フッサール『論理学研究』1巻の重要箇所をざっくり読解する(前編)
『論理学研究』1巻の最重要箇所だと考える部分を読解してみる。特にノート取ったりせずササッと素読したのもあり、読みの精度は低いので悪しからず。
さて、フッサールは本書で、真理の概念をめぐって心理学主義の立場を徹底的に排撃しようとしている。
大まかに言えば心理学主義とは、「知識」「真理」などを含むわれわれの認識の対象となる事柄の一切を「心理的な現象」に属するものと捉え、人間の心の機能として説明しようとする立場である。
その立場によると、例えば「2×2=4」という数学の命題において、各要素「2」「×」「=」「4」は心のなかで生じた現象に他ならない。とするとその命題が持つ「正しさ」は、純粋に形式的にな事柄ではなく、心の機能、ルールとしての心理学の枠組みに必ず従っているはずである。ゆえに、真理の条件や原理といったものは、人間の心の仕組みに沿って究明されるべきものとなる。
心理学主義は、イギリス経験論やカントの批判哲学に端を発するもので、20世紀初頭に至るまで論理学の分野でもかなり強い支持を得ていた。まさに本書で、フッサールがこれを徹底的に叩き潰すことになる。
以下、少し長いが、個人的に本書の主張をもっとも端的に表していると考える箇所を引用する。「第八章 心理学的先入見」第五一節からの引用である。
フッサールは、当時真理の基準とされていた「明証性」なる概念に着目する。この概念は、デカルトに始まりヒュームで花開いたもので、「真なる認識に必ず伴う」ある感情、ある確信のことである。真理の認識には明証性が伴い、心理学主義においてはむしろ、「明証性が伴うこと」こそが真理の基準であり必要条件であるとまで言われた。
ものごとの認識に伴う「ある感情」。明らかにそれが正しくしかありえないという感情、そうである以外に考えられないという確信。
1+1は2だと、我々は強く感じる。「〈この猫は白い〉と〈この猫は白くない〉は同時には成り立たない」という言明が間違っているわけがないと、並ならぬ確信を持って信じる。あるいは、目の前の机を叩けばドンと音がすると、直観的に、即座に得心する。
ここからが、フッサールのターンである。冒頭の引用箇所はこうであった。
フッサールにあっては、明証(性)は真理そのものではなくて、真理の体験である。客観的で普遍的なものではなく、主観的な事柄に属するものである。
②で、「真理の体験」は「イデア的なものがリアルな作用の中では体験たりうる」のと同じ意味、とある。
これは、イデア的なもの(例えば「犬そのもの」)を頭に思い浮かべる時、そこで見られているのは、必ず個別具体的な時間・場所を伴った「ある犬」のある特徴、そのリアルな心像であるということである。あるいはわれわれが「赤」を思い浮かべるとき、思い浮かべているのは「赤そのもの」でなく、具体的なある色彩と明度、彩度を持った「ある赤」でしかありない。
イデア的なものが思念される時には、必ず個別具体的な「体験」として思念され、イデアそのものは決して思念されえない。
①「明証は真理の体験である」とはすなわち、真理(≒イデア的なもの)が我々によって思念/認識されるとき、そのリアルな現象としての体験を「明証」と呼ぶと、そう言っているのだ。ここには、「真理それ自体は体験(=心的現象)ではない」という重要な指摘が含まれている。これが③の前半部分。
③後半部の「明証的判断におけるこのイデーの個別事例が顕在的体験である」もこの繰り返し。我々がなにかを明証的に判断する(「1+1=2だ絶対!」)とき、「真理そのもの」としての1+1=2ではなく、リアルに思念=(顕在的に)体験している個別具体的な「1+1=2」にのみ、われわれは関わっている。
「しかるに」は逆説のこともあるが、ここでは「さて」と取る。「原的所与性」が何を指すのか、ここでは判然としないが、原的所与=「予め(ア・プリオリに)与えられていること」ほどの意味に取っておこう。
つまりフッサールは、(真理が)予め与えられているものであることを"意識"するのが、明証的判断(≒真であるという確信)であるというのだ。
心理学主義の論駁にあたり、真なる命題のイデア性と、認識された意識内容としての具体的な命題を区別することは決定的に重要だったのだろう。「1+1が絶対に2である」のは、「1+1が絶対に2であると思ってしまう」ように我々の心の構造が規定されているからではない。フッサールにとって、そういう(種的な、あるいは個人的な)偶有性と真理とは、本来なんの関係もないのであった。
真理は、所与=予め与えられている。
⑤もちょいと読み解きにくい。
明証的判断↔非明証的判断
任意の表象的措定↔十全的知覚
の2つの関係が類似しているという。わからん。
まず前段。非明証的判断とは、明証性を一切伴わない判断、例えば「あの犬は赤い」とか「1+1=3」とかの判断のことなのか(この両者の区別も重要そう)。もしくは、「1+1=2」が未だ明証ではないが思考を働かせると明証性を伴ってくる段階の話なのか。
といったぐらいの区別は念頭に置きながら、一旦読み進めてみる。
後段。こちらもムズいが、前者の表象的措定とは、ある対象、例えば「犬」のある表象=「4本足でワンと鳴く」という措定≒定義、ほどの意味であろう。後者の十全的知覚は何がどう十全的なのか。これは⑥で部分的に説明が付されている。
⑥で曰く、十全的知覚とは、「余す所なく把握されたもの」。つまりあれか、我々は「イッヌとはこういうものである」というのをふつう明瞭に直観できていて、耳が三角だとかワンと鳴くとか、犬を犬とする個別の述語をすべて並べなくても完全に把握している、みたいな話か。これは「思念されているがままのものとして作用のうちに原的に与えられてもいる」と言われ、④の「原的所与性」を持つようだ。
とすると、⑤の2つの類似関係は、
であると知れた。
すると⑤の非明証的判断は、任意の表象的措定のように「ただ単になんらかの仕方で思念されたもの」に近く、偽なる命題の認識とかは含まず、明証性を伴わない判断全般を指す、ぐらいの意味か。
ここで「類似関係ってどういうふうな類似?」という話があるが、ここで明証的判断≒十全的知覚なので、1行目と2行目で対応している両項がわりと同じ意味って捉えてよいか。(まぁたぶん、「判断」全般のうち、特に「対象の定義」に係る認識作用を事例にして考えると分かりやすいよってことかしら。)
なお十全的に知覚されたものが「…がままのものとして作用のうちに…与えられてい」て、「それ自身現在」するとはどういうことなのか。それはより後の箇所を読めばある程度明らかになろう。
(…中編へ続く)
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