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年齢をかさねてできるようになったこと あたまのなかでつかえる部分がまだあった


はじめに

 なんとかわかいころの記憶をたよりにきょうは書いてみたい。文章や写真が何かと残っているので、それらが参考になる。だんだんととしをかさねるとからだじゅうおとろえていくばかりかとかんちがいしていたかもしれない。

きょうはそんなはなし。

さえてくる部分

 いつのまにやら歳をかさねてきた。10年単位でふりかえると、ちかごろの10年のほうがはやくとおりすぎていくかんじ。直近の10年なんかそれこそあっというま。

そのあいだになにを何をなしえてどんなことができなかったか。もちろんいろいろとふりかえるし、ああ、こうすればよかったのかもしれないと思いかえす。時はもどってこないし、これからさきのこされた年月はかぎられる。

それを思うと過去をいくらふりかえってもしかたないが、きょうは文を記すうえであえてさかのぼってみたい。

それはあたま。思考とことばといったほうがいい。わかいころのじぶんとはあきらかにそれまでつかってこなかった部分を感じとれる。


あたまをつかって

 いちばんのちがいとはっきりしているのは話すこと。むかしはかんがえはあってもそれをうまくことばでいいあらわすのがむずかしかった。たまに発してもうまく相手につたわらずにいらぬ誤解を生んでいた。なんとももどかしいきもちでいた。

そのため必要以上に口をとざし、いらぬ「わざわい」を生じないようにしてしまった。テレビを見て、インタビューを受ける同年代とおもわれる人物がどこか遠いせかいに住むようにかんじられたり、壇上にあがりおおぜいの同級生たちを前になにも見ないで話すなんて…とそういう機会を避けていた。

ところが30代ごろ以降だったか、あたまにうかんでいる内容をほぼそのままことばで相手に伝えられはじめた。

いれかわる?

 これは大きい。ほんとうにいつのまにやらできるように。すると相手の目のかがやきがちがう。しゃべる内容がよくわかるよという表情がかんじとれた。それまでなかったちいさな自信がめばえてきた。会話はにがて、ヒトと話すのは得意じゃないという勝手な思いこみだったのか。いやどうもそうではなさそう。

むしろようやくあたまのなかが本来あるべきすがたになったといえそう。

べつの見かたができるかも。いぜんはむしろあまりかんがえなしに、ずけずけと口にだしてしまい、浅はかだったのかも。あるいはちかごろはいったん咀嚼してから出してよいことばをえらんで発語しているのかも。つまりやっと落ち着いたわけ。このいずれもありそう。

おわりに

 どうやらまとめると、「やっぱりわたしは若かった。」というあたりまえの結論なのかも。あたまのなかはひとつではなく、合議のうえでじぶんのことばをえらびだしている。

たえずそうした話し相手とのそれまでのコミュニケーションの内容、つまり直前の相手のことばだけでなく、以前との重複や新たにつたえたい部分をひろいだし、聞き手の理解度や表情をくみとり配慮しながらつぎのことばとして発する。

これがやっとできはじめたわけ。つまりようやくひとなみになりつつある。やっとわかった。この歳になりようやくそんな状態なんだろう。


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