理は多なる観念の認識から自由にはなれない」とでも簡潔にまとめられるかもしれない。表象的な経験論の古風な香りから、言語の哲学はしかしまったく自由ではないのではないかと、自分には思われる。
あらゆる論理法則の基礎をなす同一律には、比較的安定した蓋然性の構造、いわば〈弱い普遍性〉をしか与えることはできないのではないか。
この辺りの論点を巡る実際の論理学の探求の道行きがどのようなものだったのか、あるいはこれは些末な問題だったのか、筆者に追求する余力はない。ないのだけれど、このまま終わると昔ながらの懐疑論に陥るにすぎないような気もしてつまらないので、今後もカジュアルに考えていきたい。
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